明治維新の頃「油取りが来る」という風聞が村々に広まった。夕方を過ぎてからは女子供は外出無用とのお触れが庄屋や肝煎から出されるまでになり、子供がいなくなったなどの噂が流れた。(3)

<餓鬼>

・伊勢から伊賀へ抜ける街道(三重県内)で、私の後ろから一人の男が急いできて、「私は大坂の者ですが、今ここへくる道筋で餓鬼に取り憑かれ、飢餓感でこれ以上一歩も進めず難渋しています。御無心ながら、何か食べ物を頂戴できないでしょうか」と言いました。なんと不思議なことを言う人だと思いながら、「旅行中で食べ物の蓄えはありませんが、切り昆布なら少し持っています」と答えますと、「それで結構です」と言うので、与えますと直ちに食べてしまいました。私は、「餓鬼が取り憑くというのは、どういうことなのですか」と問いますと、男は、「目には見えませんが、街道筋のところどころで、餓死した人の霊や怨念が現れます。その怨念が餓鬼となって、道行く人に取り憑くのです。餓鬼に取り憑かれますと、突然飢えがきて、体力がなくなり、歩くこともできなくなります。私は、過去に何度もそのような経験をしたことがあります」と答えました。この男は、薬種商人で、常に諸国を旅行して歩いている人でした。

 その後、播州国分のある寺院の僧に、そのことを尋ねますと、「私も、若い頃、伊予(現在の愛媛県)で餓鬼に取り憑かれたことがあります。食事の際に出た飯の一部を取りおいて、それを紙に包んで懐に入れ、餓鬼に憑かれたかれたときのために貯えておきます」と答えました。なんとも不思議な話です。

<あの世を覗く>

・後に、同僚が、「いったい、死地に向かうというのはどんな気持ちであった」と尋ねますと、次のように語ったと言います。

 とにかく患いついたときは、ただただ苦しくて、無我夢中でしたが、しばらくすると、突然広い原に出ましたので、とにかく先へ行こうと眺めてみますと道が二筋見えました。一つは上り道、一つは下り道です。さらによく眺めてみると、下り道は大変道が悪そうなので、私は上り道を選んで歩き始めました。すると、後ろから人の来るような気配がするので、振り向いてみると、以前、私が好きだった本郷辺りの町人の娘でした。驚いて声をかけると娘も気づき、互いに一人では心細いので、いっしょに連れ立って行こうということになりました。ところが、その娘は下り道のほうへ行くと言うので、結局は別れて、私は上り道を進んでいきました。しばらくすると、向こうから真っ赤な衣を着けた御出家が参られ、「お前は、どこからどこへ向かっているのか」と聞きますので、逆に、「私は死んだののでしょうか」と御出家に尋ねますと、「お前には、なにが心残りはないか」とさらに聞かれましたので、「特別に心残りということもありませんが、故郷には両親が健在で、久しくお目にかかっていませんので、できることならば、もう一度お目にかかりたいと思います」と答えたところ、「それならば帰してやろう」とおっしゃり、突然、後戻りするかと思った瞬間、なにらや湯水のようなものが喉を通り、気がついたら蘇生していました。

 これは当時、その男の療治をしたという針医者の話です。

<帰ってきた娘>

・神田明神からお茶の水へ出るところに船宿がありました。この船宿の主人夫婦に一人の娘がいましたが、2、3歳の頃から筆を執って書を書くこと、まるで大人のようで、両親は寵愛やむことなく、慈しみました。

・ところが、文化三(1806)年に大流行した疱瘡にかかり、両親の手厚い看護の甲斐もなく、娘は6歳で身まかってしまいました。今際の際に、母親が狂気のように泣き叫ぶのを見て、娘はか細い声で、「ご心配には及びません。いずれ、神田から来てお目にかかりますから」と言いますので、母親はうつつ心に、「その約束、必ず守って」と言いましたが、そのときには、娘の息はすでに絶えていました。両親は娘を手厚く葬り、毎日嘆き悲しんでいました。

 その頃、神田にその娘と同じ歳頃の娘がいましたが、どういう訳かしきりに、「両国へ行きたい」と言いますので、両親が両国へ連れて行きますと、船宿の主の家に入り、両親に向かって、「もう家には帰りません。こちらのお宅に置いてください」と言いますので、船宿夫婦も、娘の両親も驚き、「これはどういう訳か」と尋ねますと、娘は傍らにあった筆を執って、見事な書を認めました。その娘は、今まで字を書いたことなどなく、一同はその不思議さに驚きました。神田の両親は、娘を連れ帰ろうとしましたが、「私はこの家の娘です。他に帰る家はありません」と言って承知しませんので、仕方なく、神田の両親は娘を両国に置いて帰ったそうです。

<生まれ変わり奇談>

・娘は、まず介抱の礼を述べ、続いて、「実は、私は悪人によって誘拐され、大阪へ連れて行かれるところでしたが、さまざまに手だてをして、監視の目を盗んで逃げ出して参りました。今朝からずっと歩きつづけたため、身も心も疲れ果て、思わずここで気を失ってしまいました。そこをあなた様に介抱していただき、お礼の言葉もございません。つきましては、お慈悲をもちまして、私を家までお送りいただけませんでしょうか」と懇願しました。

 善八は不憫に思い、娘の家を尋ねますと伊勢の津の紺屋(染物屋)だと申します。善八は急ぐ旅でもなく、伊勢参りの途路にもあたりますので、快く送ることを承知し、追手が気になるので、直ちに駕籠に乗せ、急いで娘の家へ連れて帰りました。

・とりわけ当の娘はなにやら別れがたく思い、両親に、お礼のために一度江戸までうかがいたいと頼みますと、両親も、ここ1、2年のうちに父親同道で江戸に下ることを承知しましたので、娘はやっと得心し、善八に向かって、「この度は、思いがけずあなた様に危急を救っていただき、また手厚い介抱を受けましたのは、きっと前の世からの深い縁に結ばれているものと思います。あなた様のご恩を忘れないため、あなた様のお持ちのいかなる品でも一品私にお与えください。私は、それをあなた様だと思って朝夕、後世を念じます」と言いましたので、善八も、

「旅先のことで、何も持ってはいませんが、いつも肌身はなさぬお守りの中に、日ごろから信心してください」と言って娘に手渡しました。

・善八の家では、留守中に息子の嫁に長男が生まれ、帰宅した日がちょうど七夜に当たるというので、二つの喜びが重なりました。

 善八の妻は、出生した初孫が生まれて以来泣き続けで、さらにどういう訳か、左の手をしっかり握りしめて開かないことを善八に語りました。

 それはいかなることかと、善八が赤ん坊を膝の上に抱き上げますと、今まで泣き続けていたのが即座に泣き止み、善八が手を差し伸べますと簡単に左の手のひらを開きました。その手のひらに、なにやら握られているようなので取り上げて見てみると、それはまさしく浅草の観音様の御像に他なりません。

 それを見て、人々はその不思議に驚きましたが、善八は、その御像は、確かに伊勢の津の娘にやった御像なので、たいそう訝しく思い、家の者を集めて、伊勢の娘についての一部始終を話し聞かせ、さらに、伊勢に飛脚をやって娘の安否を問い合わせました。

 6月の15日に伊勢から返書が届きましたので、さっそく開封して読んでみますと、かの娘は、善八が出立して間もなく患いつき、5月の末に空しくなったとの知らせでした。善八はまことに不思議に思い、この  赤ん坊は男の子だが、まさにあの娘の生まれ変わりに違いない。この子を授かったのは観音様の大悲のおかげと、前にも増して深く信仰に精進しました。

 この話は、嫁を診察した清水の医師、福富主水老人の直話です。 

<因果応報>

・ある家中に、岩間勘左衛門という武士がいました。

 その息子の八十郎と六十郎という者は、二人ながら博打に溺れ、夜更けて、自宅で妻や娘まで交えて賭博にふけるということが主人筋に聞こえましたので、甚左衛門は切腹、二人の息子は、千住小塚原で首を刎ねられました。この勘左衛門が切腹の場に臨み、検視の役人に、「しばらくお待ちください」と声を掛け、次のような懺悔話を始めました。

 私がまだ若年の頃、ある商い聖(ひじり)と懇意になり、たがいに行き来し、ときには私の部屋へ来て泊っていくようなこともありました。

 ある日、聖が金子三百両余りを持ってきて、「この度の商いはおおいに儲けました。近いうちに京に上ります」と言いました。その夜も彼は私の部屋に泊まりましたが、そのとき、ふと、この男を殺して金を奪い取り、思うように遣ったら、どれほど気分がよいだろうと思いました。しかし、親しい友であり、出家でもあるので、どうしたらよかろうかと思うと眠られもせず、さまざまに思いめぐらしているうちに悪心が勝り、明け方に聖を殺し、死体を深く隠し隠しました。

 その後、その金を使っても、何の祟りも何もなく、運もついてきましたので、よくぞ、やったものだとさえ思うようになりました。

 やがて妻を迎え、八十郎が生まれました、初めて顔を見たとき、赤ん坊の顔が、かの聖とうりふたつなので、もしやと思い、かの聖の腰に大きな黒子(ほくろ)があったのを思い出し、赤ん坊の腰を調べてみますと、果たして、まったく同じ位置に黒子がありました。

<二十年>

・江州八幡(現在の滋賀県近江八幡市)は、近江では最も豪華な町として知られています。

 寛延から宝暦年間(1751年から1764年)、この町に、松前屋市兵衛という裕福な商人がいました。

 この市兵衛、妻を迎えてしばらくした頃、ある日突然行方不明になってしまいました。家内中、上を下への大騒動で、もともと裕福な家なので、金銀を惜しみなく使い、手を尽くして捜しましたが、結局その行方は知れませんでした。

・市兵衛が消え失せたときの状況は、次のようなものでした。その夜、「厠へ行きたい」と言って、市兵衛は下働きの女性に明かりを持たせて厠へ入りました。女性は明かりを掲げて厠の外で待っていましたが、いつまでたっても市兵衛は出てきません。

・さて、その日からちょうど20年目にあたる日の夜のことです。厠で突然人を呼ぶ声がしますので、人々が行って戸を開けますと、そこには、市兵衛が消え失せたときとまったく同じ衣装で座っていました。

 人々はおおいに驚き、さまざまに事情を問い質しましたが、何も答えず、ただ「空腹だ」と言いますので、さっそく食事をとらせました。

 不思議なことにしばらくすると、着ていた衣服は一瞬のうちに埃のごとく散り失せて、裸になってしまいました。驚いた家人は、さっそく着物を着せ、薬などを飲ませましたが、昔のことは何1つ覚えていなかったそうです。

 その後、市兵衛は病気や痛み止めの呪いのようなことをして暮らしたそうです。これは、私のもとに来るや八幡出身の眼科医から聞いた話です。

<●●インターネット情報から●●>

ウェッブサイト「日本文化の入り口マガジン」から引用しました。

2020.04.09

<信長も!家康も!芭蕉も!ニッポンのBLの歴史は奥が深いぞ!>

Aimu Ishimaru

「男色(なんしょく/だんしょく)」という言葉を聞いたことがありますか?いわゆる、「BL」のことです。最近では、LGBTの権利について議論され、性的マイノリティーの問題として取り上げられることも多くなりました。こうみると、最近出てきた概念のように思われますが、実は「男色」は開国前の日本では普通に行われてきたことであり、「マイノリティー」でもなんでもなかったのです!

<男色の発展と衰退>

日本において「男色」は古代から存在していました。鎌倉時代以前の男色の記録は特権階級の方々のものばかりですが室町時代以降は庶民のものも多くなっています。とはいっても、庶民の記録がないのは、あまりに自然のことであったからと考えられており、庶民の間で男色がタブー視されていたわけではありません。以上のことを踏まえると、当時の日本人にとって「男色」が、どれだけ当たり前のものであったか容易(たやす)く想像できるでしょう。

男色のはじまり

では、日本の男色文化はいつ始まったのでしょうか?江戸時代前期に井原西鶴が記した、浮世絵草紙『男色大鏡』には、当時男神とされていた天照大神が日千麿命(ひのちまろのみこと)を衆道(男色の意)に基づいて愛していたと記載されています。

さらに、井原西鶴は伊耶那岐命(イザナギノミコト)と女神・伊耶那美命(イザナミノミコト)の夫婦の神様が誕生するまでは、男神ばかりだったので男色を楽しまれていたと主張しています。井原西鶴の言葉を信じるとすると、なんと日本の男色の歴史は神代の時にすでに始まっていたというのです!

男色に関する最古の記述は720(養老4)年成立の『日本書紀』にあります。小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)の関係が発端となった「阿豆那比(あずなひ)の罪」に関する物語がそれです。「祝」とは神主のことを指しており、このふたりの神主が男色の仲にあったと言われています。

というのも、彼らは「善友(うるわしきとも)」つまり性的行為アリの親友だったと書かれているからです。今でいう「セフレ」のような関係とも言えます。小竹祝が病気で亡くなったのを嘆いた天野祝が後を追い、生前の希望通り二人を合葬したところ、神様がそれを天津罪(あまつつみ)と考え昼間でも暗くしてしまったそうです。

天津罪とは、国津罪(くにつつみ)とともに神道における罪で、特に農耕や祭祀を妨害する行為を指します。「阿豆那比」の意味は分かっておらず、神様がふたりの男色を咎めたと言われることもありますが、ふたりを別々に埋葬し直したところ昼が戻ってきたと書かれていることからもこれは「神主を合葬する」という行為が儀式的によくないことだったのでしょう。

「阿豆那比の罪」の物語は一般的に日本における男色文化のはじまりと位置付けられています。

寺院や宮中で流行した男色

『日本書記』以降にも『万葉集』や『伊勢物語』、『源氏物語』など誰もが知る数々の有名書物に男色についての記載があり、男色が当たり前のように流行していたことがわかります。

僧侶の男色といえば、空海が日本に持ち込んだと言われることがあります。しかし、平安時代初期の空海の帰国以前から男色の記述があったことをみるとこれは単なる俗説でしょう。一方で、僧侶と稚児(剃髪前の少年修行僧)の間の男色が流行したのは、空海の影響であると言われています。

奈良時代の僧侶は『四分律』という仏教の経典をよく読んでいました。僧侶の罪を記しているこの経典には、性行為を戒める「婬戒(いんかい)」について書かれています。ここでは、異性・同性に関わらずあらゆる性行為が禁止されています。

しかし、仏教ではどちらかといえば女性との性行為を嫌う性質の方が強く、徐々に男色を許す文化が発展していきました。稚児との性行為を、稚児を神格化する儀式「稚児灌頂(ちごかんじょう)」とするという荒技で性行為を禁止する仏教において男色を正当化する“立派な”言い訳まで作ったのです。

僧侶と稚児の関係は、勅撰和歌集『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』でも詠まれており、天皇の命令で編成された和歌集にも載せられるほど、彼らの関係は当たり前で許容されたものでした。また、宮中においても、貴族が美しい稚児を側に置き、枕をともにすることは決して珍しいことではありませんでした。

<精神的な繋がりを重んじた武士の男色文化「衆道」>

武士が勢力を増していくと、貴族や僧侶との交流の中で武家社会にも男色は浸透していきました。室町幕府を率い、南北朝を統一した足利義満は、貴族や僧侶から男色を含むあらゆる文化を積極的に取り入れ、のちに流行する武士特有の男色文化「衆道」の礎となったと言われています。

衆道」は、主君と小姓(こしょう:将軍のそばに仕えた者)の間での男色の契りのことです。肉体的だけでなく精神的な結びつきを特に重視しました。男色は絶対服従の関係・絆を築く一種の儀式という認識もあったのでしょう。「衆道」の予兆は、源平合戦のあった平安時代末期にもすでにありましたが、衆道文化が花開くのは戦国時代です。

多くの武士たちが妻子を残し戦に出かけた当時、女性のいない環境の中で男性を性的対象として見ることが多くなるのは想像に難くないでしょう。「桂男の術」いわゆるスパイ任務を遂行する際、美少年の色仕掛けにまんまと嵌って殺された武将も多かったとか。

<外国人が驚いた!庶民も受け入れた日本における男色の風習>

室町時代には、庶民の男色についての記述も見られるようになりました。庶民階級が楽しんだ能楽「手猿楽」では、美女が主役の「女房猿楽」とともに美少年を使った「稚児猿楽」が生まれ、酒席で多くの人を楽しませ一夜をともに過ごすこともあったとか。

宣教師フランシスコ・ザビエルは、一神教と一夫一妻制、そして男色の罪を日本人に説明することの難しさを本国への手紙で嘆いています。「僧侶がしていることなのだからいいだろう」と一般の人は考えていたのです。

江戸時代においても、男色は女性を愛するのと同じように普通に扱われていました。江戸時代には、若衆歌舞伎が舞台後酒宴にお伴した先で売春行為を始めたことから、陰間と呼ばれる男娼が登場しました。彼らは、僧侶や武士だけでなく農民や職人などの多くの庶民も相手にしていたのです。

江戸時代に来日した朝鮮通信使・申維翰(しんゆはん)は、著書『海游録』で男娼の色気は時に女性を上回ると綴っています。

<欧米の影響でタブーとなった男色>

日本では仏教や神道に男色を禁じる戒律がないことから、男色は当たり前のように流行していましたが、キリスト教では男色は罪とされています。そのため、明治維新とともに西欧文明が取り入れられると日本でも男色は徐々にタブー視されるようになります。

明治時代でも、当初は女性に溺れるよりは男色の方が良いと言われ「ストイックさ」を追求する学生の間で流行するなど男色文化は色濃く残っていました。しかし、1873(明治6)年になると男性同士の性行為を罪とする「鶏姦(けいかん)罪」が規定されました。

西洋の列強国に追いつくことを目標としていた当時の日本では、欧米諸国でタブーとされる男色を容認したままにしておくわけにはいかなかったのです。「鶏姦罪」は1882(明治15)年にはなくなり、法律上で男色が禁止されることはなくなりましたが、明治後期には男色を悪とする考えも強まっていったのです。

大正時代に入ると、西洋的な考え方はさらに浸透し、ついに日本で当たり前であったはずの男色は「病気」として扱われるようにまでなってしまいました。

あの人もこの人も男色を楽しんだ

さて、西洋文化の影響で一度はタブーとなった男色ですが、最近では欧米諸国におけるイデオロギーの変化もあり、日本でも同性愛者と呼ばれる人たちの存在が再度容認されるようになってきました。同性愛者と公言している有名人の方も増えています。

実は、日本人の多くが知るような過去の偉人にも男色を好んだ方がたくさんいます。何人かここでご紹介しましょう!

<藤原摂関家の代表格、藤原頼通・頼長>

父・藤原道長の後を継ぎ、摂関政治の最盛期を謳歌した藤原頼通。鎌倉時代に成立した日本最古の舞楽書である『教訓抄』には別荘の宇治平等院で仏教行事を行った際、雅楽の舞を披露した峯丸(みねまる)という美少年に心を奪われた様子が書かれています。さらに、鎌倉初期の説話集である『古事談』にも、家来であった源長季(ながすえ)は頼通の男色の相手であったと記されています。

保元の乱で受けた傷が原因で亡くなった頼長も男色の趣味があり、7人もの貴族と男色関係にあったそうです。当時の貴族は日記を残す風習がありました。頼長は宮中儀式などの一般的な事柄だけでなく自身のプライベートについても赤裸々に綴っています。

頼長の男色遍歴について詳細に書かれているのは、頼長の日記『台記』です。この日記を読むと、頼長が男色で感じた快感や少年たちに恋い焦がれていた様子がわかります。「倶(とも)に精を漏らす」つまり「一緒に射精する」ことの喜びを綴るなど、直接的な表現には驚かされます。

織田信長も徳川家康もみーんな男色を楽しんだ

漫画の題材となることも多い有名戦国武将には、男色を楽しんだ方がたくさんいます。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の狂歌からも分かるように過激で強引なイメージの強い織田信長は、秘書的な役割も負った森蘭丸と関係があったのではないかと言われており、前田利家との関係も噂されています。ちなみに、次男の信雄も美少年の処刑をやめさせ重用するほど男色に入れ込んでいたようです。『勢州軍記』には、兄・信孝がそんな信雄の様子を皮肉る様子が書かれています。

武田信玄は、思いびとのに弥七郎という小姓に手を出したことがばれ、釈明する手紙を送っています。甲斐の虎と呼ばれた勇ましい姿からは想像もつきません。

また、独眼竜・伊達政宗も恋人の小姓に当てた恋文を残しています。政宗は男色を誇りにし、少年と契りを交わすたびに自分の体に傷をつけその証にするといったかなりの変人だったようです。

戦国時代の乱を制し、見事天下人となった徳川家康にも男色のエピソードがあります。家康は本来年上の女性を好んでいましたが、『甲陽軍鑑』によるとそんな家康も忠臣の一人である井伊直政の美しさに魅了され関係を持ったそうです。

家康の後を継いだ秀忠や次男の秀康、十男の頼宣など家康の息子たちも男色の世界に魅入られていました。江戸幕府を発展させていった3代将軍家光や5代将軍綱吉もまた、男色を好んでいたそうです。

<俳句家・松尾芭蕉は男性の恋人と旅>

松尾芭蕉は、弟子と一緒に旅に出ることが多く、その弟子のふたりと恋仲だったと言われています。『奥の細道』は有名ですが、『笈の小文』という紀行文をご存知でしょうか?この紀行文には、杜国(とこく)と越人(えつじん)というふたりの愛弟子との旅行について記載されています。

越人との旅では「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」といったロマンチックな句を詠んでおり、杜国と一緒にいるときも「草の枕のつれづれ二人語り慰みて」とふたりの関係が分かるような句を詠んでいます。愛する人との旅行を楽しんでいる様が思い浮かびますね。

国や地域によって考え方は違うといいますが、時代によっても考え方はかなり違っています。同じ日本でも、当たり前だったことがタブー視されるようになったり、逆になったりすることがあります。日本における意外な男色の歴史を知ると、なんだか「当たり前」とは何か考えさせられますね。

(2019/12/16)

『男色の日本史』

なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか

ゲイリー・P・リューブ   作品社   2014/8/29

<このテーマについて世界で最も引用率の高い基本文献となっている>

・かつて日本には、古代ギリシャと並ぶ“男色文化"が栄えていた。平安の宮廷人たちが、密かにくり広げた夜伽。寺院での僧侶たちによる稚児との愛欲の生活。戦国武将たちに連れ添った、森蘭丸などの小姓たち。そして江戸時代に入ると、役者・若衆・女形たちによる売色が隆盛し、陰間茶屋では女性も交えた3人以上の男女が入り乱れて欲望のかぎりを尽くしていた。

本書は、初めて日本男色文化を“通史"としてまとめた「男色の日本史」あり、さらに世界の同性愛文化と比較しながら、なぜ日本には世界有数の同性愛文化が栄えたのかを分析した、世界初の「日本男色論」である。本書によって、日本の華麗なる男色文化が世界に知らしめられた。

<日本には、古代ギリシャと肩を並べる華麗なる同性愛文化が存在した>

・「かつて我が国日本の男性のほとんどが、同性との性的快楽を、当然のごとく欲していた。今では驚くべきその事実を、さまざまな史料を駆使して論証してみせたのが、本書である。〔……〕日本の男性同性愛史に関する、世界で初めての本格的にして包括的な研究書として、各界から高い評価を受けている。この著作によって、日本には、古代ギリシャと肩を並べる華麗なる同性愛文化が存在したことが、世界中に明らかにされたのだと言っても過言ではないだろう……」。

<なぜ日本には、古代ギリシャとならぶ同性愛文化が花開いたのか>

<ほぼすべての男性が、同性愛の快楽に陶酔していた江戸社会>

・徳川時代(1603~1868年)の日本社会を研究する者にとって、この二世紀半に渡って全盛期を迎えた、男性同性愛が、少なくとも都市においては非常にありふれた行為だったことは周知の事実である。男性間のセックスは、知識階層に広く容認されていただけでなく、大衆美術や文学では積極的に褒め称えられていた。同性愛行為は、武家屋敷・寺院・歌舞伎小屋とつながりのある男色小屋などで組織的に行われていた。実際、この行為は、文化の主流をなす特徴となっていたのである。

 

・近代日本語においては、男性間のセックスに関連する語彙が非常に豊かなことを見れば、この行為に対して、社会がどれほど寛容だったかがわかる。豊富な一次史料、二次資料を読めば、いたるところで「男性間のエロス(男色)」をほぼめかす言葉に出会う――「若衆道」(多くは縮めて「若道」、あるいは「衆道」、「男道」、「美道」、「秘道」。これらはすべて、特定の慣習に従った男性間のセックスを婉曲に表現した言葉である。

 こうした言葉が出てくるのは、あって当然と思われるような文献(性生活史、風俗史、売春の歴史、性愛版画集など)の中だけではない。地方史、美術史、大衆演劇研究、伝記、日記、法令、個人の遺書、医学論文、大衆文学、紀行文、滑稽文、川柳など、じつにさまざまな文献に登場する。この事実は、徳川時代の日本では、男性同性愛が例外的なものではなかったということを確証している。むしろこれは、社会生活の制度に組み込まれた、非常にはっきりとした中心的な要素だったのである。

・古代ギリシャを研究する際に、同性愛の性質について議論せずには、その美学、エロス、詩、道徳、政治でさえも理解できないのと同じように、徳川時代を研究する際に、その時代における男性側の性関係の特殊な成り立ちを理解しなければ、社会と文化の多くの側面を把握することはできない。それにもかかわらず、また、日本におけるジェンダーとセクシュアリティの問題に取り組む研究者が増えているにもかかわらず、同性愛の伝統を本格的に研究した人は、これまでほとんどいなかった。

 研究の対象として、ためらいがあるのは理解できる。近年になって「同性愛研究」という分野ができてはいるが、同性愛という主題は、日本においても、西洋においても、いまだに議論を呼ぶ問題であることに変わりはない。同性愛者ではない研究者も、同性愛の研究者とレッテルを貼られたくない研究者も、このテーマを避けるだろう。このテーマを持ち出しただけで、いまだに同性愛嫌悪の雰囲気のある学問の世界で、自分のセクシュアリティを疑われかねないと恐れるからである。その問題を別にしても、日本の題材は難しいことが多い。

<なぜこのテーマに取り組んだのか>

・私としても、この地雷原に足を踏み入れるのに、ためらいがなかったわけではない。私は徳川時代の日本を専門とする社会史の研究者として研究を続けてきたので、徳川時代の文献にあたることも、当時の性行動の特徴について何らかの結論を引き出すことも可能だった。とはいっても、これまでの研究では、別の時代、別の社会の歴史学者が出版した、膨大な量の同性愛についての文献を読まなくてはならないこともなかったし、心理学、人類学、社会学や文学の文献については言うまでもない。徳川時代の男性同性愛についての、世界で初めての徹底的な調査をするにあたって、私もこうした文献を読むようになった。しかしながら、私はまず第一に歴史家として日本史の研究者に向けて本書を著わしたのであって、性の歴史の権威として書いているのではない。

・この研究を思い立ったのは、江戸の町における使用人、商店の奉公人、日雇い労働者といったテーマの博士論文の調査をしているときである。そのときには、性行動についてよりも、初期の資本主義の方に関心を持っていた。しかし、階級間の関係、中でも江戸の町特有の雇用主と使用人の関係を研究していると、とくに武家屋敷などで雇用主と使用人間の性的関係に関する記述に何度も遭遇し、さまざまな情報を目にして強い印象を受けることになった。たとえば、18世紀中頃の江戸には、男色茶屋が並ぶ町が少なくとも14あり、その時代の男性同性愛に関係する文献は600近くもあることがわかった。さらに、15人の徳川将軍のうち、少なくとも7人は男性同性愛の関係があり、それが詳しく記述されていることも分かった。

・読み進むにつれ、男性同性愛行動は、江戸の社会でありふれていただけではなく、標準的なことだったと確信するようになった。文献の中では、少なくとも都市の男性は、たいてい他の男性との性的関係に向かう傾向があり、そのような関係は広く受け入れられていたと表現されている。とくに文学では、少年や女形役者に対する男性の情熱を率直に認めている。江戸社会のほとんどの男性に、女性に対する性的興味がなかったと言うつもりはない。むしろ、結婚も含めた異性愛関係は男性間の性行動と両立できるもので、補完するものだとさえ見なされていたらしい。中には、もっぱら男性だけという関係も見うけられるが、江戸社会では両性傾向が普通の状態だったようだ。

・このような仮説は、まったく新しいものではなかったが、研究題材として取り上げるだけの価値はある。その結果、執筆されたのが本書である。私の議論は、ほとんど男性同性愛に限られている。それでもこのテーマ自体を、性の社会構造という幅広いテーマから切り離すことはできないし、だからこそ全般的な女性の性的経験からも切り離すことはできない。そういうわけで、徳川時代の女性同性愛にも触れることになるが、この主題はまた別の研究テーマとなるにふさわしいと考えている。

・第1章では、日本の考え方や慣行に影響を与えた古代中国の男性同性愛の最も古い記述を考察し、古代および中世の仏教寺院と武士の男性同性愛慣行の出現について述べる。このような慣行は、僧侶と武士の社会に女性がいなかったという理由が主として挙げられる。

 第2章では、徳川幕府の確立と共に起こった大きな社会変化が、男色茶屋や歌舞伎小屋を中心とする町人独特の新しい男性同性愛文化の出現に、いかに寄与したかを論じる。男性同性愛の大衆化は、徳川時代初期の江戸に女性が少なかったことも一因だが、都市の性別人口の均衡がとれるようになってからも根強く残っていた。

 第3章では、男性同性愛慣行の特徴を挙げ、男性同性愛だけだった男性たちが存在した形跡もあるにはあるが、両性愛者の方が一般的だったことを述べる。また、男性同士の関係における階級や身分、年齢などの役割について考察する。

 第4章では、社会全体が寛容なのに、なぜ男性同性愛に対して相反する感情が存在したのかに注目しながら、それに対する一般的な態度を検証する。ここで、法律や幕府の公文書に映し出された支配階級の考え方も考察する。

 男性同性愛の慣行、女性の地位、両性具有に魅了される徳川時代、そして異性間の恋愛、これらの関係については、第5章で検証する。そこでは、日本と他国での男性同性愛慣行の比較も行なう。

 終章では、私の主張を手短に述べ、日本近代の開国に伴う男性同性愛の衰退について考察する。

<同性愛嫌悪の雰囲気>

・数年前に、あるアイヴィー・リーグの大学で開かれたパーティで、徳川時代の男色についての本を書いていると何気なく口にしたことがある。すると1週間もたたないうちにある同僚から電話がかかってきて「破廉恥」呼ばわりされた、その同僚は、パーティに出席していた有名な日本の学者から私の発言を聞いたとたんに、「でも、彼は結婚しているのに!」と叫んだそうだ。80年代半ば頃には、私が「徳川時代の同性愛に関する本を書くべきだ」と言ったときに、別の同僚が「そんなことをしたらキャリアはおしまいだ」と答えたことがある。

0コメント

  • 1000 / 1000