「よいことも、悪いことも、死後の世界では、十倍、二十倍にも評価される」という法則性があるようなのです。これが事実なら、悪霊になるのは、ある意味で、とても“簡単”だ(2)
『完全アセンションン・マニュアル』
この生でアセンションを達成するために
ジョシュア・D・ストーン ナチュラルスピリット 2001/3/1
<都市>
・中位および上位アストラル界の都市は、車やその他の交通網もなければ、産業や汚染も存在しないため、地上界の都市よりもはるかに美しい。都市建築は車輪のように、たいがい中心から放射状に外に向けて広がるように計画されている。そうした都市の中心には、全ての信仰の聖堂である「七天球の寺院」が置かれている。
・そうした都市には、高次の次元からマスターたちも訪れる。芸術活動に捧げられた建物や学びのための集会場もある。高い次元に進めば進むほど、都市やその周辺部も美しさを増す。近郊に建つ家並みも最終的には筆舌に尽くし難いほど見事な見晴らしを呈する美しい邸宅街にある。そうした高次の意識階層にある魂の延長が抱く目標は、物的達成ではなく、霊的達成である。
<下位アストラル界での生活>
・煉獄と地獄の上位には、ある種どっちつかずの領域とも言える一帯があり、実際そこは地上界に重なるようにして存在する。ここにいるのは自分たちにとって心の安らぐ場所を地球の近くに見出した善人たちである。そこはアストラル界に属する領域ではあるが、地上の生活がそのまま行われているというアストラル版地球といったところである。あまりに地球の生活とそっくりなので、しばしば自分が地上界を去っていることさえ自覚するのが難しいこともある。そんな<魂の延長>も、あるところまで来ると、今より好状況に憧れるようになるのである。
<電気生命体との戦争>
・プレ・レムリア時代は、地球が他の惑星から来た「電気生命体」の集団に侵略戦争が仕掛けられた時代でもあった。地球人類は自己防衛を試み500年も続いたこの戦争において、最終的に勝利を収めている。その電気的存在にしても、芯からの悪者ではなく、移住のための新天地を求める科学者集団にすぎず、彼らは、実に気の遠くなるような距離を旅してやって来たのである。
<サナート・クマラと惑星聖師団>
<サナート・クマラ>
・もっとも偉大なアヴァターであるサナート・クマラと三人の仏陀として知られる同胞のクマラたちは、シャンバラに暮らす。シャンバラは、物質界に存在するものではないが、惑星の統治機関であるという意味では、アメリカ合衆国のホワイト・ハウスに相当する。シャンバラとは場であると同時に意識状態をも意味するものである。シャンバラでは、第5イニシエーションを通過した霊的聖師団のメンバーも参加して評議会が開かれる霊的聖師団は、主マイトレーヤ率いる霊的統治機関の別部門であり、サナート・クマラは聖師団のメンバーではない。
・なお、シャンバラは地球上の地理的位置で言うとゴビ砂漠に繋がっている。
<反キリスト者>
・最たる軍事的紛争地帯といえば、中近東を挙げぬわけにはいかない。ポール・ソロモンは「きわめて限定的な」核戦争がシリアとイスラエルの間に勃発する可能性があると予言している。私は、それが絶対的に起きると言っているのではなく、問題をはらむ地域であることを指摘しているまでである。ポール・ソロモンは自身のチャネリング情報の中で、その戦争は即座に収束し、イスラエルが勝利する様子が見えるといっている。
・彼の予言はすでに時代遅れである可能性も充分にある。
<クリスタル・テクノロジー>
・我々が黄金時代への移行を遂げる高次の進化した異星人文明の間に、自由な接触の機会が増すことにある。我々の銀河における異星人文明で何累代も前から地球を訪れているものには、即座に思いつくだけでも、琴座星系、ヴェガ星系、アルクトゥールス、シリウス、オリオン、プレアデス、そして言うまでもなくアシュター司令部がある。
・さらに将来には、異星人文明との自由交流がごく日常的なことになる。そして、地球がより高次の霊性を有する惑星としての地位を得たあかつきには、我々地球人も、この銀河と小宇宙の惑星連合の参加が許されることになる。
・異星人達は、我々の技術は、現在理解できる範囲をはるかに超えて進歩をもたらす大きな支援を寄越すであろう。そして、宇宙旅行や地球での空飛ぶ円盤(UFO)の製造はごく当たり前のことになる。異星人たちは我々の霊的意識が充分に成熟し、そうした進んだ技術を決して戦争に使わないことを前提に、うまく扱えるようになるのを待ち望んでいるのである。
<第7イニシエーション>
・第7イニシエーションは、地球での生が関わる七界層の現象的生の支配から自由になることである。これは実際には宇宙レベルの物質界から、その上に引き上げられることであり、神的すなわちロゴス的意識界層との融合をいう。当のマスターの意志は、惑星ロゴスのそれと完全なる融合をみる。そして、神の息子ないし娘はみずからの源である父へと続く通路を見出すのであるが、このときの状態を「シャンバラ」という。マスターは息づく光の集中点となり、シャンバラの議事堂への出入りが許され、その視界は太陽系の「越えられざる環」をも透徹することができる。
<高次の進化へと続く七つの道>
・我々は、アセンションの時点で、高次の進化へと続く七つの道から、どれか一つを選ぶことになる。我々の選択肢となる七つの道は、以下の通りである。
1、地球での奉仕の道
2、磁気に取り組む道
3、惑星ロゴスとなるための修練の道
4、シリウスへの道
5、光線の道
6、ロゴス自身が在る道
7、絶対的な神の子の道
人類の大半はシリウスへの道を選択するが、それはシリウスが、その一部にシャンバラを含む大学だからである。そこは訓練の場としての役割を持ち、宇宙レベルの進化における後々の時間に<人格>はそこからより高度な道へと移ることができる。
・私自身はシリウスへの道を選択しており、後にシリウスでの基礎訓練を終えた時点で、できれば絶対的な神の子の道へ移行したいと考えている。私は、シリウスに行く前に、今後約20年は地球に留まり、ジュワル・クールのアシュラムで働くと告げられている。私は、たいてい毎晩、睡眠中に魂体でシリウスを訪れている。
『ブルーアイランド』
エステル・ステッド ハート出版 1992/11
<ブルーアイランドの建物>
・霊界というと、非現実的で夢のような世界を想像なさるに違いありません。が、そうではなく、みなさんが外国に行くのとまったく同じなのです。地上と同じように実体があるのです。おまけに、比較にならないくらい興味のつきない世界です。
やがて私たちは大きなドームのような建物の前に来ました。中を覗いてみると、ここも素敵なブルーで彩られていました。地上で見かける建物と変わらないのですが、その美しさが違うのです。
・そこにしばらく滞在して、それから軽い食事を取りました。私が地上でよく食べていたものに似ている感じがしました。ただし、肉類は見当たりませんでした。
奇異に思えたのは、食事は必ずしも取る必要がないように思えたことです。目の前に置いてあるのですが、どうやらそれは必要性からではなくて、地上の習慣の名残にすぎなかったようです。
・父の説明によれば、あの建物は一種の休養施設で、地上からの新来者がよく集まるところだそうです。地上界の生活条件に近いものがいろいろと揃っていて、外観も地上の建物に似ているので、よく使用されるということです。同じ目的をもった建物は他にもたくさんあります。別の用途を兼ね備えたものもあります。
・それらの外観は一つ一つ異なり、似たものはありません。要するに“大きなビル”と考えればよろしい。博物館や美術館、あるいは巨大なホテルを想像されてもよろしい。だいたいそんなものに近いと思ってください。おとぎ話に出てくる夢のような宮殿を想像してはいけません。きわめて地上的で、変わったところは一つもありません。
・このブルーアイランドにはそうした建物が実にたくさんあるのです。というのも、この世界の第1の目的は、地上を去ってやってくる者が地上の縁者との別離を悲しんだり、無念に思ったり、後悔したりする気持ちを鎮めることにあり、当分の間は本人が一番やりたいと思うこと、気晴らしになることを、存分にやらせることになっているのです。
・元気づけるために、あらゆる種類のアトラクションが用意されています。地上時代に好きだったことなら何でも――精神的なものでも身体的なものでも――死後も引き続いて楽しむことができます。目的はただ一つ――精神的視野を一定のレベルまで高めるためです。
書物を通じての勉強、音楽の実習、各種のスポーツ、‥‥何でもできます。乗馬もできますし、海で泳ぐこともできます。狩りのような生命を奪うスポーツは別として、どんなスポーツ競技でも楽しむことができるのです。もっとも、こちらでは地上で言う“殺す”ということは不可能です。狩りと同じようなことをしようと思えばできないことはありませんが、この場合は“死”は単なる“みせかけ”にすぎないことになります。
・そうした建物は新来者の好みの多様性に応じて用意されているわけです。こちらでは疲労するということがありませんから、思う存分それぞれに楽しむことができます。が、やがてそればっかりの生活に不満を抱き始めます。そして、他に何かを求め始めます。興味が少しずつ薄らいでいくのです。
それと違って、たとえば音楽に打ち込んだ人生を送った者は、こちらへ来てからその才能が飛躍的に伸びて、ますます興味が深まります。その理由は、音楽というのは本来霊界のものだからです。ブルーアイランドに設置されている音楽施設で学べば、才能も知識も、地上では信じられないほど伸びます。
・さらには“本の虫”もいます。地上では失われてしまっている記録が、こちらでは何でも存在します。それがみな手に入るのです。ビジネスひとすじに生きた者にも、その才能を生かす場が用意されています。
これには理由があります。こちらへ来たばかりの者は、多かれ少なかれ悲しみや無念の情を抱いております。それが時として魂の障害となって進歩を遅らせます。そこで、とりあえず悲しみや無念の情が消えるまで、当人がやりたいと思うことが何でも好きなだけやれるようにとの、神の配慮があるのです。それが実は進歩への地固めなのです。
が、純粋に地上界に属する趣味は、やがて衰え始めます。一種の反動であり、それがゆっくり進行します。こちらでも物事は段階的に進行し、決して魔法のように一気に変化することはありません。
・その反動が出始めると、興味が次第に精神的なものへと移っていきます。もともと精神的なものに興味を抱いていた人は、引き続きその興味を維持し、拡大し、能力が飛躍的に伸びます。地上的な性格の趣味しか持たなかった人にも、いずれは変化の時期が訪れます。
このように、ブルーアイランドにいる間は、多かれ少なかれ地上生活との関連性が残っています。最初は、ただ面白いこと、愉快なことによって自分を忘れているだけですが、やがて霊的向上のための純化作用が始まります。
(2016/11/1)
『天界と地獄』 ラテン語原典
エマヌエル・スヴェーデンボルイ アルカナ出版 1985/5
<第18章 天界での時間>
・162 天界では、この世と同じように、すべてに継続や進展がありますが、天使たちには、時間や空間の考えや概念はまったくありません。かれらは、時間とか空間が何であるかもわからないのです。それで、ここで天界の時間について述べますが、空間については、いずれその章で述べることにします。
・163 この世とおなじく、また何のちがいもないほど、天使たちにもすべてが継続したり進展したりしています。ところがかれらは、時間がどんなものかさっぱりわかりません。というのは、天界には年もなく日もなく、あるのは状態の変化だけです。年や日があるところには時間があり、状態の変化のあるところでは、状態があるのです。
・164 この世に時間があるのは、この世の太陽が、ある度から他の度へと、見かけのうえで少しずつ進んでいくからです。それで1年のうちで「四季」と呼ばれる時間がうまれます。さらに地球をめぐっていることから、1日のうちで「時刻」と呼ばれる時がうまれます。以上はみんな定期的に交代してやってきます。
天界の太陽はそれとちがっていて、継続的な進行や回転によって、年や日を生みだすのではなく、ただ状態の移り変わりのあらわれです。だから、前述したような定期的な繰りかえしはありません。だから、天使には時間の観念はなく、そのかわりに状態しかないのです。
・165 天使たちは、この世の人間のように、時間からくる概念はないし、時間についても、時間にかんする事柄についても、そんな概念ももっていません。時間に固有のコトバ、たとえば年、月、週、日、時、きょう、あす、きのうなども、何のことかわかりません。人からそのようなことを耳にすると(天使たちは、主によって、いつも人とつながっています)、そのかわりに、状態と状態に関係のあることを考えます。ここで人の自然的な観念が、天使たちのもとで霊的な観念にかわります。
・167 天使たちは、時間について何も知らないため、「永遠」についても地上の人間とはちがった考えをもっています。天使が「永遠」について感じとっているのは、無限の状態であって、無限の時間ではありません。
わたしはあるとき、「永遠」について考えてみましたが、時間の概念をとおして「永遠にいたるまで」が、「終わりがない」という意味であることを感知できましたが、神がその創造以前に、永遠のむかしから、何かを造られたといったような意味での「永遠のむかしから」というコトバが、何を意味するかわかりませんでした。
<第19章 天界での表象と外観>
・170 自然の光だけで考える人は、天界のものがこの世のものに似ていることなど、理解できません。そのわけは、自然の光だけで考えると、天使とは精神だけで、精神は空中をただようたましいのようなものだから、人間のような感覚はなく、目もなく、目がないから、その対象もないと、合点してしまうためです。
・174 わたしは、天使たちの仲間いりをする許しがあたえられましたが、そのとき天界でわたしの目に触れたものは、この世のものと全く同じで、この世にいるのかと思ったほど、鮮明に感じとられました。そこには王の宮殿があり、わたしは天使たちと、人間どうしのようなコトバをかわしました。
・176 相応によって、天使たちの目にどんなふうに写っているか、実例をあげてみましょう。
理知のうちにある天使には、多種多様の樹木と、花にあふれた庭園や楽園がみえます。木々は、最高にうつくしく、ととのった格好でつらなり、横木に組みあわされたアーチ状の門があり、庭をめぐる小径もついています。その美観はたとえようもありません。
理知のある者たちは、そこを歩き、花をつみ、編んでは幼児の飾りにします。園にはこの世で目に触れたことのない樹木や花があります。その樹木には、理知ある天使たちがやどしている<愛の善>におうじた果実がなっています。庭・楽園・果樹・花などは、かれらの理知と英知に相応しているからこそ、かれらには見えるのです。
<第20章 天使たちの服装>
・177 天使は人間で、地球上の人間のように、おたがいに生活しています。だから、衣服とか住居とかがあるのですが、ちがいといえば、天使のほうがずっと完全な状態にあるため、衣服とか住居とかがあるのですが、ちがいといえば、天使のほうがずっと完全な状態にあるため、万事が、より完全なことです。天使の英知は、口では言いあらわせないくらい、人間の英知よりすぐれています。だから、かれらが見たり感じとったりすることができるものは、すべて人間のよりずっとすぐれています。それは、天使が感知したり見たりするものは、すべて天使の英知に相応しているからです。
・178 天使が身にまとっている衣服は、他のものとおなじように、相応によってなっています。というのは、相応は実在に通じているからです。天使の衣服はその理知に相応していて、その結果、天界の者はみんなその理知に相応した衣服をしてあらわれます。ひとりの者が他のひとりより、まさっています。もっとも理知的な者の衣服は、燃えかがやいていて、光まばゆいほどです。理知で劣っていると、その衣服は白い明るさはあっても、輝きはありません。さらに理知が劣っていると、その衣服は白い明るさはあっても、輝きはありません。さらに理知が劣ってくると、色とりどりの衣服になります。内奥の天界にいる天使たちは裸です。
・181 天使が着ている衣服は、衣服のように見えるというのではなく、実際に衣服です。それは、かれらが衣服を目にしているだけでなく、触れていることからもわかります。天使には、あらゆる種類の衣服があって、脱いだり着たりしています。また不明の場合は保管し、使用するときは出して着ます。わたしは、かれらがいろいろの服を着ているのを何千回も目撃しました。
わたしは、天使に、その衣服をどこから手にいれるのか尋ねてみましたが、かれらは、それを主からいただくので、たびたび知らないままに着せられているのだそうです。また、天使の衣服には着替えがあり、第一と第二の段階では、あかるい色で輝いていますが、第三と第四の段階では、わずかばかりにぶい色になっているということです。それは、理知と英知の面で状態の変化があり、それに相応する色の変化なのです。
・182 霊界にいる人は、理知に応じた衣服があり、しかもそれは、理知の源である諸真理にしたがっています。
地獄にいる者は真理をもっていませんが、やはり衣服を身につけてあらわれます。ただし、その衣服は破れてけがれ、乱れていて、各自その狂気のほどをあらわしています。かれらは、それ以外の衣服をつけることができず、これもはだかにならないよう、主によって着せられているのです。
<第21章 天使たちの住まい>
・183 天界にはいろいろな社会があって、天使も人間とおなじように暮らしています。だから、かれらにも住まいがあって、それも各自のいのちの状態によって、いろいろちがいます。格の高い天使の住まいは豪華ですが、ひくければ豪華でなくなります。
わたしは天使たちと、何回か天界の住居について話しました。わたしは言いました。
「天使に住まいや家があるなど、現代の人はなかなか信じません。ある人は見ないから信じないのですが、他の人は天使も人間であることを知らないからです。またある人は、天使のいる天界とは、自分の目で見まわして眺められる天空のことで、何も見えないから、天使をエーテルのようなものだと思い、大気中に生息しているものと思いこんでいます。それに霊のことは何も知らないため、自然的世界にあるのと同じものが、霊の世界にもあるということが、わからないのです」と。
②それにたいし、天使は言いました。
「世の中で、そのような無知が、現在幅をきかしていて、それがとくに、教会のなかにはびこっていることに。わたしたちも驚いているのです。それも無学な人より、知識人にたくさんいます。天使が人間であることは、<みことば>からわかります。というのは、天使を見た人は人間の姿で見ていますし、主もまた人間性のすべてをとられました。天使は人間だから、住まいや家があるのは当然です。天使が空中をとんだり、霊だからといって風のようなものだと考えたとしたら、それは狂気ともいえる無知からくるものです。
・184わたしが天使たちと、口頭でコトバをかわしているときは、いつもかれらの住まいの中でした。いわゆる地上の「家」そっくりの住まいですが、もっと佳麗です。いくつもの個室・広間・寝室があり、ポーチがあって、そのまわりは庭園・花壇・牧場がつづいています。他に住居者がいる場合は、隣りあわせに住居がつらなっていて、広場・道路・市場などが町並みをかたちづくっていて、この世の都市にすごく似ています。わたしは、あちこち歩きまわって、周囲の様子をうかがい、ときどき家のなかにも入らせてもらいました。わたしは内的視覚がひらかれていたので、それらを完全な覚醒状態で経験しました。
・185 天界の宮殿を見ましたが、その壮麗なことは口で言いあらわすことができません。上層部は純金でひかりかがやき、下層部は宝石でできているようです。ある宮殿は他のものよりすばらしく、内部も豪華です。広間は、コトバや知識で表現できないほどのすばらしい装飾がほどこされています。南に面して楽園があって、万物ひとしくキラめき、あるところでは木の葉が銀、果実が金でできているとさえ思われます。花は花壇をめぐって色とりどりの配合を見せています。そして、視界の終わるかなたには、また別の宮殿が見えています。
芸術はところによって粋を窮めるといわれているように、天界には天界の建築があります。芸術そのものは天界に由来しますから、フシギでも何でもありません。主はこのようなものや、もっと完璧なものを、無数にかれらの眼前にお見せになると、天使たちは言っています。しかもこれらのものは、天使の目を楽しませる以上に、その心を喜ばせてくれるそうです。それは、かれらが個々のもののうちに相応を見、相応をとおして神を見るからです。
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