星野の話のなかでも、耳を疑うほど驚いたのは、「東条英機がミッドウェー海戦の無惨な戦況を知ったのはサイパン陥落の直前だった」というくだりである。(1)
『転進 瀬島龍三の「遺言」』
新井喜美夫 講談社 2008/8/7
<太平洋戦争の真実を明かす「遺言状」>
・本書は、瀬島の言葉を私なりの解釈を交えながら綴った、太平洋戦争の真実であり、瀬島の「遺言状」である。
<東条が語った驚くべき事実>
・星野の話のなかでも、耳を疑うほど驚いたのは、「東条英機がミッドウェー海戦の無惨な戦況を知ったのはサイパン陥落の直前だった」というくだりである。
・1942(昭和17)年6月5~7日の、このミッドウェー海戦の敗北により、日本は、南方の制空・制海権をほとんど失った。
だが、その後の戦局、作戦を左右する、この重要な事実は、東条英機首相には、サイパンが陥落する1944(昭和19)年6月まで知らされなかったというのである。
・しかし、サイパンは玉砕。伝わってきた戦況に青ざめた東条は、星野に訪ねた。「あの真珠湾攻撃を成功させた海軍の誇る機動部隊はどうした」
星野が「ミッドウェーで壊滅して、とうの昔にありません」と伝えると、東条は驚いていった。「そうとわかっていたなら、フィリピンにこだわったり、あるいはインパール作戦などやらなかったのだが……」
・星野が「東条はミッドウェー海戦の敗北を知らなかった」という話を公開したのは、迫水など、東急学士会の面々が居並ぶ前である。星野がつくり話をしているとはとても考えられなかった。
<海軍と陸軍にあった厚い壁>
・なぜ、ミッドウェー海戦の敗北が首相である東条に伝わらなかったのか――。
ひとつには海軍の隠蔽工作があったからだ。ミッドウェー海戦の負傷者は日本に揚陸させず、ひたすら敗戦を隠し続けた。今と違って、情報網が発達している時代ではない。それでなくとも、前線の様子は本土には伝わってこない。
陸軍の幹部も、最前線の様子はほとんど把握していなかった。参謀の瀬島でさえ、例外ではなく、「ガダルカナル島という名など、ずっと知りませんでした」とのちに語ったほどである。
戦艦大和や戦艦武蔵は健在だ。東条も、よもや連合艦隊の機動部隊が、痛手を負っているとは想像しなかった。
だが、東条に情報が届かなかった最大の理由は、東条が陸軍の軍人だったからである。
・戦中の日本軍の組織を知る人なら、陸海軍を束ねる天皇直属の最高統帥機関、「大本営」があったではないかと不思議に思われるかもしれない。
確かに大本営は名目上あったが、陸軍部と海軍部に分かれており、作戦も陸軍は参謀本部で、海軍は軍令部で立案。事実上、別々の組織として動いていた。
それがかろうじて一体となったのは、敗色が明らかになった終戦の年である。ガダルカナル島など南方諸島から陸軍が撤退を決めたときも、山本五十六は、「海軍では陸軍の面倒を見るほど余裕がないので、勝手にやってくれ」と、非協力的だった。
<敗戦を報告しなかった理由>
・瀬島が海軍の知人から伝え聞いたのも、「ミッドウェー海戦で大きな痛手を受けた」という漠然とした情報でしかなかった。
「海軍の恥をさらすようで、本来はもらしてはいけない情報ですが、お立場もあるでしょうから、あなただけのお耳には入れておきますと耳打ちされて……」
しかし、たとえ個人的な人脈を通して得た、漠とした情報であろうと、海軍の機密情報に接することのできた陸軍軍人は何人もいない。本来なら、瀬島は上に報告すべきだったが、瀬島はこれを握りつぶしたという。
・東条は辞任した杉山元参謀総長にかわって、一時期、陸軍参謀総長を兼ねていた。当時、瀬島は上官だった参謀本部作戦部長の田中新一中将と参謀本部第一部長の真田穣一郎少将と共に東条を訪ねている。
・その後も報告のため、瀬島は何度も東条と会っている。だが、最後までミッドウェーの件については自分の口からは話さなかったそうである。
「海軍のことですからねえ」と、まるで他人事のように語る瀬島に、私はあの愚かな戦争の本質が見えたような気がした。
<補給もままならず死の島に>
・陸海軍の確執がもたらした代償は、実に大きかった。最高責任者の東条でさえ、サイパン陥落時まで、ミッドウェー海戦での機動部隊壊滅は知らなかったのである。ましてや、陸軍の上層部にこの事実を知る者はいなかった。
制空・制海権を失っているにもかかわらず、日本陸軍が次々と決行した南方への侵攻作戦は、ことごとく失敗に終わり、夥しい数の兵士を無駄死にさせた。
1942(昭和17)年8月から翌年2月にかけて行われたガナルカナル島の戦いはその代表例である。
<なぜインパール作戦を止められなかったか>
・それというのも、陸軍はその後も、現状とかけ離れた無謀な作戦で若き命を無駄にしたからだ。
そして最後には、補給経路を考えない杜撰な作戦で歴史的な敗北を喫したインパール作戦へと進んでいく。
・インパール作戦には、学徒出陣で徴兵された大学生も数多く投入された。日本の将来を担うべき前途有為な青年たちが、次々と死んでいったのだ。
あの戦争の戦死者230万人のうち約8割が最後の半年間で亡くなっている。戦局が差し迫っても、陸海軍は協調態勢が取れず、赤紙(召集令状)一枚で徴兵した国民を無駄死にさせたのである。
<行財政改革で総理に>
・残るは、中曽根総理の誕生である。金権政治家といわれた田中角栄のように集金力があれば、金で総裁選を勝ち抜くことができるが、中曽根にはそれがなかった。
田中らの錬金術の秘密は、キックバックだった。政治力を使って、仕事を世話する。たんまりと儲けた企業に、田中はキックバックを要求した。そして、政治献金1000万円を持ってきた者には、100万円という具合に、1割ほどのキックバックを忘れなかった。実際、臨調の事務局には調査結果を示す数字もあった。
田中に献金すれば、仕事をもらえるうえに、政治献金の一部も返ってくる。キックバックされた金は、税金のかからない、いってみればクリーニングされた金である。もらうほうはうれしい。どうせ政界に献金するのなら、田中角栄に、となる。
・田中や鈴木善幸と違って、中曽根は融通が利かない。キックバックするどころか、「もう少し欲しい」という顔をする。勢い、政治献金の額は伸びなかった。
<戦犯を救った五島慶太>
・あるとき、私が「東条英機はミッドウェー海戦で、連合艦隊の中核である機動部隊が壊滅状態になったと知らなかったそうですね」と水を向けると、瀬島が事もなげにいった。
「ええ、知らなかったでしょうね」
あの話は本当だったのか――これがそのとき、私が抱いた感慨だった。実はかつて、瀬島の証言を裏付ける話を星野直樹から聞いていたからだ。
星野は、昭和初期に大蔵官僚になり、満州国建国後、実質的な統治者であった満州国国務院総務長官として腕を振るった。
その後、企画院総裁、貴族院議員などを歴任し、東条内閣の成立とともに、現在の内閣官房長官にあたる内閣書記官長に就任、日米開戦が決定された御前会議にも列席した経歴の持ち主で、紛れもなく戦中の主役のひとりである。
・東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁くという、本来なら国際法に違反する報復裁判である。まともな審理は期待できなかった。事実、連合国側から派遣された裁判長、判事のなかで、国際法の専門家は、インドのラダ・ビノード・パール判事だけで、パール判事はただひとり、日本の無罪を主張している。
<坂本龍馬は利にさとい武器商人>
・幕末、日本の秩序は乱れた。動乱の時期には、勝海舟のような俗物が跋扈する。世渡りのうまい者が、混乱に乗じて、のし上がった時代でもある。
私の解釈では、坂本龍馬もそのひとりだ。龍馬株は、戦後急上昇、歴史上の好きな人物を挙げろという問いには、いつも上位になるほど人気がある。
だが、私からいわせれば、龍馬はみんなが持ち上げるほど立派な人物でもなく、功績を残していない。龍馬人気に拍車をかけたのは、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』だが、あのなかで描かれている龍馬にまつわる話はほとんど架空に過ぎない。
・しかも、脱藩した後、龍馬は武器商人と手を組んで暗躍した。
一儲けを企んで、アヘン戦争へとイギリス政府を導いたイギリスの商社が香港にあった。戦後、日本では、その関連会社が高級スコッチ、「ジョニ黒」の輸入元として知られた、ジャーディン・マセソン商会である。
このジャーディン・マセソン商会が支店長として日本に送り込んだのが、長崎のグラバー邸の主、トーマス・ブレーク・グラバーだった。
その少し前、アメリカで南北戦争が、当初の予定より早く終わった。南北戦争に際して、アメリカ政府は5年分の武器を発注したが、4年で決着がつき、1年分の武器・弾薬が不良在庫として残った。
・こうして、龍馬経由で安い武器を手に入れた薩長は、圧倒的な火器の力で、幕府軍を倒すことができた。
しかし、龍馬は機を見るに敏で、商才はあったのかもしれないが、決して英雄でも偉人でもない。むしろ、日本を内戦に導いた張本人である。
ともあれ、勝海舟や坂本龍馬のような見識のない人間が台頭したのが幕末という時代だった。江戸260年の秩序が崩れ、士農工商という階級制度がなくなり、誰でも世の中で頭角を現せるようになった代わりに、節操のない人間がのし上がる土壌ができた。
<男爵位欲しさに戦端を開いた軍人>
・このようにして明治以降、平民であろうと農民であろうと栄達のチャンスがある世の中に変わって、出世至上主義ともいえる空気が蔓延していく。
なかでも、軍人は財産もコネもない庶民にとっては最も一般的な出世コースだった。現代の防衛大学校もそうだが、軍人になるための学校は授業料が免除されるばかりでなく、幾ばくかの金がもらえる。家が貧しい優秀な者が進めるエリートコースは、軍人を措いて他はなかった。
先の無謀な戦争が招いた悲劇もまた、戦功をはやった俗物軍人たちが戦線を拡大していった結果、もたらされたのだ。
<東条と瀬島の共通点>
・また、瀬島が荒木や杉山と同じ節操のない軍人だというつもりも毛頭ない。瀬島と共通点の多い軍人といえば、私は東条英機を挙げたい。陸軍と海軍を比べれば、陸軍は質実剛健で質素、海軍は派手好きで華美、贅沢を好むというイメージがある。実際、食事の仕方ひとつをとっても違う。
<金と女性には無欲だったふたり>
・「英雄色を好む」というように、功なり名を遂げた人物は女性関係も派手な男性が少なくない。女性を養うのも甲斐性だと考えられていた昔は、玄人女性なら倫理観としても許されていた時代で、なおさら外に女性を囲う者が大勢いた。
軍人も例外ではなく、山本五十六には複数のお妾さんがいたことが知られている。
<天皇のためにあえて汚名を>
・自決しようと考えていた東条のもとを、後任の陸相になった下村が密かに訪れた。国体護持を最後まで願っていた国民の期待に応えられるかどうか難しい。天皇に迷惑がかかることは極力避けなければならない。そのためには、天皇の身代わりになる人物が必要だった。
「非常に申し訳ないことですが、陛下の身代わりになれるのは、閣下しかいない。悪いがあなたがその役を引き受けてくれ。東京裁判において不名誉な裁きを受けてもらいたい。いつの日か、真実がわかる日が来るでしょう」
・拳銃による自殺未遂も、実は狂言で、東条には初めから死ぬ気はなかったという説もある。腹の肉をつまみ、そこに弾を撃ち込んで、自害に失敗した無様な独裁者という役割を演じて見せたというのだ。
<山本五十六は名将か>
・これに対し、井上成美は、
「あのとき、私が山本五十六長官なら、そんないい加減な答えはしなかった。私だったら、アメリカと戦争すれば絶対に負けます。私は軍人ですから、死ぬのはもちろん覚悟のうえです。しかし、近衛首相もただではすみませんよ。また陛下すら、どのようなことになるか保証の限りはありません。それでもかまわぬというのであれば、どうぞ日米戦争でもなんでも、ご勝手にお始めください、と答えたであろう。
さすれば、いかに近衛公が物わかりの悪い公卿育ちのお坊ちゃんでも、日米戦争はやるべきでないと考えたに違いない。それを、あのように、格好いいことをいうものだから、お人よしの近衛公は、なんとかなると思ってしまったのではないのか。結果、山本長官の発言が日本の歴史を左右したことになる」と述べていた・
<東条と山本はどちらが本物の軍人か>
・山本五十六は、1943(昭和18)年4月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、暗号を分析して待機していた米戦闘機ロッキードP38に、搭乗していた一式陸上攻撃機を撃墜され、モイラ岬のジャングルに墜落、戦死した。山本の死は一ヵ月以上秘匿された。
・公式発表では、山本は機上で被弾し、「顔面貫通機銃創、背部盲管機銃創を被り貴要臓器を損傷して即死」とされているが、私は山本の死には疑問を持っている。
山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の小隊長が、
「山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして(同乗していた)軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、二人の遺体は蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていた」と証言しているからだ。つまり、不時着からしばらくは、山本と軍医は生存していたことになるのである。
さらに、軍医の検死記録には、「気銃弾がこめかみから下アゴを貫通しているため、ほぼ即死」ともある。米軍のP38戦闘機の機銃は12.7ミリで、頭部に命中すれば頭半分は吹き飛ぶ。であれば、山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾ということになる。
このことを見ても、山本は自決したのではないか。初めからそのつもりで、飛び立ったのではないか。電報をアメリカに傍受されていることは、何度もドイツから注意を促されている。解読されるのはあらかじめわかっていた。連合艦隊司令長官の護衛機が、ゼロ戦6機というのも少なすぎる。
山本は「俺が指揮を執れば勝てる」と豪語していた。だが、日本が勝てる見込みはまるでない。いい格好をした山本は、自ら死を選んで、名を残そうとしたのではないか。
東条英機と山本五十六。どちらが本物の軍人だったか、世間一般とは違った評価があってもいいのではないだろうか。
<税金を納めなかった軍人>
・前章までに述べていたように、何ゆえ、日本軍は対米戦争などという無謀な戦いに足を踏み入れてしまったのか。筆者は根本の原因をつくったのは、明治維新だった見ている。
先にも触れたように、明治維新は「功」もあれば「罪」もあったが、はるかに罪のほうが大きかった。
・こうして産業革命によって生まれたのは、帝国主義という名の、西洋によるアジア、アフリカの侵略だった。ヨーロッパの列強は、蒸気船をつくり、大砲を装備し、その武力を背景に、原料と市場を求めてアジア、アフリカに進出、植民地にし、搾取した。さらに20世紀になると、原爆、水爆はじめ、大量破壊兵器がつくられ、大虐殺が可能になった。
・明治維新は、こうした悪しき西洋文明と唯物思想の移植でもあった。混乱に乗じて勝海舟や坂本龍馬のような俗物が跋扈した。坂本はグラバーと手を組んで、南北戦争で余った武器を輸入、薩長に売りつけて、内乱を煽った。薩長の官軍によって戦場に駆り出されたのは、それまで戦いとは無縁だった町民や農民である。
武士が戦って死ぬのは、その役割からいってもやむを得ない。だが、町民や農民は本来、その役ではない。彼らを鎮魂するために1869(明治2)年、大村益次郎の献策によって設けられたのが、靖国神社の前進、東京招魂社である。
以来、庶民も戦争に巻き込まれる構造ができ、靖国神社はいつの間にか、軍人を祭る神社になった。ゆえに、靖国神社には、やはり問題があるといわなければならない。
明治維新の大罪は、天皇を神格化し、日本を「双頭の鷲」にしてしまったことである。
・軍人は内政を軽視し、政府より軍部が上位だと考えていた。たとえば、明治の元勲、山縣有朋である。
私の見立てでは、山縣は器の小さな軍人だった。
山縣は1889(明治22)年に内閣総理大臣に就任した後も、陸軍軍人としての俸給を得ていた。しかも、税金もほとんど払っていない。
・税金を納めていなかったのは山縣だけではない。多くの軍人が長らく税金を納めていなかった。先の戦争が終わるまでは、軍人の税金は申告制であった。そのため軍人は一切申告せず、ビタ一文も納めていなかったのだ。
戦費が嵩むようになって、さすがに大蔵省は軍人たちにも税金を負担するよう求めた。国民が食べるものも我慢して、戦費を拠出している時代である。
さしもの陸軍省も、「前線の兵隊は別にしても、時勢が時勢だけに仕方がなかろう」と、国内の軍務官僚の税金徴収に渋々応じた。
・ロンドン海軍軍縮会議に次席随員として派遣された山本五十六は、現地で最も強硬に対米比率7割の確保を主張して、若槻礼次郎全権を困らせた。
そればかりか、大蔵省から派遣された賀屋興宣が、「軍艦は油を大量に消費する金食い虫だ。財政面から軍備の大きい負担には堪えられない」という旨の意見をいおうとすると、「賀屋黙れ、なおいうと鉄拳が飛ぶぞ!」と怒鳴りつけ、慌てて言葉を飲み込んだ賀屋を山本は殴り、賀屋は鼻血を流したという逸話は有名である。
国民が空腹に耐えながらお国のために我慢を重ねているときでも、海軍の首脳たちはたらふく贅沢な料理を食べ、戦費を使いたい放題使っていた。
にもかかわらず、税金さえ納めようとしなかったのだ。
<明治憲法の罪>
・明治以来、行政を屈服させ、自分たちが優位な立場を築くために、軍部が持ち出したのは、天皇の統帥権である。
内政と軍政が対立すると、軍部は決まって天皇の権威を笠にきて、「天皇の統帥権に対する干犯だ」と騒いだ。
<皇道派と統制派の対立>
・当時、陸軍は、皇道派と統制派が軍閥を形成、烈しく対立していた。
皇道派とは、財界や政界を直接行動、たとえばクーデターのような過激な武力闘争を通じてでも変革すべしとするグループで、この革命的な行動を、彼らは「昭和維新」と称していた。皇道派の過激思想は、主に尉官クラスの隊付き青年将校らに広く支持されており、代表的な人物としては、荒木貞夫元陸軍大臣や真崎甚三郎教育総監が挙げられる。
かたや統制派は、合法的に政府に圧力を加えることによって政治を操作しようという、陸軍内の勢力である。軍内の近代派であり、近代的な軍備や産業機構の整備にもとづく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。その親玉が、相沢事件で殺害された永田鉄山で、旧桜界の系統の参謀本部、陸軍省の左官クラスの幕僚将校が中心になって支持していた。東条英機も統制派に属していた。
<海軍でも繰り広げられた派閥争い>
・かたや海軍はどうだったか。海軍もまた双頭の鷲だった。艦隊派と条約派の二大派閥が互いに争っていた。
・陸軍青年将校の叛乱が2・26事件なら、海軍の青年将校らの叛乱事件が、1932(昭和7)年5月15日に起きた5・15事件である。
・叛乱の背景にあったのは、大きくは政党政治の腐敗への義憤だったが、直接の原因は1930(昭和5)年に締結されたロンドン海軍軍縮条約への不満である。
<すべての病根は明治維新>
・かように、陸軍も海軍も内輪の権力闘争に憂き身をやつし、大局観もなく、内向きの論理で無謀な戦いへと突入していったのだ。
それに拍車をかけたのが、軍人の功名心である。
天才・石原莞爾は、中国戦線の拡大は望ましくないと口癖のように説いたが、手柄を立てることしか念頭になかった多くの軍人たちは聞く耳を持たなかった。
『保守の正義とは何か』
公開霊言 天御中主神 昭和天皇 東郷平八郎
大川隆法 幸福の科学出版 2010/8/7
<能力の高い人材を抜擢せよ>
・私は海軍にいたから、地上戦は海戦と同じではありませんが、どちらかと言えば、いわゆる空中戦のほうが少し近いかもしれませんね。武器効率や作戦立案のところは、海軍のほうにやや近いかもそれませんが、少なくとも、将となる人材の能力が低いことが大きいですね。
・個人個人の判断能力がとても低いですね。非常に能力の低い人がタイトル(肩書)をたくさんもらっているのではないでしょうか。だから、内部的に見れば、もう少し「実力人事」をきちんとやらないと駄目ですね。年齢や性別にかかわりなく、能力の高い人が上に上がれるようにしなければいけません。きちんと判断ができ、きちんと意見を通せて、解決策が見通せるような人を上に上げられるような体制をつくらないと駄目ですね。
先の大東亜戦争においても、海戦で敗れたのは、もう将だけの問題ですよ。実際には、優秀な人はいたのですが、下にいたために力を発揮できませんでした。やはり、最終判断をするものが間違えたら、勝てないところはあるのです。したがって、しばらくは、抜擢人事をやらないといけないのではないでしょうかね。うーん。そう思いますね。
『小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか』
「帝国陸軍最後の軍人」が守り通した秘密
斎藤充功 学研 2015/5/27
<中野学校の卒業生>
・軍服を脱ぎ(昭和18年以降になると軍服で勤務した卒業生がほとんどであった)。背広や現地人の服装をまとい、中国大陸や満州、北方、南方地域などの日本軍が進出した全戦線で謀略戦や情報戦、あるいは諜報戦、宣伝戦、遊撃戦(ゲリラ戦)などの特殊工作を展開したのが、中野学校の卒業生たちであった。
・それから6年後の2014年(平成26)1月16日、肺炎で小野田はこの世を去った。91歳だった。結局、小野田の口からルバング島の知られざる真実を聞くことはできなかった。
だが、小野田が発したあの言葉は、その後も私の頭から離れることはできなかった。
「ルバング島のことだが、今まで誰にも話していないことがあるんだ・・・・」
もしかしたら、小野田は誰にも話していないルバング島での29年間の真実を、ルバング島の極秘任務の真相を私に話してくれようとしたのではないか――。
ここから小野田寛郎の真実の姿を追跡する取材が始まった。
小野田はあのとき、私に何を話そうとしたのだろうか。
そして、小野田はルバング島で29年間、いったい何をやっていたのかーー。
・堀の記述をみれば、情報班の別班の任務はスリリングだったことが窺える。そして、山路長徳少佐が指揮する「山路機関」が、1942年(昭和17)末、敵の女性スパイを確保して、“2重スパイ”に仕立て上げたという秘話も、堀は同書で次のように書いている。
本間兵団(注・第14軍の軍司令官で戦後、処刑された本間雅晴中将の指揮する部隊)がマニラに進入したとき、軍参謀の部屋から本間兵団の重要書類を盗もうとした、英国の仏人系美人スパイのリタを捕えて、これに整形手術をさせ、別人の顔に仕立てて遂に日本のスパイとして、マッカーサーが比島から退却に際して残していった米軍の残置諜者を暴き
出し、これに徹底的な打撃(主として処刑)を与えたのも山路機関であった。(注は著者)
中野学校は「謀略は誠なり」の精神を教育理念としていたが、堀の記述にもあるように、戦地では、スパイ活動によって拘束した敵の工作員を処刑していたことも明らかにされている。
・30万を超える兵力を要していたとはいえ、堀の分析によれば、方面軍の戦力は兵員、火力ともに米軍の3分の1程度の戦力しかなかったとされる。このような戦況下にあったフィリピン戦線へ小野田らは派遣されたのである。小野田が着任したのは、方面軍参謀部情報班だったが、正式な申告は、マニラから南に100キロほど離れたリパに司令部を置く第41軍隷下の第8師団(弘前)だった。この師団はルソン島南部を防衛する中核師団として奮戦しているが、終戦直前には米軍によって全滅寸前まで追い詰められていた。最後の師団長は、第41軍司令官兼務の横山静雄中将(陸士24期)だった。
<残置諜者としての戦い>
・潜伏を決して以降の小野田は、中野学校で仕込まれた諜報員としての本領を発揮し、部下3人を率いて島内で残置諜者としての活動を開始する。
かき集めて所持していた武器・弾薬は「38式歩兵銃3丁、99式小銃1丁、14年式拳銃2丁、軍刀1本、手榴弾8個」で、実弾は「歩兵銃と小銃弾合わせて2300発、ルイス式旋回機銃弾600発(飛行機搭載の機銃)」(『たった一人の30年戦争』より)だった。小野田らは、これらの武器と装備で米比軍と交戦するつもりでいたが、実戦を経ずして日本は無条件降伏した。対米戦争に日本が負けたという情報を、小野田が半信半疑ながら知ったのは、米軍機から撒かれた“降伏ビラ”によってだった。1945年(昭和20)10月末のことである。
<帰国後に巻き起こった空前の“小野田ブーム”>
・フィリピンにおけるすべてのセレモニーが終わってから3日後の、1974年3月12日午後4時、小野田は日本に帰還した。
当日羽田国際空港の第2スポットに、日航機326便は駐機した。空港の送迎デッキには、小野田の帰国を祝う7000人を超える人々が、手に手に日の丸の小旗を振って、万歳を三唱していた。
・複雑な心情に揺れ動いていた小野田を尻目に、報道合戦はますます過熱していった。そんな最中に舞い込んだのが、週刊誌『週刊現代』からの手記の執筆依頼だった。講談社が所有する伊豆の別荘で、口述筆記するゴーストライターと生活を共にしながらの執筆だった。
1974年(昭和49)7月にスタートした連載のタイトルは「闘った 生きた」。帰国からわずか4ヵ月後の手記連載という、異例の速さだった。
だが、帰国後の猛烈な環境の変化で小野田は心身ともに疲弊したため、日本の生活に嫌気がさし、帰国から半年後には次兄が経営しているブラジルのマットグロッソにある牧場に、雲隠れしてしまった。
<シ―グレーヴが説く「山下財宝」伝説>
・フィリピンの金塊にまつわる有名な話に「山下財宝」伝説がある。
山下奉文大将率いる日本軍が、終戦時にフィリピンの地下に莫大な量の金塊を埋め、戦後に引き上げようとしたものの、そのままの状態で眠っているという、いわば都市伝説のような話であり、戦後も詐欺話の枕詞として流布してきたという経緯がある。
・第2次世界大戦末期、日本軍はアジア各国から略奪した金・財宝をフィリピンに隠したというのである。
<フィリピン金塊譚と小野田寛郎の接点>
・そして“奇譚”ともいうべき、フィリピン金塊譚のバックボーンに関して、1章を割いてまで検証した理由は、小野田寛郎の知られざる任務、つまり、彼が日本が敗戦したという事実を知りながら、ルバング島に潜伏し続けた理由と密接に関係するからである。
山下は取材の際、私にこう言った。
「フィリピンには、ふたつの種類の金塊がある事実を認識して頂きたいのです。ひとつは、“機関”によって計画的に隠匿された大量の金塊。もうひとつは、軍によって隠された軍資金です」
ふたつの金塊譚が合体して、途方もない量の金塊がフィリピンに眠っているという「山下財宝伝説」が形成された。
そして、シーグレーヴは『GOLDWARRIORS』で、小野田の任務を“皇族によって隠匿された金塊を監視すること“だったと書いた。しかし、私は中野学校関係者の取材を通して、小野田に課せられた任務は、シーグレーヴが説く任務とは違うものだったのではないかという考えに至った。
では、小野田の任務とは何だったのか――それは、山下の証言にあった“軍によって隠された軍資金”を守ることだったのではないか。そして、その軍資金とは、“マル福金貨”と呼ばれた、ゴールド・コインだったのではないか…………。
<運命のゴールド・コイン――マル福金貨>
<「福」という文字が刻印された金貨>
<「彼の使命はマル福金貨を守ることにあったと思う」>
・――小野田さんのルバングでも本当の使命は、何だったと思いますか。
Kは「推論だが」と前置きしたうえで答えた。
「残置諜者としての任務を果たしたわけです。しかし僕は、彼の本当の使命は、“マル福金貨”を守ることにあったと思う。
戦地は終戦末期になると軍票はまったく使えず、物資の調達はマル福(金貨)でやっていた。杉兵団がルソンからルバングにまる福を運び込んだのは、尚武集団の命令で軍資金の安全を考えたうえでの秘策だったと思う。目的は軍資金の隠匿。ちょうど、小野田が派遣された時期に運び込んだのではないか」
<師団司令部から届いた“重要なブツ”>
・小野田が「日本は戦争に敗け、終戦を迎えた」という事実を認知していたことはまちがいない。にもかかわらず、日本の敗戦を認知していた彼が、ルバング島に29年間も潜伏し続けていた理由は、我々が与り知ることのできない“特殊な任務”を彼が背負っていたからだとしか考えられない。
その“特殊な任務”とは何か――それが、前出のKの証言にもあった「マル福金貨を守ること」だったのではないか。
<“虚像”という重い十字架>
・小野田は昨年1月、入院先の築地・聖路加国際病院で91歳で亡くなった。
1974年3月に帰国して以来、小野田は自身の思惑とはまったく別の次元で創られた「英雄・小野田寛郎」という“虚像”を、あらゆる場面で演じ続けてきたのではないかと思う。
・小野田寛郎は、29年間、ルバング島で何をしていたのか――。
この問いに対する私の見解はすでに述べた。山下の見解が正しいのか私の見解が正しいのか――それは読者の判断に委ねたい。いずれにしろ、本書で明らかにした小野田の実像は、残置諜者としての任務を全うした、命令に忠実な、紛うことなき「帝国軍人」であった。その事実はけっして揺るがない。
29年間の潜伏と引き換えに小野田が得たものは何だったのだろうか。ブラジル移住の資金も、隠匿された金塊から得たという話も一部では囁かれた。しかし、それは違うだろう。当時、出版界で小野田の手記の印税は「数千万円から1億円」と噂され、話題となった。おそらく、移住の資金は手記の印税から捻出されたはずだ。
『天皇の金塊』
高橋五郎 学習研究社 2008/5
<明治以降の日本における最大のタブーと欺瞞>
・「金の百合」と称せられる“巨大資金”がわが国には隠匿されている。戦争を繰り返した大日本帝国が、“天皇の名”のもとにアジア各地から強奪した戦利品の集大成である。現代の日本社会をも動かしつづけているという、この略奪財宝の実態とは果たして何なのか?{金の百合}を軸に見えてくる、これまで決して語られることのなかった、明治以降の日本における最大のタブーと欺瞞を白日のもとにさらす。
・繰り返すが、ほぼ150年前のいわゆる“近代ニッポン”の始まりは国民のための近代社会の始まりとはまるで無関係だったということだ。要するに明治維新を革命と讃えている間は、大正・昭和・平成と続く時代の真実は見えないようになっているのである。
<ヒロヒト名義の大量金塊がフィリピン山中に今も隠匿>
・「あの戦争の最中も、昭和天皇のマネーはバチカン系の金融機関で運用されていたものだったよ」。私が元ナチス・ドイツのスパイ(スペイン人ベラスコ)から、昭和天皇の名義とされる「天皇の金塊」=秘密マネーがバチカン系の銀行で運用されていた――こんな話を聞かされたのは1980年(昭和55年)の初頭だった。
・ベラスコ(南欧系、熱血漢)は戦時中、戦費の調達目的で秘密交渉を担当したナチス親衛隊大将で保安諜報部外務局長の「RSHA」ワルター・シューレンベルグ(北欧系、青白き天才)と共によく銀行に出向いていた。訪問先はドイツ国立銀行ライヒスバンクとスイスに新設された銀行――金塊を担保に、参戦国全ての戦費融資に協力する唯一の“戦時”バンク、国際決済銀行(通称BIS)だ。
・ドイツ国防軍情報部(アプヴェール、長官カナリスはシューレンベルグと犬猿の仲)に所属するベラスコはSSシューレンベルグの活動エリアよりも広く、ドイツ国内はもとよりスペイン、イタリア(バチカン教皇国)、日本も含んでいた。
・ベラスコが機関長を務めた情報機関(TO)は、歴史と宗教上の経緯から南米スペイン語圏の大小の諸国と太平洋の島嶼フィリピン諸島を活動の範囲に含んでいたのだ。
・私はベラスコが勿体をつけて語ったバチカン・マネーの話を聞いてからほぼ数年後の1988年頃、今度は乾き切ったシュールな金塊話を日本人の国際金融ブローカーたちから聞かされることになる。それは昭和天皇(日本皇室)所有で知られた金塊が天文学的規模で現在もフィリピン山中に隠置されているというもの。天皇家名義の金塊のほかにバチカン名義の金塊も含まれるともいう。
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