念仏の教えが極楽浄土への往生という死後のものであるのに対し、法華経は現世利益を中心とするのが特徴で、聖徳太子以来、偉大な仏教者、為政者、そして一般庶民にまで広く信仰されてきた。(1)

(2024/6/25)

『日蓮と法華経』  図説 ここが知りたかった!

永田美穂(監修)  青春出版社  2024/1/26

<はじめに>

・一方、日蓮・日蓮宗といえば、法華経を絶対的に重んじることで知られている。

 法華経はあらゆる仏教経典のなかでも最高の経典「諸経の王」とされ、聖徳太子以来、仏教界のみならず広く一般の人々にも受け入れられてきた。

<日蓮と法華経>

<【末法時代の光明】混沌の世にあらわれた真の教え>

●新宗教が乱立した末法時代

・いまから約八百年前、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、日本は社会全体が無常観や厭世感に覆い尽くされていた。武士の台頭とともに戦乱が相つぎ、地震や火災、飢饉、疫病などの天災地異が頻発したため、人々は身も心も疲れきっていた。

 その背景にあったのが末法思想である。末法思想とは、仏教の開祖・釈尊の涅槃を基準に教えの受け止められ方を考えた思想のこと。釈尊の死後二千年経つと「末法」の時代になるとされ、日本では平安時代末期に末法時代に入ったと考えられていた。

 当時の日本社会は、まさに末法そのもので、多くの人々がこの世に救いを見出せなくなっていたのである。

・もっとも大きな勢力となったのは、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗に代表される念仏の教えだった。すなわち「南無阿弥陀仏」と念仏を称えて来世の極楽浄土での往生を求める教えだ。栄西の臨済宗や道元の曹洞宗に代表される禅の教えも、幕府をはじめとする権力者に取り入りながら勢力を拡大していった。

●法華経信仰を説く日蓮

 そしてもうひとつ、諸宗乱立のなかで多くの人々の信仰を集めた教えがある。日蓮の説く法華経の教えだ。

 法華経とは、釈尊の大慈悲によって、人々が永遠に救われることを説いた至高の経典。念仏の教えが極楽浄土への往生という死後のものであるのに対し、法華経は現世利益を中心とするのが特徴で、聖徳太子以来、偉大な仏教者、為政者、そして一般庶民にまで広く信仰されてきた。

 日蓮は、この法華経こそが末法の世の人々を救う唯一の教えだと確信し、「南無妙法蓮華経」の題目を世に広めるべく、布教活動に邁進したのである。

<救世主の出現>

<【誕生】謎と伝説に彩られた日蓮の出自>

●安房小湊で生まれる

・日蓮は1222年2月16日、千葉県鴨川市天津小湊に生まれたとされている。

●漁民の子か、それとも武士の子か

・日蓮自身は貫名氏の出であることを少しも述べていないことから、現在では漁民の子、それも有力な漁民の家に生まれたという解釈が一般に定着している。

<【出家】「日本第一の智者」をめざし、学問・思索を開始>

●海の子から寺の子へ

・1233年、当時12歳の日蓮は海で魚を追う生活を止め、生家から10キロほど離れた清澄寺に入った。

・そして真理を求めてひたすら修行に打ち込んでいると、ある日、不思議な出来事に遭遇する。寺内の虚空堂に籠って本尊である虚空菩薩像に「日本第一の智者となし給え」と一心に祈ったところ、虚空菩薩が僧の姿で目前にあらわれ、日蓮に輝く智慧の宝珠を与えたというのだ。

●日蓮をとらえたふたつの疑問

・その後、日蓮は念仏や密教の研鑽を積み、1237年に16歳で正式に出家、「蓮長(れんちょう)」と名のった。

・ひとつは仏教に対する疑問である。当時、日本には南都六宗をはじめとする十もの宗派があり、いじれも「自分の宗派が一番正しい教えを伝えている」と主張。互いに激しい論争を繰り返していた。

・ふたつ目は国家に対する疑問である。当時、鎌倉幕府と朝廷(公家)は対立関係にあり、没落しつつあった朝廷が政権を取り戻すために、神仏の加護を頼んで幕府に戦いを挑んだ。しかし結局、朝廷は形式的には臣下である武士に大敗してしまう。

 なぜ臣下の武士が勝利し、朝廷は敗れたのか。なぜ神仏の加護を得られなかったのか。

・しかし考えても考えても、ふたつの難問はいっこう解けなかった。日蓮はもはや清澄寺にとどまっているわけにはいかず、1238年、真実の教えを探求するため鎌倉へ向かう決意をした。

<【諸国遊学】法華経の教えに出会った京畿での修行>

●念仏の教えに対する失望

・当時の鎌倉は武家政治の中心地で、経済的にも繁栄を見せていた。しかし、不穏な出来事が相ついで起きていた。

 1239年、執権・北条泰時が奇病にかかり心身錯乱状態に陥ったとの噂が広まったかと思えば、幕府を支える有力御家人たちが次々と病死、さらにその翌年には大地震に見舞われるなど、鎌倉はおおいに混乱していたのだ。

 鎌倉の仏教界は念仏や禅が主流で、名僧と呼ばれる人々もたくさんいた。だが、彼らはこれらの混乱をおさめ、人々を苦しみから救うことができずにいた。

・それでも日蓮は諦めず、真に正しい教えは何か、どの教えを信じるべきなのかという問題を塾考する。他宗派にも目を向け、多くの先達に教えを請い、仏教そのものへの探求を深めた。

 そうしたなかで強く惹かれる教えと出会った。法華経の教えである。

●法華経こそが真の教え

・鎌倉で4年の修行を終えた日蓮は1242年、21歳のときに故郷に帰り、念仏を批判した『戒体即身成仏義(かいたいそくしんじょうぶつぎ)』を著す。これが日蓮の処女作となった。執筆後、ほどなく京都に遊学。

・その結果、正しい経典にかなう宗派が正しい宗派であるとの考えに到達する。そしてさらに思索を続け、法華経こそが正しい経典であるとの確信にたどりついたのだ。

 日蓮宗の教えのなかには「南無妙法蓮華経」の題目に絶対的に帰依し、唱題(題目を唱える)を行なうことで世のなかのあらゆることを救済できると説く教えがある。この日蓮の根本思想というべき題目信仰の起源は、この京畿遊学にあったのである。

<【立教回宗】旭ヶ森で朝日に向かって唱えた十遍の題目>

●失敗に終わった最初の説法

・京畿で法華経という真の仏法を得た日蓮は、十数年に及ぶ遊学を終えて故郷の安房に帰国する。

・ところが、この説法は成功とはいえなかった。何しろ当時の仏教は念仏の教えが全国的な主流であり、日蓮の前に集まった人々もほとんどが熱心な念仏信者だった。日蓮はそのなかで念仏を痛烈に批判し、法華経への帰依を唱えたため、聴衆たちから強い反感を買ってしまったのだ。この地の地頭・東条景信もおおいに怒った。その怒りは凄まじく、日蓮の下山を待って殺害を企てるほどだった。

・しかし、花房村でも迫害にさらされる。阿弥陀堂の開眼供養で村民から説法をしてほしいと頼まれたとき、「娑婆世界(この世)では阿弥陀ではなく釈尊を信奉しなければならない」と説いたため、またしても念仏信徒が激怒、ついに花房村を追われることになってしまった。

●「日蓮」という法号の意味

・そして日蓮自身は「蓮長」から「日蓮」へと名を改めた。

・つまり日蓮という法号には、「太陽のように明るく、蓮華のように清らかに」という意味が込められていたのである。

<法難の時代>

<【辻説法】頻発する天変地異に対して日蓮が出した結論>

●鎌倉ではじめた辻説法

・この日蓮の布教方法は「辻説法」と呼ばれる。

・日蓮の門徒には、禅や念仏に飽き足らなくなっていた中間武士層がとくに多かったとされる。

●幕府に黙殺された『立正安国論』

・じつは日蓮が鎌倉に出てからの数年間、関東一帯では洪水、火災、飢饉、疫病などの天変地異が相ついでいた。とりわけ1257年8月23日の大地震は、鎌倉のほとんどの建物を崩壊させるほどの大惨事で、数万人もの死者が出た。

・『立正安国論』は「来世の浄土のみを願う誤った仏法、つまり念仏信仰を止めなければ、国家は安泰にならない」と法華信仰にもとづく国家のあり方を進言した警世の書。「日本にいずれ内乱と外寇(異国からの敵の来襲)が起こる」という予言のような内容も記されており、内容的にも文学的にも日蓮の代表作と見なされている。

<【松葉ヶ谷法難】日蓮が他宗を激しく批判した理由とは>

●「四箇格言」で他宗を徹底批判

・日蓮宗では他宗からの迫害や弾圧を「法難」と位置づけているが、日蓮は命に関わるような大きな法難を都合四回も受けている。いわゆる「四大法難」だ。

・日蓮が烈しく敵視された理由は、その布教の仕方にあったと考えられている。他宗が「摂受(しょうじゅ)」と呼ばれる寛容な布教方法をとっていたのに対し、日蓮は「折伏」と呼ばれる、他宗の欠点を徹底的に追及・排斥する布教方法とっていた。そのため他宗を敵に回し、かえって痛烈な反撃を受ける羽目となったのである。

 日蓮の他宗に対する見解は、「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」という有名な「四箇(しか)格言」からも見てとれる。

●念仏信者による草庵焼き討ち事件

・それでも日蓮は間隙を縫って庵を脱出し、裏山から下総に落ち延びて、九死に一生を得た。これが松葉ヶ谷の法難である。

<【伊豆法難】小さな岩場に置き去りにされた第二の大難>

●伊豆に残る俎岩(まないたいわ)の伝説

・時の執権・北条長時やその父の重時も、日蓮の言動を快く思わなかった。そこで1261年5月12日、彼らが中心となって日蓮を逮捕し、罪状認否も許さずに伊豆への流罪を申し渡した。

・俎岩は干潮時には水上に顔をのぞかせるが、満潮になると水没する。つまり、護送役人は日蓮を水死させようともくろんでいたことになる。

 俎岩にただひとり取り残された日蓮は、あわや水没という危機に見舞われた。しかし、伊東川奈の漁師・船守弥三郎に助けられ命拾いをした。

●地頭の病を癒し、立像仏を献じられる

・「病気治癒」の伝説もよく知られている。

<【小松原法難】殉教者を生み自らも負傷した第三の大難>

●12年ぶりに踏んだ郷里の土

●東条景信の日蓮襲撃計画

・日蓮は左手を打ち折られ、眉間に深手を負った。それでも、夕闇が忍び寄る時間帯だったことが幸いしたのか、日蓮はどうにか逃げ延びて蓮華寺まで戻った。これが、三つ目の法難に数えられる「小松原法難」である。

<【龍の口法難】謎の光が日蓮を斬首の危機から救う>

●日本を属国にしようともくろむ蒙古の恐怖

・さらに1271年夏には、幕府立ち合いのもとで律宗の僧・忍性との雨乞いの祈禱合戦を行ない、見事に勝利した。

●龍の口で起こった奇跡

・四度目の法難は1271年9月、日蓮50歳のときに起こった。

 9月12日、松葉ヶ谷にいた日蓮は幕府の役人たちの来襲を受け、あっさり逮捕された。

・午前2時、首の座に座らされた日蓮に向けて、処刑の役人が刀を振り上げた。誰しもこれまでかと思ったが、まさにそのとき奇跡が起こる。江の島の上空に光が走り、あたりが不思議な光に覆われたのだ。刑場は混乱のるつぼと化し、もはや処刑どころではなくなってしまった。

 

・結局、処刑は沙汰やみとなり、日蓮は佐渡への流罪ですまされた。

<闘争の終焉>

<【佐渡流罪】法華経への信心を深めた第二の流刑地での日々>

●死と隣り合わせの悪環境

●『開目抄』と『観心本尊抄』を執筆

・『開目抄』のなかで「法華経こそが人々を救済する道だ」と改めて主張した。

 さらに1273年4月には『観心本尊抄』を完成させ、「法華経の題目に釈尊の修行と功徳のすべてが集約されており、それを受け取ることで仏の世界が実現される」と信者たちに説いたのである。

<【身延隠棲】予言をしりぞけられ、失意のうちに山林へ>

●幕府への三度目の諌暁(かんぎょう)

・そして何度か問答が繰り返されたあと、頼綱は「蒙古の襲来はいつ頃だろうか」と核心に切り込む。日蓮はそれに答えて、「今年中には襲来するでしょう」ときっぱり予言した。この日蓮の答えは幕府の見解と一致していたため、頼綱は驚いた。

●身延山での厳しい生活

・現在、身延山には日蓮宗の総本山・久遠寺が建っているが、「棲神の地」という呼称からもわかるように、この地にはいまも日蓮の魂が息づいている。

<【蒙古襲来】二度にわたる蒙古軍の侵攻と日蓮の予言の結末>

●迫りくる亡国の危機

・身延山に入って約5カ月後の1274年10月、日蓮の予言が的中した。蒙古が本当に襲撃をかけてきたのである。3万数千の蒙古軍は、たちまち対馬と壱岐を攻め滅ぼし、10月20日に博多湾に上陸した。あらかじめ襲来に備えていた日本側も懸命に応戦したが、じりじりと追い詰められ、内陸部の大宰府付近まで後退を強いられた。

 日本側が劣勢に陥った要因のひとつは、蒙古軍の戦法にあるといわれている。

・また、日本軍は蒙古軍の武器にも圧倒された。蒙古軍は日本製の約2倍の射程距離を誇る弓矢をもちい、「てつはう」と呼ばれる火薬の詰まったソフトボール大の小型爆弾まで使った。てつはうは轟音と閃光を放つだけで殺傷能力はなかったが、まだ火薬を知らない日本側はおおいに驚かされた。異質な外国の軍隊との戦いに日本は防戦一方、攻勢に出られる要素は見当たらない。その命運はもはや風前の灯となった。

・ところが、この文永の役はあっけない幕切れを迎える。10月20日の夕刻、蒙古軍の船団が海上から忽然と消えてしまったのだ。一般には嵐によって壊滅したとされているが、その痕跡は見つかっておらず、現在は軍内部の統制不足に原因を求める声が高まっている。

 ただし、これで蒙古の脅威が去ったわけではなかった。1281年、ふたたび蒙古の大軍が襲来する。弘安の役である。5月の対馬侵攻を皮切りに、7月には14万の蒙古の軍勢が博多湾に会した。そして7月30日夜、蒙古軍は明日の総攻撃を控えて肥前沖に終結した。だが、またしても嵐に襲われ、船団は一夜のうちに壊滅状態に陥った。

<法華経とは何か>

<【法華経の成り立ち】釈尊の真意を説く経典の成立過程>

●大乗仏教と上座部仏教のちがい

・どんな宗教にも、教えが書き記された経典が存在する。キリスト教における『聖書』やイスラム教における『コーラン』などがそれに該当し、仏教には「八万四千の法門」と呼ばれるほど膨大な数の仏教経典がある。

・しかしながら、これらの仏典は釈尊が自分自身で直接書かれたわけではない。釈尊の弟子や後世の僧たちによって少しずつ書きまとめられてきた。

釈尊の入滅後、教団の統一見解はしばらくのあいだ文字で記されなかったが、仏滅から二百年ほど経つと、文字に書かれた原始仏典があらわれはじめ、紀元前後には釈尊の教えを継承し発展させた大乗仏教の経典が成立した。

・これに対し、戒律を厳格に守り、出家して修行を積むことによってのみ悟りに到達できると説く教えを上座部仏教という。

・そして千年以上にわたって、大乗、上座部それぞれの教えにもとづいた、著しい数の多様な仏典がつくられ続けたのである。

●法華経は「諸経の王」

・大乗仏教の経典には大般若経、華厳経、大日経、浄土三部経などがあるが、日蓮宗の根本経典である法華経も代表的な大乗経典のひとつだ。大乗の立場から小乗の救いを説いており、古今東西あらゆる人々に尊ばれてきたため、「諸経の王」とも呼ばれる。

・中国への伝播において、もっとも大きな貢献をしたのは仏典翻訳家の鳩摩羅什(くまらじゅう)だ。現存する漢訳された法華経は三つあるが、406年に彼が訳出した「妙法蓮華経」が日本などに流布し、今日に至るまで生きた信仰の聖典となっている。

<【全体構成】全28章、2門6段にわかれる法華経の構成>

●仏教徒の心を象徴する白蓮華

・法華経は古代インドで成立した経典なので、サンスクリット語の原典がある。

・すなわち法華経という名前は、「白蓮華にたとえられる正しい教え(妙法)を説く経典」を意味しているのである。

<【三大思想】法華経が説くもっとも重要な三つの教え>

●一乗と三乗ではどちらが真実か

・法華経がもっとも強調しているのは、人はみな釈尊の大慈悲によって永遠に救済されるということだ。誰しもその身そのままの姿で仏になれる可能性を持っていると信じ、世のなかのすべてを肯定することが大切で、自分は救えなくとも他人を救えと説いている。そして、この教えの根本には一乗妙法(いちじょうみょうほう)・久遠の本仏(くおんのほんぶつ)・菩薩行道(ぼさつぎょうどう)という法華経の三大思想がある。

 まず一乗妙法は、法華経前半部の迹門(しゃくもん)で説かれている教えであり、すべての人々が平等に成仏できると説く。

 法華経以前の教えでは、釈尊によって三つの悟りが説かれてきた。つまり、仏弟子として仏の教えに従って悟る声聞乗、自分で縁起の真理を悟る縁覚乗、菩薩として実践的に悟る菩薩乗の三乗だ。

・従来、この三乗は互いに相いれないものとされてきた。しかし、法華経は一乗の教えこそが真実という立場をとる。声聞や縁覚については人々を宗教的に成長させるための方便(仮の教え)でしかなく、三乗の区別はそもそも存在しないというのだ。

●仏は永遠の真理である

・次に久遠の本仏は、法華経後半部の本門で説かれている。

・仏を永遠の存在として捉えなおそうとする大乗仏教は、太陽のようにあまねく光り輝く毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)や、極楽浄土で無量の寿命をもつ阿弥陀仏などを生み出したが、法華経で説かれる久遠の本仏(釈尊)は、まさにこの世で永遠に生きる仏なのである。

・日蓮は法華経を広めることこそ唯一無上の菩薩行だと堅く信じ、修行に打ち込んだとされている。

<【法華七喩】難解な教えを平易に示す七つのたとえ話>

・法華経の特徴とひとつとして、譬喩の多さが挙げられる。それぞれが文学作品といえるような、優れたたとえ話が多用されているのである。なかでも「法華七喩(ほっけしちゆ)」と呼ばれる七話がよく知られている。

三車火宅の喩(さんしゃかたくのゆ)――火事で家が火に包まれていることに気づかない子どもたちに対し、父である長者が「羊車と鹿車と牛車が外にあるから出てきなさい」と告げる。すると子どもたちはみな外に出てきて助かり、大きくて立派な白い牛車をもらい受けた――燃えさかる火宅はこの世を、長者は仏、子どもたちは衆生を、羊車・鹿車・牛車は声聞・縁覚・菩薩の三乗を、そして大きな白い牛車は法華経の一乗思想をそれぞれあらわしている。

長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩――じつの親子と知らない息子に、父である長者が徐々に難しい仕事をおぼえさせ、最後に父であることを打ち明けて財産を相続させる――父は仏、息子は衆生のたとえで、衆生が財産(仏の智慧)により段階的に教化されていく様子を示している。

良医治子(ろういじし)の喩――毒を飲んで苦しむ子どもたちに、父である良医が薬を与えるが、子どもたちは薬を飲もうとしない。そこで父は、自身が他国で死んだと子どもたちに嘘の報せを送る。悲しみから本心を取り戻した子どもたちは、薬を飲み病から回復する――父(仏)の死(方便)によって、子どもたち(衆生)が目覚めたことをしめしている。

 これら三つの話は、どれも仏の衆生に対する慈悲を父と子の情愛にたとえたものだ。そのほか、雨(仏)は大地を平等に潤すが、植物(衆生)はその種類ごとに成長すると説く「三草二木の喩」、過酷な旅のなかで指導者(仏)が住者に幻の都市(方便)を見せて励まし、旅を続けさせる「化城宝処(けじょうほうしょ)の喩」、酔いつぶれた親友の衣の裏に宝珠(ほうじゅ)を縫いつけ、再会したときに宝珠のことを打ちあける「衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩」、戦勝の功績をたくさん与える王でも、髻(もとどり)のなかの宝石(法華経)だけは与えなかったという「髻中明珠(けいちゅうみょうじゅ)の喩」が法華七喩に含まれる。

 それぞれたとえの内容は異なるが、仏のおおいなる慈悲を説いている点は変わらない。

<【法華文学・美術】法華信仰を顕在化した至高の芸術品>

・仏教経典にまつわる文学や美術作品はいくつもあるが、法華経を題材にしたものはどの経典よりも多いといわれている。

 日本の文学作品では、平安時代初期に編まれた仏教説話集『日本霊異記』に法華経に関する説話が多数含まれており、法華信仰の功徳や誹謗の罰などが説かれている。

 さらには、清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』など日本を代表する女流文学にも、法華経関連の記述が少なくない。法華経は平安時代の宮廷生活にも大きな影響を与えていたのだ。

<【日本の法華経史】日本仏教における法華経の位置づけ>

●法華信仰の礎を築いた聖徳太子

・日本に仏教が正式に伝来したのは欽明(きんめい)天皇の時代、538年のこととされているが、法華経が伝えられたのもそれと同じ頃と推測されている。

 この「諸経の王」とも称される経典を日本に最初に広めたのは聖徳太子だった。

<日蓮の法華経観>

<【日蓮の経典選択】8万4千の法門から法華経が選ばれた理由>

・先に述べたように、仏教には「八万四千の法門」といわれるほど膨大な数の経典がある。各宗派の開祖は、そのなかから教えの根本となる経典を選んで布教活動を行なってきた。

・日蓮宗―法華経(誰もが平等に成仏でき、仏の命は永遠であると説かれる)

・これにより日蓮は、法華経以外の経典はすべて方便で、法華経こそが釈尊の真意を明らかにした経典であるとの確信に至ったのだ。

●末法救済にふさわしい経典とは

・当時の日本仏教界では念仏の教えが一世を風靡していたが、念仏の中心人物である法然は「法華経はわれわれ一般大衆には理解できない」としてしりぞけてしまっていた。

・そこで、法華経が末法時代の人々を救済するのに本当にふさわしい経典であることを、はっきりと見極めようとしたのである。

 法華経を詳しく見てみると、「悪世末法時(正しい仏法が行なわれていない悪の時代)」という言葉が随所に書かれていることがわかった。

・さらに見宝塔品第11や勧持品第13からは、日蓮が末法において法華経を広めることを釈尊から委嘱されており、末代に法華経を伝えようとする者にはさまざまな迫害や妨害が起こると書かれているように見てとれた。

 日蓮は、ここで法華経に説かれるさまざまな受難や迫害を釈尊による「予言」と受け止め、その予言を実現することで法華経の真の救済を実現しようとの自覚に到達する。

 こうして日蓮は、法華経をもっとも重要な経典として選び、人々の救済にあたることにしたのである。

<【迹門(しゃくもん)と本門】仏教修行者としての日蓮の考え方>

・まず迹門の「迹」は、日本古来の神々を仏の仮の姿とする「本地垂迹」の迹と同じで、痕跡、形跡といった意味がある。したがって、迹門は、釈尊が教えを進化させていく前段階として、仮に説いた教えということになる。

 一方、本門の「本」には根本、本体といった意味がある。そこからわかるように、本門は迹門で説かれた教えが開かれ、仏教の教主である釈尊の真の姿や真の教えが明らかになる部分である。

 日蓮はこれをふまえて、自分の教えは法華経の本門にもとづくものであり、釈尊の教えのもっとも正しい部分を伝えようとする立場に立っていると自覚し、独自の教義を打ち立てたのである。

・また、久遠の本仏(釈尊)の教えに教化された者を「本化(ほんげ)」と呼び、その菩薩(究極の修行者)を「本化の菩薩」と呼ぶが、日蓮はここから仏教修行者としてさらなる自覚を得た。つまり法華経には「法華経の行者ならば、布教活動中にさまざまな法難にあう」という予言が書かれている。同じ法華経の行者である智顗や最澄は法難を受けていないが、日蓮は現実の迫害にあっていた。そのため、日蓮は自分こそが「本化の行者」なのだとさらに確信を強めたのである。

●日蓮は上行菩薩の生まれ変わり

・日蓮は、この地涌(ちゆ)の菩薩の代表者である上行(じょうぎょう)菩薩の生まれ変わりであると自らを認識した。そして釈尊から法華経の布教を命じられているのだから、やらないわけにはいかないという自覚。これにより、日蓮はますます法華経の信仰を深め、社会布教へと邁進したのだ。

・実際、日蓮宗同様、法華経を信奉する天台宗は、日蓮の法華経解釈と天台宗の伝統教義は別であり、「日蓮法華経」と「天台法華経」は区別される、とはっきり主張している。

<【一念三千の思想】なぜ「南無妙法蓮華経」の題目で成仏できるのか>

●釈尊・智顗(ちぎ)・日蓮をつなぐ線

・日蓮が理想としているのは、法華経の思想を現実のものにすることだ。そのために「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを人々に勧めたわけだが、そもそも題目の理論的根拠は一念三千説にあるといわれている。

 一念三千とは天台大師智顗が著書『摩訶止観(まかしかん)』において確立した理念で、われわれの一瞬の心(一念)に一切の宇宙社会の現象(三千世界)が具わっていることをいう。

・十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道(一般大衆の迷いの世界)と、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖(悟りの世界)をあわせたもの。

智顗によれば、これら十界は孤立したものではなく、互いに見えあっている。すべての人の心のなかに、地獄から仏までひとつも欠けることなく具わっており、地獄のなかには餓鬼から仏に至るほかの九つの世界が具わっている。それゆえ、十界互具というのだ。

・この一念三千の法門が天台思想の奥義とされ、日蓮へと受け継がれたのである。

●題目は一念三千の要約

・日蓮は、一念三千の法門こそ釈尊の悟りの究極だと考えた。

・こうして一念三千の理念は、教法としては五字の題目に要約して表現され、修行としては題目を受持して口に唱える唱題の行によって現実化した。法華経の信仰、教義、実践のすべてを題目によって統一したところに、日蓮の思想の特色がある。

<【五義】法華信仰の必然性を明らかにする5つの基準>

●「念仏より題目」の根拠とは

・日蓮によれば、成仏するのは久遠の本仏(釈尊)を信じて「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることが絶対的に必要になる。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけては、極楽浄土の教主である阿弥陀を信じて「南無阿弥陀仏」の念仏をすすめる教えが流行していた。だが日蓮は、念仏では救われず、法華経への帰依が必要だと強く主張したのだ。

・その法華経への絶対的な帰依の必然性を証明するため、日蓮が『教機時国鈔(きょうきじこくしょう)』のなかで示した教えの根本を五義という。

 五義とは教・機・時・国・序の五つの基準のこと。日蓮は、仏教徒であればこれら五つをわきまえなければならないと説くのである。

 まず「教」は、法華経がすべての経典のなかで最高の教えだと知ることである。

・「機」は、教えを受ける人の機根(能力)のことだ。末法時代にあっては、法華経を否定する念仏の教えなどを信じてしまう人がいるが、日蓮はそうした人々にこそ法華経が説かれなければならないと主張する。

・「時」は、法華経の教えが広まるべき時期をさす。日蓮は末法こそ法華経が力を発揮すると考えたのだ。

●法華経と日本の深い縁

・続いて「国」は、法華経の教えが広められるべき場所を意味する。末法時代の真の救済者を自負する日蓮にとって、この国という概念も大切なものだった。

 古来、法華経は日本に縁が深いとされている。

・最後の「序」は順序のことだ。つまり、教・機・時・国を踏まえたうえで、それまでどんな教えがあり、これからどんな教えを広めるべきかを知るということである。

<【三大秘法】衆生の救済を実現するための根本的な修行法>

●紙に書いた文字が本尊に

・まず「本門の本尊」は、久遠の本仏(釈尊)を信じて信仰を捧げることである。

●題目を唱えれば救われる

・次に「本門の題目」は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、念じることである。

・最後に「本門の戒壇」である。一般に戒壇とは、仏教の修行者に修行の規律を授ける壇、戒律を授受する儀式場をさす。

 だが、日蓮の説く本門の戒壇は、日本の、そして世界の人々が法華経の本尊を拝し、題目を受持して久遠の本仏の救いを受ける根本道場を意味する。

・しかし日蓮信者の多くは、現実の社会こそが題目を唱える道場であると認識している。

0コメント

  • 1000 / 1000