ゴーストハンティングでは幽霊が出るといわれる場所について通常、系統立った調査をする。20世紀のもっとも有名なゴーストハンターは、ほとんどが米国と英国の中産階級の白人男性たちだった。(3)
『未来人への精神ガイド 神智学入門』
科学と宗教と哲学を結合し宇宙に君臨する法則の下に人間の行くべき道の復権を求める
C・W・リードビーター たま出版 1990/8/1
<神智学とは>
・神智学は謎とみえる人生に英知の光をそそぎ、人生の苦しみや悲しみ、恐れや不満を超えて真の安心立命を与える。また人間と宇宙に関する啓発的な説明を、それらの起源・進化および目的にわたって説き、宇宙に君臨する法則を明示するのである。
・神智学は、人間を中核に据えての、太陽系宇宙の文字通り満物満生の進化とその相互関係、それら全てを貫く宇宙意志など、を明確にする体系である。したがってその全内容はとうぜん複雑であり多岐である。
<神智学のアウトライン>
<神智学とはなにか>
・神智学は、外部の人びとにたいしては、宇宙に関する知的理論ということができるであろう。しかし神智学を学んだことのある人びとにとっては、それは理論ではなく事実なのである。
<どのようにして知られたか>
・この神の計画を完全に掌握していた高度に発達した人間の一群――ただ一国の人たちだけでなく、あらゆる発達した国ぐにの人たち――が、つねに存在していたのです。
・ほかのどんな科学の場合とも同じように、この魂の科学においても、その完全な詳細はそれに生涯をかけて追及する人びとにのみ与えられる。十分に知っている人たちは――これらの人たちは超人(アデプト)と呼ばれるが――完璧な観察に必要な力を辛抱づよく発達させたのである。
<観察の方法>
・全体的な神の計画は、他の神智学の書物で十分に説明されていることが解るであろう。さしあたって、これはまったく振動の問題である、といっておけば十分としておく。外部世界から人間に到達するあらゆる知識は、なんらかの振動という手段によって――それが視覚を通してであれ、聴覚・触覚を通してであれ――彼に到達する。したがってもし人が余分の振動を感じることができるならば、余分の知識を獲得するであろう。彼はいわゆる「透視家」となるであろう。
・こういうふうにして、彼は巨大な見えない宇宙が、生涯を通じて彼の周りに存在していること、また、気づかないかもしれないが、その宇宙は多くのしかたで不断に彼に影響を及ぼしていることを知るのである。
・わたしたちの世界の、普通は見えないこの部分を見るとき、きわめて興味ぶかい、まったく新しい膨大な一群の事実が、ただちに私たちの知識として加わることになる。
・これらの事実は、大論争の的であった幾多の疑問――たとえば人間は死後生き続けるのか、というような疑問――を、一瞬のうちに解決する。それはまた教会が、天国や地獄や煉獄について説く途方もない、ありそうもない説教のすべてに真の解明を与える。
<一般原理>
・では、神智学学習の結果として導きだされる大まかな原理の、そのもっとも顕著な天の講述から始めよう。ここで、信じようもないことがらとか、先入観とまったく相反する事項にであう方たちがあるかもしれない。もしそうなら、そういう方々には、私はこの論述を理論として――形而上的推論とか、私個人の宗教的意見として――ではなく、はっきりとした科学的事実として提出していることを思いだされるようお願いする。
<三つの偉大な真理>
・ごく初期の神智学の書物の一つに、絶対的であって失うはずはないが、しかも言わないでおくと公表されないままになるかもしれない、三つの真理のあることが書かれている。
一 神は存在し、神は善である。神は偉大なる生命の基であって、私たちの内部に、また外部に宿っている。神は聞こえもせず、見えもせず、触れもしないが、しかも知覚しようと願う人には知覚される。
二 人間は不死であり、彼の未来はその栄光と荘厳に限界がない、そういう未来である。
三 絶対的正義という神の法則が世界を統御しており、したがって実に各人みずからが自分にたいする審判官であり、栄光なり陰うつなりの授与者であり、彼の生涯、報酬、懲罰の判決者である。
<系(コロラリー)>
・これらの偉大な真理の一つ一つに、一定の付随的、注釈的な真理がともなっている。
第一の偉大な真理からは、つぎの真理が続く。
一 いろいろな足掛けにもかかわらず、あらゆるものは明確かつ適切に、すべて善に向って進歩していること。あらゆる境遇は、いかに不遇にみえようとも、実際はそっくりそのまま必要なものであること。私たちを取りまいているすべてのものは、私たちを妨害しようとしているのではなく、ただ理解しさえすれば、私たちを援助しようとしているのだということ。
二 このように神の全計画は人間の助けになろうとしているのであるから、それを理解しようとして学ぶことは、明らかに彼の義務であること。
三 こう納得したとき、この計画にたいして理解ある協働をなすべきこともまた、彼の義務であること。
二番目の偉大な真理からは次のものが続く。
一 進の人間は魂であること。またこの体は、ただ付属物にしかすぎなこと。
二 したがって、彼は、あらゆるものを魂の見地から見なければならないこと。また内部葛藤が起こる場合にはいつも、彼の本質は高位のものであって低位のものではない、と悟るべきであること。
三 私たちが普通に生涯と呼んでいるものは、より広大な真の生涯のただの一日にすぎないこと。
四 死はふつう考えられているより、はるかに重要性の少ない問題であること。なぜなら、それは決して生涯の終りではなく、ただ生涯の一つの状態から次の状態への転移にすぎないからである。
五 人間はその背後に無限の進化を経てきていること。これについて学ぶことはとても魅力的で、興味があり、有益である。
六 人間の前途にはまた、素晴らしい進化が控えていること。これを学ぶことは、さらに魅力的で有益であろう。
七 人がどれほど進化の行程からはずれたように見えようとも、全ての人間の魂は究極的達成を果たすことにいささかの狂いもないこと。
三番目の偉大な真理からは次のものが続く。
一 あらゆる思考、ことば、あるいは行為は、その明確な結果をもたらすこと――それは外部から課せられる報酬とか懲罰ではなく、原因結果の関係のなかで、その行為と明確に結びついているところの、行為それ自体に内在する結果なのである。原因結果とは、実は一つの全体の、二つの分離すべからざる部分にすぎない。
二 この神の法則を注意深く研究することは、人間の義務であると同時に利益でもあること。それによって自分をその法則に適応させ、ほかの偉大な自然法則を用いると同じように、それを用いることができるようになるために。
三 ひとは自己にたいする完全なコントロールを獲得することが必要であること。自己の生活を、この法則にもとづいて上手に導いていくことができるように。
<この知識によって得られる便益>
・この知識が十分に理解されると、それが生活のありかたを完全に変えてしまうため、そこから出てくる全ての便益を列挙することは不可能であろう。私はこの変化の起こってくる主要な道筋をいくつか述べうるにすぎないが、読者自身で考えていただくことによって、それらの当然の帰結である無数の細目を、多少なりとも確実に補っていただけることであろう。
しかし漠然とした知識はまったく不十分であることを理解すべきである。
・さて自然法則に対するこういう信念は、私たちにとって非常に確かで現実的なものであるが、それは知識に基づいており、日々の経験によって例証されているからである。まったく同じ理由によって、神智学徒の信条もまた、彼にとっては同じように現実的で確かなものなのである。そしてこれが、その信条から以下に述べるような帰結がでてくることを認める理由である。
一 私たちは人生について納得のいく理解を得る――私たちはいかに生活すべきか、またなぜかについて知り、人生は正しく理解されれば、生きるに値するということを学ぶ。
二 私たちは自分をいかに規制するか、したがってまた、いかに向上させるかを学ぶ。
三 私たちは愛する人たちを助けることがいかに最善の道であるか、また、つきあう全ての人びとにたいし、究極的には全人類にたいし、いかにして役に立つ人間になるかを学ぶ。
四 私たちはあらゆる物事を、より広範な哲学的な観点から――決して些細な、まったく個人的な側面からだけでなく――眺めることを学ぶ。
五 人生上の問題はもはや、私たちにとっては大したものではない。
六 私たちは境遇や運命について、決して不公平の感をもたない。
七 私たちは死の恐怖からまったく解放される。
八 愛する人たちの死に際しても、悲しみははるかに和らげられる。
九 私たちは死後の生についてまったく異なった見解を得、私たちの進化過程上での死の位置を理解する。
一〇 私たちは、自分の対する、あるいは友人に対する宗教的な恐れ、ないし悩み――たとえば魂の救済についての怖れ――から、完全に開放される。
一一 私たちはもはや将来の運命のあてのなさに悩まされることはなく、全くの静穏と完璧な平安のなかで生活する。
<神性>
・神の存在を私たちの原理の唯一最大のものとして主張するとき、はなはだ誤用されてきた、しかもなを強力な、この神と言うことばを、私たちはどういう意味で使うか定義しておく必要がある。
・次に私たちは、無限存在としての神と、宇宙を進化させ教導する顕われた神としての、この至高の存在の示現とを区別する。「人格神」ということばは、この限定された示現についてだけ適用すべきである。神自身は個性の限界を超え、「全てなかに、また全てを通して」存在し、実にまた全てである。そして無限、絶対、全なるものについては、私たちはただ「『彼』は存在する」といえるだけである。
・神が私たちの外にあると同様に、内にもあるということ、ことばを変えていえば、人間自身はその本性において神的なものであるということは、もう一つの偉大な真理である。
・さしあたり、人間の本性が神聖であることは事実であり、あらゆる人間が究極的に神のレベルまで回帰していくという保証が与えられている、といっておけば十分である。
<神の計画>
・たぶん私たちの一般原理のうち、この第一の偉大な真理の一番目の系ほど、普通の人にとって大きな困難と見えるものはないであろう。日常生活でまわりを見まわすと、幾多の悲惨や苦しみが見られる。そのため悪が善に勝つようにみえ、またこれらすべての明らかな混乱状態を、実際に秩序ある進歩の一部だと考えることは、ほとんど不可能なようにみえる。しかしこれは真理であり、この外部世界でのもがきによって起こった塵けむりから逃れでると同時に、真理として見ることができ、その全てを、十分な知識と内的平静をもった有利な地点から見上げることができるようになる。
・実際、私たちの三つめの偉大な真理が語るように、絶対的な正義が私たちすべてに割り当てられており、したがって、どのような境遇にあろうと、それは他のだれによってでもなく、彼自身が招いたことを承知している。しかし彼はまた、さらにそれ以上のことを知っているかもしれない。すなわち、進化の法則の働きのもとでは、ものごとは彼にとって最も必要な資質を発展させるために、できるかぎり最善の機会をもたらすよう配置されているのであるが、彼はそのことに安んじているかもしれないのである。
彼の境遇は必ずしも、決して自分から選んだと思われるような境遇ではないかもしれない。しかしそれらは、まさしく彼に値する境遇なのである。
・人びとはしばしば「自然」の力が、彼らに陰謀を企んでいるかのように語る。ところが事実は、周りにあるすべてのものが、彼らの向上を助けるために注意深く準備されているのである。
神の計画が存在するのであるから、それを理解しようとするのは人間の役目である。
<人間のなりたち>
・そのうえ、さらに探求していけば、別のもっと繊細な物質が存在していることも明らかになる――あらゆる知られている物質に浸透するものとして現代科学によって認められたエーテルばかりでなく、逆に別種の物質が存在していてエーテルに浸透しており、それはちょうどエーテルが固体よりも繊細であるのと同じくらいエーテルよりも繊細であることを明らかにしている。
・人は次第に、これらさまざまな媒体の使い方を学び、そのようにして、彼の住んでいるこの偉大で複雑な世界についての、はるかに完全な概念を獲得するのである。
・これらの内部世界、つまりさまざまなレベルの自然に対して、私たちは普通界面(プレーン)という名前をつけている。私たちは見える世界を「物理界」と呼ぶ。とはいえ、その名前で、私たちは気体や、いろいろな段階のエーテルをも含めているのであるが。
次の段階の物質性には「アストラル界」という名称が、その存在をよく知っていた中世の錬金術師たちによってつけられ、私たちはこの名称を受け継いでいる。このアストラル界のなかに、もっと微細な物質からなる、さらに別の世界が存在している。私たちはそれを「メンタル界(精神界)」と呼ぶ。それはその物質が、普通人間の精神と呼ばれているものからできているからである。
ほかに、さらに高位の界面も存在しているのであるが、それらの名称で読者をわずらわす必要はない。私たちは今は、人間の低位界での現れだけを取り扱っているのだから。
・全ての物質は、本質的に同じものであることを想起していただきたい。アストラル界の物質が、その本質において物質界の物質と違わないのは、氷がその本質において水蒸気と変わらないのと同じである。それは単に異なった状態での同一物なのである。ただ物質が十分に細分され、適切な速度で振動するようになれば、物理的物質がアストラル的になり、アストラル的物質がメンタル的になりうるのである。
<真の人間>
・それでは真の人間とはなにか。それは実にロゴスから放射されたもの、神なる光の分霊である。彼の内にある霊はまさしく神の本質からできており、その霊は魂を衣服のように着用しているのである――
<再生>
・繊細な運動は、始めは魂に影響を与えることができないので彼は自己のまわりにより粗雑な物質でできた衣服をつけ、それによってもっと重い振動が伝わるようにする必要がある。それで彼は、自己の上に次々とメンタル体、アストラル体、そして肉体をつけるのである。
<もっと幅のひろい見方>
・肉体的生涯は(長い真の生涯という)学校での1日以外の何物でもないこと、また彼の肉体は、単にその1日のうちで学習する目的のために着用した、仮の衣服にしかすぎないことを自覚するとき、その人生にいかに急激な変化がもたらされるか、ちょっと考えてみればすぐ明らかになるだろう。
<死>
・死が人生の終わりとして、ぼんやりとした、しかし恐ろしい未知の世界への通路として考えられている一方、それはまた、はっきりとした恐怖ではないにしても、多くの不安をもって見られているのは珍しいことではない。なぜかというと、そうではないと説くあらゆる宗教の教えにもかかわらず、これが西欧世界で普遍的に取り入れられた見解だからである。
・彼が地上生活中、心にいだいた思念や欲望は、はっきりした生きた実体としての姿をとり、彼がそこにつぎ込んだエネルギーが消滅するまで彼の周りをうろつき、反応し続ける。そういう思念や欲望が強力で頑固な悪であったときは、それによって創られる(アストラル界の)期間は実に恐るべきものであろう。しかし幸いなことに、アストラル界の住者のあいだでは、そういう例は極めて少数に属する。
・彼はまた、この素晴らしい死後の生活に、もう一つの、もっと高位の段階もあることを、はっきり理解している。ちょうど欲望と低級な思念によって、自分でアストラル生活の環境を作りあげたように、彼は高尚な思念と高貴な熱望をもって、自分で天国界での生活を作り出すのである。
なぜなら、天国は夢想ではなく、生きた栄えある実体だからである。そこは、選ばれた少数の人の住処として予約された、真珠の門と黄金の道をもつ星のかなたの街ではなく、地上の生涯と生涯の合い間に全ての人が入っていく意識の状態なのである。実際そこは永遠の住処ではないが、何世紀と続く、筆舌に尽くしがたい至福の状態である。それだけではない。というのは、そこには、さまざまな宗教によって提示された天国についての、もっとも優れて、もっとも霊的な、全ての考えのうちにある実体が含まれているが、決してその観点だけから考察されるべきものではないからである。
・低級な思念と欲望の媒体であるアストラル体が次第に摩滅し、脱ぎすてられると、人はメンタル体と呼ぶ、より精妙な物質でできた、あのもっと高位の媒体に宿っていることを知る。彼はこの媒体の中で、外部世界の対応する物質――メンタル界の物質――からやってくる振動に感応することができる。
<人間の過去と未来>
・そういうわけで、このエッセンス(分霊)はまず単なる力の流出として出てきたのである――たとえその力は神の力ではあるにしても、そのエッセンスは、それぞれ自己をロゴスにまで発達させる能力をもった何千何万という偉大な超人(アデプト)の形をとって回帰していくのである。
<原因と結果>
・したがって、行為の意図は決して何の違いも起こさないと考えてはならない。それどころか、意図は物理界での結果になんの影響も及ぼさないが、その行為との関連ではもっとも重要な要因だということである。私たちが忘れがちなのは、意図はそれ自体ある力であり、その力はメンタル界で作用しているということと、メンタル界では、物質は私たちの低位界でよりもっと精妙であり、はるかに迅速に振動するから、同一量のエネルギーは途方もなく大きな結果を生むということである。
・しかしオカルトの学習者は、この自己制御をそれ以上にずっと広げる必要があり、そのいらだちの思念を外面的な現れとともに徹底的に抑止すべきことを知っている。それは彼が、次のことを心得ているからである。すなわち彼の感情は、アストラル界に途方もない力を及ぼすこと、これらの力はちょうど物理界で与える打撲と同じように、いらだちの対象に向って作用すること、そして多くの場合、その結果ははるかに重大で、永続的であるということである。
・このようにして人は現生涯で、着実に自分の性格を作りあげることができるばかりでなく、その性格が次の生涯でどのようなものになるかも正確に決めることができるのである。なぜなら、思念はメンタル体の物質の振動であり、絶え間なく繰り返されるその同じ思念が、コーザル体の物質の(いわば1オクターブ高い」振動に対応した振動を引き起こすからである。
<神智学の与えるもの>
・注意ぶかい読者にはすでに明らかになったに違いないが、それは、ひとたび神智学の諸概念をはっきり確信すれば、それが人生に対する見方全体を根本的に変えてしまうということである。それにともなう多くの変化の方向と、その変化のよって立つ根拠についても、すでに述べたとこころから看取しておられるであろう。
・肉化と肉化のあいだの人間の生涯を注意深く研究すれば、全生涯にたいして占めるこの肉体的生涯の割合はいかに小さいものであるかが解る。どの高等民族でも、普通の教育と教養のあるひとの場合には、一生の期間――つまり真の生涯の1日にあたる期間――は、平均して1500年ぐらいであろう。この期間のうち、おそらくは7・80年が肉体的生活に費やされ、約15年ないし20年がアストラル界、残り全部が天国界で過ごされるであろう。天国界はしたがって、人間の生存のうち飛びぬけて重要な部分をなしているわけである。
もちろんこれらの割合は人種の違いによって相当に異なっている。劣弱民族に生まれてくる、あるいは私たちの民族でも下層階級に生まれてくる若い魂を考えると、これらの割合はまったく変わり、アストラル生活がもっと長く、天国生活がずっと短くなる傾向のあることが解る。
<思念のもつ力と効用>
<思念の力>
・神智学を学習することによって、そこから人生上の実際的な規範がでてくる――それは、生活のあらゆる瞬間において(神智)学徒の思索と行動に影響を与えずにはおかない規範である。このことは主として、神智学があるがままの人生の探究を含み、したがって神智学徒は、世界の中の一番些細な部分だけを知る代わりに、彼の住んでいる世界全体を知ることになるからである。
<思念の特性>
・それでは「思念」とはなんであり、それはどのように作用するのか。ざっとでも神智学の書物に眼を通した人なら、私たちの太陽系の、相互浸透している各世界に応じて、人はそれぞれ一つの媒体を持っていることを知っている。また、アストラル体は、彼の欲望・情熱・感情の媒体であり、彼の思念は私たちが普通メンタル体と呼んでいる、いっそう繊細な物質でできた、より高位の媒体を使って作用していることも知っている。
思念が最初に透視家の眼に写るのは、このメンタル体の中であり、その物質の振動として現れる。この振動はさまざまな効果を生じるが、それらは全て、この物質界での科学的な効果と非常によく似たものである。
・それはちょうど同じように人間のアストラル体の動揺(感情)は、メンタル体に振動を与え、その感情に応じた思念をひきおこす。逆に、メンタル体の動きは、もしその動きがアストラル体に影響するような種類のものであれば、それに影響する――つまりこれは、ある種の思念は容易に感情を刺激することを意味する。ちょうどメンタル体の振動が、それより濃密なアストラル体の物質に伝わるのと全く同じように、それより繊細なコーザル体の物質にもまた、必然的に伝わっていくのである。このようにして、ひとの習慣的な思念は、彼自身の「エゴ」の特質を作りあげていく。
<思念波の働き>
・では、思念力のこの二つの働きを、別々に考察していこう。振動は、思念の特性に応じて単純であることもあり、複雑なこともある。しかしその力は、主としてメンタル物質の四つのレベルのどれか一つに向けられる。四つのレベルとは、メンタル界の下位部分をなす四つの亜層である。普通の人の思念は、たいてい彼自身や、彼の欲望・感情を中心としており、したがってメンタル物質の、最下位の亜層の振動である。実際、大多数の人の場合、メンタル体のそれに対応する部分だけが、これまでのところ十分に発達し、活発になっている。
・天国界では、しかしながら、ひどく違った状態にあることが解る。というのは、彼のメンタル体はまだとても十分には発達していないからである。このメンタル体の発達ということが、現在、人類のかかわっている進化(課程)中の一コマとなっているのである。
メンタル体は「奥儀体得者(イニシエイト)の大同胞団」に属する「教師たち」のもとで、その使用について特別に訓練を受けるものだけが、媒体として使うことができる。普通の人の場合、メンタル体はただ部分的にしか発達しておらず、意識の独立した媒体として用いることは決してできない。
<思念像の働き>
・これを充電したライデン瓶にたとえるのも、あながち不当ではないだろう――体をつくっているメンタル界とアストラル界の物質は、瓶に象徴され、そこにこもっている思念の波動エネルギーは充電された電気に相当する。
<思念をどうコントロールするか>
・彼は、感情を出ていくままにするかわりに、徹底的にコントロールすべきである。現在私たちが到達している進化段階は、メンタル体の発達であるから、彼はこの問題もまた慎重に取り扱い、その進化を助けるうえで何ができるかを考えてみるべきである。
<他人に及ぶ思念の影響>
・きわめて多くの人びとが内部に邪悪の芽を持っている。しかしその芽は、外部からある力が働いて活動させないかぎり、花をつけ実をならすことは決してないであろう。
<一つの実例――ゴシップの場合>
・以上の考察から、ゴシップやスキャンダルの習慣は――多くの人びとは考えもしないでそれにふけるのであるが――実際、恐るべき悪習だということが解る。これに対する非難は、どれほどの表現を使っても強すぎることはない。
<思念による自己開発>
・人はしばしばいう――自分は思念なり激情をコントロールすることができない。何回もそうしようとしたがいつも失敗した。だからそんな努力は無駄だという結論に達したと。この考えかたはまったく非科学的である。
<思念による援助>
・これら思念の流れの用い方を知っていれば、だれかが悲しんでいたりするのを見るとき、いつも援助の手をさしのべることができる。この物質界では、苦しんでいる人になにもしてやれないことがよく起きる。
<死者を悼むかたがたに>
・死はない!死と見えるものは転移なのだ。この現身の世は、楽土の世界の外郭にすぎない。その楽土への門を死と呼ぶのだ。
・霊は生まれもせず、死にもしない。時はかつて存在せず、終始は夢である!永遠なる霊は不生にして不滅、不変。死も触れはしない、たとえその住処は死んだと見えても!
<はじめに>
・あなたが考えておられるのは、主にあなた自身のこと、あなたの耐え難い喪失感、である。しかしもう一つの悲しみもある。あなたの悲嘆は、あなたの愛していた人が、死後どんな境遇にあるか確信がないために、もっと強まる。
<三つの命題>
・私にはあなたのお気持は十分に解る。しかしばらく我慢して、これから述べる三つの主な命題を理解してみてほしい。私は始めにまず大まかな命題として述べ、ついで確信のもてる細目へ入っていこうと思う。
一 死は、あなたの見方からはそう見える、見かけ上の真実にすぎない。私は別の見方をお見せしたい。あなたの苦しみは、大いなる幻影の、かつ自然法則に対する無知の、結果である。
二 あなたの愛する人の(死後の)境遇について不安になったり、半信半疑になったりする必要はない。なぜなら、死後の生涯はもはや謎ではないからである。死の向こう側の世界も、私たちが科学的正確さをもって探求し、調査してきたこの世界と同様の自然法則によって存在しているのである。
三 あなたは死者を悲しむべきではない。なぜなら、あなたの嘆きは愛するひと(死者)を悲しませることになるからである。ひとたび真理に対して心を開けば、もはやあなたは嘆き悲しんだりはしない。
<人間のなりたち>
・あなたが人生として考えてきたものは、実は魂としてのあなたの生涯のただの1日であり、このことは(亡くなった)あなたの愛する人でも同様である。したがって、彼は死んだのではない。放り出したのは、ただ彼の体にすぎない。
<誤っていた教会のドグマ>
・現在、死後の生活について多くの理論が行なわれてきているが、それらの大部分は、古い聖典の誤解にもとづいている。永遠の刑罰と呼ばれたおそるべき教説が、かってヨーロッパでほとんど普遍的に受け入れられていたけれども、それはいまでは、どうしようもないほど無知な者のほかは、だれも信じてはいない。永遠の刑罰とは、キリストによるあることばの誤訳にもとづいてたのであるが、それによって無知な大衆を恐れさせ、善行に向かわせる便利なおどしとして、何世紀にもわたって用いられたのである。
<科学的探究>
・事実は、盲目的な信仰の時代は終ったということである。科学的な知識の時代が来たのである。
・私たちは霊である。しかし私たちは、物理界、それも部分的にしか知られていないが、そういう一つの世界に住んでいる。その世界について私たちが持っている知識は、全て感覚を通してくる。しかしこれらの感覚は、非常に不完全なものである。
・それにもかかわらず、そういう繊細な物質に接触することができ、探求することもできるのであるが、それはすでに言及した「霊体」を使ってのみ可能なのである。というのは、「霊体」は、肉体が持っていると同じように、感覚を持っているからである。
<死とは一つの転移にすぎない>
・私たちが知る第一のことは、私たちが無知から考えてきたように、死は人生の終りではなく、人生の一つの段階から、次の段階への一つのステップにすぎない、ということである。すでに述べたように、死とはオーバーコートを脱ぎ捨てることであって、その後で、人はなお彼の普段着、つまり「霊体」を着ているのである。
<死者のゆくえ>
・理解すべき最初の点は、死者と呼ぶ人たちは、私たちから離れ去ったのではないということである。
<死者との交流>
・さしあたり関心のある全てのことは、肉体を手段として見たり触ったりできるのは、物理界だけであり、「霊体」を手段として見たり触ったりできるのは、霊界のものごとだということである。そして思いだしていただきたいことは、霊界は決して別の世界ではなく、ただこの世界の、より繊細な部分にすぎない、ということである。
もう一度いえば、別の諸世界も存在しているのであるが、いまは、それらを問題にしていないだけである。死んでいったあなたが考える人は、実はやはり、あなたといっしょにいるのである。
<死者が送る死後の生活>
・このようなことが、死者が送っている生活について考えさせることになる。そこでの生活には、多くの、大きな変化があるが、少なくとも、地上の生活よりはほとんどいつも、もっと幸福である。
・私たちは古くさい理論から眼を覚ますべきである。死者は信じがたい天国へいっぺんに跳びこむのではない。もっと信じがたい地獄へ堕ちるのでもない。じっさい、古い、悪い意味での地獄などは存在していないのである。自分から創りだしたものより他には、どんな意味でも、そこにも、地獄などありはしない。
はっきり理解していただきたいことは、死は人間にたいし、いかなる変化ももたらさないということである。彼は突然、偉大な聖者や、天使になることもなければ、突然、幾時代にもわたる知恵のすべてを身につけるわけでもない。死んでからも、死ぬる前と同じような人間――同じような感情、同じような性質、同じような知性をもった人間――なのである。違っていることはただ、肉体がないだけである。
これはどういうことを意味しているか考えてみてほしい。それは痛みや疲れの可能性からの完全な自由を意味している。またあらゆるいやな勤めからの自由、まったく自分のしたいことを(おそらくは彼の生涯で始めて)する自由を意味している。
・この霊界ではお金は不要である。食物も住居ももはや必要がない。なぜなら、そこでの栄光と美は、お金も価もなく、その住人の全てのものに自由に得られるからである。
その希薄な物質、つまり「霊体」のなかで、彼は思うがままに、どこへでも行くことができる。
・それなら、その世界には不幸な人はいないのか。いや、いるのである。そのわけは、そこでの生涯も、かならずここでの生涯の続きであり、彼はあらゆる点で、肉体を脱ぐ前と同じ人間だからである。
<死者の見ているわたしたちの霊体>
・それでは死者たちには、私たちが見えているのか、私たちの言うことが聞こえているのか、とお聞きになるかもしれない。もちろん彼らは、私たちがいることに気づいており、私たちが幸福か不幸かが解るという意味では見えているのである。しかし彼らは、私たちの言うことばは聞こえないし、私たちの行為の詳細までは解らない。
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