女性の守護神として名高い淡島明神も、海に流された神の一人だ。天照大神の娘の彼女は、住吉明神に嫁入りしたが、下の病(性病)にかかって虚ろ舟に乗せられ、堺の浜から流された。(1)
(2023/10/26)
『江戸怪奇標本箱』
藤巻一保 花輪和一 柏書房 2008/2/1
<霊界の乗り物の怪>
<過去を容れておける壺>
・壺公(ここう)という仙人がいる。葛洪(かつこう)の『神仙伝』に登場する古代の仙人で、壺のなかの仙界、壺中天(こちゅうてん)に住んでいた。費長房(ひちょうぼう)という役人がそれを見て壺公に弟子入りし、のちに彼も壺中に入ることを許されて、地仙という位の低い仙人になった。
壺公らが入りこんだ壺というのは、“タマの宿り場”の一種だ。
タマとはヒトダマやタマシイ、祖先の霊を祀るお盆のタママツリなどのタマで、霊魂や神を表す日本の古語だ。
このタマには、特徴的な習性がある。どこからともなくやってきて、閉ざされた容れ物のなかに飛びこみ、ある期間をそこで過ごすと、ふたたびそこから立ち去るという動き方をするのだ。
その容れ物が人体なら、タマは人間の魂になる。誕生時に人体に飛びこんでその人の心身を動かす司令塔となり、死ぬと出ていくのだが、タマが入るのはなにも人体だけというわけではない。
・もちろん壺もそのひとつだ。だから、竹の「よ」がかぐや姫を生み、瓜が瓜子姫を生み、桃が桃太郎を生んだように、壺も聖徳太子のパトロンとされた秦川勝(はたのかわかつ)を生んでいる。中世の伝説によると、川勝は壺に入って三輪川を流れてきたというのだ。
中空の容れ物というのは、そこに万物を宿し、万物を生み出す神聖な空間、つまり子宮のシンボルだ。子宮に見立てられた容れ物は、この世とあの世を結ぶ異次元の空間だけに、さまざまな不思議をいともたやすく引き起こす。そのひとつが壺公の壺だが、日本にも同様の壺があった。
・19世紀のはじめころ、50歳ばかりの翁が上野の五条天神あたりで薬を売っていた。夕方、店じまいの時分になると、翁はつづらから敷物まで一切合切を口の幅3、4寸ほどの壺に収め、自分までそのなかに入りこんだ。すると壺が勝手に空中に飛びあがり、いずかたともなく飛び去るということがあった。
この翁というのが実は天狗の親玉で、彼の弟子になったのが、天狗小僧の名で知られた仙童寅吉だ。
寅吉はのちに平田篤胤の求めに応じて仙界の秘密を語った。それをまとめたのが、江戸の奇書を代表する『仙境異聞』だが、弟子入りのきっかけとなった右のエピソードは『神仙伝』にそっくりすぎておもしろくない。
・そこで紹介したいのがオランダ渡りの怪壺だ。どんなものかというと、人の音声から映像まで、すべてをそのなかに蓄えたり取り出したりできるという、摩訶不思議な壺なのだ。
この壺は大坂で売られていた。高すぎてなかなか買い手がつかなかったが、やっとさる富豪の手に落ちた。
その富豪は大の芝居好きだった。そこで、芝居をまるごと壺に収めようと思い立ち、小僧に壺を背負わせて、道頓堀の劇場に出かけた。
・ところが最初に容れた音声や動作は、壺のいちばん底に入っていたものだから、はじめに飛び出てきたのは、「まァづ今晩はこれきり」の口上――という笑い話だが、この壺はまさに今日のビデオレコーダーそのものといっていい。
SF好きなら、ただちにタイムスリップものに思いをはせるかもしれないが、なかに別次元の時空間を収めることができるという点では、この壺も壺公の壺も、意味的には同じものなのだ。
ただ、壺公や寅吉らには、過去の時空間まで容れておけるという発想や、それを引き出して再現するという発想がなかった。一方、この話を書いた淡山子なる経歴不明の著述家は、それもできると気づいた。その部分が新機軸なのである。
<地獄の亡者の乗り物>
・霊界の乗り物といっても、とくに変わった種類があるわけではない。人間界と同じで大多数は車か船だが、乗り物自体に変身能力があったり、乗員が鬼神・妖怪になっているなどのちがいはある。
仏教では、万人の救済を目標にかかげる教派のことを大乗、自分1個の救済を優先する教派のことを小乗と呼んで区別してきた。この「乗」というのが乗り物のことで、多人数を乗せることができる大型船が大乗、丸木船程度の独り乗りの小舟が小乗だ。
雲も古くから知られた霊界の乗り物の一種だ。道教の仙人たちがよく愛用しているが、阿弥陀仏の信者にも乗るチャンスがある。いよいよ臨終というとき、紫色の雲に乗った阿弥陀如来が、観音・勢至を筆頭とする諸菩薩や美しい天人たちをひきつれて迎えにくる。信者はまばゆく光り輝く聖衆とともに、雲に乗ってあの世の浄土へと渡るのだ。
・ただし、すべての亡者が大乗という船や迎えの雲に乗れるわけではない。それらの行き先には、地獄がふくまれていないからだ。
では、地獄などに堕ちる亡者たちは何に乗るのか。彼らのもとには、あの世からの護送車がやってくる。その護送車を、火車(かしゃ)という。
火車は『今昔物語』にも出るくらい古い乗り物で、地獄の獄卒たちが曳いてくる。ただし近世には、年老いた化け猫の化身ともいわれるようになった。
火車が出るときには、にわかに黒雲が湧き起こったり、周囲が暗くなったり、烈しい風雨になるなどの荒天になる。真っ赤に燃えさかる車の姿が目撃されることもあるが、黒雲が死人の出た家の上空に現れ、雲のなかからヌッと鬼の手が伸びて亡者を攫うという形も多い。
<この世とあの世を行き来する船>
・火車と比べると、あの世とこの世を行き来する霊界の船は例が少ない。よく知られているのは三途の川の渡し船だが、話題といえば渡し賃の六文銭くらいで、船そのものについては、ほとんど関心が払われていない。
ただし神話となると、話は別だ。四方を海に囲まれた島国日本では、海の彼方に常世国や観音浄土があると信じられてきた。そこで、神霊はしばしば船に乗って現れ、船に乗ってあの世や異国に還っている。その代表が、大国主命の右腕となって国作りをたすけた少彦名命(すくなひこなのみこと)だ。
この小さな神は、蛾の皮の丸剥ぎという奇抜なファッションに身をつつみ、ガガイモの実の舟(天之羅摩船(あめのかがみのふね))に乗って海の彼方から現れ、国作りを終えると常世国へと還っている。
・海に捨てられた神もいる。イザナギとイザナミの両神が最初に産んだのは水蛭子(ひるこ)、次が淡島だが、これらの神は子の数には入れられず、葦舟に乗せられて流された。
・女性の守護神として名高い淡島明神も、海に流された神の一人だ。天照大神の娘の彼女は、住吉明神に嫁入りしたが、下の病(性病)にかかって虚ろ舟に乗せられ、堺の浜から流された。漂着したのが加太の海岸で、以来、この地に祀られるようになったと伝えられるが、加太の淡島神社では、淡島明神とは少彦名命のことだといっている、また一説に、葦舟で流されたイザナギ・イザナミ神の子の淡島が淡島明神だともいう。
いずれも舟に籠ってあの世の一種である水界を渡る神という共通点がある。
注目されるのは、淡島明神の虚ろ舟だ。冒頭でも書いたとおり、虚ろ舟というのはタマの宿り場・子宮のことで、そのなかに聖なる存在(タマ)を宿して守護するという働きをもっている。
少彦名命の羅摩船、淡島の葦舟、淡島明神の舟はすべてこの“タマの宿り場”であり、こうした舟に乗ることの神話的な意味は、この世とあの世を行き来するために子宮に入るということ、舟に乗って沖に流されるのはあの世へ、浜に漂着するのはこの世へとやってくることなのだ。
・虚ろ舟に乗るのは、神とかぎったわけではない。
平安京の清涼殿に出没して天皇を悩ませていた妖怪の鵺(ぬえ)は、ゴーストバスターで知られた源頼政の弓矢にかかって殺されたが、のちに旅の僧の前に現れて、「私は空穂舟に押し籠められて淀川に流され、月日も見えない暗い道を漂っている」と、悲惨な境遇を愁訴している。
空穂舟とはなかが空洞になった丸木を舟に仕立てたもので、虚ろ舟と同じものだ。鵺のタマは成仏してあの世に渡ることを許されず、空穂舟という牢獄に閉じこめられて淀川に流されたのである。
・この場合の空穂舟(うつほぶね)は、あの世でもこの世でもない中間世界、仏教でいう中有にあたる。
仏教によれば、死者は49日の待機期間をへて、極楽なり地獄なりのあの世の住処に移ってゆく。あの世の住処が決まるまでのモラトリアム期間を中有といい、その間、死者は薄明の世界で次の人生のスタートを待つのだが、魂を空穂舟に閉じこめられた鵺の中有は、49日では終わらない。そこから出ることが許されないかぎり、鵺は永遠に中有をさまよいつづける。この場合の空穂舟は、タマの誕生をはばむ“暗黒の子宮”と化すのである。
<“UFO”との遭遇>
・虚ろ舟が浜に上がったという話が、江戸時代にいくつか書かれている。
最も著名なのは、享和3年(1803)2月22日に常陸国はらやどりの浜に引き上げられた謎の虚ろ舟で、滝沢興継がレポートし、親父の馬琴が『兎園小説』に収録している。
この虚ろ舟は一部のオカルトマニアの間で「江戸のUFO」と呼ばれてきたものだが、UFOは20世紀のあの世である宇宙と、20世紀のこの世である地球を往来する“新型虚ろ舟”だから、要するに同じものだ。なにはともあれ、舟の詳細を琴嶺舎のレポートに沿って見ていこう。
・地元の漁師らが沖から引き上げてきた舟は、お椀状の容器を重ねた円盤のような恰好をしており、大きさは三間あまり(約550センチ)。上部は格子状の硝子張りで、松ヤニを用いて塗り固めてあり、底は鉄板を段々にして筋状に張り合わせてあるという頑丈なつくりになっている。
舟内には、だれも見たこともない異様な女性がいた。桃色の肌で眉と髪は赤く、白くて長い付け髪を背中のほうに垂らしている。言葉は一切通じない。2尺4方(約60センチ)の箱をとても大事そうに抱えていて、これにだけは人を近づけないが、あとは無頓着で、見知らぬ者にとり囲まれてものどかに微笑んでいたというから、普通の人間でないことだけはたしかだ。
漁師たちは、彼女をどうしたものかと話し合った。このとき土地の古老が、なんとも愉快な意見を唱えている。彼女は他国に嫁いだ南蛮国の王女で、嫁ぎ先で不倫事件を起こしたため、虚ろ舟に乗せられて流されたものだろう。箱の中身は処刑された不倫相手だろう、というのだ。
どんな思考回路でこの妄想を思いついたのか知らないが、知恵分別があるはずの古老でこれなのだから、話し合いがまともなものになるわけがない。結局は「なにも見なかったことにしよう」と衆議が決した。そこで彼女を舟にもどし、沖まで引っ張っていって潮に流したというのだ。
・これに類した話は、実はほかにもある。伊勢国出身の医者の橘南谿(たちばななんけい)によると、越後でも「白木の箱作りの空穂舟」が浜に漂着したことがあったという。
乗っていたのは16、7歳ほどの少女。容貌は不明だが、美少女であってもらわないと話がもりあがらない。
・少女は浜の人々に、これまで4度、海岸に流れついたが、4度とも海に突きもどされたと訴え、救いを求めたという。けれどもこの住民たちも、後難を恐れて「なにも見なかった」ことにし、空穂舟を海に押しもどしてしまったというのだ。
・この話は、馬琴の息子がレポートした常陸国の一件より前の出来事だ。
橘南谿にこの話をしてくれた越後の倉若三郎左衛門という人によると、北方の海の海岸には「ときどきこういうことがある」そうで、6年前にも黒塗りの空穂舟が漂着した。これには何国人とも知れぬ男の大入道が入っていたというから、空穂舟の乗員は女とはかぎらないようだ。
馬琴は息子のレポートの頭注で、虚ろ舟の蛮女を「ロシアの属国あたりの女性ではないか」と推察している。
・そうだとしたら、虚ろ舟の女性たちは神的な存在ということになるが、男の大入道は神かどうかわからない。空穂舟に封じられた鵺の例もあるし、瓶や壺に封印された魔物の話も世界中にある。漁師たちが後難を恐れて舟を元のように流したのは、考えてみればもっともな行動なのである。
<時空を超える沓(くつ)>
・UFOもどきの虚ろ舟の話が出たついでに、空飛ぶ船についても少し書いておきたい。
日本神話には、さまざまな空飛ぶ船が登場する。
ニニギにさきだって河内国に天降った天孫ニギハヤヒの乗り物は、天磐船(あめのいわふね)だった。空飛ぶ船の神格化である鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)(天鳥船神(あめのとりふねのかみ))はイザナギ・イザナミ両尊の子で、建御雷神(たけみかづちのかみ)といっしょに地上に天降り、天孫に従わない土着の神たちを平らげるという大仕事をなしとげている。ほかにも、鳥磐櫲樟船(とりのいわくすぶね)や天鳩船(あめのはとぶね)など多くの“UFO”が、『古事記』や『日本書紀』に見えている。
・これらの船に鳥という語が付されているのは、たんに空を飛ぶからではない。古代人にとって、鳥は典型的な霊魂(タマ)のシンボルだった。その霊魂である鳥を運ぶもの、“タマの容れ物”が船だから、その名に鳥の字が付されているのだ。
ただし、これらの船が宇宙や他の天体で活動するという話は、この国にはない。日本人の宇宙に対する関心は、元来きわめて薄い。記紀神話に星の神がほとんどいないことからも、関心の低さがわかる。
よくいわれることだが、日本のあの世は、欧米のあの世とは大きくちがっている。欧米のあの世は、はるか地の底から星々が煌めく天空の彼方まで、垂直に積み重なっているが、日本のあの世は、海の彼方や奥山のむこうなど、“平面上の彼方”にあるものと考えられてきた。
・そうした人間界と隣り合わせのあの世のひとつに、龍宮がある。
龍宮への乗り物といえば亀と相場が決まっているが、江戸時代の徳島には、人を龍宮に運んでくれるという摩訶不思議な沓(くつ)があった。
持ち主は泊甚五右衛門(とまりじんごえもん)。水練の師範役として代々藩主の蜂須賀(はちすか)候に仕え、千石の大禄を食んできたという徳島藩の名家の当主だ。
泊家では、この沓は龍宮の王から賜ったものと言い伝えている。
・家宝の沓に関して最も不思議なことは、毎年正月元旦に龍宮への参賀がおこなわれることだ。当主の甚五右衛門は、元旦になると紋服・羽織袴で威儀をただし、秘蔵の沓を履いて海浜に出かける。見送りの郎党門人はもちろんのこと、黒山をなす見物人も固唾を飲んで見守るなか、甚五右衛門は静かに海へと歩を進め、そのまま海中に身を沈めていく。やがて高浪がやってくると、浪のなかに甚五右衛門の姿が消えるのである。
それから7日後になると、またこの浜に出迎えの郎党門人と見物人が集まってくる。
やがて彼の視線の先の海面に、ぽこっと甚五右衛門の頭が現れる。それから上半身が現れ、両手で浪を抜いて泳いでくる。元旦に来ていった
紋服・羽織袴が潮水で濡れているほかは、なにひとつ変わったこともない。
こうして毎年、甚五右衛門は尋常ならざる龍宮参賀をつづけているが、自在に海を行き来できるのは、すべてこの沓のおかげだというのである。
<江戸版“幽霊タクシー”の怪>
・今日なら幽霊タクシー、明治なら幽霊人力車にあたる幽霊駕籠という妖しい乗り物もある。書いているのは井原西鶴だ。
それは真新しい女駕籠で、なかに22、3の垢抜けた都会風の美人が乗っている。話しかけても返事をせず、黙ってうつむいているが、色香に魅せられて乱暴に及ぼうとすると、とたんに女の左右からヌッと蛇の頭が出てきて、狼藉者に喰らいつく。咬まれた男は目が眩んで昏倒し、長く枕が上がらなくなってしまうというのだ。
女駕籠は神出鬼没で、今日は池田の里の東、翌日は呉服の宮山の衣掛松の下に停まっていたかと思うと、次には瀬川宿の砂浜、翌日には芥川、ついで松尾大社の社前、さらには丹波の山近くと、自在に飛び回る。
なかの美女も、愛らしい童女に変わったり、80過ぎの翁になったり、二つ顔のバケモノや目鼻のない姥になったりと、見る人ごとに姿を変えるのだ。
この駕籠は妖女専用で、他の客を乗せることはないが、旅人の肩に駕籠かき棒がふいに乗っかかって離れなくなることはある。重くはないが、一町ほども行くとなぜかどっと疲れが出て、足腰が立たなくなる。
・駕籠の形状から明らかなように、これも新手の虚ろ舟の一種だろう。なかに乗っている美人は住吉の女神なのだろうか。いまやすっかり零落して素性も知れなくなっているところが哀れを誘う。
江戸時代には、多くの神々が古代の聖性を失い、妖怪化して物語や見世物などのエンターテインメントに駆り出されるようになった。
なんとも奇抜なファッションが、承応(1652~54年)ころの江戸で流行している。地獄染めという。
閻魔王をはじめとする地獄の十王、亡者の善悪の判別役である見る目かぐ鼻、浄瑠璃鏡、業秤にかけられた亡者などといった図柄を染め抜いたもので、「高きも卑きも、老若男女の差別なく」この異様なファッションに飛びついた。さらにエスカレートして、墓場の景観そのものである卒塔婆染めや五輪染めが現れ、しまいには「化野(あだしの)に髑髏」といった悪趣味な図柄を染めたものを着飾り歩く者まで出てきたというからすごい。
(2019/8/27)
『裏昭和史探検』
風俗、未確認生物、UFO
小泉信一 朝日新聞出版 2019/3/7
<未確認生物をたどって>
<ヒバゴンはいとしく、永遠に>
・日本国内で目撃された未確認生物の中で、ヒバゴンもまた強烈なインパクトを残した。特徴がすごい。逆三角形の顔に鋭くつり上がった目。体長1.5~1.6メートルほどで全身毛むくじゃら。二本足で歩き、ゴリラのようにも見えたという。
目撃場所は中国地方の比婆山一帯。広島県旧西城町(現・庄原市)の観光協会に当時の証言記録が残っている。
<自動車の前を、子牛ぐらいのゴリラに似たものが横切ってのう。谷の方へゆっくり、わしの方を見ながら歩いていったんじゃ>(1970年7月20日、最初の目撃者)
・<墓地でのう、草刈りをしとったらカサカサと音がしたんじゃ。異様な顔をしたものがわしの方を見とるじゃないけえ。たまげてのう……>(3日後、2番目の目撃者)
・やがて第3の目撃者が現れる。約30メートル前方に見えた黒い人影。「きっと、もらい風呂に来た隣のおばあさんじゃ」と思って声をかけたが返事はない。薄暗がりの中をゆっくり歩いてくる。全身毛むくじゃらで顔は逆三角形の生き物が立っていた。ゴリラがよくやるように両手を肩に上げ、ひじを張っていたという。
証言も生々しい。
<一目散に家まで逃げ帰ったんじゃが、あいにく家族は大阪の万博見物に出かけた後でのう。家の中は暑かったが、恐ろしいので我慢して雨戸を締め切ったんじゃ。ありゃ見たもんでなけりゃ、あの恐ろしさはわからんよ>
・地元紙が報じるとマスコミ各社が押しかけ、静かな里は騒然となった。子どもたちは集団で登下校し、警察も連日パトロールだ。発見された足跡を広島県警の鑑識が調べたところ、足の長さは約27~30センチ、幅約15センチだったという。
役場は住民の相談や外部からの問い合わせの窓口として「類人猿相談係」を設けた。特に目撃情報が集中した住民地区には、目撃した場合には「迷惑料」として5千円を支給した。問い合わせが殺到し、農作業などの手を休めざるをえないからだった。
「足跡を見つけた」との通報を含め、目撃情報は75年までに20件あった。だが情報は次第に途絶え、この年6月、町は「ヒバゴン騒動終息宣言」を出し、係も廃止した。
・担当者として現場を駆け回っていた恵木剋行(72)はいう。「原生林を切り開いて開発がされとった。山の神さまが怒って、使いに出したのがヒバゴンじゃないか、といううわさもあった」。比婆山は、女神イザナミノミコトが眠る信仰の山である。
21世紀になり、作家の重松清が騒動を題材にした『いとしのヒバゴン』を執筆。後に映画化され、市町村合併に揺れていた2004年、旧町民の約4分の1がエキストラで出演して撮影が行われた。観光協会事務局長の前田忠範(52)は「目撃者の多くはすでに亡くなったが、ヒバゴンは過疎化で失われかけた町民の結束を強めるために現れたのではないか。あの時代に何があったのかを子どもたちに語り継ぎたい」という。
ヒバゴンよ、永遠なれ。
<木か気か、奄美のケンムン>
・「ケンムン」も同じことが言えるかもしれない。東京から南西へ約1300キロ。鹿児島・奄美の島々に伝わる「妖怪」「木の精」である。
・ページをめくっていたら、全身毛むくじゃらで頭に皿をのせた、かっぱのような絵が出てきた。「これがケンムンです。文献上で最も古い記録です」と博物館職員。
・ケンムンについて書かれた文献があると聞き、奄美市立奄美博物館を訪ねた。
・別のページには人間の手を引いているケンムンの絵があった。「島人迷いし方に山野に引き迷わす事あり」と書いてあるので、人間に危害を加えることもあったのだろう。
言い伝えによると、ケンムンは魚の目玉が好物。相撲も好きで人間を見ると勝負を挑んでくる。苦手なものはタコ。ガジュマルなどの巨木に棲み、森を荒らしたりすると目をつかれるという。
子どもを救った話もある。瀬戸内町在住の男性(36)が、小学生のときの事件を教えてくれた。1学年上の先輩が学校の裏山に入ったきり行方不明になった。「神隠しにあったのでは、と大騒ぎになった。でも1週間ほど経ってから先輩はかなり離れた場所で見つかった。ケンムンが食べ物を持ってきてくれたそうです」と男性は言う。
<6人が「実際に会った」>
・面白いデータがある。奄美大島の小学6年の少年が島民106人にアンケートをしたところ、8割以上が「ケンムンはいると信じている」と回答し、実際に会ったという島民は6人いた。
この調査は2010年1月、優れた地域研究に贈られる東京都板橋区の「桜井徳太郎賞」小・中学校の部で佳作を受賞した。
・調査によると、目撃場所は民家の庭や海の近く、川や田んぼとさまざま。生臭いにおいが漂っていたそうである。共通するのは①背丈は人間より少し小さなサルくらい②全身は毛で覆われ、手足がとても長い――という点だった。
・ケンムンはニュースにもなった。10年2月14日の南海日日新聞。社会面に「ケンムンの足跡?」との記事が載った。見つかったのは、奄美市名瀬の砂浜。竹筒を押しつけたようなくぼみ(直系5センチほど)が、約20センチの間隔で約20メートル先の岩場まで点々と続き、岩の後ろに回ると、さらに山裾まで続いていたという。
・写真を鑑定した元奄美市立奄美博物館長の中山清美(故人)は「明らかに犬や猫の歩幅でもなく、ヤギでもない。どの動物にも該当しない。やはりケンムンだろうか」と述べた。
・ケンムンは、青いよだれが光るという。「火の属性」も持っており、指先から火をともすこともできるそうだ。
加計呂麻島で民宿を営む中村隆映(62)も学生のころ、山の尾根伝いにいくつもの火が隊列のように連なっているのを何度も見た。
・海上で、赤々といさり火をともしたモーレイ(船幽霊)もケンムンの仕業なのだろうか。その火は蜃気楼のようにいくつにも分かれ、集まってくることもあると伝わる。
海岸で塩炊きやイザリ(夜の磯漁)をしていると、いつのまにかケンムンが近寄ってくるという話も耳にした。「大きな貝殻が無数に散らばっていることがあったそうです。ケンムンが食べたのでしょう」と奄美市在住のイラストレーター辻幸起(50)。
<UFO伝説をたどって>
<核の脅威を考えた三島由紀夫>
・だが作家の三島由紀夫は表明していた。「空飛ぶ円盤の実在か否かのむずかしい議論よりも、現代生活の一つの詩として理解します」
1955(昭和30)年7月に結成された「日本空飛ぶ円盤研究会」のメンバーだった。名簿の職業欄は「文士」、会員番号は「12」。2002年まで活動を続けたこの会は、作家の星新一や「日本の宇宙開発の父」とよばれた糸川英夫も加わり、一時は1千人の会員を擁したともいわれる。
・三島は「円盤が現れるかもしれない」という情報が入ると、自宅の屋上に上り、双眼鏡を手に空を観測。57年6月、日比谷の日活国際会館屋上で行われた「第3回国際円盤観測会」にも参加した。
翌58年、米国から帰国。夕刊紙「内外タイムス」の取材に答えた。「アメリカでは円盤を信じないなんてのは相手にされないくらい、一般の関心も研究も盛んですよ。ラジオでも午前1時の深夜放送に円盤の時間があるからね」
・みずからの人生と肉体をもって思想を現実化させようとした三島。およそ純文学の世界になじまないように思われる空飛ぶ円盤に本格的な興味を抱いたのは、フランスの新聞記者A・ミシェルが書いた『空飛ぶ円盤は実在する』(56年、邦訳)を読んでから。だが宇宙に関する「ファンタスティックな興味」はすでに少年時代、新感覚派の稲垣足穂の小説によって養われていた、という。
「空にはときどき説明のつかぬふしぎな現象があらわれることはまちがいない」と三島。
・64年4月、円盤観測の仲間でもあった劇作家の北村小松が亡くなったとき、朝日新聞に寄せた弔文に書いた。「空飛ぶ円盤も無駄ではなく、これら飛行物体が、氏の、人間に対する澄んだ鳥瞰的な見方を養ったのであろう。北村さん、私は今あなたが、円盤に乗って別の宇宙へ行かれたことを信じている」
『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』など数々の作品に隠れ、目立たないかもしれないが、三島には異色のSF小説『美しい星』(62年)がある。埼玉県飯能市に住む資産家一家が円盤を目撃したことから、実は自分たちが別の天体から飛来した宇宙人だったことに気づくという物語だ。そして、人類を核戦争の脅威から救うため、さまざまな活動を始める。
当時は東西冷戦下。破滅に向かって突き進もうとする人類に警鐘を鳴らそうとしたのが『美しい星』だった。作品には、日本空飛ぶ円盤研究会の存在が深くかかわっていた。三島はUFOを探しながら核戦争のことを考えていたのではないか。
<理解されない「高遠なる趣味」>
・熱海(静岡県)でも夏、三島はホテルに双眼鏡を携え、毎晩、夜空を観察していたそうである。「ついに目撃の機会を得ませんでした。その土地柄からいっても、ヘタに双眼鏡に凝っていたりすると、疑われて困ります。世間はなかなか高遠なる趣味を解しません」。
・さて、取材を進めるうちに、実際に空飛ぶ円盤を見たという人に会った。元建設機械メーカー社員の小林一三(81)。75年5月5日夜、妻と2人の子どもを連れ、マイカーで自宅に帰るときだった。前方に、ものすごく大きな赤い光が点滅していた。パトカーかと思い、車を路上に止め、様子を見に行った。
「距離にして数百メートル。浮いていて、大きな窓が三つありました。車に戻ってパッシングすると、物体は急に夜空のかなたに消えていきました」
<空飛ぶ円盤、光るわけは>
・2017年9月、私は福島市飯野町にある「UFOふれあい館」を訪ねた。資料約4千点。「日本空飛ぶ円盤研究会」の会長を務めた荒井欣一(故人)が寄贈した蔵書や、UFOの模型もあり、愛好家にはうれしい。作家の三島由紀夫が双眼鏡を手に、観測会に参加している貴重な写真も展示されている。
福島市に合併する前の飯野町がUFOでの町おこしをめざし、92年、ふれあい館をオープンした。場所は町の北側にそびえる「千貫森」(標高462メートル)という山の中腹。きれいな円錐形の山で、ピラミッドなどの人工建造物のようにも見える。場所によってはコンパスが正常に働かない磁場があるそうだ。
・「ひかりもの」という発光体が目撃される場所としても知られていた。
木下は館長を10年にリタイアしたあとも、UFO研究家として子どもたちに科学の楽しさを教えている。
<茶色い顔で「キュルキュル」と>
・木下が目撃したという物体は帽子のようにも見える「ヘルメット型」である。
25歳だった1972年の夏、安達太良連峰の箕輪山を登っていたときのことだ。山頂付近に銀色に光る物体が30秒ほど空中で停止していた。だが目をそらしたすきに、物体の姿は消えていたという。
・別荘地の管理人などの仕事をしながらUFOの研究をしていた木下は93年、館長として「UFOふれあい館」に招かれた。館内には「主要目撃事件全国図」と書かれた大きな日本地図が展示されている。
<函館市(北海道)S25・8・3 函館駅 助役が青白い光を目撃>
<羽咋市(石川県) S62・6・10 沖合を蛍光灯のように光る葉巻型のUFO目撃>
場所と日付、そのときの様子が説明されている。UFOが現れた場所は全国に散らばっているものの、やはり人口が少ないところでは、目撃情報もまばらになるようだ。
・甲府市では75年2月23日、小学生が宇宙人に肩をたたかれるという事件があったそうだ。館内を案内してくれた飯野町振興公社の事務局長・菅野利男(67)に聞くと、「甲府事件です」。その日の午後6半ごろ、地元の小学生2人がブドウ畑の近くに着陸しているUFOを目撃したという事件である。
当時の証言をもとに再現すると、物体の大きさは直径約2.5メートル、高さ1.5メートル。扉が開き、中から「宇宙人」が降りてきたという。顔は茶色、深い横じわがあり、銀色の牙が生えていたという。「キュルキュル」というような声で話しかける。1人は後ろから肩を2回たたかれた。
怖くなった2人は慌てて家へ逃げ帰る。しばらくして父親と一緒に現場に行くと、すでにUFOはいなかった。何かが着陸したような複数の穴が開いていたという。
・もちろん、この話をそのまま信じていいのかどうかは分からない。70年代は全国で円盤の目撃情報が飛び交い、マスコミ報道も過熱していた。一種のUFOブームの中では、ひとつの目撃談が別の目撃情報を呼ぶようなことが起きたのかもしれない。
・この時代の「伝説」として、いまも語られているのが高知の「介良(けら)事件」。田んぼに落ちていた小型UFOを中学生たちが捕獲したという事件である。
<中学生が捕まえた小型物体>
・高知県東部の介良地区で、1972年8~9月に起きたとされる「介良事件」である。
当時の証言を総合するとこうなる。事件の中心は13~14歳の中学生の少年たち。1人が夏の日の午後、田んぼの上にふわふわ浮かんでいる物体を目撃した。翌日、数人で確かめに行くと、田んぼの真ん中に落ちていたという。1人が袋に詰めて家に持ち帰り、保管した。だが、あとでふと中を見ると消えていた。
どこに行ったのか。捜すと、物体はまた田んぼに落ちていた。再び袋に入れて自宅に持ち帰ったという。
物体は手に載るほどの大きさ。捕まえては逃げられるということが、何度か繰り返された。そのうち最後はどこかへ消えてしまった。事件にかかわった少年は全部で9人という。
・介良事件があった70年代は空前のオカルトブームが起きた時代。作家の五島勉が書いた『ノストラダムスの大予言』がベストセラーとなり、スプーン曲げの「超能力者」ユリ・ゲラーや、「人か猿か!」で話題になったオリバー君も来日し、日本中を騒然とさせた。
<天の災い? 漂着の「うつろ舟」>
・UFOはしばしば世の中をにぎわせてきた。米国のメディアが目撃談を報じた「ケネス・アーノルド事件」が起きたのは、第2次大戦後の1947年である。だがこれより、140年以上前の日本でも、不思議な物体の存在が人々の間でうわさになっていた。
「常陸国うつろ舟奇談」と呼ばれる。1803年、円盤のような「乗り物」が現在の茨城県の海岸に漂着。異様な服装の女性が箱を抱え、中から現れたという事件である。
言い伝えによると、乗り物の幅は約5.5メートル。上部にガラスとみられる窓があり、下部には鉄板が施され、中には不思議な文字も書かれていた。驚いた村人たちは「天の災いだ」と思ったのだろうか。女性を再び乗り物に乗せて沖に押し流し、幕府の役人には内緒にしていたという。
だが事件は注目を集める。きっかけは1825年(24年とも)、江戸で開催された「兎園会」。一流の文人たちが不可思議なうわさ話を持ち寄って披露する風変わりな会だ。その中で紹介されたのが「うつろ舟奇談」だった。
会の主宰は、伝記小説「南総里見八犬伝」の作者で知られる滝沢馬琴。馬琴が編者になったとされる風聞集「兎園小説」の中でも、この話は「うつろ舟の蛮女」として絵入りで紹介された。
民俗学者の柳田国男は論文「うつぼ舟の話」(1926年)の中で、絵に描かれた文字が世界のどこにも存在しないことから「駄法螺」と切り捨てた。だがその後、同じような内容を伝える江戸時代後期の古文書がこれまでに約10点あちこちから見つかっている。しかもほとんどの文書に「舟」と「箱を抱える女性」、解読不能の謎の「異形文字」という3点セットが描かれているのだ。
UFOマニアの中には「宇宙人が乗り物に乗っていた」と言う人もいるが、さすがにそれは荒唐無稽だろう。とはいえ、何かしらあったのだろう。事件が起きたのは、江戸幕府が鎖国政策を敷いていた時代。開国前だったが、日本近海では外国船がしきりに現れ、日本との通商を求めていた。異国船打払令が出されたのもこのころである。
・科学的立場から「うつろ舟奇談」を研究している岐阜大名誉教授の田中嘉津夫(70)は「仮に作り話であったにしても、このような奇怪な形の舟を江戸時代の人たちが空想だけでここまで具体的に描くことは、難しいのではないか。何らかのモデルがあったのではないか」と指摘する。
乗り物が茨城県のどこに漂着したのか。場所の特定は難しいとされてきたが、実在の地名が記載された史料が、甲賀流忍術を伝える古文書とともに保管されていたことが2014年にわかった。
そこには「常陸原舎り濱」とある。伊藤忠敬が江戸時代後期に作った地図「伊藤図」にも記された地名で、現在の茨城県神栖市波崎の舎利浜にあたる。鹿島灘の南部。利根川を挟んで、千葉県銚子市にも近い。
私は現地に向かった。
<言葉が通じない謎の美女>
・乗り物から現れた女性についても書いている。18~20歳ほどで、顔色は青白く、眉毛や髪は赤い。美人だが、言葉は通じなかった。「鎖国下の日本へ漂着した外国人は、文字どおり異界からの使者でした」と学芸員の林知左子はいう。
茨城には言い伝えがある。海を越えて養蚕をもたらしたという女神「金色姫」伝説である。鹿島灘に近い星福寺には金色姫の像もまつられている。箱を持っており、中には蚕が入っているという。「うつろ舟」のモデルは金色姫ではないかとの見方もある。
・舎利浜を訪ねたあと、私は再び銚子に戻った。レトロな銚子駅電鉄に乗って関東最東端の犬吠埼に向かう。犬吠埼から徒歩約15分。太平洋の大海原を望める「地球の丸く見える丘展望館」に着く。ここではこれまでに何度かUFOを呼ぶイベントが開かれた。
「夜、開催したこともありました。南の空に発光体が複数出現したのです。合体と分裂を繰り返し、水平線のかなたへと消えていきました」と館長の渡辺博季(59)。
ところで、犬吠駅の隣駅は「ロズウェル」と愛称がついている。渡辺に尋ねると、「1956年に起きた銚子事件がもとになっています。日本のロズウェル事件と呼ばれているのです」。
ロズウェル? 一体何のことなのだろう。
0コメント