鞍馬寺の説明では、僧正坊は「護法魔王尊」と呼ばれ、650万年前に金星から人類救済のためにやってきた「サナートクマラ」の仮の姿だとしている。(3)
<若尾五雄「河童の荒魂」1972~1975年>
・河童の属性のひとつである「尻子玉を抜かれる」ことを水死した状態であるとし、水死するような川の淵は渦を巻いていることから、渦巻きは河童の荒魂であり、河童は渦巻きの和魂であるとしている。そして渦巻きは水流が交叉して回転することから「河童は<交>である」というテーゼを引き出し、河童のあらゆる属性をこのテーゼにしたがって読み解く。のちの河童研究において議論されることになる河童と建築・土木事業との関係や、「河原者」との関係についてふれている部分もあり、この点では先駆的だったといえる。
<小松和彦「河童――イメージの形成――」1987年>
・現在のような河童のイメージが近世に形成された歴史的過程について考察している論文である。後の研究にとって重要なのは、農民とは異なる生業を営み、賤視・差別されていた「川の民」「非人」「河原者」の役割に着目したことであろう。大工が仕事を手伝わせるために作った人形を川に捨てたところ河童になったという河童の人形起原譚と、近世の資料である「小林新助芝居公事扣」の記述にある「非人」の起原譚が非常に似ていること、「川の民」「河原者」に対する当時のゆがんだイメージに関連する諸属性が河童にも見られる。これらのことから、賤視された人々のイメージが核となり、カワウソやスッポン・猿などの動物のイメージが付与されて、河童のイメージが形成されたのではないかと推測している。
<神野善治「木子としての傀儡子」1991年>
・神野による先の「建築儀礼と人形」と同様、河童を主題として考察した論文ではなく、木の人形である「傀儡」について論じたものである。全体の構成としては全国各地の人形芸能を紹介しながら傀儡について考察し、その一部として河童の人形起原譚についてふれている。
奈良時代末には、人形は「ひとがた」と呼ばれ一般的に進行儀礼に用いられて、それには木製の人形も含まれていた。それにもかかわらず「木の人形」が「クグツ」と呼ばれて区別されていることに注目し、「クグツ」とは生きた人間のように動く「木の人形」のことであり、やがて人形遣いも「クグツ」と呼ばれるようになったのではないかとしている。さらに「木の人形」を操る人形遣いは特殊な能力をもっており、息を吹き込んで魂を与えることができると考えられていたのではないかと推定している。
その上で河童について論じられており、河童起原譚と河原者起原譚が同型であることが認められ、これらの説話が源を同じくするものである可能性を認めるにしても、だからといって小松が主張するような「河原者」の実像が河童のイメージの根源になったとする三段論法は誤りではないかと批判している。
<中村禎里「河童の誕生その他」1991~92年>
・古代において信仰され、また畏怖の対象にもなった「わに」の系譜に河童を位置づけて、歴史的な資料にもとづき、その変遷を考察している。論述は多岐にわたるが、大筋において「零落」もしくは「衰退」のあとをたどっている論文だといえるだろう。
<小馬徹「河童相撲考――『歴史民俗資科学』のエチュード――」1996年>
・それまでの河童人形起原譚に批判的検討を加えた上で、小馬は河童が相撲を好む属性を考察する。古代において陸墓を増築し埴輪を製作した土師氏が始祖神とするノミノスクネは日本神話において初めて相撲をとった神でもあること、そして渋江氏が祖先とする橘島田麻呂(島田丸)が春日神社を造営した際に内匠頭某に人形を使役させ、造営ののちに人形を川に捨てたところ河童になったことから、渋江氏がノミノスクネ神話をもとにして島田麻呂神話をつくり、そのために河童が相撲を好むとされたのではないかと論じている。
<毛利龍一「河童をヒヤウスベと謂うこと」1914年>
・著者は、河童の主である渋江氏を祀る佐賀県の潮見神社の神職であり、神社にまつわる河童の話が報告されている。
<小池直太郎「河童資料断片」1927年>
・その内容は長野県を中心として集めた河童に関する話の聞き書きである。
<中田千畝「河童の妙薬」1928年>
・河童に膏薬や傷薬などの病気の薬・骨接ぎの方法を教えてもらったという話は実に多い。本報告において、中田が埼玉県の熊谷で実際に聞いた河童から傷薬を教えてもらった話を記述し、さらに筑前博多の接骨医の話三篇を紹介している。また、文末には河童に関する江戸時代からの文献があげられている。
<金久正「ケンモン(奄美大島)」 1943年>
・河童に似た妖怪である奄美大島のケンモンの属性と体験談の報告である。
<丸山学「肥後葦北のヤマワロ」1950年>
・本報告は、丸山が昭和24年12月から翌25年1月にかけて、当時の熊本県葦北郡の佐敷町・湯浦町・津奈木町での調査で得たものである。「一切私見を加えず、聞いたままを整理して記載」したものであり、ヤマワロのさまざまな属性が紹介されている。
<楳垣実「河童考」1959年>
・「川殿」の項にある<河童の異名は元来忌み言葉だった>という仮説にしたが、忌み言葉以前の河童の本名を全国各地の「河童」に該当する妖怪の呼び名から探ろうとしている。
・本書では民俗学において「河童」と名づけられていた妖怪が、実際にはさまざまな名称をもっていたことを示す資料として収録した。
<矢口裕康「日向の河童伝承――伝承存在と意識――」1981年>
・宮崎県域の昔話集・伝説集、および宮崎県諸塚村における河童の話を整理し、さらに矢口自身が調査で得た河童の話を報告している。そして収集・整理した資料を分析することによって、河童に対する意識は零落したと述べている。
<河童 解説 小松和彦>
<「河童」とはなにか――近世に発見された「河童」>
・「河童」は、数ある妖怪のなかでももっともよく知られた妖怪である。最初は恐怖を抱いていた人びとも、それが架空の生き物であったことがわかると、グロテスクでありながらひょうきんさを帯びた顔かたちに親しみを覚え、自分たちのさまざまな思いを託す手段にさえしてしまった、あの「河童」である。しかし、「河童」とは何者だったのか。改めて問い直すと、わたしたちはほとんど何も知らないことに気づくのではなかろうか。
「河童」は、川の淵や沼などの水辺に出没し、人間や家畜にさまざまな怪異をもたらすと信じられてきた「生き物」である。
・「河童」という語は現在では全国に知られる語である。だが、以前は地方によって呼称が異なっており、カッパは関東から東北にかけての地方の人びとの間に流布していた語であった。それがやがて共通語になり、さらに民俗学でもそれに従って学術用語として用いるようになったのである。
民俗学者の報告に従って「河童」伝承を整理した石川純一郎によれば、河童の地域語(方言)は、おおざっぱにいえば、青森地方がミズチ系、関東から東北にかけての広い地域がカッパ系、長野・愛知地方がカワランベ系、佐渡や能登半島がカワウソ系、奈良・和歌山地方がガタロー系、四国から広島・山口地方がエンコー系、九州の大分地方でドチ系、宮崎地方ではヒョウスベ系、熊本から鹿児島にかけての地方ではカワワラワ(ガワッパ)系、奄美地方ではケンモン系である。
・たしかに民俗学者たちは「河童」という総称の普及には貢献した。しかし、「河童」を発見し「河童」という総称を創り上げ、その研究に本格的に取り組んだのは、近世の江戸を中心とする知識人たちであった。とくに本草学者(博物学者)がとりわけ熱心に「河童」研究をおこなっていた。自分たちが作る事典に入れるべきかどうかが大問題だったからである。
・そこで、文献調査と聞き書き調査などをおこなって「河童」に関する情報を収集することになった。そして分析・考察を重ねた結果、たしかなことはまだわからないが、と断わりつつ、本草学者たちは、とりあえず「河童」が実在する動物らしいと考えたようである。そして、それは、中国の「水虎」と呼ばれる動物にほぼ相当するとした。つまり、簡単にいうと、中国名「水虎」、和名「河童」、地方による異名多し、というように分類・記述されたわけである。
これから百年ほど後の江戸後期、日本の本草集成として記述された、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1802年)には、その後情報がたくさん収集されたことを反映して、きわめて詳細な記述がなされている。
・江戸の知識人のあいだでは、「河童」は口頭伝承から文字表象と絵画表象になっていった。このような作業を通じて、わたしたちが思い浮かべることができる河童の性格とその姿かたちが、幕末までにほぼ完成をみたのであった。
ところが、近代に入ると、「河童」は、画家や小説家などが描く想像世界のなかに活動の舞台を移していくことになるわけである。
<「河童」の民俗学的研究>
・ところで、近代になって、この「河童」を再び学問の対象として見出した人がいた。柳田國男である。柳田國男は『山島民譚集』(1914年)のなかで「河童駒引」と題する一章を設けて「河童」について論じた。もちろん、実在の動物かどうかを吟味するのではなく、伝説上の生き物、つまり幻想動物としてである。柳田は近世の文献を博捜しながらその諸特徴を分析し、その河童伝承の本質を明らかにしようとした。すなわち、柳田がおこなったのは、本草学者が集大成した河童の性格を、逆に「河童家伝の妙薬」「馬を水中に引く河童」「河童の詫び証文」「河童の異名」等々に腑分けしながら、柳田なりの解釈をおこなったことにある。いったい、いかなる理由で、近世に全国各地に、「河童」のような幻想動物が発生したのか。その謎を解こうとしたのだ。
・こうして、近代の河童研究が民俗学によって開始された。だが、柳田の弟子たちは、主に河童に関するデータを民俗社会から収集することに力を注いだ。本館にもそうした調査報告のいくつかを収録してみた。かれらが柳田が提出した「河童駒引」の解釈を妥当なものと受け止め、それを疑うことをせずに、むしろそれを補強するようなデータを集めようとした。報告者が解釈を加えることがあった場合でも、河童=水神零落説にそった解釈がほとんどであった。
・ところが、民俗学者が民俗社会から「河童」伝承を採集していたとき、
隣接の民族学の側から、柳田國男の「河童駒引」の研究に刺激され、いわば柳田の仮説すなわち水神零落説をユーラシア大陸の文化史に視野を拡げて探るという研究が現れた。
・ところで、「河童」信仰(民俗学では「俗信」)の原型としての「水神」信仰を想定し、「水神」信仰から、「河童」伝承を説明しようという、いささか迫力を欠いた民俗学的研究が多いなかでも、いくつか注目すべき研究が存在している。
<「河童」研究の新しい展開>
・1974年に「河童」の民俗誌的データのダイジェスト版集成ともいえる、石川純一郎の『河童の世界』が刊行されて以降、民俗学では、ときおり調査報告はあるものの、研究という言葉に値するような論文はほとんど現れなかった。
・こうした、いわば広い意味での河童ファンによる河童論の流行は、昨今の妖怪ブームや「闇」の文化史への関心の高まりと無縁ではない。もっとも、こうした河童論は示唆に富んだ大胆な仮説も随所に見られ、興味をそそるものがあるが、従来の河童研究を実証的な手続きをふんで更新するといったものではない。
・次の第二章で、「河童の行動」のパターンが検討される。すなわち、近世初期(17世紀)の第一段階の「河童」の特徴を、文献資料によりながら析出する。
(1) 人を手中に引き入れるという特徴をもつが、これは中世のヘビや近世同時代のスッポンなどの行為を反復しているにすぎないが、河童に生息地が川の淵・用水・堀などに特定される傾向があるという特徴をもつ。
(2) 河童は人だけでなく馬にも執着する。
(3) 人に捕らえられると謝罪するどころか祟るという性格をもつ。
(4) 河童が人に相撲を挑む現象、および人に憑く現象は、この時期に始まったらしい。
(5) この時期の河童の行動には、人への攻撃と人の反撃、河童の敗北と帰順といった民間伝承にみられる定型パターンはまだ現れていない。
(6) 人に捕らえられると謝罪と赦免、その返礼としての魚類の贈与、という特徴が現れる。
(7) この時期に、女性とセックスするという特徴も現れる。
・次いで、18世紀前半の第二段階での、以下の特徴が現れる。
(8) 河童が手を切られる。
(9) 手を返して貰う見返りに、手継ぎの秘伝を人に伝授する。
・そして第三章では、18世紀末からの第四段階の、中村が「先祖がえり」と評した新しい特徴が加わることになる。
(10) いくつかの地域で、これまではどちらかといえば忌避すべき水の精霊=妖怪であった河童が祭祀の対象になる。
(11) 九州地方では、山童との季節的変換つまり山と里の去来伝承がうまれる。
(12) さらにまた、この時期に、河童が海に出没するという伝承が現れるようになる。
(13) この結果、水神関連の伝承たとえば、「竜宮童子」系の昔話とも連絡するようになる。
このような分析に従うならば、河童伝承は、近世に生まれ、その特徴を次第に増やし、その活動領域を拡張していったということになるだろう。
『関西弁で読む遠野物語』
読んでいるっていうより聴いている感じ。ええ感じ。ええ感じの『遠野物語』
柳田国男(著) 畑中章宏(著、翻訳)
エクスナレッジ 2020/4/1
<岩手県遠野市出身の佐々木喜善(鏡石)から聞き書きした話>
・『遠野物語』には、妖怪や亡霊が登場し、さまざまな怪異現象が記録されています。こうした現実離れした話の数々を、柳田は「目前の出来事」、「現在の事実」だと主張し、近代的知性や合理的思考では計り知れない世界を世に知らしめようとしました。「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という有名な言葉には、柳田の発見と驚きと反響への期待が示されているのです。
(当ブログ註;本文修正)
<地勢>
<1話 遠野は大昔、湖だった ⁉>
<5話 山男山女を避けて回り道>
・遠野郷から三陸海岸の田ノ浜、吉利吉里の方に超えるんやったら、昔から笛吹峠の山道があります。山口村から六角牛の方へ入っていくさかい、だいぶん近道やねんけど、最近この峠を越えようとしたら、山の中で必ず山男や山女に出くわしまんねん。
そんなんやさかい、みんなが怖がってしもて、人通りがだんだん少なくなってきて、境木峠とゆう方にべつの道を開いてん。和山を馬次場にして、二里以上も回り道やのに、みんなこっちばっかし超えるようになってしもてます。
<98話 石塔の多く立つところ>
<神の始 いちばんええ山もろたんは、何番目の姫神?>
<2話 姉神が寝ているすきに、妹が……>
【解説】
・遠野三山のそれぞれを、三人の姫神のだれが領有するか。母神の名は明らかにされてないが、さぞかし気高い神なのでしょう。
早池峰山は山地の最高峰で「日本百名山」のひとつ。北麓の集落に伝わる「早池峰神楽」でもよく知られています。
<カクラサマ 子どもと遊ぶのが大好きな里の神様>
<72話 遊びを止めたら祟られる>
<73話 信仰されていない神>
<74話 神名は地名に由来する>
【解説】
・題目では大きなくくりで「星の神」として98話だけが取り上げられ、「カクラサマ」と「ゴンゲサマ」は、それ以外の星の神の話として分類されています。
カクラサマの「カクラ」は漢字で、神楽・角羅・賀久羅・神楽・神座などと記され、遠野ではかつて堂宇の中に祀られていたようですが、信仰や祭祀の詳細はわからないようです。
カクラサマは子ども好きの神様だとされます。子どもが神仏と遊ぶのをとがめたため祟りにあったという話は、『遠野物語拾遺』の51話や52話にもみられ、前者では馬頭観音、後者では阿修羅が登場します。
<ゴンゲサマ 火伏の神様は、片方の耳がない>
<110話>
・「ゴンゲサマ」ゆんは、神楽舞の組ごとに一つずつ備わってる、木でできたお像のことで、獅子頭によう似てるねんけどちょっと違てます。せやけど、なかなかご利益のあるものなんやていいます。
【解説】
・「ゴンゲサマ」は権現様のことで、「権現」というのは仏・菩薩が衆生を救うために仮(権)の姿をとって現れること、また現れた姿を言います。
遠野を含めた南部領では、神意を獅子頭に移したものを権現様と呼びますが、柳田は獅子頭とは「よく似て少しく異なれり」と書いています。遠野の権現様は「火伏せ」に霊験があるとされていますが、各地では愛宕権現、秋葉権現などの権現が火伏せの神として信仰されました。
『遠野物語拾遺』にも新張八幡の権現が喧嘩して片耳を失う話があり、そこでは本編110話とはまた別の権現様が片耳を喰い切られています。柳田国男は『一目小僧その他』(1934)所収の論考などで、動物の片耳、片目片足などについて、かつての供儀との関連性を示唆しています。
<オクナイサマ お祀りしたら幸せになる神様>
<14話 神様の顔に白粉を塗る風習>
<15話 神様は泥にまみれて田植えを手伝う>
<16話 コンセ様とオコサマ様>
<70話 木像や掛け軸でお祀りする>
【解説】
・題目「家の神」にはコンセサマを取り上げた16話が収められ、さらに「オクナイサマ」、「オシラサマ」、「ザシキワラシ」が小項目として立っています。ここでは「オクナイサマ」に入る三篇と、「家の神」の16話を収めました。
オクナイサマは「屋内様」や「御宮内様」と記される、まさに屋内の神です。「オコナイサマ」とも呼ばれ、次項のオシラサマと同様に、桑の木でつくり衣装をかぶせた木像のほか、掛け軸を信仰する場合があるようです。陰陽ひと組なところもオシラサマと似ていますが、田植えを手伝うことで人を幸せにするなど、農業神の性格が強いのかもしれません。
なお16話のコンセサマは「金精様」、オコマサマは「お駒様」で、五穀豊穣や安産を祈願する性神と考えられます。
<オシラサマ 結ばれた娘と馬は、死んで神様に祀られた>
<69話 桑の木をめぐる悲恋と信仰>
【解説】
・馬娘婚姻譚として知られ、桑の木に因むことから養蚕業にかかわると思われるオシラサマの話です。オシラサマ(オシラ様・おしら様・お白様)は。東北を中心に東日本の広い地域で信仰され、「オシンメ様」「オシンメイ様」(福島県)、「オコナイ様」(山形県)などとも呼ばれます。
佐々木喜善の『聴耳草紙』にはこの69話の後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、蚕を桑の葉で飼うことを教え、絹糸を産ませて、それが養蚕の由来になったとあります。このようにオシラサマは養蚕の神として知られていますが、農業の神、馬の神などともされていて、地域により祈願の目的がさまざまなのです。
<ザシキワラシ “気配”がしたら、金も地位も思いのまんま>
<17話 こどものすがたをした神さん>
<18話 幸福も連れて去っていく>
【解説】
・ここには二種類のザシキワラシが登場します。ひとつめは、家の中のどこかに住みつき、物音や気配はするものの姿は見えません。しかし、この“神”がいると、金も地位も思いのままだと言います。ふたつめは二人の少女で、彼女たちが家を出て行くと、その家は没落してしまいます。二種類とも富貴を左右する“小さな神”として描かれているのです。
なお、東北地方に伝わるザシキワラシの性格としては、枕返しをはじめとしたいたずらが強調される場合もあります。また、遊んでいる子どもたちの数をかぞえると、実際の人数より一人多く、それがザシキワラシだといわれます。
佐々木喜善は岩手県内で、「ザシキワラシと河童は同じものだ」という証言を採集し、喜善と親交のあった宮沢賢治も、童話『ざしき童子のはなし』(1926年)を執筆しました。
<山の神 真っ赤な顔で輝く目をした大男の不思議>
<89話 鉢合わせに、山神も吃驚>
・和野の何某っちゅう若もんが柏崎に用事があって、夕方にお堂のあたりを通ったら、愛宕山の上から、えらい背ぇの高いやつが降りてきよったそうです。
「どこのどいつや」て、林の木超しに見えるそいつの顔目がけて近寄ったら、道の角でばったち出くわしてもてん。そしたら思いもせんかったせいやろ、むこうのほうが滅茶苦茶吃驚しておる。そのこっちを見た顔はえらい赤うて、眼もぎらぎらして、ほんまにたまげた顔や。
何某は、それが「山の神」やてわかったもんやさかい、後も見んと、柏崎の村まで走り着いたんやて。
<91話 鳥御前の災難>
<93話 山中で子どもの死を告げられる>
<107話 「河ぷちの家」の娘>
・上郷村」を流れてる早瀬川の岸に、「河ぷちのうち」て呼ばれている家があります。この家の若い娘が、ある日河原に出て石拾っとったら、見たこともない男が来て、木の葉となんかをくれよった。背が高うて、顔の赤い男やった。
その日からこの娘は、占いの術使えるようになってんけど、「そのけったいな男は山の神で、娘は山の神の子になったんや」て言われています。
<108話 人心を読む術を授けられる>
【解説】
・89話の原注に、遠野で多くの山神塔が立っている場所は、「かつて山神に逢いまたは山神の祟りを受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり」(原文)とあるように、『遠野物語』に登場する山の神は、山や森や木に宿る精霊的な存在ではないようです。リアルな身体を備えて、人に似てはいるものの、人とは違う能力をもつ「異人」というべき存在なのでしょう。
山の神のなかには108話のように特殊な能力を身に着けたものもいますが、山で修行する修験者を山の神に見立てたのかもしれません。山中で暮らすこうした異人・山人を、柳田は民俗研究の最初期には重要な課題にしていました。なお題目で「小正月の行事」と重複している102話はそちらに収めました。
<神女 言うとおりにしたら財を得、約束を破ると……>
<27話 黄金があふれ出す石臼>
<54話 秘密を守る約束のお返し>
【解説】
・約束を果たしたおかげで財産を手にする報恩・致富譚二篇で、富をもたらしたのはいずれも神秘的な女性です。27話では川渕にいた女が、昔の知り合いと出会います。柳田はこうした不可思議な女性をめぐる話を「神女」という題目に収めたのでした。
27話の原注に
「この話に似たる物語西洋にもあり、遇合にや」(原文)とありますが、イギリスには黄金を生む卵の話、また世界の各地に託された手紙を書き換える話が伝わっています。
なお27話に登場する「池の端」の家、池端家は現在も継がれていて、敷地内に石臼大明神が祀られています。
<天狗 山の中で出くわしたら、ただでは帰れぬ>
<29話 天狗が住む山に登る賭け>
<62話 鉄砲打ちの奇妙な体験>
<90話 力自慢のゆえの惨劇>
・松崎村に「天狗森」ゆう山があります。
その山の麓の桑畑で、村の若もんでなんちゃらゆうやつが仕事をしていたらえらい眠とうなってきたんやそうです。ほんで、畠の畔に腰掛けてちょっとのあいだ居眠りしようと思てたら、顔が真っ赤で、めちゃくちゃな大男が現れよってん。
【解説】
・遠野には鶏頭山や天ヶ森など、天狗が住むと恐れられた山がありました。遠野の人々は故人や、知人が天狗に遭遇した体験談から天狗の実在を固く強く信じていたのです。
日本の天狗には修験道の修行者=山伏の姿が色濃く投影しています。かつての人々は天狗の姿を、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴を持つ、あるいは山伏姿で羽根をつけ、羽団扇を持っていて自由に空を飛ぶといった姿をイメージしていました。
人が突然いなくなる「神隠し」でも、天狗にさらわれたという事例が近世以後は多くなります。国学者の平田篤胤は『仙境異聞』で、天狗にさらわれた仙童寅吉が、空中を飛んだり、異世界を見てきたりした経験を記録しました。
<山男 娘をさらったり、焼け石を食わされたりする異人>
<6話 さらわれた糠前長者の愛娘>
<7話 子どもをどこかに連れ去る怪物>
<9話 笛の名人が聞いた声>
<28話 餅だと信じて坊主が食べたのは>
<30話 高いびきをかく大男>
<31話 女の子が狙われやすい>
・遠野の里に住んでる子どもが、異人にさらわれて行ってしまうのは毎年しょっちゅうなことでした。子どものなかでも女の子のほうが、ようけさらわれたんやそうです。
<92話 風呂敷を背負って、急ぎ足で>
【解説】
・この題目に収められている話の多くは、子どもや女性が突然行方不明になる「神隠し」と呼ばれる現象です。かつては神隠しがあると鉦や太鼓を叩いて名前を呼び、捜し歩いたものだと言います。
その原因は、天狗や狐、鬼や隠し神などに隠されたものと信じられてきましたが、遠野では山男にさらわれることが多かったようです。神隠しには永遠に帰らない場合と山中で発見される場合があり、古来、異界と交渉する手段のひとつだと思われてきました。
28話で描かれた「白髪水」は、北上川流域を繰り返し襲ってきた氾濫災害伝承としてよく知られるものです。なお題目「地勢」と重複する五話はそちらに収めました。
<山女 長い髪を垂らした美女の正体は>
<3話 証拠に切った黒髪>
<4話 粗末な着物で赤子を背負う>
<34話 小屋をのぞく謎の女>
<35話 空を走るように駆ける女>
<75話 長者屋敷への出没>
【解説】
・山深く住む山女は、山姥・山姫・山女郎・山姥などとも言い、この題目に収められた話のように長い髪をもち、肌が白いといった特徴があります。また山女に出会ったものの多くは、病気などの災厄を受けるなどと言われています。
東北地方で起こる神隠しでは、女性の場合、山男に連れ去られその女房になったという言い伝えが少なくありません。女性が神隠しに遭いやすいのは、産後の肥立ちが悪いなど、精神的に不安定な時期が多いなどと言われてきました。
<姥神 異能をもった女性たち>
<65話 今も生きている貞任の母>
<71話 「隠し念仏」の信者>
【解説】
・71話で描かれる隠し念仏は、現在の岩手県を中心に青森県から福島県の一部にまで広がった秘密性を重んじた念仏集団です。江戸時代に広く行われ、西の隠れキリシタンに対して、東の隠し念仏といわれたほどでした。伝統的な浄土真宗の信仰を起源としますが、世俗化した本山の本願寺を嫌い、直接的に親鸞の教えに従おうという信仰だったようです。
<雪女 冬の満月の夜には気をつけて>
<103話 雪女が遊ぶ日>
【解説】
・雪女にかんする伝承は日本列島の各地にあり、地域によって「雪おんば」、「雪女郎」などとも呼ばれています。
青森県の西津軽地方では元旦に現れ、最初の卯の日に帰っていくという言い伝えがあり、また山姥や一本足の子どもの姿で現れるというところもあり、こうした伝承から雪女には、歳神や山の神の性格がみられます。
遠野でも小正月や満月が雪を照らす夜、多くの子どもを連れてやってくると伝えられていますが、雪女の出現は珍しかったらしく、その姿を確認したものは少なかったようです。
<川童 遠野の河童は体が赤く、女を身ごもらせる>
<55話 川べりの家では嫁が寝取られる>
<56話 捨てた河童を拾いに行けば>
<57話 河童の足跡>
<58話 姥子淵の河童の約束>
<59話 真っ赤な顔をした男の子>
【解説】
・河童(川童)は日本各地の川や池などに住み、川太郎・ガタロ・エンコウ・ヒョウスベ・メドチ・スイジン・スイコなどと呼ぶところもあります。特徴は子どもの姿で、頭の上に皿があり、髪の形はおかっぱ頭、背中には甲羅、手には水掻きといったものです。
相撲を好み、田畑を荒したり、水の中に馬を引き入れたりするかと思えば、田植えや草取りを手伝ったり、毎日魚を届けたりするかと思えば、田植えや草取りを手伝ったり、毎日魚を届けたりする河童もいます。
しかし遠野の河童は、女性の寝床に入り、子どもを身ごもらせるなど、多くの人が思い描く河童とはイメージがかけ離れています。しかも生まれてきた子どもは赤く、醜く、殺したり捨てられたりするのです。こうした河童像は、遠野地方をたびたび襲った飢饉により、子どもを死に至らしめざるを得なかった過酷な歴史が背景にあるかもしれません。
<猿の経立(ふつたち)<年取った猿は化け物になって人をおどかす>
<44話 炭焼きの小屋をのぞく不審者>
・六角牛山の峰続きに橋野っちゅう村があって、その上の山に金抗があります。
ここの鉱山に使う炭を焼いて、生計立ててるもんの中に、笛がえらい上手な人がいてます。その人がある日の昼の間、小屋で仰向けに寝転んで笛吹いていたら、小屋の入口に掛けたる垂菰(たれこも)をめくるやつがいてまんねん。びっくりしてそっち見たら、猿の経立(ふつたち)や。
あんまし怖くて起き上がったら、猿の経立(ふつたち)は向こうにゆっくり走っていきよった。
<45話 頑丈な毛並みで女をさらう>
・猿の経立(ふつたち)は人にえらい似てきて、里の女をなんべんも連れ去るようになります。
経立(ふつたち)は毛に松脂塗ったくって、その上に砂をつけとるもんやさかい、毛皮は鎧みたいで鉄砲の弾も通らへん。
<46話 鹿笛をほんとの鹿だと勘違い>
・栃内村の林崎に住んでる、いまは五十近い何某っちゅう男が、十年ほど前、六角牛に鹿撃ちに行ってオキ吹いていたら、猿の経立に出くわしたんやそうです。
猿はオキの音をほんまの鹿やと思ったみたいで、地竹を手でかきわけながら、大きい口開けて、峰の方から下りてきよる。何某は胆潰れるぐらいびっくりして、笛吹くのんやめたら、経立はそのうち道反れて、谷の方へと走っていきよった。
<47話 山から経立(ふつたち)が降りてくる>
<48話 峠で待ち受けるいたずらもの>
【解説】
・ふたつの題目、「猿の経立(ふつたち)」と「猿」(47話)をひとつにしました。経立は、動物が驚くほど長い年齢を取り、妖しい力が使えるようになったものを言います。猿の経立のほか、犬の経立、雄鶏の経立などさまざまな経立がいて、青森県の野辺地あたりでは経立のことを「へぇさん」と言い、愛知県の北設楽郡では年を経た狐や山犬、猿のことを「フッコ」と呼ぶそうです。岩手県の下閉伊郡安家村では、雌鶏の経立が、卵を食べる人間を怨み、子どもを取り殺したと言います。
遠野に現れる猿の経立は、人間の女をさらう点で、山男や天狗のような山界の異人と共通しています。
<山の霊異 夢か現か幻か、深山での出来事>
<32話 白鹿と地名由来>
<61話 白鹿と白石>
<95話 けったいな大岩>
<49話 仙人峠の落書き>
【解説】
・鹿は古くは「シシ」「カノシシ」とも呼ばれ、人々と深い関りを持ってきました。鹿皮が武具などに用いられるほか、肉、骨、角などもさまざまな用途に利用されてきたのです。
また古くから奈良の春日大社や広島県の厳島神社などでは、神使として神聖視され、害獣であるシカを捕らえて豊作を祈願することもありました。
白いシカを神聖視する伝承は中国にもあり、北海道のアイヌは、シカは神が天上でウサギ狩りをするときの猟犬で、シカの毛は真っ白で立派な角を持つと伝えています。
なお49話だけの題目「仙人堂」はこちらに入れました。
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