ロシア帝国時代にはウクライナ語の使用を禁じられるなど、辛酸をなめてきたウクライナにとって、ロシアからの独立は悲願達成だったといえる。(1)
(2022/5/6)
『図解 地政学入門』
高橋洋一 あさ出版 2016/8/2
・「地政学」――つまり“地理的な条件が一国の政治や軍事、経済に与える影響を考えること”である。これはひと言で定義すると「世界で起こってきた戦争の歴史を知る」になる。地理的な条件とは、領土やその周辺地域のこと。領土といえば国同士が争い奪い合ってきたもの、つまり戦争がつきものだ。だから、地政学とは戦争の歴史を学ぶこと、といえる。そして、近代以降は「陸」から「海」へとその覇権争いの舞台が移された――。
<地政学とは何か>
・ひと言で言えば地政学とは「世界の戦争の歴史を知ること」だ。地球上のどんな位置にあり、どんな地理的危機にさらされ、あるいは地理的好機に恵まれながら発展してきたか。地理的条件によって、一国の危機意識も戦略思考も何から何まで変わる。
その国の性格に、俗に「国民性」「お国柄」などと呼ばれるものの根幹にも、地理的条件が大きく関わっているといっても過言ではない。これら危機意識や戦略思考が目に見える形で現れるのが、戦争だ。
・置かれた地理的条件によって、それぞれの国の生き残りや発展をかけた野心が生まれ、そこから、さまざまな戦争が起こってきた。すべての戦争には、地理的条件による各国なりの「切実な事情」が絡んでいる。
・知識は、現代を生きる知恵として生かされてこそ、身につける意味がある。
<よりよい、より広い土地をめぐる「戦争の歴史」――地政学>
<「川を上れ、海を渡れ」――地政学とは何か?>
・「川を上れ」とは、「歴史を遡って考えてみよ」ということ。「海を渡れ」とは、「海外の事例を参照してみよ」ということ。地政学とは、その川を上ること、海を渡ることを、「戦争というものに当てはめて実践するものである」ともいえるだろう。
・ただ、国家や国境あるいは民族という単位で行われてきた戦争の歴史を頭に入れておくことが、現代を生きる知恵に直結するのは確かだ。
・歴史は、偶然の産物ではない。奇しくも起こった出来事が影響したこともあるだろうが、歴史の背景には例外なく、「国家の思惑」「目論見」、もっといえば「野心」が存在している。世界史とは、そうした国家の思惑、目論見、野心が複雑に絡み合い、争い合いながら作られてきたのだ。
・そこで大きな要素となるのが、「地理的な条件」である。なぜなら、国家の野心とは「領土にまつわる野心」にほかならず、戦争とは領土および領土に付随するもの――すなわち「より広い、よりよい土地」をめぐって起こってきたものだからだ。
<今も昔も、土地をめぐって国同士が「押し合って」いる>
・相手が引けば自分が押すというのが、国際政治の常道だ。
・言い方は悪いが、国際社会は「なめるか、なめられるか」の世界でもある。
・このように、互いの実力、行動力の探り合いや、「相手が引いたら自分が押す」式の駆け引きが、国際政治の舞台では常に繰り広げられている。
<本当は地政学というより「海政学」――海洋国家こそ覇権をとれる>
・地理的条件が国家の動向を左右する、それが地政学の前提だと話した。
地理といっても、より厳密に、とりわけ近代以降でいえば、重要なのは「陸」よりも「海」だ。海を制する海洋国家が、覇権を握るといってもいいだろう。
<なぜ、戦争になるのか? 今は少しはマシな「平和な時代」なのか?>
・なぜ、今まで数多の戦争が起こってきたかといえば、人が「より広い、よりよい土地」を求めてきたからだ。
しかし、今や世界の趨勢は「不戦」に向かっている。積極的に戦って土地を奪うより、戦争を避けようという力学が働きはじめている。
<「民主主義国家同士は戦争をしない」という国際理論>
・前項で見たように、データ上、人類は20世紀になって平和的になった。ひと言でいえば、「民主主義国家同士は戦争をしない」という、国際政治理論である。
・もちろん、民主主義国家同士は「絶対に戦争をしない」わけではない。
しかし、民主国家は独裁国家に比べ、「戦争を起こす確率が絶対的に低い」といえる。なぜなら、民主主義という政治システムは、根本的に戦争とは相容れないからだ。
・20世紀になって、人類はそれ以前に比べると、少し平和的になった。それは、民主主義という政治システムが成熟し、定着しつつあるからだ。
・地域主義国家では個の価値が低く、独裁者や特定の政党の独断によって国の方針が決まる。国家リーダーが「隣国と戦争をして領土を奪う」といえば、誰も逆らえない。
<昔も今も「海」へ向かいたいロシアの地政学>
<ロシアから見た世界――肥沃な土地と不凍港が欲しい>
・ロシアの国としての原型は、9世紀末、主に東スラブ人が現在のウクライナ首都の周辺に築いたキエフ公国である。
キエフ公国は着々と国力を高め、10世紀末に最盛期となるが、13世紀前半、モンゴル人の侵攻を受けて征服される。
キエフ公国の征服とともに、黒海、カスピ海の沿岸を含む広大な土地に、モンゴル帝国の国家(ハン国)の一つ、キプチャク・ハン国が築かれた。
のちにモスクワ大公国が独立するまでの約2世紀半、東スラブ人はキプチャク・ハン国の支配を受ける。当時、モンゴル系の遊牧民を「タタール人」と呼んでいたことから、この時期は「タタールのくびき」の時代とも呼ばれている。
1480年、その被支配の時代を終わらせたモスクワ大公国は、周辺地域を次々と統合していく。1721年には、ロシア帝国が成立、その支配地域は19世紀半ばには、ユーラシア大陸の北半分をほぼ覆い尽くすほどにまで広がった。
・これからロシアが関わった戦争を見ていくが、どの戦争でも、とにかく南に進出したロシアの野心がよくわかる。
・ソ連はアメリカや西欧とはイデオロギーを異にする大国として、世界大戦後の二極時代の一極を形成していく。かねてより続けてきた南下政策に加え、イデオロギー対立という意味でも、ソ連、そしてロシアは主に東欧を舞台に、西欧諸国と大規模な「押し合い」を繰り広げるのである。
クリミア危機(2014年)には、ソ連が崩壊しロシアとなった今でも、西欧諸国との押し合いは続いているということが端的に現れている。
<【年表】ロシアの主な戦争の歴史>
1768年 第一次ロシア・トルコ戦争
ふたたび南下政策が活性化したロシアが、オスマン帝国へ進攻。ロシアが勝利し、クリム・ハン国の保護権とともに、ボスポラス海峡とダーダルネス海峡の商船通行権を得た。
1787年 第二次ロシア・トルコ戦争
ロシアが併合したクリム・ハン国をめぐる争いが発端。孤立無援となった、オスマン帝国がロシアに屈せざるを得ず、ロシアのクリミア半島領有権を認める。第一次・第二次ロシア・トルコ戦争および、1772年、1793年、1795年のポートランド分割により、ロシアは大幅な領土拡大を実現。
1804年 第一次イラン・ロシア戦争
中東方面への南下政策の一環として、ロシアがイランに進攻。ロシア派コーカサス地方のグルジア(ジョージア)と北アゼルバイジャンを獲得。
1812年 モスクワ遠征
ナポレオン戦争の一環。ナポレオンは周囲の西欧列強のみならず、ロシアにも手を伸ばしたが、想像を絶するロシアの寒さに行く手を阻まれ、甚大な被害を出しながら敗走。ロシアははからずして、領土拡大に成功。
1826年 第二次イラン・ロシア戦争
アルメニアの領有権をめぐって始まった戦争。イランに不平等条約を受け入れさせ、ザカフカース全域を手に入れた。
1853年 クリミア戦争
もとは、断続的に続いているロシア・トルコ戦争の一環。主戦場となった半島名をとり、クリミア戦争と呼ばれる。ロシア帝国とフランス、イギリス、オスマン帝国の同盟国が戦った、近代史上稀に見る大規模な戦争。ロシアが講和に応じた。
1856年 アロー戦争
直接関わってはいないが、南下政策を諦めきれないロシアが、東アジア方面へと目を向けるきっかけとなった。
1877年 露土戦争
この戦いで、オスマン帝国は大きく弱体化。ただ、ロシアの南下政策は他国の干渉によって、またも頓挫した。
1904年 日露戦争
ふたたび東アジアに目を向けたロシアと日本の利害がぶつかった戦争。日本に敗戦し、東アジアへの進出を諦めざるをえなくなった。
1914年 第一次世界大戦
ロシア軍が多大な犠牲を払い、大敗退。ヨーロッパ史上、類をみないほど広大な領地を失うという結果に。
1939年 第ニ次世界大戦
連合国の一員として戦い、戦勝国となったことで国際的な地位を確かなものに。
<ロシア・トルコ戦争とポートランド分割――帝国の完成>
・不凍港や肥沃な土地を求めて南下したいロシアと、それを食い止めたいオスマン帝国との戦いは、16世紀から繰り返されてきた。ロシア帝国成立後も、じつに200年もの間、断続的に繰り返された。
まずここで取り上げるのは、1768年の第一次ロシア・トルコ戦争の前段から1787年の第二次ロシア・トルコ戦争までの流れである。
・勢いに乗ったロシアだったが、そんな折の1789年、フランス革命が起こる。王制をひっくり返す革命の余波を恐れたロシアは、オスマン帝国との戦争を中断し、講和したのだった。
・この第一次・第二次ロシア・トルコ戦争と同時期に行われたのが、1772年、1793年、1795年の三度にもわたる「ポートランド分割」である。ロシア、プロイセン、オーストリアが、領土拡大を図ったのだ。
・こうしてロシアは、第一次、第二次ロシア・トルコ戦争とポートランド分割により、大幅な領土拡大を実現した。
<ナポレオン戦争――フランスを撃退、領土を広げる>
・1812年、ロシアはフランス革命後に侵略戦争を始めた、ナポレオン軍の進攻を受ける(モスクワ遠征)。
このナポレオン戦争では、一時はモスクワへの入城まで許すことになったが、ロシアは万策を講じてナポレオン軍を撃退する。そればかりか、講和会議の決定により、フィンランドなどの領地を、図らずも手に入れることになるのである。
・ナポレオンの勢いを恐れたイギリスは、1805年、3度目となる対仏大同盟を結成、スペイン沖の海戦でフランス軍を撃破する。
ここでナポレオンはイギリス本土への進攻を諦め、戦術変更を講じる。イギリスを経済的に封じ込めるために、1806年、ベルリンで大陸封鎖令を発令したのだ。
ひと言で言えば、ヨーロッパ大陸の諸国や北欧諸国に、イギリスとは通商せず、フランスと通商することを命令したのである。ヨーロッパの経済を牛耳ることでイギリスをヨーロッパの市場から締め出し、経済的に自滅させようというわけだ。
しかし、ナポレオンの目論見書とは裏腹に、大陸封鎖令はヨーロッパ大陸の経済を混乱させ、反仏感情が高まった周辺国では反抗する国も出てきた。
・こうしてロシアは、ナポレオン戦争を通じて、またも領土拡大に成功したのである。
<イラン・ロシア戦争とアフガン戦争――南下するロシア、阻みたいイギリス>
・とにかく南へと進みたいロシアの目は、次第に中東にも向けられていく。そこで起こったのが、アフガニスタンをめぐるイギリスとの対立である。
アフガン戦争(第一次、第二次、第三次)は、ロシアの支援を受けたイランのアフガニスタン進攻に、ロシアの南下政策を危険視したイギリスが介入した戦争だ。
・1880年、第二次アフガン戦争に勝ったイギリスはアフガニスタンを保護国化し、イラン南部はイギリスの、イラン北部はロシアの勢力内に収まることになる。
<エジプト・トルコ戦争とクリミア戦争――英仏に敗れて黒海方面を断念>
・エジプト・トルコ戦争は、エジプト人総督ムハンマド・アリーが、1821年の ギリシャ独立戦争でオスマン帝国を支援した見返りに、シリアの領有権を求めたことに端を発した。
この要求をオスマン帝国が拒否すると、1831年、ムハンマド・アリーはシリアに出兵し、二次にわたるエジプト・トルコ戦争が勃発した。
・結局、ロシアは、先のロンドン条約とパリ条約によって、ボスポラス海峡、ダーダルス海峡の独占的航海権とドナウ川河口を失い、黒海沿岸に築いたはずの拠点を一気に失ってしまった。
繰り返しオスマン帝国と戦い、黒海から地中海方面へと進出しようと努めてきたロシアの南下政策は、ここで大きく挫かれることになったのである。
<アロー戦争――英仏勝利に乗じて、ついに不凍港を築く>
・アロー戦争は、ロシアが直接関わった戦争ではない。
ただ、南下政策を諦めきれないロシアが、今度は東アジア方面へと目を向けるきっかけとなった戦争なので、ここで取り上げる。
・結局、英仏に敗れた清は、天津条約の批准に加えて、開港を11港にすること、天津条約で定められた賠償金を増額することなどを定めた、北京条約まで結ばされることになった。
・この流れに乗じたロシアは、英仏とは別に1858年にはアイグン条約、1860年には北京条約を締結する。それらによって黒龍江左岸、および沿海州の領有権を清に認めさせ、沿海州にはウラジオストック港を開港する。
黒海方面では挫折したロシアだったが、英仏と清が戦ったアロー戦争にうまく便乗したことで、ようやく不凍港を築いた。これが東アジア方面に南下する道筋となるのである。
<露土戦争――圧倒的勝利を収めるも西欧の介入を招き後退>
・クリミア戦争で黒海方面への南下政策を中断していたロシアは、ふたたびオスマン帝国に進攻する。
・まずボスニア・ヘルツェゴビナのスラブ系民族のキリスト教徒(ギリシャ正教徒)農民が蜂起し、ブルガリアでも同様の反乱が起こると、周辺のセルビア公国、モンテネグロ公国は彼らを支援する姿勢を示す。
・ロシアは、これを、折しも高まりを見せていたパン・スラブ主義(スラブ語を話す民族の団結を目指す思想)を掲げて、バルカン半島へ進出するチャンスと見た。
そして1877年、スラブ系民族保護の名目のもと、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告をする。
バルカン半島やコーカサス地域で、ロシアは次々とオスマン帝国を撃破、1878年、サン・ステファノ条約の締結をもって露土戦争は終結する。
・イギリスとオーストリアが、真っ先にサン・ステファノ条約に異議を唱えたのは、こうした背景からである。
そこで、ドイツが調停役に立ってベルリン会議が開かれ、1878年に新たに結ばれたベルリン条約によってサン・ステファノ条約は大幅に修正された。
せっかくオスマン帝国を破り、バルカン半島から地中海へと至る足がかりをつかんだかに見えたロシアだったが、他国の干渉によって、またも南下政策は頓挫したのである。
<日露戦争――日本海への南下を目論むも、革命の気運が高まり帝国弱体化へ>
・露土戦争で勝利したにもかかわらず、思うような戦果は得られなかったロシア。そこでロシアの目は、ふたたび東アジアに向けられる。これが新興国・日本の利害とぶつかり、日露戦争が起こるのである。
・しかも、ロシア国内では革命に向けた動きが進んでいた。1905年1月には、戦況が不利になるなかで「血の日曜日事件」が起こり、これを機に第一次ロシア革命が起こる。
ロシアにとって日露戦争とは、国内で革命の火が燃え盛ろうとしているなかでの戦争だった。
・こうしたなかで1905年、アメリカの仲介によって講和会議が開かれる。そこで結ばれたポーツマス講和条約では、南樺太の領有、朝鮮や遼東半島の勢力圏への組み入れ、南満州鉄道の利権の承認、沿海州やカムチャッカ半島の漁業権の獲得などが日本に認められた。
ロシアは先のベルリン条約ではバルカン半島進出を阻まれたので、今度は沿海州を南下の足がかりにしようとした。
しかし、折しもロシア国内では革命の動きが盛んだったこともあり、ロシアは日本に敗戦し、東アジアへの進出を諦めざるを得なくなったのである。
<第一次世界大戦――連敗を重ねるなかでのロシア革命とソビエト連邦成立>
・ロシアの動きを見ていると、黒海方面か東アジア方面か、つねにいずれかの方面への南下を試みていることがわかる。一方で阻止されたらもう一方へ、そこで阻止されたら、またもう一方へ、という具合だ。
・ロシアにとって第一次世界大戦とは、もともと拡張路線をとっていたロシア帝政がバルカン半島における勢力を拡大し、黒海方面への南下政策にふたたび力を集中させるためのものだった。
しかし、帝政への不満を抑えきれず、革命成立を避けられなかったことで、かえって、ヨーロッパ史上、類を見ないほど広大な領土を失うという結果になったのである。
・その後、ロシア国内では、農民の支持を得た社会革命党が第一党に選出されたことを受け、ボリシェビキは議会を解散し、プロレタリア政党の一党独裁を形成した。
この間、ロシア周辺地域でもソビエト政権が次々と誕生する。ロシアの革命政権が反革命勢力に対抗して力をつけていたのに、呼応したのだ。
結果、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカースの三共和国が加わる形で、1922年、ソビエト連邦が成立した。
・ロシア革命をきっかけに第一次世界大戦から離脱し、いったんは広大な領土を失ったロシアは、同じロシア革命によって体制が変わったことを機に、いまだかつてないほどの勢力圏を獲得したのである。
<第ニ次世界大戦――アメリカに並ぶ大国としての地位を確立>
・ロシア革命によって巨大な連邦国となったソ連は、第ニ次世界大戦では連合国の一員として戦い、戦勝国となったことで国際的な地位を確かなものとした。
しかし第ニ次世界大戦以降、社会主義国として東欧諸国への影響力を強めるために、西欧とアメリカから警戒される。これが、米ソが互いに巨大な軍事力をちらつかせながら牽制し合う「冷たい戦争」、すなわち冷戦へとつながるのである。
・そして1945年5月にドイツが降伏すると、8月8日にソ連は日ソ中立条約を破り日本に進攻する。
2度にわたり原爆をも落とされた日本が、これ以上戦い続けることは不可能だった。8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏となったのだ。
英米との約束どおり対日参戦したソ連は「戦勝国」となり、戦後に発足した国際連合の安全保障国理事会の常任理事国に就任する。
・では、その後、ロシア帝国の時代から試みてきた南下政策は、どうなったのか。1979年、アフガニスタンに進攻したことは、いまだに残る南下への野心を積極的に表した最近の例といえるだろう。
しかし、アメリカに支援されたアフガニスタンの兵士に阻まれ、1988年からソ連軍は続々と退散することになる。
そして1991年、ソ連は崩壊してロシアとなるが、アメリカに並ぶ大国としての国際的地位は保たれ、今も国連安保理の常任理事国の一つである。
<ソ連崩壊とクリミア危機――ロシアは今後どうしたいのか>
・ソ連では、1985年に共産党書記長に就任したゴルバチョフによって、1986年からペレストロイカ政策が行われた。ペレストロイカとは「再構築」「改革」を意味する。これと同時にグラスノスチ(情報公開)も進み、
報道の自由度が格段に増した。さらに一党独裁を脱し、代わりに導入した大統領制によって、ゴルバチョフが大統領に就任した。
・ペレストロイカは、あくまでも一党独裁が60年以上続いたことで停滞した社会を立て直すための政策だった。だが内実を見れば、それは民主的改革にほかならず、結果、ソ連という一党独裁連邦国家そのものの崩壊を招いたのである。
ソ連を構成していた15の共和国は分裂、独立していった。
・放っておけば、西欧の勢いがロシアにまで及びかねない。2014年のクリミア危機の根本には、こうしたロシアの危機感がある。ロシアにとってウクライナは、西欧の影響を食い止めるための重要な緩衝国である。だからロシアは、ウクライナの動向につねに目を光らせてきた。ウクライナの政権が西欧寄りと見れば野党を応援し、ロシア寄りの政権と見れば支援し、という具合である。
・ウクライナのほうも、ソ連崩壊時に独立は遂げたものの、ずっと揺れ動いてきた。
ロシア帝国時代にはウクライナ語の使用を禁じられるなど、辛酸をなめてきたウクライナにとって、ロシアからの独立は悲願達成だったといえる。
しかし、今となっては国内には少数派とはいえロシア語を話す人々がおり、産業はロシアに大きく依存しているなど、複雑で酷な事情がある。そうした事情もあって、ウクライナを勢力下に置きたいロシアの力を、きっぱり取り払うことができない。
・そんななか、2014年2月、ウクライナではロシア寄り政権が倒され、西欧寄りの暫定政権が打ち立てられた。
ロシアとしては黙ってみているわけにはいかない。暫定政権が勢いづいて正当な政権として定着すれば、そのままNATO、EU加盟という流れになる可能性は、きわめて高かったからである。
・ただ、もしウクライナがNATO、EUに加盟したいと言えばおそらくアメリカ、西欧諸国は、諸手を上げて歓迎するだろう。ロシアの力を削ぐことができるからだ。ロシアも、そこのところは重々承知であり、ウクライナは、西欧諸国の影響を食い止める最後の砦だ。
・しかし、ウクライナに西欧寄りの暫定政権が誕生してしまったことは、変えようがない。だから、ギリギリの選択として、ロシアはクリミアを併合したのである。
これで万が一、ウクライナの暫定政権の勢いが衰えず、西欧になびいてしまったとしても、水際で影響を食い止めることができるというわけだ。
・ロシアのクリミア併合は、一応は住民投票という民主的な手法で決定されたが、欧米からは激しく非難された。はたから見ていると、なぜ、そんな総スカンを食らってまで、大国ロシアが小さなクリミア半島にこだわるのかと不思議だったかもしれないが、ロシアには、どう非難されようともクリミアを併合したい事情があったのだ。
クリミアについては、ロシア系住民が多く、半島内にロシアが2045年まで租借しているロシア軍港(セバストポリ)があり、また、戦後1954年まではロシアに帰属していたという歴史経緯もあった。
あの小さな半島をめぐり、かつての冷戦構造のせめぎ合いが、いまだに渦巻いているのである。
・クリミアでギリギリの攻防を見せたロシアは、これから、どうしたいのか。おそらく、ロシアはかつての帝国時代のような拡張主義的な野心は、もはや抱いていないのだろう。ただ西側の影響が自国に達し、政治経済が大きく変革してしまうのだけは避けたいという、防衛一辺倒になっていると見ていい。
クリミア危機は、そんなロシアの姿勢の変化すら垣間見せる出来事だったといえる。
<日本の現在と今後を考える>
<「引いたら押される」が常識の国際政治>
・戦争は「より広い土地、よりよい土地が欲しい」という一点に集約される。言い換えれば、国家は「より多くの富」を求めて、領土拡大を渇望してきたのだ。
・つまり、戦って自分を守るためではなく、戦わずして自分を守るために、しっかり武装しておくということだ。
<地政学的リスクで考えれば明確すぎる「集団的自衛権」の是非>
・同盟とは、持ちつ持たれつの関係だ。「同盟国が攻められたら力になる」という約束を相互に交わさなければ成り立たない。
・現代のアジアは、紛れもなく世界の中でもっとも戦争が多い地域なのだ。
・ロシアが半ば強制的にクリミアを併合した経緯もあり、黒海沿岸も決して安定しているとはいえない。
・これまでも触れてきたように、民主主義国家同士では戦争が起こりにくいという国際政治の理論がある。つまり、アジアで戦争が多いのは、アジアに民主主義国家が少ないから、といえるのである。
逆に、すでに民主化が済み、定着しているヨーロッパで今後、戦争が起こる可能性は、きわめて低いといえるだろう。
唯一、脅威といえばロシアだが、それでもアジアの民主度の低さ、戦争の多さに比べればはるかにマシである。
・同盟関係の強化は戦争リスクを減少させる。より具体的にいえば、
〇きちんとした同盟関係を結ぶことで40パーセント
〇相対的な軍事力が一定割合増すことで36パーセント
〇民主主義の程度が一定割合増すことで33パーセント
〇経済的依存関係が一定割合増加することで43パーセント
〇国際的組織加入が一定割合増加することで24パーセント
というパーセンテージで、戦争リスクが減少するという。
・なお、国際政治では、同盟と軍事力を強調するのがリアリズム、民主主義、貿易依存と国際機関を強調するのがリベラルといわれて、平和を模索するための代表的な考え方であった。
リアリズムとリベラルは長く対立し論争してきたが、戦争データによる実証分析では、どちらも正しかったことがわかった。
拙著『バカな外交論』の冒頭で、私は外交とはすなわち「安全保障と貿易について話し合うこと」と述べた。
・一部の野党のいう、集団的自衛権の行使は戦争リスクを高めるというのは、過去の戦争データを見ればウソであり、国際社会では恥ずかしい意見である。
・先ほどもいったように、きちんとした同盟関係とは、いざというときには互いに守り合うという約束を交わす、すなわち集団的自衛権が前提となる。
・まだま「より広い、よりよい土地」を求め、実力に訴える可能性がある国に対し、信頼できる同盟国とともに集団で守り合う姿勢を「見せる」ことは、自己防衛の基本なのである。
<日本にとって最大の脅威は、やはり中国>
・第ニ次大戦以降、アジアは最大のリスク地帯。その只中にある日本にとって、最大の脅威となる国はどこか。「赤信号」が灯っているのは中国と北朝鮮であることは、いうまでもない。とくに中国の脅威は無視できない。
・その上、中国の漁民には「擬似海軍」という一面もあるといわれている。厄介なのは、内実は海軍も同然であっても、表向きが漁民では軍事的に対応することができない点だ。要するに、「漁民」であることを隠れ蓑に、彼らは中国政府から海軍に匹敵するような任務を与えられている。そう懸念されているのである。
・つまり、国の最高法規である憲法において、共産党が国を動かすことの正当性が織り込まれている。憲法とは本来、政府を制限するものであるべきなのに、中国の憲法は、実質、共産党の一党独裁体制を支えるものになっているのである。
だから、中国は立憲主義ではないといっているのだ。こうした名ばかりの憲法では、本当に公正な普通選挙が行われないのもうなずけるのではないか。
このように、民主主義のロジックも立憲主義の常識も通用しない国を隣国にもっているということを、日本人は理解しておかなければならない。
<日米安保体制が、日本の生き筋>
・他国への武力介入には、とにかくお金がかかる。財政的に苦しくなっているアメリカは軍事費の削減を目指しており、世界のもめごとからも少しずつ手を引こうとしているのだ。
現在のアメリカの最大関心事といえば、太平洋と大西洋の両方をきちんと押さえておくことだろう。
・大西洋には、今のところ大きな懸念はない。心配の種はやはり、南沙諸島で好き勝手振舞っている中国だ。現にアメリカ海軍の戦闘機が南沙諸島上空にまで迫り、中国軍から激しい警告が発せられたことなどもあった。
アメリカと中国の間では、太平洋をめぐる「押し合い」が生じている。
・アメリカの軍事予算は、2005年を過ぎたあたりから、年あたり60~70兆円ほどをキープしてきた、それを削減するとなると、日本が同盟国として出さなくてはいけない分が多くなる。
今は国家予算の20分の1程度で済んでいる軍事予算が膨れ上がれば、当然、日本の財政はそうとう圧迫されることになる。
アメリカとは強固な同盟関係を継続させ、あくまでも、軍事費的にも人員的にもアメリカ主導のもとで協力するという体制で、太平洋に対する中国の野心を抑え込んでいくべきだ。
・アメリカにとってもリスクである中国に協力して向き合うことが、やはり日本の生き筋なのである。
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