女性の守護神として名高い淡島明神も、海に流された神の一人だ。天照大神の娘の彼女は、住吉明神に嫁入りしたが、下の病(性病)にかかって虚ろ舟に乗せられ、堺の浜から流された。(2)
<「ロズウェル駅」の由来は>
・太平洋に突き出た犬吠埼(千葉県銚子市)。
・UFO愛好家にとってもロマンチックな場所である。「UFOの目撃情報が多い」と銚子市観光協会事務局長の吉原雅樹(54)。銚子電鉄の君ヶ浜駅には「ロズウェル」という愛称までついている。
1947年に起きた「ロズウェル事件」にちなむ。米ニューメキシコ州ロズウェル近郊にUFOが墜落し、宇宙人の死体を回収したとされる事件だ。だが米空軍は半世紀後の97年、墜落したのは高度飛行用気球であり、宇宙人とされるのは実験用マネキンだったとの報告書を発表した。
・犬吠埼に近い「地球の丸く見える丘展望館」には、56年に起きた「銚子事件」についての展示がある。9月7日午後7時ごろ、市の上空を飛ぶ物体を多くの人が目撃し、小さな短冊状の金属片が降り注いだという事件だ。
「ちょうど火星の大接近が日本中で話題になり、市民の多くはあの夜も空を眺めていた。ちょっとした宇宙人ブームも起きていました」と館長の渡辺博季は言う。
<あの酒場詩人も……>
・小学5年の時、母親と絵の先生に連れられ、隣町まで映画を見に行った帰り、月明かりを頼りに2人の後ろを歩いていると、山の端から大きな物体がぬっと現れ、夜空を切り裂くように去っていった。赤く大きく光る「火の玉」のようだった。
・北海道南西部の渡島半島にある八雲町もその一つ。函館市と室蘭市のほぼ中間に位置し、太平洋と日本海に挟まれる唯一の町だ。山も多く、天候の変化が激しい。雲がたくさんわき上がるので、自然現象をUFOと見間違える人も多い。うさんくさいかもしれないが、このあたりでUFOがよく消えることから、マニアの間では「UFOの墓場」とさえ言われていた。
JR八雲駅前の喫茶店の店主が教えてくれた。「すごかったのは昭和50年代。東京からもマスコミが詰めかけ、山の上からテレビ中継が行われたときもあった。最近は静かだね。夜空も見なくなった」
<地球が平和だからこそ>
・県境を越え、JR鹿角花輪駅前に地元ラジオ局「鹿角きりたんぽFM」のスタジオが見えた。
出迎えてくれたのはサングラスをかけた白衣姿の男性。名刺に「鹿角不思議研究所」と書かれている。「所長のKです」と男性は言う。「光りもの」と呼ばれるUFOの目撃証言が多いとされる鹿角。地元にちなんだ不思議な話題をリスナーに伝える番組を「K」は担当している。「鹿角は東北でも指折りのミステリースポットです」
Kの案内で「日本のピラミッド」説もある黒又山に向かった。
<テキヤ 口上と芸で稼ぐ職能人>
・1928(昭和3)年、東京の下町で生まれた故・渥美清(本名=田所康雄)は戦後の混乱期、闇市が並んだ上野の「アメヤ横丁」かいわいでよく遊んだ。祭りや縁日があると、テキヤのタンカバイ(啖呵売)を一つひとつノートに書き写し、頭にたたき込んだそうである。
たとえば「黒い、黒いはナニ見てわかる。色が黒くて、もらい手なけりゃ、山のカラスは後家ばかり……」。
・トントントンと、たたみかえるような七五調のリズム。意味がわからなくても心地よくすーっと耳に入ってしまい、思わず財布のひもをゆるめてしまう。見るからにあやしげなのに、どこか愛敬のあるテキヤが昭和の街にはあちこちにいたのである。
・私が育った門前町の川崎大使(川崎市)でも、祭りや縁日ともなると、そこだけが「異界」のような空間が現れた。
・「テキヤ」は、「香具師」と書いて「やし」とも呼ぶ。単なる露天商ではない。道端での口上や芸をもってカネを稼ぐ職能人である。
諸説あるが、仏教の教えをわかりやすく説きながら香や仏具を売り歩いた武士が「香具師」や「野士」と呼ばれるようになったのが始まりとされる。薬の行商人が「薬師」といわれ、縮まって「やし」になったともされる。
それが「テキヤ」と呼ばれるようになったのは明治以降らしい。「やし」は「ヤー的」という隠語として使われるうちに逆さになったという。当たれば大きな利益を得ることから、的に矢が当たることになぞらえ「的屋」になったという説もなかなか説得力がある。
佐賀に住む古参のテキヤは、バナナの競り売りで財を成した。色つきや形を見せながら「サァサァ買うた、サァ買うた」などと七五調の節をつけ、競るようにして売ったのである。大卒初任給が月1万円強だった昭和30年代、1日2㌧のバナナを売り、2万円稼いだこともあった。8時間立ちっぱなしで800~1千房も売ったそうである。
・だが雨が降れば雨に泣き、風が吹けば風に泣く。失業保険も退職金もない。明日をも知れぬ人生。そんなテキヤの守り神は、『香具師の生活』(添田知道著)によると、中国の神話上の存在「神農」である。百草をなめて医薬を知り、路傍に市を開いて交易を民衆に教えたとされる。同書が出たのは、東京五輪が開催された64(昭和39)年。都会で暮らす人々にとってテキヤのような生活は「古くさい」とみられていたのではないか。
・とはいえ、舌先三寸で人の足を止めさせるテキヤのすごみに、のちに「フーテンの寅さん」で国民的な人気者になる渥美は魅せられた。私が子どものころに見た「ヘビ女」たちもテキヤの世界では階級が高かった。「タカモノ(高物)」と呼ばれる仮設興行の世界に属し、多くの人を集めるので祭りの花形とされていたのだ。
・寅さん映画にも出てくるが、「ネンマン(万年筆)売り」という商いもあった。路上に並べられた泥だらけの万年筆。勤め先の工場が火事で倒産し、焼け跡から使える万年筆を掘り出してきたという経緯を語り、妻や子を抱えて生活が苦しいという窮状を切々と訴える。客の同情を買い、モノを売るという手段だ。万年筆は粗悪品が多く、すぐに使えなくなった。
<だまされるのは織り込み済み>
・角帽に詰め襟の学生服でしくしく泣いていたテキヤもいた。「どうしたんだ?」と通行人が心配して声をかけると、「ハハキトク」と書かれた電報をポケットから取り出す。「切符を買うゼニ」をせしめるニセ学生である。
「千里眼」という占いのような商売もあった。紙に質問を書かせる。「私はなぜ女にもてないのか」。その紙をロウソクであぶると「鏡をよく見ろ」と文字が浮かぶ。実は、あらかじめ言葉が刷り込んであった。
「そんな遊びを楽しむ心のゆとり、いまのニッポンに必要なんじゃないですか」
私にそう教えてくれたのは、俳優の故・小沢昭一だった。「だまし」「だまされる」のは織り込み済み。悪質きわまりない「オレオレ詐欺」とは違う。
<大衆文化・芸能担当>
・さて私は朝日新聞の編集委員で大衆文化・芸能担当である。色物芸、放浪芸、旅芝居、演歌・昭和歌謡、酒場、キャバレー、戦後のストリップ史、民俗、怪異伝承………。難しい哲学やお堅い政治問題にも「大衆」の視点で斬り込む。大切なのは権威とは無縁な大衆の情念。これからも「論」ではなく「情」で記事を書きたいと思っている。
『怪異とは誰か』 怪異の時空
茂木謙之介、一柳廣孝 青弓社 2016/12/21
<三島由紀夫とオカルト言説 松下浩幸>
<―—「2・26」表象をめぐって>
<はじめに>
・三島由紀夫という作家が、常にその自決という人生の結末とセットで語られることは、ある意味では物語のような人生を目指した彼の狙いどおりだったかもしれない。劇的なドラマ性によって自己の生と死を演出し、その意味を探ろうとする言説や情報がメディアで再生産されることで、作家・三島由紀夫は奇妙な神格化をされることになる。本章ではそのような三島の奇異なよみがえりの例(霊)を入り口に、三島がその演技性のモデルとして見いだした2・26事件の首謀者の一人、磯部浅一との関わりについて考察してみたい。
<<予言者>としての三島由紀夫>
<呼び出される<三島由紀夫>>
・(太田千寿の「霊界通信」シリーズ)
『三島由紀夫の霊界からの大予言』日本文芸社、1984年
『三島由紀夫の霊界からの大予言 続』日本文芸社、1986年
『宇宙創世と命の起源——三島由紀夫の霊界通信』日本文芸社、1986年
『三島由紀夫の新・霊界からの大予言――1999年8月、北斗七星が地軸を傾けさせる⁈』日本文芸社、1990年
『三島由紀夫の霊界からの大予言』日本文芸社、1994年
『三島由紀夫の(最新)霊界からの大予言』成甲書房、2009年
『太田千寿が解き明かす霊界と天上界の大真実』徳間書店、1996年
『尾崎豊の霊言・夢響き』さくら出版、1995年
『田中角栄の霊言――大いなるドン・平成のなげき』銀河出版、1994年
・小室直樹 『三島由紀夫が復活する』毎日コミュニケーションズ、1985年
・小室直樹『三島由紀夫と「天皇」』天山出版、1990年
・岡弓子『三島由紀夫――英霊の声』大宇宙真理学会、1972年
・辻村興一『追跡!三島由紀夫の霊界通信』日本文芸社、1985年
・アポカリプス21研究会『三島由紀夫と霊界パワー』広済堂1986年
・アポカリプス21研究会『三島由紀夫の死と謎』広済堂、1990年
・濱田政彦『神々の軍隊——三島由紀夫』三五館、2000年
・市村俊彦の『テレパシーの世界』シリーズ(三島の降霊)
・大川隆法『天才作家 三島由紀夫の描く死後の世界』幸福の科学出版
・椎根和『オーラな人々』茉莉花社、2009年(写真集)
・里中李生『成功を引き寄せる男の器量――三島由紀夫に学ぶ、あなたが変わる33のヒント』アールズ出版、2013年
・適菜収『ミシマの警告――保守を偽装するB層の害毒』講談社2015年
・太田は1946年、秋田県生まれ。その後、横須賀で育ち、銀行でのOL生活を経て結婚。一男一女の母となるも離婚し、80年ごろから自動書記や自動描画による霊界通信をおこなうことになる。のちに太田は自分自身が、三島の若くして亡くなった妹・平岡美津子の生まれ変わりであることを三島の霊から伝えられる。その霊界通信の内容は多岐にわたるが、大きく2つに分けることができる。1つは1999年8月2日、午後6時に地球のすべてのバランスが崩れ氷河期が到来し、人類は危機に瀕する。そのとき、人類のなかに善い因子は別の星に飛ぶが、反省できない因子は選ばれず、地獄と化した地球で苦しむことになるという。もう1つは「真秀呂場(まほろば)づくり」と称される人類救済のための魂のユートピアを、三島霊団なるものがオリオンの新太陽系に作るが、その中継ぎ地点が地球であり、さらにどの原点にあるのが日本、そしてその中心が富士山だという。富士山は霊界の神々の魂の砦であり、神と人間が交流することができる魂のよりどころだが、一度、地球は氷河期によって滅びなくてはならず、その後、再生した地球で選ばれた因子は邂逅するという。
しかし、1999年8月に何も起らなかったからか、太田はその後、「霊的な事情」によって心身のバランスを崩し、三島からの様々な指針があったにもかかわらず沈黙を続け、ようやく2009年11月に『三島由紀夫の<最新>霊界からの大予言』を発表する。
・肉食は控えて菜食にすべき、サタンや悪霊による攻撃を地球は受けていて、三島本人も現世ではサタンに操られ「ホモ体験」をしたというなど(ただし霊的に浄化した現在の三島はすでに魔を克服し、「真のエロス」のあり方を説く)、通俗道徳の域を出ない「お告げ」が多く見られるが、この太田の霊界通信には、先に見たような典型的な2種類の語りのパターンが援用されている。その1つは終末論的なものであり、もう1つは懐古的かつロマン主義的な時間意識による語りである。
・いわゆる終末論とは破壊よりもむしろ救済に本来の意図があり、この世が終わることによって到来する新しい世界による救済への賛美こそが、その本質であるとされる。太田の霊界通信が氷河期による地球の終わりを予言し、その果てに「真秀呂場」たる理想郷を設定しているのは、まさに終末論の定型である。また、終末論を体現する黙示録的な物語は、神に従う義人と神に逆らう罪人との2項図式によって成り立ち、終末時の最後の審判によって罪人と義人との勢力関係が逆転し、神に逆らう罪人は滅ぼされ、神に従う義人だけが新しく始まる喜ばしい世界に救い上げられる。太田の霊界通信もまたサタンや悪霊によって破壊された地球から、神に選ばれた因子とそうでない因子が選別され、選ばれた因子はオリオンにある理想郷へと誘われるというストーリーによって編まれているように、やはり黙示録的な構造を有している。
・黙示とは、隠された神的秘儀が特定の解読者に示される際の啓示を意味するが、太田の自動書記では隠された神的秘儀とは三島由紀夫からの「お告げ」であり、特定の解読者とは太田千寿を意味する。黙示的思考は歴史の終末と解放に至るサインを、社会不安や天変地異などの徴候によって読解し、歴史を予知可能なプロセスとして捉えるが、太田の霊界通信はその意味でも、典型的な終末論や黙示的思考を模倣しているといえる。さらに太田が唱える「真秀呂場」が万葉仮名風の古代和語であり、汚れのない地球を「火水花(ひすいばな)」と訓読みして呼び、「土を元に戻すこと、木による建物の世にすること、菜食生活に戻すこと。石油を掘らぬこと、(略)車を走らせぬこと。足にて歩くこと、(略)全てもろもろ昔の代に戻ることとなり」というように、富士山の霊力によって日本を特徴づけ、現状に対するペシミズムから過去の日本を賛美し、同時に人類の歴史は退廃を続けているというような、その時間意識は、まさに懐古的でロマン的な特徴を有している。
<三島由紀夫をめぐる「神話作用」>
・無論、三島のオカルト化とは、その意味の空白を一方的に埋められたことによって起こったわけではなく、三島サイドにもそのような解釈をもたらす要因があった。例えば、三島のオカルト性を担保する根拠としてよく利用されるのが、三島由紀夫(本命・平岡公威)の実父の手記のなかで紹介されている「家内」(公威の実母・倭文重(しずえ))からの次のような聞き書きである。「公威は処女作以来、発表する前に必ず私に原稿を見せるのがならわしでしたが、『英霊の聲』の原稿を見せに来たときのことです。「夜中にこれを書いていると、2・26事件の兵士の肉声が書斎に聞こえてきて、筆が自分でも恐ろしくなるように大変な早さで滑っていって、止めようと思っても止まらないんだ」と言うのです。何とないかねてからの不安が何とない危機感へと移って参りました」
『英霊の聲』は、青年の霊媒師と老練な審神者によって呼び出された2・26事件の青年将校と特攻隊員の霊が、天皇の人間宣言によって自らの忠誠心が裏切られたという怨念を告げる物語だが、三島自身がその霊に憑依されたかのようだったと身近にいた母が証言する。肉親からの報告でもあるこの言説によって、晩年の三島の異常さ(オカルト性)が信憑性を帯びたものとして示される。さらにもう1人、三島のオカルト性を担保する人物がいる。それは三島の盟友・丸山明宏だが、彼もまた同様に「ぼくは、実は去年、予言していたんです。1970年には三島先生が死ぬかもしれないって。みんな気をつけろ、なんていっていたんです。今年のお正月にも、先生につきものがついてて、ふりまわされている、偉いお坊さんを呼んでとってもらったほうがいい、なんていうことを話してたんです。(略)先生も『英霊の聲』を書いたときは、霊がついているのを感じたとはおっしゃってましたね。『英霊の聲』を書いて、書斎から出てこられたとき、先生に、兵隊の姿をした亡霊がついているといったら、顔色が変わっていましたね」と答えている。
・また、三島と親しかった文芸評論家の奥野建男も、「『英霊の声』を読んだときぼくは肌が粟立つような怖しさと嫌悪を感じた。こういう先品を書く三島由紀夫にはついて行けないという異和をおぼえた。何かに三島由紀夫はとりつかれ、正気を失ってしまったのではないかと思った。(略)その死者たちの言葉はそれまでの三島由紀夫であれば絶対に書くことのない、陳腐で定形的な文章である。激烈な表現を用いながら、そこに文学者としての三島由紀夫の心が少しも入っていない。誰か他人に書かされたお筆先という感じである。(略)もしかすると2・26事件の首謀者のひとりであった、あのすさまじい呪詛と怨念の遺書を獄中で書き綴った磯部浅一 一等主計の霊にとりつかれたのではないかと思いたくなるほどである」と述べている。
・肉親や身近にいた者たちによって報告されるこれらのエピソードが、その後、繰り返し流布されることで、三島のオカルト的特性が強められていく。そして、その際には必ずといっていいほど2・26事件の首謀者の一人、磯部浅一への言及が添えられる。事実、第1節で紹介した太田千寿の霊界通信でも「私、三島由紀夫は20年かかり、夜叉の道を捨て去ることができた。あれは、磯部浅一の憑依で、2・26事件の将校たちの真の命のほとばしりを垣間見ながらの行為であった」「磯部は夜叉王となった。地獄の奥深くまで体験した。だが、御魂はいっさい汚れなかった。私のよき側近だ。今は私を支えてくれる大切な御魂だ」という「お告げ」が紹介されている。
<同時代のなかの2・26事件>
・1966年、磯部の「獄中日記」に影響を受けて、三島が「英霊の聲」を書き上げたことはよく知られているが、その年の秋、仙台で新たに磯部の「獄中手記」が発見される。翌年2月、「文藝春秋」1967年3月号誌上で公開されたこの手記は、北一輝に強く影響を受けた磯部が、処刑までの1年半の間に獄中で記したものだが、事件に同情的だった看守たちによってひそかに外へ持ち出され、戦後、世に出ることになる。
<2・26ブーム>
・この「文藝」編集部の文章で興味深いのは、可否の理由としてともに当時の「2・26ブーム」を挙げていて、さらにそのブームがフィクションによってもたらされているという認識を示していることである。では、その当時の「2・26ブーム」を作ったフィクションとは何だったのだろうか。思うにそれは文芸作品を原作としながらも、広く大衆に影響力を持った映画だったのではないだろうか。表2にあるように、1950年から60年代にかけてはたびたび2・26事件関連の映画が作られている。表3の文芸作品とも相まって、当時はまさに「2・26ブーム」だったのである。
・歴史社会学者の福間良明はこの当時の映画を対象に、戦後の2・26事件の表象史を分析しているが、そこにはある特徴的な変化があるという。戦後の2・26映画の先駆けとなる『叛乱』(1954年)では、中心人物は軍の決起に最後までためらいを見せ、青年将校のなかの良心と称された安藤輝三であった。この映画では兵士思いの安藤と妄信的に決起を促す磯部浅一や栗原安秀との対立的構造が描かれている。
・また、フィクションの世界だけでなく現実の社会でも、1960年代は2・26事件の残像がある種の人々を動かす力をまだ持っていた。1961年12月、旧陸軍出身者らによって、のちに「三無事件」(国史会事件)と呼ばれるクーデーター未遂事件が起こる。「三無」とは、財政収縮と公社・公団の民営化による無税、大規模な公共事業の実施によって雇用が確保されるという無失業、そして武器開発によって外国からの侵略を阻止することで可能となる無戦争、という首謀者たちのスローガンに基づくものだが、彼らはひそかに日本政府の要人暗殺を計画していた。このことは当時、2・26事件のような軍事クーデターの記憶が、テロ行為のモチベーションとしてまだ機能していたことを示唆している。
・識者らのコメントでたびたび言及される事柄がある。それは「韓国のクーデター」といった文言である。これは同じ年の5月に韓国で起こった軍事クーデターのことだが、リーダーの朴正煕(のちの大統領)は創氏改名によって高木正雄という日本名を持つ日本陸軍士官学校卒の軍人である。三無事件の首謀者たちに、この隣国で起こった旧陸軍士官学校出身者によるクーデターは、強い影響を与えたことが想像できる。そしてさらにこの三無事件に三島由紀夫が影響を受け、のちの自衛隊市ヶ谷駐屯地の占拠を計画したともいわれている。つまりこの時期、軍事テロは決して絵空事ではないというような状況が、当時の日本にはあったということである。
そのような同時代的な文脈のなかに、三島の2・26青年将校への模倣という出来事を措いてみると、それが決して三島個人の嗜好や趣味の問題ではなく、また時代から孤立した特別なものでもなかったということが見て取れる。むしろそれは同時代に、広く共有されていたエートスだったのである。
<2・26事件を扱った主な映画>
・『叛乱』新東宝、1954年
・『重臣と青年将校 陸海軍流血史』新東宝スコープ、1958年
・『二・二六事件脱出』 東映、1962年
・『銃殺』東映、1964年
・『憂国』監督:三島由紀夫、東宝、1965年
・『宴』 松竹、1967年
・『日本暗殺秘録』 東映、1969年
・『動乱』 東映、1980年
・『226』 松竹富士、1989年
<2・26事件に関する書物(文芸作品を中心に)>
・新井勲『日本を震撼させた四日間』文藝春秋新社、1949年
・記録小説 立野信之『叛乱』六興出版社、1952年
・磯部浅一「二・二六青年将校の獄中記」『文藝春秋』1955年3月号
・河野司『二・二六事件』日本週報社、1957年
・武田泰淳『貴族の段階』中央公論社、1959年(同年、大映が映画化)
・三島由紀夫「憂国」『スタア』新潮社、1961年
・三島由紀夫「十日の菊」「文学界」1961年12月号、文藝春秋社
・利根川裕「宴」「展望」1965年7-10月号、筑摩書房
・松本清張「昭和史発掘」「週刊文春」1964年7月6日―71年4月12日号、文藝春秋新社
・「文芸」1967年3月号、河出書房新社→磯部浅一の未公開資料が発表される(発見は1966年)
・沢地久枝『妻たちの二・二六事件』中央公論社、1972年
・かわぐちかいじ「血染めの紋章」青林堂、第1部1973年、第2部1974年。磯部浅一の獄中手記を引用
<おわりに――三島由紀夫のために>
・以上、見てきたように映画という大衆文化のなかで、戦後の2・26事件の表象は安東輝三から磯部浅一へと軸を移し、三島由紀夫の2・26事件への接近も、このような時代の流れのなかにあったといえる。田中美代子は「三島由紀夫のスキャンダリズム」というエッセーのなかで、当時まだ25歳だった三島の「やっぱり、鬼面人を驚かす生活をしたい」という言葉を取り上げ、「三島由紀夫は自らの言葉の通りその芸術的生涯において、極めて意図的なスキャンダル・メーカーであった。醜聞とは市民道徳に亀裂を走らせることであり、くさいもののフタをとることだ」と述べ、三島文学の悪と芸術の関係を論じているが、このような三島の身ぶりが、同時に彼にオカルト的なキャラクターを付着させる大きな要因になったことは確かだろう。
・死んだ<三島由紀夫>はその死の強烈さゆえに、イデオロギーや立場による綱引きにあっているが、しかし、その多くは三島の文学を矮小化する方向に作用しているように思える。はたして三島の<悪>とはその程度のものなのだろうか。
『現代幽霊論』 妖怪・幽霊・地縛霊
大島清昭 岩田書店 2007/10
<幽霊と妖怪>
・一方、「幽霊」と「妖怪」を区別する立場としては、柳田國男、諏訪春雄が挙げられる。
日本民俗学の創始者である柳田國男は、最初に「幽霊」と「妖怪」を区別した人物である。昭和十一年に公表された「妖怪談義」で、柳田は「オバケ」と「幽霊」を明確に区別する指標を述べた。前もって知っておかなければならないが、柳田は「オバケ」「化物」「妖怪」という言葉を同じ意味で使用している。従って、ここでの「オバケ」は民俗学では「妖怪」という意味で捉えられている。
・柳田は「誰にも気のつく様なかなり明瞭な差別が、オバケと幽霊の間には有ったのである」として、①出現場所の相違、②対象となる相手の相違、③出現する時刻の相違、という三つの違いを提示する。①は「オバケ」が「出現する場所が大抵は決まって居た」のに対して、「幽霊」は「百里逃げても居ても追掛けられる」という。②は「オバケ」は「相手を選ば」ないのに対して、「幽霊」は「たゞこれぞと思ふ者にだけに思ひを知らせようとする」と述べ、③は「オバケ」が黄昏時に出現するのに対して、「幽霊」は丑三つ時に出現すると定義した。
・柳田の目的は「妖怪」を研究することで「信仰の推移を窺ひ知る」という、所謂信仰零落説の立場を取るものであった。実際、昭和二六年の民俗学研究所が編纂した『民俗学辞典』には、「妖怪」の定義として「多くが信仰が失われ、零落した神々のすがたである」と記されている。
諏訪春雄は、柳田の定義に対して反証を提示した後、独自の「幽霊」と「妖怪」の定義を展開する。諏訪は「妖怪」も「幽霊」も「広い意味でのカミ(精霊)といえる」とし、「しかも正統に祀られていないカミである」という立場を取っている。
<幽霊と分身>
・「分身」と聞くと、私などは忍者かバルタン星人を想起してしまう。所謂「分身の術」である。しかし、ここで論じるところの分身は、「分身の術」のような特定の手法によって自らのコピーを創造することではない。一般的によく知られている言葉を使用すれば、「ドッペルゲンガー」という言葉もまた、それぞれの論者によって指示領域が異なるものである。「分身」や「ドッペルゲンガー」に深く関わる学問分野は、文字と精神医学が挙げられる。従って、文学では「ジャンル」の問題として、精神医学では病気の症状として、それぞれ指示領域を持っていることになる。殊に文学では、論者やアンソロジーの編者によってその集合の範囲は違ったものになっている。
・例えば、『書物の王国11 分身』(国書刊行会、1999年)は「分身」というテーマに沿って古今東西の小説や詩などとを収録している。ここで「分身」という射程には、自己像幻視、鏡と影、双子、二重人格、内なる他者、などが収められている。
<憑霊>
・憑霊(或いは、憑依)は、容易に定義できるような概念ではなく、民俗学や人類学、宗教学において様々な論者によって議論がなされている。しかし、ここではそのすべてを追うことはできないし、また、幽霊という本書の主題とも大幅にズレてしまうので、簡潔に触れておきたい。
佐々木宏幹は「憑霊とは、霊的存在または力が人間その他に入り込み、あるいは外側から影響して、当事者その他に聖なる変化を生じさせると信じられている現象である」と述べている。
<場所に固定化した幽霊>
・「①屍体が存在する(した)場所に、幽霊は固定化する」といった場合、当然ながらその幽霊が固定している場所とは墓地や火葬場などが筆頭に挙げられる。そう考えると、これに該当するような事例は、極めてオーソドックスな幽霊と考えられる。
・大阪府貝塚市水間。昨年(1984年)お店でアベックのお客さんに聞いた話。夜、水間(観音さんや今東光さんで有名なお寺)の戦没者のお墓のそばに車をとめていると、ヘルメット(鉄かぶとのことか)をかぶって兵隊のかっこうをしている人が、スーッととんでいるみたいに歩いているのが見えた。他にも見た人が、よくいるという事だ。
・「学校の怪談」では、⒜に該当する事例として学校の建設される以前に、その場所が処刑場であったという事例を示したが、同様の事例は学校だけではなく、その他の建造物にも存在している。ここではその一例としてNHK放送センターに出現する幽霊を挙げておこう。
渋谷のNHK放送センターに軍人の幽霊が出るというのは、有名な話。体験者は昔から、数えきれないくらいいますね。
・ここは陸軍の練兵場の跡地で、あの「2・26事件」の青年将校たちが処刑された場所なんです。昔、「幽霊が出た」という場所の頻度と、処刑された場所の関係を調べた人がいて、101スタジオという一番古いスタジオのあるあたりがどうもそうらしいと見当がつきました。
NHK横にある2・26事件慰霊塔には、兵士たち(複数)が靴音を鳴らしながら歩いている音が聞こえるらしい。
また、その近くにある小学校の校庭にもその兵士たちが現れるとか・・・。
・この事例では2・26事件で処刑された兵士たちが幽霊として出現しているが、幽霊となるのは日本人の兵士だけではない。次の事例は処刑場ではないが、米軍の兵士が幽霊となって出現するものである。
Iデパートの建っている所は、昔、米軍の病院があった所だったため、今でも閉店後には洋服の間から米軍兵(幽霊)が出てくる。
・ホテルや旅館、或いはアパートの一室において、そこで亡くなった人間の幽霊が出現する事例は枚挙に暇がない。また、病院において亡くなった患者の幽霊が長期的に出現する場合も、ここに当て嵌るだろう。
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