背景には「裏切り者は絶対に許さない」「復讐は名誉ある戦い」というロシアの伝統的な掟がある(4)

<どうすれば「創造性の高い働き方」ができるのか>

<◆「70%ルール」で時間を捻出し、創造性の高い仕事に振り向ける>

・これまでの仕事は従来の70%の工数で終了させるという「70%ルール」を私は提唱したい。

 デジタルという武器を手に入れ、オンライン化、リモートワークという「新たな選択肢」を手に入れた現在、十分に実現可能な目標だ。

 それによって、残りの30%の時間を、創造的な仕事に振り向けることが可能となる。

 創造的な仕事とは、「新たな変化」や「新たな価値」を生み出す仕事である。難易度は高いが、やりがいは大きい。

 反復的かつ機能的なルーチン業務は、徹底的に効率化を志向する。

<◆デジタルの時代だからこそ、リアリズムが大事――大事なのは「誰と会うか」>

・創造性の高い仕事をするためには、「刺激」が必要だ。同質的な人たちだけが集まって、「刺激」に乏しい議論を繰り返したところで、新たな発想、ユニークなアイデアは生まれてこない。

・「変化の芽」は現場にある。現場に身を置くからこそ、五感が機能し、「変化の予兆」に気づくことができる。

 機能的な仕事はサクサクとオンライン、リモートですませればいい。しかし、机にしがみついているだけでは、「未来の予兆」は見えてこない。

 デジタルの時代だからこそ、リアリズムが大事になる。人と対面で会うからこそわかること、現場に自ら行くからこそ見えることも多い。

・オンライン化やリモートワークの最大のリスクは、「つながっているつもり」「見えているつもり」「わかっているつもり」に陥ってしまうことである。

 いくら便利でも、やはり現場に行かなければ感じられないもの、人と対面で会わなければ見えてこないものは確実にある。

「三現主義」(現地・現物・現実)など時代遅れと切り捨ててはいけない。五感で感じるリアリズムは、デジタルで代替することはできない。

<◆掛け持ち業務や副業で、創造性を高める――「異質の場」で、「異質の人」と出会い、「異質の仕事」に関わる>

・日本企業における働き方改革は、リモートワークの推進だけではない。多くの会社が働き方の自由度を高める取り組みを広げようとしている。

 たとえば武田薬品工業は、社内で異なる業務を期間限定で掛け持ちする新たな制度を導入した。

「タケダ・キャリア・スクエア」というこの制度では、就業時間の20%程度を、自分が関心のあるほかの部署の業務に使うことができる。

 知識やスキルを磨くだけでなく、自分自身の適正に合った仕事を見つけるきっかけにもなる。

・ライオンはほかの企業の社員などを対象に、新規事業の立ち上げを副業で行う人の公募を始めた。ライオンが個人に業務委託する契約で、リモートワークも可能で、勤務日数は週1日から選べる。

 こうした制度を使えば、転職しないでも、「新たな場」で「新たなチャレンジ」をすることができる。

「異質の場」で、「異質の人」と出会い、「異質の仕事」に関わることによって、間違いなく世界は広がる。

<コロナ後の人材評価の4つのポイント>

◆「個の自立」が前提条件

・機能的な仕事は、オンラインやリモートでサクサクと効率的に進めればいい。

・しかし、それを実現するには、重大な前提条件がある。それは一人ひとりが「自立」することである。

・力とやる気のある「個」の発想力、突破力を最大限に活かし、新たな可能性を追求しなくてはならない。

<ポイント❶ 「自己管理」できる人が評価される>

・リモートワークとは、たんに働く「場所」が変わることではない。仕事の「管理の仕方」が変わるのである。

・しかし、リモートワークにおける「ボス」はあくまでも自分自身である。自分で仕事を設計し、自分で管理するのが基本である。

・リモートワークで成果を出すためには「規律」が必要である。たとえば、

●規則正しい生活を心がける

●「報連相」(報告・連絡・相談)をこまめに行う

●業務日誌をつける(何をしていたのかを記録する)

<ポイント❷ 「指示待ち」ではない人が評価される>

・いま求められている人材は、「新たなレール」を敷ける人、「新たな車両」を造ることができる人である。

 自らの意見をもち、積極的にアイデアを出せる人でなければ、高い評価は得られない。

<ポイント❸ 「自己研鑽」を続けられる人が評価される>

・「プロ」になることを望むのであれば、自分自身を磨くことにお金と時間をかけて、自己鍛錬を行うべきである。

<ポイント❹ 会社に「しがみつかない」人が評価される>

・本当に力がある人間は、会社にしがみつかない。だから会社も、しがみつかない人を評価し、登用する。

<元に戻るな、大きく前に進め!>

<歴史は70~80年サイクルで繰り返す」と多くの歴史学者が指摘する。>

・そして、終戦から75年たった2020年、私たちを襲ったのは未知のウイルスだった。

 その被害は、私たちの当初の想定をはるかに超える甚大なものとなっている。世界経済は壊滅的な打撃を受け、日本もその影響をまともに受けざるをえない状況に陥っている。

 まずは、社会的弱者、経済的困窮者を救い、時間はかかるかもしれないが、経済的復興はしっかりと果たさなければならない。

 しかし、コロナ・ショックのもつ意味はそれだけにとどまらない。この「目に見えない黒船」は、日本という国、日本企業、そして日本人が覚醒するまたとないチャンスでもある。

 80年後には「コロナ革命」と呼ばれているかもしれない大変革の真っただ中に、私たちはいるのだ。

<日本人が陥っていた悪弊を一掃するチャンス>

・コロナ後に、私たちは元に戻ってはいけない。これは経済規模の話をしているのではない。元に戻してはいけないのは、私たちの心の中に長いあいだ巣食ってきた潜在意識や暗黙的な常識、根底にある価値観である。個人の幸せよりも組織が優先される「集団主義」。やってもやらなくても差がつかない「悪平等主義」。常に横と比較する「横並び主義」。責任を明確にしない「総合無責任体質」………。

 こうした悪弊を一掃することができず、私たちは「緩慢なる衰退」に陥っていた。「目に見えない黒船」が来襲したにもかかわらず、旧来の意識や常識、価値観を払拭することができなければ、この国が浮上することはないだろう。

 私たちは元に戻るのではなく、大きく前に進まなければならないのだ。

<私たちはもっと豊かになれる。私たちはもっと幸せになれる>

・今回のコロナ・ショックは、私にとっても自分の働き方を見直す好機となった。この本はコロナのおかげで書き上げることができたといっても過言ではない。内容や質はさておき、私は2週間ほどでこの本をいっきに書き上げた。

・「目に見えない黒船」は私たちに「もっと豊かになれ。もっと幸せになれ」という問いかけをしてくれているように私には思えてならない。

 すべてが止まったからこそ見えてきたものを、私たちは大切にしなければならない。

『パンデミック・マップ』

伝染病の起源・拡大・根絶の歴史

サンドラ・ヘンベル 日経ナショナルグラフィック  2020/2/14

<人類と伝染病の闘い>

・14世紀にヨーロッパに壊滅的な被害をもたらしたペストから、19世紀に流行して多数の死者を出したコレラ、毎年のように流行をくりかえすインフルエンザ、1980年代に姿を現したエイズ、世界を恐怖に陥れたエボラ出血熱、近年ブラジルで爆発的な感染を見せ新生児に重篤な症状をもたらすジカ熱まで、歴史の中に現れては消えた伝染病の数々を、地図を中心に解説する。

<人類と恐ろしい伝染病との戦いは、同時に、興味深い歴史の物語でもある>

・伝染病がなぜ起こり広がるのかは人類にとって長年の謎だったが、19世紀半ば以降になると、感染地図と呼ばれるものがその解明に大きく寄与するようになる。専門家たちはこの地図を使って予防法を考え、感染の拡大を防ぐようになった。歴史上はじめての感染地図は、1854年にロンドン・ソーホー地区でコレラが大流行した時にイギリスの医師ジョン・スノウが作ったものだ。この流行ではおよそ600人が犠牲になったが、そのうち200人は一夜のうちに命を落とした。

・ソーホー地区の調査と、ロンドン南部で行われたさらに大規模な調査研究が評価され、ジョン・スノウは「疫学の父」として歴史上に名を残すことになった。疫学とは、伝染病の発生率や分布、決定因子などを研究する医学の一分野だ。疫学者は一人ひとりの患者を診るのではなく、もっと広い視野で発病したのかを調べ、伝染病が突如広がる原因を調査する学問だと言える。疫学者が「医学探偵」と呼ばれる所以だ。

・1918年のスペインインフルエンザ(スペインかぜ)の流行のような世界規模での大流行を示す地図もあれば、1875年にダイド号からフィジーに広まった麻疹(はしか)のようにごく限られた地域での流行に着目したものもある。

・印象的な物語はいくつもある。15世紀の終わりに梅毒が初めてヨーロッパに上陸した時などは、この病気をどこの国が持ち込んだかという責任のなすり合いが起こった。17世紀には赤痢で死亡した人間が「積み荷」となった奴隷船がカリブ海に到着したという心痛む報告が残っている。18世紀にはニューゲート監獄の囚人たちが天然痘の接種を受けることに同意し、絞首刑を免れていた。

・1979年には天然痘の根絶が正式に宣言され、そう遠くない未来に、他の伝染病も根絶されるだろうという楽観的な見方が広まった。

 それから40年が経過したが、天然痘以外に人類が根絶できたヒトの伝染病はまだない。根絶寸前までいったものはいくつかあるが、伝染病は実にしぶとく、ほぼ根絶されたと思われていた状態から再流行が始まったケースもある。さらに何の前触れもなく新たな伝染病が発生し、交通網の発達のおかげであっという間に世界中に広がることすら起こり得るようになった。加えて、感染症の治療法として最も効果がある抗生物質に耐性を持つ病原体の増加も懸念されている。

・2002年、未知の新型肺炎が中国で広がった。重症急性呼吸器症候群(SARS)と名付けられたこの病気で命を落とした患者はアジア、南北アメリカ大陸、ヨーロッパで700人以上にのぼる。のちに、この新種の病原体は普通の風邪の症状を起こすウイルスの仲間だということがわかった。それまでの風邪のウイルスは、ちょっとしたのどの痛みを引き起こす程度のごく弱いものだった。

 エボラ出血熱が最初に知られるようになったのは1976年のことだ。この時は中央アフリカのごく一部の地域での流行だったため、ほとんど注目されなかった。ところが2014年に、突如として、爆発的な流行が始まった。過去にエボラ患者が出ていなかった西アフリカで最初の患者が確認されると、ヨーロッパや米国など他の地域にも感染が広がっていった。

・2016年までにHIV感染とエイズの世界的流行により少なくとも3500万人が死亡し、さらに数千万人がウイルスのキャリアであることがわかっている。しかも患者の大多数は命を救うために必要な薬を手に入れられずにいる。これに匹敵する規模の伝染病を探すなら、14世紀のペストにまでさかのぼらなければならない。当時8000万人だったヨーロッパの全人口の60%が死亡し、全世界では7500万人から2億人の死者が出たと推定されている。

 14世紀には微生物の存在はまったく知られておらず、人々の生活の中心にあったのは宗教だった。そのため、ハンセン病は神の罰とされ、ペストも同じような捉え方をしていたようだ。

・本書で示す地図それぞれの背後には、人類が味わってきた恐怖と苦しみがある。しかし同時に、人類がどこまでも手ごわい、恐るべき敵を撃退する力を手に入れるための知識を求めて、たゆまぬ努力を続けたことも見て取れるだろう。

<SARS>

病原体: SARSコロナウイルス

感染経路: 完全には解明されていないが、感染者との濃厚な接触(主に経気道感染)やウイルスが付着した場所に触れることを介して感染すると考えられている

症状: 発熱、全身の懈怠感、筋肉痛、頭痛、下痢、悪寒などインフルエンザに似た症状が出る

発生状況: 2018年半ばの段階で2004年以降SARSの報告はない

流行状況: 現時点で発生の報告はないが、流行が起これば世界中に広がる恐れがある

予防: 新たな患者が発生した場合は速やかに報告し、感染者と接触者を隔離する

治療: 確立された治療法はないが、抗ウイルス剤を使用し、呼吸管理、肺炎の予防または治療、肺の腫脹を抑える治療が行われる

グローバル戦略: 新たな患者の発生を世界レベルで監視し、迅速な報告と封じ込めを行う

・2002年11月16日、中南部の広東省で農業に従事する若い男性が、肺炎に似た症状で仏山第一人民医院に入院した。その症状は一般的な肺炎

とは異なるものだった。男性は回復して退院したが、どこでどのようにして病気にかかったのかはわからないままだった。その後の数週間で同じ症状を示す患者が次々と現れた。

<あっという間の感染拡大>

・3カ月後、広東省でこの病気の治療にあたっていた医師の1人が結婚式に出席するため香港に向かった、この医師は香港のメトロポールホテルにチェックインした頃から体調を崩し、数日後に死亡する。医師のホテル滞在は24時間にも満たなかったが、近くの部屋に泊まっていた宿泊客にもすでに感染はひろがっていた。78歳のカナダ人女性も感染した1人だった。2日後に女性は自宅のあるカナダのトロントに戻ったが、その時点で肺炎に似た症状を呈しており、3月5日に死亡した。それからの数週間というもの、マスコミは騒然となる。カナダではおよそ400人が同様の症状を訴え、トロントの住民2万5000人に隔離措置がとられ、44人の患者が死亡した。

 中国系米国人のビジネスマン、ジョニー・チャンもメトロホールホテルに宿泊していた宿泊していた1人だ。チャンはベトナムに向かう飛行機の機内で具合が悪くなり、ハノイの病院に運ばれた。チャンは病院で死亡したが、医療スタッフや他の患者に感染が広がった。

・その頃、世界保健機関(WHO)の職員で感染症が専門のイタリア人医師カルロ・ウルバニはハノイを拠点に活動していた。ウルバニのもとに病院から緊急要請の電話が入り、調査に向かった。ウルバニはこの病気を今までにない未知の感染症だと結論付け、WHOに警戒態勢を敷くように連絡した。彼もまたこの病気に感染し、死亡した。

・2003年3月半ば、イギリスの新聞『サンデータイムズ』に「死の病原菌がヨーロッパにも」という見出しが躍った。ニューヨークからシンガポールに向かう飛行機の乗客150人以上に「従来の治療が効かない新型肺炎」と接触した恐れがあるため、ドイツのフランクフルトで隔離されているという記事だった。隔離は流行発生時の対策として古くから行われてきた手法で、賛否はあるものの、不明点が多くワクチンもない状況では、いかに21世紀とはいえ当局もこのやり方に頼るしかなかった。

・3月の第3週までに350人の感染が疑われ、そのうち10人が死亡し、感染はイタリア、アイルランド、米国、シンガポールなど13カ国に拡大した。2週間後には感染者を出した国は18カ国に増え、2400人以上の感染者と、89人の死者が出た。WHOは調査のため国際的な専門家チームを中国に派遣。米国は隔離措置が可能な感染症のリストにSARSを加えた。

<国際的な対応>

・後になって、WHOはカルロ・ウルバニ医師の行動により流行の初期段階で多数の新規患者を特定して隔離できたため、さらなる感染拡大を防止できたと発表している。WHOは世界中の医師に向けてSARSへの注意を呼びかけた。ここで重要な役割を果たしたのが、国際保健規則だ。最初の導入は1969年で、コレラ、ペスト、黄熱、天然痘の監視と管理が目的だった。WHOは2005年に、SARSの流行を受けて新しい感染症にも対応できるよう改訂した。

・2月の終わりにWHOは重症急性呼吸器症候群、略してSARSと呼ばれるようになったこの病気を正式に認定した。

・SARSの感染拡大は、公衆衛生を脅かすリスクになっただけでなく、経済にも打撃を加えた。4月末の時点でタイへの旅行者は70%、シンガポールへの旅行者は60%も減少した。

<恐ろしい新型コロナウイルス>

・2003年4月、SARSの正体がやっと見えてくる。香港の研究者たちがSARSの病原体はコロナウイルスの新型である可能性が高いという論文を発表したのだ。「コロナウイルス」という名前はラテン語で「王冠」や「光環」を意味する「コロナ」に由来し、ウイルスの表面に王冠のような突起があることからこう呼ばれる。SARSを引き起こす特殊なコロナウイルスは過去に人間からも動物からも見つかったことがなかった。

 コロナウイルス自体はありふれたウイルスで、通常は重症化することなく、普通の風邪程度ですむ。しかし、SARSのような特殊なコロナウイルスは命を脅かす存在になる。SARSは主に感染者との濃厚な接触(キス、ハグ、直接接触、食器やコップの共有、1メートル以内の接近)により感染すると考えられている。

・患者が咳やくしゃみをしたときに飛び散る飛沫によって広がることが多い。飛沫が付着した表面や物体に触れた手で口や鼻、目を触ったときにもウイルスに感染する。広い範囲の空気感染や他の経路による感染が起こっている可能性もあるが、完全には解明されていない。

 2003年4月23日、北京郊外で1000床のSARS専門病院が開院した。この小湯山医院は迅速に患者に対応したが、治療した患者はわずか680人で、6月の終わりにもはや必要がなくなった。WHOは中国でSARSの危機が去ったと判断し、7月初めにSARS患者が出た29カ国でのSARSの終息を宣言。北米、南米、ヨーロッパ、アジアの諸国を巻き込み、8098人の患者と774人の死者を出し、世界を震撼させたSARSの大流行は突如として始まり、あっという間に終息したのだ。

・最初の感染源を含めて、SARSについてはまだわかっていないことが多い。中国で流行が始まった地域で捕獲されたハクビシンからSARSに似たウイルスが単離されたと発表されると、中国政府は駆除を開始し、1万頭以上のハクビシンとアナグマ、タヌキが処分された。中国に生息するキクガシラコウモリも感染源になった可能性が指摘されている。

<MERSの登場>

・2018年の時点で、2004年以降にSARSの報告はない。しかし、2012年に米国はSARSウイルスを国民の健康や安全にとって重大な脅威となる可能性がある「特定病原体」に指定した。そして同じ年に、別の新型コロナウイルスがサウジアラビアに現れた。

 サウジアラビアの都市ジェッダの病院で、1人の患者が急性肺炎と臓器不全のため死亡した。病院では病原体を特定できなかったため、オランダの研究所に喀痰(かくたん)検査を依頼したところ、中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERSコロナウイルス)が検出された。このウイルスこそ、中東呼吸器症候群、略してMERSはSARSに似た病気で、致死率は約40%にも達する。

・2018年現在、米国、イラン、フィリピンと、イギリスなどヨーロッパの数カ国を含む合計27ヵ国でMERSの発生が報告されている。だが、患者の約80%はサウジアラビアに集中しており、人から人への感染以外にヒトコブラクダからの感染も疑われている。MERSはコウモリが持っていたウイルスがラクダに広がった可能性がある。中東以外で発生した患者は、同地域に旅行して感染したケースがほとんどだ。

 

・普通の風邪の原因となるひとコロナウイルスは何百年もの間、重篤な症状を引き起こすことはなかった。それが、なぜ今になって突如として致死性の高い新型ウイルスが出現したのか。SARSの流行語、専門家はこれを「実に憂慮すべき問題」だと評した。SARSと入れ替わるように致死性の高いMERSが出現したのは、そのすぐ後だった。

<ペスト Plague>

病原体: ペスト菌

感染経路: ネズミなどのげっ歯類の動物からノミを介して人間に感染する。また、空気感染や菌が入り込んだ細胞に直接接触することにより人間同士の間で感染が起こる場合もある

症状: 発熱、悪寒、全身筋肉痛、衰弱、嘔吐、吐き気。最も一般的な腺ペストではリンパ節が腫れて痛みが生じ、膿がたまって破裂することもある

発生状況: 2010~15年の世界の患者数は3248人、死者は548人。腺ペストの致死率は30~60%。腺ペストの次に多い肺ペストは、治療しないまま放置すると確実に死に至る

進行状況: 南北アメリカ、アフリカ、アジアの各農村部で風土病となっており、主にコンゴ民主共和国、マダガスカル、ペルーに集中している

予防: ペストが風土病になっている地域において、ネズミの巣の撤去と殺虫剤の使用

治療: 抗生物質の投与と酸素吸入療法と点滴の併用

グローバル戦略: ペスト感染のリスクがある地域の監視と、流行を封じ込めるための迅速な対応

・ペストは何世紀もの間、世界中に大きな惨禍をもたらしてきた。その影響は大きく、経済や政治にも動揺を与え、社会階層を変えることすらあった。ペストの英語Plague は、「傷」あるいは「襲うもの」を意味するラテン語に由来し、「疫病」とも訳される。人々に恐れられ、あらゆる形の災害を表現する言葉になっていたのだ。例えば、旧約聖書でイスラエル人を救い出すために神がエジプトにもたらした十の災いは英語で「ten plagues(10の疫病)」と言い表される。

 ペストの歴史は古い。2017年には、ロシアとクロアチアで発見された後期旧石器時代の人骨からペストの痕跡が見つかったことが発表された。歴史学者の間では、紀元165年にローマを襲って多くの死者を出した「疫病」が、ローマ帝国崩壊の一因となったと指摘する声もある。ただし、この時の疫病が腺ペストだったのか、天然痘などの他の伝染病だったのかはわかっていない。この流行を除いても、ペストは少なくとも3回の大流行を起こしている。

<ユスティニアヌスのペスト>

・記録に残っている最初のペスト流行は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝の名前をとって「ユスティニアヌスのペスト」と名付けられている。伝染病の流行としては信頼性の高い記録が残っている最初のものだ。この時の流行は紀元541年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)で始まり、東はペルシャ、西は南ヨーロッパへと広がって、最終的には世界の全人口の33~40%が死亡したと言われている。

 コンスタンティノープルからペストが拡大する過程は明らかになっているが、そもそもコンスタンティノープルに入り込んだ経路はよくわかっていない。ペストの惨禍を目の当たりにしたビザンツ帝国の歴史家プロコピオスは、交易路をたどってエジプトから伝わったと主張している。最近の研究では、この時のペストはおそらくケニア、ウガンダ、コンゴあたりのサハラ以南の地域で発生し、そこからエジプトに移動したか、別の経路をたどってビザンツ帝国の首都に到達した可能性が示唆されている。現在のロシアから中国にかけての地域が発生地だったとする説もある。この地域が約800年後の「黒死病(ペスト)」の発生地だったことは現在では定説になっているからだ。

 コンスタンティノープルに冬が訪れるとペストの勢いは衰え、次の春がめぐってくると再び猛威を振るうというのが典型だった。流行は散発的に8世紀まで続いた。

 この病気を引き起こす病原体はペスト菌と呼ばれる細菌だ。げっ歯類に寄生する、ペスト菌を持つノミに人間が噛まれて感染することが多い。また、患者の咳やくしゃみの飛沫を吸ったり、菌がいる細胞に直接触れることでも感染する。

 

・かつてはネズミがペストを運ぶと考えられていたが、2018年に初めに、過去の世界的大流行の原因をネズミだとするには、すさまじい勢いで感染が広がった理由を説明できないという研究結果が出された。この研究では、人間の体や衣類にすみついたノミやシラミがペストを運んだ可能性が高いと結論付けている。

 ペストには腺ペストと肺ペストの2種類に分けられる。腺ペストはペスト患者の大部分を占め、リンパ節に集中する。肺ペストは肺が中心となり、致死率は高いが、かかることは少ない。もう一つ敗血症型ペストというものもある。こちらは、血液中にペスト菌が入り込んだ場合に発症する。

<黒死病>

・腺ペストにかかると、首やわきの下、鼠蹊部に腫れと痛みを伴う黒い「黄痃(おうげん)」ができる。

・黒死病と恐れられたペストは史上最悪の伝染病と言われる。当時8000万人だったヨーロッパの人口の60%が死亡し、世界全体では7500万人から2億人が命を落とした。長い間、黒死病は中国からヨーロッパへ持ち込まれたと考えられてきたが、ヨーロッパとアジアの間に横たわる広大な草原地帯が発生地だったとする説もある。カスピ海から南ロシアにかけての地域では、野ネズミが密集して暮らす巣にペスト菌がはびこり、ペストの温床になっているためだ。

 黒死病の最初の発生をたどっていくと、1346年のクリミアに行きつく。クリミア半島に築かれたイタリアの交易拠点をモンゴル軍が攻撃した際に、モンゴル軍でペストが発生し、それがすぐに町中に広まった。逃げ出したイタリア商人たちを乗せた船はあちこちに寄港しながら彼らを母国に送り届けたが、その船にペスト菌を持ったネズミたちも乗り込んでいたようだ。

・イタリア商人たちの船がクリミアを出てコンスタンティノープルに到着したのが1347年5月、その地で流行が始まったのは7月の初めだった。

ンスタンティノープルからはエジプトのアレキサンドリア行きの船が多数出ていたため、ペストはアレキサンドリアに運び込まれた。次いで北アフリカに広がり、中東を超えた。地中海沿岸地域でも流行して、9月にフランスの南部のマルセイユに達した。マルセイユからは北上してローヌ渓谷やリヨンに広がり、さらに南西のスペインにも拡大。その間も、イタリアの商船はジェノバ、ベネチア、ピサに向かっていた。

・スペインはその後まもなく二方面からペストに襲われた。フランスのペストは西に広がりブルターニュ地方、次いで北東のパリへと進む。

・ペストがフランスからイギリスに入ってきたのは1647年6月のことで、現在のドーセット州沿岸部のウェイマスが最初に襲われた。

・ペストとがロンドンを襲ったのは1347年の8月で、瞬く間に国全体にペストが蔓延した。スコットランド、ウェールズ、アイルランドもそれに続いた。

 ほぼ時期を同じくして、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、オーストリア、スイス、ポーランドにもペストの波が押し寄せた。そして、1351年末にはロシアに達する。ヨーロッパでペストの惨禍を免れたのは、人口がわずかで外界との接触が少なかったアイスランドとフィンランドだけだったと言われている。

・ヨーロッパを席巻したペストは1353年にようやくおさまったが、その後も小規模な流行があちこちで散見された。イギリスでは、15世紀に入ってもしぶとくペストが残っていた。1563年には、ロンドンで当時の人口の4分の1から3分の1にあたる2万人以上の死者が出た。

<ロンドンのペスト大流行>

・17世紀の大流行として記録に残る「ロンドンのペスト大流行」の最初の患者は、1665年の初めにウェストミンスター地区を通るドルリーレーン沿いのロンドンウォールの外側で死亡した2人だった。

・暑い夏の間、ペストによる死者はとどまるところを知らず増え続け、9月に入った頃には1週間で7165人が死亡した。宮廷や法曹関係者、議会といった富裕層や権力者の多くはロンドンから逃げ出した。

・一般に、秋になって気温が下がるとペストの勢いは衰える。詳細な日記をつけていたことで有名なイングランドの官僚のサミュエル・ピープスは、10月半ばに次のように書いている。「しかし、通りに人影はなく、憂鬱なことに大勢の病気の貧乏人が通りで苦しみもだえている(中略)だが、今週は大幅な減少が大いに期待される」

 ピープスの期待は現実となり、ロンドンのペスト大流行は終焉を迎えた。公式発表の死者数は6万8596人だったが、実際は10万人以上が亡くなったと考えられている。

<現代のペスト>

・3回目の大流行にして最後の世界規模の流行は1860年代に中国で発生し、1894年に香港に達した。それからはお決まりの流行パターンをたどって世界中の港湾都市に広がっていった。20年間続いた流行によって1000万~1200万人の死者が出たと推定されている。20世紀前半にはインドでペストが流行し、ベトナムでは1960年代から70年代にかけてのベトナム戦争中に流行した。サハラ以南のアフリカやマダガスカルでは、現在もペストは珍しくなく、報告症例数の95%以上をこの地域が占める。

 

・現代のペストが発生した時期は、伝染病の科学的な解明が大きく進展した頃と重なる。ルイ・パスツールの細菌説を足がかりに、19世紀後半から20世紀初頭には様々な伝染病を引き起こす多数の細菌が発見された。

 香港に現代のペストが到達した1894年に、フランスの細菌学者アレクサンドル・イェルサンや日本の北里柴三郎がペストの病原体となる細菌を発見し、感染経路を明らかにした。

・それからまもなく、都市部ではネズミが関与するペストは終息したものの、南北アメリカ、アフリカ、アジアではジリスなど現地に生息する小型の哺乳類の保菌が増えた。このような新たな保菌動物の登場により、米国西部を含む多数の地域でペストは風土病になった。2017年10月の時点で、ペストはコンゴ民主共和国、マダガスカル、ペルーで最大の風土病となっている。ペストは感染拡大が速く、死亡率も高いため、ペスト患者の遺体を城壁超しに投げ込んだり、飛行機からペスト菌を持ったノミをばらまいたりという荒っぽいやり方で、何百年も前から生物兵器として利用されてきた。近年は、テロリストに利用される恐れがあるとして、安全保障における脅威に指定されている。米国の専門委員会は、「噴霧できる状態にしたペスト菌」は恐ろしい武器になる可能性があると警告している。

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