ひとりこの飛騨の牛蒡種(ごんぼだね)のみは、これらとはやや様子が違って、直ちに人間が人間に憑くと信ぜられているのである。(10)
<ハザードマップはなぜ間違っていたのか>
・役所が指定した避難所が津波に襲われて大勢の人が亡くなったケースは、大槌町や釜石市だけでなく、陸前高田市でも宮城県三陸町でも見られている。であれば、役所の出していた想定が多くの箇所で間違っていたことは明らかなのであり、その想定がどのようにして作成され、役所はどれだけの情報をあらかじめ提示していたのか、その全過程が公表されることが不可欠だろう。情報をできるだけ正確に、かつ広く住民に提供するというのは、防災にかぎらず行政が銘記すべきことの第一であるのだから。
<車で逃げた人が多く、徒歩で逃げたのは一部にとどまったこと>
・このように、自宅や勤務場所の近くに避難ビルが適切に配置されていれば、徒歩での迅速な避難が可能になって、多くの人命が救われることができる。
<情報の混乱や途絶があり、被害を拡大したこと>
・被災後に出された情報の内容や伝達方法に関し、今回の震災は大きな課題があることを示した。まず気象庁の津波警報だが、沿岸部の住民の多くは、気象庁が最初に出した岩手県で3メートルという予測値だけを知り、避難行動の目安としていた。その意味で、気象庁の出したこの情報は、人びとの迅速な避難行動をうながすというより、むしろ逆にそれを阻害する要因として働いていたのは明らかだ。
<被災後すぐに火災が発生したこと>
・一方、火災に関しては別の問題がある。先の白澤さんの話にもあったように、車はすぐに発火するという問題だ。彼によれば、大槌町では火のついた車が水に流されて漂い、火をつけてまわったので町方全体が火の海に巻き込まれたというのだ。
<勤務中に津波にさらわれた人が多かったこと>
・大槌町では老朽化した役場の倒壊の危険性があったために、地震直後の役場の前の広場に机を並べて、災害対策会議を開こうとしていた。そこを津波が直撃したために、危険を察知して屋上に逃げようとした町長をはじめとする幹部職員の多くが水に流されて亡くなった。と同時に、役場のなかでは職員が避難もせずに勤務していたのであり、彼らもまた建物のなかで津波に呑まれてしまい、役場職員140名のうち40名もが尊い生命を失った。
<津波がまちを襲う>
・マグニチュード9.0というわが国の観測史上最大規模の巨大地震とそれが引き起こした津波は、東日本の太平洋岸に大きな被害をもたらした。なかでも岩手県の三陸沿岸中部に位置する大槌町は、今回の震災で最大の被害を出した市町村のひとつだ。
・この本は、その3月11日から1年半のあいだに、吉里吉里をはじめとする大槌町と釜石市の人びとが、どのように行動し、何を語り、何を考えてきたかを再現することを目的として書かれたものだ。
・宮城県沖地震が30年以内に99パーセントの確立で襲うことが予想されていたにもかかわらず、その自身の規模と津波の予測が大きく間違っていたこと。しかも、地震の直後に気象庁が出した警報さえもが間違っていたこと。避難所に十分なそなえもなく、支援の手もなかなか入らず、住民自身の相互扶助と集団行動だけが秩序の空白を埋めていたこと。そしてまちづくりの現場では、住民の生活の質を向上させたり利便性を高めたりしようという配慮は行政の側にはほとんどなく、あるのはあいかわらず縦割り意識であり、数字合わせと表面的な効率性のみを重視する行政特有のロジックであること。これらのことを告発することもまた、本書が書かれた理由のひとつだったのだ。
『哀史 三陸大津波』 歴史の教訓に学ぶ
山下文男 河出書房新社 2011/6/17
<繰り返される『大量死』の恐怖 「東日本大津波」を体験して>
・すぐる3月11日(2011年)の東日本大津波は、死者2万人以上という過去の三陸津波史の中でも最大級の巨大津波であったことを示している。
・「三陸海岸は日本一はおろか、世界一の津波常習海岸」とまでいわれた恐怖の津波海岸。
こうした難しい地域事情の中で、実際には観光への否定的影響を考え過ぎて住民への津波防災教育を中途半端、乃至は軽視してきたことが大被害の背景としてまず問題になる。
岩手県の場合、これには誰よりも県当局と行政に責任がある。このことを率直に反省し、腰を据えて防災教育に取り組まなければ、将来、またも同様のことを繰り返すことになりかねないと私は心配している。
・三陸津波史の特徴は、強烈なパワーによる大量死と遺体の海の藻屑化、そして「体験の風化に伴う悲劇の繰り返し」だと言われつづけてきた。
・今回も、互いに助けあおうとしての共倒れ、津波のスピードと引き潮の猛威を無視した逃げ遅れ、一度逃げたのに物欲のため家に戻って折角の命を失ったケース(私の親戚などそのため二人も溺死している)等々、明治の津波や昭和の津波の後で数え切れないほど体験した悲劇がまるで新しいことでもあったかのように住民たちによって語られ、連日紙面を埋めている。
今回こそ、こうした風化現象にはっきりとした歯止めをかけなければならない。
<哀史 三陸大津波>
<「津浪常習海岸」の「宿命」>
・三陸沿岸一帯を襲った明治以降の初めの大津波は、三陸沖を波源とする明治29年(1896)6月15日の大津波であった。被害数は文献によって異なるが、比較的実数に近いと思われるものによると、死者は岩手県1万8158人、宮城県3387人、青森県343人、合計2万1888人。流出、倒壊、半壊戸数も三県で8200余戸に及んだ。
・次のものは、それから37年後の昭和8年(1933)3月3日の大津波で、前と同様、波源は三陸沖、この時も岩手県で2658人、宮城県で307人、青森県30人、合計2995人が死亡し、三県で約6000戸が流出・倒壊した。
・この間、明治30年(1897)8月をはじめ数度にわたる小津波があったと記録されているし、昭和8年の大津波後27年を経過した戦後、昭和35年(1960)5月24日には、今度は遠く太平洋を隔てた地球の裏側の南米チリ沖を波源とする、いわゆる「チリ津波」に襲われている。この時も岩手県で61人、宮城県で54人、青森県で3人、福島県で4人、合計122人が死亡し、4000余戸が流出あるいは全・半壊した。
・「三陸沿岸地方は古来大津波に襲われることが頻繁」で、貞観11年(869)以来17回も津波に襲われている。これによると平均して60年余に一回襲われている計算になる。
・1600年から1970年までの370年間の津波を専門的な方法で分析すると「三陸沖では35年周期」が顕著であると指摘している。
・実に三陸の太平洋沿岸は津浪襲来の常習地として日本一はおろか、世界一なのである。
<狂瀾怒濤一瀉千里の勢い>
・しかも、津波の波高は、低いところでも2~3メートル、8~10メートルは普通の方で、なかには20メートル~30メートルと、まるで今日の7階建てー10階建てビルのような高さの波であった。「山のような波」だった、と表現されているのも、あながち誇張とはいえない。
『松下幸之助はなぜ、松下政経塾をつくったのか』
江口克彦 WAVE出版 2010/6/20
<個性・持ち味を生かす>
・結論を申せば、松下幸之助は職種を増やすことを考慮した政治をおこなうことであり、「お互いの欲望が適正に満たされる社会」が政治の目指す姿だと考えていたようだ。
<赤字国債の発行に危機感>
・それでなくとも国費が膨大に膨れあがっている。戦前と比べるとそれは一目瞭然であり、物価は約1000倍、賃金は1300倍であるのに対し、国費だけが13000倍になっており、一桁違っている。「おかしい」というのが松下幸之助の直感である。
<なぜ政府に政治研究所がないのか>
・今政治は何といっても一番大事です。しかし、それだけ大事なのに政府に政治を研究している機関がないのです。
・しかし、政府直轄の政治研究所はないのです。これが元々間違っています。自民党にしても与党として30年近く政権を担当し、あれだけの活動をしているのですから、専属の研究所があってもいいと思うのです。各議員の方々の体験からくるところの感覚で政治をやっておられるわけです。そういうところに一つの弱さがあると思います。
・このかってない非常時をかってない絶好のチャンスとするには、一にかかってお互いが「国難こそ絶好のチャンスだ」とはっきりと認識するかどうかである。
<政治が日本の繁栄をつぶす>
<政治の要諦とは何か>
・農業にたずさわる多くの人たちが食べることだけが精一杯の貧しい生活状態にあると仄聞している。農民自身も生産方法の改善に努めねばならないが、それ以上になぜ蓄積できないのか、また貧困に甘んじなければならないのかを追及し、その原因を糾していくのが、政治家の責任ではなかろうか。こうした政治の点に政治の貧困を感じていた。
<政経塾設立への5つの理念>
1、「百花繚乱の社会」を実現する政治をおこなうべきであるというものである。
2、「人間重視の社会」を実現する政治をすべきだということである。
3、「政治の生産性の高い社会」の実現を考え求めていた。
4、「道義道徳の高い社会」を実現する政治である。
5、最後に一つだけ加えれば「志の社会」の実現ということになるだろう。
<採用基準は運と愛嬌>
<研修の基本方針>
1、「自修自得」
2、「切磋琢磨」
3、「万差億別」
4、「徳知体の三位一体研修」
・政治がしっかりしなければ、国民は路頭に迷いかねない。国民の生活を支え、国民の幸不幸を左右する政治が今の姿ではとても安心しておれない。
<当面の実現10目標>
・新党の組織、党則を構築する一方、活動方針として「当面の実現10目標」を掲げた。
1、所得税一律5割減税の実施
2、建設国債の発行
3、無税国家、収益分配国家の実現
4、新国土創成事業
5、政治の生産性の向上
6、日本的民主主義の確立
7、多様な人間教育の実施
8、政治家及び官吏の優遇
9、生きがいを高める社会の実現
10、国際社会への真の寄与貢献
『未来を透視する』 ジョー・マクモニーグル
ソフトバンク・クリエイティブ 2006年12月26日
<日本の自然災害>
<2010年、長野で大きな地震が起きる>
・透視結果を見てもうろたえず、注意程度にとらえてほしい。ただし、最悪の事態に備えておいて、何も起こらないことを願おう。こと天災に関しては、透視は間違っているほうがありがたい。
<今後、日本で発生する大地震>
2007年 高槻市 震度6弱
2008年 伊勢崎市 震度6弱
2010年 長野市 震度7
2012年 伊丹市 震度6弱
2018年 東京都 震度6弱
2020年 市川市 震度6弱
2037年 鈴鹿市 震度7
・噴火や地震にともなって海底では地盤の隆起や沈降が起きる。そして、膨大な量の海水が突然動きだし、衝撃波となって陸地の海外線へと進行する。
・遠洋ではあまり目立つ動きではないが、浅瀬に入ると、衝撃波は巨大な津波となって陸地を襲い、都市部などを徹底的に破壊してしまう(波の高さはときには30メートル以上になることもある)。
・内陸へと押し寄せる力がピークに達すると、今度は海に戻り始め、残された街の残骸を一切合財引きずりこんでいく。警告もなしに、突然襲ってくれば被害はとりわけ甚大となる。
・幸い日本には、優良な早期警戒システムがあるのだが、海底地震が発生して警報が発令されてから、津波が押し寄せる時間は、残念ながらどんどん短くなっている。
<日本を襲う津波>
2008年夏 11メートル
2010年晩夏 13メートル
2018年秋 11メートル
2025年夏 17メートル
2038年初夏 15メートル
2067年夏 21メートル
・日本は津波による大きな被害を受けるだろう(なお、波の高さが10メートル以上に及ぶものだけに限定している)。北海道の北部沿岸の都市部は特に津波に弱い。徳島市、和歌山市、浜松市、鈴鹿市、新潟市、石巻市も同様である。このほかにも津波に無防備な小都市は数多くある。
<土地>
・気象変動とともに、日本の土地問題は悪化しはじめる。沿岸部での海面上昇と、暴風雨の際に発生する大波によって、低地の村落と小都市の生活が脅かされるようになる。堤防や防壁といった手段は効力を発揮しないため、2012年から2015年のあたりまでに多くの人が転居を余儀なくされるだろう。
『口語訳 遠野物語』
柳田國男 河出書房出版社 1992年7月
・『遠野物語』は、1916(明治43)年に出版された日本民俗学の誕生を告げる記念碑的な本。
<魂の行方>
・土淵村の助役 北川清という人の家は、字火石(あざひいし)にあります。代々山伏で祖父は正福院といい、学者で著作も多く、村のために尽したんです。
・その清の弟で福二という人は、海岸の田の浜へ、聟に行きましたが、先年(明治29年)の大津波にあい、妻と子どもを失いました。その後は、生き残った二人の子供とともに、元の屋敷あとに小屋を作り、一年ばかりそこにおりました。
・それは夏の初め、月夜の晩のことでした。福二は、便所に起きましたが、便所は遠く離れたところにあり、そこまで行く道は、波の打ち寄せるなぎさです。
・霧の一面に広がる夜でしたが、その霧の中から男女の二人連れが近づいて来ました。見ると女は、たしかに亡くなった自分の妻です。福二は思わず、その跡をつけて、はるばる船越村へ行く岬の、洞穴のあたりまで追いました。
・そこで妻の名を呼びますと、女は、ふり返ってにこっと笑いました。男のほうを見ますと、これも同じ里の者で、津波の難にあって死んだ人です。なんでも自分が聟に入る前、互いに深く心を通わせていたと聞いていた男です。
・「いまは、この人と夫婦になっています」と、女が言うものですから、「子どもはかわいくないのか」と言いますと、女は、少し顔色を変え、泣きだしてしまいました。
・死んだ人と話をしているようには思えず、現実のようで悲しく、情なくなりました。うなだれて足元に目を落としているうちに、その男女は再び足早にそこから立ちのき、小浦へ行く道の山陰をめぐって、見えなくなってしまいました。
・少し追いかけてもみましたが(相手は死んだ人なのに)と気づいてやめました。それでも、夜明けまで、道に立っていろいろと考え、朝になってからやっと小屋に帰りました。福二はその後もしばらくの間、悩み苦しんだということです。
(明治29年の大津波(明治三陸地震))
・明治29年6月15日(旧暦5月5日)夜8時ごろ、岩手県を中心とする三陸沿岸を襲った大津波のことです。波高は、38.2メートルを記録し、溺死者は2万2千人といわれ、最大級の津波でした。とくに、大槌町では、日清戦争の凱旋記念花火大会が行われていて、一瞬のうちに全滅という惨状だったといいます。
<山田の蜃気楼>
・海岸の山田では、毎年蜃気楼が見えます。いつも外国の景色だということです。それは、見たこともない都会のようです。道路をりっぱな馬車がひっきりなしに通り、人の往来もびっくりするほど多いそうです。家の形など毎年少しも違いがないということです。
『日本妖怪大事典』
画◎水木しげる 編者◎村上健司 角川書店 2005/7/20
<犬神(いぬがみ)>
・中国、四国、九州の農村地帯でいう憑き物。中国地方では犬外道、九州、沖縄ではインガメというように、名前や性質は地方ごとでさまざまに伝えられている。
犬神には人の身体に突然憑く場合と、代々家系に憑く犬神持ちとがあり、狐憑きとほぼ同じような特徴が語られる。
犬神に憑かれると、さまざまな病気となり、発作を起こして犬の真似をするなどという。これは医者では治らず、呪術者に頼んで犬神を落としてもらう。
・犬神持ち、筋とは、犬神がついた家系のことをいう。愛媛県では、犬神持ちの家には常に家族の人数と同じ数の犬神がいるとし、家族が増えれば犬神の数も増えると思われている。
・愛媛県周桑郡での犬神は鼠のようなもので、犬神筋の家族にはその姿が見えるが、他人にはまったく見えないという。
<オサキ>
・埼玉県、東京都奥多摩、群馬県、栃木県、茨城県、新潟県、長野県などでいう憑き物。漢字ではお先、尾裂きなどと表記され、オーサキ、オサキ狐ともいう。
憑かれた者は、発熱、異常な興奮状態、精神の異常、大食、おかしな行動をとるといった、いわゆる狐憑きと同じような状態になる。
また、個人ではなく家に憑く場合もあり、この場合はオサキ持ち、オサキ屋、オサキ使いなどとよばれる。オサキが憑いた家は次第に裕福になるが、その反面、周囲の家には迷惑がかかるという。オサキ持ちの者が他家の物を欲しがったり、憎悪の念を抱いたりすると、オサキがそれを感じ取って物を奪ってきたり、憎く思っていた相手を病気にしたりすると信じられていたからである。
オサキの家から嫁をもらうと、迎え入れた家もオサキ持ちになるというので、婚姻関係ではしばしば社会的緊張を生んだ。
<おさん狐>
・主に西日本でいう化け狐。とくに中国地方に多く伝わり、美しい女に化けて男を誑かす。鳥取県では、八上郡小河内(八頭郡河原町)から神馬に行く途中にガラガラという場所があり、そこにおさん狐が棲んでいたという。
与惣平という農民が美女に化けたおさん狐を火で炙って正体を暴き、二度と悪さをせずにここから去ることを条件に逃がしてやった。
数年後、小河内の者がお伊勢参りをしたとき、伊賀山中で出会った一人の娘が、「与惣平はまだ生きているか」と尋ねるので、生きていると答えたところ、その娘は「やれ、恐ろしや」といって逃げていったという。
広島市中区江波のおさん狐は、皿山公園のあたりに棲んでいて、海路で京参りをしたり、伏見に位をもらいに行ったりと、風格のある狐だったという。おさん狐の子孫といわれる狐が、終戦頃まで町の人たちから食べ物をもらっていたそうで、現在は江波東2丁目の丸子山不動院で小さな祠に祀られている。
大阪府北河内郡門真村(門真市)では、お三狐として、野川の石橋の下に棲んでいるものとしている。「お三門真の昼狐」ともよばれることがある。昼狐とは昼間に化ける狐で、執念深く、人を騙すものだという。
<狐憑き>
・全国各地でいう憑き物。いわゆる一般的な狐の他、オサキ、管狐、人狐、野狐、野千といったものも狐と称され、それらの霊が人間に取り巻くことをいう。
大別すると、1、個人に憑くもの、2、家に憑くもの、3、祈祷師などが宣託を行うために、自分あるいは依代に憑かせるものの3つに分けられる。
1は狐の霊が何の予告もなく、あるいは狐に悪戯した場合に取り憑くもので、原因不明の病気、精神の異常、異常な行動をとるなど、個人や周辺に多大な迷惑をかけるやっかいなものとされた。
2に挙げた、家に憑く狐は、家に代々受け継がれるもので、管狐、オサキ、人狐というのはこれである。繁栄をもたらす反面、粗末に扱うと祟りを及ぼし、家を滅ぼしてしまう。他家から狐が物を盗んできたり、家の者が憎く思う相手に憑いて病気にしたりするので、周辺から敬遠されてしまう。また、嫁ぎ先にも狐がついて行くと信じられたので、婚姻が忌避されるなどの差別を受けた。
3は稲荷下しなどといって、祈祷師たちが狐の霊による宣託を行ったものである。
<座敷わらし>
・岩手県を中心とした東北地方でいわれる妖怪。名前が示す通り、家の中にいる子供の妖怪で、3歳くらいから11歳、12歳くらいの男の子または女の子で、髪形はオカッパとされることが多い。
・座敷わらしにも階級のようなものがあるそうで、上位のチャーピラコは色が白く綺麗だとされ、階級の低いノタバリコや臼搗きわらしといったものは、内土間から這い出て座敷を這いまわったり、臼を搗くような音をたてたりと、なんとなく気味が悪いそうである。
・座敷わらしというよび方は東北地方でのことだが、この仲間というものはほぼ全国的に分布している。北は北海道のアイヌカイセイ、南は沖縄のアカガンターと、多少の性質の違いはあるが、家内での悪戯、例えば枕を返すとか、金縛りにするなどといったことが共通して語られ、家の衰運などにも関わることもある。韓国の済州島に伝わるトチェビなども、座敷わらしに似た性質を有しているという。
<寒戸の婆(さむとのばば)>
・『遠野物語』にある山姥の類。岩手県上閉伊郡松崎村の寒戸にいた娘が、ある日、梨の木の下に草履を脱ぎ捨てたまま行方不明になった。
それから30年後、親戚が集まっているところへ、すっかり年老いた娘が帰ってきた。老婆となった娘は、皆に会いたくて帰ってきたが、また山に帰らねばといって、再び去ってしまった。その日は風が激しい日だったので、それ以来、遠野の人々は、風が強く吹く日には「寒戸の婆が帰ってきた日だな」などといったという。
『遠野物語』は柳田国男が遠野の佐々木喜善より聞いた話をまとめたものだが、遠野には寒戸という土地はなく、これを登戸の間違いではないかとされている。語り部役を務めた佐々木喜善は『東奥異聞』に登戸の茂助婆の話として記している。
<オマク>
・岩手県遠野でいう怪異。生者や死者の思いが凝縮した結果、出て歩く姿が、幻になって人の目に見えることをいうもので、「遠野物語拾遺」には多数の類話が見える。
『日本の幽霊』
池田彌三郎 中公文庫 1974/8/10
<憑きものの話>
・「憑きもの」に関する俗信は、もちろん社会心理現象であって、今日の社会においては実害のともなう迷信である。四国を中心にした「犬神持ち」の俗信や、山陰地方に多い「狐持ち」の俗信などは、今日においてもなお実害のともなっている、はなはだしい例である。
昭和28年11月に公刊された『つきもの持ち迷信の歴史的考察――狐持ちの家に生まれて――』という書物は、島根県大原郡賀茂町神原出身の速水保孝氏の著書である。著者自身狐持ちの家に生まれ、自身の結婚
にあたってもそれによる障害を体験され、迷信打破の為にその講演に歩くと、狐持ちなどの憑きものを落とすことをもって職業としている「祈祷師」らから、生活権の侵害だと脅迫がましい投書が来たり、と言った貴重な経験を通じて、これに学問的なメスを入れておられる。東京のような都会に育っている者には思いもよらない生活経験が語られているが、その書物の、
私は狐持ちの家の子であります。だからこの本をどうしても書かずにはおられません。
という書き出しの文句なども、都会にいるわれわれの受け取る受け取り方では、ともすれば、こう書き出した著者の勇気を、感じとらずに読みすごしそうである。それほど「憑きもの」信仰などはわれわれ都会育ちのものには遠い昔の話になっている。だが、現にこの迷信は、島根県下において、末期の症状ながらも生きていて、その撲滅運動が度々繰り返されている、当事者にとっては真剣な問題である。
・しかし、他の様々な迷信の打破と同じように、それは結局、教育の普及にまつ以外に、根本的解決策はまずなかろう。そして、この速水氏の本の序に、柳田国男先生がよせられた序文にあるように、
教育者たるべきものは、俗信を頭から否定することなく、それに関する正確な知識を与えてやらねばならない。結局事実を提示して、各自に判断させてゆくというより他に方法は無いのではなかろうか。
・その一つの方法としては、こういう問題を大胆に話題にして、そこに正しい判断と批判力を養うことの必要を先生は説いておられる。幽霊も妖怪も、むしろわれわれが大急ぎで話を集めておかないと、もうほとんど出て来てくれそうもなくなったのに、「家に憑く怨霊」の庶子のような「憑きもの」だけが、まだ生き残って人間を苦しめているなどというのは、まことに残念であり、学者の怠慢だと指摘されても致し方ない。
・犬神というのは憑きものの中でも有名なものの一つで、四国がことにその俗信の盛んな土地である。――四国には「狐」という動物そのものがいないと言われている――しかし中国にも九州にもないことはない。四国で一般的に言われているのは、鼠ぐらいの大きさの小さい動物であるというのだが、近世の書物、たとえば『伽婢子』などでは、米粒ぐらいの大きさの犬だという。だから、近世の随筆家などになると、早く興味本位になり、一そう空想化していたということになる。
・犬神持ちがいやがられるのは、この犬神を駆使して、他人に迷惑をかけるからである。犬神持ちの人がある人を憎いと思うと、たちまちに犬神が出かけて行って、その相手にとりついて、その人を苦しめたりする。だからこういう点、平安朝の怨霊などのように、生霊死霊が自身で現われて人を苦しめるのに比べると、動物が人間並みの感情を持っていてとり憑いたり、あるいはさらに、そういう動物を人間が使役したり駆使したりして、人に損害を与えるなどということ自体、怨霊から言っても末流的であり、そこにこういう憑きものなどを一笑し去るべき要点がはっきり露出しているように思う。
・東京の銀座の真ン中に育った私にも、たった一つだけ、狐憑きの話を身近に聞いた経験がある。幼稚園の時から一緒で仲よくしていたTという友人の母親が急死した。私の小学校5年の時だから、大正14年のことだが、私は受け持ちの先生と、組の代表で告別式に行った。数日たって学校に出て来たTは、僕のお母さんは狐憑きに殺されたんだ、だけどこれは誰にも言わないでくれよ、と言った。
・Tの父親の親戚の女の人に狐がついて、Tの叔母をとり殺した。そのお葬式の時、狐憑きなんかあるわけはないとTの父親が言ったら、その親戚の女についている狐が、うそかほんとか、今度はお前の細君を殺してやると言った。Tの父親は「殺すなら殺してみろ」と言った。そうしたら、ほんとに僕のお母さんは死んじゃったんだ。あの時「殺すなら殺して見みろ」なんて言わなければよかったんだ。Tはこんな話をした。
・何しろ二人ともまだ子どもの時で、その上今から三十数年も昔のことで、ほかのことは知らない。Tの母親のお葬式の時にも、ケロリとして、その狐のついた親戚の女は手伝いに来ていたと、Tがにくにくしそうに言ったのを今でも覚えている。大正14年と言えば、前々年に関東の大震災があって、銀座はすっかり焼け野原となったのだが、そのあとしばらくのバラックずまいの町の中で、こんな生活の経験のあったことを、今ふと思い出したのである。
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