沖縄には今なお活躍する「ユタ」と呼ばれる霊能者たちがいる。遺伝ないしは突然に現れた霊能力「セジ」によって、フツーに見えたり聞こえたりしない神に導かれる職業霊能者だ。(1)

 『グソー(あの世)からの伝言』 比嘉淳子   双葉社    2014/7/30 <ユタ――人の厄を引き受ける霊能者> ・沖縄には今なお活躍する「ユタ」と呼ばれる霊能者たちがいる。遺伝ないしは突然に現れた霊能力「セジ」によって、フツーに見えたり聞こえたりしない神に導かれる職業霊能者だ。女性が多いとされるが、性差はなく、現在も生業としている人は数千人いるといわれる。2千円~1万円程度の相談料でハンダン(託宣)を行い、その内容によっては必要な場所まで出向いてさまざまな祈願を行う。  沖縄には「医者半分、ユタ半分」という言葉がある。病気をした場合、医者に行くと同時に、ユタのところにも駆け込む。病気になった原因はなにかを問い、治癒の祈願をしてもらいためだ。 ・ユタになるのは簡単なことではない。というより、できれば避けたいことだという。望んだわけでもなく、神々からの用事を代行するために選ばれてしまった、平たくいえば「神様のパシリのようなもの」とあるユタが語っていた。普通に暮らしていたのに、ある日を境に神々の声に先導され、理解不能な行動を起こしはじめる。この状態は「神ダーリ」と呼ばれている。周囲には理解されず、家庭不和や離魂、社会からの孤立といった苦労を背負わされる。ユタは他人の人生を左右する立場にあることから、その能力を与えられる前に、見えない世界から強制的に人間修行をさせられるという。神ダーリの状態から脱するには、霊的職能者の道を開くしかない。が、自力では困難で、ほとんどは先輩ユタに大金を支払って道を開けてもらうことになる。 ・ユタにもそれぞれ「千里眼(占い)」「先祖供養」「神様とつながっての除災」「家相・風水」などの専門分野がある。その専門は、個々のユタの守護神や指導神から渡される能力別「帳簿」によって分かれているという。帳簿といっても、実体のあるものではない。ほとんどは夢のような形で託される。 ・ユタになるというのは、ある意味、他人の厄を一切合切引き受けることでもある。事実、そのために命を落としたユタの話も聞く。似非ユタという行為で無責任にハンダンし、お金をむさぼり取れば、自らを取り返しのつかぬほどに陥れることになるのだ。  いずれにせよユタに力を借りる時は、語られることに柔軟に耳を傾ける一方で、最終的には自分で道を決める、依存しない力が必要なのだ。 <「お知らせ」――先祖は祟らない> ・沖縄では大なり小なり、不穏な事や不幸事が起こると、それを目に見えないものからの「お知らせ」だとする考え方がある。  ひと言で「お知らせ」といっても、そのかたちはいろいろだ。夢見が悪いといった軽症から、体調不良や仕事の不振、事故やケガ、子どもの非行、離婚など、普通に生活していれば誰にでも起こりうる災難が「お知らせ」と称される。 ・つまり、「お知らせ」は先祖の祟りではなく、信号。その信号がわかりやすいように、非日常的なことが起こるというわけである。また、そうした信号が送られてくる根本には、子孫たち、つまり自分たちの「不遜な行い」があることにも気づかなければいけない。 ・「線香どぅ孝行――線香をあげる気持ちこそが孝行」  この黄金言葉が教える通りに、たった一本の線香でも、それが真心込めてあげられたものならば、御願が不足するということはないのだ。老ユタはこんなことも言っていた。 「亡くなった人を想う純粋な心は、あの世のご馳走や光になる」  そしてもうひとつ、先祖が喜び、その孝行度が高まるのが、「家族・一族の和」である。年忌やお盆の時に親族が集まり、みんな笑顔で、それぞれに線香を手向ける。こうした家族に「お知らせ」や「御願不足」の気掛かりはない。 <ノロ――琉球王府の公職神女> ・「ユタ」と混同されがちなものとして「ノロ」という言葉を聞いたことがあるだろう。ユタは民間の職業霊能者なのに対して、ノロは公職神女。琉球がまだ統一される前、各地を按司(あじ)と呼ばれる支配者が治めていた時代から存在する。ノロ制度が確立するのは琉球王朝時代に入ってからだが、祭政一致政策を要とした琉球王府において重要な役職だった。  ノロに任命されるのは女性のみ。あくまでも世襲が原則だ。ノロ制度のトップとなるのは、王家の女性が就任する「聞得大君(きこえのおおきみ)」で、その下にノロとなった各地の士族の娘たちが、ピラミッド型で組織されている。国や配属された間切(地域)で祭祀や来賓の接待、しきたりを伝授する役目を担っていた。言い換えると、ノロは信仰によって地域をまとめ、文化を承継する役職だったのだ。  世襲制ということからもわかるように、必ずしも霊能力を有するとは限らない。しかし超自然的な存在と交信し、託宣を受け取るというシャーマン的な役割は附随している。琉球王朝終焉後、公職としての神女制度は消滅したが、その後もノロは存在し、その役割を担っていた。現在では後継者不足から活動の場も失われ、「ノロ」は形骸化している。 <本書の「言の葉」> ・(チジメー)漢字では「霊前」などと書かれる。守護霊のことだが、単に守護するというのではなく、ノロやユタといった霊能者を教え導く特定の神や先祖の霊のことをいう。 ・(マブイ拾いの儀式)方言では「マブイグミ」という。マブイを落としたと思われる現場に、供物や線香、マブイを落とした人の下着を持参し、マブイを拾い上げる祈祷を行う。落とした場所がわからない場合は、家の中の神様のうち最強といわれる神様が守るトイレで行う。 ・(キジムナー)樹齢百年近いガジュマルなどの古木に宿るキーヌシィ(木の精)。3歳から5歳ぐらいの子どもと同じ身長で、赤銅色の肌に赤い髪をしている。人間が大好きで、いたずらや相撲が好き。魚の目玉が好物で、タコが苦手。 ・(マジムン)「妖怪」を表す方言。キジムナーもマジムンの一種。そのほかに赤い毛むくじゃらのカッパのようなケンムン、妖術を使って女性をたぶらかす蛇の妖怪アカマターなど、沖縄にはたくさんのマジムンがいる。 ・(火の神)方言では「ヒヌカン」。台所に祀られる神。その家の家族を護る神様で、沖縄では昔から「ヒヌカンとトートーメー(先祖・仏壇)は一対」といわれ、この両方が大事にされてきた。 ・(今帰仁城)琉球王国以前、三山王時代の北山王統の居城。15世紀前半に第一尚氏王統二代目の国王・尚巴志(しょうはし)に滅ぼされる。本島北部の本部半島・今帰仁村に城跡があり、世界遺産となっている。 ・(アマミキヨ)琉球神話の開闢神。アマミク、アマミキュ、アマミチューなどとも呼ばれる女神。アマミキヨにまつわる開闢神話はさまざまにある。男神シネリキュとともに国及び人々の祖を生んだとする話や、アマミキヨひとりで開闢したとする話も伝わる。 ・(チジタカサン)漢字では「霊高い」などと書く。霊力が強い、力のある霊がついていることをいう。神々や先祖の想いが深い沖縄には、チジブン(霊の職務)、チジマサイングヮ(霊の勝る子)など、「チジ(霊)」の付く言葉が多い。 ・(屋敷の御願)沖縄では家や敷地のさまざまな場所に神様が宿っているとされている。敷地の東西南北、門、玄関、家の中央、床の間、便所、そして台所のヒヌカンと、複数の神々が力を合わせて家屋敷を守る。 ・(香炉)沖縄では香炉は、ただ線香を立てるためのものではなく、神や祖霊との通信媒体となると考えられている。 ・(アメリカ世)第2次世界大戦に敗戦した1945年、沖縄はアメリカの施政権下に置かれ、それは1972年の本土復帰まで続いた。その時代をアメリカ世という。 ・(十・十空襲)大戦中の1944年10月10日、沖縄本島をはじめ、南西諸島に向けて行われた米軍による大空襲。早朝から午後4時過ぎまで続いた。なかでも本島は主要な攻撃目標とされ、1日の間に5回もわたって攻撃がくり返された。5回目の攻撃は那覇市に集中して行われ、600人以上の死傷者を出し、市の90パーセントが灰燼に帰した。 <マブイ――人には7つの魂がある> ・沖縄では「生き物には複数の魂が宿っている」といわれ、魂を沖縄の方言で「マブイ」、「マブヤー」と呼ぶ。人に宿るマブイは7つ。犬や猫は3~5つ、植物にも1~2つのマブイがあるといわれる。死後、生体が失われた後もマブイは存在する。そして、未練を残したマブイはこの世を彷徨い、「マジムン(妖怪・幽霊)」になると考えられている。  実はこのマブイ、生きている体からも案外簡単に落ちてしまうのだ。転んだり、驚いたり、怒る・傷つくなど激しく動揺したり、そんなことで抜け落ちてしまうことがある。特に子どものマブイは癒着が緩いので、落ちやすいといわれている。 ・あるべきマブイが落ちてしまうと、当然のことながら不都合が起きる。脱落した状態が長く続くと、腑抜け状態、病気、不運などの症状が起こるとされている。元気だった子どもが突然、何日もボーッとしているので心配していたら、すっ転んだショックでマブイを落としていた、などの話もよく耳にする。マブイが落ちるというのはなにも沖縄だけの話ではない。本土に行って電車に乗った時など、人々を観察していると、正直、「マブイが落ちていそうだな」と思うような精気のない人々をよく見かける。  落ちてしまったマブイは拾い戻さなければいけない。しかも、できるだけ早急に。なぜなら、マブイを再び定着させるためには、その鮮度が重要だからだ。そのために、沖縄にはマブイ収拾に欠かせないまじない言葉がある。 「マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー(魂、魂よ、追いかけて来なさい)」  ビックリして「あっ、マブイが落ちたかも ⁉」と思った時に有効だ。地面からマブイを拾い上げ、自分の胸元に戻すような動作をくり返しながら、このまじないを3回唱えるのだ。子どもが落としてしまったようなら、大人がやってあげればいい。 ・7つのうちひとつぐらい落ちてしまうことは、日常でもままあるようだが、事故など命にかかわるような衝撃を受けた場合、マブイが一度に複数脱落してしまうといわれている。こうなるとまじない言葉だけではすまされず、交通事故現場などではユタにおる「マブイ拾いの儀式」を見かけることがある。祈祷の専門職に頼んで、落ちてしまったマブイの数々を拾い上げてもらい、本人に戻すという儀式だ。 <土地――これもまた生き物である> ・沖縄には「人が住めない土地」と噂される場所がいたるところにある。こうした噂には「あの世のものが我が物顔で彷徨っている」という話が付きものだ。それは地上戦という不幸な歴史を背負った島であることが一因だろう。我が家も激戦地から至近距離にあるが、酔いざましにと丑三つ時に歩いて帰っても、恐ろしいものに遭遇したことはない。  では、「人が住めない土地」とはどういうところだろう。  昔から沖縄では、墓地や火事の跡地に家を建てると繁盛すると伝えられる。年配者に聞いた話だが、墓地の住人は元人間だから、話のつけようでは立ち退いてもらえるし、なかには家族が増える感覚でにぎわうことを喜んでくれることもあるという。火事の跡地はすべての厄も焼き尽くされている、つまり厄の「更地」状態であることから、縁起のいい土地になるのだそうだ。   ・沖縄で人が住めない土地といえば、聖地の「御嶽(ウタキ)」である。人はどんなに逆立ちしても、神様に勝てない。神々がいらっしゃる御嶽は、地の底まで神のものであるといわれる。どんなに立ち退きを祈願しても、いつかどんでん返しがあるので、神の地は触らない。「触らぬ神に祟りなし」の言葉通りである。  沖縄では、「土地は生き物である」とみられている。初めから意気投合する土地もあれば、反発し合う土地もある。たとえば、都市生活に慣れた人が憧れだけで田舎暮らしを始めたとしよう。住んでみてわかるその不便さに、愚痴が多くなり、その土地がキライになることだってあるだろう。そうなると土地のほうも黙ってはいられず、追い出しにかかる。これも、「見えない世界と人間界の包括的生活困難区域」誕生の一因である。 ・この関係を知っていた沖縄の先人は、年に3回、旧正月明け・お盆の後、年の終わりに土地神に供物を捧げ、日々の感謝をし、周囲との和を祈願する。手を合せることで、平和に住む家があることのありがたさが再認識できるのだ。 <サーダカ――失われつつある力> ・沖縄には「サーダカ」と呼ばれる人たちがいる。「サー」は霊力、「ダカ」は高いという意味。つまり、「霊的能力が高い人」と解されている。  サーダカにもいろいろランクがあるようで、「正夢をよく見る」といった多数派から、「視えないものと対話できる」「迷える人を助けるために、いつでもどこでも神様と交信できる」という少数派まで、さまざまだ。  サーダカと呼ばれる人によると、死者(元人間)は生きていた時と同じ性格で、死んだからといって仏のように悟るわけではないとか。不平不満もあれば、焼きもちもやく。サーダカたちはその愚痴の聞き役になり、時には辟易させられるとボヤく、なかには表現がヘタな元人間もいて、置かれている苦境を示すために、あえて血みどろな姿で、いかにも「幽霊でござい」といった演出で登場することもあるそうだが、サーダカの人によると、「いちいちその姿におののくようではナメられるだけなので、強気で対峙するのがいちばん」だという。 ・一方、神様とのやり取りがあるサーダカの人によれば、神々は語れる時も神々しく、ほどよい光を放ちながら、よい香りを漂わせているという。話す声はかの高貴な御一族の記者会見のような楚々としたトーンで、内容も上品でわかりやすく説明してくれるそうだ。  こうしたサーダカなる体質は突然に起こることもあるが、遺伝的要素も大きいらしい。この科学万能主義の時代に、「サーダカ」というものをどう理解したものか、考えてみた。  これは人間が本来持っていた能力であり、防衛本能なのではないだろうか。人間も自然界の一生き物でしかない。太古の先祖は自然を「神」と置き換え、荒れ狂う神々を畏れ、豊穣をもたらす神々に感謝し敬い、そして神々の声に耳を傾けてきた。太古の時代、こうした意識や力がなければ、ちっぽけな人間はその種を守り存続していくことなどできなかっただろう。つまり、自然=神の声に反応する研ぎ澄まされたアンテナは必要不可欠だったのである。  文明の発展とともに、人はこの能力を手放していくことになる。ところが、一部に、その原始的ともいえる能力を残した人たちがいた。それが「サーダカ」といわれる人たちなのではないだろうか。 <大日本帝国陸軍少尉タカミネ君からの伝言> ・家事をひと通り終えた午後は、主婦の至福の時である。その日も、子どもたちに見つからないようこっそりと隠してあった新作スナック菓子を取り出し、テレビの前のソファに陣取った。チャンネルをお昼の情報番組に合わせて、ひとつ、ふたつと頬張る。「お茶でも入れようかな」と思っていたはずなのだが、立ち上がる気力が萎えるほどの急激な眠気に襲われた。  そこからの記憶が途切れている。気がつけば、アタシはスナックの包装紙をとっ散らかしたまま、ソファにゴロンと横になっていた。  寝てた?どのくらい? いや、横になって間もないと思う。でも、目が開かない。ふと、アタシに呼びかける声がする。 「突然の訪問で至極恐縮であります」 沖縄ではあまり聞くことのない滑るようなイントネーションの日本語だ。しかも、ちょっと古めかしい。ぼんやりとした頭で、「ああ、さきの番組が終わって、昼ドラになったのか」と思っていたら、その声が返事をした。「いえ、演劇ではありません。大日本帝国陸軍少尉、タカミネ・ケンイチであります」 <本書では「グソー」を共通語で「あの世」と訳した。> ・本書では「グソー」を共通語で「あの世」と訳した。だが、ウチナーグチ(沖縄言葉)をそっくりそのまま共通語訳するのはなかなか難しい。機微をいえば、沖縄におけるグソーは「あの世」と表現するほど隔たった遠いところではない。これが正直な感覚だ。  では、そのグソー・ライフとはいったいどういったものか。  噂によれば、グソーンチュになってもスケベなおじぃはスケベであり、強欲おばぁはお金の計算ばかりしているという。つまり、生前のまま、ということだそうだ。  そんな生々しいグソーンチュの話を耳にするにつけ、しみじみ思うことがある。死は終わりではない。  グソー・ライフが表すのは、生前どのように生きてきたか、つまりその人の「生きざま」なのである。 『ニライカナイの風』 生魂のスピリチュアルメッセージ 上間司     角川学芸出版     2010/4/17 <マブヤー> ・マブヤー、もしきはマブイという言葉を聞いたことはあるでしょうか?  もし、今この本を手に取ってくださったあなたがウチナーンチュ(沖縄人)であるならばよくご存じのことでしょう。ですが、それ以外の方には耳慣れない言葉だと思います。  沖縄では、昔から人は7つの生魂を持って生まれてくると言い伝えられてきました。その生魂が「マブヤー」です。人は、7つのマブヤーがきちんと心臓におさまってさえいれば、心も体も健やかな状態で過ごせます。  ところが、困ったことにマブヤーはとても不安定で、突然の事故やなにかでびっくりしたり、気が動転したりすると簡単に抜け落ちてしまうのです。  そして、マブヤーを落としてしまうと、必ず心身に悪い影響が出てきます。原因不明の体調不良や病気、精神的な疾患に悩まされている人は、たいていの場合、マブヤーを落としてしまっています。 <無駄な拝みや宗教にお金をつかうことはやめなさい> ・私は、神人(神に仕える霊能者のこと)として活動し始めて以来、マブイ込みの大切さを知らないばかりに、しょいこまないでよい不幸を抱えてしまった人たちに数多く出会いました。そのたびに、真実を伝えることの重要性を痛感してきたのです。  また、みなさんにお伝えしなければいけないのはマブヤーのことだけではありません。  神や霊(祖先霊や地縛霊)、そして人の念や口災いなどが原因となって、様々な心身的症状や不幸な出来事が発生するということも知っていただかなければいけないと考えています。 こうした、霊的なことが原因で起こるいろいろな症状を、私は「霊症」と呼んでいます。 霊症が起こると、日常生活に様々な困難が発生し、適切に対処していかないと大変な目に遭ってしまいます。 ・沖縄は、昔から拝みをする(ユタなどが祈願をする)ことが盛んな地です。大きな病気をしたり、予期せぬ不幸に見舞われたりした場合、すぐユタに相談し、原因を祓ってもらおうとします。実は私自身、神人として働き出すまでは多くのユタに助けを求め、拝みを繰り返していました。ですが、拝みが通ったことは一度としてありませんでした。その間、ユタに言われるまま多額の謝礼を払い続け、とうとう大きな借金を背負うまでになってしまいました。 ・内地ではお金をつぎ込む対象が新興宗教だったり霊媒師だったりするだけで、同じようなことは日本、いや世界各地どこでも起きています。  幸せになろうとした行為で借金を抱え、不幸になってしまう……。こんな馬鹿なことがあるでしょうか。  一つだけ、はっきり言えることがあります。  いくらお金をつぎ込んでも全く事態がよくならないのであれば、その霊能者なり宗教なりが本物かなのかどうか、今一度冷静になって考えたほうがよいということです。 ・私は、神人として、どんな拝みをする時にも全パワーを注ぎ込み、問題の原因を根っこから解決してきました。拝みをする時には、神・霊・生魂が縛られている場所を探しだして、ポイントをつかみ、その場所で拝みを行います。一時しのぎのお祓いや無駄な拝所巡りは一切しません。 <生魂(マブヤー)とはなにか> ・「人は生まれてきた時、7つのマブヤー(生魂)を持っている」 沖縄では、昔からこう言い伝えられてきました。  このような伝承を持つのは、沖縄だけではないようで、古代エジプトでもやはり魂は7つあると考えていたそうです。 ・マブイ込みは、なにも沖縄だけの習慣ではありません。内地でも、愛媛では魂のことをウブと言い、子どもがものに驚いて気が遠くなることをウブが抜ける、それを戻し入れるのをウブ入れと呼ぶそうです。 <長寿県ではなくなってきた沖縄> ・一般的に、沖縄は長寿県というイメージがあります。ところが、データで見ると必ずしもそうではないようです。  厚生労働省が発表した2005(平成17)年の寿命に関する統計調査を見ると、都道府県別の平均寿命で、沖縄は女性こそ堂々の一位ですが、男性はなんと25位、しかも年齢別の平均余命を見ると若い人ほど順位が低くなっています。 「沖縄はオバアだけが元気ってことか!」という声が聞こえてきそうですが、それもこれもオバアたちが今に至るまでマブイ込みの伝統をよく守ってきたからではないでしょうか。 ・それゆえ現在のお年寄りにはマブヤーを落とすこともなく、元気で溌剌と暮らしていらっしゃるのです。お年寄りにマブイ込みが習慣としてしっかりと根付いていた結果と言えるでしょう。  しかし、残念なことに、今や沖縄でもこの習慣は失われつつあります。特に若い人は「人に見られたら迷信深い人間と思われそうで恥ずかしい」という意識が働き、「今、マブヤーを落としてしまったんじゃないか」と思っても、マブイ込みをしないまま放っておくことが多いと聞きます。それと同時に、マブヤーの大切さも忘れられつつあるのです。  そのせいでしょうか。最近は沖縄でも、原因がはっきりしない病気に苦しむ人が増えてきたように思われます。また、家族のひきこもりや無気力症に悩むご家庭の話もよく聞くようになりました。 <マブヤーを落とすとどうなるか> ・話を戻しますが、後日マブイ込みをしたH君は、マブヤーを入れたその日から目に見えて変化していったそうです。まず、言葉遣いから変わりました。そして、毎月のお小遣いも2、3千円程度になり、自分の要求が受け入れられないからといって暴れるようなこともなくなりました。マブイ込みをしたことで、心が落ち着いたのです。その変化は、周囲の人も驚くほどでした。 「まるで別人だね」と言われることもしばしばだったとか。今では、すっかりよい青年になったと聞いています。 <鬱病になったMさん> ・Mさんは30代の女性ですが、大学を卒業し、就職した頃から精神的に不安定になり始めました。始終やむことのないイライラから始まり、睡眠障害が起こり、とうとう鬱病を発症してしまいました。精神科には通ってはいましたが、抗うつ剤を大量に処方されるばかりで、よくなる兆しが見えるどころか悪化する一方でした。  そして、完全なひきこもり状態になり、日がな一日ソファーに横たわってはゴロ寝するだけの毎日になってしまいました。 <カカイムン> ・神の苦しみや怒りは、そのまま負のエネルギーとなって周囲に発散されます。そのエネルギーはいわば神からの信号です。  そういった信号が発せられている場所に人間が住んだり、商売を始めたりすると、神からの信号の悪影響を受けてしまい、必ずなにをしてもうまくいかないようになります。体や精神にもおかしなところが出てくるようになるでしょう。  このような現象を、沖縄では「カカイムン(かかりもの)」と呼んできました(神だけでなく、人の霊に憑かれた場合も同様に表現しますが、その例はまた章を改めてご説明します)。  カカイムンになると、言葉では言い表せないほどの苦しみを体験することになります。 私自身、霊能者として仕事を始める前、嫌というほどそれを味わいました。神や霊からの信号は無視したり抵抗できるものではありません。  カカイムンの状態から脱するためには、信号を送ってくる神を特定し、昇天していただく必要があります。これが神の救い上げです。 ・ところが、残念なことに、神を昇天させられるほどの力を持つ霊能者はそう多くないのです。「あなたはカカイムンだね」というところまで見ることはできても、根本的に解決させることができる方はほんの一握りと言ってよいかと思います。  沖縄では昔より、カカイムンになった場合には、伝統的な巫女であるユタに頼ってきました。しかし神がどこにいるのか、何の神がついているのかきちんとわかるユタはいません。  最近では内地でもユタを知る人が増えたと聞きますが、それでもあまりご存じない方がほとんどのことでしょう。  簡単に言うと、ユタとは神や霊を見ることができる人です。霊媒師と言うと、内地の方にもわかりやすいでしょうか。一般的には女性が多いのですが、ごく少数男性もいます。  ユタになる人は、サーダカンマリ(霊的なものを感じる力が強い生まれ)をしているのですが、みんなが同じだけ強いわけではありません。「足が速い」といっても、オリンピックレベルから学校の駆けっこレベルまであるようなものです。  ですので、ユタによっては、今起こっている障りの原因はカカイムンということを察知できても、その正しい対処法まではわからない人が大半です。しかし、頼ってきた人を突き放すわけにもいかないのか、とりあえずは自分の知っている範囲で手探りの拝みをしてしまうのです。 ・カカイムンの状態で訪ねたら、ほとんどのユタは拝所廻りを勧めるでしょう。  沖縄には、諸願成就のためにあちこちの拝所を巡るという習慣があります。  拝所とは、神様が宿っているという御嶽や御城などのことを指し、洞窟のガマガマ、滝の滝々というほど、あちこちにたくさんの拝所が存在しています。そして、ユタはそれらの一部、または全てを回ることで、神の怒りが解け、カカイムンではなくなるといいます。  ところが、実際には拝所廻りをして神の障りが解けたという話をあまり聞きません。なぜかわかりますか?  答えは簡単です。  そもそも、私が見てきた限りでは、拝所の施設に神がいらっしゃった例はありません。〇パーセントです。 ・カカイムンの原因となった神の怒りを解く方法は二つだけ。神の場所を元通りにして人が立ち入らないようにするか、昇天させるかだけなのです。  しかしながら、昇天させるだけの霊力を持つ霊能者にこれまで出会ったことはなく、ほとんどいないと言わざるを得ません。  一柱でも多くの神を救い上げようと沖縄のみならず日本全国飛び回ってはいるものの、とても追いつかないような状態です。  もし、他にもこの力を持つ人がいたら、即お会いしたいと心から願っています。そうすれば、もっと多くの神を救うことができますし、また無駄な拝みを繰り返し、あたら多額の金銭を失い、さらに苦しみを増やす羽目に陥っている人たちを助けることができるからです。 <神から委ねられた仕事> ・伝統的に言われてきたことや、俗説とは少し異なる話も多いので、中には戸惑いを感じられた方もおられるかと思います。  特に、今まで何度もユタ買いをし、沖縄古来の祈願に親しまれてきた方には、驚くような話も多かったでしょう。きっと「拝所には神はいない」と言っただけでも、ひっくりかえるほどびっくりされたのではないかと思います。  ですが、ここに書いたことは全て真実、間違いのないことです。神人として働く私の誇りに懸けて断言できます。 <サーダカンマリとして生を享けて> ・私の生まれ故郷は、沖縄北部の今帰仁。地元出身の父と、元々は那覇市久米の出身で、首里の玻名城親方の子孫が祖先である母の間に生まれました。8人兄弟の7番目でした。父は農業と工場経営、母は専業主婦をしていたごく一般的な家庭です。  しかし、私の一門にはなぜか時々サーダカンマリとして生を享ける人間が出ていました。 ですから、親戚の中には日頃から熱心に祈願し、始終ユタを頼む一家もありました。  でも、私の両親はそういったことに興味がありませんでした。いくら親戚に勧められても、全く関心を示そうとしません。むしろ、霊的なことは避けて通りたいようでした。 ・沖縄の集落には、カミアシャギと呼ばれる建物があります。村の神を招いてお祭りをする時に使われる神聖な建物で、昔から人々の祈りが捧げられてきました。  私の村のカミアシャギは、父が経営していた製糖工場に行く道の途中にありました。ですから、その前を始終通っていました。  ある日のこと、私は母と一緒に、いつものようにカミアシャギの前を通りかかりました。 すると、伝統的な白い衣装を身につけた祝女(ノロ)がその前に立っているのが見えました。 「あ、ノロがいる」幼い私は、何気なく見たままの光景を口に出しました。すると母はいきなり、「お前、何を馬鹿なこと言っているの?そんな人はどこにもいませんよ?だいたい、ノロなんて言葉、どこで覚えたんです!」と怒り始めたではありませんか。 ・「うん?お客様?」母はいぶかしげに外を見ました。ところが、驚いたことに先ほどまで立っていたお爺さんは、煙のように消えてしまっているではありませんか。 「またこの子はなにを言ってるの。誰もいないじゃないの」  せっかくの昼寝を起こされた母は不機嫌そうです。このままでは叱られると思った私は、慌てて家中を探しましたが、やはり誰もいません。その気配で兄たちも目覚めたのか、部屋に戻るとみんな起きていて、「うるさいやつだな」と怒っていました。 「だけど、本当にいたんだもん。白い髭を生やした背の高いオジイで、羽織袴を着ていたよ」 そして、私はなんとなくそのお爺さんの屋号と名前を口にしたのです。その途端、それまで寝ていた父がパッと起き上がりました。 ・「おい、これは普通じゃないぞ。その人は、司が生まれる3年前に亡くなったオジイのことじゃないか。それなのになんでこの子はあのオジイのことを知っているんだ?」  それから、私が見たオジイの姿を微に入り細を穿ち聞かれたのですが、私が見た通りの容貌を説明すると、ますます眉間のしわが深く に眺めていました。 「………間違いない。司の言うのは、あのオジイだ」   ・沖縄では、「ナティヌ アンマサヤ カミングヮー(なって苦しいのは神の子)」と言います。神人になっても苦労するだけ、先人は本物の神人が味わう苦しみを見て、そう考えたのでしょう。私の親も、我が子にそんな思いをさせたくなかったのかもしれません。 <ユタ買いを続けた日々> ・実は、この後すぐ、私もユタ買いをするようになりました。神からの信号による頭痛が、現界に達していたためでした。  とにかく、毎日毎日激しい頭痛が起こります。仕事をするどころか、立ってもいられません。よく、頭が割れるとか、痛さで目が飛び出るなどと表現されますが、それが全くオーバーな表現ではないほどの痛みでした。  もちろん、最初はお医者さんにかかりました。ですが、答えは「異常なし」。何一つ、悪いところはないというのです。それに、私自身これがカカイムンであることは薄々気づいていました。いえ、薄々というと嘘になるかもしれません。 ・今、私のところにやってくる人のほとんどがそうであるように、北によくハンジ(判示)するユタがあると聞けば相談し、南に拝みがよく通るユタがいると聞けばそこに通いというのを繰り返しました。 ・一言でユタと言っても、いろいろな人がいます。実際にサーダカに生まれ、選ばれるようにしてユタになった人もいれば、習いユタと言って霊能力もないのに拝みのまねごとをしているだけの人もいます。また、そこまでひどくなくとも、明らかにダングィソーグィ(段超え竿超え 自分の持つ霊力の分を超える拝みをする人)のユタも少なくありません。 そんなことを続けていると、いずれ神からの制裁が下ります。  ところが、「ユタ」は現在においては一つのシステムとなっており、拝みのプロとしてある程度の評判がつけばお金を稼げるようになっているのです。 <アシャギの夢> ・ですから、毎回終わった時には心身ともにずいぶんと消耗しています。  しかし、長年閉じ込められていた神や、さ迷っていた霊が昇天していく時には、ヌジファ(死者のマブヤーをお連れする儀式)をした私へはもちろん、それを私に依頼された方にも心からお礼を言ってくれます。また依頼された方々からも「永年、待ち望んでいた子ども(子宝)を授かりました」などうれしい報告もたびたびうけます。それがうれしくて、ずっとこの仕事を続けてこられたのです。       

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