第三次世界大戦=「(中東で)シオニスト(イスラエル)とアラブ人との間にイルミナティのエージェントによって引き起こされる」ここでのイルミナティとは「フリーメイソンの中枢を支配する秘密組織」を指す。(7)
<ソ連・コミンテルンという要因を踏まえた全体像を>
・誤解をしないでいただきたいのですが、彼らアメリカの保守派は「ソ連・コミンテルンの工作だけが日米戦争の要因だ」と主張しているわけではありません。「日本が正しかった」と主張しているわけではありません。いわゆる東京裁判史観に代表される、これまでの日米戦争論は、ソ連・コミンテルンという要因や、秘密工作というインテリジェンスを意図的に排除しており、あまりにも視野が狭いのではないかと、疑問を投げかけているのです。
・日米戦争の全体像を把握するためには、少なくとも次の五つの視点が必要だと思っています。
第一に、ルーズヴェルト大統領の強い意向です。ルーズヴェルト大統領がソ連・コミンテルンの工作を「容認」した背景には、ルーズヴェルト大統領自身が戦争を望んでいた、という視点を軽視するわけにはいかないと思います。
第二に、ソ連・コミンテルンと中国共産党による対米工作です。本書では、コミンテルンの対米工作を中心に紹介しましたが、中国共産党による対米工作も今後解明していく必要があります。
第三に、イギリスのチャーチル首相による対米工作です。チャーチルは1940年、アメリカの孤立主義・中立政策に傾倒していた国民世論を参戦へと転換させるためにウィリアム=サミュエル・スティーヴンスンを送り込み、1941年、MI6の出先機関、イギリス治安調整局を設立しています。これを通称イントレピッド工作と呼びます。
第四に、蒋介石・中国国民党政権の対米工作です。よく言われているのが、蒋介石夫人の宋美齢による反日キャンペーンですが、それ以外にも、アメリカを対日戦争に引き込むために様々な工作を仕掛けています。
そして第五に、ソ連・コミンテルンの対日工作です。日本が対米戦争へと踏み切った背景にコミンテルンの影響があったわけですが、この点については『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP新書)にて書きましたので、ご関心のある方はご高覧賜れば幸いです。
少なくともこれら五つの視点で、第2次世界大戦、大東亜戦争は何だったのか、再検証する必要があります。近現代史の見直しはまだ始まったばかりなのです。
『天皇の国師 知られざる賢人 三上照夫の真実』
宮崎貞行 学研 2014/3/18
<海ゆかば>
・4月15日の日記によると、同席した入江侍従長が{屋久島で樹齢七千年の世界一の巨杉を発見、太古を偲ばせるものがあり、天皇御在位五十周年を記念しているかのよう}と語ったとある。続けて、次のような記載もある。
「入江侍従長曰く、東西陣営にはそれぞれ良いところがあるのに、相互に悪口を言っているのはおかしい。共に良いところを取り合っていけば立派になるのにと、けだし名言」
この連絡会議が終わったあと、帰りがけに入江は、仲山警務部長を呼び止めた、というのも、その前日、『法律時報』の論調を読んだ陛下が「侘しい」お気持ちを吐露されたとき、「あの者はどうしたであろうか」とお尋ねになったことが気になっていたからである。
こまかい説明はせず、単刀直入に要点だけぽつりと語るのが、天皇の口癖であった。「あの者とはどなたのことですか」
「27年前に三上照夫という丸顔の小柄な青年に会ったことがある。あの青年は今どうしているだろうか。たしか特攻隊出身で、京都に住んでいたはずだが」
陛下は記憶力の優れていることで知られていたが、昭和23年の暮れに一度だけ会見した青年の名前を覚えていた。大声で御製を歌って驚かせてくれた青年をふいに思い出したのである。
青年は、天皇が改宗について迷っていたとき、肚を固める示唆をしてくれた。
・三上のご進講は、これ以降は陛下独りのご下問に応える形になり、陛下の体調が悪化する昭和62年9月まで、約11年間に渡りほぼ毎月行われることとなった。
<天皇の国師>
・こうした経緯から、三上照夫は巷でいつしか「天皇の国師」と呼ばれるようになった。本人がご進講のことを口外することはなかったが、周りが噂しはじめたのである。
「国師」というのは、朝廷から仏教の高僧に対しおおむね死後に贈られる尊称で、臨済宗の高僧に与えられることが多かった。明治以降は、朝廷が神道に純化したため、国師、大師、禅師といった尊称を下賜することはなくなったが、「国の相談役」という意味で周りが勝手に名づけたのである。
けれども、三上が陛下にどのようなご進講をしたのか、夫人以外に一切語らなかったから内容は杳としてわからない。
<語り部は隠し部>
・入江は自分の仕事や天皇の職務については、日記でほとんど触れなかった。政治に対する天皇の意見や感想を書くことは注意深く避け、神々の声を聴く祭司としての天皇の素顔を紹介することもしなかった。それは、終戦後に侍従次長を務めた内務省出身の木下道雄が日記に克明に陛下の発言を記録した姿勢とは、まったく対照的であった。入江は日記には、歴史家に題材を与えることのないよう、当たりさわりの指圧と入浴と食事とヒヨドリのことしか書かなかった。
それもそのはずである。彼は、意図的にそうしたのだ。
天皇のご発言やお気持ちが後で公表されるようになる事態は絶対に避けなければならない。公表されると、解釈をめぐって論争が起き、天皇を困らせることになる。ひいては自分の責任問題にもなりかねない。歴史の証人になることは、まっぴらごめんだ。そんな煩わしいことにはかかわりたくない、公家の末裔は、あくまでも韜晦の表情を忘れてはならない。
侍従長は、人間天皇の知られざる一面を随筆で紹介した「天皇の語り部」であったが、同時に、巧妙な「天皇の隠し部」でもあった。どうでもよいある部分を公表することによって、他のもっとも重要な部分をうまく覆い隠したのだ。
入江には、平安朝以来の伝統的な公家の巧まざる韜晦という手法が身についていた。まことに老獪である。それは、生得のものであって、学習して身につくものではない。
ところが、入江が出合ったこの三上という男はどうだ。公家のような老獪さはまったく見られない。世間的な遠慮や気配りといったものもなさそうである。役人の狡さとも無縁のようである。学者のように言葉を連ねて自己弁護しようともしない。講演の謝礼をよこせとも言わない。これが、未来の庶民の姿なのか。手弁当で列車を乗り継いで皇居の清掃にやってくる奉仕団の庶民の姿なのか。
三上という男は、ただ、熱情のほとばしるままに、声をはりあげて訴えることが、最高の生きがいと信じているかのようである。それ以外の方法では、彼の真骨頂は発揮できないと思っているのかもしれない。周りがどのように反応するかは、まったく無頓着で、その意味では傍若無人といってよいが、悪気はなさそうである。世間知らずの皇族を驚かせてやろうという他意もないようにみえる。
・人間は、身体と心体と霊体の三層よりなる多次元にわたる存在だという話をむかし仏教学の学者から、進講してもらったことがある。肉眼で見たときに人間の身体が現れ、心眼でみたとき心体が現れる。そして、霊眼が開いたとき人間の霊体が観察され、霊体同士の交流が始まると講師は語っていた。霊体というのは、無でも空でもなく、実質ある超微細な実体であると語っていた。
そうでありなら、陛下と三上は、同質の霊体を持ち、それが身体の奥深いところでお互いに反応し、自分の知らないうちに、時空を超えた一瞬の対話を行っていたのかもしれない。その対話は、後醍醐天皇の時代から特攻隊の時代まで、さらに先日のご進講のときまで営々と重ねられてきた交流であって、その時空を超えた重層的な対話を一瞬のうちに貫き了解させる何かがあったに違いない。
<戦場で二度、死地をさまよう>
・昭和20年3月11日、陸軍上等兵の三上照夫は輸送船生駒丸に乗り、門司から台湾に向けて出港したが、台湾沖で米軍の魚雷攻撃を受け、生駒丸が沈没した。冷たい南シナ海で8時間漂流を続け、運よく救助され、基隆に上陸した。
昭和20年5月21日、通信兵として戦闘機に搭乗し、台湾防衛の天号作戦に出撃したが、片翼に被弾、機体は炎上したまま台湾沖の小島に不時着し、三上は瀕死の重傷を負いつつ辛くも脱出した。近くにいた現地の人たちの介抱のおかげで奇跡的に回復し、その後台北で療養中に終戦を迎えた。
戦場で二度も死地をさまよった三上は、復員後、人生と宇宙の意味を探求したいと思うようになった。生と死の意味を問うとともに、人を死から救いだしてくれる奇跡的な力についてもっと知りたいと思った。
<皇室に伝わる秘密の行法>
・仲山警務部長のとりそろえた報告書は、次のように記す。
「終戦後、帰国した三上照夫は同志社中学校に帰校し、22年3月に卒業。同年4月同志社外事専門学校神学科に入り、3年間ヘブライ語とキリスト教神学を学ぶ。そのかたわら京都妙光寺で今津洪嶽老師に師事し、仏道修行に打ち込む。また、京都御所内白雲神社の金井白雲宮司より神道行法を学ぶとともに、大本教千鳥会にて降霊の技法を学ぶ」
三上は、キリスト教と仏教と神道をほぼ同時期に学習していたことになる。
・回峰行の終わりのころになると、肉体は極限まで疲れ果て、生きているのか死んでいるのかわからなくなる。いや、わかろうとする意欲もなくなり、体自体の感覚もなくなってくる。あるとき、ふっと何か軽くなったような感じがして目を開けてみると、彼は広い河の前に立っていた。前方にきれいな光が見え、そちらに向かって歩いていこうとすると、白髯の老人が現れ「まだ早い」と言われた。「お前さんにはまだ仕事がある」と諭された。
気がついてみると、彼は玉体杉の根元に倒れていた。ああ、自分はこの世とあの世の境界のところまで行ったのだなと思った。この世とあの世は表裏一体の関係にあり、あの世に裏打ちされ、あの世からの働きかけを受けてはじめてこの世は存在しているように感じられた。それは、三上にとって三度目の臨死体験であった。
・復員後親しくなった女性宮司の金井白雲に相談したところ、天皇家の行法を学びなさいと示唆された。有栖川宮家が保持していた皇室の行法を記した古文書は、同宮家が断絶した後、高松宮家に渡されていたので、賀陽の紹介で高松宮家を訪ねて拝見させてもらった。そこには、神人不二の境地へ導く18通りの行法が記載されていて、彼はこれを、生の限界に近づいたときの回峰行の体験に照らし合わせながら、ひとつひとつ自学自習でマスターしていった。金井白雲からは、天気を左右する極盤行法というものも教わった。
・趣意書がそう明白に述べているように、三上は、古神道と仏教哲理なかんずく禅宗の思想を基礎として、戦後日本を導く文化原理を打ち立てようとしていた。
その社会的背景を、趣意書は次のように述べていた。
「政府は、民族の背柱たる道徳教育すら的確に明示せず、高官汚職は常態化し、国会は怒号と乱闘の劇場と化し、学者はその職責も節操も果たし得ず、進歩的文化人と称してソ連中共の全体主義国家を礼賛し、社会を不安へと導くことによって原稿料を稼ぐ教員の大半は赤色革命の手先として階級闘争に専念して、純真たるべき子弟の教育は顧みられず、資本家は眼中私利のみありて国家なく、労働運動は産業破壊の政治闘争に、年中行事のストライキに浮身をやつしている」
<降霊会で高貴な神霊と感応>
・戦後は、岡田茂吉(救世教)、岡田光玉(真光教団)、五井昌久(白光真宏会)などが、新しい神道流派を結成して布教していた。敗戦によって生じた心の空白と魂の飢えを聖なるものへの信心で埋めようと努めていた。
「私の古神道との出会いは、忘れもしない昭和23年12月27日のことでした。当時、大本教にいた萩原真が、千鳥会という降霊会を開いてましてね、そこにたまたま連れて行かれて、関心を持ったのが最初でしたな」と三上は返事をした。
・ある日の斎場の模様は、こう録音されている。
「メガホンが空中を乱舞しています。人形がメガホンと一緒に上がり、メガホンの上でシーソーゲームをしています。人形がメガホンの上で立ってダンスを、………すばらしいです」
この段階に至ると、三上が深い変性意識の状態に入ったことが知れる。そうして、三上の体からエクトプラズムと呼ばれる幽質のエネルギーが湧出してメガホンや人形を動かしはじめるのである。
やがて、メガホンから声が漏れ出てくる。明治のころの日常言葉が聞えはじめる。声は、三上の声帯の幽質を用いてから、三上の張りのある胴間声に似ていたが、三上の口には水を含んだ真綿を詰めてあるので発声は不可能なはずであった。ところが、毎回こういう口調で神霊が出現した。ああ、水位じゃよ。おお久方ぶりじゃった。足は平らにいたすがよいぞ」
三上にかかった神霊は、「水位」と名のって毎月一回行われる斎場(ゆにわ)に登場した。「水位」というのは、幕末に土佐潮江天満宮の社家に生まれた宮地水位(堅磐)のことであった。水位は、神仙界での肩書である「白日」と名のることもあった。「白日」という号は、神仙界できわめて高度の位階であるという。
水位の神霊は、空中に浮かんだメガホンから声を出し、質問に答えて、政治、経済などの時事問題から個人的な相談まで縦横無尽に語りはじめたのだった。
<白い蛇>
<多層の霊界を伝える宮地水位の霊>
・三上は、昭和38年末ごろから、ほぼ毎月、富山で宮地水位霊の降霊会を行ったが、それは、見えない霊界の存在を少数の道人に知らせるとともに、道人の進むべき道を教えるためであった。
空中に浮かぶメガホンから、ほかの人の知らない個人的な事情をずばり指摘されると、眼に見えない霊的なものの存在を信じないわけにはいかなくなる。子供の病気や夫婦仲、事業の不振などを誰にも語ったことがないのに的確に知っている不思議な存在がいるということを否定できなくなる。
斎場(ゆにわ)でお伝えを降ろした宮地水位は、古神道家の父宮地常盤から指導を受け、11歳のころから幽体離脱し霊界に出入することのできた霊覚者であった。37歳のときに『異境備忘録』を著し、彼が探訪した霊界の詳細な記録を残している。紫微界、日界、神集界、万霊界など神霊界の多層構造とその活動を解き明かし、秘密である神霊界の一端を人間界に伝えてくれたのである。
・かと思うと、真の初代天皇のされるヒコホホデミノミコトをはじめ日本神霊団の役割や源義経の生涯と死後の活躍について述べ、人類史の多段階にわたる発展と2万6千年ごとの人類史の変転を語り、人間を統括している主護霊と背後霊のはたらきまで事細かく言及した。三上が予定していた米国訪問は中止すること、ある政治家への助言はやめることなど具体的な行動を指示したこともある。
斎場(ゆにわ)の応答の模様は、参加者の手によりすべて記録されているが、質問に答えて、書物を見ずに法然、親鸞や道元をはじめ、昔の宗教者の発言や行動を事細かく語り続ける水位神仙の博覧強記ぶりは実に驚くべきものであった。水位の解説によると、それは、水位自身がすべて知っていたということではなく、質問内容に通暁している配下の仙人たちを動員して即座に回答を与えていたという。
・三上の場合は、台湾沖で撃墜され1週間意識を失ったころから霊界との通信が始まったようだったが、本格的に霊媒能力が開けたのは、比叡山無動寺での百日の断食修行を終えたあとだった。
けれども、霊媒がその身体能力を神霊や人霊に貸すと、ものすごく身体エネルギーを使われるので、降霊会のあとはくたくたになる。降霊会を終えると、三上の体重はいつも1キロほど減り、手足は冷たく硬直していた。弟子たちは、冷たくなった手足を急いでもみほぐし、温めなければならなかった。
・「人間とは目に見えるだけの存在ではないということを皆に知らせるためでした。死後も霊魂として生活をつづけ、生きている間にも目に見える限りの個人ではなく、個人の中に個人とともに諸霊が存在していることを実証するためだったのです。
人間とは、目に見える肉体だけでなく、見えない霊魂を持ち、縁のある諸霊から指導を受けつつ交流している複合的な存在なのですよ。個人は自らの意思によって自分本位に動くのがよいという個人主義は、どうみても間違いなんです。個人の利益を諸霊や共同体の利益より優先させる個人主義社会はおかしいとは思いませんか」
・「自主的に判断し自主的に行動するといわれていますが、実際は、主護霊や背後霊などいろいろな神霊に指導されつつ行っているわけです。主護霊というのは、肉体を超えた真の己を生み出してくれた霊界の存在で、欧米の心霊学では、マスタースピリットと呼んでおりますな。通常、人には七柱の背後霊がついており、それを統括しておるのがマスタースピリットなんです。悪い因縁の霊に憑依されて病気になる人もいますね。自由の範囲は、その人の過去生の因縁や境涯によって制限されており、無制限な自由は与えられてはないのですよ」
1人1人の人間は、本来的に自由な存在ではないと三上は語った。
<諸霊と交流するスピリチュアリズム>
・わが国の学界では、さまざまな神霊や人霊と交流するスピリチュアリズムについて研究しようとする学風はほとんど見あたらない。むしろ、そういう研究をする学者をはじめから非科学的と決めつけ、排除する伝統がある。
しかし、洋の東西を問わず、昔から民間では神霊などの存在を信じ、降霊(交霊)を通じて対話するという根強い風習があった。日本の学者たちは、信じる信じないは別として、風習そのものを冷静に観察して研究しようともしなかった。食わず嫌いなのである。
・スピリッツ(諸霊)の現象については、理知的な欧米人のほうが、客観的な調査を行い、多くの報告書や記録を残している。欧米の数十の大学でも超心理学講座が設けられ、不思議な超常現象の確認とそのメカニズムについて緻密な研究がすすめられてきた。
スピリチュアリズムは、心霊主義と訳されているが、死後も人間は霊魂として存続し、生活し、この世とも対話を続けているという思想である。人間ばかりでなく、動物、植物にもそれぞれの次元の霊魂がある。あの世において長期の修練を通じ高い位階に達した霊魂は、低い霊界からより高い霊界に進み、さらに高次元の神界に進みいき、この世がよくなるようにと人を介してはたらき続けると考えている。人間は、より高次元の神霊よりメッセージを受けて、与えられたこの世の仕事を全うすべきというのが、心霊主義の主張である。
・ユダヤ教やキリスト教は、超越的なゴッド(天主)との直接対話が可能であると主張し、アブラハム、モーゼ以来のゴッドとの交流を聖書や教父の著書などのかたちで記録を残しているが、中間の諸霊との対話についてはあまり重視していない。わずかに、天使ガブリエルや悪魔ルシファーたちの活動に触れているだけである。
これに対して、心霊主義は、中間の諸霊との交流を重視し、諸霊の住む霊界の構造を明らかにしようとする。人間を超越的に「創造」したゴッド(天主)との直接対話を人間ができるということには懐疑的であり、仮にそれが可能であるとしても極めてすぐれた霊的能力を持つ一部の聖者しか行うことができないはずである。だが、中間の指導霊や主護霊(マスター)との対話であれば、普通の人間も行うことができると考えている。そうした諸霊の声を身近に聞くには、降霊会で体験するのが手っ取り早い道である。
・もともと降霊(交霊)の術は、古代ツングース族や古代エジプト族のシャーマンの家系にも古くから伝えられていた。それがロシアやヨーロッパに入りこみ、降霊会として組織され広く認知されるようになったのは、キリスト教会の影響が低下した19世紀になってからである。それまでは、魔術の類として、教会から異端視されていた。
19世紀後半に入ると、ヴィクトリア英女王やナポレオン三世、ロシアのアレクサンドル三世も霊媒師を呼び、しばしば降霊会を開催していた。また、米大陸でも流行し、ホワイトハウスでリンカーン大統領の霊を招く降霊会を開催するほど盛んになったこともある。机をたたくラップ音が聞えたり、死霊が登場して死後の消息を伝えたり、机が空中を舞いはじめたり、さまざまな心霊現象が起き、参加者たちは肝を冷やしながらもその不思議さにのめりこんでいった。もちろん、なかには詐欺まがいの会合もあり、訴訟沙汰になったりした。
・スピリチュアリズムの思想を米国で初めて体系化したのは、アンドルー・ジャクソン・デービスである。デービスは霊媒として、人類に向けて壮大な霊界からのメッセージを伝えたが、彼に働きかけていた背後霊は、著書によると18世紀最大のスウェーデン人霊能者で博物学者のエマヌエル・スウェーデンボルグであったという。スウェーデンボルグは、幽体離脱してさまざまな霊界を探訪し、その記録を膨大な『霊界日記』などにとどめている。
・わが国においては、神がかりによる宣託の風習は欧米よりも古い時代から記録されていた。『古事記』にも、オホヤマトヨクニアレヒメ、ヤマトトトヒモモソヒメなど偉大な巫女たちが神霊の宣託を受けて、天皇の治世を助けた記録がある。神功皇后が朝鮮遠征のおりに神がかりしたこと、宇佐神宮の巫女が和気清麻呂に神託を授けたという話などは広く知られている。奈良、平安の朝廷は、戦乱や疫病、飢饉などに直面したとき、しばしば宇佐神宮に使いを派遣して、神意を問うてきた。民間でも、病気治しや困りごとの相談は、イタコ、ノロ、行者などと呼ばれる各地の霊能者が引き受けていた。なかでも、山中で修験を積んだ山伏行者の活躍は目覚ましかった。彼らは神降ろしを通じて祖霊の消息を伝え、困りごとの解決策を授け、医師の代わりに薬草を処方し、加持祈祷を行って病気を治癒しようとした。もちろん、詐欺まがいの業者が少なからずいたことも事実である。
・ところが、文明開化路線を採用した明治政府は、こういった風習は科学的な根拠のない迷信の類と考え、明治5年に修験道禁止を発布したので、17万人いた山伏たちは失業してしまった。明治6年には、梓弓を使う占いや狐憑きの除霊などの民間呪術を禁止する通達が出された。
こうして、科学万能主義が支配するなかで、呪術の一つとみなされた神がかり(憑依)の口寄せ、口移しも次第に衰えていき、わずかに御嶽教などで細々と伝えるばかりとなった。
御嶽教で神降ろしの手法を学んだ大本教の出口王仁三郎は、大正期に神降ろしを大々的に復興して流行させ、明治末にほとんど無名であった大本教は、大正中期には30万の信徒を数えるに至った。だが、霊媒の精神が元に戻らず精神異常を招くといった根強い批判を受け、さらに天照大神ではなくカムスサノオ大神を主神として信奉していたため特高警察による二度の弾圧を受け、昭和10年以降は衰微していった。特高警察と治安維持法がなくなった戦後に、ふたたび元大本信者の萩原真などが神降ろしを降霊会と称して復活させたのである。
<現界と異界を二重写しに観る>
「萩原真の降霊会は、ある神霊が萩原に憑依する現象ですね。日本の霊能者はほとんど、萩原のように憑依型ですが、これに対してもう一つ、幽体離脱による脱魂型の霊界通信があると宗教学者のミルチャ・エリアーデは言っていますね。膨大な霊界日記を記録したスウェーデンボルグは、部屋に何日も鍵をかけて出てこなかったそうですが、幽体を離脱させて霊界を探訪したのではないでしょうか」
と仲山は語った。古神道を研究していた仲山は、東西の心霊現象にも興味を持ち調査を進めていたのである。
・浅野和三郎の妻、多慶子が霊媒となって伝えた『小桜姫物語』は、滅亡した三浦一族の小桜姫が霊界から生前の生活や死後の様子を生き生きと伝えた興味深い物語である。
『小桜姫物語』は、憑依された妻の口述を和三郎が記録したものであるが、これに対して、宮地水位の『異境備忘録』を読んでみると、宮地は一人でいるときに脱魂して、異次元の神霊界と万霊界に参入して、その見聞をみずから記録している。三上の降霊会に出現した宮地神仙は数少ない、スウェーデンボルグに似た脱魂型の霊能者であったといえるであろう。
仲山は、つづけて語った。
「エリアーデのいう憑依と脱魂のほかに、もうひとつ神感というべき類型があると思うんです。どう違うかといいますと、憑依も脱魂も、本人の意識はこの世から離れており、目の前に起きている事柄を観察していません。ですから、本人のいる部屋で何が起きたのか、本人が何を発言したのかまったく知らないんです。これに対して、神感は、目の前にいる依頼者や風景を見ながら、意識を持ちながら同時に異次元を霊視しているわけですね。つまり、現界と異界を二重写しに観ながら、あるメッセージを受け取るというやり方なんです」
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