人権問題をめぐる自由世界の中国包囲網はこのようにして形成され、「人権」を基軸とした「自由世界vs中共政権」の戦いの火蓋が切って落とされた。(1)
(2022/3/14)
『中国共産党 暗黒の百年史』
石平 飛鳥新社 2021/6/29
虐殺・凌辱・陰謀・裏切り……本書を読めば、中国がやっていること、やろうとしていることがすべてわかる!
<「百年分の衝撃的な真実」を書いた理由>
・本書を一読すれば、百周年の「誕生日」を迎えた中国共産党が、どれほど罪深く、どれほど外道なふるまいをする危険な勢力か、よくわかると思う。そして、世界最大のならず者国家・中国の軍事的脅威と浸透工作によって、わが日本が脅かされている今こそ、中共の悪を歴史的に明らかにし、マフィア同然の「反日・反社会勢力」の罪悪と危険性にたいする日本人の認識を深めるお手伝いをしたい。これが本書執筆の最大の目的である。
・その理由は簡単だ。日本の一流(?)知識人たちが書いた中国近代史のほとんどは、まさに中国共産党の「革命史観」に沿って書かれた、中国共産党への賛美そのものだったからである。
<浸透・乗っ取り・裏切りの中共裏工作史>
<乗っ取り工作から始まった党勢拡大と建軍>
・中国共産党という政党が創建されたのは1921年7月1日のこと。この日こそ、中国史上と世界史に悪名を残す「サタン誕生」の日である。
この「中共」という名のサタンを中国の地で産み落としたのはロシア人のソ連共産党、厳密に言えば、ソ連共産党が創設したコミンテルンである。コミンテルンという組織の使命は共産主義革命を世界中に広げることであるが、1920年、コミンテルンの極東書記局が設立され、中国を含む極東地域で共産党組織を作り、暴力革命を起こさせるのが任務であった。
<現在でも世界規模で展開されている中共の浸透工作>
・そして2000年代に入ってからも、ほぼ数年ごとに一人~二人の中共スパイが台湾で摘発されている。現在でも日々、台湾を舞台にした中共の浸透工作とそれに対する中華民国側の反スパイ戦が熾烈に展開されている。
中国共産党政権の浸透工作は、台湾に限定されたものではない。中共が必要だと判断した世界各国でも、同じようなスパイ作戦が日常的に展開されているはずである。
例えば、オーストラリアの学者クライブ・ハミルトンの『目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画』(飛鳥新社)によって暴露された、オーストラリアに対する中共の浸透工作の実態は、実に凄まじいものだった。
<繰り返される血まみれの大量虐殺史>
<「一村一焼一殺」で奪われた10万人の命>
・第1章では、敵方への浸透工作が中国共産党の得意技であることを具体的に見たが、この浸透工作と並んで、中国共産党が結党当初から三度の飯より好んだことは、自国の一般国民に対する残忍極まりない大量虐殺であった。多数の人命を組織的に奪っていくのは、中国共産党の一貫したやり方で、習性とさえなっている。
中共という組織は最初から、テロ活動を主な仕事としていた。敵の暗殺、あるいは混乱を起こそうと無差別殺人を繰り返した。後に「聖人君子」に祭り上げられたあの周恩来こそ、中国共産党のスパイ工作の大ボスであり、暗殺活動の総責任者でもあった。
・中共が自前の軍隊を作って武力革命を開始したのは、1927年8月1日の南昌蜂起だった。実はその時、周恩来率いる蜂起軍は「蜂起決議案」という公式文書を公布し、蜂起後のとるべき行動について次のように宣言した。
「われわれは反革命的な軍人たちを全員殺さなければならない」
「われわれは反動的官吏たちをいっさい殺戮しなければならない」
「われわれはすべての土豪劣紳を殺し尽くさなければならない」
文字通りの「殺人宣言」であるが、中共の起こした「暴力革命」は最初から「殺人革命」だったのである。
「殺人宣言」の三番目に出てくる「土豪劣紳」は共産党による造語で、農村地域に住む地主や旧家、素封家を指している。中国では昔から、政治権力の支配は農村の地域社会に及ばないのが原則である。農村の社会秩序は、たいてい地主や素封家を中心とする自治によって維持されていた。彼らのほとんどは安定した財産を持ち、教養と良識を身につけ、地元の名望家として地域の安定と平和を守ってきた。
しかし、上述の「蜂起決議案」では、そうした人々はみな共産党の目の敵にされ、皆殺しの対象に指定された。
・しばらくして「紅軍」を名乗る毛沢東と朱徳の部隊は山から降り、広域の農村地帯で「革命根拠地」を作っていくことになった。その時点から、南昌蜂起の決議案で叫ばれていた「土豪劣紳殺し」が、毛沢東たちの手によって本格的に展開されていった。
その時、毛沢東たちは「打土豪、分田地(土豪をやっけて耕地を分配する)」というスローガンを掲げて農村革命の基本政策としていた。そのための具体的な「行動方針」として打ち出したのが「一村一焼一殺、外加全没収」というものだ。「一つの村では一人の土豪劣紳を殺し、一軒の家屋を焼き払い、加えて財産を全部没収する」という意味である。
つまり、農村地主や素封家に対する殺戮と略奪が、毛沢東ら紅軍による「革命」の主な内容だったのだ。その際、紅軍の連携する対象はいわゆる「地痞流氓」、つまり、農村社会のならず者やゴロツキの類である。
・1933年末には、共産党紅軍の開拓した根拠地、つまり「中華ソヴィエト共和国臨時政府」の支配地域は、3600万人の人口を有する広大な地域に広がったと記録されている。1928年末からわずか5年での「革命」の成果である。
そしてこの5年間で、「一村一焼一殺」で殺された地主・素封家の総数は、何と10万人に上ったという。
・ちなみに、「一村一焼一殺」はあくまでも農村地域で実行された紅軍の行動方針なので、都市を占領した場合、話は違ってくる。
例えば、1930年3月、紅軍は江西省の吉案という都市を陥落させ、45日間占領したことがある。その間、彼らは何と、1万人以上の市民たちを虐殺したと記録されている。
<33万人の長春市民を餓死させた「兵糧攻め作戦」>
・内戦中、大量殺戮を伴う多くの作戦が共産党軍の手によって遂行された。その最たるものの一つは、共産党軍が旧満州にある長春という都市を攻略した際、籠城した国民党軍と長春全市民に対し断行した「兵糧攻め作戦」である。
1948年5月から10月までの5カ月間、国民党軍が籠城していた長春を、共産党軍は幾重もの包囲網で囲み、完全に包囲した。
・市内に入った共産党軍がまず目撃したのは、餓死者たちの死骸の山であった。街角や家々の前には、干し魚のように痩せ枯れた死骸が山のように転がっていたという。生きている者たちも、餓死した親族の遺体を埋めるだけの気力を残していなかったのである。
籠城以前の長春市民の人口は50万人であったが、生き残ったのはわずか17万人だった。
・このような残忍なやり方で内戦を抜いて、天下盗りを果たしたのが毛沢東の率いる共産党軍である。戦争終結後の共産党政権の発表によると、彼らはこの内戦でじつに800万人の国民党軍を「消滅させた」という。3年間の内戦における双方の戦死者数は、少なくとも1000万人以上と推定されている。
今の中国共産党政権は、事実、死骸の山の上に成り立っている。
<「一村一殺」の全国版で殺された200万人>
・1949年10月1日、内戦に勝利した中国共産党は、今の中華人民共和国を建国した。
・しかし唯一、今の「中国共産党王朝」だけは全然違った。彼らが天下をとり全国政権を樹立した。まさにその時から、支配下の自国民に対して前代未聞の大虐殺を続々と断行していったのだ。
政権樹立の翌1950年初頭から、中国共産党政権はさっそく全国規模の「土地改革」を実行した。それは、今まで「革命根拠地」で行ってきた、地主や素封家に対する「一村一焼一殺」を全国的に展開していくことを意味した。全国の村々でゴロツキやならず者たちを総動員して地主たちを吊し上げ、土地その他、全財産を奪ったのである。
・それでも、全国で吊し上げられた六百数十万人の地主のうち、200万人程度は確実に殺された。
<71万人を即時処刑した「鎮反運動」という名の大虐殺>
・「土地改革殺戮」は1950年の1年間を通して全国で実行されたが、それが終わるや否や、翌51年の年明けから、今度は毛沢東本人による殺戮命令で、全国規模の組織的な大量虐殺が、またもや始まった。これが中国共産党政権史上有名な「反革命分子鎮圧運動(鎮反運動)」である。
・要は、「反革命分子」だと認定されて銃殺された71万の人々は、最初から共産党の敵対勢力でもなければ、何かの罪を犯した悪人でもまったくなかった。実際、彼らの多くは、都市部と農村部に住む素封家や名望家たち、あるいは地域社会の有力者であった。
<粛反運動から文化大革命へ、中共政権の連続大量虐殺史>
・1951年の「鎮反運動」からわずか数年後の1955年、中国共産党政権は「粛清反革命分子運動(粛反運動)」と称する運動を開始いた。「鎮反運動」の時と同じ手法を使って、「反革命分子」に対する再度の大量逮捕と銃殺を実行したのだ。1年間にわたる「運動」の結果、総計130万人の「反革命分子」が逮捕され、そのうち8万人が処刑台の露と消え、帰らぬ人となった。
・「粛反運動」から2年後の1957年、中国共産党政権は「反右派運動」と称する政治運動を発動した。政権の諸政策に批判的な意見をした55万人の知識人を「右派分子」だと認定した上で、公職から追放して農村の強制労働と収容所へ追いやった。
この運動で政権は銃殺による殺人こそしなかったものの、強制労働に追いやられた「右派分子」が最悪の労働環境・衛生環境の中で命を落としたケースは多い。
・結果的に20数万人の知識人たちが共産党政権の「反右派運動」によって命を奪われたことになる。「反右派運動」から2年後の1959年から61年までの3年間、今度は政権の人為的失敗によって全国で大飢饉が起き、数千万人の人々が餓死することとなった。
「政権の政策失敗によって大飢饉が起きた」とはどういうことか。不思議に思う日本人もいるだろうが、これは国内外でよく知られている歴史的事実だ。例えば1999年5月に岩波書店から刊行された『現代中国事典』という書物はこの一件について、「1958年の大躍進政策の失敗で、59年から61年までに2000万人から4000万人という史上空前の大量の餓死者を出した」と記述している。
・この大飢饉の経緯を詳しく解説する紙幅はここにはないが、要は、中央政権が間違った政策の推進により、数千万人が餓死するほどの大飢饉を人為的に起こしてしまったのである。間接的ではあるが、中共はまたもや、数千万人の中国国民を死に追いやった。
この「3年大飢饉」の後にやってきたのは例の文化大革命である。1966年夏から76年秋までの10年間にわたって中国全土の大地に吹き荒れた「大革命」の嵐は、文化・社会・経済の空前の大破壊であったと同時に、拷問やリンチによる大量殺戮が全国で展開された「殺人の嵐」でもあった。
・「文革時代では、私設の裁判がおこなわれ、拷問による自白強要、勝手気儘な逮捕、違法な拘禁、捜査がごく当たり前の現象となり、造反の対象となる人々の撲殺や迫害に耐えられない人々の自殺が続出し、人々の生命、財産はまったく保障されなくなった。当時の不完全な統計によっても、1966年10月14日までに、『人民の敵』とされて公職や市民権を剥奪され、都市から農村に追いやられた人数は、全国で39万7400人以上に及び、1966年8月下旬から9月末までの40日あまりの間に、北京市だけで8万5198人が原籍地に追い返され、1万770名が殺害され、3万3605世帯が家捜しを受けた」
・中国国内で出版された『従革命到改革』という書物では、文化大革命の10年間、「さまざまな形で命を失った人の数は数百万人に上る」と推定されているが、これがもっとも保守的な数字であり、その10倍の「数千万人」という推測もある。今日までのさまざまな研究成果と公開資料から総合的に判断すると、文革の10年間で「非正常死亡」を遂げた人々の数は、最低でも1000万人単位であろうと考えられる。
・1968年8月27日から9月1日までの6日間、大興県下の13の人民公社で、紅衛兵たちは現地公安局の協力を得て、「五類分子」(地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子)とその家族に対する集団虐殺を行った。「五類分子」とその家族たち325名が殺され、一族もろとも全滅させられたのは25世帯に上ったという。
・前述のように、文革の10年前、惨殺されたり自殺に追い込まれたりした無実の人々の数は、保守的な推定でも優に1千万人を超えている。その中には、赤ちゃんも子供も含まれていたから、文革中の中国は、まさに毛沢東共産党の作り出した阿鼻叫喚の「殺戮地獄」であった。
<天安門虐殺で命を失った若者たちへの鎮魂歌>
・以上、中国共産党が百年前に結党された時から文化大革命までに起こした大量殺戮の数々を記してきた。考えてみれば、建党から文革終息までの四半世紀以上にわたる中国共産党前半の歴史は、まさに大量殺戮の常習犯であり、確信犯である。
・その謎を解く鍵は、中共による大量殺戮の共通した手法にある。「革命根拠地時代」の「一村一焼一殺」にしても建国早々の「鎮反運動」でも、中共の好む殺人法はいつも「公開処刑」であり、必ず大衆を集めてきて、大衆の目の前で殺戮を行うのである。
中共が大量殺戮を好む理由の一つは、これでわかるであろう。大衆の前で公開処刑を行う意味は、民衆に恐怖心を植え付けておくことだ。民衆に心底からの恐怖を常に感じさせることによって、彼らが政権に反抗できないように仕向けるのである。
・この天安門事件において、袁力と共に殺された若者や市民たちの数はどれほどだったのか。真実は今でも「最高国家機密」として中国共産党政権によって封印されたままである。死亡者数数千人という説がもっとも有力であるが、それ以上である可能性も少なくない。
・そして、この「北京大虐殺」を含む、毛沢東以来の数多くの大量殺戮の罪に対し、今の中国共産党政権は一度も謝罪したことはない。反省の色すら見せていない。そして、習近平政権下の中国共産党はいまや、大量殺戮から始まり大量殺戮で彩られた自分たちの百年史を、まさに誇るべく輝く歴史として自画自賛している最中である。
<侵略と虐殺と浄化の少数民族弾圧史>
<軍事占領・政治支配・文化的同化の「民族浄化政策」>
・今の中華人民共和国には、人口の絶対多数を占める漢民族以外に、55のいわゆる「少数民族」が生活している。
・しかし軍事占領は、中共にとって民族支配の第一歩に過ぎなかった。占領後しばらくすると、中共政権は、各民族への政治支配を強化する政策を推進していった。政策のポイントは、各民族固有の社会制度や財産制度を全部破壊した上で、土地と人民と財産をすべて、中共政権の完全支配下に置くことである。
・チベットで共産党政権は、一貫してチベット人の信仰の中心であるチベット仏教を弾圧し、寺院を破壊し僧侶を追放する宗教絶滅政策を強行してきた。
・もちろんその中でも、中共政権の同化政策に抵抗して自分たちの民族的アイデンティティと独立性を保とうと必死になっている民族がある。チベット人、ウイグル人、モンゴル人はその代表格であろう。しかし、まさに彼らが、中共政権の占領政策と同化政策に強く抵抗してきたが故に、歴史上、中国共産党政権による大量虐殺の標的となったことはいくたびもあった。
<13万人の兵力を動員したイ族虐殺>
・中国の西南地域の山間部には昔から「イ族」と呼ばれる人々が住み着き、暮らしている。2010年の人口統計では871万人の人口を有しているという。現在、その大半は西南地域の雲南省に住んでいるが、3割程度は四川省の涼山イ族自治州にいる。
・当時の涼山自治州の総人口は90万人、そのうちイ族の人口は約70万人だった。70万人のイ族の住む地域に13万人の大軍を送り込んだのは、いかにも大掛かりな軍事行動である。しかも、70万人のイ族全員が反乱に加わったわけではない。女性、老人、子供を除けば、実際に反乱に参加したのはおよそ10万人程度。そのほとんどは何の軍事訓練も受けていない普通の農民で、所持していた武器は槍や刀、せいぜい2、3人につき自家用の猟銃1丁程度だった。こうした人々に、大砲と機関砲で武装した十数万人の解放軍が襲いかかったのだから、鎮圧というより虐殺に近いものだったと言える。
・村々での掃討作戦と山岳地帯の掃討作戦で、どれほどのイ族が殺されたのか。数字を示す資料は一向に見つからない。
・しかし1956年初頭から58年3月まで、涼山地域で自分たちの伝統生活と共同体を守るために立ち上がったイ族の人々に対し、中国共産党は13万人もの大軍を派遣して無慈悲な軍事鎮圧を行い、女性・子供を含む数多くのイ族を虐殺した歴史的事実は、消えないのである。
<120万人のチベット人を殺した世紀の民族虐殺>
・このような虐殺は、1970年代半ばまで続いたが、解放軍のチベット占領開始から25年以上の長きにわたって行われた数多くの虐殺で、一体どれほどのチベット人が殺されたのか。元東京大学史料編纂所教授の酒井信彦氏の推定では、チベット総人口の約5分の1、すなわち120万人が殺されたという。
しかし、このような虐殺は、決して1970年代で終わったわけではない。2008年3月、同じラサにおいて、解放軍部隊は「暴動」を起こしたとされるチベット人への鎮圧作戦で、多数のチベット人を殺した。
<34万人逮捕、5万人以上虐殺の「内蒙古ジェノサイド」>
・中国共産党政権が「少数民族」に行った組織的なジェノサイドの中で、殺人規模の大きさでチベットに次ぐ二番目となるのが、内モンゴルに住むモンゴル人の虐殺である。
文革中の1960年代後半、共産党政権が内モンゴル自治区において「内人党粛清運動」を発動させ、モンゴル人の組織的な大虐殺を行ったのである。
<紅軍内大虐殺、陰謀と殺し合いの内ゲバ史>
<冤罪を着せるのはまず味方から>
・ここまでは、中国共産党による自国民虐殺の歴史と、チベット人やモンゴル人など「少数民族」への弾圧・虐殺の歴史とを具体的な記録に基づいて明らかにした。この政党は殺人魔・嗜血鬼の集まりであることが、よくわかる。
嗜血的な人間たちが一つの政党を作って群れを成していると、内部で仲間同士の凄まじい殺し合いが起きるのは避けられない。かつてスターリンのソ連共産党もそうであったように、中国共産党の百年史は、激しい内部闘争と党内殺し合いの歴史でもある。
・中国共産党の内部で大規模な殺し合いが最初に確認されたのは1930年、共産党紅軍が江西省の瑞金を中心とする広い地域に「革命根拠地」を作り上げた時だ。紅軍の最高指導者の一人、毛沢東が首謀者となり、同じ仲間のはずの紅軍の大量粛清と虐殺を行った。共産党史上に残る「AB団粛清事件」である。
・そのために毛沢東は「AB団」という怪しげな固有名詞を持ち出した。AB団とはもともと、1926年に国民党の一部幹部が結成した秘密団体である。当時、共産党のスパイが国民党内部に入りこんで凄まじい浸透工作を展開していたが、それを警戒した国民党有志は浸透を食い止めようと、AB団を作った。
・1930年時点で、AB団という組織はもはや存在していない。ましてや共産党紅軍の作った「革命根拠地」にAB団がいるはずがない。
・1カ月間にわたって摘発キャンペーンを徹底的にやった結果、毛沢東配下の紅一方面軍4万人あまりの幹部と兵士から、4百数十名の「AB団員」を摘発できた。うち30名以上の「AB団幹部」は即座に処刑された。中には、毛沢東配下の幹部でありながら、平素から毛沢東のやり方に不満をもっていた紅軍幹部の多くが含まれていた。もちろん、本当の「AB団員」や「AB団幹部」は誰もいない。皆、毛沢東の陰謀の犠牲になっただけだった。
<毛沢東による1万人処刑の「紅軍大粛清」>
・この輝かしい「成果」を手に入れた毛沢東は、摘発した「AB団幹部・団員」および処刑した者の名簿と、多数の「自供者」の証言に基づき作成した「AB団浸透の実態報告」一式を、腹心の部下に持たせ、上海の党中央に届けさせた。
これで党中央は、真剣に対処せざるを得なくなった。党中央指導部の誰一人として、まさか毛沢東が冤罪をこしらえて自分の部下を死に追いやるとは想像できなかった。党中央はこれで、「AB団はすでに紅軍全体に広く浸透している」という毛沢東のでっち上げを信じるようになった。
党中央は毛沢東の主張を聞き入れ、紅軍全体で「AB団粛清運動」を展開することを決めた。
・こうして、江西地方紅軍の幹部と根拠地の党・行政の幹部、合わせて1万人以上が、まったくの冤罪で処刑されてしまった。江西地方紅軍とその根拠地を手に入れたい毛沢東の個人的野心はこうして、1万人の紅軍・共産党仲間の命を奪ったのである。
<7万人の「革命同志」はこうして殺された>
・上述の富田虐殺は、紅軍におけるさらなる大虐殺の序章にすぎなかった。富田であれほどの粛清と殺戮を行った以上、党中央と毛沢東は、党全体、紅軍全体に対して、彼らの措置の正当性を証明しなければならない。江西地方紅軍でのAB団摘発が正しいことだったなら、当然、紅軍全体に拡大して行わなければならない。
・その結果、1931年夏に粛清キャンペーンが終わった時点で計算すると、共産党全党と紅軍全軍で、総計7万人以上が処刑されたという。中には、党と紅軍幹部の一部親族まで含まれていた。
この紅軍史上最大の虐殺が終わると、首謀者・発案者の毛沢東は当初の目的を完全に達成した。江南地方紅軍の根拠地をまんまと手に入れ、紅20軍の生き残りの兵士たちを彼の部隊に編入した。毛沢東はこれで、紅軍内の最大勢力を擁することになった。
そして1931年秋、富田大虐殺のわずか11カ月後、毛沢東の本拠地である江西省瑞金で、紅軍の全根拠地を統合した「中華ソヴィエト共和国臨時政府」が成立した。主席に収まったのは毛沢東である。
<陰謀と粛清と殺し合いの中国共産党史(その1)>
・1937年、日中戦争の勃発に伴い「第二次国共合作」が実現した。毛沢東にとって、権力の全面掌握の絶好のチャンスが巡ってきたのだ。
<陰謀と粛清と殺し合いの中国共産党史(その2)>
・整風運動で毛沢東独裁体制が成立してから7年目の1949年、中国共産党は国民党政府と内戦で歴史的勝利を収め、今の中華人民共和国を建国した。それ以来の共産党政権史もまた、内ゲバと殺し合いの歴史そのものである。
建国後、最初に激しい権力闘争が展開されたのは1954年の「高崗(こうこう)事件」である。
<陰謀と粛清と殺し合いの中国共産党史(その3)>
・彭徳懐が疑問を持った毛沢東の「大躍進政策」の推進とその失敗は、共産党政権内における次の大粛清の伏線となった。
町内のお爺ちゃんやお婆ちゃんまで動員し、手作りの高炉で鉄鋼を作らせるような、めちゃくちゃなやり方で進めた毛沢東の「大躍進政策」は、当然のことながら、完全な失敗に終わった。また、本書第二章でも記したように、「大躍進政策」の推進によって農村地域で大飢饉が起こり、数千万人の人々が餓死した。1959年から61年までのわずかな時期のことである。
「大躍進政策」失敗後に、混乱の収捨役を任されたのは劉少奇と鄧小平ら、現実路線派の幹部だった。彼らは数年間、さまざまな政策転換を行い、必死に頑張った。中国経済はやっと瀕死の状態から立ち直り、共産党政権はこの難局を何とか乗り越えた。
・紅衛兵たちの吊し上げや拷問の標的は、やがて「反毛沢東」の共産党幹部から拡大していき、一般の知識人や学校の先生にも及んだ。本書第二章でもその実態を一部断片的に記したが、文化大革命中にはおよそ数千万の人々が、殴り殺されたり自殺したり獄死したりして命を失った。そして1億人単位の人々が、何らかの形で政治的迫害を受けた。
・そして1976年9月、長年の権力闘争で多くの政敵と同僚、仲間を死に追いやり、億単位の中国人民に地獄の苦しみを味わせた毛沢東は、罪悪に満ちた生涯をようやく終え、死去した。「毛沢東時代」の終焉である。
<権力闘争と殺し合いはいつまでも続く>
・四人組逮捕の後、しばらくは華国鋒を中心とした指導体制が維持されたが、長くは続かなかった。解放軍内に大きな勢力を擁する鄧小平は復活後、亡き周恩来の勢力と連携して華国鋒を引きずり下ろし、実質上の「鄧小平政権」を樹立した。
<女性と人民を食い物にした党幹部の貪欲・淫乱史>
<江沢民政権下で全面開花した「腐敗・淫乱文化」>
・このように、1989年から13年間も続いた江沢民政権下では、政権トップの江沢民とその一族からあらゆるレベルの共産党幹部に至るまで、共産党伝統の淫乱文化と腐敗文化がまさに全面開花したわけだが、2000年代の胡錦涛政権下でもその勢いが衰えることはなかった。そして次章で述べるように、今の習近平政権では大掛かりな「腐敗撲滅運動」が展開されているものの、「腐敗」と「淫乱」はいっこうに共産党政権から消えることはない。人民と女性を食い物にする二つの醜悪文化はもはや、共産党政権の体質そのものと化しているからである。
<危険すぎる習近平ファシズム政権の正体と末路>
<極悪の習近平政権を誕生させた「闇の力」>
・習近平の政治家人生の大半は親の七光で出世街道を歩んだわけだが、出世街道の最終段階で、江沢民の愛顧を得ることに成功し、政治権力の頂点へ登り詰めることができた。親の七つ光と悪運の強さ、この二つこそが、習近平に天下を取らせた秘密であり、悪の習近平政権を誕生させた「闇の力」であった。
<自由世界vs.中共政権の最後の戦い、邪悪な政党の歴史に終止符を!>
・武漢発のコロナ禍では、武漢市内でコロナウイルスが拡散し始めた初期段階で、習近平政権が徹底的な情報隠蔽を行った結果、ウイルスの世界的拡散を許し、全人類に多大な犠牲と損失を与えた。それなのに現在に至っても、習近平政権の中国は世界に対し陳謝の一つもなければお詫びの言葉もない。
・中共政権の手で民族浄化の憂き目に遭っているいるウイグル人やチベット人を救い出すため、そしてわれわれの住むインド太平洋地域の平和と安定のために、自由と人権と民主という自由世界の普遍的価値観を守っていくために、そして北京発のあらゆる災禍からこの世界の安泰とわれわれの子孫代々の幸福を守っていくために、今こそ、世界は一致団結して北京の独裁者・ならず者たちの蛮行と暴走を封じ込め、中共政権を破滅へと追い込まなければならない時がきたのである。
幸い、この数年間、特に2020年秋から中共百周年の2021年にかけて、自由世界の多くの国々では中共政権の邪悪さへの認識をより一層深めた。自由世界は中共政権を封じ込める中国包囲網の構築に乗り出したのである。
・中国包囲網の構築は、主に二つの領域で進められている。第一に人権問題である。中共政権のウイグル人・チベット人に対する民族浄化の人権侵害に対し、そして彼らが香港で行っている人権侵害に対して、自由世界はいっせいに立ち上がり、習近平政権への「NO」を付きつけ始めた。
まず2020年10月6日、ニューヨークで開かれた国連総会の第三委員会(人権委員会)では、ドイツ国連大使が39カ国を代表して、ウイグル人や香港に対する中国政府の人権弾圧を厳しく批判した。ドイツが束ねた39カ国の中には、アメリカ・日本・イギリス・フランス・イタリア・カナダなど自由世界の主要国ほぼ全てが加わり、人権問題を基軸にした「自由世界vs.中国」の対立構造がその原型を現した。
そして2021年1月、米国トランプ政権は任期終了直前に、中国政府のウイグル人民族浄化政策を世界各国の中で初めて、ジェノサイドと正式に認定した。その後、新しく誕生したたバイデン政権もこの認定の継承を宣言した。
・この年の2月に、カナダ議会下院は中国のウイグル弾圧をジェノサイドとして非難する決議を可決、欧州でもオランダ議会が率先して同様のジェノサイド非難決議を可決した。そして4月には、イギリス議会が「ウイグルに対するジェノサイド」動議を可決した。この原稿を書いている4月30日現在、オーストラリア議会や日本の国会でも類似の決議の審議が始まっており、中共政権のウイグル・ジェノサイドに対する非難の大合唱が、自由世界で巻き起こっている最中である。
・そして一部の西側先進国は、非難の声を上げるだけでなく、制裁など実際の行動を起こしている。ウイグル人への弾圧や香港での人権弾圧をめぐって、アメリカは早い段階から中国への制裁を実施してきたが、2021年3月22日、欧州連合、英国、米国、カナダは一斉に、ウイグル弾圧に関わった複数の中国高官を対象とする制裁措置を発表した。西側諸国が対中制裁でこれほど足並みを揃えたのは1989年の天安門事件以来のことである。
人権問題をめぐる自由世界の中国包囲網はこのようにして形成され、「人権」を基軸とした「自由世界vs.中共政権」の戦いの火蓋が切って落とされた。そして第二の領域、すなわち安全保障の領域においても、自由世界対中国の戦いが熾烈に展開されている最中である。
・このように、2020年秋から2021年春の現在にかけて、「中共に弾圧されている人々の人権を守ること」、「中共の脅威に晒されている地域の平和を守ること」という二つの重大な命題で、自由世界主要国は連携して、中国共産党政権に対する総力戦的な戦いを挑み始めた。
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