(行叡居士) 清水寺にいて、数百年に及んで若々しく、常に練行に励んだと言う。(1)

 『日本と中国の仙人』 松田智弘 岩田書院   2010/10 <『本朝神仙伝』にみえる日本の仙人たち> ・仙人と言えば、中国が本場であり、仙人の本質を説くためには中国の仙人を取り上げなければならない。本場中国の仙人と日本の仙人の概念は同じなのか、異なるのかを明らかにしなければならない。この作業に入るために、日本の仙人を集合させている『本朝神仙伝』から見ていくことにしたい。  『本朝神仙伝』は大江匡房撰とされ、時代的には平安期の仙人観を捉えることになる。中国の仙人を知って以来の、日本の中で形成されて来ている仙人観が、『本朝神仙伝』で集大成されていることになる。以前、平安朝以前の仙人と平安朝における仙人観の比較を「古代日本仙人考」で試みたことがある。 <『本朝神仙伝』の登場仙人> 1 (倭武命) 倭武命を仙人と見做すのは、「薨去の後、化して白鳥となりて、去りたまひぬ。あに神仙の類にあらざらむや」の表現に見えている。 薨去後、白鳥に化して去ったと記して、神仙であろうと言う。 2 (上宮太子) 太子の不思議は、眉間の光を日羅ともどもに放つこと、小野妹子が経を間違えて唐から持ち帰ったので、半日で魂神を唐へ遣り、真経を取り帰ったこと、白日に甲斐の黒駒に乗って天へ昇り、千里を往還したこと、妃に「吾れ久しくは濁世に遊ぶこと能はず」と告げて、早く遷化したことが挙げてあり、仙人と見做しているのである。(ブログ注:聖徳太子の別名) 3 (武内宿禰) 武内宿禰は、三百六十余歳で因幡国亀金で、双履を残して去ったが、宇倍山へ入り終るところを知らずと言う。不老長寿に暮らし、仙去した表現になっている。 4 (浦島子) 釣った亀が蓬莱の仙姫で、仙姫に伴われて蓬莱で三年暮らして故郷へ帰り、「昔聞きき、浦島が子の仙と化りて去に、漸くに百の年を過ぎにき」と言われて、仙姫から開くなと渡された厘を開け、老人となって身罷ったと記してある。浦島子は、仙人世界へ行けた人であるという表現がしてある。 5 (役行者) 朝廷より罰を得て赦された後、行者は母とともに鉄鉢に乗り、海の彼方へ去る。百余年後に高麗で道照の講席へ現れたと言う。行者は、鬼神を自由に使役する呪力を持つとされ、仙人の条件になっている。 6 (徳一大徳) 徳一の名前は、得一ともなっている。伝教大師と宗論のため、奥州より牛に乗って京へ登り、伝教を小僧と侮ったため、舌が口の中で裂けたと言う。仙人であると見られている。 7 (泰澄大徳) 泰澄は、翼なくして飛べ、一言主神の縛を解こうと試み、諸神の本覚を現すことができ、数百年を経て死なず、その終る所は分からないとある。仙人の条件である、不老長寿と終りが分らないという表現が見えている。 8 (久米仙) 天平年中、和州吉野郡竜門山の窟に三人の神仙、大伴の仙、安曇の仙、毛竪の仙がいた。その内の毛竪の仙を久米仙と言う。久米河で、布を洗う下女の股の色を見て、愛心を発して通力を失い、その女性と暮らし、東大寺造立の人夫とされる。十一面観音が頭上に現れる不思議を知った奉行が、通力で材木を運べと命じ、久米仙は通力で材木を飛ぶ鳥の如く運ぶ。久米仙の姿が消え、女性は仙を慕って身罷る。七日後、久米仙が姿を現し、呪して女性を生き返らせ、共に西を指して飛去ったと言う。仙人と表記してあり、仙人の通力を記してある。 9 (都藍尼) 吉野山の麓で、女人の登れない金峰山へ登る努力をしたが、果たせなかった。長生すること幾百年とあり、仙人の条件である不老長寿が示されている。 10、11 (善仲 善筭) 善仲と善筭は、母が蓮華二茎口へ入る夢を見て孕んだ双子である。二人は、浄土に往生したいと勝尾山で修行し、善仲が先に草座に乗って西へ飛去る。一年遅れて善筭も西へ飛去る。西方へ飛去ることで仙人と見ているのである。 12 (窺詮法師) 宇治山で密呪を持し、長生を求めたが、穀を避け、服餌して、雲に乗って去ったと言う。 13 (行叡居士) 清水寺にいて、数百年に及んで若々しく、常に練行に励んだと言う。一生精進して、妻を蓄えず、米を食べなかった。東へ向かい、乙葉の山に至って、自然に銷えて、ただ草鞋と杖を留めるだけであった。 14 (教待和尚) 数百年に及んで、容貌は元のままであった。ただ年少き女子をのみ愛し、また魚の肉をのみ食べた。口から吐けば、変じて蓮の葉となったとあり、不老長寿であったことが記してある。 15 (報恩大師) 数十年を経ても若々しいままであった。朝は小嶋に居て、昼には清水へ来ている。翼無くして飛ぶが如くで、神仙に違いない、と空を自由に飛べるので仙人と見ている。 16 (弘法大師) 唐から日本へ鈴杵を投げて勝地を卜ったところ、東寺の地、紀伊の高野山、土佐の室生戸の山へ落ちた。日本へ帰った後、その地を尋ねて仏法を広めた。金剛峯寺で金剛定に入り、今に生きている。弘法大師は不老不死の仙人に見立てられている。 17 (慈覚大師) 唐で会昌の法難に遇いながら、密教を日本へ持ち帰った。天性慈悲、喜怒することが無かった。入滅の期に及び、忽然と失せて、所在が分からなくなった。神仙のいきほとけに違いないというのである。 18 (陽勝仙人) 母が夢に日の光を呑むとみて、孕んで生んだという。三年苦行して、日毎に粟一粒をのみ服した。翼なくして飛ぶことができた。 陽勝は、神仙のいきほとけであったとなっている。 19 (陽勝弟子仙) 仏道を修行し、長生を得たが、陽勝を師としていた。不老長寿の仙人の条件が示してある。 20 (河原院大臣侍) 仙人の脱俗程度が示されている。 21、22 (藤太主 源太主) 二人は、辟穀して仙人となり、翼無くして飛ぶことができたという。仙人の通力が示してある。 23 (売白箸翁) 年齢不詳の白箸を売る翁が都にいた。不老不死の仙人の例が示してある。 24 (都良香) 儒業を早くに遂げ、常に山水を好んで、兼ねてから仙法を行った。良香の詩文を朱雀門の鬼が聞き、感嘆したことなど、作文に優れていたことが示してある。菅原道真は、良香が問頭として問うた秀才なのに、良香を超えて加級される。良香は怒って官を棄て山に入って仙を求める修行をした。大峰に通うこと三度、終りを知る者はない。百余年を経て或人が窟で良香に会い、壮年の人のようであったと言う。不老不死長寿の例となっている。 25 (河内国樹下僧) 人知れない深山に住み、道に迷って榧の実拾いの人がこの僧の草庵へ到る。食事をせず、坐禅念仏して常に目を閉じて坐っていた。神仙のいきほとけでなければ、このようではなかろう。人知れず深山に住む仙人の様子が示してある。 26 (美濃国河辺人) 飲食しないことが仙人の条件になっている。 27 (出羽国石窟仙) 辟穀して数百歳である。辟穀の不老長寿の仙人として示してある。 28 (大嶺僧) 浄蔵法師が大峰で出あった禅僧となっている。「我は神仙中の人なり」と、この僧は言っている。 29 (大嶺山仙) 神力の有る仙人が大嶺山にいたと言っている。 30 (竿打仙) 仙道を学んだが俗骨重く、空を飛んでも地を離れること七、八尺のため、竿を持つ子供に追われた。薬餌力では俗骨の重さを消すことができない。仙人は空を飛ぶことが条件であり、それを充たしてはいるが、不十分な様子が示してある。 31 (伊予国長生翁) 服薬すること無く無病で、七代に渉る孫がおり、姿は五、六十代である。小さな角があり、家の門や廂に鬼が多くいる。今に生存している。仙人の条件である。不老長寿を現実に満たしていると言うのである。 32 (中筭上人童) 仙人は脱俗していることが示してある。 33 (橘正通) 明確な仙人の条件は見えない。高麗国で得仙したとある。 34 (東寺僧) 夜叉神背負われて昇天すれば仙人に成れると考えている。 35 (比良山僧) 比良山に神験を持ち、仙道を学び、飛鉢法を行うことができる僧がいた。比良山に仙人がいたというのである。 36 (愛宕護山仙) 銅瓶を飛ばし、大井川の水を酌む仙人が愛宕護山にいた。 37 (沙門日蔵) 日蔵の遺体を棺へ入れて後、すでに遺体は無かった。「尸解けて去にしなり」と言う者がいた。尸解仙であった例として挙げてある。 <仙人の表現> ・登場する全員が仙人とされる表記部分をあげたが、仙人の条件を整理して見ると、以下のような条件にまとめられる。なお条件が組み合わされている場合もある。 ① 不老長寿 ②死後遺体が無くなる ③死後に出逢う ④神験を現す ⑤脱俗している ⑥空を飛ぶ ⑦昇天する ⑧飲食しない ⑨終りが不明。 <『本朝神仙伝』> ・『本朝神仙伝』を記述のままに読み解いてみた。日本では仙人を仏教者とし、「神仙のいきほとけ」と称してさえいる。しかし、「神仙のいきほとけ」を解説した者とは言わない。不老長生後、生きたままいずこかへ姿を消したり、白日に昇天したり、逝去したと見せかけて他の地へ姿を現すのである。永遠の生命を得て、生き続ける。世俗の苦から自在と成り、自由に生きる。仏教修行でも得仙できるが、仏教と関係なく、脱俗できれば仙人に成れる。 <『列仙伝』にみえる中国の仙人たち> ・日本と中国の仙人観は同じなのであろうか。同じ不老不死・不老長寿の概念はあっても、日本の仙人観と中国の仙人観は同一と考えてよいのであろうか。  日本の仙人については『本朝神仙伝』で考察したが、中国の仙人については『列仙伝』で、考えて見たい。 <『列仙伝』の登場仙人> (赤松子) 雨師。水玉を服し神農に教えた。 (竈封子) 火に入って自らを焼き煙気に随って上下した。 (馬師皇) ある日馬師皇を龍の背へ乗せて去った。 (赤松子興) 黄帝の時の人で五穀を食べず百草の花を食べた。 (黄帝) 百神を裁き使い、物の法則を知り、予知能力がある雲師で、竜形をしている。 (偓佺) 松の実を好み食べ、空を速い速度で飛べた。 (容成公) 自称黄帝の師。 (方回) 堯の時の隠人。 (老子) よく精気を養う。 (関令尹)  終りは不明。 (涓子) 斉の人。 (呂尚) 生まれながらの予知能力を持つ。 (平常生) 何処の人か不明。死ねば生返る。 (陸通) いつの世でも見たが、数百年を経て去る。 (葛由) 極めて高い綏山へ上る。付いて登った者は皆、仙道を得て帰らない。 (江妃二女) 二女も忽然と見えなくなる。 (范蠡) 徐の人。周の太公望が師。 (琴高) 水辺に祠を弟子に設けさせ赤鯉に乗って現れ、祠へ一ケ月余り坐し、また水へ入り去る。 (王子喬) 白鶴に乗り山上へ駐し数日後去る。 (幼伯氏) 周の蘇氏の客。 (安期先生) 千歳翁と噂される。 (桂父) 累世見かける。 (瑕邱仲) 百余年売薬する。地震で家が崩壊。仲の死体を水中へ棄て、盗んだ薬を売る者の前に現れ、生返ったことを言うな、と告げて去る。 (酒客) 梁の杜氏。美味い酒を造る。 (任光) 伯梯山上に在ること三世代。所在が分からなくなる。 (朱仲) 景帝の時再来して三寸珠数十を献じてまた行方不明。 (修羊公) 景帝は仙道を学び習得できない。 (崔文子) 都市で売薬し自称三百歳。神に近い。 (赤須子) 歯は抜け代り抜毛はまた生える。霞を服し絶穀。 (騎龍鳴)  成長した龍が去る。 (主柱) 何処の人か不明。 (鹿皮公) 百年後市で売薬。 (昌容) 顔色は二十歳くらい。 (山図) いずこかへ去る。 (谷春) 棺の中は衣だけ。 (毛女) 体は毛が蔽い、岩屋から琴の音が聞える。 (子主) 何処の人か不明。 (呼子先) 占い師。百余歳。 (負局先生) 呉山から治病の神水を流して蓬莱山へ還る。 (黄阮邱) 朱璜が助けられて神人であることに気づく。地震の山崩れを予言する。 (女丸) 陳の市の酒屋で美味い酒を作る。仙人が酒代に置いた素書五巻を写し文の通りに房室を建て若者に酒を飲ませて養性交接三十年。若返る。仙人が再来し、仙人を追いいずこかへ去る。 <仙人の表現> ・『本朝神仙伝』と同様に登場する仙人が全員仙人とされる表記部分を挙げたので、ここでも仙人の条件を整理してみると、以下のようになる。 ① 服薬する。薬には動物、魚介、植物、鉱物、水の薬がある。②術を使う。水火風雨を操る術、房中=補導、練形、導引、行気、精気を養う、精華を服する術が認められる。③動物が導く。④死後遺体が無くなる。⑤いずこかへ去る。終りが不明。⑥不老長寿。生返る。髪や歯が再生する。⑦山へ上る。水へ入る。⑧穀食しない。⑨飛行する。昇天する。⑩蓬莱山、方丈山、仙人道士と関る。⑪術法の書・符を持つ。⑫予言する。神験を顕す。⑬脱俗する。⑭祠が建てられ祀られる。 <仙人の人物像> ・『列仙伝』の仙人達が、元々属していた社会層を考察してみよう。仙人達の出身地は勿論だが、携わる仕事が記してあるので、この携わる仕事から考えてみたい。記されている仕事を順不同だが挙げてみる。  雨師・陶正・馬医・木工・雲師・採薬父・宦士・閭士・桂下史・太夫・龍師・封史・履直し・扇売り・門卒・舎人・幕府正・客・杜氏・養魚・養鶏・養豚・道士・長吏・養蚕・酒屋・乞食・郎・宮人・草履売り・小作・卜師・助産・主簿・周霊王太子晋・昭帝の母・漁師・鋳冶師・穆公の娘婿・農夫・主魚吏・府小吏木工・珠売り・薬売り・香草栽培・瓜売り・木彫師・相・紫草売り・殷の王子・  右に列挙した仕事をみると、次のようなことが言えよう。  海ではなく、山間の渓谷で魚を釣るのが漁業の特色である。王公官人身分の上層階級の者もいれば、乞食をしている下層階級の人もいる。道士道人と呼ばれる人や、卜師がいる。 ・日本と違って、さすがに、さすがに仏教僧侶や仏教に関る者は挙がらない。 ・仙人に成る前の、属していた社会は、最上級の王公貴族から、最下層の乞食に至る中にいた人々である。一様に仙人とされていて、仙人に成ってからの仙人階級については述べられていないので、等しく仙人とみておける。 『中国の鬼神』 著 實吉達郎 、画 不二本蒼生  新紀元社 2005/10 <玃猿(かくえん)> <人間に子を生ませる妖猿> ・その中で玃猿(かくえん)は、人を、ことに女性をかどわかして行っては犯す、淫なるものとされている。『抱朴子』の著者・葛洪は、み猴が八百年生きると猨(えん)になり、猨が五百年生きると玃(かく)となる、と述べている。人が化して玃(かく)になることもあるというから、普通の山猿が年取って化けただけの妖猿(ばけざる)よりも位格が高いわけである。  古くは漢の焦延寿の愛妾を盗んでいった玃猿の話がある。洪邁の『夷堅志』には、邵武の谷川の渡しで人間の男に変じて、人を背負って渡す玃猿というのが語られる。  玃猿が非常に特徴的なのは、人間の女をさらう目的が「子を生ませる」ことにあるらしいこと、生めば母子もろともその家まで返してくれることである。その人、“サルのハーフ”はたいてい楊(よう)という姓になる。今、蜀の西南地方に楊という人が多いのは、みな玃猿の子孫だからである、と『捜神記』に書かれている。もし、さらわれて玃猿の女房にされてしまっても、子供を生まないと人間世界へ返してはもらえない。玃猿は人間世界に自分たちの子孫を残すことを望んでいるらしい。 <蜃(しん)> <蜃気楼を起こす元凶> ・町や城の一つや二つは、雑作なくその腹の中へ入ってしまう超大物怪物だそうである。一説に蛤のでかい奴だともいい、龍ともカメともつかない怪物であるともいう。  日本では魚津の蜃気楼が有名だが、中国では山にあらわれる蜃気楼を山市。海上にあらわれる蜃気楼を海市と称する。日本の近江八景のように、中国にも淄邑(しゆう)八景というのがある。その中に煥山(かんざん)山市というのがあると蒲松齢(ほしょうれい)はいっている。  その煥山では何年かに一回、塔が見え、数十の宮殿があらわれる。6~7里も連なる城と町がありありと見えるのだそうである。ほかに鬼市(きし)(亡者の町)というのが見えることもあると蒲松齢が恐いことを言っている。  『後西遊記』には、三蔵法師に相当する大顛法師半偈(たいてんほうしはんげ)の一行が旅の途中、城楼あり宝閣ありのたいへんにぎやかな市街にさしかかる。ところが、それが蜃気楼で、気がついてみると一行は蜃の腹の中にいた、という奇想天外な条がある。それによれば、途方もなく大きな蜃が時々、気を吐く。それが蜃気楼となる。その時あらわれる城や町は、以前、蜃が気を吐いては吸い込んでしまった城や町の幻影だ、というのである。 <夜叉(やしゃ) 自然の精霊といわれるインド三大鬼神の一つ> ・元来インドの鬼神でヤクシャ、ヤッカ、女性ならヤクシニーといい、薬叉とも書かれる。アスラ(阿修羅)、ラークシャサ(羅刹)と並んで、インドの三大鬼神といってもよい。夜叉はその三大鬼神の中でも最も起源が古く、もとはインドの原始時代の“自然の精霊”といっていい存在だった。それがアーリヤ民族がインドに入って来てから、悪鬼とされるようになった。さらに後世、大乗仏教が興ってから、夜叉には善夜叉(法行夜叉)、悪夜叉(非法行夜叉)の二種があるとされるようになった。  大乗教徒はブッダを奉ずるだけでなく、夜叉や羅刹からシヴァ大神にいたるまでなんでもかんでも引っぱり込んで護法神にしたからである。ブッダにしたがい、護法の役を務める夜叉族は法行夜叉。いぜんとして敵対する者は非法行夜叉というわけである。 ・夜叉は一般に羅刹と同じく、自在に空を飛ぶことが出来る。これを飛天夜叉といって、それが女夜叉ヤクシニーであると、あっちこっちで男と交わり、食い殺したり、疫病を流行らせたりするので、天の神々がそれらを捕えて処罰するらしい。 ・安成三郎はその著『怪力乱神』の中に、善夜叉だがまあ平凡な男と思われる者と結婚した娘という奇話を書いている。汝州の農民王氏の娘が夜叉にさらわれてゆくのだが、彼女を引っかかえて空中を飛ぶ時は、「炎の赤髪、藍色の肌、耳は突き立ち、牙を咬み出している」のだが、地上に下り、王氏の娘の前にいる時は人間の男になる。 ・人の姿をして町の中を歩いていることもあるが、人にはその夜叉の姿は見えないのだという。 ・王氏の娘は、約束通り2年後に、汝州の生家に帰された。庭にボヤーッと突っ立っていたそうだ。この種の奇談には、きっと娘がその異形の者の子を宿したかどうか、生家へ帰ってから別の男に再嫁したかどうかが語られるのが普通だが、安成三郎はそこまで語っておられぬ。『封神演義』に姿を見せる怪物、一気仙馬元は夜叉か羅刹だと考えられる。 ・『聊斎志異』には「夜叉国」なる一篇がある。夜叉の国へ、広州の除という男が漂着すると、そこに住む夜叉たちは怪貌醜悪だが、骨や玉の首輪をしている。野獣の肉を裂いて生で食うことしか知らず、徐がその肉を煮て、料理して食べることを教えると大喜びするという、野蛮だが正直善良な種族のように描写される。玉の首環を夜叉らが分けてくれ、夜叉の仲間として扱い、その頭目の夜叉にも引きあわせる。徐はその地で一頭の牝夜叉を娶って二人の子を生ませるというふうに、こういう話でも決して怪奇な異郷冒険談にならないところが中国である。  夜叉女房と二人の子を連れて故郷へ帰ると、二人の子は何しろ夜叉の血を引いているのだから、強いのなんの、まもなく起こった戦で功名を立て、軍人として出世する。その時は除夫人である牝夜叉も一緒に従軍したそうだから、敵味方とも、さぞ驚動したことだろう。その子たちは、父の除に似て生まれたと見えて、人間らしい姿形をしていたようである。 <羅刹(らせつ)  獣の牙、鷹の爪を持つ地獄の鬼> ・インドの鬼神、ラークシャサ。女性ならラークシャシー。夜叉、阿修羅と並んで、インド原産の三大鬼神とされる。阿修羅は主として神々に敵対し、羅刹は主に人類に敵対する。みな漢字の名前で通用することでも明らかなように、中、韓、日各国にも仏教とともに流入し、それぞれの国にある伝説、物語の中に根づいている。  日本でも、「人間とは思えない」ような凶行非行を働く時、「この世ながらの夜叉羅刹……」と形容する。悪いことをすると死後地獄へゆくとされ、そこにたくさんの鬼がいて亡者をさんざん懲らしめるというが、その“地獄の鬼”こそ阿旁房羅刹と呼ばれる羅刹なのだ。 『焔魔天曼荼羅』によると十八将官、八万獄卒とあって、八万人の鬼卒を十八人の将校が率いていて、盛んにその恐るべき業務を行なっているという。日本、中国の地獄に牛鬼、馬鬼と呼ばれる鬼たちがいると伝えられるもの、みな羅刹なのだ。  中国の『文献通考』によれば、羅刹鬼は「醜陋で、朱い髪、黒い顔、獣の牙、鷹の爪」を持っているという。『聊斎志異』には「羅刹海市」という一篇があり、どこかの海上に羅刹の国があることになっている。そこでは、われわれのいう“醜い”ということが“美しい”に相当し、“臭い”ということが、“いい匂い”に相当する。  中国人を見ると逆に「妖物だ」といって逃げる。そこには都もあり、王もいるのだが、身分が高いほど醜悪であった。国は中国から東へ二万六千里離れている。神々や鮫人(こうじん)たちと交易していて、金帛異宝の類を取り引きしていた。  この「羅刹海市」では他国から来た者を、即座に取って食うようなことはしないようであるが、中国の内外に来ている(?)羅刹はもちろん人さえ見れば取って食らう。『聶小倩』という小説によると、羅刹は長寿だが、やはり死ぬこともあり、骨を残すこともあるらしい。ところがその骨の一片だけでも、そばにおいていると心肝が切り取られ死んでしまう。また、羅刹も夜叉もそうだが、男性は醜怪だが女性は妖艶な美女と決まっていて、その美色を用いて人間の男を誘惑し、交わり、そのあとで殺して食う。 <張果老(ちょうかろう)  何百歳なのかわからなかったという老神仙> ・その頃の老翁たちで張果老を知っている者は、「彼はいったいいくつじゃろう、わしらの祖父の頃から変わらないのじゃ」と噂していたという。色々な仙術を使うばかりか、奇仙中の奇跡であった。帝王たちに尊信され招かれると、うるさがって死ぬくせがあった。唐の太宗も、その次の高宗も、召し出そうとしたが死んだ。恒州の中条山に隠れたっきり、下りて来なかったこともあった。  則天武后は特に執拗で、「どうあっても来い」と強制した。張果老はいやいやながら山から連れ出されたが、妬女廟のところまで来かかると死んだ。真夏の最中なので、遺骸はすぐに腐敗して蛆が発生した。則天武后もそれを聞いてやっとその死を信じた。  ところがほどもなく、恒州で張果老が生きている姿を何人も見た人があった。唐の玄宗は則天武后よりあとで帝位についた天子で、張果老が生きていることを知ると裴唔(はいご)という侍従を遣わし、「何がなんでも召し連れて来い」と命じた。裴唔が張果老に会うと、また悪いくせを出して死んでしまった。ざっとそんな具合であった。  列仙伝などで仙人たちを紹介する文章には、必ず生地も、来歴も、字や称号も書いてあるのだが、この奇仙は張果と名乗り、何百年生きているのか分からないので、張果老と敬称がついているだけである。   ・彼が汾州や晉州あたりまで出遊する時、乗っていくロバも、彼が奇仙であることの証明であった。それは“紙製のロバ”であった。見たところ、普通の白いロバなのだが、一日に数千里も踏破して疲れを知らない。目的地へ着くと、張果老はそのロバを折り畳んで、手箱の中へしまっておく。再び乗る必要が生じた時は、出して地面に広げて、口に含んだ水を吹きかけるとムクムクと立体化して白いロバになるので、またがって出発する。これなら、飲ませる水も食わせる飼葉も、つないでおく杭もいらないし、盗まれる恐れもないわけだ。  玄宗皇帝の使者・裴唔が会った時、張果老はコロリと倒れて絶命してしまったのであるが、裴唔はこの老仙人がチョイチョイ死ぬくせがあることをわきまえていて、慌てず騒がなかった。死体に向かって恭しく香をたいて、お召しの旨を伝えた。すると張果老はヒョッコリ起き上がって礼を返した。人を馬鹿にした老爺。 ・張果老はやっと重い腰を上げ、今度は死にもしないで上京する。まったく厄介な老爺。  玄宗は張果老を宮中にとどめて厚遇を極めた。そうなると張果老は不愛想ではなく、よぼよぼ老人から忽ち黒髪皓歯の美男子に若返って見せたり、一斗入りの酒がめを人間に化けさせて皇帝の酒の相手をさせたり、けっこうご機嫌を取り結ぶようなこともするから、おもしろい。  この宮中生活の間に張果老は、皇帝や曹皇后に大きな建物を移動させたり、花の咲いている木に息を吹きかけて、一瞬のうちに実をみのらせた、という話がある。 ・玄宗はますます張果老を尊び、通玄先生という号を授けたり、集賢殿にその肖像画を掲げたりした。それでいて張果老は自分の来歴、素姓は決して語らない。どんなもの知りの老臣に聞いてもわからない。ここに葉法善(しょうほうぜん)という道士があった。  皇帝に向かって密かに申し上げるには、「拙道は彼が何者であるかを存じております。しかし、それを口外いたしますと即刻死なねばなりませぬ。その時、陛下が御自ら免冠跣足(めんかんせんそく)し給い、張果老に詫びて、拙道を生き返らせて下さいますのなら申し上げましょう」  一言いうのに命がけである。むろん玄宗は「詫びてやる、生き返らせてつかわすから申せ」と迫った。葉法善は姿勢を正して、「しからば申し上げます。張果老はもとこれ人倫にあらせず、混沌初めて別れて天地成るの日、生まれ出でたる白蝙蝠の精……」といいかけて、バッタリ、床に倒れて息が絶えてしまった。   ・玄宗は、慌てて張果老に与えてある部屋に行き、免冠跣足、つまり王冠を脱ぎ、跣足(はだし)になって罪人の形を取り、「生き返らせてくれ」といった。 「かの葉法善という小僧は口が軽すぎます。こらしめてやりませぬと天地の機密を破るでしょう」と張果老は頑固爺さんを決め込んでいる。玄宗は繰り返して、「あれは朕が強制して、むりやりしゃべらせたのだから、今度だけは許してやってくれ。頼む」と懇請した。  仙人たりとも、天子に「頼む」とまでいわれては、拒むことが出来ない。張果老は、“紙ロバ”にするように口に含んだ水を吹きかけて、葉法善を生き返らせてやった。 ・この道士が、何ゆえ張果老の本相を知っていたのかは、仙人伝でも語られない。張果老を加えて八人の仙人を「八仙」といい、それらの活躍する物語『東遊記』では、いたずら小僧仙人の藍采和(らんさいわ)が、張果老のことを「あの蝙蝠爺さん」と呼んでいる部分がある。八仙のうちで藍采和一人だけが少年で、何仙姑(かせんこ)だけが女性である。藍采和が張果老の“紙ロバ”を失敬して乗りまわし、戻って来ると、八仙の中の名物男・鉄拐仙人(てっかいせんにん)がふざけて何仙姑を口説いている。藍采和が「逢引きですか、いけませんねえ」とからかうと、「何をいうか、この小僧」と鉄拐仙人がロバを奪い取って自分が乗る。三人は顔を見合わせて大笑いをした、という一説もある。 ・張果老は、玄宗皇帝の宮廷にそう長いこと滞在していたわけではない。やがてふり切るようにして宮廷を去り、恒州の仙居に帰っていった。その後、今度という今度は本当に死んで人界から姿を消した、というのであるが、何しろ奇人の怪仙。本当に死んだのかどうか、誰も保証は出来ない。  張果老は八仙の中でも長老格で、『東遊記』では泰山を動かして海へ放り込み、龍王たちを困らせるという大法力を示している。呂洞賓(りょとうひん)が「これから八仙がみなで海を渡ろうではないか」といった時も、老人らしくそれを制している。龍王が水軍を興して攻めて来た時も、ほかの七仙は油断して寝ていたのに、張果老だけは耳ざとい。先に目を覚ましてみなを呼び起こすといった調子で、一味違った活躍ぶりである。   

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