ユタとは、琉球弧である奄美や沖縄に存在する、都会で言う霊能者であり、拝み屋さんとか易者、占い師等と呼ばれている人々の類に入ると思います。(1)
(2023/10/27)
『ユタ』
遥かなる神々の島 琉球弧シャーマンの世界
葉月まこ 南方新社 2014/3/11
ユタとは、神々や精霊と交信し、「自然と共存して生きる道を伝える者。また、神々に祈り続ける古の血を脈々と受け継いでいる者。そして、神の声を聞き、人々の悩みの応え、自然を敬う心を、大切さを伝える者。時には未来を予見し、皆を難儀から救う者。
この摩訶不思議な存在を島の人は「ユタ」と呼ぶのです。
<初めに>
・神仏に対しての信仰とは、形はない
目にも見えない、手にも触れることもできない
空気と同じ、でも空気は風として感じることができる
信仰もまた、感じることから始まる
<自己紹介~奄美のユタ 葉月まこ ~>
ここは、 鹿児島県奄美大島の奄美市名瀬という人口4万8千人ほどの小さな街。街の目の前はすぐ海、深い入り江にあり、背後には山が迫った奄美の中心となる街です。
・奄美の自然は、猛毒の毒蛇ハブの存在が人間の山への侵入を妨げ、結果、手つかずの緑深き山々と青く澄みきった海が数多く残っています。
・私は、この奄美大島で「ユタ」と呼ばれています。ユタとは、琉球弧である奄美や沖縄に存在する、都会で言う霊能者であり、拝み屋さんとか易者、占い師等と呼ばれている人々の類に入ると思います。
ユタと呼ばれている人々の存在は、この島では3百人は下らないだろうと言われています。その中でも、人々を占ったり易を取るものは、2、30人くらいだとも言われています。そして、これらで生計を立てているユタのことを「職業ユタ」と言っています。
・ユタには、誰でもなれるというものではありません。ユタになるには、神様の声を聞かねばならず、その前兆として、ある日突然身体の不調を来したり、目に見えないモノが見えたり、声が聞こえたりと、世に言う不思議なことが自分自身に起こるのです。
またある者は、どん底の苦しみを体験させられ、医学や自らの力ではどうすることもできなくなった末に、神様にすがり、あるいは神様に接触してくるように誘導されるのです。
このような現象のことを巫病と言い、「神ダーリィ」、「神懸かる」とも言います。
その過程で直接神様の声を聞いたり、神様の使いであるユタの指導者としての親神、親ユタを通じて、神様から人智を超えた力をいただき、世の人々を救うための新たなユタとして誕生していくのです。
・奄美は昔から神の島とも言われていて、血筋として先祖にユタがいた家系では、祖父母から孫に隔世遺伝することが多く、また親子や姉妹、叔父叔母から引き継がれる例もあります。また、ユタの血筋のない家系から突然神懸かるユタもあり、これを「天ザシ」とも言います。
いずれにしても神様が、神様の使いとしてユタとなり世の人々を救うように指名されたのであって、これを気付くようにし向けられるのです。
それでもなお、気付かない場合は、精神的に異常を帰したまま治らなかったり、神様が他の親族にユタになることを求められ、親族が神ダーリィになったり、最悪の場合は命を取られたりすることもあり、神様の祟り、お力はとても恐ろしいものなのです。
・このように神ダーリィになった場合は、早く神様の意思に気付き、それを受け入れ、神様の使いとして世の人々を救うために、厳しくも正しい修行をしてユタになることが、結果として辛い神ダーリィの影響を多く受けずに済むのです。
さて、私がユタになるというか、ユタの家系に生を受けたのは、昭和30年、日本が戦後10年、奄美がアメリカ占領支配から日本へ本土復帰してまだ1年余りのことでした。
・私のせめてもの救いは、この祖母の存在でした。私がユタとして生きていくことになるのは、この祖母が後に大きく関わってくるのです。
幼い頃の私は、祖母の家によく出入りしていました。その頃の祖母は、大島紬で生計を立てており、昼間は工場で紬を織り、その傍らで自宅でユタとして、神様、拝み屋さんをしていました。
<神ダーリィ>
・私が19歳になった頃、身体に異変が起こりました。急に寒気がしたかと思うと、今度は頭が締め付けられるような頭痛、吐き気、眩暈。立っていられないほどの具合の悪さ。初めのうちは1日に1、2回ほど起きて、10分程度で治るのですが、その痛みはその後も回数を増しながら、私の身に起こってきました。多い時には日に10回以上も。ですが、不思議と少し横になると嘘のように治るのです。そして、これが「神ダーリィ」の始まりでした。
・当時の私には、これが神ダーリィの始まりなどとは知る由もなく、止まらない偏頭痛に地元の大きな病院で診てもらいました。しかし、偏頭痛と言われるだけで、その後も痛みは消えることはなかったものの、少しずつ治まってきました。
・数年後、私は結婚し、二人の娘にも恵まれ、幸せな生活を送っていました。そんな幸せな生活も束の間、治まっていた偏頭痛がまた始まったのです。
・そんな時、ある1冊の本と出合いました。高橋信次さんの『心の指針』という本です。その本から私は神の存在を知りました。いや、再確認したのです。この本と出合ったお陰で私は勇気をもらい、「このままではダメだ。いつか、子供達とも会える」と思い、強く生きていく決心をしたのです。
それから、女ひとり生きていくため、すぐに金になる仕事を探して夜の世界、水商売へと足を踏み入れたのです。
<霊夢・正夢の世界>
・ユタになる前のこと、私は夢を見ました。天空から丸いかずらで編んだ龍が私の元に降りてきたのです。
・その瞬間、奄美にはない、ものすごく広く大きな川が現れ、私はその川を一瞬にして飛び越えてみせました。
・私が30歳になった頃、夢に杖を持った老人、まるで仙人のような霊人が夜な夜な現れ、まず道徳的なことを教え諭すのです。
・いつも、霊の世界が先で現実が後になり、起こるかどうかも分からず、いつ起きるかも分からず、自分の非力さに神様に涙しながら願いました。
・それから数カ月後、祖母が現れ、お願いがあるというのです。「自分の神様の跡を継いで欲しい」と。私は、「絶対、イヤだ」と応えました。
しかし、断っても、断っても、祖母は繰り返し現れます。
【平成9年1月2日】
・ユタになって3年目の夢です。私の神棚の中から一人の男の子が出てきました。
【平成10年4月9日】
・後でわかったのですが、この上が三角になった鳥居は、日枝神社、日吉神社、山王神社など、滋賀県の日吉大社の山王信仰に基づいて建てられた神社の鳥居だということです。神仏習合の神社です。
奄美のユタすべてが関係するかは不明ですが、私の神流れは、ここと関わりがあると神様から知らされたような気がしました。
【平成11年2月23日】
・するとその老女性は、千年に一度の龍が降りて来るから気をつけなさい、と告げて消えました。
<神上げ~成巫式~>
・夢で会った祖母との約束を果たすため、奄美大島に住む親ユタ様を捜すことから始めました。名瀬に住む親ユタ様がいると聞き、私は会いに行きました。年の頃80歳前後の女性のユタ様が出てこられて、私の話を聞くと快く、親ユタを引き受けていただきました。
・奄美でのお祝いというと、最低10万円はかかります。きちんとした、習わしによる祝い膳を用意するのです。
・そして、明日はいよいよ「神上げ」という日になりました。その夜は、心がはやり、なかなか寝付けませんでした。当日、親ユタ様と数人の神人と呼ばれる方々がいらして、厳かに海の儀式と川の儀式を行い、我が家に帰り、神様祭りをしてお祝いの膳をいただきました。
そうして、「神上げの儀式―成巫式―」は無事終わり、翌日から私の神様拝みが始まったのです。
しかし、祖母の神様と親ユタ様しか知らず、祈り続けて2年、親ユタ様がこの世を去りました。
・三人の親ユタ様の元で修行し、最終的に一人になった私に、自分の神様が動き出しました。その神様の名は、「国津元元津ハズキ」
この名前を清書し、神棚に祀ること、と言われました。
ハズキとは、古来の言葉で8月の月を意味します。私の神様は、国の元は「月」だと言っているように思いました。
・47年生きて、初めての体験……「断食」……とにかく眠る。(笑)
こうして、私達は7日7夜の修行を終えたのです。7日間で私の体重は4キロも減り、顔も自分で言うのもなんですが、女性の顔ではありませんでした。
<不思議体験>
・2年近く前、空海様は私に何を伝えたかったのでしょうか。また、奄美の神ユタとどんな繋がりがあったのでしょうか。
<私の初仕事>
・私のユタになって初めての仕事は知人を通して入ってきました。その依頼人は私の住む名瀬の街から南東の方に車で1時間かかる村に中古の住宅を買ったので、「お祓い」を希望していました。
<祓い~神の仕事~>
・私達ユタにできることは、神様に依頼者や皆さんの難が少しでも小さくなること、大難を小難に、小難を無難になるように祈ることです。
また、降りかかる難をどうすれば小さくできるかアドバイスをすることしかできないのです。
・このように普段は目には見えないけれど、霊人は存在していて時折姿を見せに来ることが現実にあるんです。ただ、ユタや霊感の強い一部の人にしか見られないのが残念です。
この世のたくさんの人にも霊人を見ることができたら、この世はもっと良くなるのにと私は歯痒く思うのです。
・それから数カ月が過ぎた頃、私は霊夢で二人が霊界のこの世と余り変わらない場所で仲良く暮らしている姿を見ました。
<ノロとユタについて>
・ノロは今から五、六百年前に琉球王朝から奄美に入ってきたと聞きました。
ユタと違いノロは村落での農業の始まりの月を教えたりと、農耕に深く関わってきていて、琉球王朝の支配下に組み入れる宗教的権威者としての地位を与えられた女性、それが「ノロ様」と聞いています。ノロが公的な存在だったのに対し、ユタはパーソナルな存在といえます。私個人的には、ノロもユタもあまり変わりがないように思えるのですが、ノロ様は日本神話の面影を含めているようにも思えます。
ノロ様は天竺から唐の国また、南西諸島から奄美に伝わってきている神流れ。指摘にも豊饒の大神様とも似ているように思われるのです。
ユタにも、二通りあるように思われます。「ユタ」と「ユタホゾン」この二つの呼び方に二つの神の流れを感じるのです。
「ユタ」は「テルコ・テンザン」つまり天から指名された神の子と言われることがあります。このユタの祖が「オモイマツカネ様」という女神なのです。その「オモイマツカネ様」が産んだ男の子が「金のマタラベ」という名前で、この子には父親がいません。父親は天いる神だといいます。この神話から、私はマリア信仰にも似たようなものを感じるのです。
特に奄美のユタ修行には、川での祈りが欠かせません。これはヨハネのバプテスマに似ていると思うこともしばしばです。
また、テルコとは古語では山を意味し、また天の太陽をも意味し、テンザンは天使を意味すると思っています。私は、このテルコ・テンザンに天照大神様をイメージします。このテルコ様は一般に易をとる神様とも言われています。
「ユタホゾン」と言われる場合、このホゾンという言葉は「仏」を意味すると思います。ですから、ホゾンとついた場合は仏教的なイメージがあって、ホゾンの人は、呪術的な祓いをしたり、霊人を呼び出したり、東北のイタコと似ていることをする神人でもあります。これは、真言宗の僧侶達とも無関係ではないと思われます。高野山の高野聖の活躍もあったのではないかと思うのです。
ホゾンと呼ばれている神流れは、個人的には仏教的な面と、神棚を祭ることから神道的な面の両面から流れてきていると思っています。
・また、奄美のユタは特に角のあるものを嫌います。また、四つ足を嫌い、牛や豚などを一切食べない人も多くいると聞いています。かくいう私も、四つ足類は一切食べず、乳製品も受け付けません。
また祝詞についてはユタもユタホゾンも大差ありません。以前、『日本のルーツ』という本に日本の音楽について書かれており、日本の音楽の元は雅楽であり、流れは『中国~唐~朝鮮系~高麗~日本』と伝わっているようです。日本の子守歌に似ているものがインドの仏教音楽にあるそうです。インドのバラモン教はお経を歌うように読むそうです。奄美のユタも祝詞を歌うように読むのです。この類似性は何でしょう。根の部分は同じではないでしょうか。
・さて、この歌うように読むということは、「声明(しょうみょう)」と呼んだようです。これを日本風にアレンジしたのが和譖と呼ばれるものです。この和譖が日本に入ってきたのは6世紀頃だといわれています。あの有名な「琵琶法師 平家物語」の節にもなっていると書かれていました。この流れが、奄美のユタの神歌にも含まれているように感じるのです。もの悲しいメロディーで、歌うように祈り、神においでを願っているからです。
・『日本のルーツ』の本によると、奈良時代には機織り女の女神信仰があったそうですが、この機織り女のルーツがユタ信仰とも重なっているとも思います。
<神の月>
・奄美では旧暦の1、5、9月が神月と呼ばれています。私達ユタはこの月を特に特別な月としますが、これも中国から伝わってきたように思います。なぜかというと古代中国において1、3、5、7の月に神に対する供養を行っていて、5世紀から6世紀にかけて仏教陰陽道の考えとして受け入れられていたからです。奄美の神流れはこの陰陽道に近いものと見受けられます。
・織物について――。世界で初めて布を作ったのは、インドのカシミール地方だと聞いています。奄美で織物(はたおり)が始まったのは、1千年頃前で、バナナの幹の繊維から作った布、「芭蕉布」といいます。この芭蕉布もインドから入ってきたものだと聞いています。
<私の神流れ>
・私は、「国津元元津ハズキと紙に書いてお祀りするように」と、神様に言われました。日本の月の神の発祥地は京都の松尾大社と聞いています。稲荷・八幡神もこの松尾大社と関わりがあるといいます。八幡神は九州大分の流れがあるといわれますが、月は深く農業と関わっているので、多分、奄美の神流れというよりも、古来日本民族が農耕民族として崇めていた頃のものが奄美のユタにも含まれてきているのだと思われます。
天照大神は、豊穣様であり、海の神、山の神、火の神、水の神。自然の神々こそ、私達ユタの神流れだったのです。
<さいごに>
・最後に、奄美のユタについていろいろと語ってきましたが、ユタとは、神々や精霊と交信し、自然と共存して生きる道を伝える者。また、神々に祈りを続ける古の血を脈々と受け継いでいる者。そして、神の声を聞き、人々の悩みに応え、自然を敬う心を、大切さを伝える者。時には未来を予見し、皆を難儀から救う者。この摩訶不思議な存在を島の人は「ユタ」と呼ぶのです。
・何だか「ユタ」って、ものすごく特別に思えるような表現になりましたが、私達は普通に生活しているおじさんであり、おばさんです。神棚の前で神事を行う以外は、何ら普通の人と変わりません。島の人々は生活の中に私達ユタを必要としているのです。
家族の健康や思い悩むとき、身の回りに不幸が続くとき、決断しかねるとき、少しだけ神様のお知恵を借りるために、私達ユタを尋ねるのです。普通のことなのです。
・日本には、古来八百万の神様がいました。すごいですね。すごい数の神様です。そこかしこに神様はいるのです。
・天在諸神の徳により、私達は生まれた。神様は私達の祖先である、と言っています。私達はみんな神様の子孫ですから、神様は私達の心の中に隠れていると告げています。だから人は祈ることが大切だと伝えています。
人は因縁と生きている人々の生き霊によって惑わされたり、本当の自分の中の神様の進む道を失っていると伝えています。だから、生き霊や因縁は少しずつきれいにしていき、正しく生きるようにとの教えのお言葉です。
<あとがき>
・あれから、2年半が過ぎようとしている今日この頃。私は、平成23年3月11日を思い出しています。
日本のこと、世界に起こることは、私が神に仕えてすぐの頃、よく神様が霊夢を通して霊界通信をしてきました。それを私は、すぐに書き留めるのが日課になっていました。震災の2年前にによく津波の夢を見ていました。人々が、それも年寄り達が、小高い丘を目指して登って行くけど、波は容赦なく打ち寄せてくる……大きな津波の夢。逃げまどう人々……流されていく家々。
神様が見せてくれたものは、その日から数えて2年以内に現実にこの世に起こります。
私は、それをいやと言うほど見せられてきました。今日霊界で起こること、現世に2年以内で起こる。この意味とは?
なんでだろう……。私はいつも考えていました。結果、何も分からないのです。ただ一つ、分かったことがあります。それは祈ること!
・この本を読まれている皆様、どうぞ自分を生んでくれた親、または祖先、その先の神々に、日々、感謝の祈りを、手で合わせてください。
(2018/12/28)
『グソー(あの世)からの伝言』
比嘉淳子 双葉社 2014/7/30
<ユタ――人の厄を引き受ける霊能者>
・沖縄には今なお活躍する「ユタ」と呼ばれる霊能者たちがいる。遺伝ないしは突然に現れた霊能力「セジ」によって、フツーに見えたり聞こえたりしない神に導かれる職業霊能者だ。女性が多いとされるが、性差はなく、現在も生業としている人は数千人いるといわれる。2千円~1万円程度の相談料でハンダン(託宣)を行い、その内容によっては必要な場所まで出向いてさまざまな祈願を行う。
沖縄には「医者半分、ユタ半分」という言葉がある。病気をした場合、医者に行くと同時に、ユタのところにも駆け込む。病気になった原因はなにかを問い、治癒の祈願をしてもらいためだ。
・ユタになるのは簡単なことではない。というより、できれば避けたいことだという。望んだわけでもなく、神々からの用事を代行するために選ばれてしまった、平たくいえば「神様のパシリのようなもの」とあるユタが語っていた。普通に暮らしていたのに、ある日を境に神々の声に先導され、理解不能な行動を起こしはじめる。この状態は「神ダーリ」と呼ばれている。周囲には理解されず、家庭不和や離魂、社会からの孤立といった苦労を背負わされる。ユタは他人の人生を左右する立場にあることから、その能力を与えられる前に、見えない世界から強制的に人間修行をさせられるという。神ダーリの状態から脱するには、霊的職能者の道を開くしかない。が、自力では困難で、ほとんどは先輩ユタに大金を支払って道を開けてもらうことになる。
・ユタにもそれぞれ「千里眼(占い)」「先祖供養」「神様とつながっての除災」「家相・風水」などの専門分野がある。その専門は、個々のユタの守護神や指導神から渡される能力別「帳簿」によって分かれているという。帳簿といっても、実体のあるものではない。ほとんどは夢のような形で託される。
・ユタになるというのは、ある意味、他人の厄を一切合切引き受けることでもある。事実、そのために命を落としたユタの話も聞く。似非ユタという行為で無責任にハンダンし、お金をむさぼり取れば、自らを取り返しのつかぬほどに陥れることになるのだ。
いずれにせよユタに力を借りる時は、語られることに柔軟に耳を傾ける一方で、最終的には自分で道を決める、依存しない力が必要なのだ。
<「お知らせ」――先祖は祟らない>
・沖縄では大なり小なり、不穏な事や不幸事が起こると、それを目に見えないものからの「お知らせ」だとする考え方がある。
ひと言で「お知らせ」といっても、そのかたちはいろいろだ。夢見が悪いといった軽症から、体調不良や仕事の不振、事故やケガ、子どもの非行、離婚など、普通に生活していれば誰にでも起こりうる災難が「お知らせ」と称される。
・つまり、「お知らせ」は先祖の祟りではなく、信号。その信号がわかりやすいように、非日常的なことが起こるというわけである。また、そうした信号が送られてくる根本には、子孫たち、つまり自分たちの「不遜な行い」があることにも気づかなければいけない。
・「線香どぅ孝行――線香をあげる気持ちこそが孝行」
この黄金言葉が教える通りに、たった一本の線香でも、それが真心込めてあげられたものならば、御願が不足するということはないのだ。老ユタはこんなことも言っていた。
「亡くなった人を想う純粋な心は、あの世のご馳走や光になる」
そしてもうひとつ、先祖が喜び、その孝行度が高まるのが、「家族・一族の和」である。年忌やお盆の時に親族が集まり、みんな笑顔で、それぞれに線香を手向ける。こうした家族に「お知らせ」や「御願不足」の気掛かりはない。
<ノロ――琉球王府の公職神女>
・「ユタ」と混同されがちなものとして「ノロ」という言葉を聞いたことがあるだろう。ユタは民間の職業霊能者なのに対して、ノロは公職神女。琉球がまだ統一される前、各地を按司(あじ)と呼ばれる支配者が治めていた時代から存在する。ノロ制度が確立するのは琉球王朝時代に入ってからだが、祭政一致政策を要とした琉球王府において重要な役職だった。
ノロに任命されるのは女性のみ。あくまでも世襲が原則だ。ノロ制度のトップとなるのは、王家の女性が就任する「聞得大君(きこえのおおきみ)」で、その下にノロとなった各地の士族の娘たちが、ピラミッド型で組織されている。国や配属された間切(地域)で祭祀や来賓の接待、しきたりを伝授する役目を担っていた。言い換えると、ノロは信仰によって地域をまとめ、文化を承継する役職だったのだ。
世襲制ということからもわかるように、必ずしも霊能力を有するとは限らない。しかし超自然的な存在と交信し、託宣を受け取るというシャーマン的な役割は附随している。琉球王朝終焉後、公職としての神女制度は消滅したが、その後もノロは存在し、その役割を担っていた。現在では後継者不足から活動の場も失われ、「ノロ」は形骸化している。
<本書の「言の葉」>
・(チジメー)漢字では「霊前」などと書かれる。守護霊のことだが、単に守護するというのではなく、ノロやユタといった霊能者を教え導く特定の神や先祖の霊のことをいう。
・(マブイ拾いの儀式)方言では「マブイグミ」という。マブイを落としたと思われる現場に、供物や線香、マブイを落とした人の下着を持参し、マブイを拾い上げる祈祷を行う。落とした場所がわからない場合は、家の中の神様のうち最強といわれる神様が守るトイレで行う。
・(キジムナー)樹齢百年近いガジュマルなどの古木に宿るキーヌシィ(木の精)。3歳から5歳ぐらいの子どもと同じ身長で、赤銅色の肌に赤い髪をしている。人間が大好きで、いたずらや相撲が好き。魚の目玉が好物で、タコが苦手。
・(マジムン)「妖怪」を表す方言。キジムナーもマジムンの一種。そのほかに赤い毛むくじゃらのカッパのようなケンムン、妖術を使って女性をたぶらかす蛇の妖怪アカマターなど、沖縄にはたくさんのマジムンがいる。
・(火の神)方言では「ヒヌカン」。台所に祀られる神。その家の家族を護る神様で、沖縄では昔から「ヒヌカンとトートーメー(先祖・仏壇)は一対」といわれ、この両方が大事にされてきた。
・(今帰仁城)琉球王国以前、三山王時代の北山王統の居城。15世紀前半に第一尚氏王統二代目の国王・尚巴志(しょうはし)に滅ぼされる。本島北部の本部半島・今帰仁村に城跡があり、世界遺産となっている。
・(アマミキヨ)琉球神話の開闢神。アマミク、アマミキュ、アマミチューなどとも呼ばれる女神。アマミキヨにまつわる開闢神話はさまざまにある。男神シネリキュとともに国及び人々の祖を生んだとする話や、アマミキヨひとりで開闢したとする話も伝わる。
・(チジタカサン)漢字では「霊高い」などと書く。霊力が強い、力のある霊がついていることをいう。神々や先祖の想いが深い沖縄には、チジブン(霊の職務)、チジマサイングヮ(霊の勝る子)など、「チジ(霊)」の付く言葉が多い。
・(屋敷の御願)沖縄では家や敷地のさまざまな場所に神様が宿っているとされている。敷地の東西南北、門、玄関、家の中央、床の間、便所、そして台所のヒヌカンと、複数の神々が力を合わせて家屋敷を守る。
・(香炉)沖縄では香炉は、ただ線香を立てるためのものではなく、神や祖霊との通信媒体となると考えられている。
・(アメリカ世)第2次世界大戦に敗戦した1945年、沖縄はアメリカの施政権下に置かれ、それは1972年の本土復帰まで続いた。その時代をアメリカ世という。
・(十・十空襲)大戦中の1944年10月10日、沖縄本島をはじめ、南西諸島に向けて行われた米軍による大空襲。早朝から午後4時過ぎまで続いた。なかでも本島は主要な攻撃目標とされ、1日の間に5回もわたって攻撃がくり返された。5回目の攻撃は那覇市に集中して行われ、600人以上の死傷者を出し、市の90パーセントが灰燼に帰した。
<マブイ――人には7つの魂がある>
・沖縄では「生き物には複数の魂が宿っている」といわれ、魂を沖縄の方言で「マブイ」、「マブヤー」と呼ぶ。人に宿るマブイは7つ。犬や猫は3~5つ、植物にも1~2つのマブイがあるといわれる。死後、生体が失われた後もマブイは存在する。そして、未練を残したマブイはこの世を彷徨い、「マジムン(妖怪・幽霊)」になると考えられている。
実はこのマブイ、生きている体からも案外簡単に落ちてしまうのだ。転んだり、驚いたり、怒る・傷つくなど激しく動揺したり、そんなことで抜け落ちてしまうことがある。特に子どものマブイは癒着が緩いので、落ちやすいといわれている。
・あるべきマブイが落ちてしまうと、当然のことながら不都合が起きる。脱落した状態が長く続くと、腑抜け状態、病気、不運などの症状が起こるとされている。元気だった子どもが突然、何日もボーッとしているので心配していたら、すっ転んだショックでマブイを落としていた、などの話もよく耳にする。マブイが落ちるというのはなにも沖縄だけの話ではない。本土に行って電車に乗った時など、人々を観察していると、正直、「マブイが落ちていそうだな」と思うような精気のない人々をよく見かける。
落ちてしまったマブイは拾い戻さなければいけない。しかも、できるだけ早急に。なぜなら、マブイを再び定着させるためには、その鮮度が重要だからだ。そのために、沖縄にはマブイ収拾に欠かせないまじない言葉がある。
「マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー(魂、魂よ、追いかけて来なさい)」
ビックリして「あっ、マブイが落ちたかも ⁉」と思った時に有効だ。地面からマブイを拾い上げ、自分の胸元に戻すような動作をくり返しながら、このまじないを3回唱えるのだ。子どもが落としてしまったようなら、大人がやってあげればいい。
・7つのうちひとつぐらい落ちてしまうことは、日常でもままあるようだが、事故など命にかかわるような衝撃を受けた場合、マブイが一度に複数脱落してしまうといわれている。こうなるとまじない言葉だけではすまされず、交通事故現場などではユタにおる「マブイ拾いの儀式」を見かけることがある。祈祷の専門職に頼んで、落ちてしまったマブイの数々を拾い上げてもらい、本人に戻すという儀式だ。
<土地――これもまた生き物である>
・沖縄には「人が住めない土地」と噂される場所がいたるところにある。こうした噂には「あの世のものが我が物顔で彷徨っている」という話が付きものだ。それは地上戦という不幸な歴史を背負った島であることが一因だろう。我が家も激戦地から至近距離にあるが、酔いざましにと丑三つ時に歩いて帰っても、恐ろしいものに遭遇したことはない。
では、「人が住めない土地」とはどういうところだろう。
昔から沖縄では、墓地や火事の跡地に家を建てると繁盛すると伝えられる。年配者に聞いた話だが、墓地の住人は元人間だから、話のつけようでは立ち退いてもらえるし、なかには家族が増える感覚でにぎわうことを喜んでくれることもあるという。火事の跡地はすべての厄も焼き尽くされている、つまり厄の「更地」状態であることから、縁起のいい土地になるのだそうだ。
・沖縄で人が住めない土地といえば、聖地の「御嶽(ウタキ)」である。人はどんなに逆立ちしても、神様に勝てない。神々がいらっしゃる御嶽は、地の底まで神のものであるといわれる。どんなに立ち退きを祈願しても、いつかどんでん返しがあるので、神の地は触らない。「触らぬ神に祟りなし」の言葉通りである。
沖縄では、「土地は生き物である」とみられている。初めから意気投合する土地もあれば、反発し合う土地もある。たとえば、都市生活に慣れた人が憧れだけで田舎暮らしを始めたとしよう。住んでみてわかるその不便さに、愚痴が多くなり、その土地がキライになることだってあるだろう。そうなると土地のほうも黙ってはいられず、追い出しにかかる。これも、「見えない世界と人間界の包括的生活困難区域」誕生の一因である。
・この関係を知っていた沖縄の先人は、年に3回、旧正月明け・お盆の後、年の終わりに土地神に供物を捧げ、日々の感謝をし、周囲との和を祈願する。手を合せることで、平和に住む家があることのありがたさが再認識できるのだ。
<サーダカ――失われつつある力>
・沖縄には「サーダカ」と呼ばれる人たちがいる。「サー」は霊力、「ダカ」は高いという意味。つまり、「霊的能力が高い人」と解されている。
サーダカにもいろいろランクがあるようで、「正夢をよく見る」といった多数派から、「視えないものと対話できる」「迷える人を助けるために、いつでもどこでも神様と交信できる」という少数派まで、さまざまだ。
サーダカと呼ばれる人によると、死者(元人間)は生きていた時と同じ性格で、死んだからといって仏のように悟るわけではないとか。不平不満もあれば、焼きもちもやく。サーダカたちはその愚痴の聞き役になり、時には辟易させられるとボヤく、なかには表現がヘタな元人間もいて、置かれている苦境を示すために、あえて血みどろな姿で、いかにも「幽霊でござい」といった演出で登場することもあるそうだが、サーダカの人によると、「いちいちその姿におののくようではナメられるだけなので、強気で対峙するのがいちばん」だという。
・一方、神様とのやり取りがあるサーダカの人によれば、神々は語れる時も神々しく、ほどよい光を放ちながら、よい香りを漂わせているという。話す声はかの高貴な御一族の記者会見のような楚々としたトーンで、内容も上品でわかりやすく説明してくれるそうだ。
こうしたサーダカなる体質は突然に起こることもあるが、遺伝的要素も大きいらしい。この科学万能主義の時代に、「サーダカ」というものをどう理解したものか、考えてみた。
これは人間が本来持っていた能力であり、防衛本能なのではないだろうか。人間も自然界の一生き物でしかない。太古の先祖は自然を「神」と置き換え、荒れ狂う神々を畏れ、豊穣をもたらす神々に感謝し敬い、そして神々の声に耳を傾けてきた。太古の時代、こうした意識や力がなければ、ちっぽけな人間はその種を守り存続していくことなどできなかっただろう。つまり、自然=神の声に反応する研ぎ澄まされたアンテナは必要不可欠だったのである。
文明の発展とともに、人はこの能力を手放していくことになる。ところが、一部に、その原始的ともいえる能力を残した人たちがいた。それが「サーダカ」といわれる人たちなのではないだろうか。
<大日本帝国陸軍少尉タカミネ君からの伝言>
・家事をひと通り終えた午後は、主婦の至福の時である。その日も、子どもたちに見つからないようこっそりと隠してあった新作スナック菓子を取り出し、テレビの前のソファに陣取った。チャンネルをお昼の情報番組に合わせて、ひとつ、ふたつと頬張る。「お茶でも入れようかな」と思っていたはずなのだが、立ち上がる気力が萎えるほどの急激な眠気に襲われた。
そこからの記憶が途切れている。気がつけば、アタシはスナックの包装紙をとっ散らかしたまま、ソファにゴロンと横になっていた。
寝てた?どのくらい? いや、横になって間もないと思う。でも、目が開かない。ふと、アタシに呼びかける声がする。
「突然の訪問で至極恐縮であります」
沖縄ではあまり聞くことのない滑るようなイントネーションの日本語だ。しかも、ちょっと古めかしい。ぼんやりとした頭で、「ああ、さきの番組が終わって、昼ドラになったのか」と思っていたら、その声が返事をした。「いえ、演劇ではありません。大日本帝国陸軍少尉、タカミネ・ケンイチであります」
<本書では「グソー」を共通語で「あの世」と訳した。>
・本書では「グソー」を共通語で「あの世」と訳した。だが、ウチナーグチ(沖縄言葉)をそっくりそのまま共通語訳するのはなかなか難しい。機微をいえば、沖縄におけるグソーは「あの世」と表現するほど隔たった遠いところではない。これが正直な感覚だ。
では、そのグソー・ライフとはいったいどういったものか。
噂によれば、グソーンチュになってもスケベなおじぃはスケベであり、強欲おばぁはお金の計算ばかりしているという。つまり、生前のまま、ということだそうだ。
そんな生々しいグソーンチュの話を耳にするにつけ、しみじみ思うことがある。死は終わりではない。
グソー・ライフが表すのは、生前どのように生きてきたか、つまりその人の「生きざま」なのである。
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