1933年、スターリンによる過酷な農業集団化と穀物徴発によってソ連の穀倉地帯ウクライナで未曽有の何百万人もの餓死者が出た。(1)

(2023/3/18)

『ロシアを動かした秘密結社』

フリーメーソンと革命家の系譜

植田樹  彩流社  2014/5/22

<西欧における選民たちの秘密結社>

<フランスの大東(方)社>

・政治を論じ、神への信仰義務をなくしたフランス大東方社は、急速に反専制政治と反教会の革命勢力の拠点になっていった。

・「フリーメーソンの本質は、反キリスト教会という点にある」

・一般にプロテスタントの国々では、フリーメーソンは国家や教会と対立することなく協調的関係を保った。

 一方、ローマ教皇庁の権威を重んじるカトリックの国々では、フリーメーソンは教会と対立した。教皇は政治化するフランス大東方社に対し、1738年と1751年に破門状を送った。この禁止にも関わらず、会員たちは秘密裏に活動を続け、益々急進的な反教会、反専制の政治傾向を強めていった。

 大東方社の影響下で第三共和制のフランス政府は、ローマ教皇庁との外交関係を断絶した。大東方社はさらに政府を動かし、政教分離法を成立させ、国内の学校教育にカトリック教会が関与することを禁止させた。

 フランス大東方社は1877年に憲章を修正し、「神の存在と霊魂不滅の信仰」を会員の資格条件から削除した。教皇クレメント12世は「フリーメーソンは悪魔の手先だ」と非難、カトリック教徒に入会禁止令を出した。教会との断絶は1983年の新教会法まで続いた。

「フランス大東方社」と同系列の各国の「大東方本部」の会員たちも一般に無神論者であるか、信仰をさして重要視しない。

 フランス大東方社のフリーメーソンはフランスの国政に深く関わり続けた。フランス革命の推進者の多くがフリーメーソンの会員だった。

・フランス革命直前に末端組織は宮廷、議会、軍隊などにまたがり約600結社、会員数は数万人になり、革命の思想的母体になった。多くの会員がフランス革命後も7月革命や2月革命、さらに第3共和制、パリ・コミューンを陰で支えた。

「フリーメーソンは偉大なフランス革命を準備した。我らが掲げてきた理念――自由、平等、友愛が革命の指導原理になった」

「フランス革命はまさに我らフリーメーソンの神殿で密かに準備されたのだ。フリーメーソンの理念に基づいて革命が成就したことは永久に記憶されるだろう」

(各国の結社)

・東方では1904年のトルコ革命を実現させたトルコ青年党の幹部将校のほぼ全員がフランス大東方社系列の秘密結社員だった。

 後に詳述する20世紀初頭にロシアのロマノフ王朝を倒した2月革命でも「フランス大東方社」系列の革命的フリーメーソンが大いに力を振るった。それも政治色の強いリベラルな「フランス大東方社」方式をロシアに導入したことの必然的な帰結だった。

 現代のフリーメーソンは、イギリス系の「神と霊魂不滅の信仰義務を維持し、政治色を持ち込まない保守、伝統的な正規派」とフランス系の「信仰義務を持たない、リベラルな政治傾向の結社」の二大潮流に分かれている。

 世界全体では700万ないし1000万人の会員がいると言われる。このうちの9割は「正規派」だが、フランスでは「非正規派」の政治的結社の系統が主流である。

<ロシアのフリーメーソン>

<西欧化の旗手―ピョートル大帝>

・フリーメーソンの組織と思想は17世紀後半にロシアに伝搬した。当初は西欧諸国から招聘された外国人の軍人や技術者たちの間で組織されたが、間もなくロシア人の貴族たちが加わった。初期の結社は上流社会の男たちの社交サロンの観を呈していた。

 同時にその中の最良の人々と結社は、西欧の人本主義(ヒューマニズム)と啓蒙思想の伝道者としての役割を担って、ロシアの西欧化と近代化の推進力になっていく。

・フリーメーソンは18世紀のロシアにおける唯一の精神活動であり社会運動だった。ロシアの最も優れた人々が会員になっていた。それはロシアにおける最初の自由な自立した社会組織だった。それだけが国家や教会の上からの権力に縛られていなかった。

・それだけに当時のロシア人にはロマノフ王朝の初期に伝来したフリーメーソンの思想は、進んだ西欧文明そのもののように眩しく新鮮に感じられた。貴族たちはその謎めいた閉鎖的な組織に心を惹かれた。

 フリーメーソンは国家権力から独立した秘密結社と言いながら、西ヨーロッパ諸国では王族や貴族、政府や軍の高官などが私人の立場で入会することが多かったので、顔ぶれは国家の最上層の高位高官と重なっていた。会員たちは表向きの官職と秘密結社の構成員という「表と裏の顔」を使い分けていた。

 

・ロシアでもロマノフ王朝の最も傑出した皇帝、4代目のピョートル1世は青年期にフリーメーソンだったと考えられている。ピョートル大帝が精力的に取り組んだ西欧化による近代化政策は、フリーメーソンの思想によって導かれたか、その強い影響下で形成された。

(フリーメーソンとの関わり)

・若き日のピョートル帝はこれらの外国人との緊密な接触を通じてフリーメーソン思想に出会った。一説によれば1698年頃、モスクワにレフォルトを団長(親方)、ゴルドンを第一副団長、ピョートル帝を第二副団長とするフリーメーソンの末端結社が組織された。

(西ヨーロッパ視察団とライプニッツ)

・ピョートル帝にとってフリーメーソンとは西ヨーロッパ文明そのものだった。

 彼はロシアの近代化=西ヨーロッパ化に邁進した。アジア的な後れたロシアを短期間に近代化するには、西ヨーロッパの文物の大胆な導入と模倣が一番の近道だと考えた。彼は何よりも富国強兵をめざした。

(それは同じく脱亜入欧による近代化と富国強兵をめざした日本の明治維新より約200年前のことだった)。

・ピョートルはこの後1698年、イギリスに渡り、イングランドのオラニエ公ウィリアム3世に会った。ウィリアム3世は熱心なフリーメーソンだった。そこからピョートル帝がこの時、彼に勧められてフリーメーソンに入会したとする説もある。

 当時のヨーロッパの王室や貴族らの上流社会は婚姻を通じて濃い血縁で結ばれていた。

・ヨーロッパの上流社会で発展したフリーメーソンは団員を“兄弟”と呼んで、国籍や民族を超えた友愛と相互扶助の精神で連帯していた。それはフリーメーソンの“コスモポリタニズム(国際主義)”と呼ばれたが、根底では王族や貴族たちの国境を越えた家族的結びつきの延長線上の感覚だった。

(国籍や民族よりも社会階級や身分の共通性を優先する感覚は後に立場は違うが、マルクス主義の革命家たちが叫ぶ「万国の労働者よ、団結せよ!」というスローガンの中に再現される。それは国籍や民族よりも同じ階級の者同士の連帯を重要視する同じ一枚のコインの表裏だった)。

・ピョートルは彼らの助言を念頭に近代化政策を次々に実践した。国家の評議機関ドゥーマをヨーロッパ流に元老院(セナト)に変え、官庁の仕組みや名称、肩書きも西欧風に変えた。軍隊でも古くからのロシア式の位階や編成を廃止し、将軍、大尉、中尉などの今日に至る西欧式の位階を導入した。「皇帝」の肩書きも東方的な“ツァーリ”とともにヨーロッパ風の“イムペラートル”が併用されるようになる。

 1717年に西欧風の9つの省が開設された。長官にはロシア人がついたが、次官以下の上級官史には西ヨーロッパの知識と実務に勝る外国人が積極的に登用された・

(ロシア正教に対する圧迫)

・政治と宗教の分離、教会の権威の否定はフリーメーソンの基本理念だった。

・ピョートル帝はこの宗務院に正教会の聖職者を登録させた。当時、全土で僧1万4500人、尼僧1万600人、計2万5200人の聖職者や修行者がいた。彼はこれらの聖職者を社会にとって有害無益な寄食者、怠け者と見なし僧院ごとに僧の在籍人数を制限した。

<密かなる挑戦>

(ドイツ人時代)

・女帝の治世では、嫁ぎ先のクールラントから同行したドイツ人たちがロシアの国政の采配をふるった。ロシア人大貴族らの思惑は外れ、彼らは脇に追いやられた。

(結社の始まり)

・ロシアでフリーメーソンの活動が記録に残る形で本格的に始まったのは、アンナ女帝とドイツ人支配時代になってからだった。

 1731年、イギリスのフリーメーソン大本部はロシア地域の結社を統率する「州総本部」の総長にイギリス人のジョン・フィリップス大佐を任命した。

・1756年から63年にかけて西ヨーロッパ諸国を巻き込む「7年戦争」が起きた。ロシアはオーストリア側について参戦、プロイセンとイギリスを相手に戦った。

・民族派のエリザヴェータ帝の時代にも西欧からの思想や文物の流入はとどまることがなかった。フランスの啓蒙思想や哲学が主流となった。これらと一緒にフリーメーソンの思想も入り、貴族の子弟が学ぶ寄宿舎や陸軍幼年学校、大学などに浸透していった。こうして自由主義や進歩を理想視する知識人たちがロシア社会でも徐々に育っていった。

<啓蒙君主とフリーメーソン>

(ドイツ人の女帝・エカテリーナ2世)

・ピョートル3世を殺したクーデターの首謀者はニキータ・パーニン伯爵、実行したのは皇后エカテリーナの愛人である親衛隊将校グリゴリー・オルロフらだった。いずれもフリーメーソンの団員だった。

 彼らはピョートル3世を殺害したクーデターで彼の妻=皇后エカテリーナ2世を皇帝に担いだ。彼女はドイツから嫁いだ生粋のドイツ人だった。

(イギリス方式の結社)

・エカテリーナ2世もクーデターによる即位後すぐに亡き夫ピョートル3世とフリーメーソンとの関わりについて調査を命じていた。

・ロシアのフリーメーソン活動はこの時期に隆盛期を迎えた。啓蒙思想に培われたドイツ人の女帝の下で、西ヨーロッパ各国から様々な儀礼の組織が持ちこまれた。

(スウェーデン・ドイツ方式の結社)

・同じ1770年代初め、ロシアに別系統のフリーメーソン組織が広がった。この組織はスウェーデン・ベルリン様式、“ツィンネンドルフ”様式などと様々に呼ばれた。厳格な規律と儀礼を特徴とした。

<テロと革命の先駆者たち>

<憂国の青年将校たちの秘密結社>

(デカブリスト(12月党)の反乱)

・1816年に首都ペテルブルグに将校たちの最初の秘密結社(救済同盟)が組織された。

・彼らを中心に200人ほどの青年貴族や将校が密かに手を結んだ。彼らは専制政治と農奴制の廃止を盛り込んだ結社の綱領を作った。

 組織の名称は2年後に「福祉同盟」に改められた。

<テロリストと革命家たち>

(インテリゲンツィア(知識人)と西欧派)

・ピョートル大帝以降のロシアのフリーメーソンの先駆者たちは、後れたアジア的な古い国家と社会を西ヨーロッパ化、近代化する事業に熱心に取り組んだ。

 この西欧化政策はロシアの古い身分社会にやがて風穴を開け階層の文化を促した。中央集権化した国家は中高等教育を受けた膨大な数の官吏層を生み出した。

(農奴解放令)

・ニコライ1世が始めたクリミア戦争(1853-56年)で、ロシア軍は英仏の近代的な軍隊に対抗できず惨憺たる敗北を喫した。

・ニコライ1世の死後、即位した息子アレクサンドル2世は父が始めたクリミア戦争の終戦処理を通じて、「下からの革命で専制政治が崩壊するのを座して待つより、上からの改革で農奴制を廃止し専政を存続させる」道を選ぶしかないと考えた。1861年2月、貴族や地主らの強い反対を押し切って農奴解放令が公布された。

・しかし、解放の中味は地主に一方的に有利なものだった。地主は最良の土地を自分の所有に残し旧農奴にはやせたわずかな土地を分け与えた。分け与えた農地は有償だった。農民は土地代金支払いの連帯責任によって村の共同体から抜け出すことが出来なかった。

(ナロードニキ(民衆派)運動)

・中途半端な農奴解放令はかえって農村問題の深刻さを際立たせた。閉塞状態を打開しようとする体制変革の気運が高まった。これがロシアの激動の時代の幕開けとなった。

 解放令後の1861年から95年頃にかけ、大学生や知識人の間で農民の生活向上と農村改革をめざす「ナロードニキ(民衆派)」運動が活発になった。「民衆(ナロード)」という言葉は国民の9割を占める「農民」とほぼ同義語に用いられた。

<最初の政治結社――「土地と自由」>

(第1次、第2次「土地と自由」)

・農奴解放令の翌年、1862年に上からの改革の勢いに乗じて「国会開設や立憲君主制」などを目標に掲げて最初の非合法の政治結社「土地と自由」が密かに組織された。彼らが掲げた政治目標はその後のロシアの革命諸政党の基本目標になる。

<社会主義者・革命者(エスエル)党>

(エスエル党)

・マルクスの『資本論』第1巻が1872年にペテルブルグで合法的に出版された。「人民の意志」党執行部は「自分たちはこの書を座右の書にしている」とマルクスに伝えた。そして、「民衆派」の左派に属した様々なグループが1901年前後に再結集した。この組織は「社会主義者・革命者党」を名乗ったが、そのロシア語の頭文字から「エスエル」党と通称された。

 彼らは「専制政治の打倒、民族自決、土地を全人民の所有にすること」などの目標を掲げ、要人を殺害するテロを手段とした。

(エスエル・マクシマリスト(極限主義者))

・エスエル党のテロリストたちは1906年10月、フィンランドに集結して「エスエル・マクシマリスト(最大限者)同盟」を組織した。彼らは「テロによって最大限(マクシマル)の政治的効果を追求すること」をめざした。彼らは1906年から27年にかけて約50件のテロを実行した。

・これらの一連のテロに関与した80人以上の活動家が逮捕され40人が起訴された。マクシマリストの組織は一連の逮捕で壊滅状態になり組織的活動は終った。

<社会民主労働党とボリシェヴィキ>

・マルクスの革命理論に従いながら帝政打倒、社会主義国家の建設をめざす様々な革命勢力が1880年代後半から内外の革命家や知識人、それにポーランドから併合されたロシアの西部国境地域出身のユダヤ人の間に根を広げていった。

・彼らは社会主義への直接的移行論に反対し、「資本主義や市民社会を経て社会主義に至る二段階の革命」を主張した。

 一方、処刑されたテロリストの兄から革命の遺志を継いだレーニンは、1893年ペテルブルグでマルトフらとともに「労働者階級解放闘争同盟」を組織した。

 また、1897年には、ユダヤ人の指定居住地域になっていたロシア西部のユダヤ人を核として「ブンド」が組織された。

翌年、白ロシアのミンスクでこれらの6つの革命勢力が結集し、「ロシア社会民主労働党(共産党の前身)」の結成大会を開いた。その後もブンドはユダヤ人の組織に固執してロシア社会民主労働党内の一派閥として独自の運動を展開する。

 この大会後、活動家約500人が逮捕された。党組織は一時期、分裂状態に陥った。レーニンは新聞『イスクラ(火花)』を足がかりに社会主義者の再結集をはかった。彼はプレハーノフと論争し「農民が圧倒的に多数を占め、資本主義経済が成熟していないロシアでもマルクス主義型の革命は可能だ」という理論を展開した。

・発展の後れた農民社会のロシアでも革命は実現できる。ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党・多数派)がめざす革命は、マルクスとステンカ・ラーヂンの結合だ。労働者階級は少数でもよく組織されれば革命は今の段階でも成功する。

・この少数精鋭の前衛党は先行した様々なテロ集団の経験や掟を取り込みながら、幹部への権力の集中、厳格な内部規律と統制、秘密主義を骨格として組織された。彼らは農民よりも階級意識に目覚め規律のとれた都市労働者を重視し、テロを革命達成の一手段として容認した。

 レーニンが率いる勢力が党内の「多数派(ボリシェヴィキ)」になり主導権を握った。

 一方、農民を重視する穏健路線のマルトフらは党内の「少数派(メンシェヴィキ(少数派))に最終的に分裂する。

(フリーメーソンとテロリスト)

・様々なテロリストや革命家集団は、前時代の第一期フリーメーソンとは明らかに異質であり、人的構成も政治目標も達成手段も全く違っていた。それにも拘わらず、両者は全く無縁とは言えなかった。見えない水面下で「体制変革の思想」の太い糸でつながっていた。

 第一期フリーメーソンのノヴィコフ・サークルの貴族や知識人たちは啓蒙、慈善事業による漸進的な社会改革をめざした。

・しかし、テロリストや革命家がフリーメーソンから継承したものは、改革と革命の思想や情熱だけではなかった。彼らはフリーメーソンが継承してきた秘密結社特有の組織作りや行動規範、活動形態の多くを取り込んだ。それは次のような諸特徴だった。

 既存の国家制度や教会、世俗的な権威一般に対する批判的態度や否定、組織内での指導者や上位者への絶対的服従、新規加盟者に対する事前の秘密裏の生活、信条、思想についての入念な調査、外国組織との思想や組織上の秘密の従属関係、組織の最高指導者の名前や存在さえ下部の一般会員に知らせない徹底した秘密主義、互いに実名を隠して偽名で通信、会話をする秘密主義、仲間のメンバーに対する監視(例、イシューチンの「地獄」、秘密警察の伝統)と密告、組織の裏切り者に対する粛清と死の制裁の掟などだ。

 これらの特徴は、国家権力や世間の目を憚る秘密結社として組織を守る必要から生まれた共通項の属性だったが、それをロシアのテロリストや革命家は、フリーメーソンの先達から余すところなく学んで取り込んだ。

・歴史を鳥瞰すれば、これらのテロリストと革命家たちはフリーメーソンとは明らかに異質であったが、それ以前の上流階級や知識人たちの第一期フリーメーソンから次に登場する第二期の「確信的な革命的フリーメーソン」への橋渡し役を演じた。

<革命の陰謀家たち>

<パリのロシア人>

(「コスモス」と「シナイ山」結社)

・1905年、ロシア本国では専制政治に風穴を開ける民主化運動の「第一次革命」が燃えさかった。日露戦争の最中のことだった。

 ロシア国内の民主化運動に呼応して、1905年頃、パリでは亡命あるいは長期滞在中の進歩派のロシア人が二つのフリーメーソン結社にまとまった。その一つ――フランス大東方社の傘下の結社「コスモス」の規約は「諸民族間の自由な意見交換と国際紛争の仲裁」を目標に掲げていた。

 コスモポリタニズム(国際主義)こそ最も重要な政治思想である。世界民主共和国こそ我々の理想である。

<ロシア国内での結社の復活>

(カデット(立憲民主)党と国会開設)

・ロシア国内では、全土に民主化を要求する第一次革命(1905年)の嵐が吹き荒れていた。ニコライ2世は革命勢力の圧力に屈して同年10月、君主の権限の一部を制限し、国会開設や言論の自由、政党結社の結成などを認める勅令を公布した。絶対専制の堅固な城壁についに風穴が開いた。

(フランス大東方社を選択)

・ヨーロッパではフリーメーソンは自国の政府に自分たちの決定を受け容れさせるだけの力を持っている。ヨーロッパではあらゆる機関の中枢にフリーメーソンがいる。彼らはあらゆる政府機関やあらゆる経済分野の決定過程に関わっている。ロシアの歴史を顧みてもアレクサンドル1世もニコライ1世もフリーメーソンを恐れていた。

 フリーメーソンの力の源はどこにあるか?あらゆる決定を厳格に遂行すること。一致団結することにある。厳格な秩序と規律の下での討議と相互扶助の義務こそ、その源である。

・彼らはフランスやイタリア、スイス、トルコでフリーメーソンが政治革命の影の主役だったことに注目していた。ロシアでも同様にフリーメーソンの力を結集して帝政を倒し、共和制の国家を作らねばならないと考えていた。

 そのためには共通の理想と政治目標をもつ志操堅固な団員を国家機関や各組織の中枢に送り込み、各人の地位や職権、人脈を通じて政策を調整、操作して実現する。

(「復活」と「北極星」結社)

・1906年1月、政治志向の強いフランス大東方社系列の結社を国内に開設する認可がパリ本部から伝達された。前世紀のアレクサンドル1世の禁止令以来、途絶していたフリーメーソンの結社がロシア国内でほぼ80年ぶりに密かに復活する。

<2月革命>

(予想外の展開)

・フリーメーソンや国会議員、軍部はクーデターの決行時期を皇帝が前線本部を離れ特別列車で首都に向かう1917年4月と密かに決めて謀議を重ねていた。

 ところが、事態は彼らの予測を超えて急展開した。4月の“宮廷クーデター”を待たず、彼らの頭越しに全く別の“民衆蜂起による革命”が先行することになった。

(革命に追い越されて)

・2月革命後はソビエトと臨時政府が併存する“二重権力”の確執が続いたが、1917年6月まではこの対立がフリーメーソンの人脈によって水面下で調整され、幾分目立たないものになっていた。

(10月革命)

・1917年10月25日(ロシア歴。11月7日-新暦)、ボリシェヴィキのレーニンらに率いられた労農兵士ソビエトの「10月革命」が起きた。

(革命的フリーメーソンの役割)

・ケレンスキーが第2次大戦後―1956年に回顧録の中でフリーメーソンとの関わりについて書こうとした時、仲間から「あなたがフリーメーソンに所属し、仲間のフリーメーソンの多くが2月革命で主要な役割を演じたことが世間に明るみに出れば、あなたが率いた臨時政府の権威に傷がつくことになる」と忠告され、事実の公表を思いとどまったといわれる。

<スターリン体制下の秘密組織>

(無政府主義者)

・10月革命後にロシア諸民族大東方本部の革命的フリーメーソンの活動は完全に途絶えた。

 ソビエト体制下の1920年、革命政権の首都となったモスクワで革命的フリーメーソンとは全く毛色の異なる「神殿騎士団」の“東方部隊”が組織された。アナーキスト(無政府主義者)のアポロン・カレーリンがその指導者についた。

・ロシア国内のアナーキストたちは2月革命と10月革命、その後の内戦ではボリシェヴィキと共に革命陣営の一翼を担った。その功で彼らは革命後もしばらくの間はボリシェヴィキ政権から旧同盟者として政治的に寛大に扱われたが、1921年にボリシェヴィキが一党独裁体制を確立すると、アナーキストは公的な政治活動から一切しめ出された。これを境にアナーキストは反ボリシェヴィキ派に転じた。

(クロポトキン記念館事件)

・彼らは「ボリシェヴィキ革命は目的がいかに崇高でも正義に反する手段を行使することは許されない」と批判し、「スターリン政権の暴力や抑圧、嘘、民衆の無知や欲望につけこむ政治手法」に反対し続けた。そして、「ボリシェヴィキ政権を倒す“第3革命”は、テロや政治闘争を通じてではなく大衆の教育、啓蒙を通じて行なうべきだ」と考え、アナーキスト内の革命派とは一線を画していた。

 1925年4月、革命派が同記念館の管理者と小競り合いを起すと、政治警察の国家政治保安部がこれを口実に介入し、彼らを“地下活動”の容疑で逮捕した。事件後、「アナーキスト共産主義者連盟」と「黒十字社」は活動を禁止された。

(神殿騎士団)

・ボリシェヴィキの一党独裁体制が固まると、アナーキストたちは政治の表舞台から排除された。アナーキストの中の革命家グループは、その後も不屈の闘志を燃やしボリシェヴィキを倒す“第3の革命“をめざしたが、共産党政権の粛清の標的となり、処刑あるいは流刑になった。

・神殿騎士団の理論や組織は、アナーキストの狭い人脈の枠を越え、ボリシェヴィキの独善主義や暴力、文明や人格の軽視に絶望していた知識人や芸術家の心をとらえた。スターリン体制下で行動と思想の自由を奪われた知識人たちは鬱屈した心のうちで独立不羈の気高い騎士の理想像に密かにあこがれた。組織は秘密警察の目をかすめて密かに広がった。

(「光明」結社と芸術家たち)

・スターリンの鉄の統制と監視下で、神殿騎士団が共産主義イデオロギーと正反対の精神主義やロマンチックな夢想の秘密活動を続けるには驚異的な精神的エネルギーが必要だったはずだ。

・1929年夏、国家政治保安部は一連の論文の暴露内容を足がかりにして、まず告発した側のアナーキスト・革命家グループを一斉に逮捕した。次に同年秋から翌1930年秋にかけてソロノヴィッチら“アナーキスト・神秘主義者”グループを一網打尽に逮捕した。彼らが関わったフリーメーソンの騎士団組織も同時に摘発された。

 この粛清を境にアナーキストも神殿騎士団も共に組織的活動は終わった。この時に摘発を免れた者たちも1937年から38年にかけてスターリンによる大粛清で逮捕され、銃殺刑や投獄、流刑に処せられた。彼らは政治警察―国家政治保安部や内務省の情報提供者になることを拒否した者たちだった。

(オカルトと神秘主義)

・10月革命の前後の時代には、革命的なフリーメーソンや神殿騎士団以外にも多くの神秘主義の組織が密かに活動していた。

・彼らは魔術に用いる薬草も栽培した。また、モスクワ市中心部のルビャンカにある秘密警察の地下処刑場の近くの建物の地下室に秘密の実験室を作った。彼らはそこで「近くの秘密警察の地下室で処刑される憐れな犠牲者の遺体から滴る血液に宿る怨念の霊をすくい取りオカルトの儀式に供えようとしていた」という嫌疑で逮捕された。チェホフスキーは政治囚監獄に送られた後、集団脱獄を計画したとして銃殺された。

・1930年代後半に吹き荒れたスターリンの政治粛清の嵐によって、アナーキストの神殿騎士団も様々なオカルト集団もソビエト社会から根こそぎ抹殺された。

 そしてロシアの大地に地下の秘密組織も反抗する者も存在しない全体主義の政治体制と平等主義の社会――均質で眠るように穏やかで静寂な精神世界が確立された。

<望郷>

<亡命者のフリーメーソン>

(再びパリのロシア人)

・1917年の10月革命後、フリーメーソンの結社員の多くはソビエト政権の弾圧を逃れ祖国を離れることを余儀なくされた。

 彼の多くはフランスに亡命した。パリでは旧世代のロシア人のために作られた古くからある「コスモス」、「シナイ山」結社などが亡命フリーメーソンを迎え入れた。

・しかし、かつての“革命的な”団員たちも10月革命後のソビエトの現実に幻滅し、反ボリシェヴィキ、反ソビエト派に転向していたので旧保守派の団員たちと同じ政治的立場になっていた。

(フランス大東方社の動揺)

・フランス大東方社はロシア革命をめぐって紆余曲折の対応をした。当初はソビエト政権を支持したが、後に対決に転じ、その後に再び宥和路線へと三転する。

・1933年、スターリンによる過酷な農業集団化と穀物徴発によってソ連の穀倉地帯ウクライナで未曽有の何百万人もの餓死者が出た。この時、亡命フリーメーソンは飢餓に苦しむ祖国の同胞の救済をフランス国民に呼びかけた。

・フランス政府はナチス・ドイツの脅威に備え1935年、ソビエト政権と相互援助条約を結んだ。第2次世界大戦が始まると、フランス、イギリス政府はナチス・ドイツとの戦争に備えてソビエト政権との同盟を一層重視するようになった。その結果、ソビエト政権の打倒をめざすロシア人亡命者は英仏政府当局から警戒の目で見られるようになった。

 1940年、パリに進駐したナチス・ドイツ軍は占領地域の全ての秘密結社を閉鎖させた。翌年8月にはフリーメーソンをユダヤ人と共に全ての公職から追放した。(フリーメーソンを敵視する政策はボリシェヴィキもナチスも同じだった。)

 ドイツ軍とその傀儡政権はフランス大東方社本部の建物を接収し活動家らを逮捕した。約300人が銃殺され多数が追放された。

 ロシア人亡命フリーメーソンのうちのユダヤ人約200人がナチスの強制収容所で死んだ。

(第2次大戦後――親ソ派と反ソ派)

・1944年6月、アメリカ軍がフランス本土に上陸、ベルリンは東西からの大攻勢で陥落した。大戦が終わると亡命ロシア人のフリーメーソン結社も活動を再開したが、戦前に比べると団員数は大幅に減っていた。

 一部の亡命ロシア人はソビエト軍がドイツ軍に勝利したことを喜び、「ロシア民族の宿敵ゲルマン民族に対する積年の恨みを晴らしてくれた」と赤軍に拍手喝采した。政治イデオロギーの違いを越え、祖国を防衛しようという古来の愛国主義も復活した。彼らはロシアへの祖国愛と民族主義の感情から仇敵スターリンが率いるソビエト政権に親近感を抱くようになった。

・この後、亡命ロシア人のフリーメーソン組織は、親ソビエト派と反ソビエト派に分裂することになった。

<新生ロシア時代>

(フランス大東方社系列)

・この集会でフランスのフリーメーソンの一員は、ルビンスキーに「ゴルバチョフ大統領はフリーメーソンの秘密会員ではないか」と尋ねたという。ルビンスキーは「ゴルバチョフは会員ではない。ソビエトの党書記長は誰一人として秘密結社に関わりはない」と断言した。共産党保守派の抵抗を押し切って漸進的改革を進めるリベラル派のゴルバチョフは、海外のフリーメーソンの目にはまるで自分たちの兄弟のように親しく見えたのであった。

・ソビエト連邦が崩壊する8ヶ月前の1991年4月、フランス大東方社の幹部とフランス共産党の機関紙「ユマニテ」編集員らの使節団がモスクワを訪問した。彼らは到着の翌日、モスクワ郊外で5人のロシア人をフリーメーソンに入団させる儀礼を密かに執り行った。これはソビエト国内でフリーメーソン組織を復活させる最初の出来事だった。この5人はフランス大東方社系列の伝統的な結社「北方の星」を名乗った。

 同年12月にソビエト連邦が崩壊すると、新生ロシアでは様々なフリーメーソン結社が次々に名乗りをあげた。

 フランス大東方社系列のフリーメーソン組織をロシアに復活させるにあたっては、反ソビエト、反共産主義の政治的信念を抱く旧世代の筋金入りの闘士たちが中心的役割を演じた。

(フランス大本部系列)

・この「ロシア・フリーメーソン協会」を母体にパリで詩人の名を冠した結社「アレクサンドル・プーシキン」が組織された。この結社はソビエトに向け西側の政治イデオロギーを宣伝する「ラジオ・リバティー(自由)」の電波に乗せてフリーメーソンの宣伝番組を流した。番組を聴いたロシア在住者が手紙を寄せるようになった。彼らはフランスに招かれ、そのうちの何人かが結社に入団した。

(フランス大国民本部系列)

・さらに別系統のフランス大国民本部もロシア国内での組織拡大をめざした。

 この組織の指導者ミハイル・ハルダーの経歴もリブスキーやミリスキーとよく似た波瀾万丈の反共産主義思想に貫かれた半生だった。

(ロシア大本部)

・ロシア国内で生まれた12の結社を基礎として1995年には国内の統括機関「ロシア大本部」が旗揚げした。この「ロシア大本部」は現代風に“非営利目的の民間団体”としての当局に登録された。

・「ロシア大本部」の憲章は、現代風にインタ―ネットのサイト上に公開されている。

 それによれば、組織の歴史的起源を中世の石工組合に置く立場をとり、イギリスのアンダーソン憲章に従い真理の探究や個々の団員の倫理の向上を目的として掲げている。宗教の違いを問わず神への信仰を入団の資格条件に定めている。会合では宗教や政治の議論をしてはならない。

 合法的権力に忠誠をつくし法律秩序を守り、現体制の変更をめざさないことを原則にしている。集会の終わりの会食での乾杯は最初の杯を祖国ロシアに、第2の杯を合法的に選出された権力に、第3の杯をロシア連邦大統領に捧げることになっている。

 今日のフリーメーソンは、組織としては政治イデオロギーには関心が薄い。政権の政治傾向に関わりなく、彼らはいずれも体制派であり、強烈なロシア民族主義者である。

・復活した現代ロシアのフリーメーソンの活動は今のところ理論や歴史の研究と儀礼を模倣する初歩的段階にとどまっている。団員も政府や経済界、知識人たちの有力者の階層に広がっているようには見えない。何らかの社会的影響力を発揮する段階には至っていない。

 ロシア社会そのものが将来、政治的、経済的、文化的に成熟し、西欧の文明や価値観を真に共有する状況が生まれるようになるまでは、ロシアのフリーメーソンもまた西欧の仲間たちと真に肩を並べ同質化することはないだろう。それまでは西ヨーロッパのフリーメーソンとは異質なままにとどまるに違いない。

<あとがき>

・フリーメーソンは欧米諸国でも多くの革命や体制変革と密接に関わってきたが、特にロシアではこれらの秘密結社が幾世紀にもわたって格別に重要な役割を演じてきた。その背景を理解するには、何よりもロシアが同時代の欧米に比べて後進的な絶対専制政治や農奴制などの特殊な閉塞状況にあったことと、その打倒をめざす知識人にとって言論の自由も選挙も議会もない条件下では変革を表現する手段の選択肢が極めて限られていたことなどを想起しなければならない。

・フリーメーソンは平等主義や公開性を基本原理とする現代の大衆民主主義とは相容れない。真理の探究や自己研鑽は、個々人の心の内なる自由な密かな精神の営みであって大衆民主主義の原理とは本来、無縁である。しかしながら秘密の結社があながち社会にとって有害、悪だとは言えない。現代の民主主義の原則からかけ離れていても、人類や社会の発展のために有用な秘密の結社もあるであろう。

 フリーメーソンの慈善や博愛の理想は今でも町の名士たちの集まる現代のロータリー・クラブやライオンズ・クラブなどの社会貢献の事業などにも引き継がれている。

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