谷に落ちて怪我をし動けなくなった男の前に山男が現れ、男を背負うと屏風のような断崖をやすやすと登って医者の門口まで運び、すーっと姿を消した。(1)

『日本全国 おもしろ妖怪列伝』

山下昌也     講談社   2010/8/27

<天狗の正体>

・ところで、天狗には1番目の大天狗に始まって、中天狗、小天狗、木の葉天狗、烏天狗から23番の水天狗までのランクがある。そして、大物の天狗には名前がつけられた。代表的な八大天狗は、愛宕神社を守護する京都愛宕山太郎坊、比叡山から移った滋賀県平良山次郎坊、飯綱法の本拠地長野県飯綱の飯綱三郎、牛若丸の師・京都鞍馬山僧正坊、伯耆大山から移った神奈川県大山伯耆坊、天狗になった崇徳院を守護するために相模大山から移った香川県白峰相模坊である。これに別格の「法起坊」を加える。法起坊は役の行者(役小角)の狗名である。

・大天狗の顔が赤く鼻が高いのは、そのモデルが天孫降臨の道案内の神で、「赤ら顔に鼻の長さ七握、目は鏡のように照っている」猿田彦命だという説があり、神楽での猿田彦命は天狗そのものである。また、荒ぶる神、須佐之男神の猛気が飛び出して生まれた姫神の息子の天魔雄命が、全日本の天狗の長であるという説や、超能力を得た修験者が天狗になるという説もある。

<最上位の天狗、愛宕山太郎坊>

・大杉の上に天竺の日良、唐の善界、日本の太郎坊という天狗の統領たちがそれぞれの眷属数万を率いて現れ、「我々は二千年も昔に仏の命を受けてこの地を領し、人々を利益する者だ」と告げて姿を消したと伝えられる。愛宕山には元々天狗が棲んでいたのである。

<源義経の家来、常陸坊海尊>

・恐山は青森県の北端、下北半島の中央にある霊峰だが、すぐにイタコを連想するように、死者の集まる山のイメージがある。この山に棲む天狗が常陸坊海尊である。

 常陸坊は、元は常陸鹿島神宮の社僧だったが、修験の道を極めていた。それが武蔵坊弁慶とともに源義経に仕えてからは、平家討伐から奥州に落ち延びるまで、ずっと義経の側で行動をともにしていた。その常陸坊がどうしたことか天狗になっていたのだ。

<常陸坊の不老不死伝説>

・常陸坊海尊は謎の多い人物で、生没年が不明なのはもちろん、経歴も園城寺(三井寺)または比叡山の僧だったと二説ある。

・海尊がどのようにして不老不死になったかにも諸説ある。柳田国男は、海尊が富士山に入り、岩の上にある飴のようなものを食べて不死を得たとし、林羅山は、海尊が枸杞を常食したいために不死を得て、江戸時代初期の天正期(1580前後)まで生存したという。林羅山のいう海尊とは、会津の実相寺に居た残夢という禅僧のことだが、義経に関してはまるで親しい関係だったように詳しく、合戦の様子などを見てきたように生々しく語っていたという。

<山本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)>

<妖怪はフツーの武士?>

・江戸時代中期の寛延二年(1749)に、備後三次藩(広島県三次市)の藩士、稲生武太夫がまだ平太郎といっていた時に体験した怪異をまとめた『稲生物怪録』に、妖怪の頭目として最後に登場する。が、フツーの武士の姿で、妖怪らしくない。『稲生物怪録』は絵巻が数種類あり、平田神社蔵の妖怪画では、山本五郎左衛門が三つ目の烏天狗になっている。武士の姿は仮の姿なのだろう。

<平太郎、妖怪に勝つ>

・平太郎はこれらの妖怪をことごとく退け、最後に現れたのが山本五郎左衛門だった。

 人品よろしく40歳ぐらいで浅黄の裃を着た山本五郎左衛門は「世界中で100人を脅せば魔国の頭になれるので、これまで85人を試し、86人目の平太郎に初めて敗れたのが残念だ」と言って、平太郎の勇気を称えた。そして、これから改めて挑戦しなければならないが、競い合っている真野悪五郎という魔が当屋敷に現れたら、「此の槌で北の柱を打ちたまへ、我来たりて貴殿に力をあわせて悪五郎を引き裂き見せ申さん」と木槌を平太郎に与えた。

 そして、庭に異形の者が集まり、一同、平太郎に礼をし、魔の乗物に山本五郎左衛門が乗って雲の中に消えたのだった。その時、乗り物から大きな髭足が出ていたという。

<山男>

・山男といえば、現代では山好きの人間の男のことだが、かつては各地の山に棲む怪物のような大男のことをいった。「山人」または「大人」「山丈(やまおとこ)」「山鬼」などとも呼ばれ、おおむね人間とは友好的だが、地方によっては危害を加える者もいる。

 『絵本百物語』の詞書には「背の高さ二丈(約6メートル)斗りにて、其形鬼のごとし」とあるが、解説には「六尺(約180センチメートル)より低い者はない」とあって、かなり差はあるものの、大男には変わりはない。

 同書には、「遠州秋葉(静岡県袋井市)の山奥に棲む山男の生活ぶりは分からないが、時々現れては樵の重い荷物を人里近くまで運んでくれ、謝礼の金銭を与えても受け取らない。だが、酒は好きで、与えれば喜んで呑む」、と気の良い性質ぶりを伝えている。

 同国の善良な山男の話はまだある。病人が出たので医者を呼びに行く途中で谷に落ちて怪我をし、動けなくなった男の前に山男が現れ、男を背負うと屏風のような断崖をやすやすと登って医者の門口まで運び、すーっと姿を消した。後日、男が礼を言うために、酒を携えて助けられた谷に行くと、山男が二人現れて、大喜びで酒を呑んだという。

<各地に伝わる山男伝説>

・津村淙庵の『譚海』によれば、相州箱根にいる山男は、裸体に木の葉や樹皮の衣を纏い、山中で魚を獲り、里で市のある日には里人のもとへ持ってきて米に替えたという。棲み処を確かめようと後を追っても、絶壁を飛ぶように去っていくので、決して棲み処を知ることはできないという。小田原の城主は、人間に害をなすものではないので銃で撃つことなどないようにと制していたので、この山男に危害を加えようとする者はいなかったという。

 青森県赤倉岳では大人と呼ばれ、相撲の力士よりも背が高く、山から里に降りることもあり、これを目にすると病気になるという伝承がある一方、魚や酒を報酬として与えることで農業や山仕事などを手伝ってくれたという。

・弘前市の伝承によれば、かつて大人が弥十郎という男と仲良しになって彼の仕事を手伝い、さらに田畑の灌漑などをして村人に喜ばれたが、弥十郎の妻に姿を見られてから村に現れなくなり、大人を追って山に入った弥十郎も大人となったという。

 昔の村人たちはこの大人を鬼と考えていて、岩木町鬼沢(弘前市)の地名はこれに由来するらしく、現地の鬼神社は、彼らの仕事ぶりを喜んだ村人が建てたものといわれ、彼らが使ったという大きな鍬が御神体として祀られている。

 秋田県北部でも津軽との境に住む山男を山人、または大人といい、煙草を与えると木の皮を集める仕事を手伝ってくれたといわれる。

<煙草の好きな山男>

・北海道の大雪山に棲む山男も煙草が好きだ。貧乏な猟師が何日も山に入ったが、獲物はゼロで食料もなくなっていた。やっと川瀬の足跡を見つけ、辿っていったが、不思議なことにいつの間にか後ろ向きに歩いていた。それに気づいた頃、カンジキで雪を踏むような大きな音がはるか向こうの沢から聞こえ、音が近づくと頭上が急に暗くなった。巨大な山男が立ち塞がり、睨み下ろしているのである。

・『北越奇談』にも人間と山男の交流の話がある。越後国(新潟県)高田藩で山仕事をしている人々は山男と一緒に暖をとることがよくあったという。身長は六尺(約180センチメートル)で赤い髪と灰色の肌の他は人間と変わりがない。牛のような声を出すのみで喋れないが、人間の言葉は理解できたという。裸身で腰に木の葉を纏っていただけなので、獣の皮を纏うことを教えると、翌晩には鹿を捕えて現れ、獣皮の作り方を習ったという。

<山男は百年前の失踪者?>

・江戸時代の初期、土佐(高知県)の白髪山に鬼に似た者がいて恐れられていた。高知県には白髪山が二つあるのでどちらか分からないが、約1500メートルと約1800メートルの山である。土佐藩家老・野中伝右衛門から「如何様にしても連れて参れ」と命が下り連行された。髪は乱れ、全身が松皮のようで鱗があった。持っている大きなマサカリで獣を一撃で撃ち殺して喰うのであるが、人に危害を加える様子はなく、化け物でも獣でもないようだった。

<山童 やまわろ(やまわらわ)>

<季節で移動する妖怪>

・西日本の山に棲む童子姿の妖怪で、セコ、山の者ともいわれる。見た目は十歳ぐらいだが頭髪は柿褐色で長く、全身に細かい毛が生えていて胴は短く長い足で直立して歩き、人の言葉を話すとされる。

 正体は河童で、地域によって異なるものの、河童が秋の彼岸に山に入って山童となり、春の彼岸に川に帰って河童に戻るとする伝承が多い。これは、山神が春に田の神、水の神となって農耕を守り、秋の収穫が終わると山に帰るのと似ている。

 山童は相撲好きで、牛や馬に悪戯するというから、やはり河童かもしれない。が、人間が山童を殺そうとすると、「覚」のように人の心を読んですぐに逃げてしまう。さらに、覚と同じく、人間が無意識にしたことに驚いて逃げ出すという伝承も各地に残している。

 山へ行き来する際には集団で行動し、オサキと呼ばれる決まった通り道を進むので、人がここに家を建てると怒り、壁に穴を開けてしまうという。また、矢代市の伝承では、春になって山から川へ下りる時、決まった道筋を通るが、時にはジェット機のような音をたてて鳥のように飛ぶこともあるという、また、川に戻る山童たちを見に行こうとすると、必ず病気になるともいう。

・山中で樵の仕事を手伝うことがあるが、お礼として酒や握り飯をあげるとまた手伝ってくれる。熊本の葦北郡では山仕事が多い時、「山の若い衆に頼むか」と言って山童に仕事を頼む、お礼は飯でも魚でもよいが、量が少なくても最初に約束した物でなければ山童は怒る。だが、仕事の前にお礼の食べ物を渡すと、食い逃げされるという。

 女の山童も仕事を手伝う。岩焼の竈の火を絶やさないように手伝ってくれた4、5人の女山童は、髪が黒く色白でよく働いてくれた。が、毎朝、竈に御神酒を備えることを怠ると竈の火がなかなかつかないという。また、妊娠した山童に請われるままに一日小屋を貸したところ、この家の主人がお金に困るときには、いつでも窓からお金を投げ入れてくれたという。

<山姫>

<長身で髪の長い美女の妖怪>

・山姫または山女は、日本の各地に伝わる妖怪で、山奥に棲み、人を殺す。姿や性質は伝承によって異なるが、多くは長身で長い髪をもつ色白の美女で、立山の山姫は天女のように美しいとされる。

 服装は半裸の腰に草の葉の蓑を纏っていたり、樹皮を編んだ服を着ていたりするともいわれるが、徳島県祖谷の山女郎は十二単衣のお姫さまの姿で、愛媛県の山女郎は子供を抱いているなど、出現する状況によって異なり、普通の人間と変わらない場合もあるから油断できない。

 青森県の山姫は肌が非常に白く、背丈が六尺(約180センチメートル)もあり、裸体のままで滝壺の岩に座って長い髪の毛を水に浸して梳いていたという。

 岩手県では、長身で背丈よりも長い髪の毛の女を鉄砲で撃った猟師が、髪の毛を切り取って下山する途中、睡魔に襲われ、そこに現れた長身の男に髪の毛を持ち去られたといい、徳島県では、盥で行水していた男を山女が婿にしようと盥ごと頭に乗せて運んだが、途中で逃げられたというから、夫がいるのだろう。

<各地に出没する山女>

・笑いを凶器にする山女もいる。熊本県の山女は、地面につくほど長い髪を持ち、人を見ると大声で笑いかけるという。女性が山女に出遭って笑いかけられたが、大声を出すと山女は逃げ去った。が、笑われた時に血を吸われたらしく、間もなく死んだという。

 愛媛県で山女に出遭ってくすぐられたら笑いが止まらなくなり、やがて死ぬという。

 岩手県和賀の山女は、若い娘と30歳ぐらいの叔母の二人組で、仙台から金を採りに来た二人組の男に金の在り処を教え、雪崩の下敷きにして殺した。男たちの悲鳴が消えると、二人の山女の笑い声が響いたのだった。

<山姥 やまんば(やまうば)>

<老女から若い美人までいる>

・各地の山に棲む老女で、「山母」「山姫」「山女郎」とも呼ばれる。性質は、人や生き物を取って食べる恐ろしいものから、人間を助ける優しいものまである。山姥と書くが、美しい若い女性だとする地方もある。さらに、山の中だけではなく人家に現れたり、川に棲み川女郎と呼ばれたりすることもある。また、山姥の夫は山爺だとか、山姥の側には山童がいるとする地方もあるので、山姥の定義は難しい。

 有名な山姥は、熊に跨がる足柄山の金太郎、つまり源頼光の四天王の1人、坂田公時の母である。伝説では、金太郎の父は山爺ではなく、山姥の夢の中に現れた赤い龍だという。

・謡曲の「山姥」は、山姥が旅する京の遊女に山中で宿を提供するのは、遊女を喰うためではなく、遊女の唄に乗って、輪廻の中で苦しむ自分の身の上を語るためだった。

<山姥の正体>

・山姥は地域によって正反対の顔を持つので、正体もさまざまだが、姥捨て山に捨てられた者だとか、山神、またはそれに関係する者だとする説がある。

 山姥が多産であり、富を生むとする伝承が多く、多産では、一度に数十人の子供を産むのは序の口で、十万近い子供を一度に宿して産むことだってあるという。山神は生産の神で多産だから、これらの地域の山姥は山神であるかもしれない。

 なお、女房を山の神というように、山神は女性とされることが多いが、例えば、猿田彦も飯綱大明神も山神の化身であるように男神もいて、所によっては対で祀られている場合もあるから、山姥と山爺が夫婦であってもおかしくはない。

『日本民俗大辞典』

吉川弘文館     1999/9

<折口信夫  1887-1953>

・国文学・民俗学の研究史上、折口が果たした重大な成果の一つは、日本の神の一つの形態としてまれびとと呼ぶべき神があることを考え主張した点にある。まれびととはごく稀に、時を定めてこの世に出現するひとにして神なるものを意味し、実際に神としての言葉を述べ動作を行う。折口は、このまれびとの言動が文学・芸能の起る元となったと説くことで、独自の日本文学・日本芸能の発生論を打ち立てた。また、まれびとの故郷としての他界の観念と、まれびとの出現の場としての祭の実態とに強い関心を示し、その関連の論文を多数発表した。

<山男>

・山中に棲むとみられた男性異人。江戸時代の本草学では人類と異なる寓類・怪類の中にその存在を位置付けている。

・柳田国男は『遠野物語』の中で、背丈が高く目の色が恐ろしい山男の姿を紹介する一方、近世の地方誌などから、物をいわぬが人語を解す、人間に関心を示す、餅や握り飯を好む、女性をさらう、などの特徴を拾い、山女とともに日本列島上の山人史の中に位置付けて理解しようと試みた。

・柳田は巨人のダイダラ坊や大人なども山男の範疇に含めたが、今日各地に伝えられる山の神像や、妖怪視された河童・山童・天狗などの伝える特徴は、本草学が伝える知識と多くの点で一致し、山男との遭遇をめぐる各種の記事や経験談にもその影響が認められる。

<山女>

・山中に棲むとみられた女性異人。山男と一対をなす。江戸時代の文献や各地に伝わる話では、顔色が白く、髪が地に届くほど長く、丈も高く、裸体とされ、山姥のイメージと重なる。里へ現われ、男を求め山へ連れ去ろうとしたなどの話も残る。柳田国男は山男とともに山人に含めて、日本列島史の上にその歴史を明らかにしようとしたが、実証はできなかった。

<山姥 やまんば>

・山中に住むと考えられた女性の妖怪。山母・山女・山姫・山女郎などともいう。口が耳までさけた恐ろしい老女であるとも、若い美しい女性であるともされ、背が高い、髪が長い、目が光るなどの特徴をもつ。山姥は、人を食う恐ろしい怪物とされる反面、人間に富を与えるという福神的な性格ももつ両義的な存在である。昔話「三枚のお礼」「牛方山姥」などでは前者、「姥皮」では後者の性格が語られる。

・山姥に富を授かったという伝説は多い。高知県土佐郡土佐山村では、家が突然栄えることをヤマンバガツクといい、山姥神社をまつる所もある。愛媛県では山姥のオツクネ(麻糸の玉)を拾ったものが金持ちになったといい、長野県では暮れの市で山姥が支払った銭に福があるという。また全国的に山姥の子育て石・山姥の洗濯日のなどの伝承がある。

・金太郎を育てる足柄山の山姥は有名だが、もともと山姥に、子供を生む母性的な山の神の姿が投影されているものと考えられる。

<山人 やまひと>

・山に暮らしたり、山稼ぎに従事することにより、里人とは異なる容貌や気質、暮らしぶりをもつと里人から見られた人々。柳田国男は各地に残る天狗や山男・山姥などの伝説を手掛かりにして山人を先住民の子孫と考えたが、実証はできなかった。また折口信夫は山の神に仕えるために山奥に行ってそこに定住した山の神の神人と捉え、それが次第に里から忘れられてもともと山に住んでいたように考えられ異人視され、また先住民とも見られるようになったとみた。この山人が山裾へ出てきて山の産物と里の産物を里人との間で交換するのが市だとする。各地に残される山人と里人との具体的交渉を物語る逸話や伝説は、女を連れ去ったり、丈高く目が赤いなどの恐ろしい山人像を伝える一方、握り飯と交換に木出しの仕事を手伝ってくれたなどの交易・交流の跡も語っている。

<まれびと>

・時を決めて海の彼方の常世から、人々に幸福と豊穣を授けるために訪れてくる神。折口信夫が設定した用語。折口の学問の中心に据えられた基本概念であり、まれびとの創出によって日本文学の発生と展開の仕組みが解明されるとともに、国文学および芸能史の組織が大きく構想された。折口のまれびと論は柳田国男との出会いなくして成立しえなかった。『郷土研究』の創刊によってその学問を知った折口は、直ちに「髯籠の話」(1915)を投稿する。神の依代として髯籠を捉えた折口はそこから神の居所としての異郷を導き出してゆき、「妣が国へ・常世へ」(1920)を発表し、異郷論から神そのものの追究へと進んで行った。

・その結果発見されたのが眼に見える神、まれびとであり、その契機となったのが二度にわたる沖縄探訪であった。1921年(大正十)の探訪で楽土と楽土から訪れてくる神が沖縄には存在することを古文献を通して知る。翌々年の1923年の旅では、八重山のアンガマア、マユンガナシ、アカマタ・クロマタなど、眼に見える来訪神が盆や年越の晩などに訪れてきて、人々に祝福と教訓のことばを授けて帰ってゆく姿に出会い、現実の民俗として生活の中に生き続けているのを知った。こうした民俗に実地に触れ肉体をもった神を目の当りに見て、折口のまれびと論は大きく構想された。

・沖縄採訪の成果に加えて、本土にも奥三河の花祭・信州新野の雪祭など、祭のにわに登場する榊鬼をはじめとする鬼に対する考察とが一つにまとまって折口信夫はまれびと論を成立させていったといえよう。

・海の彼方や山の奥、あるいは天空から訪れてくる神、まれびとは祭の場に臨んで、人々に幸福と豊穣をもたらす威力のあることばを発する。土地の精霊はそれに答えて服従を誓う。この神と精霊の対立が文学と芸能の発生を促した。神が命令的に宣り下すことばは「のりと」となり、精霊が服従を誓うことばが「よごと」となる。この対立は、「ことわざ」と「うた」の対立となり、また神がみずからの来歴を物語る叙事詩は道行の詞章を生み出し、貴種流離譚を創り出していった。一方、同じ論理を芸能史に展開させると、神と精霊の対立は翁ともどきの対立に置き換えられる。このように、折口のまれびと発見によって国文学と芸能史の発生から展開までの論理が導き出され、大きく組織化された。

<神隠し>

・喪中期間に半紙などで神棚を覆う「神を隠す」習俗と、子供などが突然行方不明となった際に、その原因としていわれる「神が隠す」信仰の二種類があるが、一般には後者をいう。隠したとするカミには、鬼・天狗・狐・山の異人などが含まれ、正体不明の場合にもの隠しという表現もある。隠されるのは子供が多いが、出産後の女性や精神に障害をもつ人の場合もある。こうした伝承には、夕暮れ時が多い。隠された後に一回だけ姿を見せる、といった一定の類型も認められる。理由のわからない行方不明を神隠しと呼ぶことには、原因を神に帰することで慰めを得るという家族の心理が働いていたと思われる。しかしその一方で、みずからが隠された体験を語った人たちの伝承が、民間に広く蓄積されてきたことも事実である。

・沖縄では巫女の成巫過程において、神がかった状態の女性が急に姿を消し、各地を徘徊した後に帰還して、竜宮などの他界に行ってきたと語ることがある。すでに近世の『琉球神道記』(1605)や『遺老説伝』(1745)などに数例が記録されている。東北地方の民間巫者のなかにも、ある朝突然に山の神に呼び出されて、気がついたら山中に立っていた、といった証言が聞かれる。柳田国男の『遠野物語』では、猟師が山中で行方不明になっていた村の娘と出会い、山の異人にさらわれた経緯を聞いた話が紹介されている。連れ去られる際に空中を飛翔したという体験談は各地に残されている。地域によっては、神隠しと判断された場合、住民が総出で鉦や太鼓を叩いて名を呼ぶといった慣習もあった。

『日本民俗大辞典』

 吉川弘文館      1999/9

<いじん 異人>

(1)社会集団の成員とは異質なものとして、その外部の存在として内部の成員から認識された人物。折口信夫は、海の彼方にあると信じられている他界、常世から、定期的に来訪する霊的存在をまれびとと呼んだ。また岡正雄は、年に一度、季節を定めて他界から来訪する仮面仮装の神を異人と呼び、メラネシアと日本に共通する現象として指摘した。

・従来の民俗学では、秋田のナマハゲや沖縄八重山のアカマタ・クロマタといった、村落あるいは社会の外部から来訪した幸福をもたらすまれびとや、六部・山伏をはじめとする遍歴する宗教者などを対象とし、異人歓待や異人殺しの伝承を中心に、対象社会の個別事例にそって分析がすすめられてきた。これに対して、特定の時代や地域に限定されず、通文化的な分析を可能にする概念として、異人という言葉が使われ始めた。小松和彦は、異人を4つに類型化している。

・第1に、ある社会集団を訪れ、一時的に滞在し、所用が済めばすぐに立ち去っていく人々で、遍歴の宗教者や職人・商人・乞食、旅行者、巡礼者などがこれにあたる。第2に、ある社会集団の外部からきて定着するようになった人々で、難民、商売や布教のために定着した商人や宗教者、社会から追放された犯罪者、強制的に連行されてきた人々などである。

・第3に、ある社会集団が、その内部から特定の成員を差別・排除する形で生まれてくる人々で、前科者や障碍者がその例である。第4に空間的にはるか彼方に存在し、想像上で間接的にしか知らない人々で、外国人や異界に住むと信じられている霊的存在なのである。このように、異人は、ある集団が異質の存在だと想定し始めた人物認識が生じたときに生ずる概念である。

(2)外国人に対する呼称。もとは優れた能力の持ち主や別人・他人として使われる言葉で、外国人に対して使われる言葉ではなかった。しかし加藤曳尾庵の『我衣』によると18世紀後半以降蝦夷地に南下したロシア人に対してはじめて使われたと思われる。

・対外観の変化に伴い、米・英などから相ついで漂着した異国船の乗組員も対象となり、1859年(安政6)の横浜開港後は中国人・朝鮮人を除いた外国人の総称として定着する。野口雨情作詞「赤い靴」の「異人さんに連れられていっちゃった」という歌詞に表われるように、どこから来たともわからない外国人との認識を含む。

<異界>

・人間が周囲の世界を分類する際、自分(たち)が属する(と認識する)世界の外側の世界。その認識の主体は個人よりも、集団を想定する場合が多い。民俗社会で、霊魂が行く世界、つまり他界(来世)だけでなく、自分たちの社会の外側に広がる世界である。他界が時・空間両方の認識であるのに対し、異界はより空間的なイメージとして把握される。たとえば妖怪は、死後の存在である幽霊と区別されるが、彼らが住む世界は異界である。

 また現代社会では、特定の社会集団から見た異質な社会集団の生活・行動空間を異界と呼ぶ場合もある。この言葉は民俗語彙ではなく、分析概念であり現代の流行語ともなっている。異界という語は、人間が分類体系を作り上げる際の、構造論的思考と関連する。

・また内部社会の成員とは異なる外見や風俗習慣を持つ人間は、異界の住人、異人と呼ばれる。異人は外国人だけでなく、芸能民・山人など外側から訪れる人人も含まれ、時には妖怪視され差別された。異界の観念は、境界の観念と深く関わる。橋・坂・峠・辻などの境界の場所は、異界への回路であり、両義的な空間である。

『秘密結社の日本史』

海野弘   平凡社   2007/9

<折口信夫の<まれびと>論>

・<特定のおとづれ人>というのは、折口によれば、<まれびと>であり、彼方からやってくる神なのだ。蓑笠を着けた人は神であり、<まれびと>である。したがって、スサノオも<まれびと>なのだ。

 折口は<まれびと>を神であり、「古代の村村に、海のあなたから時あって来り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る霊物」といっている。

<まれびと>は折口学の根本となることばである。彼は1921年、23年の沖縄の旅でそれを発想したといわれる。彼方からやって来る神とそれを迎える土地の精霊。両者の間に行われる神事、そこから文学と芸能が生まれる。

・この<まれびと>こそ、実は秘密結社であり、折口は、<まれびと>論において、日本の秘密結社を先駆的にとらえたのであった。しかし折口自身、それについてどのくらい意識していたかわからないが、あまり発展されず、結社としての<まれびと>は埋もれてしまった。<まれびと>の原型になったのは、沖縄の八重山のアンガマア、マユンガナシ、アカマタ・クロマタなど。異装して訪れて、祝福を与えて帰っていく民族神を知ったことであった。

・アカマタ・クロマタは、八重山群島で、稲の豊作をもたらす仮面仮装の来訪神である。この神事のために、村人から選ばれた祭祀集団がつくられている。閉鎖的な秘密結社で、入るために厳しい審査を受ける。入社式があり、内部には階梯があり、初年者をウイタビ、2年目をマタタビ、それ以後をギラヌムという。これはメラネシアなどの見られるプリミティブな秘密結社が日本にも入っていたことを示している。他には男鹿半島のナマハゲなどが知られる。

 折口は、蓑笠を着て、鬼のような面をつけてあらわれる来訪神を<まれびと>と考えた。<まれびと>は、秘密の異界とこの世を往来する。そして蓑笠を着けてあらわれるスサノオは<まれびと>とされる。

・スサノオを<まれびと>の密儀を行う秘密結社と見ると、いろいろ理解できることがある。スサノオは大国主命に、さまざまな試練を与えるが、これは結社への入社式の試練と見られる。

 折口信夫は、笠をかぶってあらわれる来訪神<まれびと>として、スサノオ、隼人、斉明記に出てくる鬼などに触れた。隼人は、異民族で、天孫民族に征服され、宮廷の雑役をしたり、芸人として使われていたらしい。また竹を編んで、籠や笠をつくっていたという。

・神話の中には、日本文化の最古層に沈んでいる海洋民族の秘密結社のきおくがひそんでいる。折口信夫はそれを、まれびと。と呼んだ。<まれびと>の秘儀の中の、ほかひ、語り、芸能、占い、そして秘密の技などを持ち歩く人々の集団の中に、日本の秘密結社の原型がある、と私は思うのである。

<日本に秘密結社はあるか?>

・なぜに日本に秘密結社はない、とされたのだろうか。島国であり、単一民族で、万世一系の天皇制だから、秘密結社が存在する余地がなかったと考えられたのだろう

・後の歴史学は、日本の歴史も一本の流れではなく、複数の流れであることを明らかにしたはずだ。それにもかかわらず、<秘密結社>が見えてこなかったのは、戦後もずっと、戦前・戦中の史観の呪縛が解けていなかったことになる。

・綾部恒雄が触れているように、戦前にすでに、岡正雄は「異人その他」(1928)で、メラネシア、ポリネシアの伝統的秘密結社が日本文化の深層に沈んでいることを語っていた。それは折口信夫の<まれびと>の考えにつながってゆく、画期的な視野を持っていた。

・ここには、なぜ今<秘密結社>なのか、という問題へのヒントも示されている。<秘密結社>とは<異人><まれびと>(外からやってくる人・神)といかに出会うかを問いかけてくるものなのだ。

・だが、岡正雄の提案はこたえられず、日本は戦争に突入してしまい、<日本の秘密結社>は封印されてしまった。問題は、戦後になってもその封印が解けなかったことだ。戦争に敗れた日本はさらに自らに閉じこもり、異人とのつき合いに臆病になってしまった。

『異人その他』 

(岡正雄) (岩波書店)    1994/11/16

<異人>

・異人もしくは外人は、未開人にとっては常に畏怖の対象であった。あるいは彼らは、異人は強力な呪物を有していると考えて畏怖したのであろう。あるいは悪霊であるとも考えたのであろう。

・自分の属する社会以外の者を異人視して様々な呼称を与え、畏怖と侮蔑との混合した心態を持って、これを表象し、これに接触することは、吾が国民間伝承に極めて豊富に見受けられる事実である。山人、山姥、山童、天狗、巨人、鬼、その他遊行祝言師に与えた呼称の民間伝承的表象は、今もなお我々の生活に実感的に結合し、社会生活や行事の構成と参加している。

『異人・河童・日本人』 (日本文化を読む)

(住谷一彦・坪井洋文・山口昌男、村武精一)

(新曜社)  1987/11

<異人その他><日本民族の起源>

・アメリカ大陸の神話の中にスサノオ神話と同質のものが入っているらしい。もしそうだとすれば、スサノオ神話の歴史的な遡源は3万年近くまでさかのぼってしまうことになります。

・ストレンジャー(異人)が主役を演じる。

・大人(おおびと)というようなストレンジャーがあり、山姥が暮れに市に出るとその市が終わる、という話がある。

・経済史の中で、経済的な事象の中に「市に山人、異人、山姥、鬼が出現し、何程か市行事の構成に散ずるといふ事。つまり交易の相手たる『異人』の問題が考へられる」と書いておられます。要するに、ひとつの社会の対象化するために、そういうふうな異人が出現することが、いかに重要だったかということが、このへんで、明らかにされていると思います。

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