「ドンパチ」とも言われて意味がわからないので実家に行ってお袋に聞いてみました。するとバカよりたちの悪い手に負えないバカのことを「ドンパチ」ということがわかりました。(1)

『リンゴが教えてくれたこと』

木村秋則      日本経済新聞出版社  2009/5/8

・(木村秋則)1949年生まれ。川崎市のメーカーに集団就職するが、1年半で退職。71年故郷に戻り、リンゴ栽培を中心とした農業に従事。農薬で家族が健康を害したことをきっかけに78年頃から無農薬・無肥料の栽培を模索。10年近く収穫ゼロになるなど苦難の道を歩みながら、ついに完全無農薬・無肥料のリンゴ栽培に成功する。

<りんごは古来、農薬で作ると言われるほど病虫害が多い>

・そして慣行農業から移行後、11年目に畑全面に咲いてくれた花の美しさは一生忘れることができません。

・リンゴがならない期間があまりにも長かったので、その間キュウリやナス、大根、キャベツなどの野菜、お米を勉強できました。野菜やお米は今から20年以上も前に相当の成果を得て、その後様々なノウハウを盛り込み今日に至っています。

・私の農業はこれといって目新しいことが一つもありません。せいぜい野菜の脇に大豆を植えるくらいです。

・空き地があったら豆を植えましょう。金にならなくてもいいから、日本を守るために植えましょう。農家の人は土を守るためです。自然栽培はすぐに結果が出ません。土づくりのために少なくとも3年かかります。時間はかかりますが、豆は土壌改良につながり、ビールのつまみになります。一石二鳥です。

・無収入時代があまりにも長かったので、私には金儲けという字が縁遠く、そういう言葉が出たのかもしれません。

<熱心な韓国>

・韓国には何度も足を運びます。韓国では日本よりも食、農に対する関心が高く、KBS放送が私の特集を組んだりしています。韓国は日本と並んで世界で最も農薬散布が多い国々です。

・年に約6百人の韓国人が勉強にやって来ます。食と農の安全は消費者も生産者も関心のある問題です。クリスチャンの牧師さんが1年に4、5回も来ます。牧師だけでは生活できないから農業をやっているのだそうです。

<皮膚が剥け、痕が真っ赤に>

・当時は、一般のリンゴ栽培農家と一緒で、木村農園も農薬散布で徹底した病虫害の防除を行い、化学肥料も十分に使用して生産を確保していました。農協から表彰されてもいいほど使っていました。

 ところがその農薬ですごく家族の体が痛めつけられ、私も負けたことが無農薬の畑に切り替えるきっかけになりました。トウモロコシをやったのも、成功すれば農薬で苦しむリンゴ栽培から転換できる、家族を守れるかもしれないと思ったからです。

・トウモロコシ栽培は5年ほど続きましたが、リンゴにかかりきりになる事態に至ってやめました。今、この岩木山一帯の嶽高原はトウモロコシの一大産地です。「嶽きみ」ブランドで有名になりました。続けていればそのパイオニアとして名を刻まれていたでしょう。ところがそれどころではなく魔性のリンゴの泥沼に足を取られ、生きるために愛するトラクターも人手に渡ることになりました。

<「かまど消し」と言われて>

・その頃から病虫害が増えたということで、世間からの風当たりが強くなり、非難されました。青森県は黒星病、斑点落葉病、腐らん病などのリンゴの病害虫に関する条例を定め、肥料、農薬等の資材で徹底した防除管理を行っていました。通告された畑は無視すると強制伐採のうえ30万円の罰金が科せられます。リンゴは全国の40パーセントのシェアをもつ青森県の主要産業ですから無理もありません。

 最初の2、3年は私に同情的な目を向けてくれた近隣の生産者も、毎年葉を落とし収穫が上げられない状況に病虫害の発生を恐れ、見る目が厳しくなってきました。

・「かまど消しだから相手にするな」と言われました。「かまどの火を消す」という意味で青森では「破産者」を意味します。

 世間というものは私を「かまど消し」「ろくでない」「アホ」と言って罵倒しました。「ドンパチ」とも言われて意味がわからないので、実家に行ってお袋に聞いてみました。するとバカよりたちの悪い、手に負えないバカのことを「ドンパチ」ということがわかりました。

・三人の娘の授業料を払えず待ってもらいました。子供が先生から言われてすごく不憫でした。何一つ買ってあげたものがありません。娘たちは一個の消しゴムを三つに分けて使っていました。

<食べたことのないお父さんのリンゴ>

・当時小学6年生だった長女が「お父さんの仕事」という題の作文で「お父さんの仕事はリンゴづくりです。でも、私はお父さんのつくったリンゴを一つも食べたことがありません」と書きました。これにはズシンと来ました。食べさせたくても一つも実らないから食べさせてやれないのです。

・この頃女房に「いつ別れでもいいから」と言ったことがあります。こんなバカと結婚して、このままでは幸せになれないから、再婚してやり直してくれと。女房はウンともスンとも言いませんでした。

<北海道を転々出稼ぎ>

<毎日が虫との戦い>

・どこから、なぜ、これほどの虫が湧いてくるのか。虫をいくら取っても終わりません。当時、家族みんな手作業で取りましたが、スーパーの買い物袋がすぐ一本の木から取れる虫で一杯になりました。

<どん底の日々>

<死を覚悟して見つけたこと>

<田んぼも手放す>

・ぽつんと座っていると、二人の自分が現れて問答を始めます。

「無農薬なんてやめろ。家族のことを考えろ」と責める者がいます。

もう一方は「頑張って続けるしかない。きっと何とかなる」と励ます者でした。

責める者が強くて私はさいなまれました。

今でも夢だったのかと思うことが一つあります。

 あの作業小屋に座っていたら突然、目の前に行ったこともないグランドキャニオンのような絶壁が現れました。そこにお釈迦様のように胡坐をかいたまま下りていく。どこまでどこまでも下りていく。同じ光景を何回も見たのです。夢でそんなことを見ていたのか。飛び込むのではなく胡坐をかいたまま下りていくのです。

 女房にもこのことを伝えました。何を意味しているのでしょうか。いろんな悩みや考えごとがいっぱいあって自分を追い詰めていたから見えたのでしょう。

・経済的にも限界でした。現金収入がないので税金が払えませんでした。農協の出資金を回してもそれで足りるはずはなく、家財や畑は差し押さえの対象になり、頻繁に裁判所の調査員が来るようになりました。二反(20アール)あった田んぼも手放さざるを得ず、生活のために欠かせなかった18俵とれる田んぼがなくなるのは大きな痛手でした。

<青虫のいないキャベツ畑>

・自然栽培のキャベツには青虫が全く見当たりません。私はキャベツ畑の下にマメ科のからすのエンドウを植えました。「農薬を使わないから虫が来る」という考えは間違っています。

『奇跡のリンゴ』 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録

石川拓治 NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」

幻冬舎    2011/4/12

<宇宙人に会った話>

・木村が酔って気分が良くなると、決まってする不思議な話がある。

宇宙人に会った話だ。

・「あれはさ、まだ軽トラックを売る前だから、無農薬栽培を始めて2年とか3年目くらいのことだ。幽霊現象や心霊現象も「宇宙人現象」と理解すればかなり分かるようです。夕方、何時頃かな、もうあたりは薄暗くなっていた。畑仕事が終わって、家に帰ろうと思って、軽トラの運転席に座ったの。そしたら、目の前に人が立っている。妙な人だった。全身が銀色に光っていて目も鼻も見えないのな。その銀色の人が、フロントガラス越しに、じっとこっちを覗き込んでいる。私、動けなくなってしまってな。目だけ動かして、何をするつもりだろうと思って見ていたら、なんと私のリンゴ畑に入っていくんだ。葉っぱが落ちて、荒れ放題の畑にな。それでさ、ものすごいスピードで畑の中を走り回っているんだよ。それから、ふっと消えたのな。いったい今のは何だったんだと、その時は首を傾げるばかりであったんだけどな。

・しばらくして、今度は夜中だ。夜中に起き出して、布団の横に座って、考え事をしていたときのことだ。寝床は二階にあるんだけどもな、カーテンが揺れて窓が開いたのな。そこから、人が二人入ってきた。小さくて、影のように真っ黒な人であった。その二人が私の両腕をつかんでさ、その開いた窓から外に出るの。気がついたら、空中に浮かんでいるのよ。下を見たら、家の屋根が見えた。黒い人たちは、何も言わない。私は二人に腕をつかまれたまま、どんどん上昇していった。空のかなり高いところに、ものすごく大きな宇宙船のようなものが浮かんでいてな、私はその中に連れ込まれたの。連れ込まれたのは、私だけじゃなかった。先客が二人いたのな。一人は若い白人の女の人、もう一人は白人の男だった。頭は角刈りでさ、なんか軍人のような感じであったな。しばらくそこに座らされていたんだけれど、そのうち一人ずつどこかへ連れていかれた。最初は女の人、それから軍人風の男、最後が私であった。歩いていくと、二人は平らな台のようなものにそれぞれ寝かされているのな。裸にされてよ。どういうわけか、逃げようとか、抵抗しようという気は起きなかった。ただ、私も裸にされるんだなと思いながら歩いていったの。ところが私は服を脱がされなかった。宇宙船の操縦室のようなところに連れていかれたの。操縦室といっても、計器のようなものは見あたらなかったな。そこで、どういう風にしてこの宇宙船が飛んでいるかを教えてくれてな。宇宙船の動力源だという、黒っぽい物質を見せてくれた。これで、空中に浮かぶんだとな。それから別の部屋に連れていかれた。そこには黒い人ではなくて、昔のギリシャの哲学者の……ソクラテスみたいな人がいた。大きな板が何枚もあってさ、それをこっちからこっちへ移動させろと言うんだ。よく見たら、地球のカレンダーなのな。一枚が一年。過去のカレンダーではないよ、未来のカレンダー。何枚あるんだろうと思って、数えてみたんだけどもよ……」

 何枚あったかは、いつも教えてくれない。そうたくさんはなかったと言う。

・ユングに言わせれば、空飛ぶ円盤は全体性の象徴ということになる。大きな困難に陥って自分を取り戻そうともがいているときに、現代人が見る典型的な幻視のひとつだ。中世の人々なら神を見た。神を信じられなくなった現代人は、そのかわりに空飛ぶ円盤を見るというわけだ。地上は現実の象徴であり、宇宙からやって来る何者かはその現実からの救いを意味する。ある意味では現実逃避なのだろうけれど、その何者かが円盤であることに重要な意味がある。困難に突き当たって分裂した自我は、再びひとつの完全な姿に戻ろうとする。円形や球体はその統一された完全な自我の象徴なのだ。何年もリンゴ栽培に失敗し続け、追い詰められて脳味噌が二つに割れそうなくらい混乱していた木村が、空飛ぶ円盤の幻を見たとしてもそれほど不思議ではない。

 もっとも、酔っている木村は、そういう現実的な解釈で自分の話が片付けられそうになると、とっておきのオチを持ち出して対抗する。

・「何年か経ってから、家でテレビを見ていたのよ。よくあるでしょう、『空飛ぶ円盤は実在する』みたいなよ、UFOの特集番組だ。その中に、宇宙人に連れ去られたという人が出てきた。それがさ、あの白人の女の人だったの。女房も一緒に見ていたんだけれど、驚いていたよ。私と同じ話をするんだもの。円盤の中には自分以外にも二人の地球人がいた、一人は軍人のような男で、もう一人は眼鏡をかけた東洋人だったって。それ、私のことでないかってな。あははは、あの時はさすがの私もびっくりしたよ」

 妻の美千子に、その話を確かめたことはない。困らせることになるのは、わかりきっているからだ。木村にしても、その話をするのは、酒を飲んだときに決まっている。

 だから、もちろんそれは木村のファンタジーなのだ。

・円盤とリンゴは何の関係もないようだけれど、木村の無意識の中ではおそらく深いつながりがある。円盤も無農薬のリンゴも、不可能の象徴なのだ。誰もがそんなものは幻だと言う。その円盤に乗ったということは、木村が不可能を克服するということだ。無農薬のリンゴは完成し、そして木村は完全な自己を取り戻す。

不可能を可能性にすること。

無農薬でリンゴを栽培することに、木村の全存在がかかっていたのだ。

<りんご農家が病害虫の駆除に膨大な手間と時間をかけている>

・しかし、その農家・木村さんの作るりんごは、農薬どころか有機肥料も一切使わず、そして「腐らない」といいます。いったいどんな秘密があるというのでしょうか。

・木村さんの無農薬でのりんご作りには、8年にも及ぶ試行錯誤の末に辿り着いた、独自のノウハウがありました。それでも木村さんは、相変わらずこう言いました。

「私、バカだからさ、いつかはできるんじゃないかって、ただイノシシみたいに突き進んだのさ」

<奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録>

・リンゴ農家の人々にとって、美しい畑を作ることは、豊かな実りを得るために欠かせないというだけでなく、おそらくはある種の道徳ですらあるのだ。

 そういう意味でも、そのリンゴの畑の主が、カマドケシという津軽弁の最悪の渾名で呼ばれているのは、仕方のないことだったかもしれない。

・なぜ、そんなに荒れているのか。

近所の農家で、理由を知らぬ者はいない。

農薬を散布しないからだ。

この6年間というもの、畑の主はリンゴ畑に一滴の農薬も散布していない。当然のことながら、リンゴの木は病気と害虫に冒され、春先に芽吹いた葉の大半が、夏になる前に落ちてしまう。おかげで、この何年かは花も咲かなくなった。

・今日は朝からずっとリンゴの木の下で、腕枕をして寝ていた。

カマドケシは、竈消しだ。一家の生活の中心である竈を消すとは、つまり家を潰し家族を路頭に迷わせるということ。農家にとってこれ以上の侮蔑はないのだが、その男にはいかにも相応しい悪口だった。

 いや、男が畑に座り込んだり寝たりして、ほんとうは何をしているか知ったら、カマドケシどころか、ついに頭がおかしくなったと思ったかもしれない。

 男は眠っていたわけではない。夏の強い日差しの下で、生い繁った雑草から立ち上がる青臭い匂いに包まれながら、リンゴの葉を食べる害虫を見ていた。

・リンゴの木を荒らす害虫を数え上げればきりがない。

春先の新葉や花芽を喰うトビハマキやミダレカクモンハマキなどのいわゆるハマキムシ類に始まって、葉を食べるシャクトリムシに、アブラムシ、ハダニ、果実を冒すシンクイムシにカイガラムシ……。代表的な種に限っても、30種類は下らないと言われている。

・農薬を使わずにリンゴを育てる。簡単に言えば、それが男の夢だった。少なくともその時代、実現は100%不可能と考えられていた夢である。

・リンゴの無農薬栽培などという難題に取り組んだおかげで、木村の一家が長年にわたってひどい窮乏生活を強いられたという話は聞いていた。けれど、それはもう10年以上も昔のことだ。

 現在は新聞やテレビでも取り上げられるくらい有名な人で、全国には彼の信奉者がたくさんいる。国内だけでなく、外国にまで農業を教えに行ったりもしているのだ。

・木村の人生がNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で紹介されたのが、その12月の初めのことだった。

・木村が狂ったひとつのものとは、いうまでもなくリンゴの無農薬栽培だ。今現在ですら、それは不可能だという専門家は少なくない。農薬を使わなければ、リンゴを収穫することは出来ない。現実のリンゴ栽培を知る人にとって、それは常識以前の問題なのだ。

・実を言えば、現在我々が食べているリンゴのほとんどすべてが、農薬が使われるようになってからから開発された品種だ。つまり、農薬を前提に品種改良された品種なのだ。

・リンゴという果物は、農薬に深く依存した、現代農業の象徴的存在なのだ。

 もっとも、そんな理屈を持ち出すまでもなく、リンゴを作っている農家なら誰でも、農薬の散布を怠れば畑がどれだけ簡単に病虫害の餌食になるか身をもって知っている。農薬を使っていても、その散布時期や方法を誤れば病害虫は発生するのだ。

・けれど、涙ぐましいまでの努力でなんとか持ちこたえた青森県のリンゴの畑も、明治40年代にはモニリア病と褐斑病というリンゴの病気の相次ぐ蔓延によって、今度こそ壊滅の危機に瀕することになる。とりわけ明治44年の褐斑病の激発ではリンゴの葉が早い時期に落葉したため、翌年の春先になってもリンゴの花が咲かず2年連続の大不作となった。

・この絶対絶命の危機を救ったのが、農薬だった。

記録によれば、日本のリンゴ栽培史上、初めて農薬が使われたのは明治44年。褐斑病の流行で、青森県のリンゴ畑が壊滅的害を受けた年のことだった。

・褐斑病で全滅しかけていたリンゴの木が息を吹き返すのを目の当たりにして、リンゴ農家は先を競って農薬を導入するようになる。ぺニシリンが結核という恐ろしい病を撲滅したように、手の施しようがなかったリンゴの病気を農薬が駆逐したのだ。

 病虫害という自然の脅威に対抗する手段を手に入れ、農家の人々はようやく安定したリンゴの栽培ができるようになったのだ。

 農薬がなければ、青森県でもリンゴ栽培が終息してしまっていたに違いない。

・明治20年代から約30年間にわたって、全国の何千人というリンゴ農家や農業技術者が木村と同じ問題に直面し、同じような工夫を重ね続けていた。何十年という苦労の末に、ようやく辿り着いた解決方法が農薬だった。

・1991年の秋に青森県を台風が直撃して、リンゴ農家が壊滅的な被害を受けたことがある。大半のリンゴが落果しただけでなく、リンゴの木そのものが嵐で倒れるという被害まで被った。県内のリンゴの被害額だけでも742億円にのぼる。ところが、木村の畑の被害はきわめて軽かった。他の畑からリンゴの木が吹き飛ばされて来たほど強い風を受けたのに、8割以上のリンゴの果実が枝に残っていたのだ。リンゴの木は揺るぎもしなかった。根が不通のリンゴの木の何倍も長く密に張っていたというだけでなく、木村のリンゴは実と枝をつなぐ軸が他のものよりずっと太くて丈夫に育っていたのだ。

・NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」の収録のスタジオで、木村秋則さんにお目にかかったその日。住み慣れた「文明」というものを覆っていた厚い天蓋が外れ、どこまでも広がる深い青空が露わになった。

・あれから1年半。ノンフィクション・ライターの石川拓治さんが、木村秋則さんの人生を取材して1冊の本にまとめて下さった。頁をめくると、木村さんとお話しして得たすばらしい感触がよみがえってくるとともに、まだまだ知らなかった木村さんの側面をも知るよろこびに包まれる。

 不可能とも言われた無農薬、無肥料でのリンゴ栽培。その実現に向けて苦闘してきた木村秋則さんの人生は、まるで一篇のドラマを見るようである。

『地球に生まれたあなたが今すぐしなくてはならないこと』

木村秋則   KKロングセラーズ   2014/3/28

<わたしたちの想像を超えた世界が存在する?>

・17歳の時に、わたしは「龍」を見ています。この時、周りの時間も空間も止まったような体験をしました。

 時間の隙間に紛れ込んだかのようでした。

 時間も空間もわたしたちが「ある」と思っているだけで、それをはるかに超えた世界(次元)が存在します。

 死後の世界も同時に存在しています。

 わたしたち人間が、この地球の生命体として頂点に立っていると考えるのは、どんなものか?

<わたしの見た光景が地獄図絵の中にあった>

・2歳のときに死ぬ予定だったのが生き永らえ、その後の人生で宇宙人や龍に遭遇するなど不思議と思われる体験を何度もしていますが、ひょっとしたら人に見えないものが見えるのは、地獄に行ったときに、頭の周波数のようなものが変わってしまったせいではないかと思います。

 波長が合わないと見えない。

 波長が合うから見えるのです。

 見えないものを見ることのできる人がいたから、地獄だって、龍だって天使だとかも絵になったり、彫刻になってさ。世界中の美術館に残ってるでしょう。見えないものを見ることのできる人は、世界中にいるんだ。

<気づいたときに大きなシャボン玉の中に包まれていた>

・大人になってから、もう一度死後の世界をさまよいました。

 インフルエンザから高熱を出し、下着一枚で電気毛布にくるまっていたときのこと、寒くて震えながらいつの間にか意識を失っていました。

 気がついたときには辺りに大きなシャボン玉がいくつも浮かび、いつの間にかその中の一つに包まれていました。

 室内で寝ていたのですから上にあるはずの天井がなぜか感じられず、そのまま3メートルほどの高さに浮かびあがって自分の身体を見下ろしていました。

 不思議なことに、横たわる自分の亡骸が、誰のものなのかわからないのです。

そのうちに女房が現れてわたしの身体を揺すっている光景を、ずっと「誰なんだ、あの人は誰なんだ」と思いながら自分自身を見下ろしていました。

<生まれ変わる人の列>

・その後も歩き続けて、6つ目の門をくぐると、肩まで髪の伸びた人が二人すっと現れ、「案内する」と申し出るのでついていきました。

 しばらくするとなだらかな斜面に家のような建物が無数に立ち並ぶ場所に出ました。

 どの家にも窓も戸もなく、一軒に一人ずつ、白いゆるやかな着物をまとった人が住んでいる様子です。

 そこで白い帯状のものが、はるか向こうの山まで糸のように続いているのを見ました。

 近づくとその帯は白い着物の人々が、ずらりと並んで、何かの順番を待っているのだとわかりました。

 列は一本の川から伸びていて、案内人のように見える肩まで髪の伸びた人が、二人、川に入っていました。

 列に並んでいる人はみな同じような顔で、自分の順番が回ってくると川に背を向けて立ち、案内人の二人によって川に流されていきます。

「何をしているんですか?」と聞くと、「生まれ変わる人たちです」という答えが返ってきました。

<「23回生まれ変わっていますね」>

・二度目の臨死体験には、後日談があります。

 一年ほどたったある日、わたしは講演を行っていました。話を終えたとき、わたしに会いたいという女性からの電話がかかってきたのです。

 時間に余裕があったので承諾をし、待つ間に駐車場で煙草を吸っていました。

 駐車場は車でいっぱいでしたが、車間の細い隙間を通して、一台の車が現れ、若い女性が降りるのが見えました。

 驚いたことに、一面識もないその女性は、わたしの居場所を知っているかのようにまっすぐこちらに向かって歩いてきたのです。

 彼女の側からはわたしは物陰に隠れて見えないはずなのに、不思議でたまりませんでした。

 さらに驚くことには、その女性は、わたしがシャボン玉に乗って浮かんで行ったとき、別のシャボン玉に自分も乗って一緒にあの世に行ったと言うのです。彼女はわたしの体験した一部始終をすべて知っていました。

 彼女は自分のことを「木村さんのあの世への案内人」と呼んでいました。

 わたしが自分自身を知らないということが、その女性がどうしてもわたしに伝えたかったことなのでしょうか。

 名前も連絡先も聞かなかった今では、知る術もありません。

・不思議な訪問者は、彼女だけではありませんでした。ある日ひょっこりとうちを訪ねてきた高齢の男性がありました。

 津軽弁の訛りがないところから、青森の人ではない様子です。ここは誰々の家ですか、と聞くこともなく、「ごめんください」と玄関を開けて入ってきました。

 たまたまわたしが出たのですが、お互いに一言も口にすることなく、無言のときが流れました。

 その人はわたしの顔をじっとみると、「23回生まれ変わっていますね」とつぶやきました。

 記憶が確かではないのですが、23回生まれ変われば、死んだ後に自分がやらなくてはならないことをたくさん背負っていると、そんなことを言われた気がします。

 その人は、「ありがとうございました」とそのまま帰ってしまいました。

・不思議な体験が、こうも重なり過ぎてしまい、「現在」も、「過去」も、「未来」も、わたしたちが、時間を区切って範囲を決めてしまっているだけで、本当は同時に存在していて、自由に行き来ができるのではないかと思うようになりました。

<わたしは、青森県弘前市に住むリンゴ農家です。>

・昨年、わたしの半生が「奇跡のリンゴ」という映画になって、全国で放映されたもんですから、道で会う人から「あっ!木村秋則だ‼」と呼び捨てにされるようになりました。

・リンゴ農家の常識では、リンゴの無農薬栽培は絶対不可能と言われています。ところが女房の農薬に弱い体質を少しでも楽にさせようと、リンゴの無農薬栽培を始めたばかりに、わたしのリンゴ畑は病気と害虫が蔓延し、荒れ果て、リンゴは一つも実らず、収入も途絶えて、家族を極貧の生活に陥れてしまいました。

 家族には大変な苦労をかけ続け、わたし自身も何度も挫けそうになりました。岩木山に登って、首をくくろうと自殺を考えたこともありましたが、10年あまりの歳月をかけて、世界で初めて、リンゴの無農薬栽培に成功したのです。

 誰もリンゴの無農薬栽培の方法は教えてはくれませんでした。

・10年近くに及ぶ苦闘の末にようやく実ったリンゴは、2年経っても腐らない「奇跡のリンゴ」と呼ばれるようになりました。

 リンゴが実をつけてくれるようになったのは、「本当に大切なことは目に見えない」と気づいてからです。

 大切なものは、「目に見えない部分」にこそあり、そんな見えないものを見る心が、奇跡を起こす力になるのです。

<宇宙からのメッセージを聞く>

・わたしには、人に話してもなかなか信じてもらえない不思議体験がたくさんあります。

 それが「奇跡のリンゴ」に直接に結びついたとは思いません。でも、奇跡の一部を担ってくれたのは、宇宙のエネルギーだったのではないかと感謝しています。

<なぜなのか?わたしによく起こる不思議な出来事>

・2013年だけでも、わたしはUFOに3~4回出会いました。どうしてなのだろうと、不思議でなりません。

 2013年11月中旬の夜7時ごろ、畑から自宅に戻ってトラックから降りたとき、空を見上げたら南方にUFOが飛んでいるのが見えました。

・わたしの家の周辺は、よくUFOが見える地域として有名なのです。このときのUFOはひさしぶりに見た感じでした。遠くで輝いていただけで、とくになにも話してくれませんでした。UFOはわたしに、なにかメッセージを発することもあるし、一瞬姿を見せるだけで、無言でさっといなくなってしまうこともあります。

<屋久島の出張先でもUFOに出会った>

・2013年には、屋久島でもUFOに出会いました。

・このUFOはカメラで撮ることができませんでした。

 かなり激しく横と縦に90度の角度で動いていました。

周りにいただれかが屋久島空港に電話をして、「今、飛んでいる飛行機はありますか」と聞いたところ、1機もないということでした。

 このUFOもまた、なにかを伝えたかったのかなと思っています。

このときも会話をすることができませんでした。

<北海道仁木町で出会った二本の虹とUFOの不思議>

・今、わたしは北海道余市郡仁木町で、「自然栽培の塾」をやっています。

・「自然栽培」を広めるために、以前からわたしは地主さんたちに、耕作放棄地を貸してほしいと交渉しつづけてきました。

 その願いがかなって、わたしが訪れたその日、仁木町が耕作放棄地を協力しましょうということに決まったのです。

 決まったと聞いたそのときでした。真っ昼間だったのに、太陽を真ん中にはさんで、虹が太陽のすぐ両脇に2本、まっすぐに立ち上がったのです。ほんとうに不思議な気持ちでした。

 そして、この日の晩にもUFOを見たのです。

<ソクラテスのようなギリシヤの哲学者と夢の中で話したこと>

・リンゴ栽培の先行きがまったく見えず、日々の食べものにもこと欠くような生活をしていた頃のことですから、ずい分前のことですが、わたしはまったく口をきかなくなっていたことがあります。

・答えを求め続け、考え続けていたその頃、夜の畑で地球のものとは信じられないものを目にしました。月明かりの中、発光する丸太のような物体が、リンゴの木の間を高速スピードで移動して、突然消えてしまったのです。

 直感的に、これは宇宙人ではないかと感じました。

・畑に光る丸太を目撃した同じ頃、ソクラテスのようなギリシャの哲学者と会話する夢を見ました。

・さらに、何のカレンダーなのかとわたしがたずねると、「地球のカレンダーだ」と答えるのです。

 他には板はなく、「枚数を数えたね」と言われて、今動かした数を思い出しました。

 板一枚が一年を表すとすると、板がすべて終わったあとの地球はどうなるのかと思ったのです。

 それで「地球は後はないんですか」と尋ねると、「ない」との返事が返ってきました。

<UFOで宇宙人に連れ去られたことがある>

・それから畑で目撃した宇宙人に再び出会ったのは、リンゴがようやく生産できるようになった40歳のときでした。

 深夜にいきなり寝室の窓が開いたと思うと、黒ずくめの身体に二つの大きな目が輝く生物が二人、連れだって現れたのです。

 彼らはわたしの両脇を抱えると、二階の窓から外に連れ出してそのまま上空に上がって行きました。

 気がつくとUFOのようなものの船内に連れ込まれていました。

 UFOの中にはわたしと同じように連れて来られたらしい白人の男女がいました。彼らは裸にされて観察されていましたが、わたしは観察されることなく、宇宙船の操縦室のような部屋に連れていかれました。

 宇宙船の内壁が、彼らが手を触れるだけでガラス張りのように透明になるのを目撃して、あっけにとられました。

・この動力物質を、彼らはKと呼んでいるように聞こえました。

彼らの説明では、地球人が知っている元素は120くらいで、そのうち使っているのは30にも満たない、けれども「我々は256の元素をすべて使っている」とのことです。

 地球人を極めて低能と言わんばかりでした。

 宇宙人は、Kのことを「永久エネルギー」と呼んでいました。そして、「その物質は地球人には作れない、頭が悪いから」と、ちょうど人間が猿を見下げるような感じで話しました。

 下等生物扱いはされましたが、彼らが熱を持たないエネルギーを取り出す方法を持っていることは確かです。

 彼らは熱のない、光だけは存在する世界に生きているのでしょうか。

 光そのものが彼らのエネルギーだったのか、それはわかりません。

<地球のカレンダーはあと何枚も残っていない>

・宇宙人にカレンダーの見方を教えてもらい、最後の数字を確認しました。宇宙人からも、そして夢からも地球がなくなると告げられた、その問題の日。それがいつなのかは、しっかりと覚えていますが、人に言ったことはありません。

 もし、わたしがそれを口外したら、大変なことになると思うからです。だから、地球がなくなる日を一日でも先に伸ばすために、わたしたち地球の住人はなにをしなければならないのか。それを優先して生きていかなければとわたしは思うのです。

<宇宙人は「木村は今、なにをしているのか」を見ているのかな>

・しばしば宇宙人と遭遇したという話をするためか、きっとわたしが宇宙人にお願いして力を借りているのだろうと言う人がいます。

 でも、そうではありません。

 奇跡と言われているリンゴ、コメ、野菜などの「自然栽培」に成功したからといって、わたしはこれまで、天や神仏や宇宙人などのお願いしたことはないのです。

 あの、自殺しようと岩本山をうろついたときだって、「リンゴが一個でも実ってくれるように、答えを教えてくれませんか」とは言いませんでした。

 わたしが宇宙人を何度も見た、というのは事実です。

 でも、宇宙人にわたしがなにか願いごとをしたことは、一度もないのです。

 逆に、彼らは、「木村は今、なにをしているのか」を見ようとして来ているのかもしれません。

 すぐ近くの星から彼らは来ているのではと、感じることがあります。

<奇妙な体験が、脇目もふらずに働く原動力>

・ソクラテスの夢の中で、そしてUFOの中で、わたしは地球のカレンダーが終わる日を確認しました。

 でも、それは気が遠くなるほど未来の話ではありません。

<肥料のガス化がオゾン層を攻撃し生態系を破壊>

・このようなフロンガスへの取り組みは、期待したほどの効果はなかったのです。さまざまやってみても、まったく大気汚染が修復されていないのです。

 米国大気圏局の研究者は、それについて本格的な研究調査をしました。その結果、世界中の農家が使用している肥料、とくに亜酸化窒素が原因だということが判明したのです。

<今という瞬間を感謝し、自然のままに生きる>

・わたしは、無農薬はすばらしい、無肥料はすばらしいということを言っているわけではありません。

 無農薬でも無肥料でもできるのだから、今使っている農薬や肥料をせめて半分にしても、農業はできるだろうと提言しているだけなのです。

<農薬・肥料・除草剤はいらなかった>

・私が提唱する農業は、農薬・肥料・除草剤をまったく使わない栽培法です。

・簡単に言えば、わたしの提唱する自然栽培農法の根幹は次のようなことです。

1.まず、大豆を植えなさい。

2.それから、野菜などの作物を育てなさい。

3.そして、雑草を育てなさい。

4.結果、雑草は邪魔物ではなく、土を作る基礎になります。

現代農業は、土を作るという大きな作業をしてこなかった。

<18世紀末にゲーテによって示されていた農法>

・「大豆を植え、野菜を植え、雑草を育てなさい。そうすれば、永遠に農業は可能である」

 このゲーテの言葉こそ、わたしがこれまで自分で悪戦苦闘してきた自然栽培の原点だったのです。その哲学がすでに18世紀の終わりに示されていました。

<わたしもそれが当たり前だと思っていた>

・リンゴは農薬で作ると言われるほど、栽培には農薬散布を欠かすことができませんでした。わたしの一家の収入はリンゴが頼りでした。

 リンゴの害虫は30種を下らないと言われています。

 虫食いのない、甘くて、大きなリンゴを作るには、青森県で発行されているリンゴ用の防除暦を使わなければなりません。時期ごとに散布すべき農薬と濃度が設定されており、その使用すべき農薬の容量といったら大変なものでした。

・妻は農薬の臭いで吐き気をもよおすほどで、散布中に畑で倒れたこともあります。その症状がだんだんひどくなっていったのです。

 妻の健康を考えると、農薬を防除暦通りに使うことができなかったのです。

<ムシが1匹、2匹出たら、すぐ農薬をまく農業はおかしいのでは>

・一般の農家が殺虫剤もなにも使わなければ、リンゴの場合、90%減収するそうです。

 青森県のようにリンゴが基幹産業のところでは、「農薬なしに、リンゴは生産できない」というのは間違いではありません。

 でも、リンゴ以外のイネや野菜などは、30%程度の減収で済みます。

だから、わたしが言いたいのは、ムシが1匹、2匹出たからといって、すぐに農薬をまいてしまう現在の日本の農業は、おかしいのではということです。

<日本の農薬使用量は世界一>

・リンゴ栽培は、昆虫、カビ、ウィルスなどとの闘いで、防除暦に従ってやれば、それらの悩みから解放されるのはだれでもわかっています。

 でも、それには大量の農薬を散布する必要があり、人体へのリスクがあるのです。その大きなリスクを背負って栽培しなければならない。

 リンゴ栽培の歴史は、ムシと病気との絶望的な闘いだったのです。

「本当に現代農業は、リスクを背負わなければやっていけないのか」

 わたしの自然栽培は、そんな疑問からのスタートでした。

実は、日本での農薬使用量は世界で一番多いのです。

除草剤の使用量もまた、世界一です。

『木村さんのリンゴの奇跡のひみつ』

植物と会話し、宇宙人と語る不思議な男の物語

小原田泰久   学研パブリッシング  2010/3/23

<宇宙人>

<人を幸せにする木村マジック>

・すべてのものに魂は宿っているんだ。

・何しろ、木村さんは、11年の歳月をかけて無農薬・無肥料でリンゴを栽培するという偉業を成し遂げるまで、私たちの想像を超える苦労をしてきた人だ。

<木村少年、龍との遭遇>

・紙とペンを持ってきて、スラスラと絵を描きながら不思議体験を説明する木村さん。龍との遭遇、UFOや宇宙人とのコンタクト、あの世への訪問など、一晩がかりでも語り尽くせないほどの体験談がある。

・「2本の松の木は、今では太くなっているけど、当時はすごく細かったな。龍は、どちらかの木の上に尻尾で立ったのな。上を向いてまっすぐに立った。松の木よりも長かったな。

 私がよお、面白いなと思ったのは、あんなでかい龍が上に乗っているのに、松の木が揺れないことな。だから、私は、みんなにいっているのな。龍の重さはゼロだって」

 しばらく、松の木の上にいた龍は、そのまま空高く飛び去った。我にかえった木村少年は、あのストップしてしまったおじさんはどうしただろうと、道路の向かい側を見た。すると、何事もなかったように、おじさんは歩き始めていた。

・いったい、何が起こっていたのだろうか。

 木村少年はそのとき、時間の流れが、通常の何千分の一、何万分の一という世界の中に入り込んでしまったのではないだろうか。だから、おじさんは止まってしまったし、普段は、猛スピードで動いているために人間の目には見えない(だろうと思う)龍の姿も見ることができた。そんなことがあり得るのだろうか。でも、そう考えるしか説明のできない現象だ。

<妖精と話す子どもたち>

・木村さんは、両親から見えない世界を否定するような大人になる教育を受けていなかったようだ。だから、常識という枠を超えてものを考えることができた。そして、さまざまな神秘的な体験をすることになるのだ。

<座敷わらし、光の乱舞、龍との再会>

・岩手県には、その旅館だけでなく、何軒か座敷わらしに会える宿があるのだそうだ。そして、どの旅館でも、座敷わらしに会った人には幸運が訪れているという。

 東北というのは、こんな話が似合う場所である。柳田國男の『遠野物語』とか宮澤賢治の世界が、東北の根底には流れている。

 私には、座敷わらしの話を単なるファンタジーとして片づけることができない。光を見たとか、写真に写ったという話があるけれども、この章の冒頭にも書いたが、私も青森県の種差海岸で、宙に光の粒が飛び交っているのを何回も見ているからだ。

・キリストの墓もある。『東日流外三郡誌』と同じようにウソだ本当だという議論を呼んだ古文書『竹内文書』には、キリストのことが書かれている。ゴルゴダの丘で殺されたキリストは偽者(弟のイスキリ)で、本物は津軽の地へ逃れてきて、ここで亡くなったというのだ。この墓があるのが戸来村(現在の新郷村)で、戸来はヘブライ(イスラエル民族)に通ずるというのも、ひょっとしたらそんなこともあったのではと興味をそそられる。

・そして、下北半島には恐山がある。死者の霊を呼ぶ口寄せはよく知られている。そのせいか、青森県には霊能者が多い。「青森の神様」と呼ばれている木村藤子さんのように全国的に有名になった霊能者もいれば、まだ名は知られていないけれども、地元では知る人ぞ知るというすごい力をもった霊能者がいるんだという話は何度も聞いた。

<おむすびとリンゴの奇跡>

・青森県ということで、もうひとり紹介したい人がいる。

 木村さんの畑から、岩木山神社を右手に見て車を走らせ、しばらくして左手に折れると湯殿という温泉場があって、その一番奥に、「森のイスキア」という癒しの家がある。ここの主は、佐藤初女さんという80年代後半の女性である。初女さんのもとへは、悩みを抱えた人がたくさん訪ねてくる。

・初女さんの代名詞のようになっているのが“おむすび”である。

・「私が自然栽培をしてきて感じるのは、すべてのものに魂があるということです。仏教でもそう教えているはずです」

・木村さんは無農薬・無肥料でリンゴを育て、米や野菜も同じように栽培する方法を指導している。そのため、農薬批判の旗頭という見方がされている。しかし、木村さんは農薬を頭ごなしに批判しているわけではない。逆に、病気や虫で苦労した分、農薬のありがたみを知っている。農薬を使っていれば、葉っぱが一枚落ちる音にオドオドする必要はなかった。手で害虫をひとつひとつ取る作業もしなくてすんだ。そして、あんな極貧の中で苦しむこともなかったのである。

<畑に現れた謎の光>

・目をこらして見ると、その光は人間のような形をしている。それも、宙に浮いて、すごい速さで畑を移動している。

・それ以来、木村さんは自宅の庭で何度もUFOを目撃している。

 畑で奇妙な光が走り回っている直前にも、UFOらしき物体を目撃した。夜、外に出たら、空にフランスパンみたいな物体が浮かんでいるのが見えたのだ。

・その飛行物体は、遠くの空に1メートルくらいに見えたという。雲が下を流れていたというのだから、かなりの高度である。それでその大きさに見えたという。雲が下を流れていたというのだから、かなりの高度である。それでその大きさに見えたのだから、ジャンボジェツトなど比べ物にならないほどの巨大な物体である。

<ネコのような目をもつ人らしき影>

・「なんで目が覚めたのかわからない。目が覚めて、ふっと外を見たのな。そしたら、畑で見たあのふたり。やっぱり、目がぎょろっと光っていた。4つな。だから、ふたりだと思う。2階なのに、あいつらは宙に浮いているのな。はしごなんかなかったのにな」

 まるで金縛りにあったみたいに体は動かず、声を出すこともできなかった。

 ふたつの影が窓に近づいてきた。すると、鍵のかかったサッシが、自動的に開いたのだ。さすがの木村さんも、その瞬間は、何が起こっているのか、冷静に分析することなどできなかった。

逃げようとしたが体は硬直してしまっている。

「そのふたりは、私に近づいてきて、拉致するみたいに、両脇をもって、外へ連れて行こうとするのな。もがこうとするんだけど。すごい力だから身動きができない。そこで、記憶が途切れてしまったな」

・気がついたら、木村さんはベンチに座っていた。公園にあるような板張りの粗末なものだった。大きな建物の中らしかった。静かで音はまったくなかった。木村さんは、右横にふたりの人間が座っているのに気がついた。奥にいるのは男性で、アメリカの海兵隊員のように見えた。若くて刈り上げた頭が印象的だった。その隣、木村さんと海兵隊員らしい男性の間に座っていたのが、金髪の若い女性。髪の毛が長かった。

・やがて、木村さんを拉致したふたりの宇宙人が姿を見せた。そして、無言で、最初に海兵隊員、次に金髪の女性を、両脇に抱えるようにして連れて行った。

 次は自分だなと、意外と冷静に状況を判断していた木村さんだったが、なかなか迎えが来ない。

「ちょっと退屈になって、窓があったので、椅子にのぼって外を見てみたのな。そしたら、竪穴式住居がいっぱい並んでいるみたいな感じで、光がずらっと見えたのな。マンションかアパートなのかなと思いながら見ていたら、例のふたりがやってきて、私を両側から抱えたのな」

・そして、そこから記憶が空白になり、気がついたら拉致されたときと同じようにふたりの宇宙人に両脇を抱えられ、自宅の2階の窓の外にいたという。そして、彼らと一緒に部屋に入ったかと思うと、宇宙人の姿は消えていた。そのまま眠りにつき、目が覚めたときにも、記憶ははっきりと残っていた。

<アブダクション経験者は3億8500万人>

・そして、また別の調査によると、ちょっと驚きだけれども、世界中のどこでも人口の約5.5パーセントがアブダクションを体験している可能性があるというのである。

<宇宙人の存在は地球人の価値観を変えるのか>

・私は、「ムー」という雑誌に木村さんのUFO体験を書いた。そこには、木村さんが描いたUFOのイラストも掲載した。それを見たひとりの知り合いが、自分もあれとよく似たUFOを見たことがあるんだといい出した。

<「あの世」で出会った「この世」の女性>

・UFOや宇宙人との遭遇はなかったが、木村さんは再度、神秘体験をすることになる。

 7年ほど前、リンゴも順調に実るようになっていたころの話だ。

 ある日、木村さんは体がだるくなって横になったところ、そのまま意識を失ってしまった。大変な高熱だったらしい。半日ほど、木村さんの意識は戻らなかった。

 目が覚めたとき、木村さんは、「あの世へ行ってきた」と感じたという。意識を失っている間のことが、記憶に鮮明に残っていたからだ。

・木村さんの最初の記憶は、上からフワフワと降りてくる大きなシャボン玉だった。何だろうと思っていると、吸い込まれるように、その中に入ってしまった。そして、木村さんを乗せたまま上へ上がって行くと、3メートルほど上がっていったん止まり、またすぐに上がり出した。まわりをキョロキョロみると、ずっと向こうに女性らしき人がふたり、同じようにシャボン玉に乗って上がって行くのが見えた。

 この後、木村さんはあの世らしき世界を旅することになるが、三途の川や花畑があって、懐かしい人に会えるという世界ではなかった。

・ここから時間を先送りして、驚きの結末、後日談を先に紹介しておきたい。

 意識を失った数か月後のこと。木村さんの講演会が横浜であった。講演の前、ひとりの女性から会場に「お話ししたいことがあるので、講演が終わったら会いたい」と電話が入った。約束どおりに木村さんがロビーで待っていると、若い女性が声をかけてきた。そして、驚くべきことを、木村さんに伝えたのだ。

「ひととおりの身の上話をした後、こういったのな。『シャボン玉のようなものに乗りませんでしたか。ふたりの女性が見えたと思います。そのうちのひとりが私です。私は、あなたの案内役です』ってな」

 あのときの出来事はだれにも話してなかった。まったく初対面のその女性が知るはずのないことである。木村さんは歯のない口をぽかんとあけて、その女性の顔を見た。

 以来、その女性と会うチャンスはない。

「きっと、本当に死んだとき、あの人が案内してくれるんだろうな」

 美人で良かったと、木村さんは大きな声で笑った。

・話を戻そう。シャボン玉のあとの記憶は真っ暗闇の中だった。木村さんは、糸で引っ張られるように、方向もわからないまま歩いていった。砂の上を歩いているような感覚だった。しばらく暗闇を歩いていくと、急に明るくなって大きな門が見えてきた。門をひとつくぐり、ふたつくぐりして、結局は6つの門をくぐった。最後の門をくぐると、髪が長くて白いワンピースとドレスを着た男性か女性かわからないふたりが待っていた。シャボン玉の女性ではなかった。

・ふたりの後をついていくと、窓も戸もない家がたくさん並んでいる場所に出た。そこには男か女かわからない人がひとりずつ住んでいた。「背中を横切ってはいけない」と、木村さんの心に響いてくる声があった。

 はるか遠く見ると、山があって、その麓に白い糸が見えた。なんだろうと思ったら、すぐにその場所に瞬間移動した。白い糸に見えたのは、たくさんの白い服を着た人の行列だった。みんな、土に足をつけず、すーっと音も立てずに移動していた。

 行列の先には川があった。順番がくると、その川を仰向けになって流れていく。「この人たちはどこへ行くのか」と心の中でたずねたら、「生まれ変わり」という声が聞こえてきたという。

•次の瞬間、木村さんは最初の門の所に立っていた。

「門を出たり入ったりしていると、ものすごい音の地鳴りがしたのな。地震かと思ったら、だれかに自分の名前を呼ばれた気がして、あれっと思ったら、シャボン玉に乗っていたのな。帰りは早かったな。自分が寝ている姿を3メートルくらいの高さから見て、その後、重なるように自分の体の中へ入っていったな」

木村さんは生還した。

<宇宙人にもらった丸い玉の正体>

・UFOの話に戻る。木村さんは、帰されるときに、丸い玉をもらった。木村さんの著書『すべては宇宙の采配』(東邦出版)では、その丸い玉をもった木村さんが表紙になっている。実際には、朝、目覚めると丸い玉は消えてしまっていたが、その玉には、何か重要なメッセージがあるように思える。

<UFOの中で見た地球のカレンダー>

・畑でふたりの宇宙人に遭遇したしばらく後のことである。リンゴが実らず、極貧の中で苦しんでいた時期だ。木村さんは、幻想とも思える不思議な感覚の中で、ソクラテスを思わせるような老人と出あった。体に白い布を巻きつけ、あごに髯をたくわえていた。

「待っていたよ。手伝ってもらいたいことがある」

・「終わった後、『これは何ですか?』って聞いたのな。そしたら、『地球のカレンダーです』っていうのな」

 木村さんは、これは地球の終わるまでのカレンダーだと思って、「これで全部終わりですが、あとはないのですか?」と聞いたそうだ。そしたら、「ありません!」という答えが返ってきた。ああ、これだけの年数で地球は終わるんだと思ったときに、木村さんは目を覚ましたという。

「マヤ歴が2012年で終わっているといわれているけど、あれよりは長かったな。でも、地球は永遠に続くと思っていたから、意外に早く結末が訪れるんだなと驚いたことは覚えている。その枚数はだれにもいってはいけないといわれているので、どんなことがあってもしゃべらないけどな」

 その後、UFOに連れ去られるという大事件があるわけだが、そのときにも、木村さんは地球のカレンダーを見せられている。ソクラテスのような人に見せられたのと同じ年数だったという。

・木村さんは、想像を絶する苦労を経て成功させた無農薬でのリンゴ栽培から、さまざまな教訓や知恵を得た。そして、さらには、UFOや宇宙人、あの世という神秘的な世界にも触れて、世の中が物質だけでできているのではないということを、身をもって知らされた。

<無農薬農法が病気を広めた?>

・話は20年以上も前、1989年のことになる。Eさんは、隣の畑の持ち主であるYさんから訴えられた。これをリンゴ裁判と呼んでいる。

・そんなこともあって、ほかの農家は、Eさんが農薬を散布しないから黒星病が広がったとEさんを責める行動に出た。防除組合からも農薬散布を要請する文書が届き、組合員の署名も集められた。彼らは、Eさんが農薬を散布しないために発生した黒星病の「被害者」だった。その被害者代表として、隣接する畑の持ち主であるYさんが175万円の損害賠償を求めて訴えたのである。

 Eさんが農薬を使わなくなったのは、健康被害があったからである。

<裁判で認められた「農薬を使わない自由」>

・この裁判は決着がつくまで3年の月日を要した。結果は、痛み分け(和解)だった。次のような和解文が裁判官から読み上げられた。

「YさんとEさんは今後お互いの農法を尊重しながら、より良いリンゴ栽培技術の確立のために努力し、Yさんの土地の境界から20メートルの範囲を緩衝地帯として、緩衝地帯ではEさんはリンゴ以外の果樹を栽培する。Yさんも出来る限り低農薬栽培の実践に努力する」

・リンゴは農薬を使わないと育たないというのが絶対ともいえる常識だったのはすでに述べた。そして、リンゴ農家の人たちは、病気が発生すればどんどん広がっていって地域全体が全滅すると信じ込んでいた。長年、そう教え込まれてきたのだから仕方のないことである。

・「逆に、無農薬で大変な苦労をしたから、だれよりも、農薬のありがたみがわかるのな」木村さんはしみじみと語る。私は、何もいわずに、木村さんの話を聞き続けた。

「だけど、農薬や肥料は、やがて世の中から必要がなくなるものだと思うな。青森でリンゴの売上げが2000億円なのに、農薬にどれくらいのお金を使っていると思う?大学の試算で900億円、全農だと1200億円も使っているわけだ。これでは採算のとれる農業ができるわけがない。使わなくても収穫できるものなら、それに越したことはないと、だれでも思うよな」

・「だから、UFOや宇宙人の話も、話すことを反対したり、誤解する人もいるけれども、私はどう思われたっていいのな」

・「私にとっては、無農薬・無肥料でリンゴを栽培したりしたことも、宇宙人らしきものに出あったり、あの世らしきところを見てきたのも同じ真実だから」

<不可能を可能に変える男・木村秋則>

・1個のリンゴも実らない時期が何年も続いた。半端な苦しさではなかった。それを思い起こせば、こうやってリンゴがなってくれていること自体、どれほど幸せなことかわからないというのだ。

・彼らは、無農薬・無肥料でリンゴをつくるという、今までだれもできなかったことに長年挑戦しつづけていた。それが原因で、夫は、まわりの人たちから「カマドケシ!」と中傷され、妻はそんな木村さんを縁の下で支えてきた。

・ヨーロッパでリンゴ栽培が始まって200年。日本で120年。リンゴは、農薬や肥料がないと育たないというのが常識だった。それをひとりの男が、11年の歳月をかけて覆したのだ。大変な苦労があったのは当然のことだった。カマドケシというのは、津軽の方言で破産者のことをいう。人を蔑む最低の言葉である。

『天国はここにあり  新 天使クラブへようこそ』

山川紘矢    ダイヤモンド社    2010/6/18

<私たちが体験できる最も美しいものーぼくが「天界」に行ったときのこと>

・さて、いよいよ夢の中で、ぼくが天界に行ったときのことをお話ししましょう。

・トイレの壁をぼんやりと見ていたのですが、そのトイレの壁がスーッと動いてゆくではありませんか!「あれって」と思っているうちに、ぼくの体をトイレからスーッと、どこかへ運ばれていったのです。

―そこはもう、広々とした別世界でした。全体が明るい水色の世界で、白いギリシャ風の柱が立っている大広間みたいなところに着きました。

 そして何人もの白いローブのようなものをまとった人たちが三々五々、楽しそうに談笑しているのです。中には竪琴を持った人もいて、天界のようでした。

・ぼくはズボンをおろしたままの姿ですから、すっかりあわててしまい、ひざを少しまげて前を隠していました。

そこにいる人たちは、おしり丸出しのぼくを見て、みんなして楽しそうに大笑いをしているのです。声は聞こえませんでした。テレパシーの世界のようでした。

 ぼくははずかしくて、やっとズボンをたくしあげたのです。ざわめきが一段落すると、向こうのほうから、とても威厳に満ちたレオナルド・ダ・ヴィンチのような素晴らしい風貌の男性が現れました。ぼくに会いに来たようです。

 彼はぼくの顔をじっと見つめました。その目は、慈愛に満ちているという表現がぴったりです。しかし、なぜかぼくに同情するような顔つきでした。

 ほんの何十秒間のことだった気がします。ふと気がつくと、ぼくはベッドの上に座っていました。トイレに入っていたのも、現実のことではなかったのです。

・あのレオナルド・ダ・ヴィンチのような方は、誰だったのか、あれはいったい、何の体験だったのかー。今でも忘れることができません。

・それから、ぼくはひどい病気を3年間やりました。先ほども書きましたが、ゼンソクです。そのために、とうとう公務員を辞めなくてはならなかったほどでした。発作が起こると動けなくなるのです。いつもベッドの上でうめいていました。

『心霊の文化史』   スピリチュアルな英国近代

吉村正和      河出書房新社  2010/9

<神智学と心霊主義>

・ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位した1877年と同じ年に、ブラヴァツキー夫人の主著『ヴェールを脱いだイシス』が出版され、その2年後に神智学協会の本部がニューヨークからインドに移る。ブラヴァツキー夫人はもともと心霊主義の霊媒として活躍しており、古代密儀宗教、新プラトン主義、ヘルメス主義、フリーメイソン、魔術など西洋神秘思想を心霊主義に導入しようとしていた。『ヴェールを脱いだイシス』はその集大成であり、神学と科学の融合による新しい宗教すなわち神智学を提唱したのである。

・神智学に変容した心霊主義には、もう1つ重要な理論が加わる。1859年にはダーウィンの『種の起源』が出版され、地球上の生物は『聖書』が説くような神の創造によるものではなく、原始的な生物から自然淘汰(自然選択)によって進化していく過程を「進化」と呼び、そのメカニズムを膨大な標本と精緻な理論によって証明したのである。環境に適応できたものが生き残り、適応できなかったものは死滅するという生存競争を通して生物の多様性が説明できるというものである。

・この理論は人間社会に適用されて社会ダーウィニズム(社会進化論)となり、ヴィクトリア時代の帝国主義イデオロギーを裏付けることになる。19世紀において科学技術に基づく物質文明を享受していた白人(アーリア人)は、この理論に基づいて、白人こそ世界を支配する能力を備えた人種であり、白人以外の人種を教導していく責務があるとして白人至上主義を「科学」的に正当化する。

<神智学協会の創設>

<ブラヴァツキー夫人>

・ブラヴァツキー夫人はエジプトやインドなど世界を遍歴したのちに1873年にニューヨークに到着する。すでにエジプトでは心霊協会を組織したり、パリでは霊媒ダニエル・ホームと接触したり、フランス系フリーメイソンと行動を共にすることもあり、自ら霊媒としての能力を十分に養っていた。1874年に後の盟友ヘンリー・S・オルコット大佐と出会うのも、ヴァーモント州チッテンデンにおける霊媒エディ兄弟の降霊会においてである。

・神智学の歴史においてもっとも重要な年となる1875年、オルコット大佐は、エジプトの「ルクソール同胞団」に所属する「トュイティト・ベイ」なる人物から手紙を受け取るようになる。古代から継承される霊知を少数の選ばれた賢者にのみ伝えるという「未知の上位者」という存在は、フリーメイソン(特に厳格戒律派)やイギリス薔薇十字協会に見られる発想である。ブラヴァツキー夫人の「トュイティト・ベイ」(後に「マハトマ」という神智学のアイデアに変容する)は、この「未知の上位者」の発想を借用している。心霊主義の系譜では、ウィリアム・ステイントン・モーゼスの指導霊インペラトールを除くと、そうした発想はほとんど見られない。ブラヴァツキー夫人は心霊主義と降霊会を厳しく批判しているが、モーゼスだけは例外として高く評価しているのは、両者の体系にある種の親縁性があるからである。

<マハトマの登場>

<インドでの反響>

・神智学協会は、インドの人々には好意的に受け入れられたが、キリスト教伝道を続けていたイギリス人宣教師たちには嫌悪の対象となっていたことは容易に想像できる。神智学協会が人格神を明確に否定していたこと、キリスト自身がマハトマの1人に位置づけられていることも宣教師たちには衝撃的であった。

・マハトマとはマハ=大、アートマ=霊から成り、大賢者としてのゴータマ(釈迦)から伝わる大宇宙の秘儀に精通している。マハトマは単独ではなく、複数のマハトマが存在しており、「グレイト・ホワイト同胞団」という結社を構成している。それぞれのマハトマは、さらにチェラ(弟子)にその秘儀を継承していく義務があり、たとえばマハトマ・モリヤのチェラがブラヴァツキー夫人であるということになる。マハトマは神智学の根本にある教えであるが、存在自体が当初から疑問視されてきた。霊的存在として本来不可視の存在とみれば説明がつくが、

ブラヴァツキー夫人の場合には、マハトマは地上でしばしば目撃される(!)ことがある。当初はダヤーナンダ・サラスヴァティーがマハトマと重ねられたこともある。

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