本書をお読みいただければ、いわゆるユダヤ陰謀論がいかに荒唐無稽なものであり、歴史的に社会を蝕んできたか、十分におわかりいただけるはずです。(1)

(2022/4/25)

『みんな大好き陰謀論』

ダマされやすい人のためのリテラシー向上入門

内藤陽介 ビジネス社   2020/7/15

「世界はユダヤが裏で操っている!」………そんなバカな(笑)

「裏の裏」を読む リテラシーを身につけよう!

<陰謀論>

・「ある出来事について、広く事実として認められている公の情報や、それに基づく社会の標準的な理解とは別に、確実な根拠もないまま、特定の組織や人物が自らの利益のため秘密裏に策を弄した結果と考える主張」となります。

・そもそも、2009年の総選挙で野党が勝利し、自民党が下野した際もムサシの機械が使われていました。したがって、ムサシ陰謀論は全くのデマとして、まともな政治家や言論人からは相手にされていません。

 ここ数年の選挙で自民党が勝利を続けてきたのは、動機はどうであれ、有権者が自民党に投票してきた結果です。もちろん、現政権への批判や憂慮が公の場で忌憚なく語られることは民主主義国家として健全なことですが、政権批判にデマを紛れ込ませ、根拠のない陰謀論に与して選挙結果を認めようとしないのであれば、それこそ、民主主義を否定することになります。

 

・また、陰謀論は特定の個人や集団を「悪」と決めつける傾向があるために、人種差別や人権侵害にもつながりません。たとえば、日本の政財界やメディアは「在日(韓国人・朝鮮人)」が牛耳っているから、国益のためにも「在日」は排除せよなどと主張する人が時々いますが、彼らが「在日」と認定している政治家の多くは、出自的には朝鮮半島とは無関係です。

・したがって、単なる思考実験や娯楽の物語として陰謀論を語ることは個人の自由かもしれませんが、その域を超え、陰謀論が社会的に影響力を及ぼすようになるのは非常に危険です。その最も悲惨な実例が、ユダヤ陰謀論とナチス・ドイツのホロコーストだったことは周知のとおりです。第ニ次大戦によりナチス・ドイツは崩壊し、陰謀論に基づく反ユダヤ主義は非難されるべき言説として明確に否定されましたが、現在なお、欧米社会の底流には根強く残っています。

・本書をお読みいただければ、いわゆるユダヤ陰謀論がいかに荒唐無稽なものであり、歴史的に社会を蝕んできたか、十分におわかりいただけるはずです。

<ソ連はユダヤ人が作った ⁉>

<ロシア革命と陰謀論>

・共産主義を唱え、広めたのはドイツ人マルクスでした。20世紀初頭、世界一資本主義体制が進んでいたのは英国でした。

 しかし、実際に最初に共産主義革命が起こったのはロシアでした。

・第一次大戦でロシア軍はドイツ軍に敗退し、士気は衰え、軍規が乱れました。物資は不足し、国民生活が困窮します。

 そして、ついに1917年3月(ロシア暦2月)に労働者による大規模なストライキ・暴動が起き、皇帝ニコライ2世は捕らえられ退位し、ロマノフ朝の帝政ロシアは終焉を迎えました。これは2月革命といいます。

 レーニンはスイスに亡命中でしたが、急遽、4月に帰国します。

 この時点では社会革命党やメンシェヴィキなど、ボリシェヴィキ以外の勢力が多数を占めていました。2月革命後、政府とソヴィエトの二重権力状態が続いていました。9月初頭に軍部のクーデターが起こると、ボリシェヴィキがこれを鎮圧。ソヴィエト内での力を強めます。その勢いで、11月(ロシア暦10月)にはボリシェヴィキが武装蜂起し、政府を倒しました。

・(注)ボリシェヴィキ:ロシア語で「多数派」の意。ロシアのマルクス主義政党であるロシア社会民主労働党の左派。急進的な革命を主張するレーニンらのグループ。1918年にロシア共産党と改称。

・革命直後の議会の選挙では、社会革命党が第一党になったのですが、レーニンは武力で議会を閉鎖し、ボリシェヴィキの一党独裁を確立します。

 以上、革命の経緯を教科書的にまとめましたが、このロシア革命についても陰謀論があります。

陰謀論;ロシア革命はユダヤ人の革命だ。ソ連はユダヤ人が作った。ボリシェヴィキの8割がユダヤ人だった。

・議会に関しても、1929年のソヴィエト連邦最高評議会の民族別議席割当数はロシア人に402議席、ウクライナ人に95議席、ユダヤ人に55議席、ラトヴィア人に26議席等で、ユダヤ人は1割弱程度です。したがって、ソ連指導部におけるユダヤ人の比率は、他の民族集団よりやや高めと言えますが、それでも、「革命政府の約8割がユダヤ人」というのは無理があります。

<複雑なレーニンの出自>

・レーニンに関しては、「4分の1ユダヤ人だった」と言われることがあります。

・多種多様な民族が複雑に交じり合っていて、一言で表現するなら「ロシア帝国人」としか言いようがありません。しかも、ユダヤ人であった祖父もロシア正教に改宗しているのですから、宗教的には「4分の1」以下です。

 こんなに薄いユダヤ人なのに、レーニンに関して、ドイツ人でもモルドヴァ人でもなく、「ユダヤ人」としてのルーツだけが強調されてしまうのは、何でもかんでもユダヤに結びつけたがる陰謀論者のこじつけというものでしょう。

<俗説の要因①ユダヤ人が本当に帝政ロシアの崩壊を望んでいた>

・こうした事実にもかかわらず、「ロシア革命はユダヤ人の革命」という俗説が広まっていった背景には、大きく三つの要因があると考えられます。

 まず、ユダヤ人がロシア帝国の崩壊を望んでいたのは事実です。ロシア帝国下のユダヤ人は迫害を受け、悲惨な状態にありました。ポグロムと呼ばれるユダヤ人虐殺が多発し、世界中のユダヤ人が強い反感を持っていたのです。

・クリミア戦争での敗戦にショックを受けたアレクサンドル二世は、国家体制の立ち遅れを反省して近代化を進め、1861年の農奴解放など自由主義的な改革を実施し、ユダヤ人に対しても比較的寛容な態度を取っていました。

 

・また、当時のヨーロッパはナショナリズムの時代です。近代化とは国民国家としての体制を整えることとはほぼ同義でしたので、アレクサンドル二世の即位後、ロシアでもナショナリズムが徐々に高揚していくことになります。その副作用として、“異分子”としてのユダヤ人を排除しようとする反ユダヤ主義の傾向も強まっていきました。

 たとえば、1869年、キリスト教に改宗したユダヤ人のヤコブ・ブラフマンが『カハルの書』と題する書籍を出版。署名に登場するカハルとは、ロシア帝国の支配下で認められていたユダヤ人の自治組織のことですが、ブラフマンは、これを「ユダヤ人は国家の中に国家を形成する」としたうえで、「その目的は一般市民を服従させ、搾取することである。ユダヤ人の協同組織カハルに金を払えば、ユダヤ人は非ユダヤ人の財産を騙し取る許可を事前に与えられる」と主張。

・こうして、ロシア社会において、ユダヤ人に対する圧力が強まっていく中で、1881年、皇帝アレクサンドル二世が暗殺されます。

・犯人グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ケルフマンがいたことから、ウクライナと南ロシアではこれをユダヤ人の陰謀とする噂が広まり、大規模なポグロムが発生しました。以後、1884年まで、およそ3年間にわたってロシア・東欧で多くのユダヤ人が犠牲になり、命からがらアメリカに脱出人々が相次ぎました。

 その後も、ロシア帝国の領域内では、1903~06年に大規模なポグロムが発生し、『牛乳屋のテヴィエ』あらためミュージカル版『屋根の上のヴァイオリン弾き』のように、ロシア・東欧の農村部から多くのユダヤ人が着の身着のままでアメリカへと逃れていきました。

<日露戦争に協力したシフの存在>

・また、アメリカの実業家ジェイコブ・シフは、日露戦争のときに日本の戦時国債引き受けに協力してくれました。

・しかし、日本の勝利はユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒につながるとして、シフが説得し、英国ロスチャイルドが日本の最初の戦時公債の下請けを行ってくれます。

 その後、日本は三回にわたって合計7200ポンドの公債を募集しました。その際にも、シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズなどに呼びかけてくれています。三回目と四回目の起債ではロンドンとパリのロスチャイルド家がそろって引き受け団となりました。

 日露戦争後も、シフはロシア帝国への資金提供を妨害します。その後も、1917年にはレーニンとトロツキーに対して2000万ドルの資金を提供して、帝政ロシアに対抗するロシア革命を支援しました。

 これが「ユダヤの世界支配」の陰謀論に結びつく材料ともなっているのですが、シフの件に関しては、陰謀ではなく純粋な工作活動です。

・もっとも、共産主義政権もまた反ユダヤ主義政策をとっていくので、その後、シフは大いに後悔することになります。

<俗説の要因②ボリシェヴィキがユダヤ人を積極的に登用>

・次いで、ボリシェヴィキ政権が、「弱者」であるユダヤ人を革命に動員しようと、盛んに宣伝攻勢をかけていた点が指摘できます。

 長年にわたり、キリスト教世界で差別を受け続けてきたユダヤ人の中には、「平等」に重きを置く社会主義・共産主義の思想に惹かれる者も少なくありませんでした。

・こうした背景があったところへ、たとえば、レーニンは1918年の演説で「反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!」と訴えています。

 この呼びかけだけ切り取れば、ボリシェヴィキとユダヤ人が結託しているようにも見えますが、ボリシェヴィキは、ロシア帝国の支配下で圧迫されてきた他の諸民族に対しても同様の「民族解放」スローガンを掲げていました。

・そして、1918年7月17日、レーニンの命を受け、元皇帝ニコライ二世以下、ロマノフ一族全員が殺害されます。その際、処刑隊を率いていた元軍医でチェーカー次席のヤコフ・ユロフスキーがユダヤ人だったことで、「やっぱりユダヤの陰謀が………」と言う人も出てきます。

<俗説の要因③ 悪名高きユダヤ人幹部>

・さらに、スターリン体制の確立期に、ゲンリフ・ヤゴーダとラーザリ・カガノーヴィチという評判のよくないユダヤ人がたまたまスターリンの側近にいたことが、反ユダヤ的感情の一因となったことも間違いありません。

 ヤゴーダは内務人民委員部(NKVD)の初代長官に就任します。

 1934年のセルゲイ・キーロフ暗殺事件では、犯人のレオニード・ニコラエフと親交があり資金面で援助していたため、彼を利用しキーロフを暗殺させた黒幕とされます。この事件を機にスターリンの大粛清が始まります。

 1936年にヤゴーダは大粛清の第一段階を指揮しスターリン反対派を摘発します。

・評判の悪い、もうひとりのユダヤ人カガノーヴィチは筋金入りです。1920~22年にトルクメニスタンで反イスラム闘争を指導し、徹底的にムスリムを痛めつけます。1925年から1928年にかけて、ウクライナ共産党第一書記を務め、党とウクライナ民族主義者との闘争を率いました。1930年代初頭のウクライナ大飢饉が起こりますが、カガノーヴィチは執行部として、この責任の一端を担っています。

 彼は大粛清の開始前にすでに「破壊活動家」として何千人もの鉄道管理者や経営者逮捕を組織化していました。1937年から39年まで重工業人民委員、1939年から40年までは石油工業人民委員として、規律の統制とスターリン政策への追従を進め、あらゆる所で多くの人民を逮捕しました。

 こうした背景と、ボリシェヴィキ政権に対する反感とキリスト教社会に根づいた反ユダヤ主義が相まって、「ロシア革命はユダヤ人の革命」というイメージが形成されていったと考えられます。なお、逮捕された人の中には、もちろんユダヤ人も大勢いたことも強調しておかなければなりません。

 革命初期、帝政ロシアを打倒する際にはユダヤ人ほか少数民族を利用したボリシェヴィキ政権でしたが、一党独裁を完成させたソ連の共産党政権は、ヘブライ語教育を禁止し、ユダヤの指導者を逮捕・投獄するなどして、明らかな「反ユダヤ政策」を推進しています。その点からも、共産党政権を「ユダヤ人の政府」と見なすのは無理があります。

・(注)ウクライナ大飢饉:ウクライナは豊かな穀倉地帯で、その小麦は重要な外貨獲得源であった。しかし、1930年代、ソ連政権による農業の集団化により生産性が下がった。収穫が減っているにもかかわらず、過酷な取り立てが行われたため、農民は食べるものがなく餓死していった。餓死者の人数は確定できないが、ある学者は300万~600万人と推計している。

<「シオン賢者の議定書」>

・もうひとつ、共産主義はユダヤの陰謀と考える人々に、大きく影響を与えてきたのは第二章でも触れた『シオン賢者の議定書』ではないでしょうか。ユダヤ陰謀論の決定版とも言うべきもので、「これもユダヤ、あれもユダヤ」と世の中の悪を全部ユダヤのせいにしています。

・『議定書』は暴力的な政治のすすめではじまります。

「善良な性質の人間よりは先天的不良性の人間の方が数において勝ることは、常に忘れてはならぬことである。それ故に学理上の議論によるよりは残忍極まる暴力を振るって威嚇したほうが遥かに政治上の好成績を挙げるのである」

 そして、「自由・平等・四海同胞なる語は、盲従的な我々の諜者によって世界の隅々にまで宣伝せられ、幾千万の民衆は我々の陣営に投じ、この旗幟(きし)を担ぎ廻っている。しかるに実際を言うと、この標語を到るところ平和安寧一致を破壊し、国家の基礎をも覆し、もって非ユダヤ人の幸福を侵蝕する獅子身中の虫である」と革命もユダヤのせい。

 さらに、「我が軍隊すなわち社会主義、無政府主義、共産主義に参加することを下層民に勧誘するにおいては、彼らは我々を圧迫よりの救済者として仰ぐであろう」と、無政府主義や共産主義もまたユダヤの陰謀というわけです。

・今では、これは偽書とわかっていますが、20世紀前半にはその内容が信じられ、ロシアのポグロム、ナチス・ドイツのホロコーストへと直結した史上最悪のでっち上げ陰謀論です。

<民族ですらないユダヤ人、ユダヤ人移住計画>

・ところで、ソ連におけるユダヤ人とはどのような位置づけにあったのでしょうか。

 レーニンは「地域的自治制」を唱えていました。それによると、「民族自決権の承認とは、特定の民族が多数居住する、その民族固有の一定の地域に対してのみ、自治権を認めること」です。結果的に、その地域におけるマイノリティは「民族」として認定せず、その権利も認めません。

・さらに、スターリンの時代になると、「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を特徴として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体」という定義が決められます。

・ただし、歴代指導者の中で特にスターリンがユダヤ人に厳しかったかといえば、そうでもありません。スターリン以降も、ソ連政権は一貫して反ユダヤ主義です。

 スターリン時代のように殺されたり、シベリア送りにはなりませんが、フルシチョフの時代にも、ユダヤ人は露骨に昇進から外され、活躍の場が限られました。政治に関係のない技術職で実績を上げるしか、ユダヤ人がソ連社会で成功する途はほとんどなかったのです。

 フルシチョフにはスターリンのような残虐性はありませんでしたが、ユダヤ人に対しては辛辣で「ソ連では非ユダヤ民族は適性を有しているが、ユダヤ人の否定的な精神には付ける薬がなく、ユダヤ共同体の存続には懐疑的である」などと語っています。そして、フルシチョフ時代もまた、依然として、多くのユダヤ人が経済的犯罪、社会的寄生罪の罪状で告発されました。

・このように一貫して虐げられているものですから、ソ連からのユダヤ人亡命者は1971年に1万3022人、72年に3万1681人、73年に3万4733人を数えています。そして、冷戦末期の1990年から91年には数十万人が国外へ亡命しました。

<東欧諸国の反ユダヤ主義>

・ユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)を行ったナチス・ドイツは、現代世界の標準的な歴史認識では絶対悪として語られています。

 ナチスが非人道的で残虐な行為を行ったことはまぎれもない事実です。そして、東欧諸国では、「ソ連赤軍と共産主義者がナチス・ドイツに勝利し東ヨーロッパを解放した」というのが長年にわたり公式の歴史観とされてきました。

 ただし、「ソ連赤軍と~」以下の一文を額面通りに受け取るのは危険です。客観的に見れば、第ニ次大戦中、ナチスや親独政権という「右の全体主義」に支配されていたわけで、国民の自由や人権が尊重されていなかったという点では五十歩百歩だからです。

<ポートランド共産政権の徹底した反ユダヤ主義>

・第ニ界大戦後、ソ連の衛星国だった国々の中でも、特に反ユダヤ主義の傾向が強かったのがポートランドです。

・かくして、戦後のポートランド国家は、共産党体制の下で、ナチス・ドイツによる占領時代以上の“ユーデンライン(ユダヤ人が存在しない土地)”を実現することになりました。ちなみに、現在のポートランドは、国民の90%が「ポートランド人」によって構成されており、事実上の単一民族国家となっています。

 以上、前章と併せてお読みいただければおわかりのように、そもそもマルクス主義、共産主義はユダヤ教の影響を受けたものなどではなく、むしろ、それを否定するところから始まっています。共産党政権がユダヤ人を弾圧し続けてきた歴史を事実に即して考察すれば、「共産主義はユダヤの陰謀」などという発想は出てくるはずがないのです。

<コミンテルンはユダヤによる世界支配の手段 ⁉>

・コミンテルンとは共産主義インターナショナルの略称で、基本的にソ連の対外工作機関です。第三インターナショナルともいいます。対外工作の一環として、日vs米、日vs中、独vs英仏などの対立をあおり、実際に戦争へと誘導することで、自国の脅威になりそうな国々を弱体化させることに成功しました。

「コミンテルン」という言葉だけで怪しむ人もいるようですが、高校世界史の教科書にも載っており、れっきとした実在の機関です。

 コミンテルンの存在や役割そのものを訝(いぶか)しむ人がいる一方で、コミンテルンを万能組織か何かのように誤解し、次のような陰謀論にはまる人もいます。

「陰謀論;コミンテルンを通じてユダヤは世界支配を目論んでいた」

<コミンテルンの工作が一端が露呈したゾルゲ事件>

・ソ連のスパイといえば日本ではリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実(ほつみ)が有名です。

・このようにコミンテルンが陰謀や工作を行っていたことは事実ですが、それが直ちに“ユダヤの陰謀”と断定できないのは当然のことです。

<労働者は団結しなければ勝てない>

・共産主義のスローガンとして、しばしば「万国の労働者、団結せよ」というマルクスの言葉が引用されますが、団結が必要とされているのは、労働者が弱いからです。社会的に弱いことはもちろん、実は、物理的、身体的能力にも弱いのです。

<革命運動の国際組織が生まれる>

・いいかえれば、そもそもコミンテルンはロシアの共産主義者が作ったものです。

<ボリシェヴィキの主導権を確立した第二回大会>

・こうして発足したコミンテルンは、当初から、ロシアのボリシェヴィキの影響力が圧倒的でした。

・このように各地で左翼系政党がコミンテルン賛成派と反対派に分かれ、党の分裂・再統合を経て再編成されていく過程で、左派が「共産党」を名乗り、コミンテルンに加盟しました。以後、コミンテルンは世界革命を目指して、各国共産党を支援・指導していくことになります。

<世界大国際ソヴィエト共和国の夢破れて敗戦革命路線へ>

・当初、コミンテルンは「(結成翌年の)1920年には、世界的規模の大国際ソヴィエト共和国が誕生するだろう」と豪語していました。しかし、1921年3月、コミンテルンの指導の下、ドイツ中部のマンスフェルトを中心に行われた“三月闘争”が失敗し、世界革命は実現不可能であることが明らかになります。

 比較的強力と思われたドイツ共産党の蜂起があっけなく潰されましたから、コミンテルン幹部も、世界革命など無理があるとして、しばらく鎮静します。もっとも完全に諦めるような潔い人々ではなく、したたかに方向転換を図りました。

<レーニン死後、スターリンの一国社会主義路線へ>

<ブルガリアのディミトロフ>

・コミンテルンの歴史を語るうえで、社会主義世界の「首領」となったスターリンとならんで、欠かすことのできないのがブルガリア人のゲオルギ・ディミトロフです。

・1935年7~8月のコミンテルン第7回大会では、ディミトロフは、スターリンの代弁者として、反共を国是とする独伊の台頭を前に多様な左派勢力の結集を呼びかける“人民戦線”戦術を提起します。

<第ニ次大戦におけるコミンテルンの暗躍、ソ連の対日工作は成功>

・第ニ次大戦勃発に至る経緯は非常に複雑なので、その原因を単純に言いきることは難しいのですが、ソ連およびコミンテルンの果たした役割は大きいと言えます。

・スターリンの目的は、日本を可能なかぎり弱体にし、ソ連から遠ざけておくことにあった。これは要するに、日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせるということである。結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することになった。

・そして、1939年にはノモハン事件が起きました。満州国とモンゴル人民共和国の国境付近で起こった日ソ間の武力衝突です。長らく日本軍が大敗を喫したことになっていましたが、ソ連側も大きなダメージを受けていたことが、冷戦後の情報公開でわかっています。

<ソ連の対独工作は半分成功、独ソ戦開始でソ連は英米協調路線に>

・日本はソ連にいいようにやられていますが、ヨーロッパ情勢は二転三転しています。

・共産党・共産主義者を使って、ソ連が各地で暴動を起こさせるかもしれないとの正当な疑念を払拭するためにコミンテルンは解散となりました。

 もっとも、戦争により各国共産党が弱体化していたことも解散にいたった理由の一つです。日本でも共産党は弾圧に遭い、一時、壊滅しています。

<共産主義者とユダヤと英王室は結託している?>

・このように、コミンテルンはソ連の諜報工作機関ではありますが、そこに「ユダヤの陰謀」との関係を見出すことは困難です。

 それにもかかわらず、ソ連ないしはコミンテルンとユダヤの陰謀を結び付ける言説が後を絶たない一因としては、反ユダヤ主義を国是としていたナチス・ドイツが、共産主義の背後にはユダヤがいるとのプロパガンダを展開し、ソ連との戦争はユダヤとの戦争でもあると強弁し続け、それを真に受けた人が少なからずいたという事情が挙げられます。

<コミンテルン解散後のディミトロフ>

・知る人ぞ知る隠れた凄腕工作員ゲオルギ・ディミトロフ、スターリンの右腕としてコミンテルンに君臨し、晩年はブルガリアの独裁者に収まり、粛清もされずに天寿を全うしたのです。

<東欧のユダヤ人はハザール改宗ユダヤ人の末裔 ⁉>

陰謀論:現在のユダヤ教徒はハザール系改宗ユダヤ教徒の子孫で、パレスチナから離散したユダヤ人の子孫ではない。したがって、パレスチナの地にイスラエルを「再建」する権利などない。

・ハザールとは、7~10世紀ごろ、カスピ海や北海の北部沿岸に栄えた遊牧民族ないしは彼らの国で、その支配層が9世紀にユダヤ教に改宗したとされています。

 ユダヤ=ハザール論者の理屈によると、

「中世西ヨーロッパのユダヤ人口は数万人だったのに、17世紀東欧のユダヤ人口が数十万あったことは西方からの移民では説明できない。現在のユダヤ教徒の大半を占めるアシュケナジムは、ハザール系ユダヤ教徒の子孫である。つまり、古代パレスチナに住んでいたユダヤ人の子孫ではなく、ユダヤ教に改宗したハザール人やスラブ人の子孫であって、セム系の起源を持たない。したがって、イスラエルへの歴史的権利もなく、神によるイスラエル人へのカナンの地の約束の主体でもなく、それゆえ、シオニストたちの根拠は崩壊する」

 つまり、ハザール系の偽ユダヤ人が、あたかもパレスチナから離散したユダヤ人の子孫であるかのように「祖国の回復」を求めている、これは不当であるというのです。

<ユダヤ人の歴史―アシュケナジムー>

・ユダヤ人には、大きく分けてアシュケナジムとセファルディムの二系統があります。

 アシュケナジ(アシュケナジムの単数形)の語源は創世記10章、1~3にでてくるノアの曾孫ですが、なぜか現在のドイツにあたる地域、特にライン地方のユダヤ人を指すようになります。

・なお、アシュケナジムの中心が東欧に移るのは十字軍以降です。

・ただ、王侯が商業を盛んにするためにユダヤ人を招いた事実からも明らかなように、キリスト教徒は主に農民で、当初は商工業者が少なかったのです。不得意分野をユダヤ人で補ったので、ある種の棲み分けができていました。ところが、キリスト教徒の商工業者が育つと、閉鎖的な同業者団体ギルドを形成し、ユダヤ系の商工業者は排除されるようになります。こういった西ヨーロッパにおける産業構造的な変化も、知識や技術を持ったユダヤ人たちが、独自のネットワークをたどり、徐々に東ヨーロッパに移住していく一因でもありました。

 しかし、決定的だったのは、十字軍がユダヤ社会にもたらした災難です。

・ユダヤ人は、住みにくくなる一方の西欧を逃れ、ポートランドを中心とした東中欧への移住が本格的に始まります。これがアシュケナジムのルーツです。

 当時、ポートランド・リトアニア王国が、商業を重視した政策をとっており、経済知識、特に金融知識のあるユダヤ人を積極的に受け入れていました。

<ユダヤ人の歴史―セファルディムー>

・もうひとつの系統であるセファルディムは聖書のオバデヤ書に出てくるセファラドが語源です。これがスペイン及びスペインに定住したユダヤ人とその子孫を指すようになりました。現在ではアラブ・アフリカ・アジアに住むユダヤ人のことをセファルディムということが多いようです。

 西暦1~2世紀からユダヤ人のスぺインへの定住が始まります。

・北からは、レオン・カスティリャ・アラゴンといったキリスト教国によるレコンキスタ(国土回復)運動が本格化します。

 南には、そのカウンターとしてムラービト朝(11世紀)ついでムワッヒド朝(12世紀)が建ちます。北アフリカに起こった両王朝は原理主義的な傾向が強く、ユダヤ人に対しても不寛容です。それが、イベリア半島に進出してきました。

 そのため、多くのユダヤ人がキリスト教スぺイン諸国や東方イスラム世界に移住しました。キリスト教スペイン諸国は、レコンキスタ運動の過程では、ある程度、ユダヤ人との共存を志向します。隷属民としてではありますが、グラナダを除くイベリア半島ほぼ全域でレコンキスタが完了します。そうなるとユダヤ人との共存の基盤が喪失しますから、スぺインでも反ユダヤ主義が蔓延します。レコンキスタは「異教徒を追い出せ」という運動なので、イスラム教徒のみならず、ユダヤ教徒も追い出しの対象です。イスラム教徒を追い払うまではユダヤ人を利用しても、そのあとはお払い箱。現金なものです。

・ユダヤ教徒のままでいては迫害を受けるため、キリスト教に改宗するユダヤ人(コンベルソ)が増加します。しかし、多くの改宗者は心の底からキリスト教徒になったわけではありませんでした。迫害を逃れるため、しかたなく改宗した偽装改宗者はマラーノ(豚)と呼ばれました。

・1492年1月、グラナダが陥落し、レコンキスタが完了します。そして同年3月には、スペインでユダヤ人追放令が出ます。それは、国王側近の有力コンベルソが提案したことでした。この結果、およそ15万人のユダヤ人が追放を選び、スぺインに残るため改宗に応じたのは5万人ほどだったと言われています。

 レコンキスタの時点では、隣国のポルトガルに移住したユダヤ人が多かったのですが、そのポルトガルでも1496年にユダヤ人追放令が発せられ、遠くのオスマン帝国やハプスブルグ家の治める神聖ローマ帝国へと、旅立たなければなりませんでした。

 ハプスブルグ帝国は金融や技術的知識に長じたユダヤ人を歓迎し、皇帝の庇護下に置きました。

・結局、レコンキスタ前後の数十年で70~100万人のセファルディムが中東欧に移動したと考えられています。ですから、15世紀の間に、その半分にあたる50万人が中東欧に移住したとすれば、この地域のユダヤ人の増加も説明がつかないことはないのです。

<ハザールとは何か>

・お待たせいたしました。ここから、問題のハザールについての話です。

 ハザールについては資料が少なく、その起源などの詳細は不明ですが、民族としてのハザールはテュルク(トルコ)系遊牧民とみられています。もともと、彼らは多神教とアニミズムを信仰しており、なかでも、「デングル・カガン(天王)」を崇拝していました。

 6世紀末頃にカスピ海沿岸およびカフカースからアゾフ海に進出し、西突厥(にしとっけつ)の宋主権下に入りました。そして、“東のテュルク”(の中心をなす民族)としてビザンツ帝国と同盟を結び、ササン朝ペルシアと戦います。

 7世紀中頃になると、西突厥は衰退し、カスピ海の北からカフカース、黒海沿いにハザール・カガン国が成立します。拠点であるカフカース地方ではムスリムと国境を接するため、ムスリムとの関係が緊張します。ハザールはビザンツ帝国とムスリムの間に挟まり、どちらか一方の陣営につくのは賢明でないという選択から、中立をめざすことになりました。

 そのためにとった方法がユダヤ教への改宗です。

・しかし、約1世紀後の965年、ハザール・カガン国は遠征してきたキエフ・ルーシに制圧され、事実上崩壊します。

「この崩壊したハザールから改宗ユダヤ人が東欧各地に移住した。アシュケナジムは改宗ハザール人の末裔である」が、本章冒頭の陰謀論です。

<北方主義との関係>

・「北方人種」というのは、1899年、アメリカの人類学者、ウィリアム・Z・リプリーが『ヨーロッパ諸人種:社会学的研究』において、コーカソイドの下位分類として、地中海人種、アルプス人種とともに提案した概念です。

 この分類では、北方人種が知能・精神面でも優秀で「人を導くのに最適な才覚」を持っており、地中海人種は「身体においては北方人種に劣るが、知性豊かで創造性に溢れる」、アルプス人種は「基本的に従属する存在で、兵士や水夫などに用いる。王たる北方人種とはもっとも正反対の存在」とされました。

<アーサー・ケストラーの「第13支族」>

・北方主義に対しては、すでに、1930年代から英国を中心に強い批判があり、イタリア・ファシスト党のベニート・ムッソリーニさえ「人種論など、9割は感性の産物である」と一蹴するほどでした。さらに、ナチス・ドイツ独特の人種主義による蛮行と第ニ次大戦でのドイツの敗戦を経て、その影響力はまともな言論人の間でほぼ皆無になり、ユダヤ人ハザール起源説も下火になります。

 ところが、1976年、ハンガリー出身のユダヤ系作家、アーサー・ケストラーが『第13支族』を発行したことで、再び注目を集めました。

・1940年6月、欧州大戦でフランスがドイツに降伏すると、ケストラーは親独ヴィシー政権下で「反ナチス的人物」に認定され、南仏のル・ヴェルネ収容所に送られますが、フランス外人部隊に配属されることを条件に収容所から解放されます。その後、まもなく逃亡して英国に帰還。以後、英国軍に参加するなどして終戦までを過ごしました。

・結局、ハザールに関する資料が非常に少ないので、確実な根拠を示すことができないのです。

 誤解を恐れずにいうなら、この議論は邪馬台国をめぐる論争のようなもので、資料の少ない古代王朝に関しては、作家が想像力を膨らませて話を作ることができます。ハザール東欧ユダヤ人起源説は、こういった歴史物語のひとつと考えたほうがいいでしょう。

 一方、ハザール起源説を否定する方向の論証はあります。

 たとえば、言語的に、ハザールの言語はテュルク語系言語でしたが、アシュケナジムの使用言語であるイディッシュはドイツ語の一方言がベースとなった言語ですから、全く系統の異なる言語にそっくり入れ替わったという点が不自然です。もっとも、言語は後天的に習得が可能なので、それだけでは全面否定できません。

 しかし、最近は遺伝学が進んでいますので、その道の研究から、より確定的な結果が導き出されています。それによると、ヨーロッパ、北アフリカ、中東のユダヤ人コミュニティのルーツは共通で、テュルク(トルコ)系とは異なる遺伝子を持っていることがわかっています。

 そのため、大半の研究者は、東欧ユダヤ人ハザール起源説に対しては否定的なのです。

<宇野正美氏と陰謀論ビジネス>

・先程挙げたケストラーの『ユダヤ人とは誰か 第13支族・カザール王国の謎』の翻訳者は宇野正美氏です。宇野氏の1986年の著書『ユダヤが解ると世界が見えてくる』は『ユダヤが解ると日本が見えてくる』と合わせて百数十万部ともいわれる大ベストセラーとなりました。日本が高度成長を成し遂げバブル期に入る80年代の本ですから、「儲けすぎ日本」が円高・ドル安で狙い撃ちされている、これは「ある勢力」の世界戦略の一環だという話の流れが大筋の背景としてあったことは容易に推測できます。

<無自覚に拡散される陰謀論>

・日本社会は歴史的にユダヤ人/ユダヤ教徒との接点が少なかったため、欧米のような反ユダヤ主義の伝統もほとんどありませんが、それだけに、「ユダヤの陰謀」論への免疫もありません。そのため、陰謀論を信じやすく、それに基づく偏ったユダヤ認識で物事を偏りがちです。しかし、インタ―ネットを通じて、人々の発言が瞬時に全世界に拡散するなかで、そうした姿勢はあまりにも不用心ではないでしょうか。

・たとえば、仏教などで使用される卍(まんじ)とナチスの鉤十字(ハーケンクロイツ)の問題を考えてみましょう。卍は単純なデザインゆえ、洋の東西を問わず、古くから自然発生的に使われていました。卍がデザインされたもっとも古い遺物は新石器時代のインドのものですが、ハインリヒ・シュリーマンの発見したトロイの遺物の中にも卍のデザインが見られます。このため、シュリーマンは、卍を古代のインド・ヨーロッパ語族に共通の宗教的シンボルと考えました。

・一方、ナチス・ドイツの鉤十字は、シュリーマンが卍をインド・ヨーロッパ語族に共通のシンボルと考えたことから、アーリア人の象徴として、1920年に党章として採用したものです。今では「まんじ」より「ハーケンクロイツ」のほうが有名で、日本人でもお寺以外の場所でこの印を見たらナチスを思い浮かべますが、卍=ナチスになってしまったのは、ここ100年のことにすぎません。しかし、「まんじ」そのものの起源は3000年以上前にまで遡るとされ、長い歴史を持った伝統ある象形なのです。

・一般の欧米人は、日本を含むアジアについての知識が乏しいでしょうから、彼らが単純に卍をナチスと同一視してしまうのは、ある程度やむを得ないことかもしれません。

・日本人として「日本」を発信するためにも、我々は世界の「常識」を身に付けておく必要があります。

 ユダヤ陰謀論という、世界の「非常識」に感化されないための予防薬として、あるいは、そこから脱するための治療薬として、本書を活用いただければ幸いです。 

<きちんと学ぼう! ユダヤと世界史:ユダヤ陰謀論を叱る>

・ユダヤ人/ユダヤ教徒の問題は、キリスト教世界を中心に、全世界の歴史と関わってくるだけに、「ユダヤと世界史」の番組も、1948年のイスラエル建国までをざっと概観しただけですが、ほぼ毎週1回のペースで配信しても20ヵ月以上もかかってしまいました。

・ただし、「ユダヤと世界史」に関しては、本書でも取り上げきれなかった内容もかなり残っていますので、いずれ機会があれば、それらについてもどこかで活字化したいと考えています。

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