「青木の法則」とは、私が勝手にそう呼び始めただけなのだが、「内閣支持率+与党第一党の政党支持率」(青木率)が50を切ると政権が倒れる」というものだ。(1)
(2022/3/31)
『日本国民のための 明快 政治学入門』
高橋洋一 あさ出版 2021/7/11
・一票の力は、単独で微少だが、数が集まれば力になる。
・「何をするのか」が憲法で定められている仕事は政治家だけであり、後ろ暗いことが行われる余地がないのである。
それなのに、なぜ政治には後ろ暗いイメージが付いて回るのか。
<この国で「一番偉い」のは誰か>
・無論、日本では「民=国民」が一番偉いのである。
立憲制では憲法が絶対だ。日本国憲法の前文にも「主権が国民に存することを宣言」とはっきり書かれている。
・なぜなら、国会議員は「ルールを決める権限」を国民から付託されているに過ぎないからだ。
・あらゆる物事には原理原則がある。原理原則に沿って考えなくては、正しくものを見ることはできない。
日本は立憲民主制であり、憲法が「主権在民」と定めているというのは、日本の政治の原理原則である。
<国会議員は「人気商売」>
・私は仕事柄、国会議員と接する機会も多い。単純に言って、みな「感じのいい人」だ。愛想がよく、話題が豊富で、機知に富んだジョークを飛ばしつつ、その場にいる人たちが不快にならないように気を配る。義理人情にも厚い。それもそのはずだ。国会議員は「人気商売」だからである。
<「地盤、かばん、看板」、その前に「信念」>
・地域とのつながりがあること。豊富な資金があること。知名度があること。これらを俗に「地盤、かばん、看板」と呼ぶが、多くの人が、これを何やら悪いことのように捉えているのではないか。
・みな何かしらの信念はある。
そのうえで厳しい選挙戦を勝ち抜くには、地域とのつながりや、豊富な資金、知名度があれば、より頼もしいという話に過ぎない。
<1つだけ「マイテーマ」を決めておけばいい>
・小選挙区制では候補者に投票し、比例代表制では政党に投票する。
誰に投票するか、あるいはどの政党に投票するかを決めるには、自分が住む選挙区の複数の候補者たちや複数の政党の主張を理解しなくてはいけない。
そして理解するには、選挙で争点となっているさまざまな問題を知り、自分なりに考えなくてはいけない。
要するに参政権を行使するには、社会の一員として頭を働かせる必要があるのだ。
・参政権を放棄するということは、「国の行方を決める権限を誰かに付託する権利」を放棄するということだ。
・そこで、選挙の際には、1つだけ「マイテーマ」を決めることをおすすめする。まず、そのときの選挙の争点を洗い出し、そこから「自分にとって最重要な問題」を絞り込んでおけばいいのだ。
<「風」をつかんだ者が選挙で勝利する>
・政治家にとって、選挙は「風」のつかみ合いだ。
・民衆は往々にして雰囲気やイメージに流されやすいものだから、いかに風を巻き起こし、自分たちの追い風とするかが勝負の分かれ目となる。
・だが、本当のところは、何が追い風となり、何が逆風となるかは、風が起こってみなければわからない。
<「風」に流されるかどうかは、自分次第>
・選挙では、たった1つの行動や発言で、一気に風向きが変わってしまうこともある。
・各党、いかに対立する政党に逆風を吹かせるか、いかに自党に追い風を吹かせるかで、しのぎを削り合っている。
<政治とは「必ず不満が生じるもの」、ではどうするか?>
・私たちは選挙で、社会のルールを決める権限を持つ人を選ぶ。
・つまり万人が納得できるルールを作ることなど、まず不可能なのだ。権限を付託する身としては、そのこともよくよく肝に銘じておかねばならない。
・政治は私たちの暮らしをよくするためのものだが、だからといって多くを求めすぎないほうがいい。
「万人にとっての正解」などないなかで、100点を出すことは不可能だからだ。
学校でも、赤点以下を取らない限り合格とされ、進級できるはずだ。
政治も、同じように考えてはどうだろうか。民主主義の国では、政治の原理原則は「多数決」だ。
つまり、半数以上の不満が出なければいい。点数にすれば、51点で「合格」なのである。
・万人にとって絶対的に正義といえるものは、実はきわめて少ない。
基本的人権、信教や職業選択、表現の自由などはすでに憲法に定められている。
その下で行われるルール作りでは、異なる利害をもつ社会集団同士のせめぎ合いの連続なのだ。
つまり政治とは、必ず不満が生じるものなのである。そこで大事なのは、決して腐らずに考え続けることだ。
<「参政権の放棄」は、民主主義の精神に反する“一番の愚行”>
・選挙は結局、数の論理である。
今の政治家にいくら不満があろうと、その人は天から押し付けられた為政者などではなく、民衆によって選ばれた為政者なのだ。
選挙で勝つために、各候補者も各政党も、「数」で他を圧倒できるように苦心する。しっかりと公約を打ち出すのはもちろんだが、それだけでは不十分だ。いいイメージを振りまき、自分たちに有利な世論形成を試みる。企業の広報戦略と同じだ。
その帰結として、選挙結果がある。
・1票の力は単独では微少だが、数が集まれば力になる。
くれぐれも、「自分が投票しようとしなかろうと、選挙の結果は変わらない」などと考えないことだ。
そのような考えで参政権を放棄することこそ、民主主義国家に暮らしながら民主主義の精神に反する、一番の愚行といっていい。
<日本の選挙制度を考える――こうして「民主的プロセス」は守られている>
<なぜ日本は「二大政党」にならないのか――「デュベルジェの法則」>
・結論からいえば、日本では、政権与党を決める衆議院議員総選挙が「小選挙区制と比例代表制の併用」になっているからだ。
数量的な政治理論として「デュベルジェの法則」と呼ばれる法則がある。日本が二大政党制になっていない理由を考える前に、この法則を説明しておこう。
デュベルジェの法則を導き出した数式は複雑だから割愛するが、法則そのものはシンプルだ。
「選挙の候補者は、その選挙区で選出される人数+1人になる」――これだけである。
たとえば、ある地域で「2人を選出するならば候補者は3人」、「3人を選出するならば候補者は4人」に集約される、ということだ。
・何人も候補者が立って何人も落選するのではなく、「誰か1人だけが落選する」というミニマムの候補者数に絞られる、といってもいいだろう。
・多数決で1人の候補者を決める小選挙区制では少数政党は生き残りにくく、逆に得票率を元に議席を配分する比例代表制では、少数政党にも議席を獲得するチャンスが大きくなる。
つまりは選挙制度には、当選する候補者を、ひいては国政を大きく左右する力をも有するというのが、デュベルジェの法則のいわんとするところである。
<本当に二大政党を望むなら、方法は簡単>
・デュベルジェの法則がわかっていると、なぜ日本が二大政党制にならないのかも簡単に理解できる。
問題は、政党の規模や支持基盤ではない。選挙制度なのだ。
二大政党になる条件をデュベルジェの法則を元に考えるとどうなるだろうか。
候補者は「その選挙区の選出数+1」になるわけだから、各選挙区を「1人選出」とすれば「1人選出+1」で2人の候補者が各選挙区で出馬することになり、結果的に二大政党制になる。
・比例代表制という選挙制度がある限り、選挙で戦う政党が2つに絞られないからである。「小選挙区制だけにする」と決めてしまえば、今ある複数の小政党は、より主張の近い大政党に合併吸収され、自然に二大政党制になっていくだろう。
<2つのうち「マシなほう」を選ぶか、複数から「ベスト」を選ぶか>
・比例代表制がなくなって「1人選出」の小選挙区制だけになれば、日本も「1選挙区に2人の候補者」、すなわち二大政党制になるだろう。
小さな政党は、比較的主張が近い大きな政党に吸収され、自然と「1人選出で候補者2人」へと集約されていく。それを望まない小政党の反発があるから、小選挙区制だけにならないと見ることもできる。
・政策実現力を重視し、細かい点には目をつぶって「2つに1つ」を選びたいか、それとも、より多くの選択肢から自分がベストと思えるものを選びたいか。「死票」を覚悟するか、それとも自分の1票を生かしたいか。
これは、どちらのほうが正しいかという話ではない。
どちらかを正しいと思っても、選挙制度を自分の手で変えることはできない。
ただし、こうした視点をもっているかどうかで、政治参加意識に大きな違いが出てくるはずだ。
<「1票の格差」が解消されない理由――「ゲリマンダー」>
・日本では、たびたび「1票の格差」問題が取り沙汰される。
・このように、特定の候補者や政党の有利になるように選挙区を区切ることを「ゲリマンダー」と呼ぶ。
・現実には、最高裁も選挙無効とはいわないが、格差が酷いと「違憲」という。
そのため、政府は格差を是正しようと、区割りを見直す公職選挙法改正案を国会に提出し、それを国会が議決し、格差是正がゆっくりと行われている。
<投票のハードルを下げる難しさ――「郵便投票」>
・2020年の米大統領選挙では「郵便投票」が大きな話題となった。
民主党・バイデン大統領候補と共和党の現職・トランプ大統領の戦いは、バイデン氏に軍配が上がった。
ところがトランプ氏は敗北を認めず、「集計作業で大規模な不正が行われた可能性が高い」として、法廷闘争に持ち込もうとしたのだ。
・日本にも一応、「郵便等による不在者投票」という制度がある。ただし、アメリカの郵便投票制度と比べると、要件がかなり厳しい。
<投票所で配られる「もう1枚の投票用紙」をムダにしない>
・最高裁判所裁判官国民審査とは、憲法に定められた制度である。
・最高裁判所裁判官国民審査も同様に、事前に自分で調べる必要がある。
・まず、国民審査が行われる際には、審査の対象となる裁判官の生年月日をはじめ、経歴、関わった主要な裁判をまとめた審査広報が発行される。必要な情報は、こちらさえ求めればすぐに得られるようになっているのだ。
・最高裁判所など自分には縁遠いものと思えるかもしれないが、これは「司法を監視する」という国民の義務であり権利である。それを行使しないのは、憲法で保障された権利を放棄するということだ。
<「国会」では何が行われているのか――批判する前に理解したい「国会議員の仕事」>
<「立法」には2つの種類がある――「議員立法」と「閣法」>
・まず、国会は、この国で「唯一の立法機関」であることから、国会議員の仕事の1つは立法、法律を作ることだ。
立法には、「議員立法」と「閣法」の2種類がある。
・つまり政権与党には議員立法と閣法と、2つの立法手段があるのだが、実際には、政権与党の議員が議員立法することは、あまりない。
<閣法は内閣総理大臣の「肝入り法案」>
・議員立法の場合、法案の責任者は発議した議員たちだ。
一方、国会は、内閣総理大臣の責任のもとで行われる。つまり閣法とは、「総理大臣の肝入りの法案」といえる。
したがって、どの法案を閣議決定するかを決めるのも内閣総理大臣である。
数ある政権与党の公約のうち、どの公約に関わる法律を優先して閣法にするか、これは、たいてい内閣総理大臣が政府のトップとして何を重視するかによる。
例を1つ挙げると、「土地取引規制法案」だ。簡単に言うと、この法案には、安全保障上、重要な土地や建物の利用実態や所有者の氏名・国籍などを政府が調査し、外国人が所有することを規制する目的がある。
<メディアのいう「強行採決」本当の意味とは>
・立法には「議員立法」と「閣法」の2種類がある。
閣議決定に基づき、政府として提出する法案は閣法だから、必然的に議員立法は野党議員によるものが大半だ。
では、野党議員が出した法案が通ることはあるのか。実はほとんどない。
・要するに「強行採決」とは、日本語にしか存在しないほど妙で非普遍的な概念ということである。
・「ねじれ国会」などよりも、法案の成立を左右するものがある。
ここで説明してきたとおり、むしろ衆議院本会議に提出される法案が閣法か議員立法かで、法案の可否は大きく分かれるといったほうがいい。
<「予算審議」も国会議員の大事な仕事>
・立法することに加えて、もう1つ、「予算を審議すること」も国会議員の仕事だ。
・つまり、「国会で決められた法律を実際に適用し、国会で通った予算を実際に使って政策を行う側=行政機能」をチェックするのも、国会の重要な機能というわけだ。
いくら審議しても疑惑が払拭されず、内閣不信任案へと発展すれば、それこそ解散総選挙ということになる。
<国会の主な仕事は8つある>
・いままで説明してきたものを含め、国会の主な仕事は以下の8つである。
【衆議院の優越あり】
1、法律の制定・改廃 2、予算の議決 3、条約の承認 4、内閣総理大臣の指名
【衆議院のみ】
5,内閣不信任決議
【衆議院の優越なし】
6、憲法改正の発議 7、弾劾裁判所の設置 8、国政調査権の発動
<意外と短い「憲法の賞味期限」>
・法律は、一般の人たちが思っているよりもずっと賞味期限が短いものだ。だから国会では新法の立法だけでなく既存法の改正も多く審議される。
賞味期限が短いのは憲法も同様である。
「国の最高法規」として、日本でも憲法が不可侵のものに思われているところがあるようだ。しかし、実は国の最高法規であるからこそ、憲法も、時代の変化に応じて変化してしかるべきなのだ。
・では、憲法改正について、海外はどうなっているのか。調べてみると、実は、それほど珍しいことではないことがわかる。
日本では「憲法=戦争放棄」という発想が強く、それが憲法改正に対する嫌悪感に直結していると思われる。一方、海外の憲法改正の例は、国と地方の関係や議会のあり方など、統治機構に関するものが大多数だ。
日本の憲法改正も同様になると考えれば、タブー感は少し薄れるのではないか。
<日本は、「世界一、憲法改正が難しい国」――それはどうなのか?>
・日本では、憲法96条が、憲法改正の大きなハードルとなっている。
国の最高法規だから、その他の法律よりは改正の条件が厳しくて当然だ。ただし「両院それぞれの本会議にて3分の2以上の賛成」で、ようやく国民に是非を問えるというのは、さすがに厳しすぎるのではないか。
・もし、日本が「憲法改正発議要件を3分の2から2分の1」としても、国民投票は残るため、主要17ヵ国で見れば、改正難易度はオーストリアと同じで3番目に高いままだ。
国民投票があるのだから、最終的には国民が決める。
国民投票のための発議要件を下げることがどこまで問題なのか、じっくりと議論する必要があるだろう。
<内閣官房参与辞任の本当の理由>
・では、なぜ、憲法改正がここで出てくるのか。
日本は平常時に憲法改正をしていないため、先進国ではほとんど唯一、憲法の中に緊急事態条項がない国になってしまっている。
緊急事態条項がないため、諸外国のようなきっちりした、非常に厳しい――つまり効果を上げることができる行動規制(非常事態宣言)ができない。
ちなみに、非常事態宣言を軍政移管を伴うときには戒厳令と呼び、両者を区別するときもあるが、先進国では軍政移管はまずないので、両者はほぼ同じだ。
・そして、今、対応できていないのは、野党やマスコミの怠慢である。
憲法改正については、日本国の怠慢を憤ったのは事実である。世界と比べると、日本の憲法は本当にひどい。
問題提起を意識してあのようなツイートになったわけである。憲法改正は喫緊の課題といえる。
<「違憲判決」は問答無用で法改正を求める>
・違憲判決には、法令そのもの(全体もしくは一部)を違憲とする「法令違憲」と、ある法令が特定の件に適用されたことを違憲とする「適用違憲」の2種類がある。
・一方、法令違憲は、法律自体が憲法に反しているということだから、直ちに法改正しなくてはいけない。
<本当に正しい「政治家の見方」とは――雰囲気に流されず、正当に評価する方法>
<まったく不当でも不透明でもない「政治家とカネ」>
・政治というと、すぐに「カネとの癒着」と結びつけて考える人も多いようだ。
おそらく、議員の仕事や活動内容が具体的に見えていないからだろう。
事実、議員の仕事にはけっこうカネがかかる。そのために、ある程度の報酬や資金を得るのは妥当といえるのだ。
国会議員の仕事のうち、特にカネがかかるのは立法のほうだ。
・たいていは議員歳費だけでは足らないくらいだ。だから、国会議員は政治資金パーティを開き、寄付を募る。
<国会議員の「仕事の中身」で真価を問う>
・大半の議員は、議員歳費や寄付金をやりくりしながら、真面目に仕事をしている。
たしかに、なかには汚職に手を染める国会議員もいる。だが、汚職が明るみに出ると大ニュースになること自体、それが稀なケースであるという証ではないか。
・もし、まだ国会議員を疑わしい目で見てしまうというのなら、議員の実際の仕事ぶりをチェックしてみてはどうだろうか。「政治家って何となく汚い感じがする」という印象論ではなく、「仕事の中身」を見て真価を問うということだ。
私がアドバイザリーボードを務めている「政策NPO万年野党」では、議会での質問回数や文書質問の数、質問の内容、立法件数などを元に議員を評価している。この評価システムは私が作った。いってみれば、これは「議員の通信簿」だ。
<「国会議員は仕事をしていない」という大勘違いを正す>
・実は法律ほど「賞味期限」の短いものはないといっても過言ではない。
しょっちゅう見直し、検討して、新たに作ったり修正したりしなくては、たちまち行政が立ち行かなくなってしまう。
・このように、大半の国会議員は、日夜、立法という仕事に心血を注いでいる。
現に一国会で提出される法案の数は、ほとんどが既存法の改正案だが、議員立法、閣法合わせて、ざっと200以上にも上るのだ。
すべて衆議院のホームページに掲載されているから、閲覧してみるといい。
どれも、何となく「仕事をしている風」を醸し出すために提出された法案ではない。
その法改正(一部は法制定)が必要だと信じている国会議員が、熱心に時間をかけて調査・研究し、練り上げたものである。政府提出の法案でも、与党議員は党の部会でしっかり審議し、そのうえで国会での与野党議論に臨んでいる。
こういうところに、政治家としての理念や価値観が現れるのだ。
<「派閥政治」は人間社会の自然な姿>
・政界にも派閥がある。政治家も人間なのだから、考えの似た者同士で協力し合うというのはあたりまえのことだ。「派閥政治、あるまじき」と目くじらを立てる人もいるが、むしろ近年では下火になってきているくらいである。
本来、政治ほど派閥がものをいう世界はないといってもいい。なぜなら、政治には数の論理がつきものだからだ。
・何をするにも「数を味方につけた人」が有利であり、それには派閥に属するのがもっとも手っ取り早いのだ。これは、国会議員としての仕事を、なるべく滞りなくまっとうするための処世術のようなものだ。
・だが、賢い有権者になりたいのなら、マスコミが言っていることの99パーセントは何のためにもならない。それどころか害を及ぼすノイズだと考えたほうがいい。
・政治家とて人間であり、その人間が政治を動かしている。政治とは、一切の汚れなき聖人君子が行う崇高な所業ではないのだ。
そもそも国会議員が何をすべきかは、すべて憲法に明確に定められている。
<族議員は「民意の一部」を汲み上げているだけ>
・族議員とは、特定の業界団体の事情に詳しく、その業界団体の有利になるよう政策決定に関わろうとする国会議員のことだ。彼らもまた世間で槍玉に上げられがちな存在だが、やはり全面的に否定するのはお門違いなのである。
・世間では「特定の業界に利益誘導するな」と喧しいが、政治家が民意を反映するというのは、言い換えれば利益誘導にほかならない。
国会議員は、国民生活を向上させるために働く。
・世の中には、さまざまな業界団体があり、何が利となり何が害となるかは必ずしも一致しない。業界団体によって利害が異なれば、民意も業界団体ごとに異なるというわけだ。
族議員は、そんな数ある民意のうち一部を汲み上げているに過ぎない。
自分を支持し、国会に送り込んだ業界団体の代表として、族議員は、そんな数ある民意のうち一部を汲み上げているに過ぎない。
・ただし、これは業界団体同士、族議員同士のパワーバランスの話であって、民意の一部を反映しようと働く族議員の存在そのものを否定すべき話ではない。
あくまで、憲法で言うところの「全体の奉仕者」であることも忘れてはいけない。
要するに、一部の民意と全体の奉仕者とのバランスを国会議員は問われている。もしバランスを失えば、選挙によるしっぺ返しを受けるだろう。
<「内閣」とは誰か、何をしているのか――知っているようで知らない「大臣の役割」>
<「内閣=企業」と考えるとわかりやすい>
・そもそも、国会で立法と予算審議が行われるのは何のためか。この両者は行政、つまり政策を実現することに向かっているのである。
政策とは「政府の活動」であり、政府の活動内容とは「定められた法律を執行する」ことだ。また、政府が活動するには何かと経費がかかる。その経費の総額が国会予算だ。
・すべての政策は、社会の秩序を保ち、国民が安心して暮らすためにある。
・私はよく、「国と企業は同じ」と説明する。そう考えるとわかりやすいのだ。
内閣総理大臣は「社長」で、閣僚は「各部署の部長」だ。
各省庁の官僚や議員は「社長→部長」という指示系統のもとで実務を行う「社員」ということになる。
では国会は何に当たるかというと、内閣が提出した法案や予算案を審議し、承認することから、さしずめ「株主総会」といったところだろう。
<「国会」と「内閣」の混同を解く>
・国会は立法府、内閣は行政府だ。
ただし両者の役割は密接に関係しており、責任の所在も不可分だ。憲法には「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」と定められている。
・国会と内閣がそれぞれ何をするかを理解するというのは、この国がどうやって治められているのかという「統治のルール」を知ることだ。
統治のルールとは、すなわち憲法である。
<政権の寿命を読む目安「青木の法則」>
・そこでぜひ知っておいてもらいたいのが、「青木の法則」である。
「青木の法則」とは、私が勝手にそう呼び始めただけなのだが、「内閣支持率+与党第一党の政党支持率」(青木率)が50を切ると政権が倒れる」というものだ。
かつて自民党参議院幹事長を務め「参院のドン」とも呼ばれた青木幹雄氏が、しばしば経験則として話していたことである。永田町ではよく知られている法則だ。
・当然だが、支持率と獲得議席数には正の相関がある。
青木率が高ければ高いほど、獲得議席数も多くなると予測できるという、きわめてシンプルな話だ。
・こうしてみると、青木率は60を切ると、その後の回復はまず難しく、そのままじりじりと下がり続けて50以下になると退陣に追い込まれる、というケースが多いことがわかる。
<なぜ、政治家の「失言」は不問とすべきなのか>
・政治家の仕事の中身を見なくては「政治家の真価」を問うことはできない。そして政治家の真価を問うことができなければ、「賢い有権者」にはなれない。
賢い有権者になれないというのは、よりより社会の実現に向かう投票行動ができないということだ。つまり、「自分たちに与えられた手段=選挙」を通じて社会をよくしていくという、重大な役割の一端を担えないことを意味する。
・だからこそ、本来は政治家の本文である「政策の話」が大半でなくてはいけない。国会議員の仕事は先の章で説明したとおり、政策に直結する法律と予算を審議することだ。だから、国会議員については「どれくらい本会議で発言しているか」「どんな法案を提出しているか」で語らなくてはいけない。
一方、内閣の仕事は行政、つまり政策を打ち出し実行することだ。
したがって、内閣については「どんな政策を実現しようとしているか」「実際に、実現できているか」で語らなくてはいけない。
ところが実際には、雰囲気の話のほうが圧倒的に多いのだ。
雰囲気の話というのは、政策とは無関係の意味のない話だ。
国会議員の取るに足らない発言、あるいは本人や近親者の取るに足らない行動をあげつらう。
はっきり言ってタブロイド紙の三文記事程度のものなのに、「政治家の資質なし」「国会リーダーの資格なし」と勝手に烙印を押す。
残念なことに、こうした雰囲気の話は枚挙に暇がない。
・いくら発言が不適切でも、その人の仕事の中身が立派ならば問題ない。
<単なる「叩きたがり屋」「脅したがり屋」に惑わされるな>
・世間では、政策を非難できないときには、いっそう雰囲気の話が多くなるという傾向がある。
・今後、こうした無意味な騒動に惑わされないようにするには、「政策の話」と「雰囲気の話」をきっちり切り分けるクセをつけることだ。
<「政局」を政治と捉えると大きく見誤る>
・政局とは、ひと言でいえば、政治家同士の小競り合いのことである。
人間が寄り集まれば派閥に分かれるし、足の引っ張り合いや駆け引き、マウントの取り合いも起こる。人間社会の1つの縮図とも言える政界でも、同じことが起こっているわけだ。
・マスコミは、政局を芸能ニュースばりに報じるが、これもまた下らないことである。政局を追いかけても、政治のことは何ひとつわからない。
<政治は不透明ではない、政治こそが透明である>
・日本は立憲民主制である。憲法に基づき、民主的なプロセスで統治が行われる。少なくともそういう国では、後ろ暗いことや不透明なことは、ほとんど起こらない。ルールの下で手続きを行うというのが基本原理だからだ。
そう考えると、実は政治ほど透明な世界はないといっていいだろう。
・その点、マスコミがやっていることは、民主主義の対極ではないだろうか。彼らは勝手に国民の代表を標榜しているが、内実はかなり身勝手で独善的である。
<官僚制を批判する人がわかっていないこと>
・内閣総理大臣を「政府」という企業の代表取締役社長としたら、閣僚は各部署の部長に当たる。
閣僚の下で働く官僚は「社員」だ。官僚は閣僚の右腕的存在であり、上意下達で省庁スタッフを動かす。社員は社員でも、課長クラスの有力社員といってもいいかもしれない。
・「官僚=権力」と短絡的に結びつけて考えられている節があるが、国会議員や閣僚同様、決められたルールに従って、粛々と仕事をしているだけなのだ。
・つまるところ官僚とは、専門的な事務方なのだ。どの企業にも法務の専門職がいると思うが、それとまったく同じである。
官僚制を批判する人もまた、おそらく世間的なイメージだけで官僚を見ているだけで、官僚の仕事など本当は理解していないのだろう。
閣僚のもとで働く官僚も政府の一員である。そうである以上、憲法をはじめとした法律で役割と禁忌が明確に定められた、きわめて透明な存在なのである。
・今の新型コロナで、日本は鎖国しないのはケシカランともいわれる。
その心情には筆者も賛成なのだが、先にも述べたように、いかんせん日本は憲法で非常事態条項がない珍しい国だ。憲法上の規定がないので、各国のような個人の行動制限やロックダウン(都市封鎖)はできない。
そのため、出入国管理も各国のようにはできにくい。
・鎖国できないのを官僚のせいだとするのは妥当ではなく、有事対応の憲法改正が出来ていないのが根本原因だ。
<「遠くの政府」と「近くの地域」――「ニア・イズ・ベター」の地方分権を考える>
<国のことは国で、地方のことは地方で――「補完性原理」>
・「ニア・イズ・ベター」という原則がある。
直訳すると「近いほうがいい」ということだが、これが地方分権の基本的な考え方である。
どういう意味かというと、国民の身の回りのことは、国民の身近な行政機関、つまり地方自治体が行ったほうがいいということだ。
・だから、国のことは国、地方のことは地方で行うというように、役割を補完する。そういう意味で、「ニア・イズ・ベター」を原則とする地方分権の考え方は「補完性原理」に基づいている。
<「住む場所を自分で選べる」という権力者――「足による投票」>
・地方のことは地方にしかわからないから、市民に身近なことは地方行政が面倒を見たほうがいい。これは「分権化定理」という理論でも裏付けられている。
・分権化定理とは、「国よりも地方自治体のほうが、住民の生活実態やニーズなどの情報を把握しやすいため、地方自治体に自治権をもたせ、その責任で行政サービスを提供させたほうが、国全体として、より高い行政が叶う」というものである。
・では、自分はどこに住みたいか。より自分にとって好ましい行政がある地域を、住む場所として選ぶというのが「足による投票」である。
・国は「議員内閣制」だ。国民は選挙で国会議員を選び、内閣総理大臣は政権与党のなかから、政権与党の国会議員によって指名される。
・一方、地方自治体は「二元代表制」だ。地方議会議員も、首長である知事も、地域住民が投票する選挙で直接、選ばれる。
<ずっと言われている「道州制」、実現しないのはなぜか>
・この「道州制」は根強く訴えられており、多くの人が賛同している。それにもかかわらず実現していない。
足かせの1つとなっているのは、実は憲法だ。
「地方のことは地方で」を「地方のルールは地方で決める」と捉えると、地方の条例制定権を自立させたほうがいい。それには、憲法第94条の改正が必要である。
憲法94条では「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」とされているが、あくまで「法律の範囲内」でしかできないのだ。
<地方分権で「地域間格差」が広がる?それよりも大事なこと>
・つまり「地方のことは地方でやる」とは、すなわち「地方のことは地方のカネでやる」ということでもあるのだ。
では、現在の規制はどうなっているかというと、ひと言でいえば「上納金分配システム」だ。
簡単に説明すると、国民が納めた税金は、いったん国に集められる。そして「地方交付税」として、国から地方へと分配される。つまり地方の財政は、ほぼ国が握っているということだ。
「地方自治体の財源の不均衡を調整すること」、つまり「金持ち地域と貧乏地域の格差を生まないようにすること」が、地方交付税の大義名分だ。
・ここで、地方交付税の大義名分が気になっている人もいるかもしれない。
地方自治体の財源の不均衡を調整する。この地方交付税がなくなったら、地域の経済格差が生まれ、極端に貧しい地方自治体が生じるのではないか。たしかに一部の地域では、そういうことも起こってくるだろう。
・本当に問題にすべきは、個人間の所得格差だ。
経済成長を続け、失業率を最低限に抑える。そのために、必要なつど適切な経済政策を国が行う。こうして国民一人ひとりが、あまねく文化的で豊かな生活ができるようになっていけばいい。そこで「地域間の経済格差」を問う必要などないのだ。
<「コロナ禍」で考える地方分権の是非>
・その気になって世の中を見渡してみれば、地方分権を「わがこと」として考える機会は多いはずだ。
・感染拡大が収まらない局面では、都知事や県知事が緊急事態発言の発令を国に「要請」し、感染拡大が収まってきたら解除を「要請」する。
・しかし、ひとたび新型ウイルスが国内に入ってしまったら、感染状況は、いわば各地方自治体の足元の問題だ。自治体によって人口も違えば人の流れも違い、したがって感染状況は自治体ごとに異なる。
そういう場合は、地方自治体の首長の判断で対策を打つのが、もっとも効果的だ。感染拡大の抑え込みは時間との勝負でもある。地域の状況をもっともよく把握している人が独自の判断で、適時、瞬発的に対策を打つことが望ましい。
・現に欧米の国々も見ても、国会元首の役割は補償金の財源を準備したり、国民に向けて警戒を呼びかけたりすることだ。地方自治体に相応の権限があり、ロックダウンなどの対策は、各都市が独自の判断で行っている。
おそらく唯一の例外は、地方分権がほとんどないイギリスだけだ。
・つまり、地方分権が進んでいないために、「住民に補償金を出すための補助金」を出す制度を新たに設ける、などといいう面倒な措置が必要になってしまったわけである。
さらに、地域の医療が逼迫している。
・もし道州制ができていれば、医療の広域行政は県ではなく道州単位にするだけで、医療の逼迫はもっと抑えられる。
・前に説明したとおり、「地方のことは他方で」とは、「地方のルールは地方で決める」ということであり、また、「地方のことは地方のカネでやる」ということだ。
地方自治体に自立的な「条例制定権」があり、地方の税収は地方の財源となるようになったら、どうか。
たとえば今回の新型ウイルスのような「地域密着型の危機」が、いざ起こったときに、必要な対策を必要なタイミングで打てるようになる。
地方分権は、このように私たちの生活、場合によっては健康や生命にも関わる大きな問題なのである。
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