死者の国、鬼の国、創造神の国、それとは別に天津神というが、じっさいには特別な霊能もあるかどうかわからない神々が住んでいるところがあるのである。天津神には別天津神がいて、さらに国津神がいる。(1)

(2022/2/6)

『世界異界神話』

篠田知和基  八坂書房 2021/12/13

<異界の神話>

・神話は神々の物語であるといっても、人間界を隔絶した天上界の物語ではなく、神々と人間たちとの間につむがれるさまざまな葛藤を物語るのである。むしろ神々ならぬ人間が異界を訪れて、追い返されたりする物語である。

<異界と他界>

・「異界」とは「もう一つの世界」であり、他界すなわち死者の世界ではないとするのである。また、他界を動詞として使えば死ぬことである。ほかに魔界という概念もあろう。

・地獄の門をくぐったら生きて戻る希望はない。地獄は冥界・冥府にふくまれる。冥界は地獄だけではなく、死者の至福の園、エリュシオンもふくんでいる。

・村境から異界がはじまる。しかし他界はもっと先である。祖霊が集まるところを山中他界ともいう。しかし、天狗や山人のすむ領域であれば、他界ではなく、異界である。距離と到達困難性からいえば、竜宮は他界とみなされるが、他界を死者あるいは祖霊のすむところとすると、竜宮には死の影が希薄である。ここでは竜宮も異界とする。

<神々の世界>

・神話は神々の世界の物語である。神々は天界、あるいはオリュンポスに住んでいる。その神々が地上に降りてきて、人間たちと葛藤を演ずる場合もある。しかし神々はめったに地下の世界へは行かない。地下は死者の世界である。オリュンポスの神々もそこでは力をふるえない。神話は天上、地上、地下の三世界のうち上半分で経過する。地下へはオルペウスのように少しばかり足を踏み込むものもいるが、そのままそこにとどめられはしないかと恐れて、早々に逃げだす。それにそれは地下といってもいわゆる地獄ではなく、その入り口でしかない。地下の深層には二度と帰ってこれない地獄があるのである。

神話世界では天上、地上、地下の三世界だけがあるのではなく、天上、地上と、地下の入り口があり、その下に地獄が場合によると七層、九層とつづいている。そこを描いたのはダンテで、神話はそこまでいかなかった。天上というのも実はギリシャでオリュンポスの山上で。その上のはるかな天の高みに神々はおもむかなかった。天の高みは神々のすまいではなかった。天空の神ウラノスは天の高みに駆逐され、地上の事象に介入できなくなるのである。ただし各国の神話によっては星界の消息を語るものもある。

・地上にも異界はある。地の果て、あるいは海彼(かいひ)、幽邃(ゆうすい)な奥山のきわみである。都があって、村がある。そのかなたに異界があった。他界はさらにそのむこうであり、そこは足を踏みこんだら二度と戻ってこれないところである。

 異界はこの世とあの世の境である。しかし、それは玄関口といった狭い範囲であるとばかりはかぎらない。アナザーワールドはこの世と並行して存在するパラレルワールドで、そことこの世とを往復するものもいた。夢の世界、あるいは狂人の世界であれば、そこにも山もあれば川もある。天上でも山や川があるのは日本神話の高天原で、川のほとりでは水田をつくって農耕にはげんだりしている。日本では高天原の神々の世界とは別なものとして、常世を考える。高天原でも「別高天原」があり、天地創造のときにあらわれて姿をかくしたアメノミナカヌシらが住んでいる世界があるのである。神話世界は天上、地上、地下の三つだけでなく、それぞれ、そのもっと向こうに「別」な世界があるのである。日本では常世があり、黄泉の国があり、根の国がある。天も地下も二層・三層で、地上でも山上他界があったりする。鬼が棲む領域である。死者の国、鬼の国、創造神の国、それとは別に「天津神」というが、じっさいには特別な霊能もあるかどうかわからない神々が住んでいるところがあるのである。「天津神」には「別天津神」がいて、さらに「国津神」がいる。地上でも王権の届くところと、化外の地、蝦夷や異人の国があるのである。天上と地上と地下といった単純な三層世界ではない。天上と地上と地下といった単純な三層世界ではない。それぞれにアナザーワールドがある。

<異界の時間>

・地上世界の二重構造では森や山や洞穴が異界を構成する。『黄金伝説』周辺の「修道士の300年の散歩」は修道院に隣接した森のなかで進行する。一羽の鳥の声に聞きほれていて、300年が経つのだ。

・そのような森ではなくとも異界では日常世界とはちがう時間が流れている。地上的時間を地球が太陽の周りをまわる時間を1年としてそれを365で割ったものが1日で、それを24で割ったものが1時間とするなら、別の惑星へいけば、たとえば水星では、星の公転は地球の何分の一でしかない(88日)。海王星であれば、地球の公転の百何十倍かの時間をかけて太陽の周りをまわっている(165年)。そこでの1年は地球の百数十年に相当するのである。

・異界への旅はウサギ穴、ネズミ穴からの墜落のように瞬時におこなわれることもあれば、舟に乗る、砂漠を超える、空を飛ぶなど、さまざまな方法で地の果てまでゆく場合もある。夢の世界へはたいてい深い井戸に落ちこんでゆくような墜落の感覚を経て、広々とした野原にでる解放感をあじわうトンネルと花野のプロセスを経る。臨死体験でもそれはほぼ同じである。しかしもちろん、個人によって、風土によって、条件によって、その旅の様相はさまざまである。

<異界への旅>

<英雄たちの物語>

<ヘラクレスの冒険>

・ギリシャではゼウス、ハデス、ポセイドンの三兄弟がそれぞれ天と冥界と海を分治した。そのなかではポセイドンの海神宮への訪問譚があってもいいところだが、日本の浦島や山幸の海神宮訪問に相当するような物語は知られていない。それにたいして、冥界を訪れたのはオルペウスであり、ヘラクレスである。いずれも冥界の入り口まで行って戻ってきた。ほかでは、伝令神のヘルメスやディオニュソスが冥界とオリュンポスを往復しているが、彼らには冥界へ自由に行ける特権があったようで、その他の神々はハデスの王国へ行って自由に戻ってくることはできなかったようである。そのなかではハデスの妃となったペルセポネは例外だったかもしれない。

<メソポタミアの神話>

・メソポタミアではイナンナ(イシュタール)の地獄下りとギルガメシュの不死の草の探索が異界での冒険に相当する。イナンナがなぜ地底へ下ったかははっきりしていないが、ギルガメシュの場合は明らかである。彼は友のエンキドゥを死から取り戻そうとして不死をもとめたのである。

<北欧神話のヘル>

・世界の終末の戦争ラグナロクのときは、このヴァルハラというのは戦場で死んだ戦士を迎え入れて、蘇生させる場所なのである。事実、ここでは、戦士たちが、毎日二手に別れて戦い合うが、倒れたものは翌日になれば生き返ってまた戦い合うのである。

 ヘルのほうはそうはいかず、ふつうに死んだものが落とされる死の領域だが、ラグナロクにみるように、最後の戦いではヘルの住人たちがみなそろって立ち上がって神々に戦いを挑む。また、善神バルデルが死んだとき、ヘルは、世界中のものが涙を流すなら、バルデルを蘇生させようという。これはロキの悪だくみで失敗するのだが、条件が合えば、死者も地上へ戻されるのである。ロキはヘルへ自由に往来したようである。そもそもヘルの女王で同名のヘルは彼の娘なのである。それでも最後には神々に捕縛されて、ヘルの大岩にしばりつけられ、毒蛇のたらす毒液をたえずかけられて苦しまなければならなかった。

・ユグヂラシルから派生した別の世界に巨人たちの国のひとつにウトガルドがある。ある時トールとロキは巨人たちと力比べにでかけた。二人はヤギの引く力に乗ってでかけた。

・結局、アスガルドの神々はウトガルドの巨人たちに翻弄されて、赤恥をかいて退散する。彼らにとってそれは散々な異界体験だった。

<日本神話の異界>

・日本神話ではまず山幸が訪れた海神の宮がある。メナシカツマという竹かごに乗って沈んでゆくのなら海底の竜宮であろうが、浦島譚のテクストによっては舟でこいでゆくところで、蓬莱と書いて「とこよ」と読ませている。どちらにしても金銀のサンゴの綺羅をきわめた宮殿で、山幸はひたすら歓待される。そしてトヨタメヒメを娶る。竜宮は高麗の始祖の作帝健も訪れ、竜女をもらってくる。わが国では俵藤太も竜宮へ招かれて、無尽蔵の米俵などの宝物をもらってくる。

・ビルマのクン・アイ神話だと、湖のほとりで出会って恋に落ちた竜女と牧童は、竜宮で夢のような生活をしていたのち、周りが竜ばかりであるのを知って怖気をふるった牧童が地上へ戻りたいと言ったときにその関係は終わりを告げ、牧童は地上へ帰り、竜女は子を産みに湖岸に一度だけ戻ってきて卵を産んでいったあとは、交渉はとだえるのである。ただ、その卵から生まれた子供がのちに王位を巡って争ったときに湖のほとりにやってきて、母竜に助力を求めはしたが、これも一回かぎりだろう。竜の国は異界であって、人間が何度も往復するところではないのである。

・日本神話で死の国に接している異界は根の国、あるいは根の堅洲国である。ひとによってはこれを黄泉の国の別名とすることもあるが、その説はとれない。テクストを読んでわかるとおり、この両者は別である。スサノオが妣の国に行きたいといって根の国に行ったので、根の国とはイザナミがいる黄泉の国のことだろうというのだが、黄泉と根の国ははっきり異なった別の国である。

・根の国は黄泉の国で浄化された死者がおもむくところである。その意味では根の国と黄泉の国はつづいているといってもよく、同じ神に支配されている可能性もあるが、根の国は清められた死者たちの国である。

 しかしだからといって、そこが楽しいところだというわけではない。山幸が竜宮で歓待されたような様子は大国主が訪れた根の国ではみられない。歓待のかわりに蛇の室、蜂の室などにいれられて厳しい試練を課される。根の国は試練の場なのだ。

 そこへいったスサノオでもオオナムチでも、けっして喜んでいったわけではない。

・根の国はネズミの国で、それが唯一の動物性食品だったかもしれない。めずらしい客人をもてなそうにもネズミしか供するものがなかったとすれば、そこでの滞在が楽しいものではなかったとすれば、そこでの滞在が楽しいものでなかったのも当然だろうが、その貧しさはスサノオがまず耐えている貧しさだった。そこには食膳をそろえる女性の姿もなかった。唯一の女性は娘のスセリ姫だけである。オオナムチはそのスセリ姫とともに根の国を逃げだした。あとにはスサノオだけが残った。ただ一人の娘にも去られて本当のたったひとりだった。

・オオナムチの場合は木の国の大屋彦のところから根の国へ行っている。イザナギの場合もイザナミをほうむった墓所から黄泉の国へはいっていったのだろう。入り口と出口はちがうのである。

・イザナミの墓としては熊野の花の岩屋も墓であるという。根の国が熊野にあるという解釈もあり、花の岩屋で祀っていたイザナミは黄泉の国でイザナキが見かけた腐りただれた姿ではなかったと思われる。そしてこのあと、イザナミが祖霊となった場合には、常世に住んでいたはずで、それは黄泉の国でもなければ、根の国でもなかった。出口入り口が違う以上にこの大母神のすまいもいたるところにあったのである。いたるところにいるというのが冥界の大母神の特性なのである。

<中国の浦島>

・その一は山で迷った木こりの話であり、その二はやはり山で迷った薬草とりの話である。仙境で、美味佳肴のもてなしをうけたが、家へ帰りたくなる。すると、「浮世の罪障が尽きていないから無理もない」といわれて、帰り道を教わる。家はなくなっていて、出発してから七代が経っていた。

その三は山の中で、仙人たちが碁をうつのを見ているうちに斧の柄がくさっていたという有名な話だ。

その四は、市場で薬を売る不思議な老人が壺の中にはいりこむのを見た男が老人にさそわれるままに同じ壺のなかにはいりこんだ話で、壺の中には大きな館があった。

・留守にしていたのは10年あまりである。

その五は船に乗って、嵐に遭い、知らない島にたどりついた男の話で、そこの住人たちが丈夫な船をつくってくれて、それで帰国した。この時は200年が経っていた。

その六は、畑を荒らしている猪を討って血のあとをたどって穴のなかにはいりこんだ話。そこには隠れ里があった。男はそこに12年いた。

その七は井戸を掘っているうちに別世界に出た話。そこは「下界の仙人国」だった。番人があちこち見物させてくれたが、しばらくするともういいだろうといって、帰してくれた。気がつくとある山の頂の洞穴にいた。このとき三、四代のちの時代になっていた。

<辺境の異界>

<ロシアの森>

・ロシアの森には森の主レーシーがいる。森の動物たちを支配している。変幻自在の精霊で人を迷わせ、人をさらってゆく。彼には風の又三郎のような性格もあり、木々の間を疾風となって荒れ狂う。猟師や牛飼い、羊飼いはレーシーと関わることが多い。牛や馬がいなくなってしまうこともある。もちろんロシアの森にはバーバ・ヤガーもいる。魔法に通じた妖婆である。森の中湖にはルサールカもいる。これは美しい妖精だが、水の悪霊ではヴォジャノイがいる。ロシアの異界としての森にはこのような魑魅魍魎がうごめいている。

 ロシアではまた、家付きの霊ドモヴォイがいるが、これは屋根裏や床下の目につかないところにすんでいる。ペチカの裏にいるともいうが、「地下室と屋根裏は、いわば家の中の異界である」。住居のなかで、人間の居住部分と切り離して二つの「異界」が霊たちのすまいとして選ばれるのはロシアだけではない。

 イギリスでは「屋根裏の狂女」という観念があった。また床下、あるいは地下室に「床下の小人」といった家付きの霊がすんでいる。

<ベネズエラの異界>

・ベネズエラの民話に「ふたつの世界で暮らした男」がある。ふつうの異界で3時間あるいは3日くらして、この世に戻ってくると300年が経っているが、この話では川を渡って、見知らぬ街に行った男が孫ができるまで何十年か暮らして故郷へ帰ってきてみると、つい昨日でかけていったままだった。

<アメリカ先住民の異界>

・アメリカ先住民の世界では、死んだ妻をさがしに冥界へ行く話がよく語られる。『無文字民族の神話』では、ある男が妻の死を嘆き、自分の性を犠牲にして死者の国に行って試練をうける。そして試練に打ち克った結果、妻はよみがえり、自分自身も再生の権利をうるのである。

<影の国への旅>

・アラスカのタナイナ族の伝承である。

・彼女が引き込まれてそこから出てきた影の国は純然たる死者の国ではなかった。まだ死ぬ定めになっていないものは、そこへ引き込まれてもこの世に送り返されるのだ。

<月に行ったシャーマン>

・エスキモーの「月に連れ去られる」という話は、夜中に氷原の上で月を見ていたシャーマンが、月に連れられて、月へ行った話だ。そこでは月を「死者の国」といっている。

・異郷へゆくのにエスキモーでは犬ぞりに乗る。カナダの森林地帯では空飛ぶカヌーに乗る。空を飛んでゆくからといって、異郷がつねに月のように空中にあるとはかぎらない。西の空の果ては地下の地獄であることもあろう。亡霊の馬車でも、あるいは「七里馬」でもひと飛びに千里をゆく。異郷への旅は何日もかけた苦難に満ちたものであることもあるが、竜宮への旅のように目をつぶっているあいだについてしまうこともある。異界が地上の場合は川を渡ったり、険しい山を越えたりするが、天上の場合、あるいは海のかなたの場合は瞬時についてしまう。

<死の国>

・北アメリカの先住民アルゴンキン族の異界としての死の国は地上にある。妻を亡くした男が南へ南へと歩いてゆくと、だんだんと景色が美しくなり、小さな家があって、老人がいる。その老人が死者の国へゆく方法を教える。異界は川のむこうにある。舟をこいでゆくと先にゆく舟のなかに死んだ妻がいる。ふたりはしばらく幸せにくらしているが、やがて、別れて、男は人間世界に戻らなければならなくなる。

<海底の花嫁>

・ミクロネシアに伝わる民話である。海底の国からきた娘が海岸を歩いていて、男の目にとまった。男はなんとかその海の娘をとらえようとして、ついに成功した。ふたりは結婚し、子供ができた。しかし女は故郷の島へ帰りたがった。そこであるとき、親子で海底の国へゆくことになった。サンゴ礁の上はそのまま波の上を歩いた。サンゴ礁をはずれると呪文をとなえて海中に沈んだ。海底には島があって、そこに親の両親が住んでいた。両親は彼にカヌーをつくってくれて、それで、彼は故郷に帰ることができた。

<星の国>

・人間が異界を訪れる話では竜宮へ行った話、死者の国を訪れた話などのほかに、星の世界へ行った話がアメリカ先住民や、メラネシアなどで好んで語られている。この地方では星の世界を天国といっている。

<危険な異界行>

・オデュッセウスの島めぐりは危難にみちている。それに対して日本の竜宮訪問譚は往復ともあっというまに経過する。甲賀三郎の地下遍歴は苦難にはみちているが、生命の危険はなかった。

<竜宮譚>

・日本などの竜宮譚では、目をつむっているあいだに、海底の華麗な竜宮殿につく。そこはたいてい、海中ではなく海岸で、地上と同じような、しかし豪華絢爛たる竜宮が建っている。そこへ行った男は美味佳肴のもてなしをうける。海中のみならず異界には富があるという観念があるのである。ヨーロッパでは、山中の洞穴の底に壮麗な宮殿が建っている。地底の観念と海底の観念はつうじあう。そこから地上、あるいは海岸に遊びにでてきた女が地上のものにとらえられる話としては、異界の女が亀、蛇、蛤などに変身していたということが多い。地上の妖精では白鳥である。ミクロネシアではそのような変身は語られない。アイルランド、スコットランドでは、アザラシたちが陸に上がって、皮を脱いで、踊っている。

<三つの死の国>

・中央アメリカに伝わる三つの死の国。ひとつは太陽の国で、戦死者がゆく、二つ目は火葬ではなく土葬にされたものがゆく雨の神トラロックの国で、みどりゆたかな豊穣の地である。三つ目、これが一般の死の国で、病死者がゆくところだ。

<ヨーロッパの異界>

<水晶の城>

・フランスのブルターニュ地方に伝わる話である。イヴォンヌはとある若者と出会って、求婚され、即座に承知する。豪華な婚礼のあと、すぐに若者はイヴォンヌをつれてゆく。その後、彼女の音沙汰はない。ただ、立ち去る前に、黒海の対岸の水晶の城でとだけ告げていた。末の兄のイーヴォンが妹に会いにでかける。道は茨が生い茂ったり、蛇がむらがっているような危険な道だったが、イーヴォンはそれを乗り超えてゆく。水晶の城ではだれも何も食べない、妹も寝てばかりいる。彼はそこに7日とどまって一度は妹の夫の旅についてゆくが、途中だれにも話しかけてもいけないし、なににも触れてもいけないという禁止にそむいて、300年のあいだ互いに争っている二人の人間をへだててしまった。この人間たちはもちろん300年前に死んだ亡者なのである。それで、生前のおこないのために肥えたり、やせたりしているのだ。妹の夫は死者たちの世界の王だった。

・イーヴォンは故郷へ帰ってほどなく死んで水晶の城へ戻る。そこで眠っているイヴォンヌは死んではいない。夫も死の世界を統括する王子だが、地上へあらわれるときは若い王子としてあらわれる。彼も死んではいない。死に神でもない。イーヴォンが王子とともに、経めぐった世界は死者たちの世界だったが、生きているあいだは、死者たちと話したり触れたりすることはできないのである。異界から地上へやってくるものは生きている人間と同じように話をし、行動する。水晶の城でも、王子は死者ではなく、死の世界を巡視する役目をもった生者である。しかしそのまわりは死の領域である。これは日本の異界の代表である根の国と竜宮についてもあてはまることだろう。

<スコットランドの歌人トーマスの話>

・歌人トーマスがある夜、川べりを歩いていると、仙女の国にまねいた。仙女の国は川を渡ったむこうにはてしなく広がる砂漠を超えて、茨やヒースが生えた道と、ユリの草原を通っている広い道と、山腹を回って西へ行く道が別れるところへついた。茨の道は天国へ行く道で、ユリの道は地獄へゆく道、山腹を回る道は仙女の国へ行く道である。道はなおも続いたが、ついに光があらわれた。美しい国である。そこで彼は7年すごした。

<ジプシーの死人の国>

・ジプシーの伝承として「死人の国」ががる。死人の国といっても「本当の死人の国ではないかもしらんが、国境は通り過ぎた」というとおり、死んだ人々が供養が足りないために死にきれずに幽霊になって出てくる世界である。山をのぼっていった洞穴の奥にはそれはひらけている。

<ネズミの穴>

・「黄金のベテリと松やにバビー」は、日本の「ネズミ浄土」と同じような話である。ベテリがあるとき糸つむぎをしていると、はずみ車がおっこちて、転がって、ネズミの穴にはいってしまった。ベテリはそれを追って穴にはいろうとすると、「穴がぐっと広がった」。そこは「地下の、全然別な世界」だった。そして行く手には豪華な城がきらきらと光っていた。そこで妖精の子供たちがベテリをでむかえて歓迎してくれる。帰りには高価な飾りものと、黄金のはずみ車をもらう。

 日本のネズミ浄土では、団子を追いかけていってネズミの穴にはいりこみ、金ずくめの世界に目がくらむ思いをする。

<一夜の夢>

・同じ本の中のスイスの話で、「あの世で過ごした一夜」という話がある。ふつうの「異界」は地下で、地獄ではなくともそれに接したところで、そこにいるのは妖精である。しかし、この話では、死んだ友人を結婚式にまねいたあと、墓場までその死者を送っていって、死後の世界を見せてもらうことになる。ふたりは黄金の門をとおって楽園にはいってゆく。そこでは、天使たちが音楽を奏で、聖者たちが踊りを踊っている。庭園では、木々は木の葉のかわりに色とりどりの鳥を枝にとまらせている。空には美しい星がきらめいている。しかしそのうちふと気がついて、ここへ来てからどれくらい経ったのだろう、もう帰らなければと思った。しかし、地上へ帰ってみるとそこには見も知らぬ土地で、教会の司祭は、300年前に結婚式の途中で抜け出して墓場へ姿を消した人がいたことを記した古びたノートを見せてくれた。あの世での一夜はこの世の300年にあたるのである。

<不老不死の国>

・ルーマニアの民話に「不老不死の国」がある。不老不死をもとめる王子が馬に乗って旅にでる。

・そこもスコルピアという妖怪の国である。妖怪の国から妖怪の国へ、まるで『西遊記』の旅のようである。王子は翼のはえた馬に乗ってその危険な領域を飛び越え、光り輝く宮殿について、美しい妖精の出迎えをうける。そこが不老不死の国だった。王子は妖精と結婚して、何不自由のない日々を送って、知らないうちの長い長い歳月をすごした。しかしそこは不老不死の国である。その間、故郷の村では数百年の年月が経っていた。王子は妖精がとめるのをふりきって、故郷の村に戻ったとたんに永遠の若さはとびさり、まがった腰までまっ白なひげがたれた老翁となってまもなくくずおれて死ぬ。

<異界としての山と海(竜宮)>

・「異界をつむぎだした想像力」と小松和彦は言う。つまり想像力のゆたかな民族に異界の話が多く語られるというのであろう。山中にも竜宮はあるが、川をさかのぼった果ての、たとえば、滝つぼのむこうの桃源郷だったりする。村人たちの想像力は山中にも海中にも桃源郷を築くのである。その場合そこが海から遠いところかどうかといったことはあまり関係がない。山中に竜宮を想像する場合も川の源流のあたりだったり、滝つぼの向こうだったりするし、山の中の谷川の底にも竜宮は想像される。

<イタリアの異界>

・増山暁子の『イタリア異界物語』には、ヨーロッパ各地に伝わるフォークロアの異界がいくつか紹介されている。そのなかのひとつは鉱山の物語だ。ドイツや北欧では鉱山に働いているのは小人だが、イタリアではとくに小人とはいわれていないようである。しかし、鉱山の中には乙女をデリバーナ(人身御供)に捧げ、7年閉じこめておくという。7年経ってもまだ生きていれば、恋人がおりていって救出することができるとされているが、救われた乙女はいないようだ。

<妖精の国を訪れた女>

・スコットランドに「冥府を訪れた女の話」がある。実際には冥府ではなく妖精の国を訪れた女の話だ。女は半年にわたって妖精の子供を預かって育ててやった。そのお礼に妖精の国へ案内されたのである。妖精の国は日のあたる緑の丘の中腹にあった。妖精が呪文をとなえると芝生が上がって中へ入れるのだった。それは美の国で、木々がくまどっている緑の丘、日光に輝いている水晶のような流れ、磨きたての銀のように光っている湖水が点在する風景が開けていた。しかしそこにはまた、人々が苦し気に働いている麦畑もあった。妖精は、それは生前のおこないを償っている罪びとだといった。妖精の国が死者の国につうじているのだ。

<異郷譚>

・日本では諏訪本地、甲賀三郎譚だ。甲賀三郎は地下の諸国を経めぐる。草底国、雪降国、維曼国などという国もある。甲賀三郎譚にあって、ほかにないモチーフは蛇への変身のモチーフだ。地下をめぐっているあいだに蛇体になっていたのだ。それが諏訪明神の神徳で、蛇体を脱することができる。

<神隠し>

・『ユダヤの民話』にも神隠しとみられる事例が紹介されている。「仕立て屋と悪しきハマンの子孫」で、ユダヤ人の王があるとき神隠しにあう。

・その15分のあいだ、王は10年の試練をうけ、木こりから市長、国王の地位を転々としていたと思っていたが、王宮では王の姿が見えなかったのである。この場合の神隠しは神による試練だった。

<隠れ里>

・地下や海底に別世界があるという想像は、昔話に普遍的なものだが、日本の「鶯の里」のように見てはならない部屋などの禁忌が課されているのが普通である。ヨーロッパでは「金のリンゴ」「金の鳥」のたぐいが、地下の別世界を物語る。黄金のリンゴを取ってゆく怪物をさがして地下へもぐってゆくと、傷をうけてうめいている王女がいる。その王女の傷を治してやって、三人兄弟の末の王子が結婚をする。これも死者の国である。少なくとも地上とは別の論理が支配する別世界である。日本の「鶯の里」では地下ではなかったが、山中の隠れ里で、滝の裏側に開けた桃源郷であることもあるが、死者の国のにおいは日本では希薄である。

<日本・中国の異界>

<甲賀三郎>

・まず甲賀三郎だが、これは関敬吾の『日本昔話大成』では「二人兄弟」となって、鹿児島の話が紹介されている。あるとき殿様の一人娘がどこかへつれていかれた。大騒ぎになるが、山奥に住んでいる二人兄弟が、さがしてこようという。山のなかで怪物がでて、それを鉄砲で撃つと姿が消えたが血のあとがついている。それをたどってゆくと大きな洞穴に出た。弟が下へ降りる。そこをゆくとクモの怪物がいる。それを退治して姫を穴の上にあげる。兄が綱を切って、姫を連れていってしまう。弟は地下の国に3年とどまる。3年後の9月23日の夜、月が舟になって降りてきて、弟を乗せて地上へ送り届ける。親切な老婆が彼を介抱する。元気になって御殿へゆく。そこで身を明かして、姫と結ばれる。「甲賀三郎」では地下の国をめぐるうちに蛇になっている。地下脱出のあと、蛇体を脱するための試練がある。

<さか別当の浄土>

・『日本昔話大成』では「さか別当の浄土」という。新潟の話である。分布は山形、宮城にかぎられる。主人公は魚釣りの好きな男で、屋根の葺き替えをしようというので、村人たちにきてもらう。村人たちは、おまえは魚釣りの名人だから、魚でも釣っていてくれ、そのあいだに屋根も葺き終わるだろうという。そこで川へいって魚釣りをしていると美しい女があらわれて、「さか別当の浄土」へ案内する。しばらく目をつむっていると、立派な御殿につく。美しい女たちがいっぱいいて、ごちそうが出る。踊りもある。毎日夢のようにすごしているうちに、婿になってくれといわれて、承知するとやがて子が産まれ、孫もでき、ひ孫までできる。そのころになって、故郷のことが思い出されて、矢も盾もたまらず帰らせてもらうと、故郷の彼の家では屋根の葺き替えの真っ最中だった。ここでは異界の100年がこの世の1時間ほどなのである。

<天人女房>

・これも日本国中に分布している。発端は白鳥乙女である。白鳥乙女が山の湖へやってきて飛び衣をぬいで、湖で水浴する。そのうちのひとりの飛び衣を隠してその天人を嫁にする。やがて子ができるが、その子がきれいなおべべが天上にあるという。それを探し出して、天人は天にのぼってゆく。男はそれを知って女房を探しにゆく。

<神隠し>

・『遠野物語』に「寒戸の婆」の話がある。「松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘なしの木の下に草履を脱ぎおきたるまま行方をしらずなり。30年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女来たれり。いかにして帰ってきたかと問えば、人々に会いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び後をとどめず行きうせたり。その日は風の激しく吹く日なりき」。この話は佐々木喜善の話では少し様子が変わっているが、どちらが本来の伝承に近いのか、どちらも創作の手が入っているのかわからないが、30年どこかへいっていた女が帰ってきたという点では違いはない。どこへ行っていたかについてはこの女はなにも語らなかったようである。したがってこれを神隠しといっていいのか、たんに山中や異郷に去っていった女の物語とするべきかわからないが、天狗がさらって数日後に戻ってきたという場合には、神隠しに近くなる。女の場合は山人の嫁になっていた可能性が高いだろう。しかし「風の強い日」だったというところは、神秘の介入する余地をうかがわせる。平田篤胤の報告した寅吉などの少年の場合はたしかに神隠しである。

・「天人女房」にしろ「死者の国」にしろ、異界へ行った人の話はあくまで、その人を中心にした話で、地上へ帰ると彼は死んだものとされている。その、地上に残されたものの視点で物語った異界譚が神隠しの話で、だれかいなくなったというので、鉦太鼓で捜しまわる。そして何日も経っても見つからないので、死んだものとして弔いを出す。するとしばらくしてひょっこり帰ってくるが、それまでのことは地上の言葉では何一つ語れない。なにがどうなったかわからないが、おいしいものを食べ、楽しい思いをしていたといっても具体的にどんな建物で、だれがいたのかとなると細目は茫然としてしまう。異界へ行ったものの視点で語れば、竜宮も山のなかの隠れ里でも四季の座敷があったり、美しい娘にかしずかれたりする。その間、地上ではいなくなったものを捜し疲れて、死んだものとして意識から消し去っている。まれに、死者への供え物などが、異界での食べ物になることもあるが、ふつうはこの世の生活とあの世のそれは別な次元に属している。

・神隠し譚では、本人は天狗にさらわれたと思っているが、目をつぶっているあいだに飛んでゆくので、どこを飛んでゆくのかさっぱりわからない。どちらの場合も周りにいたものたちには、なにがなんだかわからない。そこでは神隠しの場合でも異郷の様子を物語っても理解はされないのである。

<鶯の里>

・「鶯の里」は日本全国に分布している。関敬吾の分類では異郷譚とはされていないが、鶯の一文銭をもらってくるという結末の場合を主とすれば、呪宝譚である。が、たいていは開けるなの座敷を開けてしまって、試験に失敗し、異界の屋敷も消え失せる。発端は山中でゆき暮れて、立派な屋敷があるので、宿を請うところから始まる。美しい女が出てきて歓待する。女はしばしば留守をする。そのあいだにここだけは開けてはいけないという座敷があり、その他の部屋は「四方四季」の庭である。12の座敷があって、12か月の庭があることもある。最後の座敷が問題で、これを開けると梅の木が一本立っていて、そこに鶯が一羽とまっている。その鶯が法華経を千部呼んで人間になるところだった。あと少しだったのにおまえが戸を開けたためにいままで読みためた法華経が全部飛んでいってしまったといって、鳥も飛んでいって、屋敷もなくなる。

・この隠れ里での滞在は1年かそれ以上だったはずで、故郷では数年から数十年が経っていても不思議はない。鶯の一文銭型の場合は、1年留守番をしてくれたお礼だといって、一文銭をもらう。それを町へ持っていって見せるとこれは鶯の一文銭といって貴重なものだといわれる。この場合も隠れ里での滞在は1年かそれ以上だったはずである。

・日向の「隠れ国に遊ぶ」では、山に登ると白髪の老人があらわれて、いいところへ連れていってやろうという。ついてゆくと山のいただきに立派な屋敷があって、老人たちが碁を打っている。それを見ていてしばらくして帰ったら三か月が経っていた。

 薩摩にも「高山の隠れ里」という話がある。山中の異界は到る所にあったようだ。それに対して離れ小島が隠れ里だった例は少ない。竜宮の話は報恩譚として、子蛇を助けてやった人が竜宮へ招かれる、山中の異界の場合は報恩譚はない。

<碁打ちの仙境>

・とある山奥で碁の好きなものたちが毎日碁を打っていた。そこへどこからか爺さんがやってきて見ている。どうだ、ひとつ手合わせを願おうかというと爺さんは喜んで碁盤の前に座った。そのうちすっかり常連になって、今度はわしの家へきてもらおうということになって、ずんずん山奥へ分け入っていった。そしてとある滝のところで、この滝のうしろだといって、滝をくぐらせた。その先に行ってみると、見たこともないような不思議な景色で、そこに黒塗りの塀をめぐらせた立派な屋敷があった。それが爺さんの家だったが、みんなはそこに3日逗留して人魚の肉を土産にもらって里へ帰ってきてみると3年が経っていた。人魚の肉はそれを食べた娘がいて、300歳まで生きたという。

<隠れ里>

・岩手の民話の「隠れ里」は山中にある「御殿のような」屋敷で、とくに金が出るというのでもないが、なにひとつ不自由のない暮らしである。そこに1年いると元の家に帰りたくなる。だれにもその隠れ里のことは言わないという約束で家に帰る。家では3年目の法事をしているところだった。そこに集まっていた人々にはどこに行っていたのかについてはいい加減なことを言っていたが、女房にはそれではすまず、隠れ里のことを話してしまった。とたんに「雷に打たれたように」なって気を失う。しばらくして気がつくが、体は麻痺して動かなかった。

<蘇生譚>

・『日本霊異記』に数例あり、ひとつは中巻19 河内の国に心経をつねづね読誦する女がいた。あるとき、病気でもないのに突然死んで閻魔の前に行った。閻魔は女の読誦の声が美妙であると聞くと、その場で読誦させ、感嘆し、女を蘇生させる。

 同じく中巻24 ある男が閻魔王の使いに出会い、供応し、地獄に引き立てられるのをまぬかれた。25も同様。ただし、こちらは同姓同名の女を身代わりにして蘇生する。

 中巻第5話 牛を殺して神を祀っていた男が、死んで閻魔の裁きをうけたが、放生の徳によって罪をゆるされて蘇生した。今昔にも同話あり。ほかも同じ。

 上巻第30話 広国が死んで閻魔の裁きをうけたが、訴因はもとの妻がささいなことをとがめだてたためで、閻魔は「汝に罪なし」として地上へ帰らせる。

<桃の実の仙境>

・中国・唐代の随筆『西陽雑俎(ざっそ)』にある。史論は狩りに出て、とある寺で休んだ。大きな桃の実を僧がくれた。その桃がなっているところへ案内してもらった。そこは霊郷のようであった。役所に帰ってから僧を招いたが、行方がしれなかった。

<プレイアデス>

・それらのうちここでは、異界と亡霊についての世界の語りを中心に調べたが、臨死体験などもはいってきて、そのなかにはプレイアデスまで飛んでいった人の話などもあって、SF的想像なのか、病的幻覚なのか線引きが難しいところだった。

0コメント

  • 1000 / 1000