「首から下のご奉公」、要するに体力や腕力が重要視される現場で、「首から上のご奉公」をした私は、自衛隊では特異な経歴の持ち主であろう。(1)
(2025/3/16)
『あるスパイの告白』
情報戦士かく戦えり
松本修 東洋出版 2024/4/17
<はじめに――本書を世に問う理由>
・「自衛隊は首から下のご奉公だが、その覚悟はありますか」
・30年弱の自衛官生活の大半、約25年間を情報部隊・情報機関で過ごした。「首から下のご奉公」、要するに体力や腕力が重要視される現場で、「首から上のご奉公」をした私は、自衛隊では特異な経歴の持ち主であろう。
・陸上自衛隊の中央資料隊、続いて防衛庁の情報本部に勤務した四半世紀の間に、私は“情報戦士”すなわちスパイとして、数多くの国際事象・事案と向き合ってきた。
・私が最初の情報部隊に勤務した時、あるベテランから「松本さん。あなたは、どこか目立とうとしていないか。我々は、匿名の情熱にかければ良いのだ」と言われたことがある。それ以降、私は、この言葉を噛み締めて勤務してきた。あたかも、日本の戦国時代の「草のもの」忍者のごとく、スパイは黒子に徹し、その活動の痕跡を努めて消さなければならないからである。
・本書は、主として公刊資料を処理することによって、対象国の意図や能力を考察・分析する、いわば“007のいない情報活動”に関する記録である。
・その記述するところは、ある意味で“机上スパイ”が過ごした退屈な日々であるかもしれないが、同時に「首から上」で勝負し、脳髄を絞り出した「知恵の戦い」の記録である。
<「さらば市ヶ谷台」――情報活動と私>
<自衛隊勤務最後の日>
・2012年12月、30年近く勤務した自衛隊最後の日であった。このとき、私は51歳、定年が一般の職業より早い自衛官の中でも、特に早い退職だった。
・私が執務室に入っても、同僚は脇目もふらず朝の日課である新聞のクリッピング(切り抜き)を行っている。
<007のいない情報活動>
・公開情報の収集、分析と偵察衛星、無線傍受など科学の目と耳である。これまで比較的光の当たらない場所にあった公開情報の収集、分析の重要性は、日ましに増えている。情報の洪水のなかから、役立つ情報をいかに収集、整理、分析し、短時間でどう生かすかである。
・『新情報戦』が指摘するように、私が自衛隊で主に従事した情報活動は、その「95パーセントを占める」ともいわれる合法活動、その中でも大きな比重を占める公開情報の収集、分析であった。言わば“007のいない情報活動”であり、一般の人がその言葉を聞いて抱くイメージとは違った地味かつ地道な実践の上に成り立つものであった。
<自衛隊の組織と「モス」>
・私が退官までの15年余在籍した情報本部は当初、統合幕僚監部の前身、統合幕僚会議の下にある組織だったが、組織替えに伴い防衛庁長官直属組織に、さらに2007年、防衛省発足に伴って防衛大臣直属組織となった。
・自衛隊用語の一つ「モス」について説明しておこう。米軍用語MOSが起源で、「軍隊特技区分」と訳される。要するに、自衛隊で職務遂行上必要な特技資格を指す言葉である。原則として、モスがなければ、対応する部隊で勤務することはできない。
私が最初に取得したモスは、通信運用モスであった。
<私の生い立ち(1961年~1984年)>
<高校時代>
・1977年、私は県立浦和高等学校に入学した。
・翌1980年1月に行われた第2回共通1次試験を受験した。しかし、結果は惨憺たるものだった。目指した1000点中の「8割」、800点には届かず、自己採点で720点しか取れなかった。
・浦和高校は元来、現役合格率が低く、当時の教師たちが「一浪」を「人並」などと呼んで気にしなかった。
・高校受験に続いて、またも“奇跡”が起き、私は現役合格を果たした。応援団の仲間で現役合格は私を入れて2人しかいなかった。
<大学時代>
・1980年、私は東京外国語大学中国語学科に入学した。同期生は男女併せて60名(内訳は男子40名、女子20名)だったと思う。
・帰宅後は、夜間のNHKラジオ中国語講座を聞いて必死に学習し、とにかく中国語に耳を慣らして四声の体得やヒアリング能力の向上に努めた。1年間必死に学習した結果は、読解・作文・文法でオール優の成績だった。
・したがって、2年生は優1個、良2個の成績に終わり、中国留学の夢はあきらめざるを得なかった。
<1980年代の国際情勢と国際関係論への目覚め>
・大学後期の専門課程では、語学・文学コースでなく、国際関係コースを選んだ。すでに入学直後から、中国語学習と並行して、新しい学問分野である「国際関係論」に傾注していたので、迷いはなかった。
<自衛隊入隊の理由>
・1983年に入ると、大学卒業後の進路を考えるようになった。民間企業への就職は全く考えていなかった。私なりの選択肢は、①大学院に入って研究を継続する、②公務員試験を受けて官公庁に入る、③松下政経塾に入って政治家を目指す、などであった。いわゆる「モラトリアム世代」の私は、確たる人生計画や将来の展望がない“夢想家”だったのかもしれない。
・しかし、とにかく試験と名の付くものは全て受けた。外交官試験を皮切りに、国家公務員上級職試験、松下政経塾試験、その中の一つが陸上自衛隊の幹部候補生試験だった。
<スパイへの助走(1984年~1988年)>
<自衛隊入隊・久留米へ>
・1984年3月末、大学卒業式の翌日に、九州の福岡県久留米市に旅立った。陸上自衛隊幹部候補生学校に入校するためである。
<「U」と「B」>
・入校式も終わり、自衛隊の基礎知識に関する授業と同時に、軍事英語の授業も始まった。「松本候補生、君は外語大で何を専攻したのか」と英語教官から質問が投げかけられた。「中国語です。英語は第2外国語で、英語検定2級を持っています」と答えると、教官はやや困った顔をして、「今の自衛隊の現場に中国語を生かすニーズはない。東京の小平市に調査学校という情報や語学を教える機関があるから、そこの教官を目指したらどうか」とアドバイスしてくれた。
・「B」出身者、つまり防大卒業組と直接触れ合う機会はほとんどなかった。しかし、その勢力は我々「U」出身者の4倍、240名以上は幹部候補生学校に在籍していたように思う。
<通信大隊の日々>
・1984年9月の陸自幹部候補生学校卒業後、熊本県・北熊本駐屯地にある第8師団隷下の通信大隊に配属された。
<調査学校と中国語モス>
・九州における幹部候補生学校の生活や通信部隊勤務は、わずか3年で終わり、1987年4月、東京都小平市にあった調査学校の中国語課程へ入校した。幹部候補生学校時代に、同期から示唆された「モス」(特技資格)取得のためであり、今後の情報部隊勤務のための準備活動が始まったのである。
<陸自中央資料隊の日々(1988年~1997年)>
<『新情報戦』が描く情報部隊>
・東京・六本木。防衛庁の一角にある陸上自衛隊資料隊。ここは公刊された資料を組織的に翻訳、分析している日本で最大の組織だろう。
<資料隊の仕事>
・中央資料隊の朝は早い。六本木の桧町駐屯地にあった職場に、午前7時半までに来ることが求められた。
・邦字紙のクリッピングが終わると、担当する国・地域のオリジナル資料の翻訳に取り掛かる。
・日々のクリッピングや「動態入力」作業を抱えながら、「総合資料」等を作成することは、当初、相当な“重労働”であった。
<クリッピング――切り抜きを笑う者は切り抜きに泣く>
・陸自中央資料隊への配属は、1988年3月のことだった。私は、同部隊で情報活動の「イロハ」を習い、その基礎、基本を徹底的に叩き込まれた。資料隊で身に付けた“体質”は、今でも変わることはない。それは朝の新聞切り抜きで始まった。
・また、これらの作業は所詮、邦字紙が対象であり、自分が担当する外国の新聞・雑誌をしっかり処理できればよいのだという考え方もある。
しかし、こうした風潮や考え方は結局、情報収集活動の初歩の軽視にすぎないと思う。邦字紙をまともに扱えない人間が、外国語の新聞等をうまく処理できるとは思えない。
<天安門事件への対処>
・我が班の軍事担当者は、北京に進駐した人民解放軍部隊の動きをほぼ正確に掌握しており、私も冷静に事態の推移をフォローすることができた。
<台湾海峡危機への対処>
・緊張が高まれば高まる程、玉石混交、真偽取り交ぜた情報が飛ぶのは、世の常である。重要なのは、その中から、「玉」と「石」を見分ける冷静な判断力を養うことであろう。台湾海峡危機に際しても、その点が我々、情報活動に携わる者にとって、「基本中の基本」であることを改めて痛感した。
<防衛省情報本部の日々(1997年~2012年)>
<「日本最大の情報機関」誕生>
・私が在籍した分析部は、「主に諸外国の新聞、雑誌、インターネットなどの公刊資料から情報を収集すると同時に、国内外の政府・民間関係者との意見交換等からもたらされる交換情報のほか、電波情報、画像情報といった、情報本部の他の部門が収集するあらゆる情報源から得た情報を統合して分析する」
<「ないない尽くし」の中の船出>
・窮余の策として私は、前職場である中央資料隊から私物のパソコンやプリンターを持ち込んで分析資料の作成に取り掛かった。
<情報専門官ながら「分析官」扱い>
・そこで私は、分析の手法を上司や同僚から教えてもらい、徐々に慣れていった。最初の頃、私が作成した分析資料は、主任分析官や課長によって、いつも赤ペンで直され、原文がほとんど残らないほど真っ赤になって戻ってきた。
<香港返還とVIP報告>
・こうした中で、分析官扱いだった私は、1997年7月1日の歴史的な中国への香港返還を前に、統幕議長に対する情報報告を命じられた。
<分析官がみたSARS騒動>
・そんな中、党大会閉幕後の2003年11月から中国南部の広東省で奇妙な病気が蔓延しつつあった。
・このナゾの感染症は、後にWHOがSARSと命名。
・このSARS事案の発生から16年後、中国を発生源とする新型コロナウイルス感染症が再び発生した。
・むしろ2022年に入ってオミクロンという変異株の出現で中国最大の経済都市である上海市などでも「ロックダウン」措置がとられ、経済減速を招くことになったのである。
<「情報交流」最前線>
・分析部は現在、「オシント」(公刊情報)と並んで国内外の情報関係者との意見交換等からもたらされる「交換情報」の収集・分析に力を入れているとされ、後者が重要な位置付けになってきたことが伺える。
・他方、ベトナム滞在とは異なり、私は最後の最後で苦痛のエピソードをインドで体験した。「インドではサラダとかフルーツとか決して口にするな」という警告を無視して、大事なブリーフ当日の朝に私は、滞在先のホテルの食堂でフルーツを一片食べてしまった。結局、持参した正露丸を一瓶全て飲んだが、「インド下痢」には全く役に立たなかった。ブリーフ直前までインド側施設のトイレに籠っていて七転八倒だったのである。
<中国との闘い>
・実は中国との情報交流も2回経験し、独自の中国出張を含めると3回公務で訪中した。最初の交流はVIPへの随行であり、「通訳」を担当させられた上に、会計やギフト運搬など「カバン持ち」までが任務となった。年明けの寒い時期の訪中であり、北京市内の川は凍てついていた。中国側の歓迎会が終わって、翌日の準備をしているとホテルの部屋の電話が鳴る。受話器を取ると早口の中国語が耳に入り意味不明、私が黙っていると今度は英語で「Do You Like Boy?」ときた。男娼紹介の内線電話だった。私はすぐにベッドから飛び起きてトランクを入り口のドアの前に置いた。「侵入者」阻止のためである。
・近年、中国大陸の各地で邦人の身柄拘束が頻発しているが、外国人の行動を監視する部門が中央だけでなく地方にも存在し、彼らの「点数稼ぎ」成果報告になっている事実を忘れてはならないと思う。
<防衛省の二人の「天皇」>
・私は、守屋氏以外にもう一人、“天皇”の異名を取った防衛官僚を知っている。海原治氏である。
・(海原7原則) 現実を知れ/あやまちをくり返すな/夢を見るな/専門家を盲信するな/空理空論を弄ぶな/方法論を検討せよ/真剣に考えよ
<“戦力外”分析官の日々>
・私は1997年以降、通算3回の中国共産党大会について情報を収集して分析し、防衛庁幹部への報告等を行った。
・そんな時に“遭遇”したのが、2007年に課長として着任してきた“クラッシャー上司”のOであった。2009年、O課長の“パワハラ”で「うつ状態」と診断され、1年間の休職を余儀なくされた。
・2012年末、防衛省勤務最後の日を迎えたのである。
<情報活動25年を振り返って>
<分析部時代の回顧>
・私自身が立ち会った情報本部の発足から2022年で25年。あらためて分析部時代を回顧すると、要は体の良い“便利屋”“何でも屋”の部門であったと思う。当の私も、分析官として、そんな扱いであった。
そうなる最大の原因は皮肉にも、情報本部が分析部の仕事として強調する「オールソース」分析にあったと思う。
・オールソース分析が、あるべき形で運用されなかったのは、伝統的に自衛隊の組織間でセクショナリズムが根強く、必要な組織間の協力がうまく進まなかった結果であろう。また、このことは情報本部各部門の軋轢に止まらず、各自衛隊情報部門間の“対立”まで惹起していった。
・例えば、陸上自衛隊は、情報の一元化、統合化の流れに逆行するかのように、情報本部が設立されてから10年後の2007年3月、隷下に基礎情報隊、地理情報隊、情報処理隊、現地情報隊を有する中央情報隊を新設したのである。
・「統合は情報分野から」といった当初の掛け声とは裏腹に、真の統合化実現への道は遠いと私は落胆している。
<今後の情報活動改善への提言>
・「誰も皆、情報を重要と言うが、誰も情報を重視していない」これが、四半世紀にわたり情報活動に携わった私の結論である。防衛省・自衛隊において、ひいては日本政府、日本人という民族が抱える問題点であろう。しかも、様々な改革が試みられながら、一向に改善がみられない。
・そんな中で私が注目したのは、情報の「入口」であり「出口」であった。要するに入口=「情報要求」と、出口=「情報使用」に問題があるため、その間にある情報の収集・処理の過程も改善されないままなのである。
・従って、今後の日本の情報活動を改善するためには、まず、「入口」を改革するところから始めるべきであろうが、最近の流れは、JCIA等の新たな「対外情報機関」の設立を訴える議論が出るなど、「出口」を“充実”させることに傾注しているように思える。
・2023年、TBS系テレビドラマ{VIVANT}が放送され大ヒットを記録したとされるが、そこに登場する陸自の秘密情報部隊「別班」が注目された。
・そして、いかなる理屈・理論やハイテク手段を使っても、究極は人間が行うことで「ヒューマン・ファクター」が基本であり、字義どおりの「情けに報いる」という「情報」のあり方の再認識だと私は思う。その際に必要なのは「独立思考」だと私は信じている。
<情報保全への思い>
・私は、2013年に明らかとなった「米スノーデン事件」等を契機に、あらためて説かれるようにようになった「情報保全」という掛け声に疑問を抱いている。この問題については、最近でも2015年末に発覚した元陸自東部方面総監I陸将によるロシア武官への情報漏洩事件があった。
・退役将官であるOBに対し、教範を譲渡した富士学校W陸将の名前にも驚いた。私の同期の出世頭で、久留米の幹部候補生学校時代に、「モス」取得をアドバイスしてくれた「Uダッシュ」だったからだ。
・かつて私が勤務した陸自中央資料隊では毎年1月、1980年に発覚したM事案(宮永スパイ事件)を教訓に、宮永陸将補らが逮捕された日を「保全の日」と定めていた。
<退役将官「論壇活動」への異論>
・「情報」と「兵站」は、第2次世界大戦において日本が敗れた2大要因だと言われている。
・情報部隊・機関におけるOJT(実地訓練)では鍛えられたが、情報活動について、自衛隊による組織的な教育・訓練は十分ではなかったと思う。
<軍事アナリストがみた中国>
<第2期習近平体制の人事的特徴>
・民間会社に例えるなら、共産党大会は株主総会、政治局は取締役会、常務委員会は上級取締役で構成される常務会といったところであろうか。
・以上みてきたように、中国共産党の最高指導部である中央政治局常務委員会は7人で構成される、いわゆる「チャイナセブン」である。
<「中国脅威論」に欠けているもの>
・こうして各種情報を取りまとめる総合分析は、いつも必ず喧々諤々の議論となるのだが、結論は至極当たり前の「中国軍の近代化は着実に進行しており、今後の動向が注目される」という“今注(こんちゅう)”で締められていた。
・私には、人民解放軍が「槍先」である前方装備の近代化を重視するあまり、これを支援する物品補給や装備の保守・整備等の後方支援体制が追い付いていないように見える。
・「ソ連の脅威とか、軍事バランス論議で、もっとも欠けているのが、ソ連軍機構内部にけるソフトウエアの面である。軍記、訓練、士気、人種・宗教の問題、将校と兵士との階級対立、日常娯楽、倦怠、アルコール、女性、わいろ、闇物質の購入、犯罪など、数えきれない、人間くさい要因である」
・軍事訓練や部隊管理の面で形式主義や官僚主義が改善されず、その一方で「享楽主義」がはびこる等、軍が平時に慣れて軍記が弛緩している風潮を示唆しており、過去数年で抜本的な改革を断行しても、人民解放軍の性根というか、根本は変えることが出来ないことに対する共産党の“焦り”が感じられていた。
<「戦略的国境論」の虚実>
・1980年代に流行った「ソ連脅威論」の下では、「ソ連軍北海道侵攻作戦」や「北方領土奪還作戦」などの議論が隆盛であったが、21世紀に入って顕著になってきたのが、「台湾有事は日本有事」とか、「日中開戦」といった議論である。
しかし、「チャイナハンド」(中国専門家)の一人として私は、「日中開戦」など、実態に即していない浮付いた議論が蔓延り、一種の「脅威のインフレーション」が起こっていることを危惧している。中でも違和感を拭えないのが、こうした論者が根拠にしている「戦略的国境論」である。
・要は全て流行りが大事で、今の言葉で言うと「映え」重視であり、その時々の情勢に便乗する軽佻浮薄の論調が多すぎると私は思う。
そして、最近の流行りが「ウサデン」(宇宙・サイバー・電磁波各空間における中国軍の近代化)を超えた「認知戦」である。
<おわりに>
・かつて防衛省情報本部在籍時代、私は「余人をもって代えがたい存在」等ともちあげられながら一転、直属上司の「パワハラ」等によって体調を崩し休職、最後は退職を余儀なくされた。こうした中、本当に横で見たくないものを見たし、辛く不名誉な処遇に涙することもあった。
・後日、記者から「うちの編集長は大物好きで、私の取材原稿はボツになりました」とお詫びの連絡が来た。「他人任せはダメだ、自分自身で原稿を書かなければならない」と考えた私は、某大手出版社が開いた「自分史講座」を受講し、執筆に関する初歩的なノウハウを学んだ。それなりに手応えを感じた私が執筆に取り掛かろうとした矢先、両親の相次ぐ逝去という事態に直面し、作業を中断せざるをえなかった。
・しかし、門外漢の私が痛感したのは、情報の世界と同様、教育の世界も問題山積ということだった。政治も軍事も経済も社会も、日本は既に「ズタボロ」化して壊れかかっている。こんな現状に対し「弥縫策」は効かないし、まして「〇×スマート構想」の実現はもう無理だ。では、どうしたら良いか。私は、それぞれの分野の人間が、自分の持ち場で努力し、少しでも現状を改善して向上させていく以外にないと思う。
・「私の歴史は、私以外には持つ人は無いと云うただこの一つのことによって、私は書かねばならんと云う勇気を得たのである」
(2024/2/17)
『諜無法地帯』
暗躍するスパイたち
勝丸円覚 山田敏弘 実業之日本社 2023/11/22
日本では数万人規模の中国スパイが活動している
<はじめに>
・スパイは、あなたのすぐそばにいる。
・私は警視庁公安部外事課(通称:外事警察)に2000年代から所属していた。外事警察ではスパイテロ対策に従事し、スパイを追跡する「スパイハンター」として、街の中に溶け込んで活動を続けてきた。日本でスパイ対策をしている公的機関はいくつかあるが、外事警察は、逮捕権・捜査権をもつ法執行機関として最前線でスパイと戦っている。
・加えて、「スパイハンター」として活動している際に、それぞれの場面で共通して思うことがあった。それは、スパイハンターの人手があまりにも不足していることだ。
・もう、スパイがやりたい放題に動いている現実から、日本人は目をそらしてはいけないのである。
<実録!私の外事警察物語>
<大手ショッピングモールにスパイあり>
・大きなショッピングモ-ルはスパイに好まれる場所であり、首都圏にある米大手倉庫型店でスパイが協力者に接触を行っていたこともあった。郊外の店舗ゆえ、スパイや協力者が密会する穴場だと見られている。
<犯罪だらけのアフリカ某国で大使館の警備>
・もともとその国の日本大使館では、アフリカ某国の国家警察に所属していた元警察官が警備担当のローカルスタッフとして雇われていた。そして、その元警察官に、現地の治安状況や情勢について簡単な英語で報告書を作成させていた。
<麻薬カルテル情報でネタを吸い上げる>
・日本には対外情報機関は存在しない。CIAやMI6のような国外でスパイ活動をする組織がない。
それでも私は、大使館のみならず日本の安全のために、アフリカ某国で独自に情報活動をして、日本に報告を行うようになった。
<事前にイスラム過激派のテロを把握>
・警備対策官は、日本や日本人に対するこうした脅威情報を得るために情報取集をしているのだ。ただ日本には対外情報機関がないために、いち警察官である私は、それを個人の裁量で行わざるを得なかった。
<命を懸けた海外での接触>
・私が管轄していたいくつかのアフリカ諸国でも、お土産やプレゼントによるお礼の文化が普通にあった。
情報のレベルにもよるが、謝礼は、高級な万年筆が買えるくらいのレベルから、高くても良質なスーツを買えるくらいが最高額だった。
<世界から遅れている日本の情報機関>
<お互いに情報を隠し合う日本の情報機関>
・こうした私の対外情報活動は、あくまでも個人として動いていたものである。再三述べたように、日本には対外諜報機関が存在しないからだ。
・内閣情報官は常に警察出身ということになっている。そこに警察庁と公安調査庁からの職員と、国際情報統括官組織ならびに防衛省の情報本部からも職員が出向している。問題は、それぞれの組織から来ている職員が、お互いに情報を共有することはなく、隠し合っていることである。
<自衛隊の秘密組織「別班」は実在する>
・防衛省は情報本部以外に非公然組織を抱えているといわれている。その名も「別班」。私が公安監修をしていたTBS系日曜劇場「VIVANT」に登場し、話題になっていた。
防衛省では、軍事活動をする上で海外の裏情報を知ることが重要だとされているため、陸軍の軍人だった藤原岩市が、普通の情報機関員では手に入れることができない危険度の高い情報を集めることを期待して創設したのが始まりである。
別班のメンバーは主に防衛省から外務省に出向して、外交官として在外公館に勤務しながら情報収集をしている。
・ちなみに政府は別班の存在を否定しているが、別班が集めた情報は内閣官房長官と内閣情報官に上がるので、把握しているはずだ。
別班の創設にあたり、旧日本軍の陸軍中野学校というスパイ養成機関に所属していた人々が関与していたといわれる。彼らは日本を守るという任務のためには、時に邪魔者を排除することも辞さなかったといわれている。
<金正男の来日情報を一番掴めなかった公安>
・国際的に見れば、CIAやMI6といった対外情報機関の日本側のカウンターパート、つまり、日本側の同等の組織は、公安警察、内調、公安調査庁のどれなのかがはっきりとしない。そんなことから、海外の情報機関から日本に絡んだ重大な情報がもたらされても、それをうまく活かしきれずに失態がおきることもある。
その象徴的な例が、2001年5月の金正男の来日事件だ。
・私はこのケースについて、いまだに惜しいことをしたと考えている。もし最初に情報が公安警察にもたらされていたとしたら、おそらく金正男を泳がせて、どこに立ち寄るのかなど行動を調べて、日本側の関係者を特定しようとしたはずだ。さらには、毛髪からDNA情報も確保できたかもしれない。金正男からいろいろな情報が収集できたはずだったが、結果的に、そのまま帰国させてしまうというあり得ない失態をさらした。
この金正男のケースに限らず、海外で私が属していた外事警察はあくまで「法執行機関」であるために、アフリカ某国に赴任中に各国の情報機関関係者があつまるブリーフィング(説明会)にも呼ばれないこともあった。
・つまり、普段から日本の情報機関として接触をしていないと、相手にしてもらえないのである。これもまた、日本にきちんとした情報機関を作るべきだと考える所以である。
・情報機関全般にいえることだが、基本的には自国の国益あるいは自分の国に対する脅威についての情報を求めている。それこそが帰結するところである。よって、自国について悪く言っている団体や評論家、政治家などがいれば、その団体や人物の背後関係を調べるのは当然のことだ。
・彼らも人に会う際には、プレゼントを渡したり、少額の現金を渡しているが、それらは外交機密費から出ている。警察庁出身だろうが、公安調査庁だろうが、外務省に身分を置き換えてから外国に赴任するので、活動の費用は外国機密費から出ることになる。どれだけの金銭を使えるかについては、その在外公館の大使が決済する。
<日本を食い荒らすスパイたち>
<スパイが入国する際は申告制>
・スパイは本当に日本各地で活動している。スパイは基本的に、人目につかないように動き、隠密に仕事をする。これはあまり知られていないことだが、日本政府は、日本に暮らす外国人スパイの存在をある程度、把握している。その理由は、国際的なインテリジェンスコミュニティ(諜報分野)には、通告のルール(外交儀礼)というものが存在するからだ。そのルールでは、日本に大使館などを置いて情報機関員を派遣している国々が余計なトラブルに巻き込まれないよう、日本に赴任している情報機関職員を外務省に伝えることになっている。外国人の情報機関員は、外交官の肩書で大使館に属しながらスパイ活動をすることが多い。
外務省の中でも、この情報の管理を担当しているのは「儀典官室」(プロトコール・オフィス)だけである。
・外務省以外でこの情報を知ることができるのは、警察庁と、日本にある150カ国以上の大使館の連絡を担当する警視庁の担当部署だけだ。私はそこの班長だったので、それを知る立場にあった。
・意外に思うかもしれないが、実はロシアですら、この通告を行っている。もちろん、逆に日本もロシア政府にロシア大使館や領事館にいる警察庁や公安調査庁の職員の名前や所属などを通告している。
<外務省が把握できないスパイは大量にいる>
・国外の担当者は、国外でさまざまな情報収集を行い、自分の国にとって有害な活動をする組織や個人を調査する。さらには、自国が有利になるような影響工作や世論操作、国によっては破壊・暗殺工作も行う。彼らは対外情報機関と呼ばれる。
一方で、国内の担当者は、国内に入ってくるスパイの情報を収集し、取り締まりをする「防諜」活動を行う。日本では公安関係の組織が担うが、多くの国でも捜査権や逮捕権を持つ法執行機関である警察やその他の機関が主導的に行っている。
・情報機関員たちは、さらに日本国内でスパイ活動を行うための協力者をリクルートする。そうした協力者も、いわゆるスパイということになる。
・ところがある日、このS国人はいつもと違う動きを見せた。「点検」である。点検とは、スパイや防諜担当者から尾行されていないかを確認する作業のことを指す。点検によって尾行されているかもしれないと察した場合は「消毒」をするのである。消毒とは、尾行を撒くことだ。
<CIA支部長が断言「日本はスパイが活動しやすい国」>
・外事警察だった私としてはあまり認めたくはないが、やはり日本はスパイ天国だと言わざるを得ない。
・中国の北京や上海では、スパイは自由に動きにくい。なぜなら、中国で監視対象になってしまえば、公安機関を動員して、入国情報から宿泊先、予約したレストランなどすべての情報がチェックされ、丸裸になってしまう。
・繰り返し述べてきたことだが、日本には国内でのスパイ活動を防止する法律がない。
・カナダもスパイに対して緩い国だ。カナダは、アメリカやイギリス、オーストラリア、ニュージーランドと情報共有のためのスパイ同盟「ファイブ・アイズ(UKUSA協定)」のメンバーである。しかしながら、その5カ国の中でも最もスパイに対して甘い。
<尾行・盗聴・ハッキング………スパイ活動の実態>
・では、どんな情報を集めているのか。世界第3位の経済大国である日本を例にとると、日本の半導体や通信などの最先端のハイテク技術や、それ以外で日本が他国よりも先を行く分野の技術だったりする。
・アジア諸国でも、在日大使館に情報機関員を置いている国はある。彼らは日本を敵対的には見ていないが、彼らが注視しているのは、日本に暮らす自国民の動向や自国民が集まるコミュニティの情報だ。自国で反政府活動をしているグループや人が、日本にいる仲間に日本からもSNSを使ってメッセージを投稿させたりしていれば、その在日の同国人を監視する。
・中国や韓国といった国々は、北朝鮮とは違って、外交に影響が大きい日本の政治情報をターゲットにして、情報収集や影響工作をしている。
・国によっては、情報収集以上の工作に力を入れている場合もある。その典型的な例は、北朝鮮だ。北朝鮮は1970年代から80年代には、最高指導者だった金日成がいざ革命の指令を出した時に、日本で一気に蜂起するような体制を作っておくという目的があった。現在では、日本の技術を盗んだり、お金を稼ぐことにかなり力を入れている。日本を通して外貨を稼ごうと目論んで活動している。
<集めた情報は秘密の通信手段で自国に送る>
・さまざまに集められた情報は、自国に伝えるためにまとめられる。情報収集や工作を行うだけがスパイの仕事ではない。集まった情報をリポートとしてまとめていくデスクワークもスパイの重要な仕事のひとつなのである。まとめられた情報は、自国の安全保障対策や政治決定の材料として活かされることとなる。
各国の情報機関は、独自の通信手段を持っている。
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