UFOの動力、推進技術を手に入れたものは世界を制すといわれているぐらいですから、国防上の理由から、全面的には公開はムリだというわけですね。(1)

(2022/11/3)

『いつもUFOのことを考えていた』

UFOライブラリー・荒井欣一さん訪問記

和田登  文溪堂 1994/6/1

<プロローグ>

・ところで、ケネス・アーノルドが歴史的なUFO目撃事件に遭遇し、全米がその話題でもちきりになっていたころ、わたしは小学校の6年生であった。現長野市川中島町。

 もちろん、そんな大事件がアメリカでおこっていたとは知らず、太平洋戦争直後の混乱の時代を生きていた。

・この時期、私が夢中になって読んだ本に、「火星兵団」というのがあった。東京から空襲をさけて引っ越してきていた兄の友人から借りた2巻の大長編、作者は、日本のSFのさきがけ、海野十三(うんのじゅうぎ)。

 物語は、火星から日本に襲来したタコのような宇宙人が、人間に変装したりして人を誘拐するなどの事件がたて続けにおこり、それに立ち向かう博士や少年の姿が、勇敢に描かれた心おどる話である。さらわれるのは人間だけでなく、馬や牛や犬、猫など、あらゆる生物だった。

 さらった生物を、大空挺、いまでいうロケットにおしこめ、火星につれていき、人間までも家畜にしてしまうという火星人の策略だったのである。

 戦時中に書かれた小説であったから、前編の表紙には、走る日本軍の戦車が火星人をひき殺す絵が描かれていた。

・天文学者へのあこがれは、早いうちに捨てたけれど、高校時代、妙なことから、再び宇宙への関心をいだくようになっていった。

 そのきっかけが、このケネス・アーノルド事件にふれたある百科事典との出会いだったのである。

・この日をさかいにして、わたしは空飛ぶ円盤と名のつく本や、雑誌の記事などは、かたっぱしから読むようになっていった。

・ケネス・アーノルド事件のころ、わたしはSF小説に夢中になっていた一少年にすぎなかったが、同じ時期に、東京でアメリカのUFO情報にさかんに耳をかたむけ、それについて科学的な興味をもちはじめていた青年がいた。荒井欣一(あらいきんいち)さん、五反田の駅から歩いて12,3分のところに住み、熱心にアーノルド事件のゆくえを見まもっていた。

 日本を占領していたアメリカ軍向けのラジオ放送の、奇妙なニュースに、まず注目しだしたのである。――フライング・ソーサー?

 政府大蔵省の印刷局につとめ、主計の仕事をしていた荒井さんは、その放送の伝える内容に驚き、そのことばかりを考えるようになった。

 新聞に報道された記事も熱心に読んだ。

――銀河系宇宙には、1千億からの恒星、いわば太陽があると聞いている。もし、その10パーセントが地球のような惑星をもっているとすれば、100億の地球、1パーセントとしても10億の地球だ。この宇宙で、人類だけが知性を持った生命であろうはずがない。

 そう考えると、その知的生命がすすんだ科学によって、地球に飛来してきても不思議はないのではないか。

・だれもが、日々の食うことに追われていた。そうしたなかにあって、荒井青年はじっと空腹にたえながら、宇宙や、ほかの天体の知的生命について空想していた。

 ここを出発点として、後には日本ではじめてのUFO研究団体、日本空飛ぶ円盤研究会を創立。その機関紙に発表し続けた厳しい科学的論文とともに、世界的にも注目をあびる存在となっていく。

 やがて1979年には私財を投じてUFOライブラリーを開設した。そこには日本内外のUFO関係の雑誌や本、写真、ビデオ等数千点がおさめられ。いまでは訪れる人が毎日たえない。

・この一冊は、したがってUFOライブラリー訪問記であり、また荒井欣一(1923-2002)さんの半世紀でもある。

<星空を見つめる少年>

・1923年(大正12年)生まれの荒井さん。

「じつは、ぼくの生まれたのは、あの関東大震災でしてね。震災が9月1日。生まれたのが、そのたった2か月前の7月6日ですから、当時のはやりの言葉でいえば、震災っ児っていうやつですよ」

・「大木先生の影響を受けていましたし、また学園には戦前アメリカ人の教師もいて、米国の科学技術のすぐれていることを十分聞かされていましたから、とても勝ち目はないと思っていました。しかし、結局は学生の身分でありながら、戦争に引っぱられましたよ」

――学徒出陣ですね。

「ええ、最初は千葉県の柏の東部83部隊というのに入れられましてね。毎日敵をいかに殺すかの演習ばかり、入隊のさいにもっていった『善の研究』だのといった哲学書など、ほとんど読めませんでした。往復ブンタをしょっちゅうもらいながら、洗脳されていったのです」

・荒井さんは、口にこそ出さなかったけれど、被爆地の地獄のような有様を想像しつづけた。そして、部隊が解散となり、東京に帰る列車のデッキで、広島のその無残な姿を、まのあたりに見るようになる。

「汽車がね、ごったがえす広島の駅についても、周囲はまったくの焼け野原というのか荒野で、なんにもないのですよ。ただ、枝葉をはぎとられ、まっ黒く焼けただれた木々が見えるだけ。あとは、建物の倒壊したガレキの山。

 そのあいだを、皮膚がボロボロになった被災者たちが、うろうろと動きまわっている。黒こげになって、死体をさらしているものもありました。とてもじゃないが、正視できませんでした。

 駅のホームでは、列車が満員のため、乗れないで残された人たちが、うらめしそうに走りだす汽車を見ていました。焼けただれて、頭の毛もボウボウの若い女の人がね、赤ん坊を背負い、半狂乱になって、デッキにとりすがろうとする姿も見ました。しかし、わたしたちは、どうすることもできませんでした」

 当時、人口40万都市の広島。8月6日、午前8時12分。上空で爆裂した新型爆弾は、一瞬にして20数万におよぶ人びとを即死させた。

 広島から東京に帰りついた荒井さんは、くわしい情報を知るにつけ、このようなことは地球上に二度とあってはならないと、強く思った。

 それがのちの“宇宙平和宣言”を仲間と発表する動機になっていったのである。

<UFOへの目ざめ>

――荒井さんが、空飛ぶ円盤、つまり今でいうところのUFOに関心をもたれるようになったのは、ケネス・アーノルド事件の報道がきっかけでしたね。

「ええ、大蔵省の印刷局勤めのころね」

・「もちろん、地球上の科学者たちが、懸命にに明らかにしてきた理論にあわないところが根本的にありますね。

 でもね、ぼくはそれはあくまでも地球人中心の考え方であって、十万光年、二十万光年の直径をもつ銀河系宇宙の広がりや、それ以上に大きな世界の広大さを思うときに、地球文明が到達した科学を超越した知的文明を築いている異星人がいても可笑しくないではないかと、そんなことを考えたし、いまでも思っているのですよ」

・日本の新聞では、アーノルド事件については、のちに「朝日新聞」が大きく取り上げましたね。あと、「東京タイムス」とか………。

 ほかの新聞でも、その続報が注意しているとよくでましたよ。そのうちにアメリカ政府のUFOに対する否定的な見解が、アーノルドの目撃談を意図的につぶしにかかり、アメリカ一般の人びとの関心も疑問へとかたむいていきましたし、日本の新聞も、真正面から論評したり、報道することもしなくなりました。

 これをアメリカ政府が簡単に受け入れてしまうと、世界の秩序が混乱し、政治も経済もどうしようもなくなると考えたのでしょうね。それと軍事機密としておき、くわしく秘密に研究し、自国が優位にでたいと――。したがって日本の新聞も、そのまま右へならえになって、1990年代の現在になっても嘲笑気味にあつかう記事が見られるのです。残念ながら――」

 荒井欣一さんが、仲間とともに本格的にUFOについての論議を始めたのは、印刷局をやめて、古書店を開業してからであった。開業そのものは1950年6月。

・1948年1月7日。UFOが関係したとみられる大きな悲劇的事件が発した。研究者の間では知らぬものがないほど有名なマンテル大尉事件だ。

 事件発生については、翌日のアメリカ中の新聞が、「空軍パイロット、空飛ぶ円盤追跡中などの墜落死!」といったような見出しで、大きく報道した。

 アーノルド事件の政府の否定見解で、興味のさめかけていたアメリカ国民は、ふたたび、めずらしく大まじめな新聞報道に目をまるくした。

・しかし、空軍が正式に発表したその事件についての直後の見解は、マンテルは金星を見誤って追跡、その結果酸素不足によってマンテル自身の意識が失われ、墜落をまねいたと考えられる――といったものであった。

・ずっと後、空軍は金星誤認説をとりさげて、そのかわりに気球を見誤ったのだとする説をもちだしたりもした。

・1949年には、米国の有力な雑誌「TRUE」に、アメリカ海軍将校、ドナルド・キーホー少佐がUFOは異星人からの宇宙機であるという、大胆な論文を発表し、大きな話題となった。それがその年の12月23日。

――その会の結成がいつになるわけですか。

「昭和30年(1955年)7月1日です。その大きなキッカケはですね、前の年29年8月に、ご存知のジョージ・アダムスキーとデスモンド・レスリー共著の『空飛ぶ円盤実見記』が日本で翻訳出版されまして、ウソか、マコトかの騒ぎが起った、その事によってですね」

<日本空飛ぶ円盤研究会誕生>

・「空飛ぶ円盤実見記」(高文社)は、第1部は「空飛ぶ円盤は着陸した」と題したデスモンド・レスリーの論文である。

・写真については映画「地上最大のショー」のカメラマン、P・マーリーが鑑定し、偽造されたものではないことを証言しているといった特別な文章が「後書」の次につけられていた。しかし、その写真の信疑についても、それからずっと論争されつづけるのである。

・天文学の常識からすると、金星自体が知的生命、とくに今回のような人間とほとんど同じようなものが住める条件にない。厚い雲がとりまく高温の世界。暗黒の砂漠の星といいわれている。いや、表面すべてが海であるという説もある。

 二酸化炭素だけは、地球の大気のなかに含まれている量の1万倍もあるという星。

 地球人そっくりな姿の異星人をそこにおいて想像するには、あまりにも抵抗があった。

<あいつぐUFO事件>

・この日本空飛ぶ円盤研究会(JFSA)の発足と前後して、世界的にUFO目撃報告や、宇宙人との会見記、さらに星間旅行までしてきたなどという体験談が、続々と発表されて、いちだんとにぎわしくなった。

<それでも円盤は飛ぶ>

・日本の新聞にあらわれたUFO関係記事も、東京朝日新聞社調査部の資料により、綿密に記録している。1957年の部の書き出し。

●7月7日(東京タイムス)飛び行く円盤? 米国の空に怪現象。定期航空の乗員が「飛びゆくコーヒー皿」を見ている。ワシントンの海軍観測所で「天文学的な現象ではない」と語った。海軍「飛び行くパンケーキ<新型機>」説を否認。

●7月8日(同)空飛ぶ円盤アメリカで大評判。目撃者33州数百人に及ぶ。

●7月9日(同)空飛ぶ円盤山中に着陸。米陸軍は秘密兵器説を否定、7日アイダホ州モントマリー付近の山腹に着陸したが同時に消えた。飛行機も出動して調査したが同時に消えた。

●7月10日(毎日新聞)大きさは家ぐらい。追跡飛行隊も出動。デンマークにも現る。前日の着陸円盤の大きさは5部屋の家ぐらいだという。コペンハーゲンでも6日夜、2人が見た。

 あと、延々と続くので、省略する。

<貝塚の円盤写真事件>

・荒井さんを代表とするJFSAの活動は、そのまじめさと、情熱が世間に伝わり、会員数がたちまち4百人を数えるまでにふくれあがった。

・この悲しみの傷がまだいやされない1958年のことである。荒井さんなどUFO研究者たちにとって、忘れられない事件が発生した。“貝塚の円盤写真事件”と呼ばれるものであった。貝塚とは、大阪府貝塚市のこと。

 ここに住む中学生が、鮮明な円型のUFO写真をとることに成功したと、半信半疑のあつかいで新聞が報道したのだ。

・藤波助教授がみごとに見破ったように、一枚は(じつは二枚のネガについて争われていた)オモチャの自動車の車輪を糸でつり、もう一枚の写真はボタンをつって撮ったというのである。友だちを驚かせてやろうといった、単純な考えからだった。

・こんな偶然のいきちがいから、こんなトリック写真が世間を騒がすことになってしまったのであるから、どうか同少年を余り責めないでやっていただきたいということであります。

・それ以来、荒井さんたちは、トリック写真については、とりわけ注意するようになった。

<地球大変動? 騒動のなかで>

・貝塚の円盤写真事件は、研究者の心をひきしめさせる事件であったが、世間一般の人びとは、円盤なんて、それ見たことか! インチキにきまっているじゃないか、といった目で見るようになっていった。

 そこにもうひとつ、おいうちをかけるような大騒動がおきた。まじめにUFOを研究している人びとに、絶望感をあたえるような事件である。

・1959年(昭和34年)7月10日。

UYKの代表松岡英介さんは、会の本部のある横浜の旧国鉄の駅からただちに指定の場所に行くよう、テレパシーを宇宙人から受けた。

 やがて松岡さんは、金星人、火星人、土星人などわが太陽系の遊星や、そのほかの星に住む宇宙人たちと、しばしば宇宙船の母船内で会うようになった。

 宇宙人たちはアダムスキーが会ったという宇宙人と同じく、まったく地球人と同様の姿形をしており、英語で話しかけたりした。

 問題はこのように宇宙人と会見したということだけでもたいへんな事件であるのに、宇宙人たちから、耳を疑うようなことを告げられるのである。

それを要約すると、こんなふうになる。

 われわれ宇宙人は、きわめて近い将来に地球に大変動がおこることを予知している。その日にそなえるために、常時地球の観測をおこなっているが、その正確な日時はわれわれにも分からない。しかし、あなたはその日の準備に選ばれた一人であることを、まず自覚しなさい。

 宇宙人側としては、地球が災難にあった後、再びこの星を立ち直らせるために、一人でも多くの人を他の遊星に避難させたい。

 決して、いざというときにも、混乱をまねかないよう、あなたの力に期待する――。

 最初に母船に連れていかれて行った時からこの動転するような話であった。

 地球に大変動‼ しかも近い将来という――。

 宇宙人たちは各星々の連合体を作り、いかにして地球の困難を最小限にくいとめるかを研究し続けてきた。その結果として、宇宙人とコンタクトする事件を多く発生させ、少しずつ地球人に重大事件が迫っていることを伝えていこうということになったらしい。

・UYKの役員たちは、この松岡英介代表の報告を、疑いを入れずに深刻に受けとめ、ひそかに会合を重ねて、今後のありかたについて論議をはじめた。

 ところがこの話がついに部外にもれてしまい、「産経新聞」が大々的に報道してしまった。

196X年、地軸(地球儀を例に説明すれば、心棒に当たるもの。元々23.5度は傾いている)が132度傾くため海と陸が相互に入り乱れて、地球上の生物は93%が死滅する。ノアの洪水より数十倍もの大規模な“地球最後の日”がやって来る――というもので、さあ、素朴にそれを信じる人たちは、騒然となった、

 196X年というのが、どこからでてきたのかは後で触れることにする。

 少なくとも、同会発行の「地軸は傾く?」を開いてみると、124ページに、「しかし大規模な変動は恐らく196X年に発生し、小規模な変動はそれ以前に突発するかも知れません」とあることだけは、先に触れておこう。1959年8月10日発行の本である。

 X年というのは、不気味で、計算すると10年の内にその変動が来ることになってしまう。

「産経新聞」はこの記事に、世の反応ぶりも書いた。

“広島県のある高校生の研究グループは「試験なんか受けたって仕方がないからやめよう」と学校を休んでしまい、北海道のある商人は家屋敷を売り払って、その日の来るのを待っているという話も伝わった”

 これ以後、週刊誌、月刊誌が次々とこの問題を取り上げ、“遊ぶなら今のうちよ”と派手な御乱行を始めた女子高生などと、面白おかしく取り上げた。

 この騒ぎに警察ものりだし、会の代表が署に呼ばれ、事情を聞かれるということもあった。

・UYK側にすれば慌てずにいられなかった、これがマスコミにもれて騒動がおこらないよう、また世をはかなんで堕落する人がでないようにと、さまざまな対策をとって、それに対応していたのに、というわけである。

 したがって、そのことを大きくゆがめて書いたマスコミには、そのつど抗議文を送った。

 マスコミがこの騒動の内容を細部にわたって報道できたわけには、これまでふれなかったが、UYKの一地方会員が自主的に流してしまった文書があったことによる。この会員が、UYKの組織のなかで、どんな位置にあったのかは知らない。

 それにならって文書を流した別の会員も数名いた。

 この文章には、はっきりと、次のようなことが記されていた。

① 地球の軸が急激に傾くのは、1960年~62年です。(ゼロの可能性がかなり大きいと見られています。)

(注)三百機の宇宙船(円盤)が地球をめぐり、地軸の変動をつねに測定しています。

②宇宙の兄弟がわれわれを救いに来てくれます。円盤に乗る場所は、日本では二ヵ所になる予定です。東日本と西日本の二つのグループに分けられます。この場所はCの少し前(時期を知らせる通知のわずか前)に知らされます。

(注)C……Catastrophe(大災害)の頭文字で、地軸大変動の略記号又は暗号として使われます。

② Cの10日前に電報分又はその他の方法でCが起こることが知らされます。電文『リンゴ送レ』シー』この電報をうけとったら、あなたとあなたの家族(及び宇宙の兄弟の知らせを信ずる人たち)は、ただちに指定された場所へ行って下さい。

 後は省略するが、指定された場所へいったところ、文字どおり天をおおうほどの多数の円盤が姿をあらわし、救助の手をさしのべる、といったことが書かれていた。

 地軸変動の年月をXとしてふせたのは、マスコミがしたのかUYKの配慮だったのかはわからない。

 ともかく、科学的に地道にUFO研究をつみ重ねてきた荒井さんたちJFSAや関西の高梨純一さんたちにとっては、ショックはかくしきれなかった。

 なんでこんな非科学的なことをいきなりいいだしたのか? これでは自分たちまでも同じと見られ、馬鹿にされる――。

「ぼくはね、いやぼくたちJFSA会員はね、よるとさわるとこの話でね」と、荒井さんは語りだした。

「UYKの活動には、ぼくたちははじめはそんなに怒るほどでもなかったんですよ。宇宙人に、“ベントラ、ベントラ”と呼びかけ、出現してくださいと、テレパシーを送る。そのことも、ぼくなんかには受け入れられなかったけど、まあまあという感じで静観していました。

――話をUYKにもどしますが、JFSAとしては、どんな正式な態度を表明したのですか?

「公開質問状です。UYKに対してですね。その代表が円盤に招かれたり、重大なことを告げられたりしたことが世間にひとつの騒動を招きおこしているけれど、そのコンタクト自体が事実だとすれば、その証拠を示してほしい、ということが一番でした。

 そのほか、UYKが1961年に、東京の朝日新聞社の講堂で、ジョージ・H・ウィリアムスン博士なる人のUFOについての講演をしましたが、その会ではJFSAの会員の締め出しにかかったものですから、その理由についてもですね」

――ウィリアムスンといえば、アダムスキーの“実見記”にでてくる………。

「そうです。彼が“金星人との会見”の日に、現場に同行した人ですね。宇宙考古学の立場から、南米のペルーなど、古代遺跡をめぐって、太古から宇宙人は地球に飛来していると言う説を唱えてきた人です。『宇宙語・宇宙人』などという本も書いていますね」

・信仰に近い、なにか純粋さみたいなものがあった……。だからでしょうか。マンガ家の山川惣治さんも協力して機関誌に、北海道のコロポックルの神、オキクルミ・カムイの伝説と円盤を結びつけたようなマンガを描いていたし、徳川無声さんなんかも、さきの朝日講堂の会では公演しているんですね。

 自分が、UFOを目撃した話………。

「ええ、ぼくもUYKの活動全部を否定するつもりはないんですが、残念な、決定的に残念なことは科学的立証主義を簡単に捨て去って、コンタクト派になってしまったことですね」

――UYKはその後、どうなっていったんですか?

「例の事件をおこしたことについてはけじめをつけまして、次第にウィリアムスンの影響もあってか、日本の古代遺跡を調査し、UFO飛来との関係を解き明かそうとしていくんですね。その研究結果は、機関誌に詳しく学術論文風に載せていましたが、そのうちに、やっぱり大事件がいろんな面で影響したのでしょうかね。会員はどんどん離れていき、組織として存在が認められなくなりました。代表の松岡さんも、海外に行ったままだという話も聞いております」

(注)UYKと、松岡さんは、仮名です。

<暗い日々………そしてUFOライブラリー開設!>

・「ぼくがくたびれだしたのは、貝塚の円盤写真事件のころからですね。世間の人たちは急激にUFO研究家に冷淡になっていきましたし、ぼく自身のからだも、虚血症と、糖尿病でね、機関誌の原稿を書くのにも、つかれを感じるようになりました。

 そこへもってきて、UYKなるコンタクト派が頭をもたげてきて、その行き方が新興宗教めいて感じられたせいか、人びとの目がUFO研究者全体に、これまでにまして厳しくなってきていました。

 IFSAの会員も、どんどん減っていき、機関誌発行もできないほどに、金がつづかなくなったんです。

・“そんなこといっちゃ困りますよ、荒井さんが休んでいる間にUFOの世界もだいぶ動きましたよ”といって、いま買ったばかりだという「オフィシャルUFO」の特集版をわたしました。横文字の雑誌です。パラパラッと拾い読みしましてね、たしかにここ数年の間に、新しい展開があったことを感じたんです。

 柴野さんと別れて、ぼくはイエナにもどり、その雑誌のほかにも2、3冊UFOの本を買いもとめ、久しぶりで、夢中になって読みました。読んでいるうちに、しぼんでいた気持ちが、こう、ムクッ、ムクッとしてきまして、“よしやるぞ!”という決心がついたのです」

――再起第一歩はなんでしたか?

「神戸で平田留三さんという人が、日本UFO研究会というのをつくっておりましてね、その機関誌に、『UFO事件の問題点を探る』という論文を連載することでした。10回ばかりやりましたか」

――この年ですね、アメリカにエドワード・コンドン博士を中心にしたメンバーの、いわゆる「コンドン委員会」が発足したのは。

「ええ、コロラド大学の物理学者コンドン博士。正式な名前は“UFO研究調査委員会”というんです。アメリカ政府は、いろいろUFOの調査機関を設けては、UFOなんて存在しないんだ、ウソなんだと外にむかっては発表してきましたが、そういいながらすごく真剣に秘密のうちに研究してきたことが、後に明らかにされました」

――CIAの公式文書一部公開に見られる………。

「ええ、あれは民間の研究団体が、政府が隠しているUFO関係の

秘密資料を全部公開せよと、裁判をおこしたら、政府側が敗北してしまった。それでやむなく一部公開となったわけですが、それを見るだけでも、アメリカ政府がいかに秘密にUFO問題について調査研究していたかがわかります」

――そのCIA公文書公開は、1978年、つまり昭和53年のことですが、このUFOライブラリーがオープンしたのは?

「その次の年にあたります。その年の暮れには、CIAの極秘文書、およそ1千枚が手に入りました」

――この館の目玉のひとつですね。たとえばほかには、どんな内容のものがありますか?

「かつての大統領カーターがですね、1969年にUFOを目撃した事実があった証拠書類。カーターは、ニュージャージー州でライオンズクラブの会合に出席していて、12、3名の同行者とともに、100メートル先に光り輝くそれを目撃しているんです。

 大統領の目撃発表ということになりますと、これは大きいですから秘密にされました。そのほかのものでは、CIA文書中のUFOの動力についてふれている書面です。こればかりは、さすがに世界最高の諜報機関のものらしく、黒マジックであちらこちら消されているんです。

 UFOの動力、推進技術を手に入れたものは世界を制すといわれているぐらいですから、国防上の理由から、全面的には公開はムリだというわけですね」

――そのほか館内にある資料は目録で見ただけでも、たいへんなものですね。

「いや、シロウトの図書館ですから、限界がありましてね」

 荒井さんは謙遜するが、まず、UFOのことならなんでも分かる図書館になっている。ただ分からないのは、宇宙人のマコトの正体と、UFOの推進技術。そして、まだアメリカ政府が秘密にしている未公開の膨大な資料の中味――。

ここでは内外の資料が、マイクロフィルム化してある。

・「そこで、ぼくも執念ぶかく資料を集めてもっていることだし。いっそのこと、これからのみなさんにそれらを公開し、役だててもらえばと、自費でライブラリーの開設を決心したのです。

 この光星ビル(鉄筋5階建て)に少なくともUFO関係の資料でうめつくされた部屋があってもいいのではないかと思いましてね、5階全部を無料公開にふみきることにしました。

 公開後数年は、月2回公開日をとっていましたが、現在は予約制をとっています。まえもって電話をくだされば、ということですね」

――現在のところ、入場者数はどのくらいですか?

「ここ10年間で、5千人ぐらいでしょうか」

<エピローグ>

・1990年11月23日から25日にかけて、石川県羽咋市において、“宇宙&UFO国際シンポジウム”がひらかれた。

 世界のUFO写真や月の石、宇宙開発機器、情報パネルなどの展示。それに米ソUFO研究科学者、ソ連科学アカデミー、米大学教授、台湾の研究者、アポロ宇宙飛行士等々をまねいてのシンポジウム。

・このシンポジウムが開催されるちょうど10日前、「読売新聞」の夕刊は、ソ連が積極的にUFO研究センターが設立されたと報道した。

 これらの動きもあわせて考えるとき、荒井欣一さんのような存在が、たいへん重要に見えてくる。

 一般の科学者も、すでにUFOを無視できない時代にきているといわざるをえない。

 しかし、まだまだ科学者の多くは、そこまで研究対象を広げることを恐れる。恐れるあまり、頭から目撃報告などを排除してかかる人もいる。

・荒井さんが問題にしたのは、これよりも「まえがき」のほう。

「そもそも地球外から知能のある生物がやってくるというようなことは、科学的に考えれば不可能に近いといってよいほどのことです。毎日望遠鏡で夜空を見ている天文学者やコメットシーカーのだれ一人としてUFOを見たことがないというのも、UFOが実在するものではないことを示していると思います。」

 “天文学者のだれ一人見たことがない”という文章に、荒井さんはひっかかった。天文学者として功績のある人たちをはじめ、多数の目撃例があるうえ、アメリカやソ連政府が問題視しているような時代になってきていることを、水谷教授は無視しているか、知識としてもっていないらしいことに、はがゆさを感じたようだ。

“科学一点ばかりの狭い視野と、UFOのことを知らずに適当な文章を書くにはもってのほか”ときめつけた。

・わたしがここに、あえて口をはさむならば、科学者はあくまでも、冷酷なまでに科学に徹してもらいたいと思う。あやふやなものを根拠に結論をだすのは、科学者の態度ではない。

・日本では、それが真実なら極めて重要性を帯びることになる甲府事件といわれるもの。1975年(昭和50年)、山梨県甲府市のブドウ畑に、UFOが着陸。それに接近した小学生2名が、中から出てきたヒューマノイドを目撃したばかりか、一人が肩をポンポンと、2回叩かれたという事件。

・中心的当事者が子どもだから、周囲は気づかって、変人、狂人扱いはしなかったようだが、大人なら、直ちに会社等を辞めなければならない事態にもなりかねない事件である。

 荒井欣一さんは、慎重派だから、この事件についてはコメントを控えていた。

 その代わり、日本航空のパイロット寺内謙寿機長の、アラスカ上空でのUFO目撃事件について熱が入った。

 昨年11月17日午後5時ごろ(アラスカ時間)、パリ発成田行き日航1678貨物便ボーイング747ジャンボ機(乗員3人)が、アンカレッジ北東約770キロを飛行中、左前方4、5キロにふたつの灯火を発見。近づくと、大きさはDC8型機ぐらいで長方形。

 中央部は暗黒でノズルのようなものが無数にあり、光を発していた。それが消えた後、別の飛行体があらわれ、地上の灯火に浮かび上がった姿は大型空母を2隻背中あわせに重ねたような球状で、ジャンボ機の数十倍の大きさがあった。

 この時JAL機のレーダーには緑色(金属なら赤色)の映像が映った。この物体は音をださず約50分間にわたりつきまとったという。

 また佃喜雄航空機関士も、「明かりが二つ見え、上下に揺れながら飛んでいた。それが消えた後も、客室の窓が一列に並んだような明かりが見えた」と証言している。

・そういえば最近になって、急に「MJ―12」と呼ばれるアメリカのUFOに関する秘密文書のことがマスコミで話題になりだした。宇宙人とアメリカ政府の奥深いところでは、すでに特定の宇宙人との交流が超秘密のうちに始まっているということが認められるという不思議な文書である。

 1947年(昭和22年)7月、ニューメキシコ州ロズウェルで、UFO墜落事件が発生した。墜落したUFOには人間に似た小柄な生物が乗っていて、その死体が回収されたということに端を発している。

 MJ―12文書自体がアメリカ政府の公文書館からでたものといわれているだけに、もし仮にもそれが事実だとしたら、これは大きい。

・荒井さんは、UFO研究界の中で、厳しい判断を適用する科学主義を貫いてきた第一人者です。私はだいぶ前から、荒井さんの態度に注目してきました。そして今回、親しくお会いし、その生い立ちから始まって、UFO研究の今日に至るまでのお話を伺うことができました。インタビューしたのは、1990年5月。原稿執筆はそれからまもなくでした。

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コンタクティとチャネラーの情報を集めています。 森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

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