ウクライナは独立したとはいえ、西欧に接近する西部とロシアとの関係を重視する東部が分裂気味に共存した国家となり、それが今日のクリミア・東部紛争を誘う導火線となったのである。(1)
(2022/5/15)
『地政学リスク』
歴史をつくり相場と経済を撹乱する震源の正体
倉都康行 ダイヤモンド社 2016/4/15
・地政学上の出来事が資本主義システムにどのような影響をもたらし、具体的変化を促したのか――。歴史的かつ巨視的な観点から捉えることは、今日われわれが直面する経済・金融問題を理解するための必要最低限の知識である。
<直撃された資本市場>
・資本市場や市場経済の分野で「地政学」という言葉が使われ始めたのは、21世紀に入ってからのことである。きっかけは、2001年9月11日に米国で起こった同時多発テロ事件であった。
ニューヨークのワールドトレードセンタービルに向けて過激派組織に乗っ取られた飛行機が突っ込んでいく映像を、いまも生々しく記憶している人は多いはずだ。
・以降、この「地理的環境と国際政治の関係」を捉えようとする視座を示す地政学という言葉が、市場用語として毎年のようにメディアのヘッドラインを賑わしている。
・また、1914年にサラエボに響いた一発の銃声がオーストリアの対セルビア宣戦布告を呼び、株価が急落して欧米の株式市場は相次いで休業を余儀なくされた、第一次世界大戦の口火が切られたその日、英国シティでは為替市場も麻痺し、英国蔵相の要職にあったデビッド・ロイド=ジョージ伯爵は「世界の信用取引の組織全体を破壊するような戦争がロンドンで始まろうとしている」と述懐していたという。
・地政学リスクは、バブルのDNAとともに、資本主義の黎明期からそのシステムのなかに組み込まれていた、と言ってよいのかもしれない。
昨今の金融市場は、米国や日欧など中央銀行の一挙手一投足に目を奪われがちで、地政学リスクはどこか遠巻きに見ている風だった。
・たとえば、米国政治学者のイアン・ブレマー氏が率いる「ユーラシア・グループ」は毎年1月に世界的リスクを抽出して「トップテン」の発表を行っており、2015年を「地政学リスクが蘇る年」と銘打った。ロシアのクリミア併合やウクライナ干渉問題、IS・イラク・シリア問題、サウジアラビアとイランの対立、中台関係の悪化、トルコの内政問題などを挙げて分析していた。実際はといえば、ウクライナに対するロシアの強硬な姿勢やシリア内戦の激化などはあったが、時に株価や為替に影響を与えることはあっても、全般的に地政学リスクが経済・金融市場を撹乱させたことはなかったと言える。
・2015年末のパリ同時多発テロやトルコによるロシア軍機撃墜などの事件に際しても、市場変動は限定的であった。「有事の安全資産買い」はほとんど見られず、金価格は低迷し円高も発生しなかった。むしろ多くの機関投資家は、そうした地政学リスクによって株価が押し下げられる場面を「絶好の投資機会」と捉えることも少なくなかったのである。
・地政学と経済の接点としては、株価や原油のほかに長期金利や為替相場も重要な要素として挙げられる。実体経済にとっては、むしろ長期金利や為替の急変動による影響の方が重要なケースも少なくない。
・地政学が、投資家だけでなく実体経済に携わるビジネスパーソンにもきわめて重要な情報であることは明白である。これから世界の舞台で勝負する人々にとって、旧時代の地政学ではなく21世紀の地政学が重要な武器になることも間違いない。そして、ローカルかグローバルか、といった二分化の意味も次第に薄れていくだろう。
<直撃された資本市場>
<原油価格と金融市場の因縁>
・地政学と現代経済との関わりの深さでいえば、株価と並んで原油価格の問題を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。多くの産油国が集まる中東地域は常に紛争リスクに晒されており、何か事件が起きれば原油価格が高騰して市場が動揺し景気が悪化する、というパターンがこれまで何度も繰り返されてきたからだ。
・現在でも、世界全体で見てエネルギー消費量に占める石油のシェアは約33%(2015)と最大である。再生可能エネルギーなどの登場でその割合は年々低下傾向にあるものの、現代社会にとって極めて重要な役割を果たしていることは言うまでもあるまい。今日でも、原油価格をめぐるニュースは新聞の1面を飾ることが多い。
・物価上昇を抑制するために中央銀行が引き締めに動くと予想すれば、市場では債券利回りが上昇(債券価格は下落)し、株価にも影響が出ることになる。1970年代に起きた2度の石油ショックによる原油価格急上昇は、物価上昇と景気後退を伴う「スタグフレーション」を世界にもたらした。その結果として、金融市場は債券と株の双方の価格が急落するという厳しい事態に見舞われた。
・また原油価格の変動が単に需給関係ではなく、産油国周辺での地政学的な要因によって発生するとすれば、為替市場にも影響が及ぶ。
「有事のドル買い」という言葉は、中東戦争などの地政学リスクの高まりを背景に、準備通貨であるドルに買いが集まったことから生まれた。もっとも昨今では、安全資産としての円が評価されて「有事の円買い」のほうが主流になった感もある。
また、市場では「有事の金買い」という言葉もある。金は有価証券と違って実体のある投資対象であることから、安全資産として見做される傾向が強い。
<イラクのクウェート侵攻が与えた衝撃>
・金融機関のディーリング・ルームのなかで筆者が「売った、買った」の喧騒に包まれていた時代に、「地政学リスク」という言葉を耳にしたことはなかった。だが内乱や戦争、軍事革命といったニュースキャスターに事欠くことはなく、経済指標の分析とともに世界のどこで何が起きているのか知っておくことは、ディーラーとして必須の要件であった。
なかでも忘れることのできない事件のひとつが、1990年のイラクによるクウェート侵攻である。
筆者は当時、旧東京銀行ロンドン現地法人のデリバティブズ部門で、計算用コンピュータ画面と数秒ごとに変化する相場を刻む複数のスクリーンに囲まれていた。
・この起債のスワップのヘッジとして、筆者は「固定金利受け取り・変動金利支払い」のスワップと日本国債を組み合わせ、変動相場を見ながら国債ポジションをコントロールするつもりでいた。だがこの「地政学リスク」の登場で、シナリオは一変してしまったのだ。
日本の市場はクローズしていたが、ロンドン市場では各通貨の長期金利が急騰し、日本国債の価格も急落していた。市場部門の仕事に就いて以降、米国の引き締め政策がもたらしたドルの金利の乱高下やプラザ合意によるドル急落、あるいは株価大暴落となったブラックマンデーなど、荒れる相場には馴れていたつもりであったが、流石にこれには参った。大損である。
ディーラーの当然の職務ではあるが、金利がXX%まで上がればYY円くらいの損失になる、という計算結果はすぐに頭に浮かぶ。その瞬間に目の前が真っ暗になったことは、還暦を過ぎたいまでも明確に覚えている。
<“油”をめぐる歴史は繰り返される>
・世界の債券市場や株式市場は、1970年代に2度のオイル・ショックという大変な出来事に見舞われた。1973年第一次オイル・ショックの引き金を引いたのは第4次中東戦争であり、第二次オイル・ショックをもたらしたのは1979年のイラン革命であった。それは、地政学リスクと石油、そしてグローバルな資本市場とが直結した最初の出来事と言ってよい。
・当時、筆者が悔やんだのは、なぜこうした中東の危機をうまく察知できなかったのか、ということであった。典型的な後の祭りではあるが、地政学的な事件は突如として起きることが多いように見えても、実際には水面下でマグマが蓄積されているケースがほとんどである。
<石油にまつわる新たな波乱要因>
・当時、イラクがクウェートを占領するという予想外のショックが発生したことで市場が呆然とするなか、ディーラーたちの目は原油価格の上昇に釘付けとなっていた。それまで1バレル18ドル前後で推移していた原油価格はあっという間に40ドルまで急騰し、市場には1970年代のオイル・ショックの悪夢さえ蘇ることになった。
物価上昇を懸念した日本銀行は8月末に公定歩合を引き上げ、債券先物は上場以来最低値に落ち込んで長期金利は急騰した。そして1989年末に3万8915円とピークをつけていた日経平均の下げも加速し、事件前には3万円近辺にあったその水準は10月には2万円近辺にまで急落したのである。
<ソ連崩壊と社会主義の敗北>
・1991年12月のソビエト社会主義共和国連邦崩壊は、20世紀最大といえる地政学的ニュースであった。
・共産主義を理想に置く社会主義国としてのソ連は、資本主義陣営の中核である米国を幾度となく脅かしてきた存在であった。人工衛星や有人宇宙飛行など宇宙開発競争では米国をリードし、経済体制に関しても共産主義の合理性や優位性を説く西側のエコノミストは少なくなかった。日本の主要な大学の経済学部においても、1970年代まではマルクス経済学が主流だったのである。
だが1980年代以降には西側諸国との経済格差拡大が明らかとなり、ゴルバチョフ総書記の下で自由化や民主化へと舵を切ろうとしたが、ペレストロイカと呼ばれた改革路線も行き詰まる。ソ連は東欧諸国に対する影響力も失うこととなり、民主化を模索するポートランドで自由選挙が実施されて人民共和国が崩壊すると、他国でも次々に民主化運動が起こるようになった。
・なかでも1989年8月のハンガリーで起きた「ピクニック事件」が、東西冷戦の象徴でもあったベルリンの壁を崩壊させる契機となった。
・こうした東欧諸国の民主化運動は、当然ソ連体制にも跳ね返ってくる。改革派に対して保守派が起こしたクーデターは失敗に終わったが、それはゴルバチョフの勝利ではなく、ソ連の崩壊を意味していた。その後、ロシアで政権を担ったのが急進改革派のエリツィンであった。
・だが資本ストックの拡大が行き詰まると、経済成長力は目に見えて低下し始める。重工業への偏重は経済構造を生み出し、労働生産性は上昇せず、国有企業の赤字を政府補填で埋めるために財政赤字は急拡大していく。1980年代にはもはやそれが修正不能の段階にまで達していたのである。ゴルバチョフによる部分的な市場経済導入も失敗に終わった。ソ連崩壊は「共産主義の敗北、そして資本主義の勝利」という文脈で報道されることも少なくなかった。
もちろん、大国としてのソ連が行き詰まったのは経済的側面だけの問題ではない。労働者の国家とは言いながら実質的には共産党エリート集団の専制政治体制であり、社会主義体制とは事実上の全体主義体制だったのである。また、周辺民族を抑圧する露骨なロシア民族主義でもあったことなどがソビエト連邦制度の持続性を困難にしたことは事実であろう。
最終的には、西側諸国がコンピュータや通信、金融などのイノベーションを通じて高い経済成長を遂げたのに対し、技術革新が遅れたソ連の劣後性が経済を停滞させた。それによって国民の強い不満を招いたことが、国家体制を揺さぶったのは明らかである。
・もっとも、新生ロシアは結果的に厳しい景気後退とハイパーインフレに見舞われる。国営企業の民営化プロセスにおいても政権に近い新興財閥が有利な条件で資産譲渡を受けるという不公平な状況が生まれた。そうした不完全で不健全な市場経済への移行は、1998年に発生するロシア危機の布石となるのである。
その金融危機の際にロシア国債は事実上のデフォルト状態となり、同国債を大量に抱え込んでいた大手ヘッジファンドのLTCMが破綻寸前に追い込まれるという非常事態に陥った。同ファンドの危機が次々に波及していくシステミック・リスクを警戒したニューヨーク連銀の要請を受けて大手金融機関がLTCM救済に出動したが、市場は混乱に陥った。為替市場では「キャリー・トレード」と呼ばれた円売り・ドル買いのポジション調整で、ドル円は130円台から一気に110円まで急落したのである。
・後に旧社会主義国が次々とEUに加盟して西側陣営に参加し、ロシアの影響力は急速に後退していくことになる。だが、そこで取り残された問題がウクライナであった。同国は独立したとはいえ、西欧に接近する西部とロシアとの関係を重視する東部が分裂気味に共存した国家となり、それが今日のクリミア・東部紛争を誘う導火線となったのである。
一方で、旧社会主義国を引き入れながら東方へと地理的に拡張したEUも、拡大路線をどこまで維持すべきか、という地政学的問題を抱えることとなった。それはNATOという軍事問題やエネルギー安全保障問題とも密接に絡みながら、トルコの加盟シナリオやギリシャのロシア接近などきわどい政治経済問題にまで発展し、現在に至っている。
<復活するロシアの強硬姿勢>
<答えの出ないウクライナ問題>
・1991年のソ連の崩壊、1998年のロシア危機、2001年の米国同時多発テロ、そして、2008年の世界的金融危機などのイベントを経て、プーチン大統領はテロ対策や経済安定化などのテーマを通じて欧米社会との協調姿勢を打ち出した。それは、ロシアをめぐる地政学の大きな転換点であったかに思われた。
・だが、ウクライナ問題が、その期待感を一気に後退させてしまった。ロシアによるクリミア自治国の併合やウクライナ東部州への軍事援助などに対して欧米諸国は猛反発して対ロ制裁を発動し、G8も事実上運営停止となった。ロシアもウクライナの政変は米国が誘導した違法なクーデターであるとして、強硬姿勢を崩すことはなかった。それは「21世紀の新冷戦」という、新たな地政学リスクを産み落とすことになる。
・この「新冷戦」の下で欧米が発動した制裁により、ロシア企業は国際資本市場から締め出され、外貨資金の調達が困難になった。ロシア政府は、企業の外貨建て債務の借り換えに必要な資金を外貨準備や石油基金から拠出する方針を探ったが、一方で為替市場ではルーブル売りが殺到してロシア中央銀行はルーブル防衛を余儀なくされ、外貨準備は急減する。
2014年12月にルーブルが1ドル80ルーブル台という年初来約60%もの暴落を記録した主因はサウジアラビアの戦略変更に伴う原油価格の急落であったが、欧米の経済制裁によるロシア経済失速への懸念がその下落ペースを加速したことは間違いない。原油と地政学のダブルパンチである。
・ロシアが以前からウクライナに対して強い不信感を抱いていた理由のひとつに、ガス・パイプラインの問題がある。ソ連時代に対欧州向けに構築されたパイプラインは欧州経済にとってのライフラインであるが、その80%はウクライナを通過している。その地理を利用して同国は、無断でのガス抜き取りや料金不払いを続けてきたのである。
・その後も2008年金、2009年と毎年のように両国間で料金不払いやガス供給停止といった衝突が発生した。そして、2014年にウクライナで親ロ派のヤヌコビッチ政権が倒れると、ロシアは累積的な代金未払いを理由にガス供給の全面供給停止を示唆するなど、強硬な態度に出た。ロシアによるクリミア自治国の編入も、時を同じくして起きた事件であった。
プーチン大統領が欧米社会との協調路線を捨てて、自国の利益を主張する方針に転換したのは明らかである。その軌道修正は、2011年に始まったシリア内戦への関与において、一層明確になっていく。
<シリアへの介入>
・シリアは、ウクライナと同様にロシアにとって極めて重大な地政学的な意味を持つ国である。ソ連時代からの友好国であるシリアのタルトゥース港は、旧ソ連圏以外で唯一のロシアの軍事基地となっているからだ。また、シリアはロシアの軍事兵器輸出の重要な輸出先のひとつでもある。
・そこには相変わらず諸国の「シリア介入」への関心が紛れ込んでいる。欧米はアサド政権退陣を大前提とし、ロシアは仮にアサド大統領が退陣したとしても親ロ政権が継続されることを望んでいる。いずれにしても、内政介入という基本路線に変わりはない。ロシアだけでなく欧米諸国も、19世紀末から続く「中東介入方針」からいまだに脱皮できていないのである。
またシリアをめぐる対立構造は、複雑な民族問題でもある。ロシアが支援するアサド政権はイスラム教シーア派の一派であるアラウィー派であり、体制維持に協力しているイラン、ヒズボラもシーア派の勢力だ。一方で、反アサド体制を主張する自由シリア軍、トルコ、サウジアラビアなどはイスラム教スンニ派である。
<トルコの軋轢>
・そうしたなかで2015年11月に起きたのが、トルコによるロシア軍機の撃墜事件であった。トルコ政府は、ロシア機が領空を侵犯し、針路を変更するよう警告したが従わなかったために撃墜した、と発表した。ロシア側はトルコ領空内には入っておらずシリア領空で撃墜されたと激怒し、双方の言い分が全面的に食い違う激しい非難の応酬となった。
・両国が戦争に突入する確率は低そうだが、対IS攻撃で各国の足並みが乱れる可能性は高い。そもそもロシアとトルコの間には、ロシア帝国とオスマン帝国時代から引きずる犬猿の長い歴史がある。クリミア戦争だけが両国の戦いではない。それを考えれば、対IS戦略において協調関係を結ぶのは容易ではないようにも見える。
同時に、ロシアとトルコにはガス・パイプラインという重要な経済テーマもある。
・その意味では、中長期的に見込みが高いのは中国の需要である。中国の経済成長率は低迷しているが、潜在力は欧州よりもはるかに高い。また、欧米市場での資金調達が難しいロシアが中国にファイナンスを打診している可能性も高い。プーチン大統領の優先リストは、いまや欧州ではなく中国なのかもしれない。
<中ロ接近時代>
・そのロシアと中国との関係も、重要な地政学リスクの一要素である。両国が軍事衝突する可能性は極めて低く、むしろ「21世紀の新冷戦構造」のなかで二国間の接近度が注目されることになるだろう。その距離感を定める主要なパラメータは、エネルギーとファイナンス、そして対米関係である。
・ただし、国際政治面では中ロ両国の利害が一致して欧米諸国と一線を画す態度に出るケースは今後も増えるだろう。これまでも、国連安全保障理事会においてはイラン核問題やシリア和平問題などの抗議の場で、両国は共同路線を採ってきた。ロシアのクリミア併合やウクライナ東部での軍事介入に関しても、中国は沈黙を保ってきた。
プーチン大統領と習首席はともに米国との協調姿勢を示しながらも、領土問題など個別の案件では絶対に譲らないという共通点がある。基本的に対米というイデオロギー面での「共闘」は今日でもなお健在であり、それが「21世紀の冷戦構造」という地政学リスクの通奏低音になっていることは明らかである。
<地政学の「ブラック・スワン」>
・前章では現時点のスナップショットとして世界各地域に横たわる地政学リスクを概観したが、今後の展開に関しては足元の状況の延長線上で演繹するには限界がある。資本市場の見通しに常に「想定外のシナリオ」が降りかかるように、地政学にも思いがけない展開が待ち伏せていることは疑いを入れない。
・それを別の言葉で言い表したのが、ナシーム・ニコラス・タレブが書いた『ブラック・スワン』であろう。
「ブラック・スワン」とは文字通り「黒い白鳥」であり、地球上には存在しないと思われていたが、17世紀末に豪州で発見されたという。その事実からタレブは、一般にはあり得ないと思われる予測不能の現象を「ブラック・スワン」と呼び、それがひとたび起きればシステムに強い衝撃を与え、かつ事後的には当たり前のように記述されるようになることを説いた。
2008年のリーマン・ショックのように、資本市場における「ブラック・スワン」の存在やその影響を正確に予測することは困難であり、地政学の問題となればさらにその難易度は急上昇する。だが、頭の体操を兼ねてその候補リストを作成してみることは、決して無駄な作業ではあるまい。
以下の5つの項目は、筆者が現時点で思いついた点にすぎない。
<1 サウジ王家の崩壊リスク>
・中東の地政学リスクの代表格は、すでに見てきたようにイスラエル、シリア、イラン、エジプトなどをめぐる政治的不安定性とISによる軍事展開である。
これに対して、最大の原油産出国であり治安が維持されているサウジアラビアは、米国のバックアップもあって政治的な安定性が保たれている。
・したがって、サウジ内政に大きな変化が起きれば、まず株式市場において強烈な「リスクオフ」の売りが生じ、その結果として円買い、スイスフラン買い、金買いといった動きが加速する可能性がある。また、原油供給体制の不透明感から原油価格が急騰し、債券価格が急落(金利は急上昇)するといった波乱を通じて実体経済に悪影響を及ぼすことも想定されよう。
<2 プーチン大統領の失脚リスク>
・ソ連と米国が世界を二分する大国であった時代は過ぎ去り、ソ連崩壊を経た21世紀は、米国の一極主義に中国が対抗意識を強める新たな「G2時代」を迎えつつあるように見える。だからロシアは、依然として大国としてのプライドを捨ててはいない。プーチン大統領の巧みな外交政策を通じて、世界に対して一定の影響力を保持しているのは周知のとおりである。
・1998年に破綻したロシア経済の復興、そしてクリミア編入やウクライナ東部への武力支援、およびシリア内戦や対IS攻撃のイニシアティブ
姿勢は、ロシア国民のプーチン礼賛の基本的要因である。一方で、欧米だけでなく国内でもプーチンの経済運営に対する不満が徐々に蓄積されている
その主因は、国内景気の悪化である。
前述したように、ロシアは原油価格下落による景気後退の波に襲われ、企業や国民は疲弊している。
・現時点でそれがプーチン批判に集結しないのは、経済的疲弊は欧米によるロシア制裁によるものだ、との主張が受け入れられているからだ。ウクライナ問題は、そもそも米国が引き起こしたクーデターであるとの理解が同国内では一般的である。シリア内戦も欧米が無理やりアサド政権を崩壊させようとしているから起きたものだ、との見方が定着している。国民の大半にとって、プーチン大統領はそうした非合理的な外圧に対する頼もしい防波堤なのである。
・だが、同大統領も油断できない状況にある。
2015年末に承認された国家安全保障戦略において、ロシアはNATOと米国を「ロシアに対する脅威である」と明示したのである。これは、新冷戦の幕開けを予感させると同時に、国内に「アラブの春」のような反体制運動が拡大することへの強い警戒感を示している。反米姿勢だけで、国民の不満を鎮めることは容易ではないかもしれない。
仮にプーチン大統領が表舞台から去るような事態になれば、強いリーダー不在のロシアへの不安が、資本市場に渦巻く可能性もある。
<3 中国共産党の弱体化リスク>
・国際資本市場では、中国が公表しているGDP成長率の水準を疑問視する声が一般的となっており、実際の成長率は4~5%程度と見られている。だが、その経済力の潜在性への期待が消えたわけではない。
・2015年は、長い間指摘されてきた中国の経済リスクが市場に露呈した年であった。上海株の急落や人民元の下落、そしてその市場の急変動に対する政府対応の拙さは、海外市場における不安を惹起しただけでなく、国民の不信感をも増幅させることになった。GDPで見れば米国に次ぐ世界第2位の座にあるが、1人当たりGDPは先進国の水準に遠く及ばず、このまま頭打ちになる可能性も強い。中国政府は対外的に強気の姿勢を保っているが、その一方で、輸出や投資に依存せざるを得ない国内経済の脆弱性は隠しきれなくなっている。
・メディアや社会運動の弾圧なども、開かれた市場経済への軌道とは逆行している。かくして、過剰供給構造へメスが入らない可能性も高い。だが、こうした停滞構造に不満を抱く国民が増えれば、大国主義を突き進む習主席の地位も安泰ではなくなる。
鍵を握るのは、増加傾向にある中間層だろう。
・仮に中国内政に明確な異変が生じれば、世界の株式市場に厳しい売り圧力がかかることは避けられまい。為替市場では人民元が急落し、ドルが急上昇して他の新興国通貨もつれ安となるだろう。
・また、中国の政治経済的混乱は世界のデフレ・リスクを一層高めることから、グローバルな低成長構造が定着した停滞感や景気後退への警戒感が強まることが想定される。
・EU内で軍事的な衝突が起きることは考えられないが、社会的な不満の鬱積が各国間の刺々しい対立感情を生み始めたり、欧米間の同盟関係の弱体化が進んだりすることも予想される。欧州は新たな地政学リスクに直面し始めている。
<4 ドイツ求心力の後退リスク>
・2007~2008年のリーマン・ショックで米国の経済社会に激震が走った後、欧州にもその波が押し寄せた。アイルランドの金融危機やギリシャの債務危機に続く、ポルトガル、スぺイン、イタリアの財政赤字懸念は、各国の頭文字を取って「PIIGS問題」と呼ばれ、ユーロの存続を脅かすほどの暴風雨となった。なかでも台風の目になったのは、ギリシャである。
・東西ドイツ統一に苦労しながら最終的には経済大国を再建することに成功したドイツには、難民への寛容な態度が中長期的にプラス効果を生むという自負や期待感がある。だが、年間100万人に達するほどの難民の流入ペースは短期的には社会不安や財政不安を連想させやすい。首相陣営のCDU内部からも難民政策反対の声が上がり始めており、2017年に行われる総選挙を前に、選挙対策としての「メルケル降ろし」が画策される可能性もないとは言えない。
<5 日本の地政学リスク>
・これまで見てきたように、世界には至るところに市場経済や金融システムとの関連が深い地政学リスクが散在している。
・たとえば、英国で国際分散投資を行うポートフォリオ・マネージャーの目には、日本はどのような投資対象に映っているのだろうか。
GDPや株式市場の時価総額で世界第3位の日本が、重要な市場であることは言うまでもない。「有事の円買い」と言われるように、リスク回避の際に選好される通貨を持つ国であり、また対外保有資産では他国を寄せ付けない世界最大の債権国でもある。
国内の治安も良く国民は勤勉で、最近では「おもてなし」に代表されるサービス精神も高い評価を受けている。食品から工業製品に至るまでの製品の品質の良さも、昨今の中国人旅行客による「爆買い」があらためて証明している。
日本株式市場の外国人投資家の取引シェアは60%を超え、保有残高シェアでも30%を超える。外交の場では時に「日本人パッシング」などと揶揄されることもあるが、海外資本にとって日本はとても無視できる国ではない。日本経済も海外資本と密接に結びついている。
・海外勢が抱く日本経済への懸念材料と言えば、長引くデフレと巨額の財政赤字が双璧であった。それに加えて、頻発する地震などの自然災害リスクが意識されることもあったが、それよりも深刻な地政学的な観点で捉えられたのが原子力発電所の問題である。2011年3月11日の福島原発事故は、海外勢の日本を見る目に新しい座標軸を与えることになった。
・先進国の場合、公的債務のGDP比よりも歳出に占める利払い額のシェアのほうが問題である。超低金利の日本ではまだ耐久力があるとも言えるが、財政再建への工夫や努力が見られないなかでの債務増加は日本のアキレス腱である。地政学と財政赤字の結節点に関して、われわれ日本人はもっと敏感になる必要があるのではないだろうか。
・また、陸海への支配域拡大の野望を抱く中国や、極東への関心を強めるロシアなど、日本の周辺国との外交的な難題は山積みである。それと並行して憲法改正による武力展開への道を探ろうとする日本は、地政学リスクの観点からすれば、海外のポートフォリオ・マネージャーにとっても「リスク・フリー」と言える地域ではない。
・日本は海外諸国に胚胎する地政学リスクに疎い、と「はしがき」に書いた。しかし、日本人が本当に鈍感なのは、日本国内にみずから抱えている地政学リスクに対してかもしれない。
<地政学リスク>
・地政学という言葉は現代的な用語であるが、そこに潜むリスクは古代から人間社会の形成に大きな影響を及ぼしてきた。その構造的な本質は、今日も変わっていない。
そして、各国・各地域の経済体制や金融システム、資本市場において、地政学リスクは通奏低音のように現代にも流れ続けている。
国際情勢を正確に、かつ迅速に把握することは、容易ではない。しかし、その綿密な作業を怠れば21世紀の資本主義社会における厳しい競争から落ちこぼれてしまうことは確実である。
さらに、過激派により攻撃リスクも日本に無縁とは言えなくなってきた。
・そして、地政学リスクの主因となる憎悪の背景に貧困と差別があることは、本書で何度も繰り返してきた。その責任の一端を資本システムが負っていることは否定できない。そこに付着する排除の論理を共産主義で取り除くことができないこともわれわれは学んできた。
現代社会では投資や経営の視点から地政学リスクを考えることが多いが、そのリスクを生んだのが、先進国が依拠する資本主義のシステムであることを忘れがちである。そうした欠点への問いかけなしに、報復攻撃のような対症療法だけに注視することは、今日の社会が不健全である証左に他ならない。
・もっとも、過去の地政学リスクによる相場下落が絶好の買い場であったという安易な経験則は、どこが底値であったかを事前に知る由もない、という事実を無視している。どんな地政学上の問題でも、先行きの正確な予測は容易ではない。不透明さをできるだけ排除しつつ視界を少しでも晴らしていくことが、地政学を学ぶ意味であろう。
・環境という新たな地政学リスクの存在が、旧来の思考経路の修正を促す重大な要素になることもあり得る。そして、そのリスクゆえに投資や経営からの撤退を決断せざるを得ない局面があるかもしれない。
いずれにしても、局所的な理解と対極的な把握の双方が求められるのが、現代の市場経済における地政学なのである。
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