自民党の国会議員というだけでビラを受け取ってもらえません。わたした名刺を破られるなんてことは全国でザラでした。昔から伝わる「歩いた家の数しか票は出ない。手を握った数しか票は出ない」ことを実感。(3)

 <被災者の支援制度を使いやすく> ・私の意を受け止めていただき、野党とも調整された結果、被災者を迅速に支援するために、収入要件及び年齢要件の撤廃や、使途を限定した上で実費額を清算していたのを、使途を限定しない定額渡し切りに改めるなど、シンプルで使い勝手のよい制度に改正することとなりました。 <議員立法で国会を活性化> <万景峰号の入港を禁止する法律> ・私が初当選の頃は、議員立法が現在よりも少なく、成立する法律の大半が内閣提出法案でした。議員立法は内閣提出法案と比べて成功率が低く、多くは廃案とされがちでした。私は幸いにもいくつかの法律を成立させることができましたが、国民の後押しがあったからこそ成立させることができたのだと思います。  その一例が、万景峰号の入港を禁止する法律「特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法」です。 <「振り込め詐欺」を防げ> ・私は、多発する犯罪を何とか未然に防ぎたいと、治安対策を重視して活動し、自民党治安対策特別委員会(治安対)で事務局長を務めていました。  この頃、治安上の最大の懸案事項は、いわゆる「振り込め詐欺」と外国人犯罪でした。 ・振り込め詐欺に使用される電話は95%がプリペイド携帯でした。 ・銀行口座の売買とプリペイド携帯に罰則付きの規制をかけたことに加えて取り締まりの強化、社会全体で啓発活動に取り組んだことなどが功を奏して、振り込め詐欺は著しく減少しました。しかし国内での取り締りが厳しくなった今日では、犯罪が国際化し、犯罪者は中国などからも電話をしているようです。治安対策に終わりはなく、不断の見直しが必要です。 <外国人犯罪の一掃へ> ・警察庁が検挙した外国人犯罪は、2004年度に過去最高の47128件を記録しました。外国人による凶悪犯罪が急増し、世界で一番安全な国と言われた日本の治安も揺るぎ始め、多くの国民は外国人の犯罪に怯えていました。これは、日本に滞在する外国人にとってもいいことではありません。治安対が着目したのは外国人の不法滞在者です。この時期、約22万人もいるとされていました。そして逮捕された外国人のうち実に6割が不法滞在者でした。 ・この提言の後、法案化に向けて作業が続けられるのですが、驚かされることがありました。警察庁は、外国人犯罪者約80万人のリストや、20万~30万人の不法滞在者リストをもっていますが、法務省の入国管理局は強制退去させた5万~6万人のリストしかもっていませんでした。警察庁と入管の間でリストを共有していなかったのです。ここにも「振り込め詐欺」のときと同様の、縦割り組織の弊害が出ていました。 「そんなことで、入管法の改正なんかできない。お互いに連携しないと」  警察庁のブラックリストと入管のバイオメトリクス・システムがオンライン化し、情報を共有することになったのです。 ・バイオメトリクスによる入国審査システムは大きな抑止力となり、国内の不法滞在者は、ピークであった1993年の30万人、2004年の22万人から、2011年には78488人と激減しました。  外国人犯罪者の検挙数も、導入前の2005年度に47865件と過去最高を記録して以降は激減し、2010年度には19809件にまで減りました。前年度(2009年度)比でみると、件数で28.8%、人員で10.6%の減少とこの数字が如実に効果を物語っています。 <原発事故調査委員会を国会に> ・事故がなぜ起こり、なぜ被害の拡大を防げなかったのか、事故を二度と起こさないために真相を徹底的に解明する。これが国民、そして支援してくれた世界の国々に対し、わが国が果たすべき責任です。 <支持率低下覚悟の安保関連法成立> <特定秘密保護法で「支持率が10%は下がるだろう」> <体中の力が抜けた> ・いま、北朝鮮は挑発行為をエスカレートさせています。弾道ミサイルは日本上空を通過し、昨年9月に実験した核の威力は、広島の原爆の10倍強ともされています。特定秘密保護法や安全保障関連法がなければ、北の脅威から日本を守ることは難しいでしょう。大きな意義のある法案成立だったと思います。 <携帯料金は絶対に4割下げる> <家計を圧迫する通信費> ・私はかねてから「日本の携帯電話料金の水準は高すぎる」「料金体系が不透明で分かりづらい」と主張してきました。 <我が政権構想> <「出馬を考えていなかった」のは当然のこと> ・特に瀕死の状態なのが、これまで地域の経済を支えてきた観光です。ホテルや旅館のほか、バス、タクシー、食材、お土産屋さんなどで約9百万人もの人々が働いていますが、ホテルの稼働率は一時期1割程度にまで落ち込みました。 <最優先改題は「地方創生」> ・私は秋田の寒村のいちご農家に育ち、子どもの頃から「出稼ぎのない世の中を作りたい」と思っていました。政治家になってからも、地方を大事に思う気持ちは脈々と息づいています。 ・我が国はいわゆる東京圏以外での消費が全体の7割を占めます。この中で、地方の所得を引き上げ、地方の消費を活性化しなければ、日本経済全体を浮揚させることは不可能です。 ・ここで必要なのが「デジタル化」です。いまだに山間部や離島では光ファイバーが届いていない地域が多い。今回の2次補正予算では、私が主導し、離島も含めて全国に光ファイバーを敷設する予算(5百億円)を確保しました。 <「当たり前」を見極める政治> ・私が政治の道を志して以来、一貫して重視してきたのは、国民の皆様から見て、何が「当たり前」かをきちんと見極めるということです。世の中には、まだまだ数多くの「当たり前でないこと」が残っています。  例えば、携帯電話の料金。いまや携帯は「国民のライフライン」にもかかわらず、世界で最も高い水準の料金が放置され、契約自体も複雑なものでした。 ・それでも、市場の9割を占める大手3社は20%前後の営業利益率を出し続けています。大企業の利益率の平均は約6%ですから、まだまだ値下げの余地はある。ここにも切り込んでいかなくてはなりません。  そして「当たり前でないこと」の最もたるものは、「行政の縦割り」から生じる様々な非効率や不合理でしょう。ふるさと納税もビザの緩和も官僚たちには反対されましたが、私には、国民生活に利益をもたらし、この国が更に力強く成長するために必要だという確信がありました。 <25兆円以上が浮いた計算> ・まさに「行政の縦割り」の弊害です。そこで私は台風シーズンに限って、国交省が全てのダムを一元的に運用する体制を整えました。結果、全国のダム容量のうち、水害対策に使えるのは46億立法メートルから91億立方メートルへと倍増した。これは、群馬県の八ッ場ダム50個分にあたります。八ッ場ダムの建設に50年、5千億円以上かかっていますから、単純計算で25兆円以上が浮いたことになる。これで、各ダムの下流では氾濫を相当減らすことができると思います。 <国民の「食い扶持」を作る> ・初当選直後、梶山先生から頂いた叱咤激励が胸に強く残っています。 「政治家の仕事は、国民の食い扶持を作ることだ。そのために何ができるかしっかり勉強しろ。経済界、学界、マスコミ、官僚、色々な人脈を紹介してやる」。この「食い扶持を作れ」というのは梶山先生らしい表現ですが、国民の生活を支える政策を行うには、様々な視点、知見を持つ人々から幅広く話を聞く必要があるんだ、ということ。 <意志あれば道あり> ・ただ、これまでと違うのは、コロナ感染症によって経済が危機的な状況にあり、その中でサプライチェーンの問題など構造改革が迫られているということです。だからこそ、まずやるべきは、コロナ対策に全力をあげて雇用を守る、企業を倒産させないようにする。梶山先生の言葉で言えば、「国民の食い扶持を必ず作る」。それが、私の仕事です。 ・71歳になりましたが、体調は万全です。7年8カ月間にわたり、官房長官として危機管理の責任者を務めてきました。その任を果たすために、毎朝40分のウォーキングや百回の腹筋など体調管理と規則正しい生活に特に意を用いてきた。こういう経験を引き続き、国のために生かせるのであれば、本望です。  私の座右の銘は「意志あれば道あり」。どんな困難でも強い意志があれば、必ず道は開ける。 <国民のために働く内閣> <「当たり前でないこと」が残っている> ・省庁の縦割りによって、我が国にあるダムの大半が洪水対策に全く活用されていなかった事実。また、国民の財産である電波の提供を受けた携帯電話の大手三社が、9割の寡占状態を維持し、世界でも高い料金で20%もの営業利益率を出し続けている事実。他にも、このような「当たり前でないこと」はさまざまなところに残っています。 ・私が目指す社会像、それは「自助・共助・公助」、そして「絆」だと、度々申し上げてきました。自分でできることはまず、自分でやってみる。そして、家族、地域で助け合う。その上で、政府がセーフティネットでお守りする。そうした国民から信頼される政府を目指したいと思っています。  目の前に続く道は、決して平坦ではありません。  しかし、行政の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義を打破し、規制改革を全力で進める「国民のために働く内閣」を作っていきます。 『総理の影』  菅義偉の正体 史上最強の官房長官を完全解剖! 森巧   小学館    2016/8/29 <秋田から上京した農家の青年は、いかにして最高権力者となったのか。> ・菅義偉(よしひで)が生まれ、少年時代を過ごした秋田県雄勝郡秋ノ宮村は、そんな自然の恵みと厳しさを併せ持っている。現在は湯沢市となっているが、新潟県の越後湯沢とよく似ている。菅の生まれた故郷である秋ノ宮やその周辺が米どころと呼ばれるようになったのは比較的新しく、第2次世界大戦前までは農業に適した地域とも言いがたかった。  それゆえ戦中は、大勢の村人が日本政府や関東軍にそそのかされ、新たな開墾地を求めて満州に渡った。全国の農村から渡満して入植したそんな人たちは満蒙開拓団と呼ばれ、秋ノ宮の村人たちもまた地名にちなんだ「雄勝郷開拓団」を結成した。そうした開拓団の人たちは満州で終戦を迎えた。  終戦間もない満州の悲劇はこれまでにもいくつか紹介されているが、秋田の雄勝郷開拓団で起きた筆舌に尽くしがたい惨状はあまり知られていない。 ・雄勝郷は牡丹江省安寧安県にあり、(昭和)15年6月に入植した。当初は先遣隊19名であったが、逐次増加し、20年8月のソ連参戦時において雄勝郷の規模は、戸数79、人口374名、水田四百町歩を有していた。   ・匪賊の出没が頻繁なので、軍から小銃45丁、弾薬3千発を渡された。  満州では戦況の悪化に伴い、すでに開拓団の成人男性が根こそぎ関東軍に徴兵され、残った女子供や高齢者は、終戦すら知らないまま、旧ソビエト軍や中国人反乱軍の脅威にさらされた。  そして8月19日、戦地で戦っている一家の主の足手まといになるまい、と妻たちが話し合い、子供を道連れに、みずからの命を絶った。郷土史家の伊藤正が描きまとめた小冊子「満州開拓団雄勝郷の最後」には、たまたま入植地に居残り、妻たちの自決を知った柴田四郎という団員の手記が掲載されている。 ・菅の故郷の雄勝郷開拓団の集団自決は、最近になってようやく明らかになった史実といえる。冊子には、その雄勝郷開拓団に逃げ込んで生きながらえた長野県「東海浪開拓団」の佐藤元夫が書き残した目撃談も掲載されている。 ・菅の父や母もまた、新天地を求めた満州に渡った口だ。父親は南満州鉄道(満鉄)に職を求め、叔母たちは農民として入植した。雄勝郷開拓団員たちと同じような体験をしている。そうして菅一家はまさに満州の悲劇に居合わせ、運よく命が助かった。 ・戦後、菅一家はいちご栽培で生計を立てたが、復興の著しかった都市部に比べ、雪深い生まれた故郷は、さほど豊かにはならなかった。菅が少年時代を送った終戦から高度経済成長の走りまで、多くの家庭では、冬になると一家の主が東京に出稼ぎに行き、妻や子供が留守を預かってきた。中学を卒業した生徒の大半が、集団就職のために夜行列車で上野を目指した。 ・いちご農家の息子である菅本人は、中学を出ると、地元の秋田県立高校に進んだ。冬は雪で道路が閉ざされ、学校には通えない。そのため、高校の近くに下宿し、高校を卒業後に東京・板橋の段ボール会社に住み込みで働き始めた。  中学や高校の幼馴染たちは、成人してしばらくすると、郷里の秋田に戻ってくるケースが多い。いわゆるUターン組であり、秋田で農業を継いできた。  だが、菅はそこから大学に入り直し、政界に足を踏み入れた。やがて保守タカ派の政策で安倍晋三と意気投合し、信頼を得る。言うまでもなく安倍は戦中、満州国国務院実業部総務司長として、満鉄をはじめとする満州の産業振興に携わった岸信介の孫であり、祖父を敬愛してやまない。ともに戦争体験はないが、二人は互いに惹かれる何かがあったのかもしれない。  そして菅自身は、第二次安倍晋三内閣における官房長官という政権ナンバー2の地位にまで昇りつめた。 ・「いっさい失言をしない切れ者の政府スポークスマン。世に聞こえた過去の名官房長官と比肩しても劣らない」   政治部の記者や評論家の多くは、いまや菅をそう評し、その政治手腕を高く買う。国会議員は与野党を問わず菅の手腕を認め、霞が関の官僚やマスコミまでもが、菅を持ちあげ、いつしか菅は「政権をコントロールする影の総理」とまで呼ばれるようになった。安倍政権に欠かせない存在だとされ、自民党内では、他の政治家を寄せつけないほどの存在感を見せつけてきたといえる。 ・そんな菅は政策通を自負する。永田町では、霞が関の官僚をグリップできる数少ない政策通の国会議員だとされてきた。安保や外交政策以外にあまり関心がなく、ときどき珍紛漢な発想をして政策音痴とも酷評される首相を支えてきた。 ・菅義偉は、多くの二世政治家や官僚出身の国会議員に見られるような門閥や学閥の背景を持ち合わせていない。秋田県の豪雪地帯から単身で上京した集団就職組であり、そこから現在のポストにたどりついた。さまざまな苦難を乗り越えてきたがゆえ、人心掌握術に長けた叩き上げの老練な政治家として成長した。そんなイメージもある。  永田町ではそこに共鳴し、懐の深い苦労人の政治家像を重ねる向きも少なくない。とりわけ新聞やテレビの政治記者が、そうした菅像を描いている傾向が強いように感じる。  しかし実際に取材をしてみると、その素顔はこれまで伝えられてきた印象とかなり異なっていた。同じ豪雪地帯出身の田中角栄と菅を重ね合わせる向きもあるが、二人にはかなりの開きがあるようにも思えた。  当の本人はどことなくつかみどころがなく、大物評の割に、その実像が明らかになっていないが、少年時代から青年期、国会議員へと時を経るにつれ、姿勢を変えてきたのではないだろうか。   ・もとはいわば東北出身のどこにでもいそうな青年だった。それが「影の総理」「政権の屋台骨」と評されるほどの実力者になれたのはなぜか。 <橋下徹の生みの親> ・実は菅と麻生の確執は、いまに始まったことではない。もともと政治信条が異なる。第二次安倍内閣が発足した12年末、自公政権は周知のとおり「金融緩和」「財政出動」「成長戦略」というアベノミクスなる経済政策を打ち出した。安倍政権では、その具体的な経済政策を提唱する諮問機関として経済財政諮問会議を設置し、そこに小泉純一郎政権で規制緩和政策の舵をとった慶應義塾大学教授の竹中平蔵を加えようとした。が、それに麻生や自民党総務会長の二階俊博が異を唱えたとされる。  かたや菅にとって竹中は、小泉政権時に総務副大臣を務めたときの総務大臣であり、現在も折に触れ政策について相談をしている。そうして安倍政権で経済財政諮問会議入りに代わり、新たに産業競争力会議を立ち上げ、その中核メンバーとして竹中を迎え入れた。つまり、二人は根本的に政治姿勢が異なる。財政規律を重んじ伝統的案政策の整合性を求める麻生に対し、菅は規制緩和と経済合理性を最優先に唱えてきた。 <衆院選出馬騒動> ・「のちのち、いい結果を生むと思いますよ」 すでに衆院の解散が決まった12月初め、自らの衆院選の出馬断念の理由を問われた維新の党の橋下徹は、そう思わせぶりに言い、報道陣を煙に巻いた。 いったいなぜ橋下、松井は出馬を取りやめたのか、衆院選出馬に待ったをかけたのは誰か、後ろで糸を引いた人物が詮索された。それがほかならない官房長官の菅義偉である。 <創価学会の変化> ・橋下徹たちが14年12月の衆院選出馬を断念すると同時に、公明党は大阪府議会や大阪市議会で大阪都構想の住民投票を容認した。それもまた、裏に菅・佐藤ラインの思惑が働いたとみるのが妥当だ。  公明党の方針転換は、維新の会の橋下はもとより、菅にとっても悪い話ではない。仮に、住民投票を可決できれば、一挙に計画が進む。おまけに安倍政権と維新との連携に拍車がかかる。菅はそう睨んだからこそ、維新にエールを送ってきたのだろう。 <将来の総理候補> ・維新の会の橋下徹は2015年が明けると、いよいよ5月17日の住民投票に挑んだ。序盤は悪くない戦いだったに違いない。菅もエールを送り、逆に当時取材した大阪府連の国会議員は嘆いた。 「菅さんなどは『橋下さんは総理候補だ』と公言する始末です。住民投票だけでなく、国家戦略特区構想などでも大阪を支援している」 <橋下・菅のリベンジマッチ> ・大阪都構想の住民投票では、1万票という僅差で維新が敗れただけに、府知事、市長のダブル選も、当初は接戦を予想する関係者が少なくなかった。 ・ところが、選挙戦の終盤になると、雲行きが怪しくなっていく。世論調査の支持率は軒並み維新優勢と伝えられ、「維新の二連勝濃厚」という声が大きくなった。  そして11月22日、投開票されると、そのとおりの圧勝に終わる。 <捨て身の政治> ・私は大阪のダブル選の少し前、菅本人にインタビューした。こう率直に尋ねた。 ――都構想をはじめ維新の党の橋下徹の政策をずい分買っているようだが、そのきっかけは? 「そもそも橋下さんを紹介されたのは、大阪の国会・市会議員の人たちからです。(2007年)当時、自民党の選対副委員長であった私から、橋下さんの大阪市長選挙への出馬を説得してほしいということでした。それ以来ですから、大阪都構想の住民投票には感慨深いものがありました」  このとき橋下は大阪市長選ではなく府知事選に回ったが、もとはといえば、政界の舞台に担ぎ上げようとした張本人が、菅義偉である。菅はいわば政治家橋下徹の生みの親であり、菅本人もそう自負している。 ・「橋下徹と松井一郎という政治家は、捨て身で政治を行っていますから、二人を信頼しています。私自身、総務副大臣時代から、横浜市のほうが大阪市より人口が百万人も多いのに、逆に職員は大阪市が1万5千人も多かったのです。その意味で、改革は必要だ、と問題提起してきました」 <菅一家の戦争体験> <おっかない親父> ・菅の父、和三郎はいちご組合を率いるかたわら、雄勝町議会の選挙に出馬し、町会議員にもなる。地元の名士として、頼りにされる存在でもあった。 「和三郎さんが雄勝町の町会議員になったのは、義偉君が中学校を卒業したころで、そこから4期(16年)議員をやりましたね。次は議長という5期目の選挙のときも、楽々当選といわれていたものでした。ですが、あまりに余裕がありすぎた。『俺は応援せんでええから』と他の候補者の支持に回ってしまい、本人が落ちてしまったのです。それ以来和三郎さんは、政治の世界からすっぽり引退しました。そのときには、もう義偉君が東京に出ていました」  菅が上野に夜行列車で向かった集団就職組だという話は嘘ではないが、巷間伝えられているように大学に行けなかったような貧しい家ではない。とすれば、なぜ菅は高校を出て単身上京し、就職したのだろうか。  それは、いちご組合や町議会の活動を通じて名を成した父親へのある種の反発だった。 <口を閉ざしてきた満州秘話> ・ちなみに外務省によれば、建国時わずか24万人だった満州国全体の日本人は、終戦時に155万人に増えている。うち、およそ27万人が開拓団関係者だ。諸説あるので正確な数は不明だが、56年に外務省と開拓民自興会の作成した資料だと、全国の開拓団入植者は19万6200人、義勇隊を2万2000人としている。このうち帰国できなかった死者・行方不明者は、8万人を優に超える。 <雄勝郷開拓団の悲劇> ・そんな満蒙開拓団のなかで、最近まで明らかにならなかった悲劇がある。それが菅の生まれた故郷である秋田県雄勝郷開拓団の集団自決だ。 <開拓団員を救った和三郎> ・終戦当時の満州の開拓団には、いまだ知られていない史実が数多く残されている。雄勝郷開拓団の集団自決も長らく封印されてきたが、むろん悲劇はこれだけではない。 <子供を川に投げ捨てた父親> ・「私はちょうど終戦1年前に青森の八戸連隊に召集され、そこから満州へ向かいました。20歳そこそこの二等兵でしたから何もできませんでしたが、開拓団の人たちの惨状は、筆舌に尽くしがたい」  秋ノ宮でいまも菅の実家から車で10分ほどの場所に住む栗田儀一は、終戦間際に日本軍に徴兵され、満州でソ連軍と戦った経験を持つ。 <八路軍に身を投じた中国残留孤児> ・秋田県秋ノ宮から雄勝郷開拓団に参加したなかにも、この土田由子と同じような道をたどった少年がいる。先に紹介した秋田魁新聞の短期連載「語られなかった悲劇 満州開拓団雄勝郷集団自決の残像」の4回目にそれが記されている。 <集団自決で亡くなったはずの親類の子どもが、残留孤児として生存していたことが判明。(開拓団員の)長谷山(アイ)さんは永住帰国実現に尽力した。「手紙で気持ちを尋ねたら『帰りたい』と返事が来た。途中で投げ出すわけにはいかなかった」と長谷山さん>(2007年8月18日朝刊) <上野駅へ> <豊かだった少年時代> ・東北の雪深い片田舎でも、都会にない豊かさがあった。とりわけ菅家では、もともと祖父の喜久治が電力会社に勤めていたおかげもあるだろうが、それほど家計が苦しかったような印象も受けない。何より満州から引き揚げてくるや、初めていちご栽培に取り組んだパワフルな和三郎が、一家の大黒柱として家計を支えてきた。ニューワサと呼ばれるブランドいちごがヒットしたのは少しあとだが、決して貧しい家庭ではなかった。 「われわれが高校生になるころまで、和三郎さんは品種改良に取り組んでいる最中でしたな。ブランド化されたいちご栽培が伸びてきたのは、そこからでしょうけど、官房長官の家は小学生のときから羨ましがられていましたな」  由利が少年時代のエピソードを明かしてくれた。 <断念した野球少年> ・「今は雄勝町にも雄勝高校があるけど、当時はまだなかった。それで、われわれは遠くの湯沢高校に通いました」  湯沢市会議長の由利昌司は、懐かしそうに目を細めながらそう語った。湯沢高校になると、学区が中学校よりさらに広くなり、一学年八クラスもあった。が、中学と異なり、高校に進学する生徒はあまりいなかったという。 「中学校の卒業生で、地元の高校に進学する生徒は二割しかいませんでした。残りの八割は中学を卒業してすぐに農業を継ぐか、あるいは上京して集団就職していました。東京に行って都内の夜間高校に通いながら働く同級生が非常に多い時代でした」  由利も同じ高校に進んでいるが、高校に進学できる二割のなかにいた二人は、ともに恵まれた家庭に育ったといえる。湯沢高校は秋田県内屈指の進学校として今も人気がある。 <いちご農家を継ぐか> ・湯沢高校では当時から進学コースが主流で、生徒の4分の3が大学入学を目指した。菅も進学コースに進み、とうぜんのごとく入試に備えた。 「義偉さんの家は、勉強に熱を入れていたと思います。姉さんたちも大学を出ていますからな。北海道教育大学を卒業し、一人は北海道で先生をやっていました。で、義偉さんも、北海道の姉さんのところに泊まって大学受験したと聞いています」 <父への反発> ・「官房長官はあまり本音を言っていないかもしれないけど、北海道教育大学の受験に失敗したから、あとは家さ残っていずれ農家を継げということだったのでしょう。親父さんから、『うちさ残れ』って言われ、それで『俺はもうここさ、いられねえ』と言い放って、家を出ちゃったのさ」  小、中、高校のあいだ、ともに学校に通った湯沢市議会議長の由利昌司はそう言い、先の小川もまた、菅が上京したのは大学受験に失敗したからだと似たような話をする。 <東京ならいいことある> ・指定された時刻より少し早くホテルに到着したため、喫茶ロビーで待っていると、慶應大学教授の竹中平蔵が、そばを通り過ぎた。首相官邸に設置されている産業競争力会議の中核メンバーである竹中は、菅義偉の有力ブレーンの一人に数えられている。 ・――高校の同窓生は、教師を志して北海道教育大学を受験して失敗したことが原因で、上京したと話していたが、なぜ郷里を離れたのか。 「北海道教育大を受けた事実はまったくありません。受験で失敗してこっちに出てきたかのように伝わっているけど、高校三年生のときはどこの大学も受けていません。母や姉だけでなく、農業を継ぐのも嫌でした。それで、ある意味、逃げるように(東京へ)出てきたのです」 <大学で事務所選び> ――では、どのようにして政治の世界に飛び込んだのか。 「政治家の知り合いや伝手もありません。それで仕方なく法政大学の就職課に相談したんです。そしたらすぐに市ヶ谷にある法政大学のOB会を紹介していただきました。その事務局長の方から法政大学OBの中村梅吉さん(元衆議院議長)の秘書を紹介していただき、一緒に参議院選挙の事務所で働きました。ところが、中村先生がとつぜん体調を崩してしまい、選挙をあきらめた。その秘書の方がたまたま小此木衆議院議員のことをよく知っていたんです。小此木さんの名前も知らず、私はそんな程度でしたが、政治の道にようやく入ることができたのです」  その言葉は正直なところだろう。大学の就職課を通じて秘書になるパターンも珍しいが、そこには野心も野望も感じない。これもまた取り立てて奥の深い話でもない。 <七番手秘書からのスタート> ・「小此木事務所に勤め始めてからも、最終的には秋田に戻らなければならないものと考えていました。私には、それだけ田舎への思いが強く、30歳前後のとき、事務所を辞めて秋田へ帰る、と切り出したのです。そしたら、小此木さんが唐突に『野呂田芳成(元農水大臣)さんの参議院選挙の応援で秋田に行くから、お前もついてこい』と言って、連れていかれた。で、秋田に着いたら、お前のうちに行くって言い出した。そうして両親に会い、『もう少し鍛えさせてもらえませんか』と頭を下げるではありませんか。とうぜん両親は『お願いします』と答えるほかない。小此木さんは、私のことを可愛がってくれて、鍛えてくれました」 

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