「よいことも、悪いことも、死後の世界では、十倍、二十倍にも評価される」という法則性があるようなのです。これが事実なら、悪霊になるのは、ある意味で、とても“簡単”だ(1)
(2023/9/18)
『天国と地獄』
アラン・カルデックの「霊との対話」
アラン・カルデック 幸福の科学出版 2006/2/1
<「死んでから二日たった霊」>
・まず初めに、「死んでから二日たった霊」との対話の一部を引用してみましょう。
――招霊を行います……。
「私はいま、約束を果たすために、こうして出てまいりました」
――あなたは亡くなる際にずいぶん苦しんでおられました。現在の状況と二日前のそれを比べると、どんな違いがありますか?
「現在はたいへん幸せです。もう苦しみはまったく感じられません。私は、再生し、回復しました。地上での生活から霊界の生活への移行は、当初は何が何だかよく分かりませんでした」
――意識がはっきりするのに、どれくらい時間がかかったのですか?
「八時間ほどです」
――ここにあなたの遺体がありますが、これを見ると、どのような感じがしますか?
「哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。あとは塵になるだけです。ありがとう、私の哀れな体よ。おまえのおかげで私の霊は浄化されました」
――最期の瞬間まで、意識ははっきりしていましたか?
「はい。私の霊は最後まで能力をしっかりと保持していました。もう見ることはできませんでしたが、感じることはできました。それから、私の一生が目の前に展開されました」
<「スピリチュアル」ブームのもとにあるもの>
・19世紀半ばから後半にかけて、このような霊的な現象を伴う精神運動が、欧米各地で巻き起こりました。そのフランスにおける中心人物となったのが、本書を書いたアラン・カルデック(1804~1869)です。
・アラン・カルデックの言葉どおりであるとすれば、イエス・キリスト、ソクラテス、プラトン、福音書のヨハネ、聖アウグスティヌス、聖ルイ、スウェーデンボルグ、ベンジャミン・フランクリンなどが、彼のガイドをしていたことになります。
<「交霊会」とは?>
・こうした交霊会が、当時、アメリカやヨーロッパの全域で頻繁に行われていました。
<「霊実在主義」とは?>
・この「霊実在主義」の基礎をなす原理は次のようなものです。
① 死というのは、肉体が機能を停止するだけのことであり、その人の本質、つまり霊は、エネルギー体として霊界で永遠に生きつづけている。
② 霊界で暮らしている霊は、ある一定の期間を経ると、肉体をまとって地上に転生している。
③ 転生輪廻の目的は、魂の向上、すなわち、より高い認識力の獲得と、より大きな愛する力の獲得である。
④ 魂は絶えず向上して神に近づいていく。神に近づけば近づくほど、悟りが高まり、魂は自由となり、より大きな幸福を享受できるようになる。
⑤ 霊界にいる霊人たちは、地上の人間にメッセージを送ってくることがある。
アラン・カルデック自身の定義によれば、「霊実在論とは、実験科学
であると同時に哲学理論でもある。実験科学としては、霊とのあいだに築かれる関係に基礎を置いている。哲学理論としては、霊との関係から導き出されるあらゆる心の法則を含んでいる」、すなわち、「霊実在論は、霊の本質、起源、運命を扱う科学であり、また、霊界と物質界との関係を扱う科学である」ということになります。
<この本をより楽しむために>
・第二部に登場する霊たちは、実に多岐にわたっています。
無事、地上での使命を果たし、天国に還って無上の喜びにひたっている霊もいれば、間違った生き方をして地獄に堕ち、塗炭の苦しみをなめている霊もいます。また、自殺をした結果、深い悔恨にさいなまれている霊もいれば、生前のプライドを死後にまで持ち越し、自分が死んだことさえ分からずに、いばりちらしている霊もいます。
・たとえば、ジョゼブ・ブレという、孫娘に招霊されたおじいさんの霊がいますが、この人は、生前は、人間の目から見て「ずっと正しい生き方をしていた」にもかかわらず、いざ霊界に還ってみると、神の目から見て「正しい生き方をしていなかった」ということが判明して、かなり悔やんでいます。
・さらに、エレーヌ・ミシェル嬢の死に方も気にかかります。25歳で亡くなったこの女性は、「よこしまなところはまったくなく、善良で、優しく、思いやりにあふれ」ていたにもかかわらず、「まじめなことがらに取り組むよりも、目先の楽しみに心を奪われて生活」していたために、死んだとき、なかなか肉体から離れることができず、かなりの混乱を味わっています。
<魂と肉体が分離するとき>
<最後の瞬間に何を感じるのか?>
・地上においては、旅行せずにいることは可能である。しかし、この最後の旅行だけは、貧乏人も、金持ちも、誰一人として免れることができないのである。
<魂と肉体をつなぐもの>
・魂と肉体をつなぐ電子線こそが、秘密を解く鍵なのである。
・肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた霊子線が切れる。だが、この分離はただちに起こるわけではない。幽体が徐々に肉体から分離してゆき、肉体の細胞の中に幽体の構成要素がまったく存在しなくなるまでは、分離は完成されないのである。
死の瞬間に魂が感じる苦しみは、肉体と幽体が、まだつながっているがゆえに感じられるのであり、分離に要する時間と、その困難さに応じて、苦しみの程度も決まる。
したがって、場合によっては、死ぬことに、ある程度の苦しみが伴うことは、認めておかなければならない。
・さまざまな状況の違いに関しては、のちのち検証することになるだろう。
ここでは、まず、四種類の極端な場合を想定しておこう。それ以外のケースは、すべて、それらの四種類の変奏として捉えられるはずだからである。
① 有機生命が消滅する瞬間に、幽体の分離が完全に行われれば、魂は、まったく苦しみを感じない。
② その瞬間に、幽体と肉体が、まだ完全に結びついている場合は、それらを引き裂くことになるので、魂は苦痛を感じることになる。
③ 幽体と肉体の結びつきが、それほど強固でない場合は、分離は容易に行われ、苦痛は、さほど感じられない。
④ 有機生命が完全に消滅しても、なお、肉体と幽体が結びついている場合、電子線が切れるまでは、肉体が解体するときに影響を、魂も受けることになる。
以上のことから、死に伴う苦しみは、肉体と幽体を結びつけている力
の強さに関係していることがわかる。
したがって、この力が弱くて、分離が容易になればなるほど、死の苦
痛もまた少なくなる。要するに、幽体と肉体の分離が速やかに行われれば行われるほど、魂は苦痛を感じずに旅立つことが可能となるのである。
<意識の混濁、そして目覚め>
・この世からあの世への旅立のプロセスで、もう一つ、忘れてはならない要素がある。それは、意識の混濁である。
・分離の速度と難易度は、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右されるので、分離が容易であるかつらいものになるか、快適か苦しいかは、各人の心境しだいということになるだろう。
<この世からあの世への移行を楽にするには>
<病気や老衰で死んだら、どうなる?>
・理論的にも、また、観察の結果としても、以上のことを明らかにしたので、あとに残っているのは、「死に方が、魂に、どのように影響するか」という問題である。
病気や老衰による自然死の場合、生命力は徐々に衰えるので、幽体と肉体の分離も徐々に進行する。
魂の浄化が進み、関心が地上の物質から完全に離れている人の場合、実際の死よりも前に分離が進行していることが多い。
・あの世の存在を知らないと、それだけ激しく肉体に執着する。いつまでも肉体に入った状態でいようとするのである。全力を振り絞って肉体の中にとどまりつづけようとするために、ときには、分離のための闘いが、数日、数週間、さらには数ヵ月かかることもある。
・「自分は生きている」と思うのだが、物質界で生きているのか、霊界で生きているのか、はっきりしない。実際には、もう病気ではないのだが、それでも、まだ症状が続いているように感じられる。
・また、死後に自分が赴く場所については熟知しているので、彼にとって、病気による痛みは試練であり、死は解放でしかない。したがって、心は平静であり、諦念が苦悩を和らげる。
死の瞬間には、霊子線は一瞬で切れるので、苦痛はまったくない。彼にとって、死とは、自由への目覚めにほかならない。魂は、重い体から解放され、喜びに満たされ、はつらつとしている。
<非業の死を遂げたら、どうなる?>
・したがって、幽体の分離は、肉体が死んだあとで開始されるのだが、それには多大な困難が伴う。霊は、あまりにも不意な出来事に圧倒されて、茫然自失の状態である。だが、考えることはできるので、「自分は、まだ生きているのだ」と思い込む。この錯覚は、状況を正しく把握するまで、ずっと続く。
・死の瞬間の霊の状態は、だいたい次のようにまとめることができる。
幽体と肉体の分離が遅れれば遅れるほど、霊は、より長く苦しむこととなる。そして、分離が早いか遅いかは、霊の悟りの進み具合に左右される。脱物質化の進んでいる霊の場合、意識が浄化されているので、死というのは短い眠りのようなものにすぎず、まったく苦しみを伴わない。その短い眠りから覚めると、心地よさに満たされている。
<死後の世界は現実そのもの>
・目に見えない世界と直接かかわることができるので、魂は大きく飛躍する。
肉体と幽体を結びつける絆が弱まり、分離が始まるので、この世からあの世への移行が非常に楽になる。移行に伴う困難は、あっという間に終わる。
・また、霊実在論によって、われわれは、「自分以外の人が亡くなる際に、祈りや招霊という手段を通じて、その人が地上のくびきから自由になるための手助けをすることが可能となる」ということも知ることができる。その結果、その人の苦しむ時間が短くなるのである。
真摯な祈りは、幽体に影響を与え、幽体と肉体の分離を容易にする。
<天国霊・地獄霊からの通信の記録>
<幸福に暮らす霊>
<サンソン氏――死後の招霊を希望していた男性>
・サンソン氏は、パリ霊実在主義協会の古くからのメンバーであったが、1年間のひどい苦しみのあとで、1862年4月24日に亡くなった。
・「私の魂と肉体が、もし、突然、分離するようなことがありましたら、どうか、私が約1年前に依頼しましたことを思い出してくださるようお願い申し上げます。私の霊を、できるだけ早めに、できるだけ頻繁に招霊していただきたいのです」
・サンソン氏は、完全な意識状態で、生から死への移行の様子を語ってくれた。彼は一度、死に、そして霊界に生まれ変わったわけだが、心境は一変していた。それは、彼の悟りの高さのしからしむるところであろう。
1 喪中の家にて 1862年4月23日
――招霊を行います………。
「私はいま、約束を果たすために、こうして出てまいりました」
Ⅱ パリ霊実在主義協会にて 1862年4月25日
――招霊を行います……。
「わが友よ、私はいま、あなたがたのそばにおります」
<以下、再びサンソン氏の霊に聞く。>
――あなたの霊的な目が開けたときに、何に打たれたのですか?何が見えたのですか?
「われに返って自分の前にあるものを見たときに、目がくらんだように感じられました。すぐには意識が覚醒しなかったらしく、事態がよくのみ込めなかったのです。しかし、神の善意のおかげで、私はさまざまな能力を取り戻しました。多くの忠実な友人たちがまわりにいるのが見えました。また、地上での交霊会で私たちを助けてくれていた指導霊たちが来て、私を取り囲み、ほほえみかけてくれました。比類のない幸福感に包まれて、彼らは生き生きとしており、私自身も、強いエネルギーに満たされて元気はつらつとしており、空間を超えて自由に移動できるのです」
――霊人たちは、どんな様子をしているのですか?人間のような姿をしているのですか?
「地上における交霊会で、霊たちは、『霊界においては、地上でとっていた一時的な姿形をそのまま保持している』と言っていましたが、まさにそのとおりです。
しかし、地上でのみすぼらしい肉体と、霊界での素晴らしい霊体の違いは、もう本当に比べようがありません」
・「霊は、地上での形態を保持していますが、それは、神聖化され、理想化されています。もちろん、手足もありますよ。脚も指もしっかりと感じることができます。そして、思いによって、あなたがたの前に出現し、腕に触れることもできます。いま私はあなたがたのすぐそばにおり、みなさんの手を握っているのですが、もちろん、あなたがたにはそれは感じられないでしょう」
・「繰り返しますが、霊には神聖な洞察力が備わっており、すべてにそれが及びます。ですから、あなたがたが考えていることが手に取るように分かるのですよ」
――交霊会の様子は、あなたの目にはどのように映りますか?
「むしろ、生前よりも、ずっとはっきりしていますよ。というのも、私には全員の思いが読めるからです。それに、降臨している霊人たちのよき思いが、この部屋に満ち満ちていますから、私は非常に幸せなのです」
――あなたは、私たちの思いが読めるとおっしゃいました。どのようにして、われわれの思考があなたに伝わるのか、そのメカニズムを教えていただけませんか?
「説明するのは難しいですね。霊に特有の、そうした驚異的な能力を説明するためには、新たな概念がたくさん詰まった巨大な言葉の兵器庫を開かなくてはならないし、あなたがたも霊人たちと同じくらい智慧を持たければならないからです」
・「『あなたがたの思いは、あなたがたのまわりに出没している霊人たちよって、絶えず読まれているのだ』ということを、どうぞ忘れないでください。神の使者たちに対しては、何も隠すことはできないのです」
<シドゥニエ――事故で溺死した霊媒>
・善人として生きたが、事故で亡くなった。生前は霊媒として知られていた。
――死んでからのことを教えていただけませんか?
「自分を取り戻すまでに、だいぶ時間がかかりました。でも、神の恩寵と、助けに来てくれた仲間たちのおかげで、光に満たされていったのです。
期待以上の素晴らしさでした。いっさいが物質とは関係ないのです。すべてが、それまで眠っていた感覚を掘り起こします。目に見えず、手で触れられない世界です。想像できますか?あまりにも素晴らしいために、あなたがたの理解を絶しています。地上の言葉では説明不可能なのです。魂で感じないと分かりません。
目覚めたときは、とても幸福でした。『地上の人生とは悪夢でしかなかった』ということがよく分かりました」
<死後の世界の実態と、その法則>
<不信と狂信を超えて>
<人間を不幸にする「唯物主義」という教義>
・もし、反社会的な、極めて不健全な教義があるとすれば、それこそ、まさしく死後の虚無を中心にすえた「唯物主義」という教義だろう。そうした教義は、社会の基盤をなす連帯と友愛の絆を完全に断ち切ってしまうからである。
<伝統的宗教は無力化する>
・さらには、あらゆる宗教は、死後に天国と地獄が存在することを認めているが、「どうすれば地獄に堕ち、どうすれば天国に行けるのか」という点、さらには、「地獄では、どのような苦しみを受け、天国では、どのような喜びを得るのか」という点に関しては、それぞれ異なった見解を持っている。
そこから、ある場合には、互いに矛盾するような見方も生じ、「神を讃えるには、どうすべきであるか。そして、地獄を避け、天国に行くには、どのようにすべきであるのか」という点に関して、さまざまに異なった考え方が生じているのである。
<「霊実在論」の登場と、その威力>
・霊実在論は、事実の裏づけを持っており、論理的な推論に基づいている。ゆえに、それを論理的に打ち負かそうとしても不可能なのである。
・死後の生に関する霊実在主義の理論は、想像力によって勝手につくり出されたものではなく、物理的な事実の観察から導き出されたものである。
・魂の死後の運命に関する見解が統一されれば、さまざまな宗教間での抗争が徐々に姿を消し、宗教同士で寛容の精神が発揮されるようになり、やがて、最終的には、数多くの宗教が統合されることになるであろう。
<天国とは、どんなところか?>
<死とは霊と肉体が分離すること>
・人間は、肉体と霊からなる。霊とは、原理であり、理性的な存在、知的な存在である。肉体とは、霊が、地上において使命を果たし、みずからの向上に必要な仕事を遂行できるように、霊を一時的に包んでいる鞘にすぎない。
・肉体を失えば、霊がすべてとなる。生命と知性こそが霊の本質である。肉体を脱ぎ捨てた霊は、霊界に戻るが、やがて、再び、そこから地上に生まれ変わってくる。
・物質界の存在立は、肉体という鞘に入っているために、地球、ないしは、その他の惑星の表面に結びつけられて生活する。
霊界は、われわれの周囲、空間、あらゆる場所に広がっている。霊界には、いかなる限界もない。肉体に宿っていない霊たちは、地上を重々しく移動する必要がないので、思考と同じスピ―ドで一瞬のうちに空間を移動することができる。
肉体の死とは、霊子線が切れて、霊と肉体が分離することを意味しているのである。
<霊は、進化することで、より大きな幸福を得る>
・霊は、創られた当初は、単純で無知であるが、自由意志を備えているので、すべてを獲得しつつ進化することが可能である。
進化することによって、霊は、新たな知識、新たな能力、新たな知覚を獲得するが、さらに、未熟なときには知らなかった新たな喜びも獲得する。
<霊は、進化するために何度も転生する>
・知性および精神性を発達させるために、霊は、繰り返し地上に転生輪廻する。知性を発達させるためには、仕事に就く必要があるだろう。
・みずからに欠けている、善なる資質をすべて獲得し、厭(いと)うべき悪しき資質をすべて捨て去るには、1回の転生では、当然のことながら不充分であろう。
・転生輪廻は、まだ充分に発達していない霊のためにある。ある一定の限界を超えて高い悟りに達した霊たち、あるいは、もはや粗雑な物質をまとったかたちでの修行を必要としない惑星に住む霊たちにとって、もはや転生輪廻は必要ではなくなるのである。
・地上において肉体生活を営んでいる時期以外は、霊は、霊界で、ある一定の期間を過ごすが、その際の幸・不幸を決めるのは、自分が地上でなした善と悪である。
<霊格に応じて与えられる仕事と使命>
・至福の状態にある霊たちは、伝統的なキリスト教において、しばしば言われてきたように、「何もせずに瞑想ばかりしている」というわけではない。霊界においては、それぞれの境涯に応じて、霊たちは忙しく活動している。もっとも、いくら活動したからといって、地上におけるように疲れるわけではないが。
高級霊界においては、すべてが燦然と輝いている。それは、いかなる人間的な言語によっても表現不可能であり、どれほど豊かな想像力をもってしても思い描くことはできない。
・最高の霊域にいる霊たちは、ある場合には、救世主として、または、神の意を体現する者として、神の意志を伝え、さらに、それを実現すべく働くのである。大いなる使命を果たし、惑星の創造にかかわり、宇宙の調和のために、みずからを捧げるが、そうした栄えある仕事は、完成の域に達した霊にしか任されない。最高の次元に達した霊たちだけが、神の秘密に参入することを許されており、神の考えを直接受け取って、人間たちに伝えることができるのである。
・霊たちが与えられる権限は、その進化の度合い、保持する光の量、能力、経験、そして、「至高の主から、どれだけ信頼されているか」による。能力に見合わない特権や待遇は、いっさい存在しない。すべてが、厳密な公正さによって測られるのであり、ごまかしは、いっさい通用しない。
・さらに、それよりも下の段階の霊たちに、霊格に応じて、順次、より容易な仕事が任されていく。それは、たとえば、諸民族の進化にまつわる仕事、家族、あるいは個人を守護する仕事、大自然の作用への介入から、微細な生物の調整まで、さまざまなレヴェルにわたる。地球という広大な生活空間を調和あるものとするために、能力、適性、意志に応じて、無数とも言える仕事があるからである。
・高級霊たちに委ねられる大いなる使命のほかに、あらゆる段階の仕事があり、それは、難易度に応じて、さまざまな境涯の霊たちに委ねられる。したがって、各人が、それなりの使命を与えられて、同胞たちのために、それを遂行することになる。
たとえば、一家の父親であれば、「子供たちを向上させる」という使命を与えられるであろうし、天才的な人間であれば、「社会に新たな要素を投じて進化を促す」という使命が与えられるであろう。
<地上では味わえない天国での幸福感>
・すべての人間が、仕事を与えられる。どのレヴェルに属していようとも、そのレヴェルに応じた仕事が必ず与えられるのである。
そうした仕事は、霊界・地上界、両方にわたる。あらゆる階層が活動し、最も低い境涯から最も高い境涯に至るまで、全員が、学び合い、助け合い、支え合い、手を差し伸べ合って、頂上を目指すのである。
・あらゆる場所に生命と運動が見られる。無限の領域の、どのような片隅さえも、ないがしろにされることはない。いかなる場所であろうとも、輝かしい無数の存在たちによって、絶えず踏査されているのである。
・幸福は、共鳴しやすい者同士が思いを共有することによっても得られる。幸福な霊同士は、考え、趣味、感情の同質性によって、お互いに惹かれ合い、一種の家族的なグループを形成する。そこでは、それぞれのメンバーが、みずからの光を放つと同時に、グループ全体を包み込む、晴れやかで心地よい香気にひたされる。
グループのメンバーのうち、ある者たちは、使命を果たすべく散っていき、ある者たちは、成し遂げた仕事の成果を分かち合うべく会議を開き、ある者たちは、より霊格の高い指導霊のまわりに集まって、その意見を聞き、指導を仰ぐ。
<文明の進歩に応じて地上に降ろされる最新の霊界観>
・しかし、それにしても、なぜ霊実在論が真実だと分かるのか?まずは、理性によって、次に、直観によって、さらには、発達した科学の知見との整合性によってである。伝統的なキリスト教神学は神の属性を卑小にし、霊実在論は広大にする。
・人類が、ある程度、進化するまでは、それほど高度ではない教えさえあれば充分だったのである。
・「人間は、死ぬと、境界のない、物質的な形態をとらない世界に赴き、幸福な生活、あるいは、不幸な生活を送る」ということが、はたして納得できたであろうか?おそらく、そういうことはなかったであろう。
<死後の世界を支配する法律・33箇条>
<裁きと報いの実態>
・どのような時代においても、人間は、「地上でなした善と悪に応じて、死後に、幸福、または不幸になるはずだ」ということを、直観的に理解してきた。
ただし、その理解がどれほど明確なものであるかは、その時点における人間の特性の発達の程度と関連していたし、善と悪に対する認識の深さともかかわっていた。
・霊界の実態がいかなるものであるかが、よく分かっていなかったので、地獄の責め苦といえば、物理的なものを思い浮かべざるを得なかったのである。
だから、多少の細部の違いを別とすれば、あらゆる宗教の地獄はよく似ている。
<霊実在論の考え方は事実の観察に基づく>
・死後の刑罰に関する霊実在論の考え方は――もちろん、死後の刑罰に関する考え方だけに限ったわけではないが――、いっさいの固定観念から自由である。
それは、単なる理論ではなくて、厳然たる事実の観察に基づいている。だからこそ、権威があるのだ。
・メッセージを送ってきたのは、最も低い境涯にいる霊から、最も高い境涯にいる霊まで、あらゆる種類の霊たちであった。また、それを受け取ったのも、世界中に散らばる、あらゆる種類の霊媒たちであったのである。
メッセージは、一人の人間に独占されているわけではなく、一般に公開されているのだから、誰でも、直接、自分の目で見て、読んで、確かめることができる。
<死後の魂のあり方を示す法則集>
・したがって、霊実在論は、勝手に法律をつくり上げたのではない。死後の魂のあり方を示す法則集は、確固たる事実から導き出されたものである。
・第1条 魂、ないし霊は、地上における肉体生活を通じて克服できなかった未熟さを、すべて、霊界においても引き受けなければならない。
第2条 完全な幸福は、心を完全に浄化したときに与えられる。未熟さが残っているかぎりは、苦悩から脱却することはできず、喜びは制限される。
第3条 苦しみの総量は、欠点の総量に見合っており、歓びの総量は、長所の総量に見合っているのである。
第4条 魂は、進歩の法則に基づき、意志に基づいて努力しさえすれば、みずからに欠けている長所を獲得し、すでに持っている欠点を取り去ることができる。
第5条 魂は、どこに行こうとも、自分を処罰する原因をみずからの内に持つ。罰をあたえるための特定の場所は必要ないのである。
第6条 霊は、地上において、なした悪によって苦しむだけでなく、なし得たにもかかわらず、なさなかった善によっても苦しむ。
第7条 霊は、自分のなした悪がどのような結果を招いたかまで、つぶさに見せられるので、反省が進み、更生への意欲が高まらざるを得ない。
第8条 神の正義は無限である。すなわち、善と悪は、すべて厳正に評価される。
第9条 あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、必ず、それを償わなければならない。ある転生で、それが返済されなかった場合には、それは、次の転生に持ち越される。
第10条 物質界で引き受ける、あらゆる悲惨、あらゆる不幸は、われわれの未熟さの結果、すなわち、今世、あるいは、それ以前の転生でなした過ちの償いである。
第11条 償いは、犯した過ちの重さと性質によって、それぞれ異なる。
第12条 唯一の普遍的な決まりは、「それが、どのように評価されるかに応じて、過ちは罰を受け、善行は報いを受ける」ということである。
第13条 罰の帰還は、罰を受けている霊が、どれほど向上したかに応じて変化する。前もって期間が限定された罰というものは存在しない。
第14条 罰の帰還は向上のいかんにかかわっている。したがって、罪を犯した霊が向上しないかぎり、苦しみは続く。それは、その霊にとっては永遠に続くように思われるだろう。
第15条 反省しない霊は、苦しみがいつ終わるか、まったく分からないので、それが、あたかも永遠に続くかのように感じる。そのために、「永劫の刑罰を受けている」と思うのである。
第16条 悔悟と償いによって初めて、過ちと、その結果を消し去ることが可能となる。
第17条 償いとは、自分の悪事の対象となった人に対して善を行うことである。なすべきであったにもかかわらず、なさなかったことをなす。また、すでになした悪に見合う善を行う。
第18条 悪霊となった者は、幸福な世界から排除される。
第19条 霊には、常に自由意志があるので、向上は、ときには遅く、また、いつまでも悪を改めない者もいる。何年も、何十年も、さらには、何世紀も悪にとどまる者がいる。
第20条 霊がどれほど未熟であろうと、邪悪であろうと、神が霊を見捨てることはない。どの霊にも守護霊が付いており、その心境の変化をうかがう。一方では、指導霊が、決して強制することなく、本人には知られないかたちで働きかけている。
第21条 各自が責任を負うのは、自分が犯した過ちに対してのみである。何人といえども、他者の罰を引き受けることはない。
また、自殺は常に罰せられる。
第22条 罰の種類は無限にあるが、未熟な魂に対する罰は、ある程度、決まっている。
霊的進化を怠り、物資に執着した者に対する罰は、まず、「魂と肉体の分離がなかなか行われない」ということである。
第23条 精神的に未熟な霊は、死んだのにもかかわらず、自分がまだ生きていると思うことが多い。
第24条 犯罪者は、自分の犯罪の犠牲者、犯罪が行われたときの様子を、繰り返し再現して見せられる。これは実につらいものである。
第25条 ある者たちは、漆黒の闇の中に放置される。ある者たちは、絶対的な孤立の中に置かれる。
原則として、全員が、犠牲者が味わったのと同じ痛み、苦悩、欠乏を経験させられる。
第26条 傲慢に暮らしていた者は、自分が地上にいたときに軽蔑していた者たちが、栄光に包まれ、人々に囲まれ、称賛されて、はるかな高みにいるのを見る。自分は最下層に落とされているのに、である。
偽善者は、光に貫かれて、心の奥に秘めていた考えを全員に暴露される。エゴイストだった者は、全員に見捨てられることによって、かつて自分が他者に与えていた苦しみを経験するのである。
第27条 死後、みずからの過ちの結果としての罪を避けたり、あるいは軽減したりするには、生きているあいだに、できるだけ、それを解消しておく必要がある。
第28条 死後の霊の境涯は、生前の心境に正確に対応したものとなる。
やがて、新たな転生輪廻の機会を与えられるが、それは、新たな試練を通して償いを果たすためである。
第29条 神の慈悲は無限である。だが、神は一方で極めて厳格でもある。神が罪人を許すということは、罪を免除するということではない。罪人は、その罪を償わないかぎり、過ちの帰結を引き受けざるを得ない。
第30条 罪は一時的なものであり、自由意志に基づく悔悟と償いによって解消されるが、それは罰であると同時に、また、悪を犯すことによって傷ついた心を癒すための治療でもある。
第31条 霊は地上に転生してくると、霊界で決意してきた解決手段を実行して、過去世で集積した悪を償おうとする。
したがって、一見、存在理由がないように思われる、種々の悲惨や不遇などにも、本当は、それなりの、しっかりした理由があるということを知らなければならない。
第32条 幸福への道は全員に開かれているのである。各人は、努力することにおいて、また、努力しないことにおいて自由である。一生懸命、努力する者は、早く報いられる。途中で迷ったり、道草を食ったりする者は、当然、目的地に着くのが遅くなる。しかし、それも、すべて自分の責任である。
第33条 未熟な霊を待ち受ける苦しみは、その種類も程度もさまざまであるが、死後の運命を決める規則は、次の三つの原理に要約される。
① 苦しみは未熟さから生じる。
② あらゆる未熟さ、そして、それに由来する、あらゆる過ちは、それ自体に罰を内包している。
③ 人間は、誰でも、意志の力によって、その未熟さから脱することができ、したがって、未熟さの当然の帰結としての悪を免れることができる。そして、そのことによって幸福になれるということが保証されている。
以上が、神の正義の法である。すなわち、霊界においても、地上においても、各人の努力に応じた結果が与えられるということである。
<魂は平等なのに、なぜ天使と悪魔が存在するのか?>
<天使とは何者か?>
・すべての魂にとって、完成が目標だった。それぞれが、自由意志に従い、努力に応じて、完成を目指していった。すべての魂が、同じだけの距離を踏破し、同じだけの仕事をする必要があった。
神は、すべての魂をまったく公平に扱い、いっさいのえこひいきをしなかった。というのも、魂たちは、すべて神の子供であったからである。
・したがって、天使とは、人間が、もともと持っていた可能性を開花させて、ついに完成の域に達した姿、約束されていた至福の境地に至った姿なのである。
・神が、かつて仕事をしないことはなかった。みずからの命令を伝え、宇宙のあらゆる領域を方向づけるために、常に、信頼のおける、智慧にあふれた至純の霊人たちを従えていたのである。
・したがって、さまざまな職務を免除された、特権的な存在をつくる必要などなかった。すべての霊たちが、古い者も新しい者も、努力に応じて各々の境涯を勝ち取ってきたのである。全員が、みずからがあげた成果に応じて進化してきているわけである。
そのようにして、神の至高の正義が実現されてきたのだと言えよう。
<悪魔とは何者か?>
・霊実在論によれば、天使も悪魔も別々の存在ではない。知的生命体は、すべて同じ創られ方をしたのである。それらの生命体は肉体に宿り、人間として、地球や他の惑星に住むのである。肉体から分離したあとは、霊となって、霊界に還って生活する。
・低い段階にいる者たちの中には、悪への傾向性が著しく強くて、悪をなすことに喜びを感じる者たちもいる。実は、彼らこそが、いわゆる悪魔と呼び慣わされている存在なのである。実際、彼らは、悪魔が備えている、あらゆる悪しき性質を備えている。
・霊実在論によれば、悪魔とは、不完全な霊であって、向上の余地を残している。彼らは階梯の下部にいるが、そこから上っていくことは可能なのである。
無頓着、怠慢、頑固、傲慢、そして、悪しき意志ゆえに、霊界の下部にいる者たちは、そのことによって苦しみを得ている。だが、悪をなす習慣があるために、そこから出ることは難しい。
しかし、やがて、そうした苦痛に満ちた生き方がいやになるときが、いつか来る。そのときになって、彼らは、みずからの生き方を善霊の生き方と比較し、「本当は、自分も、よい生き方をしたかったのだ」と悟る。
・神は、常に進化の手段を彼らに提供しているが、それを使うかどうかは彼らの自由に任せている。もし進化が押しつけられたものだとしたら、何の手柄にもならない。神は、彼らが彼ら自身の努力によって手柄を立てることを望んでいるのである。
神は、ある者たちだけを特別に選んで最上階に置くことはしない。
<全員が同じスタートラインから>
・霊が、あるレヴェルに達すると、そのレヴェルに見合った使命を授けられる。階層によって、それぞれ異なる使命を達成すべく働くのである。
・知的生命体は、それが進歩の法則にかなったものでありさえすれば、一種類のみで、宇宙のあらゆる必要性を満たすことができるはずである。彼らは、全員が同じスタートラインから出発し、同じ道筋を通って、自分自身の立てた手柄に応じて、それぞれ進化していくのである。
<霊現象は、すべて悪魔によるわけではない>
・悪魔に関する教義は、実に長いあいだ、他の教義を圧してきたが、悪魔の力を過大視しすぎたために、いわば、神そのものを忘れさせる結果となった。そのため、「人間の力を超える現象は、すべて悪魔によるものだ」と考えられるようになったのである。
・すなわち、不可視の知性体とは、地上を去った人々の魂であることが明らかになったのである。
また、数多くの善霊・悪霊が存在するが、それらは、当初から違う種類のものとして創造されたのではなく、もともと同一に創られたものが、それぞれ、さまざまな進化のレヴェルにあるにすぎないということが分かった。
・この点に関しても、ほかの場合と同じく、教会は、悪魔の仕業とする古い考えにしがみついている。つまり、「われわれは、キリスト以来、変化していない原理に基づいている」というわけである。
・人類が進化しているにもかかわらず、霊的な面に関しても、科学的な面に関しても、伝統的な宗教が、古いやり方にしがみついているとすれば、やがて、いつか、この地上は神を信じない人間ばかりになるであろう。
<訳者あとがき>
・あるいは、死後の様子が克明に分かったために安心された方もいらっしゃるでしょう。
・一方で、「この世で行った善行は、ことごとく神によって見届けられており、死後、過分とも思われる報いを受けている」
・つまり、「よいことも、悪いことも、死後の世界では、十倍、二十倍にも評価される」という法則性があるようなのです。
これが事実なら、悪霊になるのは、ある意味で、とても“簡単”だし、天使になるのも、決して不可能ではないということになります。
・高級霊からのメッセージは、日本でも、さまざまなかたちで刊行されています。しかし、自分たちと同じレヴェルの、ごく普通の人たちからのメッセージ集というのは、本書以外にはほとんど存在していないのではないでしょうか。
・本書に架かれているような「霊との対話」は、厳しい条件のもとで初めて可能となるものであり、それを安易に試みることには大きな危険が伴います。
・交霊会の催される場所の持つ磁場が、どんな霊を呼び寄せるかを決め、その結果、霊が人間にどんな影響を与えるかを決定する。
・次のような条件が整えば、よき磁場が形成される。
① 世界観、感情が、出席者全員で完全に共有されていること。
② メンバー同士がお互いに思いやりを持っていること。
③ 慈愛の精神に反するいかなる感情もそこに見られないこと。
④ 高級諸霊の教えを学んで向上しようという強い意志があり、実際に彼らのアドヴァイスを実践していること。
⑤ おもしろ半分というような気持ちがいっさいないこと。
⑥ 霊との対話のあいだ、敬意に満ちた沈黙と精神集中が支配していること。
⑦ 招霊するに当たっては、メンバー全員の心が一致していること。
⑧ 霊媒に、傲慢さやうぬぼれがまったくなく、ひとすら、よきことに奉仕しようとする気持ちだけがあること。
このような条件のもと、まず全員が瞑想することによって会場の磁場
を整え、次に、アラン・カルデックが、祈りをし、それから、おもむろに霊を呼び降ろしたのです。そして、霊媒の自動書記や発声を通して霊との対話を行ったわけです。
・私たちは、安易な気持ちで交霊会めいたものに参加したり、おかしな宗教の奇妙キテレツな悪霊現象にはまったりすることを、厳に戒めておかねばなりません。
アラン・カルデックの「霊実在主義」が私たちの人生に与えるインパクトは、とても大きなものです。
・「この世」でどう生きれば「あの世」でどうなるかということがわかってこそ、つまり、「霊界の法則」が理解できてこそ、私たち人間は真の意味で安心して生きられるのです。
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