「その理屈で言うなら神隠しはエイリアンによる誘拐と見做すのが妥当であろう。神隠しは決して迷信などではなく、実際の事件を報告しているものかも知れないのだ」(1)
『神隠しと日本人』
小松和彦 角川ソフィア文庫 2002/7/24
<神隠し>
・ある日、突然、人が日常世界から消え失せてしまう「神隠し」とは、何なのか。「神隠し」にあった人はどこへ行き、何を体験していたのか。どのような神霊が人を異界へいざなうのか。
<不思議な出来事>
・かつての日本人は、自分たちが住む世界の「向こう側」に「異界」と呼ぶことができるもう一つの世界を信じており、そこから自分たちの世界に忍び込んできた「もの」(広い意味での神)に、ふと取り隠されて、異界に連れ去られてしまうことがあると信じていた。「もの」に取り隠されたのだ、としか言いようのないような不思議な失踪事件。それに対して人びとが張りつけたのが、「神隠し」というラベルであった。
<異界の消失>
・それが現代人の眼からすれば、たんなる「迷い子」や「誘拐」「家出」等々として判断される事件であったとしても。「神隠し」とは、かつての人びとにとっては失踪事件を説明づけるための幻想のヴェールであったのだ。
<神隠し願望>
・「神隠し」とは、ある日、突然、子供などが日常生活から消え失せてしまうことである。残された人びとは、共同体の外部へと誘い出された失踪者の“その後”にいろいろな思いを巡らせ、多くは暗い気持ちになる。
<文学作品のなかの「神隠し」>
・「神隠し」体験に着目してそれを作品のなかになんらかの形で描き込んだ文学作品は多い。
・泉鏡花の「神隠し」の描き方と大江健三郎の「神隠し」の描き方はまったく対極にあるといっていいほどの違いをみせている。
・大江健三郎の思い描く「神隠し」は、泉鏡花よりもはるかに知的に洗練された体験になっている。彼にとっての「神隠し」とは、「われわれの土地の神話と歴史のすべて」を教えてくれる時空であり、「始源の時」「永遠の夢の時」なのである。したがって、「神隠し」から帰還した彼は、「村」の神話と歴史の語り部となり、未来の出来事についての予言者となるのであった。
<異界に遊ぶ>
・ある時、ふと私はそんな思いに取り憑かれて少しずつ民俗社会における「神隠し」について考えるようになったのである。民俗社会の「神隠し」の実態については、すでに柳田国男の『山の人生』という著作がある。また資料集としては、私たちは松谷みよ子が編集した『河童・天狗・神かくし』をもっている。
<事件としての神隠し>
<村の失踪事件>
・かつての民俗社会(ムラ社会)では、たとえ一晩でも理由もなく日常生活から人が姿を消してしまうことは、家族はもとより民俗社会の人びとにとっても「大事件」であった。
・しかし、山から姿を現わした失踪者が「山で異人に出会い、誘われるままに山のなかを歩き回っているうちに異人の姿が見えなくなった。ふとあたりを見回すと夜が明けていて、山のふもとに立っていた」と語れば、人びとは「ほら、やっぱり神隠しにあったのだ」と判断することになるだろう。
・長野県下伊那郡上村が昭和52年に刊行した『遠山谷の民俗』に、次のような神隠し事件が記録されている。
上村と木沢部落との境に、中根っちゅう部落があるだに。ある時、中根部落の息子がどっかへ行っちまっておらんくなったことがあってなあ、近所の衆は心配して村中探したんだに。けえど、二日たっても、三日たっても一週間たっても見つからなんだんな。そうして、とうとうその息子は、それっきり姿をあらわさなんだもんで、みんなは天狗様に連れていかれちまったんだっちゅって噂したんだに。
以後、悪い事をすると天狗様に連れて行かれちまうっちゅって、子供たちに言い聞かせたもんだに。こりゃあ、今から40年くらい前の話だに。
・実際、何年も経ってから、ふいに失踪者が戻ってくることがあった。
<帰ってきた失踪者>
・柳田国男の『遠野物語』に、そんな例が記されている。
黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、30年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。さらば遠野郷の人は、今でも風の騒がしい日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。
若い娘が神隠しにあい、その後まったく消息がなく過ぎて、30年あまり経って突然この娘が戻ってきた。しかし、戻ってきたわが家の人びとの反応は必ずしもよくはなかった。人びとはもう娘のことを忘れかけており、30年もの歳月はこの娘の占めるべき場を奪い去ってしまっていたからである。彼女はもはや遠野の里人ではなく、異界の住人とされていたのだ。
・柳田も佐々木もまったく言及していないが、私はふとこんな疑惑をいだく。数十年も経って現れたサムトの婆は本当に数十年前に失踪した娘だったのだろうか。数十年という歳月は失踪者の社会的位置を奪い取るのみでなく、存在それ自体さえ確認しえないものにしてしまうのである。サムトの婆とはサムトの婆を騙った偽物であったかもしれない。
<家出・自殺・神隠し>
・神隠しにあうということは、失踪者が異界に去るということであった。そして、そこに留まるということは、失踪者が異界の住人になるということでもあった。失踪が長ければ長いほど、失踪者は異界の「モノ」の属性を帯びることになる。どうやら、サムトの婆の場合にもそうした思考が働いていたらしい。
<束の間の失踪>
・神隠しには、右でみたような、失踪したままついに戻ってこなかった神隠しや数十年間も姿を消したままふいに戻ってくるといった神隠しがある一方、その対極に位置するような、ほんの束の間の、たとえば数時間とか一昼夜とか数日、長くても数週間という短期間の神隠しもあった。神隠し事件の多くは、こちらの場合であった。
・3歳位の女の子が急にいなくなり、翌日の昼に死体となって発見された。大人でも容易には登れない高い山の中で発見されたため、「天狗」に隠されて殺されたのだと思ったという話である。この子供にいったい何があったのだろうか。
<神隠しの幻想>
・遊びに夢中になっているうちに日が暮れ、ついつい家に帰りそびれてしまうことは今も昔もよくあることであろう。きっとこの子供もなんらかの理由で家に戻りたくなかったので、ふらふらと山をさまよっているうちに沢で寝込んでしまうような事態になってしまったのではなかろうか。だから客がはっきりしなかったのだろう。
そんな事件を、人びとは神隠しと呼んだらしい。
<狐に化かされる>
・神隠しの原因とされる「神」、地方によっては「隠し神」とも呼ばれる「神」の正体を、「天狗」に求めるところが多い。この理由については後に検討するが、この天狗と並んで多いのが「狐」であった。それは「化かされた」と表現されるために、神隠しからはずされることも多い。だが、よく検討してみると、右の事例がそうだったように、神隠し事件として考察すべき事象なのである。
<体験者の証言>
・ところで、もう読者は気づかれたかと思うが、私はこれまで意図的に、神隠し事件の事例のなかから、失踪者が神隠し信仰の土俵の外に置かれているような、いいかえれば失踪者を周囲の人びとが勝手に神隠しにあったのだ、と一方的に解釈してしまうような事例を選んで紹介してきた。
・右の事例の失踪者は若者であった。彼は戻ってきて、「夜は天狗につれられて山中を歩きまわり、昼は木の上に寝ていて食事は天狗がどこからか草や木の実をもってきてくれた」と天狗に取り隠されていたのだということを自分からはっきり語る。
<「神」に選びだされた者>
・神隠しにあった者は異界でどのような体験をしたのだろうか。
・つまり、こうした神隠し体験談を、信じがたい妄想として人びとが一笑に付してしまうようになった、ということであったのだ。
<「神隠し」へのアプローチ>
・まず、「神隠し」とみなされている事件は、あくまで「神隠し」なのだと理解すべきである。これが私の基本姿勢である。
・まず第一に、人を取り隠す神つまり「隠し神」とはどのような神かを考えてみたい。神隠しとは多くは人を隠す神によって引き起こされた事件のことである。
・では、そうしたユートピアとはどのような世界であったのか。これが、ここで考えて考えてみようとしている第二の課題である。
<神隠しにみる約束ごと>
<神隠し譚の類型>
・民俗学者などの努力によって、全国各地から多数の神隠し事件についての伝承が報告されている。
<夕暮れどき>
・まず、神隠しが発生しやすい時刻についてみてみよう。神隠しが発生するのは夕暮れどきと考えるところが多かった。
<隠れ遊び=隠れん坊>
・神隠しの発生は夕暮れどきが多い。そして、この夕暮れどきに発生する神隠しの事例をみると、さらに神隠しにあうための「約束ごと」があったらしいことに気づく。それは、夕暮れどきに「隠れ遊び」(隠れん坊)をしてはならないというタブーの存在によって示される。逆にいえば、夕暮れどきに隠れ遊びをすると、神隠しが発生しやすい、ということになる。
<隠れ遊びの約束ごと>
・藤田は隠れ遊びに、社会からの離脱・隔離、あるいは迷い子や孤独、流刑に通じる心象風景を見出した。
<神と人が融け合うとき>
・さて、かなり長々と隠れ遊びとは何かをみてきたわけであるが、こうした隠れ遊び論に、なぜ夕暮れどきに隠れ遊びをすると、神隠しにあいやすいのかという答えが見出されるのだろうか。
ただちに思いつく答えはこうした説の中にはない。
・すなわち、柳田は、神隠しにおける鉦や太鼓の使用の意味は、広く民俗社会における鉦や太鼓の利用のなかで理解すべきことがらであると述べつつも、「それは本来捜索ではなくして、奪還であった」と指摘している。
<音による異界との交信>
・楽器とりわけ鉦や太鼓のような打楽器が、人間界と神界・異界との間のコミュニケーション、あるいはこの二つの世界の往還を象徴的に意味するものであるということを、シャーマンの用いる打楽器を分析することから明らかにしたのは、イギリスの社会人類学者ロドニー・ニーダムであった。
・したがって、理想の形の神隠し譚では、神隠しにあった者を鉦や太鼓で探すのが好ましいということになるだろう。
<神隠し事件の4つのタイプ>
・これまでの考察から、村びとたちが神隠しにあったのだと判断する事件の結末の相違によって、神隠し事件には四つのタイプがあることが明らかになっている。
一つは、無事な姿で失踪者が発見されるというものである。これを「神隠しA型」と呼ぶことにしよう。これはさらに、発見された失踪者が失踪中に体験したことを覚えている場合と、そうでない場合とに区別でき、そこでここでは、この二つのタイプのうち前者を「神隠しA1型」、後者を「神隠しA2型」と呼ぶことにする。
もう一つのタイプは行方不明のままついに発見されないというもので、これを「神隠しB型」と呼ぼう。
残る一つは、死体で発見されるというタイプであって、これを「神隠しC型」と呼ぶことにする。
<やさしい社会のコスモロジー>
・こうした失踪者の発見場所の一致は、隠し神が空中を飛行する能力をもち、それゆえに失踪者も空中に運び上げられ、さらに隠し神によって天界を飛行して隠し神の世界へと案内され、山々を巡り遊んだりすると語られることと深い関係をもっている。すなわち、発見場所によって、失踪者の体験談のなかに天狗のような存在が現われなくとも、隠し神が天狗もしくはそれに類した“神”であることが、それとなく人びとにはわかるような仕掛けになっていたのだ。
<失踪者の異界報告>
・神隠しにあった者の体験談――これは大いに興味のそそられるテーマである。しかしながら、残念なことに、神隠しにあった者の体験談の内容は、総じて貧弱である。正直いって、私たちの知的欲求を充分に満たしてくれるとはいえそうにないような話ばかりである。これはおそらく、神隠しにあった者の多くが幼い子供や頭脳の弱い青年だったことと関係しているかにみえる。
<天狗信仰>
・こうして、失踪者は、異界へと連れ去られて行く。
私たち日本人は、古代から現代に至る長い時間をかけて天上界、山中界、水中(海中)界(水界ということが多い)、地下界といったさまざまな異界観=他界観を創出してきた。
そうした異界観=他界観と、神隠し体験者にみられる異界観とはどのように交錯しているのだろうか。
・つまり、民俗社会の人びとの多くは、人を異界へ連れ去る隠し神は天狗であるとする共通の観念をいだいていたということになるはずである。天狗信仰はそれほど深く民俗社会に浸透していたのだ。いや、こういうべきかもしれない。天狗信仰は民俗社会にあっては、神隠し信仰と結びついて浸透していた、と。
そういうわけで、神隠しの「神」は「天狗」、つまり「神隠し」とは「天狗隠し」といっていいほどの「法則」(約束)が、民俗社会では出来上がっていたのであった。
もちろん、章を改めて検討するように、「天狗」のほかにも、人を取り隠す“神”がいた。すでに述べたように、「鬼」や「狐」も多いし、「隠し婆」(山婆のたぐい)や、ときには「河童」や「山の神」なども人を異界へと連れ去っていった。しかし、隠し神のなかで「天狗」は圧倒的比率でその首位を占めていたのである。
<天狗と異界イメージ>
・天狗の棲み家は山奥だと考えられていた。とりわけ山岳修行者が入り込んで修行を積んだりする霊山に天狗が棲んでいるとされた。また、天狗は翼をもっていて、鳥のように空を飛べると考えられていた。また、天狗は赤ら顔の鼻の高い大男で、山伏のような法衣を着て、手には団扇をもち、高足駄をはき、木の葉や木の実を食べ物としているとも考えられていた。
こうした天狗の属性をふまえて、失踪者が連れて行かれた異界のイメージや、さらに異界での体験は語られているのである。空中を飛行し、城下や近隣の村々やさらには東京まで行ったというのも、山のなかを歩き回ったり、天狗たちの集会(酒盛り)に参加したりするのも、そうした天狗の属性と照らし合わせるとよく理解できる。
・もしそうだとすると、私たちが知りたいのは、神隠しされた者が死んでしまったあと、その魂がどこへ行き、どんな体験をしているのか、あるいは行方不明者がどこでどのような体験をしているのか、ということになるだろう。しかし、この点になると、現実の神隠し体験者からは期待する情報をえることはできない。
<人間界と異界の媒介者としての少年>
・柳田国男が強調しているように、神隠しにあったと判断されるような事件の中心人物つまり失踪者は、幼い子供、痴鈍な大人、あるいは一時的に精神障害を生じているような人物、そして若い女性が多かった。
・さらに、神隠しにあう子供の圧倒的多数を男の子が占めていることも気にかかる。つまり、天狗は男の子供を好むと民俗社会の人びとには考えられていたのだ。なぜだろう、それは天狗の主要な目的が、天狗の性愛の相手にするためであるという観念が流布していたことによっている。神隠しにあった少年を「天狗の陰間(かげま)」というのは、それに由来しているのである。つまり、神隠しにあうのが男の子である場合は、その隠し神は天狗であるのが好ましい。そういう「法則」(約束)があったのだ。
<行方不明の娘たち>
・若い女性も神隠しにあいやすいと信じられていた。これはなぜだろうか。
・興味深いのは、若い女性が神隠しにあったときには、この話のようにほとんど戻ってくることがない、ということである。
・若い女性の神隠し事件伝承には、もう一つの「法則」(約束)があるかにみえる。それは、男の子供の神隠しとは違って、彼女を異界へと連れ去った隠し神が、柳田も気づいていたように、「天狗」ではなく、「山男」や「鬼」であったらしいことである。しかも、そうした神隠しの目的は、彼女を自分の嫁にするためであったと考えられていた。そして、その多くは連れ去った女性を妻にし、また女性の方も逃げ出せないので仕方なく妻になっていると、たまたま出会った村びとに告げたりするものの(これも村びとの幻想であることが多いと思われるのだが)、女の方も隠し神の嫁になりきっていたのである。
<神隠しの理想型と諦めの儀式>
・たしかに、神隠しには、神の声を聞くという積極的な面がないではない。しかし、多くは事実を隠蔽するためのヴェールであった。「神隠し」とは、恐ろしい響きと甘美な響きの双方を合わせもっているが、本当のところは「失踪者はもう戻ってこないと諦めよ」という諦めの響きこそもっとも強いのである。そう考えると、神隠しにあった者に対するまことに形式化された捜索の仕方は、まさしく諦めのための儀式ともいえるかもしれない。
<さまざまな隠し神伝説>
<民俗社会の異界イメージ>
・私たちはすでに、神隠し事件の検討を通じて、人を隠す神を「天狗」と考える傾向が強いということをみてきた。
<隠し神としての天狗イメージ>
・この昔話の主人公は夢のなかで天狗に連れられて異界――といってもここでは金毘羅さんや箸蔵(はせくら)さんなどの遠方の聖地で、時間と金銭さえあれば行けるところなのであるが――へ、空中飛行によって訪問する。したがって、この昔話の異界体験は夢のなかでの神隠し体験ということができるだろう。
<天狗信仰の歴史>
・さて、ここで天狗信仰史をふりかえってみよう。私たちがイメージする天狗の諸属性の多くの部分を兼ね備えた天狗が登場してくるのは、平安時代からである。天狗には大別して鼻高天狗と鳥類天狗の二種あると考えられているが、平安時代から中世までの天狗の主流は、鳥類天狗で鳶の姿をしているとされていた。
・こうした説話をみてみると、すでに平安時代の頃に、突然人が行方不明になると、「天狗」にさらわれたのかもしれないという観念が京の町の人びとの間に広まっていたらしいということがわかる。
<妖怪から怨霊へ>
・雲景がその末席にいた長老の山伏からいろいろと説明を受けていると、突然、集会場に猛火が上がり、大騒ぎとなった。雲景があわてて門の外に逃げ出したかと思ったとき、ふと夢から覚めたような心地になって、あたりを見回すと、内裏が昔あったところの柿の木の下に立ちつくしている自分を発見したのであった。
<江戸時代の天狗隠し>
・さて、平安、鎌倉、南北朝と時代を下りながら天狗と神隠しの関係を垣間見てきたわけだが、江戸時代はどうだろうか。『天狗の研究』の著者知切光蔵によれば、「徳川時代の天狗横行の記録は、ほとんどが天狗攫いである」という。
・さて、こうした天狗隠しの歴史をざっと知ったうえで、再び民俗社会の「天狗隠し」事件――天狗隠し事件の大多数は「天狗隠し」とされている――を眺め直すと、おおむねその内容が理解できるのではなかろうか。
<狐隠し>
・「天狗」は人をからかったり、ただ異界を見せるために、しばしの間、人を異界へといざなった。この天狗に似たような神隠しをするのが、すでに本書でもたびたび指摘してきた「狐」であった。
昔から狐とくに老狐は人に乗り移って病気にしたり、人やその他の事物に化けて人をだます、といわれていた。人びとは狐にひどい目にあわされてきたのである。狐は考えようによっては、天狗よりも意地悪く残酷であった。
<幻想の人間社会>
・もっとも、人びとがこの狐社会を人間社会の向う側に確固として存在しているものと信じていたかということになるとはっきりしない。むしろ、狐が人をだますために作り出した束の間の幻想世界であったかにもみえる。
<狐はなぜ人をだましたがるのか>
・人間の世界と狐の世界(幻想世界)とで時間の流れ方が違うということも注目される。人間世界の1日が狐の世界での1年にあたる。
・それにしても、なぜ狐は人をだましたがるのだろうか。その答えは一様ではないが、狐は人間の男と結婚したがっている、人間の子をもうけたがっているからだという言い伝えが古くからあり、それと関係しているのはたしかである。
<鬼のイメージ>
・天狗・狐と並ぶ隠し神は「鬼」である。しかし、鬼は天狗や狐と違って、もっと凶悪な存在である。鬼は異界をちょっと覗かせるために人間を誘拐などしない。まして遊び相手にするために異界に人間をいざなうということはほとんどない。鬼ははっきりとした目的をもって人間を異界に連れ去った。一つはそれを餌(食物)とするために、いま一つは自分の妻にするために。このため、鬼に連れ去られた者には悲惨な運命が待ち構えていた。よほどのことがなければ鬼にさらわれた者は、二度と人間界に戻れなかったのである。鬼はマイナスの隠し神の典型的な形象である。
・鬼は天狗のように、「面白いものを見せるからついてこい」などと悠長な誘い方はしない。有無をいわせず強引に人間をかっさらっていく。鬼の棲み家も山のなかの岩窟で、そのなかに立派な座敷を構えている。天狗が信仰集団的な社会を形成しているのに対し、右の昔話の鬼は山中に仲間がいるものの、一般的には一人者か家族を形成している。つまり、人間の社会に似た生活をしているのである。鬼はそうした家族の食料として、人間をさらったり、また自分の妻にするために人間の女をさらってゆくのである。
<鬼と天狗>
・鬼と天狗は昔話のなかではしばしば置換しうる存在とみなされている。しかし、両者を比較したとき気づくのは、どちらかというと、天狗は男とりわけ子供を好む傾向があるのに対し、鬼の方は若い女を好んでさらってゆくことである。これは人びとが天狗に対しては性的不能者もしくは同性愛者というイメージをいだいているのに対し、鬼に対しては精力絶倫というイメージをいだいていることと関係しているといっていいだろう。
<酒吞童子伝説>
・鬼は古くからの存在で、たとえば『出雲国風土記』にも出てくる。その鬼もやはり人間を食べる恐ろしい一つ目の異形の者として描かれている。鬼は人間生活を脅かす天変地異や疫病を引き起こす存在ともみなされ、とくに京の都の人びとにとっては国家を破壊する意図さえもっているとみなされたこともあった。すなわち、鬼は王土を侵略しもう一つの王国を建設しようとする、都人の敵、国家の敵であった。
・さて、占い通り、大江山の山奥に酒吞童子の王国があった。そこは、山奥の岩穴を潜り抜けた向う側にあった。岩穴のこちら側が王土であり、向う側は鬼土というわけである。そこを「鬼隠しの里」という。
・鬼が城の城内は、四方四季つまり四方に春夏秋冬が配された、時間がほとんど停止したかのような不老不死のユートピアというべきところであった。
<対抗世界としての鬼の王国>
・ここで注意したいのは、この鬼が城は鬼の王国=鬼隠しの里の鬼王の王宮だということである。そこは京の都の帝の内裏に対応するような空間なのである。
<山姥から口裂け女へ>
・ところで、鬼というと男のイメージがする。しかし、女の鬼がいることも忘れてはならない。それを「鬼女」とか「鬼婆」ということもあるが、民俗社会では「山姥」ということが多い。
・野村純一は、女子学生たちの記憶する「口裂け女」の伝承を1200例も採集してその変異と変化を検討している。
<「油取り」と纐纈(こうけつ)城>
・しかしながら、そうではなく、生血を絞り取って、その血で布を染めたのだ。いわゆる「纐纈染め」の染料にしたのである。そのための生血を製造する人里離れた山中の“異界”を昔の人は「纐纈城」といった。
・さて、私たちは隠し神の主要なものを検討しつつ、行方不明者が、どのような神にそしてどのような異界へ連れ去られたのかという疑問に答えてきた。一人の若い女が突然失踪した。神隠しにあったのではないかと、定石通りの捜索をしたが、姿を現わさない。人びとの脳裏をよぎったのは、隠し神の名前やその姿かたち、あるいは隠し神がさらった者をどのように扱っているかといった情景であろう。
<神隠しとしての異界訪問>
<浄土=ユートピアとしての異界>
・このような場合の異界訪問は、好ましい訪問であって、それゆえに異界の神も好ましい善意にみちた神々ということになるだろう。
<夢と異界訪問譚>
・民俗社会には、好ましい異界に行って帰ってきた人を主人公にした昔話や伝説がたくさん伝承されている。こうした説話群は一般的に「異界訪問譚」と称されている。ふとしたことから好ましい異界の住人と接触をもち、人間世界から異界へ去る。昔話では、そこで話の舞台がそうした異界の方へ移っていくことになるわけである。
<異界体験談から昔話への変換>
・たとえば、岩手県から採集された話では、天上界=雲の上に立派な御殿があって、その御殿の立派な座敷に、一人の白鬚の翁がおり、訪れてきた人間界の若者をもてなす。翁には美しい二人の娘(天女)がいて、この二人の娘は大いにこの若者に関心を示し、密かに聟になって欲しいと思っていると描かれる。そして、この白鬚の翁は、仕事をするときには虎の皮の褌を腰に当て、頭には日本の角が生え、口は耳まで引き裂けた、世にいう鬼に変身する。このときの仕事とは、下界に夕立を降らせることで、この鬼は雷神であった。若者もその仕事を手伝うのだが、やはり雲の上から足を踏みはずして地上へ転落、桑の木に引っ掛かって助けられることになったという。
<異界の時間・人間界の時間>
・もう一つ注目したいのは、時間である。人間界と異界(竜宮界)では時間の質が異なっているものとしてこの昔話は描いている。竜宮世界の一日は、人間世界の一年とか百年といった、異なった流れ方をしているのである。たとえば、竜宮の一日が、かりに人間世界の一年とすると、竜宮に一年いれば、三百六十五年も人間界では時間が流れていることになる。
<人間と神との交換>
・壱岐は周囲を海に囲まれている。したがって、「源五郎の天昇り」型の昔話に、竜宮訪問のエピソードが加わったとしても納得がゆく。こうした海辺の民俗社会では、竜宮つまり海中異界の存在が強く信じられていたからである。
<「いばら姫」と「浦島太郎」の時間比較>
・ここで私たちは『遠野物語』のサムトの婆の話を思い出す。娘の頃に行方不明になった女性が、30年ほどして「きわめて老いさらばいて」帰ってくる。この女は異界において人間界と同様の年齢を重ねていた。しかし、人びとはその帰還を驚きなつがしがるが、心から喜んでその女を迎え入れることはしなかった。彼女もまた30年後の自分の家や村に安らぎを見出しえなかったようである。30年の歳月は家や村や人びとの心を変えてしまっていたのである。30年前の家や村や人びとが、その老婆を迎えてくれるわけではないのである。
<超時間装置装置「四方四季の庭」>
・この神仙窟としての家は、竜宮城のイメージとも一致する。山師が見せてもらう「四方四季の庭」は、お伽草子「浦島太郎」にはっきり語られているように、竜宮にも存在しているからである。たとえば鳥取県日野郡で採集されたヴァリアントによると、竜宮城に案内された太郎は、城内の「花の咲いた間」「牡丹の間」「田植えの間」「盆踊りの間」「祭りの間」「正月の間」を見て回る。
<社会復帰する「竜宮童子」>
・このような昔話をいくつも読んでいると、私たちがみた「神隠し事件」のうち、B型に属する行方不明者たちの何人かが、失踪から二百年も三百年も経って、ふと故郷のことを思い出してすっかり変わり果てた村に戻ってくるのではないか、そういう事件がすでに現実にいくつもあったのではないかとさえ思われてくる。
<異界イメージの多義性>
・私たちは、この章で後者の方の異界のイメージを可能な限り明瞭にする努力をしてきた。しかし残念ながら、昔話が描く、民俗社会の“極楽浄土”のイメージもそれほど豊かなものではなく、「四方四季の庭」「竜宮城」「酒とご馳走」「美しい若い女」「富を生む贈り物」といったキーワードで言い尽くせそうな、類型化された異界であったといっていいだろう。
<神隠しとは何か>
<現代の失踪事件>
・もちろん、失踪事件のなかには、真相はわからないままになってしまうものもある。行方不明者が捜索・捜査の努力のかいなくついに発見されない場合も多い。しかし、そうした未解決の失踪事件についても、人びとの口から神隠しという言葉はもう出てこない。誘拐されたのではないか、家出したのではないか、殺されてどこかに捨てられているのではないか、と行方不明者の“その後”をあれこれと想像する程度である。
<「神隠し」のヴェールを剥ぐ>
・子供であれ、成人の男女であれ、失踪したまま戻ってこないような事件の真相の多くは、家出か誘拐であったと推測される。
<人さらいと大袋>
・では、それに「神隠し」のラベルが貼られるかどうかは別として、本当に人に誘拐されていった者たちの“その後”はどんなであったのだろうか。いったいいかなる理由で誘拐されたのだろうか。
<人身売買のネットワーク>
・牧英正『人身売買』によると、「人さらい」の背後には全国各地にネットワークをもった「人買い――人売り」集団が存在していた。そうした人売り――人買い商人の生態をよく描き出しているのが、中世の説教節「さんせう太夫」の物語である。
・すなわち、この市では、幼い者や働き盛りの者はもちろん、余命いくばくもない老人さえ売られていたという。
こうした人身売買を職業とする人たちのネットワークや市が設けられることによって、身内の者に売られた子供や娘、誘拐されて遠方から連れてこられた人たちなどが、強制労働や売春などのために買われていったのである。
<児肝取り伝承「阿弥陀の胸割」>
・誘拐事件=人さらいの横行で留意しておきたいのは、子供の生肝が不治の難病に効くと信じられていたために、それを調達するための誘拐事件が洛中洛外で頻発していることを、14世紀中頃の『園太暦(えんたいりゃく)』や15世紀中頃の『万里小路(までのこうじ)家日記』などが繰り返し記していることである。
第3章で紹介した『今昔物語』の纐纈(こうけつ)城伝説や昔話の「脂取り」に共通するもので、「子取り」のすべてが生肝を使用するためであったわけではなかろうが、京の人びとの間ではそうした「児肝取り」の噂が流布していたのであった。
<神隠しの現実隠し>
・山本光によると、江戸時代では、家出人が出ると肉親や親類の者たちが家出人を探すことが義務づけられており、文化九年(1812)に改められた幕末の村民欠落に関する規定によると、三十日限六切、つまり合計百八十日間尋ね歩くことが義務づけられ、それを過ぎても見つからないときは、役所に家出人の除帳願いを出した。人別帳から抹殺されるのである。
・「神隠し」とは、要するに、失踪時には、人隠しであると同時に、“こちら側”の現実隠しであり、帰村時には、失踪期間中の体験隠しであったということになるのだ。
いずれにしても、失踪者の失踪期間のことは、“向う側”=異界へ送り出されて隠されてしまう。「神隠し」とはそういうことであった。
<夢が異界へいざなう>
・たとえば、異界に赴くためには夢が通路であったことは、昔話の「源五郎の天昇り」や「脂取り」「髪剃狐」などからもわかる。これらの話の結末は、ほとんどがすべては「夢だった」と語っているからである。
<神隠しなき時代>
・近代とは、{神隠し}というヴェールの上に映っていたこうした共同の夢=異界の夢を撲滅させ、そのヴェールの下にある現実を白日のもとにさらそうとする時代であった。そして、現代ではそれがすっかり現実化しているのである。
もう失踪事件を真剣に「神隠しだ」という者は一人もいないのである。
・この事件に対して、当時の人びとはそっと「神隠し」のヴェールをかけた。そうすることで、この「遅鈍」な青年の失踪の理由を“こちら側”に求めず、“向う側”に求めることになった。“こちら側”に求めるのと、“向こう側”に求めるのとでは、この青年の扱いは大きく異なってくるであろう。彼は神に隠されて異界に遊んだのである。さらには、人びととはこうした事件を介して、神の存在を考えたり、異界の存在を信じたのである。
<社会的な死と再生の物語>
・夫が行方不明になって探し回ったが見つからないので、ついに失踪した日を命日と定め、婿を迎えて、商家を継いだが、20年ほど経ったある日、20年前の衣服とまったく同じものを着た夫が出現したというものである。「浦島太郎」の昔話と重なり合う話である。
・神隠しとは、“社会的死”の宣告であり、それから戻ってくることは“社会的再生”であった。
<驚嘆すべき解答 高橋克彦>
・私はそのように考えてそれらを小説の中に取り込んできた。鬼や天狗、河童といったモノたちは今もたぶん存在する。ただし名称を変えられてしまっている。すなわちエイリアンだ。それこそ科学が発達した今だってエイリアンの存在を信じている人間は多い。アメリカでは大学卒の人間の7割以上がエイリアンの存在する可能性を認めているという。その理屈で言うなら神隠しはエイリアンによる誘拐と見做すのが妥当であろう。神隠しは決して迷信などではなく、実際の事件を報告しているものかも知れないのだ。
・さすがに小松さんはエイリアンまで繋げることは避けているようだけれど、根底は似ている。間違いなく私と同様に神隠しを肯定し、その犯人である天狗の正体や目的に迫る本であろうと睨んでいたのだが…………見事に外れたばかりか、実に恐るべき本であった。読み終えた今、小松さんの鋭い視点に唖然としている。
・しかも、この神隠しの解明では天狗や鬼の介在を否定しつつ、天狗や鬼の存在まで否定はしていない。あくまでも神隠しに関する限り天狗や鬼は無実であると力説しているだけだ。このスタンスも見事だ。エイリアンの存在を信じている人間は、なんでもかんでもをエイリアンに結び付ける。小松さんはもちろんそういう人ではない。だからこそ、この解答に読者は納得させられてしまうのだ。
神隠しのイメージはこの本から変わる。
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