「座敷わらしの宿」として知られ、2009年10月に火災で全焼した岩手県二戸市・金田一温泉の旅館「緑風荘」が再建され、6年7か月ぶりに営業を再開した。(1)
『座敷わらしを見た人びと』
高橋貞子 岩田書院 2003/6
<愛らしいザシキワラシ>
・おじいいさんが、真夜中にふと目を覚ますと、なんと、愛らしいザシキワラシが立っていて、寝ていたおじいさんの顔を、くるりと撫でました。おじいさんは、「現れたザシキワラシは、追い払うものではない」と知っていましたから、ザシキワラシのなすに任せて、じっとしていました。
おじいさんは目を開けて、ザシキワラシの着物の模様や、身丈などを観察しました。ザシキワラシは男の子で、3、4歳に見え、縞模様の着物を膝あたりまで短く着ていました。脛はやせていました。髪は、てっぺんで束ねて、あとは垂らしていました。ザシキワラシは、そのあとも、くるり、おじいさんの頭を撫でると消えました。
ところが、おじいさんがとろとろと眠ろうとすると、また、ザシキワラシが現れて枕もとに立ち、おじいさんの頭をくるりと撫でるのでした。これを何度もくり返すので、おじいさんは、とうとう朝をむかえるまで熟睡することができません。
朝になると、おじいさんは、「昨夜は、ザシキワラシに攻めまくられた。ザシキワラシは男の子で、髪はカッパコ頭(カッパの頭)のようだった。縞模様の着物を短く着ていて、膝の下のやせた脛がはっきり見えた」と、御舞家の人びとに告げました。
<旧安家役場のザシキワラシ>
・役場の職員が宿泊したとき、奥座敷からザシキワラシは現れませんでした。ところが、たまたま奥座敷に泊まったお役人たちの間から、ザシキワラシを見たとの騒ぎがあって、次第に噂が広がりました。
不思議に思った孫吉おじいさんは、泊まるのをためらっていたお役人を見て、「ようごわす。おれがいっしょに泊まりぁんすべぇ」と申し出て、二人は奥座敷に枕を並べて寝ました。
夜がしんしんと更けても、なかなか寝つかれなかった二人は、やがて外厠を使いに戸外に出ました。地面には、乾き切った大きな枯葉が、空っ風に吹き寄せられていて、歩くと、足もとでがさがさと鳴りました。晩秋のころだったろうといいます。
そのうちに、二人はぐっすり眠りこんでいました。ところが、丑の刻(午前1時~3時)に、二人は突然に金縛りに遭って目が覚めました。体が硬直して、苦しくてたまりません。
目を開けてみると、なんと、5、6歳に見えるザシキワラシが、自分たちの掛け布団に上がって、体を押し付けていたのです。しかも、二人の掛け布団の上を交互に飛び跳ねながら、二人を金縛りにしていました。
<花いちもんめとザシキワラシ>
・むかし、舘家の座敷に集まった女の子たちが、「花いちもんめ」を遊んでいました。はじめ、4人ずつに別れて向かい合い、8人だったのが、おわりになると9人でした。偶数で遊びはじめたのに、おわりは奇数になっている。ときどきそんなことがありました。それがとても不思議だったのです。
勝った組は、勝ってうれしい花いちもんめ
負けた組は、負けてくやしい花いちもんめ
と歌いながら、どう数えても一人多いので、「やっぱりザシキワラシがいる」と思うのでした。
だが、見回してみても、だれも知らない顔はなく、みんな覚えた顔ばかりで、それでも一人多いのがザシキワラシだったということです。
<姿を見せないザシキワラシ>
・下有芸大屋家は、裏に馬屋が別棟に建っていて、昔は馬をたくさん飼っていました。屋敷は曲がり家で、ふだんは使わない奥座敷がありました。奥座敷には、ザシキワラシが棲みついているということでした。下有芸大屋家のザシキワラシは、真夜中に出てきて、だれもいない奥座敷を、トチトチ、トチトチと、小さな足音をたてて歩き廻っていたそうです。
<四つ身裁ちの着物を着たザシキワラシ>
・むかし、小北川屋敷の奥座敷では、日中のだれもいない静かな部屋に、男の子のザシキワラシが現れて、一人遊びをしていることがありました。いつも一人で現れて、とび跳ねるようにして遊んでいました。
ザシキワラシが、二人以上連れ立って現れたことは、まったくありませんでした。小北川家の人びとは、ザシキワラシに気付いても、いつもそっとしておきました。すると、いつとはなしにいなくなるのでした。
<水車小屋のザシキワラシ>
・50年ほど前まで、尼額大沢集落の春吉さんの家の傍に、水車小屋がありました。水車は、ヒエやアワを脱穀するときや、ムギやキミ(キビ)を粉にするときに、村人たちが共同で昔から使用していました。
おばあさんから聞いた話ですが、昔、水車の仕事にいくと、ザシキワラシが現れ、一人遊びをしていることがありました。顔の赤い3、4歳ぐらいの女の子で、いつも赤い半被を着ていたといいます。そのうえ、手の指の一本と、足の指の一本を赤い布端で結わえていたので、村人たちは、足の指も6本あるらしいと噂をしたといいます。
<女の子のザシキワラシ>
・平成9年6月5日に、岩泉街袰綿のある方(昭和3年生)に伺った話です。
むかし、村木家の門前を通る人は、大人も子どもも頭を下げて通りました。一時は、学校の先生も、頭を下げて通るよう生徒指導をした時代がありました。
村木家は武家屋敷づくりで、隠れ座敷もあり、ぴかぴかに拭きあげた回り廊下、どっしりと風格のある中庭、使用人も大勢おりました。
ある人が、村木家に泊めてもらいました。真夜中に、ふと目を覚ますと、女の子のザシキワラシがごちゃごちゃと出て、大勢で遊んでいました。
ザシキワラシは、しばらく遊ぶと、ふっといなくなりました。
<ちゃんちゃんこを着たザシキワラシ>
・岩泉村木の佐藤レン子さん(大正13年生)に、村木家から嫁いだ丸石家の婆つぁんから聞いたという話を伺いました。平成9年1月16日のことです。
むかし、村木家の回り廊下を、ときどき女の子のザシキワラシが通りました。足音は聞こえないのですが、ザシキワラシの影が障子に映りました。
ザシキワラシは、髪をオカッパ頭にして、ちゃんちゃんこを着ていました。障子に映るザシキワラシは、一人だったり、二人連れだったりしました。たまに、ごちゃごちゃと大勢が連れだって通ることもありました。
<岩泉尼額大沢の屋敷>
<カプケェ髪の子ども>
・あれは、たしか私が数え年7歳のときでした。大正5年ごろだったと思います。その日は朝から雪が降っていました。昼下がりだったと思います。私が何気なく次の間に入っていきますと、外に向いた障子が開いていました。
私は、あっとおどろきました。なんと、障子の敷居の内側にザシキワラシが立っていて、外を見ているではありませんか。背丈からみて人間ならば3、4歳の子でした。
黒っぽい着物を短く着て、足の脛が見えていました。帯を締めないカプケェの男の子でした。そのころ、カプケェ髪といえば、頭髪が伸びたまま、ぱさっと肩に下がっている子どもの髪をこう呼んだものですよ。
あのときはほんとうにたまげました。
「ザシキワラシが出たがあ!」
私は震えながらおばあさんを呼びに引き返しました。
おばあさんもたまげて、すぐさま私の手を引いて二人で、次の間を覗きました。しかし、ザシキワラシは消えていました。さらにおどろいたことに、たしかに開いていた障子が、何事もなかったようにぴたっと閉まっていたことでした。
『座敷わらしを見た人びと』
高橋貞子 岩田書院 2003/6
・今回の仕事に関し彼女は「はじまりは、昭和20年代半ばでしたが、おわりは平成14年5月を迎えていました」とし、その間「黒髪の若妻は、今や白髪の姥となって」と記している通り、これは生半の事ではなかった。
・それというのも、そもそも“河童”や“座敷わらし”は、通常私共にはこの世における「未確認動物」たちである。しかるに高橋さんにとってのそれは、ともども常日頃共生しているごく身近な存在であって、決してミステリー・アニマルではない。
・たとえば、ここに収められている「隅こワラシ」には、
中舘家のニヤは、とくべつ広かったので、いつも子どもたちのよい遊び場になっていました。子どもたちが大勢集まって、遊びに夢中になっているとき、大人たちは、ふと、気付くのでした。いつの間にか、顔の色がやや赤い女の子が一人、混じっています。ニヤの隅から、「隅こわらし」が出て、今日も遊んでいるのです。
・今回のこの一冊は、ひょっとすると、“『遠野物語』以前の話”といった位置を示すかも知れない。
<宮古の港町・鍬ヶ崎>
<入り船を知らせたザシキワラシ>
・「高島屋は、客の対応が早い。女たちがにこやかにむかえてくれて、お膳が素早く運ばれる」と、評判は評判を呼んで、高島屋は大繁盛でしたが、そのわけは、高島屋の二階に棲みついていた男の子のザシキワラシにありました。ザシキワラシは、入り船を知らせる合図を、前もって送ってくれていたのです。その合図は足音でした。
ザシキワラシが、突然、二階の客間のタタミを、ドシドシドシ、ドシドシドシと、踏み鳴らして烈しく飛び跳ねると、階下の帳場に座っていた高島屋の主人は、
「ほら、ほら、ザシキワラシが入り船を知らせているぞ。まもなく港に船が入るぞォー。みんな、大急ぎで二階の客間にお膳を並べろ」と、大声で指図をしました。
さあ、女たちも浮き浮きとなって、お膳を運びます。すると、ザシキワラシが現れて、お膳のご馳走をつまんで食べてまわりました。少しの間、ザシキワラシは、食べるのに夢中になっていました。お膳とお膳の間を跳びはねながら、少しずつ、ご馳走をつまみました。
そんなザシキワラシを、高島屋ではだれ一人として、とがめたり、叱ったり、追い払ったりせず、いつも、好きなようにさせていました。
まもなく、船びとたちが、ぞろぞろと高島屋にやってきます。女たちは、揃って出むかえ、客を二階の客間に通しましたが、そのとき、ザシキワラシは、もう消えていました。
二階に、ご馳走を並べたお膳が、早ばやと運ばれているのを見て、船びとたちは、口ぐちに、「高島屋のこの対応の早さ。女たちの愛敬のよさと接待振りが気に入った」と、大満足でした。
入り船を知らせたザシキワラシの合図は、一度もはずれたことはありませんでした。高島屋の繁盛は、まさにザシキワラシのおかげでした。みんなは、「不思議だ。不思議だ。ザシキワラシには、なんの能力が備わっているのだろう」と、言い合ったといいます。
<カッパ頭のザシキワラシ>
・舘家のザシキワラシは、髪を下げたオカッパ頭の、長い袂袖の赤い着物を着た愛らしい女の子で、日中のだれもいない奥座敷に現れて、一人遊びをしていました。
舘家の人びとは、ザシキワラシを見ても、そっとしておきましたので、ザシキワラシはひとしきり遊ぶと、いつとはなしに、ひっそりといなくなっていきました。
奥座敷には、よその人を泊めることがありましが、そんなとき、真夜中にザシキワラシが現れて、布団の周りをぐるぐる廻って遊んでいることもあったようです。でも、そっとしておくと、ザシキワラシは、いつとはなしにいなくなっていました。
また、舘家にお客用の紅絹で仕立てた組み布団があり、この赤い布団に寝せてもらった人がザシキワラシを見たとも伝えています。
ザシキワラシという物は、見ても追い払ったりせず、そっとして遊ばせておくものです。ザシキワラシは、その家に福を運んでくる縁起のよい物で、ザシキワラシのいる家は栄えるといいます。
<男の子のザシキワラシ>
・ユキさんは、名目利の千葉万太郎さんのところに嫁いでくるまで、五日市の村木家(当主・村木栄彦氏)で育ちました。村木家は、大きなりっぱな屋敷で、見事な中庭があり、中庭をかこむようにたくさんの部屋があったそうです。
昭和20年ごろのことです。ある日、ユキさんは、床の間の付いている部屋に寝せてもらいました。奥座敷ではありません。やがて、ぐっすり眠っていたのですが、真夜中にふと目が覚めました。
はっきり覚めたので、あたりを見回しました。
なんと、ユキさんの枕のあたりに、男の子がきちんと座っているではありませんか。ザシキワラシだっ、とユキさんはおどろきました。絣模様の着物を着た3、4歳の愛らしい子だったといいます。
ザシキワラシが座っていた場所は、床の間の前でしたが、中央ではありません。横のほうでした。
・五日市の村木家には、ザシキワラシばなしがたくさん伝わっていましたから、ユキさんは、このときも、「話に聞いていたザシキワラシが、ここに今、出たんだ」と思ったそうです。
ユキさんは、かねがね「ザシキワラシは福を運んでくる物」と、聞いていましたから、騒がずじっとしていると、やがて、ザシキワラシは消えて、いなくなりました。
ユキさんは、その夜からずーっと今まで、「あの夜、たしかにザシキワラシを見た」と、思いつづけているそうです。
<―不思議の国「いわいずみ」からー>
・この本は、岩手県下閉伊郡岩泉町の人びとが、ひそかに語り継いでいた「座敷わらしばなし」を聞き書きして、一冊にまとめたものです。
もともと私自身の、「座敷わらしってなあに?」という素朴な探求心からはじまりました。上梓に当たっては、次の点に留意しました。
(1) 聞き書きの軸は、岩泉町とする。岩泉町民の伝承していた話を蒐集しました。したがって、この本の舞台は、岩泉町のほか、近隣の田野畑村、普代村、新里村、宮古市、葛巻町にわたりました。
(2) 座敷わらしの年齢は、当時のままですから、数え年になります。
(3) 座敷わらしの性別と、服装について、ことのほかていねいに、くわしく聴き取るよう努めました。
(4) 座敷わらしの歩く音の表現は、たとえば、トチトチ、トチトチとか、ミチカチ、ミチカチや、ポトポト、ポトポトなど、話者の伝えた通りを大切に扱いました。
(5) 座敷わらしは、その家に付随した話がほとんどです。したがって、一話ずつについて、それぞれご了解をいただいてあります。
(6) 岩泉地方の座敷わらしばなしは、この本に収録した以外にもあります。
岩泉地方には、座敷わらしのいた家は、旧屋敷がほとんどですが、50戸を越しましょう。座敷わらしを見た人は、現在3名(女性2名、男性1名)。座敷わらしの騒ぎを聞いた人は数名おられます。
座敷わらしにはことばがなくて、人間との会話がありません。したがって、ドラマの展開がありません。灯りの少なかった昔、人びとは、何かを見たにちがいありません。いったい何を見たのでしょう。
それは、きっと、きびしかった暮らしの哀歓をないまぜにして、人びとの心が豊穣であればこそ、世にもたらされた物ではなかったでしょうか。
と、今は勝手な、ささやかな持論に支えられています。思えば、座敷わらしばなしの蒐集には、長い歳月がかかりました。はじまりは、昭和20年代半ばでしたが、おわりは平成14年5月を迎えていました。
黒髪の若妻は、今や白髪の姥となって、ようやく上梓にこぎつけようとしていました。そして、見回せば、岩泉町の過疎化、少子化、人口減は、急激にすすんでいました。「これらを本にして後世の人びとに残さなければ」と、私の心ははやりました。
『遠野物語拾遺 retold』
柳田國男 × 京極夏彦 角川学芸出版 2014/6/10
(171)
この鍛冶屋の権蔵は川狩り巧者であった。夏になると本職の鍛冶仕事にはまるで身が入らなくなる。魚釣りに夢中になってしまうのである。
ある時。
権蔵は山の方の川に岩魚釣りに行った。編籠に一杯釣ったので切り上げ、権蔵は村に向かって山路を戻って来た。
村の入り口を示す塚のある辺りまで来ると、草叢の中に小坊主が立っている。はて誰だろうと思って見ると、小坊主はするすると大きくなって、雲を突く程に背の高い入道になった。権蔵は腰を抜かして家に逃げ帰ったという。
(87)
綾織村砂子沢の多左衛門どんの家には座敷童衆がいる。この座敷童衆は元お姫様である。これがいなくなったら家が貧乏になった。
(136)
遠野の豪家である村兵家の先祖は、貧しい人であった。ある時。その人が愛宕山下の鍋ヶ坂という処を通り掛かると、藪の中から、「背負って行け、背負って行け」と、叫ぶ声がする。
いったい何があるのかと立ち寄って見てみると、仏像が一体あるのであった。その人は言われる通りそれを背負って持ち帰り、愛宕山の上に祀った。それからその人は富貴を手に入れ、家はめきめきと栄えて、後裔は豪家となったのである。
(88)
その遠野町の村兵の家には、御蔵ボッコというものがいた。籾殻などを散らしておくと、翌朝。そちこちに小さな児の足跡が残されているのを見ることが出来たという。後に、それはいなくなった。それから家運が少しずつ傾くようになったそうである。
(89)
砂子沢の沢田という家にも、御蔵ボッコがいたという。人の目に見えるものではなかったようだが、ある時姿を見ることがあった。赤塗りの手桶などを提げていたという。見えるようになったら、竈が左前になったそうである。
(90)
同じ綾織村の、字大久保にある沢某の家にも蔵ボッコがいた。時々、糸車を回す音などがしたという。
(91)
附馬牛村のいずれかの集落にある某の家のこととして伝わる話である。先代の当主の頃、その家に一人の六十六部がやって来て泊まった。
しかし、来たところは見ているが、出て行く姿を見た者がいない。
そういう噂である。それ以来その家が栄えたとかいう話は聞いていない。ただ、貧しかったということもないようである。
近頃になって、この家に幼い女児が顕れた。十になるかならぬかくらいの齢で、紅い振袖を着て、紅い扇子を持っていたという。女児は踊りを踊り乍らその家から出て来て、下窪という家に入った。
これも噂である。しかしそれ以降、このニ家はケェッチャになったと村の者は謂う。ケェッチャとはあべこべ、裏表というような意味であるから、貧富の差が逆転したというような意味なのだろう。
その下窪の家に近所の娘が急な用で行った折、神棚の下に座敷童衆が蹲っているのを見て吃驚し、逃げ戻って来たという話もある。
そういう話があるのだから、下窪の家は裕福になったということなのだろう。
(93)
遠野一日市にある作平という家は裕福である。しかし、元々暮らし向きが豊かだった訳ではない。この家には栄え始めた契機があると謂う。
ある時、土蔵に仕舞ってあった大釜が突然鳴り出した。家の者は勿論、近所の者も皆驚いて見に行ったそうである。音は止むどころか段々に強くなり、小一時間も鳴り続けたと謂う。
その日から家運が上昇した。作平の家では山名という面工を頼み、釜が鳴っているところの絵を描いて貰い、これを釜鳴神と称して祀ることにしたそうである。今から二十年くらい前のことである。
(94)
土淵村山口にある内川口某という家は、今から十年程前に瓦解した。家屋も一時空き家になっていた。寄り付く者もいないから、当然人気も全くない。しかし誰も住んでいない筈のその家の奥座敷に、夜になると幽かな火が燈る。そして、誰の声かはわからないが、低い声で経を誦むのが聞こえる。往来のすぐ近くの家であったので、耳にする者も多かった。近所の若い者などが聞き付け、またかと思って立ち寄ってみると、読経も止み、燈火も消えている。同じようなことは栃内和野の菊池家でも起こった。
菊池家も絶え、その後に空き家から経が聞こえたりしたそうである。
(92)
遠野新町にある大久保某の家の二階の床の間の前で、夜な夜な女が現れ髪を梳いているという評判が立った。
近所の両川某という人がそれを疑い、そんなことがあるものかと言って大久保家に乗り込み、夜を待った。
夜になると、噂通りに見知らぬ女が髪を梳いている。女はじろりと両川氏を見た。その顔が何とも言えず物凄かったのだと両川氏は語った。
明治になってからの話である。
(162)
佐々木喜善君の友人に田尻正一郎という人がいる。その田尻氏が、7,8歳くらいの頃。村の薬師神社の夜籠りの日だったそうである。
夜遅くに田尻少年は父親と一緒に畑中の細い道を通り、家路を急いでいた。すると、向こうから一人の男が歩いて来るのに出会した。シゲ草がすっかり取れていて、骨ばかりになった向笠を被った男であった。
一本道である。擦れ違うために田尻少年は足を止め、道を開けようとした。すると男は、少年が道を避けるより先に畑の中に片脚を踏み入れ、体を斜めにして道を譲ってくれた。
通り過ぎてから田尻少年は父に、今の人は誰だろうと尋いた。父は妙な顔をして誰も通った者はないと答えた。そして、「俺はお前が急に立ち止まるから、どうしたのかと思っていたところだが」と言ったという。
(163)
先年、土淵村の村内で葬式があった。その夜。権蔵という男が、村の者4,5人と連れ立って歩いていた。不幸のあった家まで念仏を唱えに行く途中のことである。突然、権蔵があっと叫んで道端を流れていた小川を飛び越えた。他の者は驚いて、いったいどうしたんだと尋ねた。
権蔵は、「今、俺は黒いものに突き飛ばされたんだ。俺を突き飛ばしたアレは、いったい誰なんだ」と答えた。他の者の眼には何も見えていなかったのである。
(137)
つい、近頃の話だと謂う。ある夜。遠野町の某という男が、寺ばかりが連なっている町を歩いていた。墓地を通り抜けようとすると、向こうから不思議な女が歩いて来るのに出逢った。男が何故不思議と感じたのかはわからない。しかし近付いて能く見ると、それはつい先日死んだ、同じ町の者であった。
男は驚いて立ち止まった。死んだ女はつかつかと男に近づき、「これを持って行け」と言って汚い小袋を一つ、男に手渡した。恐る恐る受け取って見ると、何か小重たいものである。しかし、怖さは増すばかりであったから、男は袋を持ったまま一目散に家に逃げ帰った。
家に戻り、人心地付いてから袋を開けてみると、中には銀貨銅貨取り混ぜた多量の銭が入っていた。その金は幾ら使っても減らない。
貧乏人だった男が急に裕福になったのはそのお蔭だと噂されている。
これは、俗に幽霊金と謂い、昔からままあるものである。
一文でもいいから袋の中に銭を残しておくと、一夜のうちに元通りいっぱいになっているのである。
『遠野のザシキワラシとオシラサマ』
(佐々木喜善) (宝文館出版) 1988/4
<奥州のザシキワラシの話>
<子供の時の記憶>
私達は、幼少の時分、よく祖父母から炉辺話に、ザシキワラシの事を聞かせられたものである。そのザシキワラシとはどんなものかと言えば、赤顔垂髪(さげがみ)の、およそ5、6歳の子供で、土地の豪家や由緒のある旧家の奥座敷などに出るものだということであった。そのものがおるうちは家の富貴繁昌が続き、もしおらなくなると家運の傾く前兆だとも言われていたという。私達は、初めはその話を只の恐怖を持って聞いていたものであるけれども、齢がやや長けてくると、一般にこの種のものに対していだくような、いわゆる妖怪変化という心持ではなく、何かしらそのものの本来が私達の一生の運不運と関係があるので、畏敬の念さえ払うようになったのである。世間でもまたこの通りとか、何処の何某の家にそのものがおるといえば、他では羨望に表した、多少の畏服を感じ、また本元でも吉端として、ひそかに保護待遇に意を用い、決して他の妖異におけるがごとく、駆除の祈祷や退散の禁呪などは求めぬのである。
『日本人が知らない本当の道教』
三多道長 講談社インターナショナル 2009/7/27
<依頼心を捨てれば「御陰様」の力が発動される>
・こうした依頼心の強い人達は、残念ながら神様の助けを得ることはできないでしょう。不幸を避けるには、まず自分の力で予防することが大切です。
・道教的な生き方の基本は個人にあります。まず自分がどう生き残るか。これが一番大事なことです。次に大事なのが自分がどう幸せになるかです。まずは自分が凶を避け幸せになってこそ、自分の家族や周りの人達を幸せにできるからです。
実際に凶を避けて幸せになる。そのプロセスを体得することが何よりも重要なことです。そうすることによって「人縁美麗」という、いい意識で、いい感情で人と接し、相手のいい縁と連鎖反応を起こすことができます。
<天運をつかむ吉凶禍福の原理>
<あらゆるものに正邪がある><危険の多い神霊の世界>
・神霊の世界に近づいていくこと自体は、古来の日本を考えればごくごく自然な回帰のように思えます。しかし、一方では神霊の世界は、いいものもいれば悪いものも混在する玉石混交の世界ともいえます。
道士や霊媒師の中にも、陰の神や陰の霊といった邪霊と取引をしたり、供養することで見返りを受けたりする者もいるほどです。
ですから神霊の世界に近づくことは、「御影様」といった吉の効果を期待するだけではなく、実は大変な危険を伴うものであるということを自覚していかなければならないと思います。
<道教のダークサイド>
・陰の神や陰の霊は神としての官職を持たず、無縁霊ですからきちんとした供養も受けられないため、空腹でお金もありません。
・神ではない彼らは天界の法律の制限を受けないため、供養すれば喜んでどのような願いにも必ず応じてくれます。
<道教の神、日本の神><霊界への贈り物>
・道教の神と日本の神との大きな違いは、道教にはもともと人間だった神様が多いことかもしれません。神も霊も物質でない気体でできた存在であり、その中で官職を与えられた霊が神になります。
実は道教では鬼は霊の総称で、神の位をもっていない霊はすべて「鬼」です。先祖霊も鬼なのです。日本では鬼は邪を代表するもの、悪い存在とされていますが、道教では鬼は官職のない霊全般を指します。
<鬼とつきあう秘術><降霊を使いこなす方術「養鬼」>
・道教の秘術には、役鬼法、養鬼法などと呼ばれる鬼つまり霊を操る技術が存在します。道教の使い魔「式神」を使った危険な邪法です。
・「養鬼」とは、霊を自らの支配下に置いて、さまざまな目的達成の助けとすることを言います。
・したがって、養鬼法では原則的に子供の霊を使役し「養小鬼」と呼ばれる除霊使役術を使います。私達道士は「養小鬼」では聞こえがよろしくないので善財童子とか招財童子と呼んでいます。
<神とつながるために><道士の修行>
・道士の行う霊的修行のひとつに「走霊山」というものがあります。これは神様を自分自身に降ろし、神を体に乗り移らせて印や法を教えていただくなど、神とコンタクトして行う修行法です。
<陽の人の特徴>
・陽の人の特徴は、同じように仕事をする際でも、利己的欲望より「素晴らしい仕事をして社会の役に立ちたい」「人に喜んでもらいたい」など、「他」の繁栄、周囲の人や物事がよくなることを考えて取り組みます。
<女鬼の棲む家>
・家神は家を護り、繁栄をもたらしてくれる神様として知られています。ある時など、ご機嫌な様子で屋敷内を歩いているところをこの家の娘さんに目撃され、さらに娘さんと目まで合ってしまい、大層ビックリした様子で慌てて物蔭に隠れたそうです。どうやら自分が人間に姿を見られているとは思いもしなかったのでしょう。
・道教における家神は、子どものように背が低いとされ、祭祀に用いる机も卓袱台(ちゃぶだい)ほどの高さです。そこに香炉、三杯の酒、骨付きの鶏肉、豚肉(トンカツやトンテキなど)、焼き魚、ご飯、汁物などを供え、お箸もつけて祭祀するのが一般的ですが、同じように小柄であるということから、日本の座敷童子は道教の家神と同じと言えるかもしれません。
家神は陰の神様に属し、お祀りする時間の陰の時間である午後3時から5時の間に行われます。また引越しの際には必ず家神の祭祀を行います。
・一家が家神を目撃するようになったのも、引っ越しの祭祀が終わった後でした。もしかしたら引っ越しのご挨拶に喜んで家人を護るために出てきてくれたのかもしれません。このご家族は除鬼のいる家から、吉をもたらしてくれる吉宅に移りすることができたのです。
<あらゆる災いから無縁の人生へ><人は天地の縮図である>
<心身が「静」になり、五感を超えた感覚が目覚める>
・肉体と霊(この場合は自分の霊)は陽と陰、表と裏です。肉体が休めば霊が目覚めます。心と身が「静」の状態になると、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感を超えた感覚が目覚めてきます。
道教では、この感じる感覚「感」を大変大切にしています。
「感」が目覚めてくれば、いい人、いいこと、いいものと、反対にそうでない人、こと、ものが感じられるようになってきます。
・日常においても、心身を少し「静」にしてみると、事の吉凶や、他人の持つ気がよい気か邪気かの違いがわかるようになり、自分にとって小人か貴人かの区別もついてきます。
・私達はこの感覚をリセットするために、日々5分であっても打座を欠かしません。静かな場で良質の香を焚き、目をつむって体の機能を鎮めます。
『遠野のザシキワラシとオシラサマ』
(佐々木喜善)(宝文館出版) 1988/4
<奥州のザシキワラシの話><子供の時の記憶>
・私達は、幼少の時分、よく祖父母から炉辺話に、ザシキワラシの事を聞かせられたものである。そのザシキワラシとはどんなものかと言えば、赤顔垂髪(さげがみ)の、およそ5、6歳の子供で、土地の豪家や由緒のある旧家の奥座敷などに出るものだということであった。そのものがおるうちは家の富貴繁昌が続き、もしおらなくなると家運の傾く前兆だとも言われていたという。
・私達は、初めはその話を只の恐怖を持って聞いていたものであるけれども、齢がやや長けてくると、一般にこの種のものに対していだくような、いわゆる妖怪変化という心持ではなく、何かしらそのものの本来が私達の一生の運不運と関係があるので、畏敬の念さえ払うようになったのである。世間でもまたこの通りとか、何処の何某の家にそのものがおるといえば、他では羨望に表した、多少の畏服を感じ、また本元でも吉端として、ひそかに保護待遇に意を用い、決して他の妖異におけるがごとく、駆除の祈祷や退散の禁呪などは求めぬのである。
・またインターネット情報による『遠野物語』によると、
第17段(遠野物語)
旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず。この神は多くは12〜13ばかりの童児なり。をりをり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊(いひで)の今淵勘十郎といふ人の家にては、近き頃高等女学校にゐる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢ひ大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。
同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物をしてをりしに、次の間にて紙のがさがさといふ音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思ひて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐(すわ)りてをればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。
さては座敷ワラシなりけりと思へり。この家にも座敷ワラシ住めりといふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり。
●第18段(遠野物語)
ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門といふ家には、童女の神2人いませりといふことを久しく言い伝へたりしが、ある年同じ村の何某といふ男、町より帰るとて留場(とめば)の橋のほとりにて見馴(みな)れざる2人のよき娘に逢へり。
物思はしき様子にて此方へ来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処(ところ)からきたと答ふ。これからどこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。
さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、この家の主従20幾人、茸(きのこ)の毒にあたりて1日のうちに死に絶え、7歳の女の子1人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり。
『オーブは希望のメッセージを伝える』
愛と癒しの使命をもつもの
クラウス・ハイネマン / グンディ・ハイネマン
ダイヤモンド社 2011/7/29
<ハイネマン夫妻はアメリカや南米やヨーロッパなど世界中を旅してオーブ写真を撮ってきた>
・彼らは、オーブとそのヒ―リングの意図について非常に多くの証拠を提供してきました。
<オーブ現象は私達が、スピリチュアルな次元へ移りつつあることを示している>
<オーブ 謎の超知性体>
・オーブは、スピリットそのものではなく、スピリットからの放射であると思われます。
・技術の進歩により、オーブがデジタル写真に現れるには、ごくわずかな物理的なエネルギーしか必要でない。
・オーブは写真に現れてほしいという要求に答えます。たとえ、その存在に気づいてもらえないだろうと予想しても、写真に写ることを厭いません。
・デジタル写真の中で人に見えるように放射を行うスピリットが知性や意識をもつとするならば、彼らは何の理由もなく写真に現れることはないと考えるのが妥当でしょう。
・ここで使う「スピリット」という言葉は、知性と意識をもつ異次元の生命体を簡略化したものです。
・本書は、ハイネマン博士夫妻によって「オーブはどのようなメッセージを伝えようとしているのか」をテーマに書かれたオーブの入門書である。
0コメント