私たちはそもそも、既に日本は財政再建を終えており、消費税増税も必要なかったと考えている。(3)

 <将来の総理候補> ・維新の会の橋下徹は2015年が明けると、いよいよ5月17日の住民投票に挑んだ。序盤は悪くない戦いだったに違いない。菅もエールを送り、逆に当時取材した大阪府連の国会議員は嘆いた。 「菅さんなどは『橋下さんは総理候補だ』と公言する始末です。住民投票だけでなく、国家戦略特区構想などでも大阪を支援している」 <橋下・菅のリベンジマッチ> ・大阪都構想の住民投票では、1万票という僅差で維新が敗れただけに、府知事、市長のダブル選も、当初は接戦を予想する関係者が少なくなかった。 ・ところが、選挙戦の終盤になると、雲行きが怪しくなっていく。世論調査の支持率は軒並み維新優勢と伝えられ、「維新の二連勝濃厚」という声が大きくなった。  そして11月22日、投開票されると、そのとおりの圧勝に終わる。 <捨て身の政治> ・私は大阪のダブル選の少し前、菅本人にインタビューした。こう率直に尋ねた。 ――都構想をはじめ維新の党の橋下徹の政策をずい分買っているようだが、そのきっかけは? 「そもそも橋下さんを紹介されたのは、大阪の国会・市会議員の人たちからです。(2007年)当時、自民党の選対副委員長であった私から、橋下さんの大阪市長選挙への出馬を説得してほしいということでした。それ以来ですから、大阪都構想の住民投票には感慨深いものがありました」  このとき橋下は大阪市長選ではなく府知事選に回ったが、もとはといえば、政界の舞台に担ぎ上げようとした張本人が、菅義偉である。菅はいわば政治家橋下徹の生みの親であり、菅本人もそう自負している。 ・「橋下徹と松井一郎という政治家は、捨て身で政治を行っていますから、二人を信頼しています。私自身、総務副大臣時代から、横浜市のほうが大阪市より人口が百万人も多いのに、逆に職員は大阪市が1万5千人も多かったのです。その意味で、改革は必要だ、と問題提起してきました」 <菅一家の戦争体験> <おっかない親父> ・菅の父、和三郎はいちご組合を率いるかたわら、雄勝町議会の選挙に出馬し、町会議員にもなる。地元の名士として、頼りにされる存在でもあった。 「和三郎さんが雄勝町の町会議員になったのは、義偉君が中学校を卒業したころで、そこから4期(16年)議員をやりましたね。次は議長という5期目の選挙のときも、楽々当選といわれていたものでした。ですが、あまりに余裕がありすぎた。『俺は応援せんでええから』と他の候補者の支持に回ってしまい、本人が落ちてしまったのです。それ以来和三郎さんは、政治の世界からすっぽり引退しました。そのときには、もう義偉君が東京に出ていました」  菅が上野に夜行列車で向かった集団就職組だという話は嘘ではないが、巷間伝えられているように大学に行けなかったような貧しい家ではない。とすれば、なぜ菅は高校を出て単身上京し、就職したのだろうか。  それは、いちご組合や町議会の活動を通じて名を成した父親へのある種の反発だった。 <口を閉ざしてきた満州秘話> ・ちなみに外務省によれば、建国時わずか24万人だった満州国全体の日本人は、終戦時に155万人に増えている。うち、およそ27万人が開拓団関係者だ。諸説あるので正確な数は不明だが、56年に外務省と開拓民自興会の作成した資料だと、全国の開拓団入植者は19万6200人、義勇隊を2万2000人としている。このうち帰国できなかった死者・行方不明者は、8万人を優に超える。 <雄勝郷開拓団の悲劇> ・そんな満蒙開拓団のなかで、最近まで明らかにならなかった悲劇がある。それが菅の生まれた故郷である秋田県雄勝郷開拓団の集団自決だ。 <開拓団員を救った和三郎> ・終戦当時の満州の開拓団には、いまだ知られていない史実が数多く残されている。雄勝郷開拓団の集団自決も長らく封印されてきたが、むろん悲劇はこれだけではない。 <子供を川に投げ捨てた父親> ・「私はちょうど終戦1年前に青森の八戸連隊に召集され、そこから満州へ向かいました。20歳そこそこの二等兵でしたから何もできませんでしたが、開拓団の人たちの惨状は、筆舌に尽くしがたい」  秋ノ宮でいまも菅の実家から車で10分ほどの場所に住む栗田儀一は、終戦間際に日本軍に徴兵され、満州でソ連軍と戦った経験を持つ。 <八路軍に身を投じた中国残留孤児> ・秋田県秋ノ宮から雄勝郷開拓団に参加したなかにも、この土田由子と同じような道をたどった少年がいる。先に紹介した秋田魁新聞の短期連載「語られなかった悲劇 満州開拓団雄勝郷集団自決の残像」の4回目にそれが記されている。 <集団自決で亡くなったはずの親類の子どもが、残留孤児として生存していたことが判明。(開拓団員の)長谷山(アイ)さんは永住帰国実現に尽力した。「手紙で気持ちを尋ねたら『帰りたい』と返事が来た。途中で投げ出すわけにはいかなかった」と長谷山さん>(2007年8月18日朝刊) <上野駅へ> <豊かだった少年時代> ・東北の雪深い片田舎でも、都会にない豊かさがあった。とりわけ菅家では、もともと祖父の喜久治が電力会社に勤めていたおかげもあるだろうが、それほど家計が苦しかったような印象も受けない。何より満州から引き揚げてくるや、初めていちご栽培に取り組んだパワフルな和三郎が、一家の大黒柱として家計を支えてきた。ニューワサと呼ばれるブランドいちごがヒットしたのは少しあとだが、決して貧しい家庭ではなかった。 「われわれが高校生になるころまで、和三郎さんは品種改良に取り組んでいる最中でしたな。ブランド化されたいちご栽培が伸びてきたのは、そこからでしょうけど、官房長官の家は小学生のときから羨ましがられていましたな」  由利が少年時代のエピソードを明かしてくれた。 <断念した野球少年> ・「今は雄勝町にも雄勝高校があるけど、当時はまだなかった。それで、われわれは遠くの湯沢高校に通いました」  湯沢市会議長の由利昌司は、懐かしそうに目を細めながらそう語った。湯沢高校になると、学区が中学校よりさらに広くなり、一学年八クラスもあった。が、中学と異なり、高校に進学する生徒はあまりいなかったという。 「中学校の卒業生で、地元の高校に進学する生徒は二割しかいませんでした。残りの八割は中学を卒業してすぐに農業を継ぐか、あるいは上京して集団就職していました。東京に行って都内の夜間高校に通いながら働く同級生が非常に多い時代でした」  由利も同じ高校に進んでいるが、高校に進学できる二割のなかにいた二人は、ともに恵まれた家庭に育ったといえる。湯沢高校は秋田県内屈指の進学校として今も人気がある。 <いちご農家を継ぐか> ・湯沢高校では当時から進学コースが主流で、生徒の4分の3が大学入学を目指した。菅も進学コースに進み、とうぜんのごとく入試に備えた。 「義偉さんの家は、勉強に熱を入れていたと思います。姉さんたちも大学を出ていますからな。北海道教育大学を卒業し、一人は北海道で先生をやっていました。で、義偉さんも、北海道の姉さんのところに泊まって大学受験したと聞いています」 <父への反発> ・「官房長官はあまり本音を言っていないかもしれないけど、北海道教育大学の受験に失敗したから、あとは家さ残っていずれ農家を継げということだったのでしょう。親父さんから、『うちさ残れ』って言われ、それで『俺はもうここさ、いられねえ』と言い放って、家を出ちゃったのさ」  小、中、高校のあいだ、ともに学校に通った湯沢市議会議長の由利昌司はそう言い、先の小川もまた、菅が上京したのは大学受験に失敗したからだと似たような話をする。 <東京ならいいことある> ・指定された時刻より少し早くホテルに到着したため、喫茶ロビーで待っていると、慶應大学教授の竹中平蔵が、そばを通り過ぎた。首相官邸に設置されている産業競争力会議の中核メンバーである竹中は、菅義偉の有力ブレーンの一人に数えられている。 ・――高校の同窓生は、教師を志して北海道教育大学を受験して失敗したことが原因で、上京したと話していたが、なぜ郷里を離れたのか。 「北海道教育大を受けた事実はまったくありません。受験で失敗してこっちに出てきたかのように伝わっているけど、高校三年生のときはどこの大学も受けていません。母や姉だけでなく、農業を継ぐのも嫌でした。それで、ある意味、逃げるように(東京へ)出てきたのです」 <大学で事務所選び> ――では、どのようにして政治の世界に飛び込んだのか。 「政治家の知り合いや伝手もありません。それで仕方なく法政大学の就職課に相談したんです。そしたらすぐに市ヶ谷にある法政大学のOB会を紹介していただきました。その事務局長の方から法政大学OBの中村梅吉さん(元衆議院議長)の秘書を紹介していただき、一緒に参議院選挙の事務所で働きました。ところが、中村先生がとつぜん体調を崩してしまい、選挙をあきらめた。その秘書の方がたまたま小此木衆議院議員のことをよく知っていたんです。小此木さんの名前も知らず、私はそんな程度でしたが、政治の道にようやく入ることができたのです」  その言葉は正直なところだろう。大学の就職課を通じて秘書になるパターンも珍しいが、そこには野心も野望も感じない。これもまた取り立てて奥の深い話でもない。 <七番手秘書からのスタート> ・「小此木事務所に勤め始めてからも、最終的には秋田に戻らなければならないものと考えていました。私には、それだけ田舎への思いが強く、30歳前後のとき、事務所を辞めて秋田へ帰る、と切り出したのです。そしたら、小此木さんが唐突に『野呂田芳成(元農水大臣)さんの参議院選挙の応援で秋田に行くから、お前もついてこい』と言って、連れていかれた。で、秋田に着いたら、お前のうちに行くって言い出した。そうして両親に会い、『もう少し鍛えさせてもらえませんか』と頭を下げるではありませんか。とうぜん両親は『お願いします』と答えるほかない。小此木さんは、私のことを可愛がってくれて、鍛えてくれました」 <影の横浜市長> ・菅が西区からの出馬にこだわった理由は、そこに強力なスポンサーがいたからだという。小此木立郎の言ったように、菅にとって小此木の秘書時代が政界の原点とすれば、横浜市議会議員時代は、文字どおり為政者として歩み始めた第一歩だ。取材をしていくと、その泥臭い政治手法もまた、官房長官としての現在のそれと変わらないように思えた。のちに影の総理と評されるが、横浜市議時代には、「影の横浜市長」と異名をとるようになる。 ・菅はそうした役職をこなしながら、やがて横浜市議会で右に出る者のいない実力者となっていった。そこには、菅自身をバックアップしてくれた支援企業が、大きな役割を果たしている。なかでも小此木彦三郎の後援者であり、菅の後ろ盾にもなってきた地元の藤木企業という横浜の大立者の存在を抜きに語れない。 <港のキングメーカー> <新自由主義> ・2005年11月、菅は第3次小泉改造内閣で竹中が総務大臣ポストに就いたとき副大臣に就任した。そこで菅は、郵政民営化に向けた実務の現場で汗を流した。以来、現在にいたるまで、みずからの政策について竹中と定期的に会い、指南をあおいでいる。  菅の近親者たちは必ずと言っていいほど、政治家として菅が飛躍した転機の一つとして、この総務副大臣経験を挙げる。簡単にいえば、郵政民営化は小泉が方向を決め、竹中が指示し、菅が仕上げた。郵政民営化の実現により、実務に長けた政治家として菅の評価が上がったのは間違いない。 <安倍との出会い> ・言うまでもなく自民党内で一目置かれ始めたそんな菅をさらに政界中枢に引き立てた最大の恩人は、安倍に違いない。その安倍は2006年夏、6年におよんだ小泉長期政権の終わりが近づくにつれ、後継首相候補の最右翼と目されていた。そこで菅は安倍を担ぎ出した。安倍を首相にした功労者の一人でもある。 「安倍さんの初めての総裁選のとき、どうして安倍さんを担ぐのか、と菅さんに尋ねたことがありました。理由は理解しづらいかもしれませんが、菅さん独特の感覚とでもいえばいいでしょうか。いつもそうです」 <『政治家の覚悟――官僚を動かせ』> ・<安倍内閣が発足して私は総務大臣に就任しますが、なによりも手掛けたい法案がありました。それは地方分権改革推進法です>  菅義偉の自著『政治家の覚悟――官僚を動かせ』には、第一章の「自らの思いを政策に」の冒頭でそう書かれている。2006年9月に誕生した第一次安倍晋三内閣のときの話である。  菅はこのときの臨時国会で地方分権推進法を成立させ、みずから地方分権担当大臣を兼務した。秋田県から単身上京し、苦労を重ねて初入閣、大臣にまで昇りつめた菅は、地方の活性化や分権化を高らかに訴えてきた。 少子高齢と過疎が進み、貧困にあえぐ地方の窮状を救い、都市部との均衡ある発展をみずからの政治の柱に据えてきた。  その大きな目玉として、第一次安倍内閣で進めたのが、ふるさと納税制度の創設だ。 ・細かい仕組みは割愛するが、都道府県や市町村に寄附すれば、手数料の2千円を除き、その分の税金が全額控除される。そのうえ寄附した者には、地方の特産品などの返戻品が贈られてくるというシステムだ。一見、いかにもお得感のある制度に思える。が、この返戻品というのが曲者なのである。  つまるところ、ふるさと納税する者は寄附と謳いながら、品物を買っている感覚になる。仮に返戻品が佐賀牛として、3万円の価値があると思えば、佐賀県に3万円支払うと立派な牛肉セットが送られてくる。そのあと納税者には2千円の手数料を引いた2万8千円の税金が還付される。 ・では、誰がその2万8千円の還付金を払っているかといえば、広く所得税と住民税からという次第。つまり納税と言いながら、3万円の牛肉を2千円で買って得をしたような感覚になるわけだ。  寄付を受けた、つまり牛肉を買ってもらった自治体は、3万円のなかから肉の仕入れや流通経費などを食肉会社に支払い、自治体職員の人件費もそこから賄う。したがってさほどの実入りにはならない。一方、食肉業者は通常の販売ルートと似たようなものだが、宣伝を自治体がやってくれる分、その費用などが浮く。その程度の儲けでしかない。 ・菅自身は、このふるさと納税制度を導入したと胸を張ってきた。繰り返すまでもなく、目的は地方活性化のためだ。税収の豊かな都会から貧しい地方へ税を移す動きや、地域の貧富の格差をなくす――いかにも東北出身代議士の優しい政策のように見える。ところが、これでは格差解消どころか肝心の地方の活性化にもつながらない。  かたや、ふるさと納税制度で設けているのは誰か、といえば、生活に余裕のある都心の富裕層ばかりだ。それがふるさと納税制度の利用実態ではないだろうか。 菅自身、こういう事態は想定外だったかもしれない。しかし、ふるさと納税の発想そのものが、どうすれば得をするか、という利益追求型の商魂を利用しているだけに過ぎない。税の徴収や分配によって疲弊した地方の弱者を救おうという政策ではないので、地方の活性化にはつながらないのである。  つまるところ、菅の政治姿勢は小此木彦三郎の秘書時代に学んだ中曽根民活に根差している。世界中に格差社会を生んだと批判される新自由主義、市場原理主義だとまでいえるかどうかは迷うところだが、一連の取材を通じて菅は、究極の合理主義者であると感じた。理が通れば事が進むはずだ――そんな合理主義者の限界が、一連の政策に表れているのではないだろうか。沖縄問題しかり、USJ問題しかり、だ。 ・安倍政権をこれほど動かしている菅義偉について描かれた本は意外に少ない。あらかた読んだが、たいてい泥臭く、真っ直ぐな政治家像が描かれている。実際、当人と会ってもそう感じるので、そこに異論があるわけではない。菅が国政に飛び込んで以来、折に触れ政治家としての転機に立ち会ってきたのが、元運輸大臣で運輸族のボスとして君臨してきた古賀誠だ。 ・その古賀にして、安倍の懐刀である菅をこう評価している。 「私が最初に菅さんを意識したのは、梶山先生が出馬された総裁選挙のときでした。平成研、経世会が分裂しましたね。私は梶山先生が国対委員長をしていたときに副委員長をやらせていただき、引き立ててもらいました。梶山先生が幹事長のときも私は総務局長で、選挙を一緒にやらせていただき、ご指導をいただいた。私にとって恩師の一人が梶山先生で、その梶山先生に菅さんという若い人が経世会から飛び出してついていった(中略)。私も高校を卒業して田舎から大阪で丁稚奉公をして東京に出てきましたけど、彼もよく似ているんですね。二世、三世のひ弱いのが多い政治の世界で、根っこの張った人がいるものだと興味を持ちましてね。(衆院)運輸委員会にお世話しました」 ・安倍政権における立ち位置については、こう話した。 「保守について、よく右傾化したナショナリズム的な凝り固まった人たちを指すことがありますが、僕はそうじゃなく、右や左に揺れすぎず、真ん中のグレーゾーンにある良質な保守として大事にする人たち、それがほんとうの保守政治なんだと思っています」 ・菅は独自の広い人的ネットワークを駆使し、さまざまな政策を打ち出してきた。が、理に走りすぎて躓いている場面も存外、少なくない。 ・満州の戦火を潜り抜け、戦後に秋田のいちご農家として名をなした偉大な父親の背中を見て育った者は、家族や友人に優しく、多忙を極めるいまも郷里を忘れない。雪深い地方出身の苦労人だけに、正義感が強く、逆境にへこたれない粘り腰と人一倍の思いやりもある。そんな人柄がのちに国会議員になったときに周囲を惹きつけ、他に類を見ないほど強力な人脈を築いたのだろう。それが為政者としての大きな財産となり、強力な武器として政治活動を助けてきた。 ・昨今の田中角栄ブームもあり、菅は永田町で角栄二世のようにいわれることもある。その角栄ブームの本質は、高度経済成長を牽引し、日本全体を豊かにしようとした時代に対するノスタルジア現象にすぎない。郷里の新潟に新幹線や高速道路を走らせ、全国に空港や原発を張り巡らせようとしたのは、単純に成長過程にあった時代の要請であり、何も角栄が突出して優れた政治家だったわけではないだろう。 『あなたも今日から選挙の達人』 三浦博史  ビジネス社  2012/4/10 <立候補を決断する> ・日本で政治家と呼ばれるのは首長や議員という職業に就いている人です。議員では衆参国会議員、都道府県会議員、市会議員、町会議員、村会議員、東京特別区の区会議員、首長では都道府県知事、市長、町長、村長、東京特別区の区長があります。  全国の市町村数は1995年の時点では3234あって7万人くらいの首長・議員がいたのですが、いわゆる平成の大合併を経て1719(2011年)にまで減りました。その結果、議員定数削減の風潮も相まって首長・議員の数も半減しています。 ・特にそれまで政治にほとんど無関係の生活を送っていた人にとって立候補は人生の大きな賭けになるでしょう。果たして当選するだろうか、もし落選したら、後の生活はどうなるのか、といった不安を持つのは至極当然です。しかし、そういう不安があるにもかかわらず選挙に出ようと思う人こそ、自分の力で現在の政治を変えてみたいという情熱が渦巻いているに違いありません。  こうした不安と情熱の間に立ってまず行わなければいけないのが立候補の決断です。気持ちが揺らいだまま立候補すると、その動揺が選挙戦にも表れて自陣営の志気さえ削いでしまうものです。選挙は戦いです。戦いには自らの気持ちをしっかりと固めて臨まなければなりません。 <立候補には3つのケースがある> ・立候補には大きく分けて3つのケースがあります。第1は「自らの意思によるもの」、第2は「他人からの推薦・説得によるもの」、第3は「後継者指名によるもの」です。後継者指名の場合、これまで、その大半が政治家の2世、もしくは議員秘書や地方議員が対象でした。特に2世は、政治家だった父親が突然死んだり引退したりしたことに伴い、地盤を引き継いで立候補するといったケースでした。しかし、近年は世襲批判によって、その数は減少しています。 <立候補の動機について> ・建前や本音はどうであれ、新人や野党候補の場合、絶対押さえておかなければいけないのが、「今の政治(現職)のどこが悪いのか」ということです。  もし知事を目指すのなら、「現職知事による県政のどこが悪いのか」「どうすれば良くなるのか」を押さえた上で、「自分が知事に当選したら、具体的にこうすることによって、その問題が解決できる。だから立候補する」といった、他人を説得できる、あなた独自の主張を持たなければなりません。  要するに、現状の政治の批判をし、何が問題かを明確にして、その問題について自分が当選すれば解決できると主張できることです。これをきちんと打ち出すことによって、それが大義名分となって立候補表明ができるのです。 この大義名分が俗にいう「立候補の動機」です。自分の心のなかで考えている、たとえば、「このまま人生を送っても物足りない、何か人のために役立ちたいから立候補する」といった曖昧で、自分本位な動機では、有権者の投票を促すような候補の大義名分にはなりません。本来、政治家とは他人のために尽力するというのが建前の職業なので、自分本位の立候補の動機では支持を得ることは難しいのです。 <立候補の「決意」と「決断」の違い> ・「決意」と「決断」は違います。文字通り、「意を決する」ことと「断つことを決める」ことの違いです。「決意」が抽象的な気持ちであるのに対し、「決断」はこれまでの自分の職業を断つ、あるいは、これまでの自分にまつわる様々な“しがらみ”を断つというように、具体的な変化を伴うものなのです。これは同時に、「退路を断つ」ことにほかなりません。  したがって、政治の世界に入るためには、これまでのすべてを断ち切って、政治という新しい道を目指して自分が立候補する、という決断がスタートです。この決断ができない人は、たとえ政治家になれたとしても満足な仕事ができないでしょう。立候補表明した後も、その意思が揺らぐ人は、周囲に多大な迷惑を及ぼします。傷が浅いうちに立候補を断念すべきでしょう。 <選挙は家族の説得から始める> ・立候補にあたっては、まず家族の説得から始めなければなりません。家族を説得できない人が他人・有権者を説得できるはずがないからです。 <選挙費用についての考え方> ・家族が立候補に反対する主な理由として、「落ちたらみっともない」「生活はどうするのか」の他、大きな問題の1つが「お金」です。一般的にはお金がかかると思われています。「立候補したいという気持ちはわかったが、選挙にいくらかかるのか。そんなお金があるのか」という懸念が出るのは当然でしょう。 ・次に、「当選さえすれば何とかなる」という考え方もあるでしょう。たとえば、あなたが31歳で横浜市議会議員選挙に出て当選したとすると市議会議員の年収が確保されます。横浜市議の年収は、月報酬95万3000円で年間1143万6000円、これに年間約400万円の期末手当(賞与)が支払われますから約1550万円です(年間660万円の政務調査費は除く)。31歳で、次の選挙のために年200万円を貯めても約1350万円が残ります。毎年200万円貯めれば4年間では800万円となるのです。そう考えると、選挙に出る場合、ある程度の選挙費用はかけても何とかなるという考え方も成り立ちます。 ・さらに、政党の候補者公募を活用する考え方もあります。近年、市民参加を謳って国政選挙を中心に候補者公募を行う政党が増えてきました。ちなみに議会制度の先進国であるイギリスでも公募制度を取り入れています。まず保守党の本部で候補者になりたい人を公募し、年に3~4回のグループディスカッションや筆記試験を行って適格者のリストをつくり、それをもとに地方の小選挙区の支部(選挙区協会)が具体的な候補者を選定するというやり方です。  日本では民主党や自民党をはじめ多くの党が論文や面接などによる公募制度を設けています。一般のサラリーマンやOLにとっては、政党本部や支部へ足を運んで自分を売り込むということは至難の業です。そういう人たちにとって、この候補者公募は便利なシステムといえます。 ・公募の場合、応募者にとっては、「なぜ政治家になりたいのか」以上に「なぜ、わが党を選んだのか」、そして「何票ぐらい稼げる候補者なのか」という点について、具体的にアピールできるかどうかが合否の重要なポイントになります。 ・応募に合格して党の公認候補になると、政党により温度差はあるものの、最小限、政治・選挙の経費面等の面倒をみてもらうことが期待できます。となると、ある程度の資金を自分で確保すれば家族への迷惑も最小限で済み、迷惑をかけるとしても配偶者だけということになります。従来のように、親や親戚の土地を担保にお金を借りるといったことまでしなくても個人のリスクの範囲内で立候補できるのです。 ・なお、職業別にどのくらい選挙資金が集められるのかということと選挙資金の集め方(ファンドレイジング)についてはそれぞれ別項で述べます。選挙資金がどれくらい集まるかという見通しを持つことも立候補の決断の重要なポイントになるはずです。 <選挙資金は最低限どれくらい必要か> ・選挙はやり方次第で選挙資金を節約できますが、立候補する以上、最低限の資金は手元に用意しておかねばなりません。 ・立候補を決めて選挙の準備を始めると、事務所を借りる(自宅や現在の事務所を転用する場合を除く)、電話を引く、名刺や看板、ビラ、ポスターを作成する、レンタカーで宣車を用意する、ポスティングをする、といった費用がすぐにかかってきます。一般の企業取引では月末締めで翌月末払いといったことが常識ですが、選挙では待ったなしの支払いが求められますので、最低限の資金は手元に用意しておかなければならないのです。  最低限の選挙資金は選挙のレベルによっても異なりますが、供託金とは別に100万~数百万円は必要でしょう。 <他力本願で選挙は戦えない> ・選挙の面倒の大半を党がみてくれる公明党や共産党の候補は別として、自分の選挙資金はまず自分で集めるというのが大原則です。お金持ちの友人・知人に丸抱えしてもらったり、候補者公募による公認候補だからといって政党にすべてを依存するようではいけません。  いわゆる後援会組織も、自助努力でつくり上げるべきです。それをしない、する気がないような他力本願の人は立候補しないほうがいいでしょう。  たとえ、初めのうちは苦しくても、選挙資金や選挙組織を自前でつくることができれば、その後の選挙運動がかなり楽になり、支援者からの信頼も得られやすくなります。  もとより当選後の政治活動こそが政治家本来の仕事です。何事にも自助努力が肝心です。 <身分保障と背水の陣> ・資生堂では、在職したまま立候補することを認めており、落選した場合もそのまま働き続けることができるシステムになっています。実際、資生堂の女性社員が東京の区議会議員選挙に立候補して当選しました。当選したため会社は辞めましたが、落選したら会社に残っていたはずです。パソナグループや楽天も、有給休暇扱いで選挙立候補できるだけでなく、落選した場合は会社に戻れる、という制度を設けているようです。 ・これまでJC(日本青年会議所)、企業オーナー、政治家2世、エリート官僚といった人たちが立候補者に多かったのは、落選しても後の生活の心配をあまりしなくてもいいからです。その点、サラリーマンが会社を辞めて立候補し落選した場合は、もう元の会社には戻れません。だから、落選したときの生活の糧を考えて、立候補したくでもできなかった人は、少なくないはずです。  会社が身分保障をする制度があれば、立候補してみようかという会社員は増えるでしょうから、この点では評価できると思います。ちなみに、イギリスの公務員は立候補して落選しても、元の公務員に復職できるシステムがあります。 <スキャンダルの対処法> ・特に議員選挙以上に、知事選、市区町村長選の場合は徹底して身の回りを洗われると考えたほうがいいでしょう。スキャンダルは必ずバレると思ってください。心当たりがあるのであれば、スキャンダルが出ないように、あるいは出た場合の対応策を考えておかなくてはなりません。 ・したがって、今どきの候補者は、誤解を生じるような行動をしないように自宅を出てから帰宅するまで気を抜いてはいけないのです。 『心をつかむ力』 勝率90%超の選挙プランナーがはじめて明かす! 三浦博史    すばる舎  2011/1/20 <プロパガンダ> ・プロパガンダとは、簡単な例を挙げれば「本来嫌いだったものを好きにさせる」ために相手をうまく誘導する技術です。自分の属性を際立たせる手段にもなりますので、しっかり理解してください。 <選挙プランナーの出番> ・ひと昔まで、選挙で当選するには「地盤・看板・鞄」という「3バン」がそろっていることが必要条件だとされていました。「地盤」は血縁や地縁で、親族に有力者がいたり、小学校や中学校、高校の同級生がいるなど候補者と選挙区の間に深い関係があることを意味します。それによって強力な後援会も組織できるのです。「看板」は東大出身や中央官僚出身といった肩書や家柄のブランドなどで、最後の「鞄」は選挙資金のことを指しています。  2世、3世の世襲政治家が選挙に強かったのは、この3バンがスタート時点でそろっていたからですが、最近では「3バンがあれば当選する」「3バンがなければ当選しない」は通用しなくなってきました。時代が変わったのです。   ・そんなときに出番となるのが選挙プランナーです。ないない尽くしの候補者がクライアントになった場合、どうすればあるある尽くしの候補者に対抗して勝てるのかをコンサルティングしていきます。これは、選挙に臨む最初のプランニングから当選するまで、さらに当選後もその候補者の後援会のメンテナンスおよび拡大を行って再選に結びつけるところまでを一括したコンサルティングです。  ないない尽くしの候補者へのコンサルティングには大きく分けて3つの分野があります。それは、「ファンドレージング(資金調達)」「組織作り」「コミュニケーション力アップ」です。 <熱伝導はまさに「プロパガンダ」の中核> ・3つ目の「コミュニケーション力アップ」は候補者と有権者とのよりよい関係作りです。コミュニケーションですから、人の心をつかむことに密接に関係しているのはいうまでもありません。 <プロパガンダでコミュニケーション力はアップする> ・「空中戦」は候補者が有権者一人ひとりに直接会うことができなくても有効な戦術です。  もっとも、コミュニケーション力から見ると、候補者に対する好感度や嫌悪度という点では「空中戦」も「地上戦」と共通していて、「空中戦」のノウハウも候補者個人の資質に大きく左右されることはいうまでもありません。  そして、その「空中戦」の核をなしているのが、「プロパガンダ」です。このプロパガンダを理解することが、自らのコミュニケーション力のアップにつながるものと思います。 ・選挙プランナーのコンサルティングのうち、組織作りの一部とコミュニケーション力アップをお伝えします。実生活でも「人の心をつかむ」ことに活用できます。 <ドラマ『CHANGE』にみる高視聴率の秘訣> ・日本にも私のような『選挙専門職』の仕事は昔からありました。その肩書は「選挙プロ」「選挙参謀」「選挙コンサルタント」にはじまり、なかには「選挙ブローカー」「選挙ゴロ」といった『負のイメージ』を持つうさん臭い不名誉なものまで様々。しかも「選挙違反を怖がっていたら当選などできない!」といった悪しき風潮が闊歩していたのです。しかし、そうした風潮もここ数年で大きく変わり、「選挙プロが入ったからには絶対選挙違反は出さない!」といったコンプライアンス(法令順守)がやっと当たり前になってきました。 ・欧米、特に米国では選挙コンサルティングのマーケットは巨大なもので、「選挙コンサルタント」という職業も、ある種、憧れや敬意を表されるほど、社会的ステイタスも確立されているのです(もちろん、「スピンドクター(世論操作師)」といった悪名や中傷もないわけではありません)。 ・しかし、日本ではこの職業はあまりにも閉鎖的な存在でした。そこで私は「よい政治家をつくるには、よい選挙から」というコンセプトのもと、あらたに「選挙プランナー」という肩書を造語し、活動し始めたわけです。   <世論誘導によるプロパガンダの時代に生きる> ・プロパガンダは人の心をつかむための最も強力な手法であり、人の心をつかむための「根幹」の考え方です。まずこれを理解することで、関連のノウハウも活用しやすくなります。  プロパガンダとは、端的にいえば「自ら働きかけて自らの思う方向に他人や集団を動かすこと」です。プロパガンダによって、あなたの思い通りにまわりの人を動かすことができれば、人生もずいぶんプラスの方向へと変わり、成功をたぐり寄せることも楽になるはずです。 ・とりわけ扇動としてのプロパガンダを大衆に大々的に用いたのがアドルフ・ヒトラー率いるナチス(ゲッペルス宣伝相)にほかなりません。そのため、今なおプロパガンダという言葉からマイナスの響きを感じ取る人が多いようです。  しかし、プロパガンダでは扇動という要素は不要、あるいは効果的ではなくなってきています。発達した民主主義国家では、むしろ上手な世論誘導としての「PR」には欠かせなくなってきたのです。  上手な誘導を含むプロパガンダとは?それは、自分の意図を個人や集団が自発的に受け入れるように仕向けることともいえるのです。 ・プロパガンダは人の心をつかむための最強の手段です。「自分の意図を個人や集団が自発的に受け入れるように仕向ける」ことで、マイナスがプラスの方向に変わります。 <現代版プロパガンダと「商業PR」&「選挙・宗教PR」> ・上手な誘導を含む現代版プロパガンダとして最もポピュラーなものに、PR(Public Relations)があります。  このPRは基本的に3つのパターンがあります。それは「商業PR」「選挙PR」「宗教PR」です。こちからから相手に働きかけて(上手に誘導して)、商品を買いたい、投票したい、信者になりたいと思わせ、実際にそういう行動をとらせることができれば、プロパガンダとして成功したということになります。 ・要するに、3つのPRの共通点は、どれも「最初はそうしようと思っていなかった人」に、新しい宗教の信者にならせたり、特定の候補に投票させたり、ある商品を買わせたりするなど実際の具体的な行動へと導いていくものなのです。 <商業PRと広告代理店的商業PRとの違い> ・広告代理店は、新聞・ラジオ・雑誌などのメディアの広告スペースを広告主に提供する代わりにコミッションを取るのが商売です。したがって、広告主に対する広告スペースの販売をつねに最優先しがちなのです。  対して、欧米のPR会社は、実際にPRの企画やプランニングをクライアントサイドに立って行います。これが本来の商業PRで、日本の広告代理店が広告スペースの切り売りで稼ぐとすれば、欧米のPR会社はPRの企画などで対価を受け取っているのです。 ・そのほか、本来の商業PRと広告代理店的商業PRの違いは、本来の商業PRは、消費者が最初から買いたいとは思っていなかった物を買わせるようにするのに対し、広告代理店的商業PRは、消費者が最初から買いたいと思っている物を作り、売り、買わせるという点です。  この点が両者の最大の違いであって、その意味で日本の広告代理店的商業PRは、宗教PRや選挙PRと異なります。この違いを知るのはプロパガンダを理解するためにも非常に重要なことです。 <「迎合型」になりがちな「日本の広告代理店的商業PR」> ・広告代理店的商業PRでは物事の差別化はできません。相手を上手に誘導して具体的な行動へと導くことが、プロパガンダをうまく使いこなす秘訣です。 <臭いニンニクをいつの間にか好きにさせる方法> ・まず「食べ物のなかで何が好きですか」と聞いて、たとえば、「ラーメンが好きだ」と答えた人にはラーメンのなかに、「カレーが好きだ」という人にはカレーのなかに、それぞれ摺り下ろしたニンニクを少量加えて食べさせます。  そうやって好きな食べ物にニンニクを加えて、ニンニクへの抵抗感をだんだんなくしたうえで、そのうち、餃子を丸ごと1個食べさせたり、ニンニクの丸焼きを食べさせるといったところまでいけば、ニンニクが好きでたまらなくなる人も増えていくことでしょう。  これがプロパガンダです。いつの間にか、その人の食生活はニンニクが不可欠なものへと変わってしまうかもしれないのです。  ニンニクなどの食材に限らず、すべての人が好きだという物事はありません。しかし、ある物事について、それを好きな人がマイノリティ(少数派)だったとしても、しだいに好きな人を増やして、最終的にマジョリティ(多数派)にしてしまうことは可能であり、それがプロパガンダの醍醐味なのです。 <自分の強い個性を相手に受け入れさせるには> ・相手へ迎合するだけでは人の心はつかめません。相手に合わせるのではなく自分の個性を大事にすることが、人の心をつかむ早道です。 <つねに自分の土俵に引き込むことで他人との違いを際立たせる> ・候補者が有権者の心をつかんで票を入れてもらうというのが選挙ですが、最近では広告代理店が選挙に関わる例も増えてきています。  すでに述べたように広告代理店的商業PRと選挙PRには大きな違いがあります。したがって、広告代理店的商業PRの手法によって選挙活動を行っていくと、「人の心をつかむ」という意味で、大きなミスを犯すことにもなります。  広告代理店が選挙活動を行う場合は「候補者=商品」「有権者=消費者」ととらえるため、商品である候補者を消費者である有権者にいかに売り込むかというアプローチに陥りがちです。これも迎合のひとつといえます。     

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