この『ビッグフット』の報告とガルフ・ブリーズの報告には、はっきりした因果関係はないが、しばしば超常現象の研究家の目にとまるように、UFOの目撃は別のとてつもない出来事と同じ時期に発生する。(1)

(2022/10/5)

『UFO事件の半世紀』

ロズウェル事件からMIBまで

キース・トンプスン   草思社  1998/4/1

・本書は、半世紀におよぶUFO遭遇事件を個別に検証し、天空より飛来する異人というイメージに、なぜ人びとがこれほどまでに魅せられるかを考察するものである。

・その問題とは、現代のUFO事件は、人間と尋常ならざる存在との関係を描いた世界各地の神話と似ている、ということである。

 神話に描かれ人物は争い、だまし、弱点をもち、復讐を企て、互いの心をかき乱すという特徴をもつが、互いに張り合っているUFO研究家たちのあいだにも、この「神話のパターン」が現れている。彼らはUFO現象を説明する物語を矛盾なく仕立てあげようと競っており、まさにその努力そのものが、ひとつの物語となっている。

・この論争は繰り返し同じ袋小路へとたどり着く。つまり、一方で市民が証言すると、他方では当局がそれを退けるのである。この行き止まりは肥沃な真空地帯とでも言うべき場で、そこではとてつもない可能性――精神と物質、意識と無意識、天空と大地といった二元論で理解されている事柄の性質や、宇宙の運命や、「私たち人類」のための「彼らエイリアン」の計画といったものに関する――が討論の中から生まれ、従来は空にあるものとされてきたUFOが形而上学的な存在となるのだ。

<UFO神話の誕生――隠されたパターン>

・神話的な観点から見れば、初期のUFO現象は神話の土台となる出来事であり、その後のさまざまなUFO事件の先駆けであるが、それは単に、カレンダーで示されるような純粋な意味での時間的な出発点ということではない。そこには、より根本的な次元である心の境界領域が投影されているのだ。

<姿なき神々――ヘルメス、トリックスター、ディオニュソス>

・UFO叙事詩が二重構造をもつこと――そして極端なテーマに分裂する傾向があること――を考えると、私たちが読み進むにつれて出会う登場人物――懐疑論者、否定論者、信奉者、いかさま師、自然科学者など――に目を奪われているあいだに、プロテウスのように最初から裏口を通ってこの叙事詩に入ってきた役者がいるのではないか、と疑ってみたほうが賢明なようだ。ひそかに入りこんだこの役者たちは、表舞台に登場しないがゆえにいっそう筋書きの決定にあずかってきたのだ。

 彼らの名前を明かそう。ヘルメス、トリックスター、ディオニュソスである。この三人の役者は、時間を超越した記録としての神話に現れる。コンドンの失敗によって物語がぷっつりとぎれてしまったので、この機会にこの登場人物たちをじかに知っておけば、今後、各方面の舞台裏に彼らの姿を認めやすくなるだろう。

《ヘルメス》

・ゼウス(神々と人間の父、世界の支配者にして守護者だとギリシア人は考えていた)とマイア(ゼウスの数多い愛人の一人)の息子として生まれた神ヘルメス(ローマ人はメルクリウスと呼んだ)はさまざまな姿で現れ、ギリシアの万神殿で無数の役割を演じた。駿足をいかにして神々の使者として天国と地上を行き来し、神託を告げる神という役を得た。使者ないし伝令であるヘルメスはまた、黄泉の国に入ることもできるので、死者の魂を生死の境の向こう側へと導いて永眠させる。精神の影の領域のすぐそば――特にヘルメスのように足の速い者にとっては、ほんの一足のところ――に眠りと夢の領域があり、そこでも彼は意識と無意識、表層と深層の仲介者および道案内の役目を果たしている。

 ヘルメスは商取引の守護者とも「説得力のある演説」や雄弁術の神とも呼ばれるようになった。これらの役割はどれも、領域間の仕切りを本能的に出入口と見なしてしまう使者、仲介者、境界の侵害者としてのヘルメスの才能と密接に結びついており、複数の領域にまたがるものなので、彼はコミュニケイションの神として、また同時にうそつきとどろぼうの守護聖人として知られるにいたった。

・パリスによれば、ヘルメスが同時に商業の神とどろぼうの神を務められるのは、取引も盗みも移動させる行為を作っており、「品物」がある所有者から別の者の手に渡るからである。彼が最もくつろげるのはいつでも「顕在と潜在の中間の領域であり、また微妙に異なる声色や口調や身振りを倦むことなく作りだしては、状況に応じてそれを使い分けて自分のメッセージを伝えようとする」ほどだから、彼にとって、このように窃盗と取引とが必ずしも明確に区別できないという事実はおあつらえ向きである。

《トリックスター》

・北アメリカのインディアンから、ギリシア人、中国人、日本人、シベリア人、ユダヤ人にまで共通して見られる神話がある。その物語にはトリックスターと呼ばれる人物が繰り返し登場して、冒険や試練を経験するという特徴がある。特定の動物――ワタリガラス、コヨーテ、ノウサギ、クモ――の姿で現れることもよくあるが、本来トリックスターには明確な、あるいは固定した形はない。実際、この神話上の人物は、まだ分化していない意識形態に対応しているようだ。この意識形態は、より発達した精神的機能が生じる以前の段階であるが、今でも心の最も奥底の古層にある集合的無意識で活動を続けている。

・トリックスターが複雑なのは、創造者と破壊者、気前のよい者とけち、ペテン師とお人好しを同時に演じられるからである。「笑い、ユーモア、アイロニーがトリックスターのあらゆる行動に浸透している」と文化人類学者ポール・ラディンはこの問題を扱った古典『トリックスター』に書いている。トリックスターというモチーフのなごりは、中世の道化師、現代のピエロ、パンチとジュディの人形芝居に残っているし、謝肉祭において一定時間、社会階層(たとえば市長とごみ収集人、王子と貧民)を入れかえる儀式にも見られるが、それが一番はっきり現れているのは、未確認飛行物体をめぐる現代の論争である。

・ユングによれば、トリックスターは「救世主の先駆者であり、救世主と同じく神であると同時に人間でも動物でもある。人間以下でもあり超人でもあり、獣性と神聖さを兼ね備えた存在だ。驚くべき一番の特徴は、常に言動が無意識にもとづいていることである」。一方において創造者という側面をもち、人間の力をはるかに凌ぐ多くの独創的な可能性をもっており、自分の肛門を切り離してそれに特別な仕事を任せたり、女になって子供を産んだり、自分のペニスから有用な植物を生み出したりする。他方においてトリックスターは「いろいろな点で動物より愚かで、まったく無意識で内面的統一性がないために、ひどいことをしては、次々に窮地に陥って笑いをさそう」とユングは付け加えている。

 しかし、トリックスターは救いようのない苦境に陥るたびに、局面を逆転させる能力を発揮して救世主の性質を取り戻す。ユングの警告によれば、現代人の意識はトリックスターと接することがほとんどなくなってしまったが、トリックスターは私たちを見つけるすべを忘れたわけではないという。そして、潜在的に天使と悪魔の要素が共存していて不安定な個人意識および集合意識に、邪魔者としての自分の存在を訴えかけようとして、挫折感を与える「運命のいたずら」や「ポルターガイストの悪ふざけ」などの現象を起こすのだ。

 トリックスターも一定の姿をもたないという点で、たしかにプロテウスやヘルメスと似ているのだが、もっととらえどころがないし、一人前の神の特徴である全体的な秩序が欠けている。

《ディオニュソス》

・ゼウスと(その愛人の一人)セメレとのあいだに生まれたギリシアの神ディオニュソスは多産と酒と演劇の神である。この三番目の役割――劇芸術の守護神――こそ、本書の展開にとってとりわけ興味深い。本書で、ディオニュソスが最も気に入っているテーマである本当の正体の暴露に対する関心を最初にほのめかしたとき、彼はひそかにUFO劇にすべりこんだ。

 ニーチェによって悲劇の誕生というテーマと結びつけられたが、もっと正確に言えば、ディオニュソスは劇の一形態としての悲劇の出現、そして劇一般の発生とつながりがある。多くの名をもち、多くの役を演じて「仮面の神」あるいは「仮面をかぶった神」と呼ばれていた。この神は、厳密に言うと、さまざまな仮面で変装するのではなく、仮面によって姿を現すのであり、そこに非凡な才能が表れている。UFO学の主流派は、偽装による欺瞞というモチーフにばかり目を向けすぎて、もっと大問題を見失っているのかもしれない。UFOの振る舞いを秘密主義と結びつけて空想するのは無理もないが、そうした振る舞いはUFO独自の正体の明かし方だということもありうる。

・UFO研究においては、あらゆるUFO現象に共通する唯一の正体を発見したいという願望がある。

・強調すべきは、これら神話上の人物――ヘルメス、トリックスター、ディオニュソス、そしてやはり同類のプロテウス――は結局のところ、人間と同程度に現実的だということである。古代ギリシア人のイマジネイションにおいては、神話的な感覚が隅から隅まで支配しており、神々は自然の法則の中にあり、それに従うものと考えられていた。そして、特定の神と結びつく出来事(プロテウスのように変わりやすい出来事、ヘルメスのように目まぐるしい出来事、ディオニュソスにようにとらえどころのない出来事)が起こると、その出来事の中に、また出来事そのものとして神々が現れると理解されていた。

 UFO叙事詩において暗黙のうちに活動している古代の神々は、従来の宗教的な意味での崇拝を要求しないし、「現実的な問題」から私たちを遠ざけようともしない。むしろ、この神聖な登場人物に特徴的な冒険的行動――いたずら、ぺてん、言い争い、隠蔽、取引、非難、陰謀、熱望、切望など――は私たちの生活における実際の状況を象徴的に表しており、その状況にはUFO学と呼ばれる分野での活動も含まれる。

・もろもろのイメージを神話と関連させて考えることによって、UFO現象をより深く、豊かで、広がりのあるものとして理解し、各事例をより適切に解釈することが可能となるだろう。大部分のUFO研究家はそれとは正反対の努力――現象をあるがままに(一面的、平板、一義的に)理解して単純化すること――を続けているが、こうした事実があるからといって、神々がUFO現象から消え失せてしまうわけではない。逆に、神々は正体を隠して活動を続けるだけであり、かえってそうした事実があればあるほど、多種多様な魔力でUFO学を包み込むだろう。

<神々の置き土産――マヤ、縄文>

・次から次へと事例を引き合いに出して、ヴァレーは、UFOおよび空飛ぶ円盤と呼ばれる現象は「昔はさまざまな名前で呼ばれていた文化の底流が再び出現しただけだ」と主張した。その底流は「原始的な呪術から、神秘体験や妖精信仰や宗教を経て、現代の空飛ぶ円盤をまっすぐ貫いており」、昔から使われてきた魔法にも通じている。ヴァレーはこうした領域相互のテーマの類似性をあげるにとどまらず、「こうしたもろもろの信仰を生み出してきた母体はひとつである」と論じた。

・紀元前300年ごろまで続いた古代日本の縄文時代には、土偶を創る技術があった。ごく初期の土偶は非常に単純だが、中期になると、より大きな像が作られるようになり、デザインも著しく変化して、豊かな胸、孤を描く脚、短い腕、丸いヘルメットをかぶっているとしか考えられない大きな頭などの特徴が現れた。頭部にかぶっているものの正体は埋葬の際に死者を悼んでつける仮面だ、という考古学者もいる。だが、東北地方で発掘された土偶のいくつかには「『サングラス』をかけているように見えるものがある。それは、目が大きく昆虫のように横に線が入っており、本当に注目すべきデザインだ」とヴァレーは述べている。それ以外にも、柔らかい石に刻まれた絵で、大きなゴーグルをつけて襟の大きなつなぎの服を着ている姿を描いたものもある。

・1180年10月27日のことである。日本の紀州の北東部にある福原山のかなたの山から「陶器の船」と表現された特異な光る物体が真夜中に舞い上がり、徐々にコースを変えてついには光の尾しか見えなくなった。

 1271年9月12日。有名な僧侶の日蓮が滝ノ口でまさに打ち首になろうというとき、突如として満月のように明るく輝く物体が空に現れた。役人たちがパニックに陥り、処刑は取り消された。

 1468年3月8日の深夜、「車輪のような音」をたてる黒っぽい物体が春日山から西のほうに飛んでいった。その音も色も、日常的な言葉で言い表すのは難しい。

・数ある事例の中でもきわだっているのは、ある日リヨンで起った目撃事件で、男性3人と女性1人が……驚嘆すべき構造の空飛ぶ船から降りてきた。その船の編隊は西風に煽られてふらふら飛んでいたのだ………町じゅうの者がその男女のまわりに集まり、彼らは魔術師だと叫んでいた………4人の罪のない者たちは自己弁護しようとして、自分たちは別の土地の者であり、少し前、不思議な力を使って聞いたこともない奇跡を起こす男たちに連れてこられたと言ったが、無駄だった。………半狂乱になった住民は誰一人としてこうした弁明に注意を払わず、4人を火あぶりにしようとしていたところ、リヨンの司教として尊敬を集めるアゴバールが………騒ぎを聞いて駆けつけ、人々の告発と4人の弁明の両方に耳を傾けたうえで厳粛に判断を下し………4人が空から降りてきたというのはは真実ではなく、また4人が自分たちの土地で目にしたと述べている奇跡はありえないと告げた。

 アゴバール司教は最初の「UFO否定論者」ということになろうか。この話を「単なる言い伝え」だとして片づけようというなら、中世を通じて絶えることのない、四大の精霊(四大(地・水・火・風)を支配する精霊)と呼ばれる存在と遭遇したという無数の報告も同様にはねつけざるをえない。

・ウォルター・エヴァンズ・ウェンツの古典的な本『ケルト族の妖精信仰』で、パトリック・ウォーターは、「妖精」を次のように描写している。「ある日、野原にいた大勢の少年たちが赤い帽子をかぶった妖精を見た。妖精は、身長以外は普通の人間と変わらなかった。背丈は1メートルほどだった。………古い砦のほうに歩いてゆき、見えなくなった」。ある住民は「上流階級」と称する妖精について次のように語っている。

 彼らは労働者階級ではなく、軍人および貴族階級であり………われわれ人類とも精霊とも異なる種族だと教えてくれた。すさまじい能力をもっていて、「人類の半分を殺すこともできるが、そうしようとは思わない。

魂の救済を得たいからだ」と言っている。3、4年前には私の知り合いを麻痺させて殺した。視力が非常に優れており、地球の反対側まで見えるのではないかと思う。

・UFOの実地調査をしていて、ヴァレーはこれと一致点の多い「宇宙人」の描写に出会った。そこには宇宙人の優れた能力について、妖精の場合とよく似た話が出てくる。妖精信仰を綿密に調べていて、バレーは「エルフが赤ん坊を誘拐したり、陸上の動物を捕えて連れ去ったりするという記録」を見つけた。こうしたテーマは、現代のアブダクションや、宇宙から来た捕食生物による家畜解体虐殺事件といった話と似ている。

 民俗学者のトマス・ブラードは1982年に提出した見事な博士論文で、UFOと古今の民間伝承に出てくる類似した現象との相関関係を扱い、ヴァレーの関心を引いたテーマを手がかりとして研究を進め、とりわけUFO搭乗者の行動と、妖精や小人や19世紀の「飛行船」の乗組員の行動とを比較した。そして、この異なるカテゴリーのあいだに印象的な類似点があると気づいた。

<天使とは何か?――グレゴリー・ベイトソン>

・スぺース・ブラザーとの接触がもたれるのは、一般に森林のような人里離れた場所で、コンタクティはそこへ行くよう「指示」される。聖書に登場する昔の預言者と同じで、1950年代の有名なコンタクティ――ジョージ・アダムスキー、トルーマン・ベサラム、ダニエル・フライ、ジョージ・ヴァン・タッセル――はほとんどの場合、文字どおり砂漠に行って接触している。円盤が浮かんでいるそばで面と向かって宇宙人と話をしたと報告するコンタクティもいるし、テレパシーによる「チャネリング(交信)」が接触の主な手段だと言う者もいる。

 エイリアンは非常に魅力的で人間に似ており髪をなびかせ射るような美しい目をしていることも多く、コンタクティの母国語を話せる。そこで、たいした苦労もなく一般の住民にまぎれこむことができる。会話や観察を通じて、また、ときにはエイリアンと一緒にほかの世界に行くことによって、多くのコンタクティは自分が本来別の惑星の出身であることを知り、自分でなくては遂行できない任務を言い渡される。

・アブダクティの体験談に話を進める前に、コンタクティの人生と預言者の人生の類似点にもっと目を向けよう。旧約聖書に登場する預言者モーゼは、出生の際にも子供時代にも異常な経験をしており、のちに超自然的な声に従って遠い土地を旅する。タルソ人のサウロはダマスカスに向かう途中、神の出現に遭遇するという神秘的な経験をして、それまではみずからが迫害していたキリスト教に改宗した。ジョゼフ・スミスは、天使モロニの啓示的な夢にもとづいてモルモン教を創設した。

 この三人はいずれも一人でいるときに人生を変えるような幻視を経験し、「大衆」に異端の教えを説こうとして――1950年代の非常に有名なコンタクティたちと同じように――迫害された。

・世界中の神話に描かれた地下世界はたいがい、重苦しく陰鬱でじめじめした狭い暗がりである。アブダクティが閉じこめられたという場所は、通例、息が詰まるようで湿っぽく薄暗い。

・天使とは何だろう。今度はこの問題を考えなくてはならない。これを明らかにしてはじめて、天使との遭遇とエイリアンとの遭遇を結び合わせるパターンを調べ、第二次の結びつきを探すことができるのだ。天使angelという言葉の起源はヘブライ語のmaٵakh(のちにmalaika)のギリシア語訳で、本来は「神の陰の部分」という意味だったが、のちに使者ないし伝令を意味するようになった。とても興味深いことに、このヘブライ語は実体ではなく役割ないし伝令を意味するようになった。実体に関する問題は数世紀にわたって議論されてきた。

 古代ギリシアの人々は天使を、人間に似ているが「幾何学的にはひとつの点でしかない霊魂」あるいは「純粋思考」と考えていた。聖書の見解では、天使は「天上の生まれ」だが、基本的に人間と似ており、たいていは目に見えるとされた。聖トマス・アクィナスによれば、天使は「純粋霊魂」で、人間のような肉体をもたないという。3世紀から4世紀にかけて執筆活動をしたキリスト教の護教論者ラクタンティウスは、相対性の原理を支持してこう論じた。人間と比べれば天使は非物質的だが、

神と比較すれば具体的な姿がある。だから天使は「かすかな肉体」をもつと言ってよいだろう。

・天使――そしてその近親である悪魔――には当初からヘルメスに似たとらえどころのなさがあった。旧約聖書は堕落天使には触れていないし、サタンを邪悪だと判断する材料も示していない。ヘブライ語のha-Satan「悪魔」は地位を表しており、その地位は決して邪悪なものではない。ところが新約聖書の時代になると、すでに議論の余地なく邪悪な存在となっていた(つまり教父がそう決定した)サタンに導かれて、天使たちの3分の1が永遠に罪を免れない奈落へとまっすぐ落下した。ただしその様子ははっきりせず、底に達するまで9日かかったというこの急激な転落については、内容の異なる物語が少なくとも7通りある。

・天使というと、どうしても思い浮かぶのは、ルネサンスの画家が描いた、翼があり薄物をまとい光輪をいただいた姿である。しかし、歴史を通じて最もよく描かれた天使の姿は、きらめく光に包まれた輝く存在か、ごく普通の人間である。

・特筆すべきは、キリスト教がダイモンの世界を悪魔化するまでは、ダイモンは邪悪な性質ばかりを帯びていたわけではないということである。アンガス・フレッチャーはこう書いている、「歴史のごく初期には、デーモンという言葉は宗教的、霊的な意味をもっており、他界に関係していた」。古代異教時代にあっては、デーモン(あるいはダイモン)という言葉は三つの意味で用いられていた。

「神、仲介者、そして仲介者と直接のつながりはない死者の霊魂」である、とフレッチャーは言っている。

・こうして、エイリアンという現代的なイメージと、天使と悪魔という伝統的なイメージの共通の地盤が見えてきた。

 人間とは別の領域に住むこうした存在は、精神と物質の橋渡しをするらしく、好きな場所で好きな目撃者を選んでは、その目の前で思いのままに姿を変えられる。

・40年以上にわたるUFO目撃の歴史の中で、エイリアンの階層ができており(背が高く北方人種に似た「ブロンド」と、背が低く不気味な「グレイ」のふたつ以外にも、いろいろなタイプがいる)、いくにも分かれている天使の位階と同様に人を圧倒する。この多種多様さは、いつかきっと進取の気象に富む民俗学者が詳細にいたるまではっきり実証してくれるだろう。

 天使に関するほとんどの情報は、「公認の」神学以外に出所があり、相当な部分が目撃証拠にもとづいている。同じように、正統派の学界ではなく「一般市民」のあいだから発生したUFO現象が、巨大科学の伝統的なテーマに入りこむ余地はない。天使もエイリアンも異端なのだ。

 天使とエイリアンは使者と見なされることが多いという点も似ており、それは両者ともそれ自体の本質ははっきりせず、役割――ほかに及ぼす影響――のほうが理解しやすいからである。しかももちろん、エイリアンと彼らの驚くべき乗り物は何でできているのか、彼らはどこから来たのか、という問題はUFOをめぐる多くの議論に登場しつづけており、それは、一本のピンの頭で正確に何人の天使が踊れるのか、というトマス・アクィナスの思索が依然として問題になるのと同じである。

 たとえば、天使は「かすかな肉体」をもつと言えるなら、壁を通り抜け、地面から数センチ浮かび、(宇宙船の中で)並はずれた加速や進路変更に耐えられるエイリアンについては何と言えばよいのだろう。

<イニシエイション――異界への旅>

・UFO体験をした人々が発する難問で、おそらく最もやっかいだが最も一般的なのは、「なぜ私が?]というものだ。この章で論じたいのは、理由はわからないが、未知の目的を達するため、あるいは使命を果たすために選ばれたという感覚である。自分の体験を受け入れる決心――非常に勇気のいることだと私は感じた――をした数十人の人々と長時間にわたる会話をして、「なぜ私が?」という問いがたいていは、「私は通過儀礼(イニシエイション)を受けさせられたのだろうか。そうだとしたら、何者によって?何の目的で?」という意味を含んでいることに私は気づいた。

 通過儀礼という比喩が繰り返し多くの目撃者の口にのぼるのは、もっともだと思われる。伝統的な通過儀礼とUFOと呼ばれる未知の他者の体験には、舞台や構造や展開に重要な類似点があるのだ。ここで私が関心をもっているのは、人々が自分の体験について報告している内容であって、究極的、「客観的」な真実ではない。ここまで見てきたように、真実は広大な不可知の領域であるのに対して、UFOとの遭遇に関する報告は第一次的なデータとして利用することができる。

・こうしたことが言えるなら、体験者が「UFO搭乗者」の出身地を「宇宙」「異次元」「集合的無意識」「天国」「地獄」のうちどこだと仮定しようが、あるいはまた、それ以外の超自然的な場所だと考えようが、UFOがもたらした危機の深刻さには無関係だと思える。そうした話に共通して見られるパターンこそ、現代の通過儀礼としてのUFO体験を調べるうえで出発点となる、と私は考えている。

・こう考えてくると、第12章でUFOとの遭遇、天使の訪問、シャーマンの他界への旅、臨死体験を比較して以来、視野に入ってきたメタパターンの意味がわかってきた。もちろん、これらのあいだには重要な表面上の違いがある。しかし、これらの領域には、特異な――そして見たところ各領域に固有の――存在がいる別世界への旅などといった通過儀礼の元型的なイメージを見て取ることができる。多くのUFO研究家は、自分たちの大切な研究分野の独立と固有性を保ちたいので、こうした類似点の指摘に疑義をさしはさむ。彼らの言い分は、UFOの搭乗者とそれ以外の記録に登場する存在が「同じ場所から」来たという証拠はないというものだ。だが、彼らはめったに指摘しないが、UFO搭乗者の出身地に関する証拠もまったくないのだ!

・このパラドックスの世界では境界線が不明瞭だが、そこで与えられるのは、失われた秩序を再び押しつける(これはUFO研究の主流派に特徴的な反応で、いつでも唯一の正しいパターンを探そうとする)という課題では断じてなく、多種多様に逸脱しながら戯れる機会であり、それが創造の母体となるのだ。この世界にはトリックスターが住んでいて、あるときはマザー・テレサ(アダムスキーが出会った神聖で天使のようなエイリアン)、あるときはダース・ヴェイダー(悪魔のようなメン・イン・ブラック)、またあるときはピーウィー・ハーマン(次章で見るように、エド・ウォルターズら目撃者が、エイリアンとも天使ともつかない相手から受け取ったばかげたメッセージ)に姿を変える。

<訪問者(ヴィジター)――ストリーバー事件>

・「防衛システム、スター・ウォーズの仮想敵はロシアではなく宇宙人である」。こういう見出しの記事が1985年11月1日付のタブロイド版大衆紙『ザ・グロウブ・アンド・メイル』に登場し、レーガン大統領の戦略防衛構想のミサイ防衛システムは、本当はソ連ではなく宇宙人の攻撃からアメリカを守ることを目的としている、と報じた。

・事例研究の中には、ホプキンズのアブダクション研究の最新報告があった。紹介された九つの事例では、アブダクティはUFO内で身体検査され、そのとき身体にできた傷跡がまだ残っており消えないと言っているそうだ。傷跡ができたのは、ほとんどの場合アブダクティが子供のころで、多くは6、7歳ぐらいの時だと報告されている。あるケースでは、アブダクティの女性は最初は5歳、それから16歳、更に19歳のときにもアブダクションを経験しており、みつまたの装置で脚の肉を採られた際に円形の傷跡ができたという。ホプキンズは傷跡には二種類あると報告しており、ひとつは1センチ足らずのまっすぐな浅く細い切り傷の跡、もうひとつはシャベルですくったような円形のくぼみで、直径は3ミリから2センチほどである。

 

・どうしてこんなことが起こるのだろうか。ホプキンズによれば、だいたいどのケースでもなんらかのサンプル――血液、肉、皮膚、そしてときには精子ないし卵子――が採取されており、アブダクティの身体にはたいてい送信装置のようなものが埋めこまれる。34件の「確かな」事例と、さらなる研究が必要な43件の事例にもとづいてホプキンズが出した結論は、私たちは観察および監視の対象であり、巧妙に慣らされ、ある種の遺伝子学的な実験に利用されているというものだ。「テクノロジーの発達段階が私たち程度では想像もできない動機があるのだろうか」。そのとおり、具体的なことはわかりしだい公表するしかない、とホプキンズは考えている。

・事件は1987年11月11日に始まる。フロリダ州ガルフ・ブリーズ(人口約6000人)の宅地造成業者エド・ウォルターズは、郊外にある自宅の前庭に植えてある高い松の木の向こうに、見慣れない光を見つけた。書斎で机に向かっていた彼は、好奇心に駆られて立ち上がり、外に出てその光の正体をもっとはっきり見ようとした。するとこまの形の乗り物が浮かんでおり、機体の真ん中あたりには水平方向に四角い穴とより小さな窓が一列に並んでいて、底のあたりには輝く輪がひとつついていた。

・1991年なかばになると、論争の結果に利害関係のない第三者は、ウォルターズ事件とマイヤー事件は、ホプキンズなど多くの人々が考えていた以上に似ていると考えるようになっていた。だが、やはり重要な相違点があった。マイヤーが自分の遭遇のもつ宗教的意味の大きさについて膨大な文書を著し、自分をキリストの13番目の使徒と呼んだことすらあったのに対して、ウォルターズ夫妻は、二人の著書から判断すると、自分たちの遭遇の――哲学的、精神的、その他の――意味についてじっくり考えたとは思えない。

・ドナルド・ウェアーは相互UFOネットワークのET肯定派のリーダーであり、ウォルターズの体験談は真実だという立場をとる主要人物の一人である。調査ジャーナリストのエド・コンロイは、ガルフ・ブリーズで、実地調査をしているうちに、このウェアーからガルフ・ブリーズ地域で発生した奇妙な出来事を聞かされたという。その出来事についてウェアーは、相互UFOネットワークに提出したガルフ・ブリーズのUFO調査の報告書では触れなかった。ウェアーがコンロイに語った事実とは、次のようなものだったという。

 1987年12月(エド・ウォルターズが初めてUFO目撃事件を報告した1カ月後)から1990年3月にかけて、ガルフ・ブリーズのふたつ隣の郡で、身長約2メートル70センチで人間に似た毛むくじゃらの生物を目撃したという報告があった。また……1988年には地元の海岸で、一部を切除された犬の死体が発見された。

 コンロイはこう書いている、「この『ビッグフット』の報告とガルフ・ブリーズの報告には、はっきりした因果関係はないが、しばしば超常現象の研究家の目にとまるように、UFOの目撃は別のとてつもない出来事と同じ時期に発生する。その出来事とは、ポルターガイストのような現象、人間の自然発火、大衆の宗教熱の高揚、さらには非常に物議をかもしているミューティレイションと家畜の神隠しなどである」

 コンロイによれば、ウェアーは「公益のために、ある種の話は隠しておくのが、一番だと信じてる」ようだという。しかし、ガルフ・ブリーズ神話が展開するにつれて、信じがたいほど奇妙な事実がこのように「消されて」いるという噂が広まり、新たな疑惑が持ち上がった。ほかにも、やはり空想的で「取るに足りない」情報が、UFO学の正統派のファイルがらいつも削除されているのではないか、というのだ。

・プロテウス、ヘルメス、トリックスター、ディオニュソスが私たちに何かを教えてくれたとしたら、それは、UFOに関連するいわゆる「二次的な」データ――超自然的な体験、毛むくじゃらの怪物の出現、悪魔のようなメン・イン・ブラックの訪問、バナナや赤ん坊や空飛ぶ犬についてのどうにも不可解な会話など――は、「適切」ではないからこそ最も重要そうだということである。

 また、UFO現象は私たちの想像を絶するほど奇怪だという結論が出る可能性も、たしかに残っている。

<天使とエイリアン――神話としてのUFO事件>

・彼らの正体や出身地の問題はさておき、40年以上のあいだに、人間の立場からエイリアンの行動の意味を想像する――メタファーを用いて彼らを私たちに引き寄せて考える――ことが自然だと思えるようになってきたという事実は、無視できない。たとえば、彼らは「私たちの世界」に来ている、彼らがアブダクティに施した処置は「医療」だ。彼らは「私たちの遺伝子」に興味をもっている、彼らは「私たちと異種交配」しようとしている、といった解釈である。

・宗教家や祈祷師の治療行為や聖地に行ったことがきっかけとなって、突然けがや病気が完治したという例はたくさんある。なかでもきわだっているのは、シチリアの少女デジリア・チロリの例である。彼女の膝を侵していた転移性の骨肉腫はだいぶ進行していたので、両親は葬儀の計画を立てていた。だが、その計画は中止になった。ルルドの聖泉で水を飲むと、彼女の症状は好転し、全壊したと医者に言われたのだ。

 目ざましい成果をあげてきているイメージ研究の分野では、多数の臨床的、経験的な研究によって、イメージを利用した治療をすると鬱病、不眠症、肥満、慢性的な痛み、恐怖症、不安神経症、がんなどの病気が回復に向かうことがわかった。

・スぺインの有名な神秘主義者で跣足(せんそく)カルメル修道女会の創設者であるアビウラの聖テレジアは、瞑想により恍惚状態になると宙に浮いたと言われている。彼女の列聖式の際、10人の人物が宣誓したうえで述べたところによると、法悦の状態になった彼女が空中に浮かび上がるのを見たことがあるという。17世紀のフランシスコ修道会の僧、コペルティーノの聖ヨセフは、神秘的な恍惚状態で地面から浮くのを100回以上目撃されたそうだ。

・しかし、エイリアンが私たちと「異種交配」をしているという話も、最古の神話に登場する。神や女神が人間と交わって英雄(代表例はキリスト、孔子、アキレス)が生まれたというものだ。この種の神話を研究している人々によれば、善意ある誘拐もあるらしい(「いいですか、『ブロンド』は本当に味方なのです。エイリアンの中でもとても進化した種なのです」と、エイリアンと接触した人間に催眠術をかけて調査している研究家が私に語ったことがある。「あのトカゲのような顔をしたいまいましいグレイこそが、人間をベッドから引きずり出す悪党で、やつらのせいでエイリアン全部が悪名を着せられているのです」)。

 このように、アブダクションという主題においては不吉と神聖、悪魔と天使、闇と光が絡み合い交わり合っており、この各側面は人間の隠れた部分でもある。私たちは自分の神性にも野蛮さにも気づかないで、それを外部に投影しがちなのだ。

・UFOは通過儀礼のときや角気に個人および集団の魂を導く「コズミック・シャーマン」なのだろうか、神がかり、多重人格、臨死体験、聖痕、体外離脱、分身、肉体の消失に関する伝説の研究を通じて、UFOとの遭遇体験について何を学ぶことができるのだろう。トマス・アクィナスはどういう意味で「天使がかりそめの肉体を必要とするのは、彼ら自身のためではなく、私たちのためである」と言ったのだろうか。

・天使は……実は思いどおりに人間を動かす恐ろしく強力な悪魔である。イスラム教スーフィ派の神秘主義者が繰り返し力説しているように「私たちは天使と格闘しているのではなく、天使のために戦っているのだ」。言い換えれば、それは私たちの土台を形づくっている「真の」自己像のためである。自分を知るということは、自分の守護天使を知るということなのだ。

・たしかに、UFO神話における彼らの公式の地位は、エイリアンでしかありえない、とされている。私たちには計り知れない存在である彼らは切り札をもっており、私たちは彼らの思惑に従うしかない。私たちは彼らの計画の一部なのだ。このように伝説は展開する。

 それでも、伝説のテーマははっきりしない。相変わらずだ。こんにちのUFO学の主流派に受け入れられている見解では、不思議なことに、UFOは根本的に私たちと異質な存在だという仮説は無視される。私が言っているのは、まったく信じがたいことだが、宇宙からの訪問者は私たちと異種交配が可能だ――少なくともバッド・ホプキンズの一派の報告によれば――という見解である。彼らは遺伝子工学者であり、なによりも赤ん坊どろぼうだというのだ。このテーマは、UFOはナットとボルトでできた宇宙人の乗り物だという見解の支持者にとって、ささえとなる神話であり宗教である。

・このような訓練を積んだ人々は、ほかの面でも――たとえば、日常生活でさらわれて、空想的な世界に漂着する。ないし連れて行かれるまでのあいだ、平常の意識を保っていられるという面でも――優れているのだろうか(ふたつの世界を画然と仕切っている敷居を超えるときの記憶がないという典型的な現象を、UFO研究家は「入口での記憶喪失」と呼んでいる。ギリシア神話では、入口、敷居、通路は特定の神の管轄になっている。その神とは、驚くにはあたらないが、ヘルメスである)。

<実在か象徴か――そして神話は繰り返される>

・かくて年月は過ぎ、今なお同じことが続いている。

 UFO現象が現代社会という舞台に登場して40年以上たつが、一番よく発せられる問いは、未確認飛行物体は実在するのか、それとも単なる象徴なのか、である。断固たる肯定論者および否定論者にとって、これは依然として唯一の重要な質問であり、UFOと呼ばれる驚異的現象にとって、いわば試金石である。

・UFOは人間に似たエイリアンが操縦する地球外の宇宙船だと、いつか確認できるかもしれない。それとも、この世界と並行して存在する異次元世界から思いどおりに、あるいは気まぐれで、あるいはまた人間の心が無意識のうちに発する信号に応えて、現れるのだということになるかもしれない。

・本書での検討が終わりに近づき、当初私たちの関心を引いた問題はおのずと解決したように思われる。UFOは宇宙から来るのか、それとも人間が生み出しつづけている神話の一部なのか。答は、両方である。UFOが実際に地球外から来る宇宙船だとしても、いつのまにかまんまと伝統的な神話に入りこみ、神々や女神たちの隣の位置を占めてしまったのだ。この意味で――この意味においてのみ、かもしれないが――UFOは本当に着陸したのであり、そのままここにとどまるだろう。

日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ

コンタクティとチャネラーの情報を集めています。 森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

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