世界の情勢を大いに左右した謎の人々の組織は確かにインドに存在していたと主張した。(1)
(2023/12/19)
『ダーク・ミューズ』
オカルトスター列伝
ゲイリー・ラックマン 国書刊行会 2023/9/22
<闇の詩神>
・隠された、秘密の、秘教的な、未知の。これらは「オカルト」という言葉の辞書における定義の例である。「オカルト」の語源はラテン語の「オクロ(occulo)」、つまり「隠す」で、天文学用語「オカルテーション(掩蔽)」――ある天体がもうひとつの天体の前を通過することによってそれをかすませる、つまり「塞ぐ(オクルード)」こと――ともつながっている。しかし、一般的な見方では、「オカルト」とは、サタニズムや魔術、新聞の星占い欄から、インタ―ネット霊能者、UFOまで、多様なものに使われる言葉だ。すべてが間違っているとはいえないが、色々なものを指すこの単語には、時間の経過とともに言語がこうむる一種の劣化が表れている。
・本書は作家や詩人に偏っているが、作曲家や美術家を扱った他の研究でも似通った結論を出すことができるだろう。しかし、魔術と執筆活動のあいだには根本的なつながりがある。
<啓蒙時代のオカルティズム>
・「オカルト的啓蒙思想」というと矛盾しているように聞こえるかもしれない。啓蒙時代とは、理性と科学が、迷信と宗教的偏見に打ち勝った時代だからだ。しかし、人間の文化の中心にあった実践や信仰が、ある日突然きれいに消え失せることなんてめったにない。魔術については特にそうだ。魔術は数千年にたわり人類のそばにあり続け、現在もまだ我々とともにある。魔術的な視点は科学的説明の陰に隠れてしまったが、一般大衆にとっては確かに存在していたのである。
例をあげると、1784年のパリでは、錬金術師、カバラ主義者、占星術師をはじめとする、神秘を為す者たちをいたるところで見つけることができた。屋台では謎めいたサンジェルマン伯爵の肖像版画が売られていた。書店は秘められたオカルトの業についての大著を売りさばいた。
・レチフ・ド・ラ・プルトンヌやミラボーのように権威ある著名人も、フリードリヒ2世が男色の実験を通じてサチュロスやケンタウロスを生み出したという報道を受け入れていた。魔術がフランスの大衆の意識にあまりにもがっちりとくいこんでいるので、歴史学者ロバート・ダーントンによると、当局は通常の情報源である司祭よりも、錬金術師、魔術師や占い師のほうが、スパイや情報提供者としてずっと適任だと気づいたという。オカルティズムにこれほど熱中したのはフランス人だけではない。大陸の他の都市や、これほど露骨ではなかったにせよ同じ強い関心は、海峡を隔てたイギリスにもあった。
啓蒙時代のフランスにおける大衆向けの新聞は、現代のタブロイド紙とそう異なってはいないと感じられるかもしれない。しかし、オカルティズムに対する一層真剣な関心は、もっと見えにくい場所でひそかに隆盛を見せていた。ひとつは本書のテーマでもある文学だ。もうひとつは政治である。
<スウェーデンボルグ>
・オカルト史において18世紀のもっとも偉大な人物はエマヌエル・スウェーデンボルグかもしれない。隠された神秘についての彼の真摯で方法論的な追究は、確かな基準を打ち立てた――後世の信奉者はこの基準をしばしば無視してしまったが。
・しかし、1745年、57歳のとき、転機が訪れた。奇妙な予知夢やキリストの顕現を含む強烈な入眠時幻覚が彼に深刻な精神的危機をもたらし、きわめて科学的だった意識を揺さぶり、風変わりな内的風景やオカルト世界の地図の作り手としての道に踏み出させたのである。彼は死者と会話し、他の惑星に旅をし、さらに驚くべきことに天国と地獄を訪ね、戻ってからそこで見聞きしたことについて大作を執筆した。他にも学者らしい冷静な筆致で聖書の真の意味をつづった一連の書籍などの大作を書いている。
・月の民は腹でしゃべる、火星人の顔は二色などという非常に信じがたいことを述べているときでさえ、スウェーデンボルグが常に漂わせている理性的で等式的な空気に魅惑されたのだ。
・スウェーデンボルグはロンドンと関わりが深く、1710年に訪問したときにはジャコバン派のフリーメイソンのロッジに入会したかもしれない。その後、1744年に訪ねたときは、風変わりなツィンツェンドルフ伯爵によって率いられた秘密結社モラヴィア兄弟団の一員になったと考えられる。
・文学に関心があれば、スウェーデンボルグの莫大な遺産のなかでも、「照応」という概念が他を圧していると感じられるだろう。この概念は、魔術的思考の中心概念として、また、象徴主義の詩の核となるテーマとして、彼の死後も数世紀にわたって様々な形で現れる。スウェーデンボルグは、肉体の世界はより高次の精神の世界に根ざしており、そのふたつの世界は照応していると主張した。肉体の世界と精神の世界のあいだのつながりを理解することで、我々は神の意図の理解へと近づける。スウェーデンボルグの「照応」は、錬金術における基礎概念「上であるものは下でも同様」の完璧な表現といえるかもしれない。
・また、人間は内部に全宇宙を内包した小宇宙であるという考えの、文字どおり力強い具現化でもあった。ダーウィン的思考の「ズボンをはいた猿」に避けがたく進んでいく時代に、スウェーデンボルグは、逆に人間はまさに神的存在の似姿として作られたのだと、究極の現実はカバラやヘルメス思想の中心テーマであるユニバーサル・マン、つまりアンスロポスだと述べた。
<カリオストロ>
・カリオストロはシチリアでジュゼッペ・バルサモとして生まれた。ただ、カリオストロとバルサモが本当に同一人物であったかどうかについては、いまだ議論がなされている。
・カリオストロが名を馳せた理由はいくつもあるが、そのひとつに、宗教裁判により死を迎えた最後の人間であること、ローマのサン・レオ城でおそらく看守に絞殺されたということがある。
・だが、カリオストロのこうした評価は理解できるとしても、すべて正しいというわけではない。多くのオカルトの師と同じく、カリオストロは目的を達成するためなら虚偽も受け入れた。しかし、その目的は多くの場合高貴なもので、彼にはある種の威厳と力強さがあった。
・そして1776年、34歳のときにロンドンを訪れた際、バルサモが名をカリオストロと変え、文字どおり違う人間になった。この変化をもたらしたのは主にフリーメイソンだ。
・バルサモはずっとオカルトに惹かれていた。それは旅する錬金術師としての日々から明らかだ。1772年に初めてロンドンを訪れたとき、スウェーデンボルグに会っていた可能性もある。
・1777年4月12日にソーホーのジェラード・ストリートのキングズ・ヘッドにて、フリーメイソンのエスペランス・ロッジに加入を認められた後、カリオストロはフリーメイソン主義を生涯の使命とした。じきにカリオストロは、フリーメイソンの加入式において新奇な形態を導入した。「エジプト式儀礼」と呼ばれるものだ。
・カリオストロのエジプト式儀礼に対する信念は揺るぎないもので、彼は人並み外れて雄弁でもあった。カリオストロは天職を、また、面白い生計の立て方を見つけたのである。エジプトにおけるフリーメイソンの開祖といわれる予言者エノクにちなんで、カリオストロは「大コフト」と自称し、旅を重ねてオカルト団体を巡り、ほとんどの会員にとって月並みな社交クラブとなってしまっていた場に、より高次で創意に富んだ加入儀礼を導入した。
・どこに起源があるかはともかく、エジプト式儀礼を広めようとするカリオストロの動機は利他的で、オカルト的だったにせよ啓義時代の理想である平等主義と同胞意識に沿うものだった。キリスト教徒と自由に交流したツィンツェンドルフやフォークと同様に、分裂している小さい団体を、メイソンとしての共通目標、つまり人間の新生に向けて統合することをめざしていたのだ。この目標を見据えて、エジプト式儀礼はユダヤ人を受け入れ、また、フリーメイソンの伝統を急進的に打ち破り女性も受け入れた。
フリーメイソンであると同時に、カリオストロは一種の治療師であり、うさんくさい放浪者から大コフトへの変身は、その力をいちじるしく増大させたようだった。
・ロアン枢機卿の名が出たので、「首飾り事件」に触れておきたい。この詐欺にカリオストロは大して関わっていなかったが、破滅することになった。スキャンダルが発覚するとカリオストロの評判は地に落ち、彼は強い自信を二度と取り戻すことはなかったのだ。
・カリオストロはふたたび放浪者となったが、悪評が常に先回りし、助けを求めて赴いた場所からはことごとく追い出された。不思議なことに、エジプト式儀礼がたいして入会希望者を呼ばなかったロンドンに滞在し、カリオストロは「フランス人への手紙」を書いた。
・カリオストロはバスティーユ監獄が打ち倒されるまでパリには戻らないと述べ、統治体制に根本的な変化が訪れるとほのめかしているのだ。教皇庁がカリオストロを危険な革命家だと見なしたのはこれらの予言のせいかもしれない。ローマでフリーメイソン主義を広めようと試みたカリオストロは逮捕され、教会を転覆させようとした罪に問われた――それを実際に構想していたのはイルミナティだったのだが。
<サンジェルマン伯爵>
・18世紀には、機知や会話の巧さ、愛想のいいふるまい、そして常に魅惑的と思われ続ける能力が、カバラの知識や錬金術の技術と同じぐらい求められていた。サンジェルマン伯爵、時に「奇跡の男」と呼ばれた男はそれらの特質をあわせ持ち、後世の多数のオカルティストたちと同じく、意図的に自身の過去を秘密めかした。
・もしかしたら今も健在で、ヒマラヤの聖域で帰還すべき時を待っているのかもしれない。19世紀以後、サンジェルマン伯爵は「さまよえるユダヤ人」と同じような神話的存在になり、種々のオカルトの殿堂に位置を占めるべく多様な形で保存され、改変されてきたといえる。
・オカルト分野においてサンジェルマン伯爵が主張した功績とは、すべての病を癒し、不死をもたらすという「エリクシール」を完成させたというものだった。マダム・ブラヴァツキーはサンジェルマン伯爵をチベット人の導師(マスター)たちと同列に扱い、近年ではアメリカの右派スピリチュアル・リーダーであるエリザベス・クレア・プロフェットが伯爵に降り積もっていた埃を払い、つまらない予言をする際のスポークスマンとして用いた。
・サンジェルマンと呼ばれた男は生来の魅力と教養を持っており、化学と歴史に詳しく、それゆえに錬金術や過去の事物について、その目で過去の出来事を見てきたのだと思わせる威信ある口調で話すことができた。いつも黒と白に身を包み、ヴァイオリンを弾きこなし、歌声は美しく、ヨーロッパの複数の言語を流暢に話し、絹と革を見事に染色するコツを知っていた。もっと疑わしい評判としては、卑金属を黄金に変えられる、ダイアモンドの瑕疵を消し去ることができる、2千年前にフリーメイソンを創設した張本人であるから見かけよりもずっと齢を取っているのだ、というようなものがある。彼の若々しい外見は、機知や機転を発揮してパーティや宴を賑わわせても、料理はまったく口にしないという習慣によるものかもしれない。サンジェルマンはおそらく菜食主義者であり、18世紀の富裕層の食卓にあがった豪勢な料理を喜ばなかったのだ。彼は自分で用意した特別なエリクシールだけを口にするのだと言っていたが、パーティの前にこっそり普通の食事をとっていたのかもしれない。
・初めてサンジェルマン伯爵に言及したのはホレス・ウォルポールで、1743年に書かれた手紙でロンドンに伯爵が現れたと述べている。その少し後、サンジェルマンはステュアート王家のスパイだと疑われてイングランドから追放された。それからフランスに赴き、おそらくポンパドゥール夫人の影響もあってルイ15世のお気に入りとなった。
・サンジェルマンはヨーロッパ全土を飛び回り、魔術師として、才人として、またスパイとして活動した。ウィーンではザボル伯爵やロプコヴィッツ伯爵の相談役として知られ、ふたりのつながりでフランスのベル=イル元帥と知り合い、交友を深めた。元帥は後にサンジェルマンをフランスへち連れて行くことになる。ルイ15世に会う前、サンジェルマンはオランダに居を移し、シュルモン伯爵と名乗った。
・サンジェルマンについての描写は「最上級のいかさま師、道化、いかれたおしゃべりなペテン師」から、「最も偉大な賢人のひとりかもしれない」、「機敏な精神を持つ非常に才能ある男」だが「判断というものがまったくできず」、「人間に可能ななかで、最も卑俗である最低の類のお世辞」を通じて悪名を高めたというものまで様々ある。サンジェルマン伯爵は、かなりの教養と機知をあわせ持っていた人物で、化学に真摯な関心を持ち、オカルトの幻惑をそうでなければ閉ざされたままだった扉を開けるために使ったのだと思われる。しかし、錬金術に対して実際にどのような貢献を果たしたかは、いまだ謎である。
<イルミナティ>
・フリーメイソンという木から伸びた多くの枝のうち、アダム・ヴァイスハオプトがバイエルンで創設したイルミナティほど悪名高いものはない。
・実際の功績がたいしてなかったとしても、神話としてのイルミナティが、テンプル騎士団、薔薇十字団、フリーメイソンなどとたびたび関連づけられ、また、それらの組織と同じぐらいの影響を現代のオカルト思想に与えたこともまた事実だ。これは歴史の皮肉とでもいうべきで、なぜかというと、創立当時のイルミナティは神秘主義やオカルティズムのすべてを敵視し、そこに戦うべき蒙昧が潜んでいると見なしてしたからだ。
・ヴァイスハオプトの元々の目標は、啓蒙が進むヨーロッパの中で依然として知的レベルが中世のままだったバイエルン地方において、イエズス会の支配の枷を砕くことだった。しかし、しばらくするうちに計画は広がり、関係者にとっては明らかに危険と見える、簡潔な方法にまとまった。イルミナティが目指す未来とはこのようなものだった。
君主や国家は暴力を伴うことなくこの地上から消え去り、人類はひとつの家族になり、世界は理性のある人々の住まいとなる。倫理性だけでも、気づかないうちにこの変化をもたらすだろう。[中略]人類がその最も高度な完成形、つまり己自身を審査する能力に到達することは、なぜ不可能とされるのだろうか。[中略]この革命は、秘密結社によって実現する。
・イルミナティ創設から1年後、ヴァイスハオプトは再びフリーメイソン入会を試みた。今度は認められ、<厳格な監視会>ロッジに加わった。こうして彼はこのもっと古い結社への出入りを始めたのである。
・イルミナティの崩壊は、クニッゲ男爵とヴァイスハオプトの対立からはじまった。クニッゲは総じてヴァイスハオプトよりも神秘家で、フリーメイソンおよびその他の複数の秘密結社に参加していたところをイルミナティに勧誘された。ヴァイスハオプトの組織に興味を持ったのも、ある薔薇十字団系のセクトへの加入に失敗したからだ。
・他にも問題が生じた。ヴァイスハオプトの革命的な計画に魅力を感じなかったフリーメイソンたちは、イルミナティへの反対意見を声高に口にするようになった。暗い噂がかけめぐった。イルミナティの会員のうちであまり用心深くなかった人々は、君主や貴族の不公平さについて話すようになった。
・その後、ヨーロッパ文明を暴力やその他の様々な手段により転覆させようとする多くの陰謀に、フリーメイソン全般、その中でも特にイルミナティが関わっていると主張するたくさんの証拠が出てきた。信憑性があるものもあったが、大半はヒステリックな屑だ。
・フランス革命についての陰謀論者のなかで最も影響力があったのは、イギリスの避難して恐怖政治を免れた司祭で元フリーメイソンの、気難しいアベ・バリュエルだった。大著の4巻本『ジャコバン派の歴史としての回想』では、大陸全体のフリーメイソンのロッジではぐくまれていた、君主制と教会に対する恐ろしい秘密の陰謀が明かされている。
・シェリーがバリュエルに魅了されたのは、元々秘密結社に惹かれていた――暗殺教団についての小説の一部が残っている――ためだ。きっと次のような文章に心を動かされたのだろう。
この結社が[中略]選んだ光明派(イルミネ)という名は、古来の破壊的な詭弁の系譜にある。マニとその信徒たちが最初に名乗った名前、「天の光に照らされたマニ」でもある。ドイツに現れた薔薇十字団の初期の団員たちも、己を光明派(イルミネ)と呼んだ。
・後にジェラール・ド・ネルヴァルやフェルナンド・ペソアのようなロマン主義者もこのオカルト家系図をたどることになる。神秘主義的な系譜学は、このジャンルで人気の本においてよく見るものになっている。
バリュエルの大作には熱がある。
フランス革命の初期には自らをジャコバン派と呼ぶ一派が現れ、「すべての人間は平等で自由だ」などと説いたのだ。平等と無秩序な自由という名のもとに、彼らは祭壇と王座を踏みにじった。国民を刺激して反抗へと向かわせ、無政府状態という恐怖に陥れようとした。
・フリーメイソンの最奥から、というのが答えだ。これまで見てきたように、フリーメイソンはある程度急進的な政治思想の苗床となっていた。いやむしろフリーメイソンの会員もまた、社会的、政治的な意味で啓蒙された側だったともいえる。また、革命前の年月、ヴォルテールやグランベール、ディドロ、エルヴェシウスのような啓蒙された知識人は、フリーメイソンのロッジを真似た一種の秘密のアカデミーで会合を重ねていた。フリーメイソンのロッジは、異なる社会的階層に属する人間たち――貴族と中産階級など――が、対等な立場で出会える場所を提供していたのだ。これはウィーンで無一文だったモーツァルトが高く評価した点だ。そして18世紀末のフリーメイソンは、知的優越、思想の自由さ、新しいアイデアへの好奇心を持っていた。フランスの<大東洋(グラントリアン)>ロッジの会員には、ヴォルテール、バイイ、エルヴェシウス、ダントンなどがいた。しかし、総体としてのフリーメイソンは革命の担い手ではなかった。
・フリーメイソンの一員となってからしばらくして、バリュエルは最終的な儀式を受け、フリーメイソンの核心にある秘密を知ることもできるようになった。彼はこの経験を三人称で以下のように書いている。徒弟が誓いを立てた後、「親方は彼にこういった。『親愛なる兄弟よ、フリーメイソンの秘密は平等と自由という言葉にある。すべての人間は平等で自由である。すべての人間は同胞である』」。バリュエルいわく、この原理は後に拡大されて次のような意味を持った――「自由と平等についての原則が明白に何であるかというと、キリストとその祭壇に対する闘い、君主とその王座に対する闘いだ!」。
<ロマン主義とオカルティズム>
・「ロマン主義の」と、「ロマン主義」はどちらもきわめて曖昧な言葉で、定義や用法は戸惑うほど複雑に重なり合っている。
・芸術・文化活動としてのロマン主義が衰退して以降の用法は、ほとんどが軽蔑的な意味を含んでいる。現代の人々の大半にとって、魔術やオカルトという概念はとても「ロマンティック」なものだろう。つまり、非現実的で、単なる幻想、夢、想像の産物であるという意味だ。
・啓蒙時代のオカルティストが、たとえ不首尾だったとしても、宗教的に寛容で同胞主義が広まった世界を夢見て社会の変革を企画したといえるなら、恐怖政治とナポレオンの台頭を見たロマン主義者は闘いの場を変えた。
・ゲーテを例外として、ロマン主義は西欧の意識の歴史における、失敗はしたが偉大な実験として見ることができる。ロマン主義とその後世への影響において、芸術家と魔術師の融合は最も鮮やかな姿をとる。
<ゲーテ>
・ドイツの最も偉大な詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがオカルトに興味を抱いていたのは『ファウスト』から明らかだ。歴史上の人物をもとにした本来のファウスト伝説は中世までさかのぼり、そこから題材をとった作品にはゲーテ以前にもクリストファー・マーロウの『フォースタス博士の悲劇』などがある。
・歴史上のファウスト博士は、1480年にヴュルテンベルクのクニットリンゲンで生まれ、1539年にフライブルグ近くのシュタウフェンで悪魔の手によって亡くなった――少なくとも博士の終焉の地とされるシュタウフェンの獅子亭の壁を飾る銘板にはそう書かれている。マルティン・ルターの友人メランヒトンによると、ファウストはポーランドのクラクフ大学で魔術とオカルトを学んだという。同様の分野はサラマンカとトレドの大学でも教えられた。クラクフで、ファウストはイエスの奇跡を馬鹿にし、いつだって同じことをできると声高に言ったとされる。大勢がその言葉に憤慨したが、感銘を受けた者もいた。後年、エルフルト大学でホメロスについて講義していた際、ファウストは学生たちを楽しませるためにアキレウス、オデュッセウス、ヘクトルの霊を呼び出してみせたという。修道院長ヨハネス・トリテミウスいわく、ファウストには「歴史上、最も成功した錬金術師」であると自慢げに名乗るだけの理由はあったという。しかし、あるフランシスコ会士は黒魔術から手を引いて教会に戻ってくるようにファウストに迫った。ファウストは無理だと答えた。もう悪魔に魂を売ってしまったし、悪魔が約束を守っている以上、自分もそうするつもりだ、と。ファウストの予知やその他の奇跡的な力――伝えられるところによると、ファウストはアントン・フォン・シュタウフェン男爵に雇われ、人造金を作らされていた――や、悪魔が「使い魔」として犬の姿で付き従っていたことについて記録が残っている。
ファウストを題材にした初めての本は1587年に登場した。ファウストと悪魔の契約や奇想天外な冒険を描くドイツ語の本だ。これはちょっとしたベストセラーになり、数ヶ月のうちに様々な海賊版が出回った。
<エリファス・レヴィ>
・さらに、1875年はアルフォンス・ルイ・コンスタンという人物が死んだ年でもあった――議論が不充分なところがあるが情熱的な社会主義作家で、晩年はオカルトを学ぶ人々に「高等魔術の教授」として知られるようになったエリファス・レヴィである。
コンスタンは1810年にパリに生まれた。魔術師としての人生が始まったのは比較的遅く、『高等魔術の教理』を1854年に発表してからだ。それ以前は、様々なことで生計を立て、パリの文学界の周縁にかろうじて存在し続けてきた。彼が最初にとった姿は聖職者だった。
・神秘の道に惹きつけられた多くの人間と同様に、若いころの彼は夢見がちで孤独で、その頭の回転の速さと生来の知性に感心した教会区司祭に助けられてサン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会の神学校に行き、その後サン・シュルピス教会の神学校に進んだ。そこで彼は聖職を得るため勉学に励んだが、そのうちに「教会に敵対する教義を説いた」ために追放された。
この「教会に敵対する教義」がどういうものだったかはわからないが、おそらくはセックスにまつわることだったのだろう。アルフォンスは、初聖体を控えた少女を教えていて、聖職に対する疑問を持つようになった。少女の母親は、こんなにやさしいのだから引き受けてくださるはずだと言い、娘を指導してほしいと懇願したのだった。少女の美しい青い目をのぞくうちに、彼は人間的な愛への欲求に気づいた。突然、冷たい克己の人生に嫌悪感が湧き、誓願を立てるまえに職を辞したのだ。とはいえ、カトリック教会とその教義は彼に強い影響を与え続け、後の著作で彼はキリスト教の教義と魔術のあいだに根源的な差異はないと苦心して論じている。
・しかし、コンスタンの、最も社会で知られていた人格は、革命についての言辞に満ちた、少々説得力には欠けるものの激烈な社会主義作家としてのものだった。議論で足りないところは信念で補った。著作のひとつ、『自由の聖書』のために8ヶ月牢獄に入っていたこともある。オカルト政治の奇妙な歴史のなかで、コンスタンは左寄りだった数少ないオカルティストのひとりである。
コンスタンが初めてオカルト政治に関わることになったのは、一時期はジェラール・ド・ネルヴァルの文学仲間でもあったアルフォンス・エスキロスとの友情を通じてであった。エスキロスは現代では忘れられた作家だが、異色作「魔術師」はいずれ再評価されるだろう。
・コンスタンの私生活は不満と失望に満ちており、エリファス・レヴィに変身するきっかけとなったのは結婚の破綻だった。
・カバラの研究に没頭していたコンスタンは、ノエミが侯爵の愛人になったことに気づいていなかった。気づいたときには手遅れだった。打ちのめされたコンスタンは、この過酷な通過儀礼に耐えた。そして試練が終わったときに生まれ変わっていた。『高等魔術の教理と祭儀』がパリの書店に並んだとき、アルフォンス・ルイ・コンスタンは消えていた。代わりに、神秘主義思想の大家エリファス・レヴィが現れていた。
・1801年、神秘主義の学徒フランシス・バレットは儀式魔術について『マグス』という本をまとめた。バレットは、ブルワ=リットンの『ザノーニ』に登場するコベントガーデンの書店の主だったジョン・デンリーの友人であり、デンリーから借りた様々な魔術的書物を書き写して『マグス』を作ったとされる。少なくとも同書の4分の3が剽窃でできているのは疑いない。書かれている情報は引用とはいえ正確なものだが、バレットの本はオカルト復興のきっかけにはならなかった。研究書ではあるものの、読んでいて退屈だからである。
・レヴィの著作は正反対だ。馬鹿げた間違いで不可解になっている箇所があっても、ページをめくりたいという気持ちを起させる。金を払う価値が何かしらあるのだ。魔法の教義、「どこであっても同じで、どこであっても慎重に隠されている教義」があるというレヴィのヴィジョンに導かれて、例えばマダム・ブラヴァツキーは人里離れたヒマラヤの寺院から人類の運命を統括している東洋の超人の存在について語り、ブルワ=リットンは「来るべき種族」という発想を得た。
・1875年5月31日の午後2時、高等魔術の教授はこの世界を出て次の世界に移った。彼は知らなかったかもしれないが、その著作は予想もできない数の読者に届くことになった。正統派の宗教や物質主義的科学に不満を持ち、過去の時代の失われた秘密を取り戻そうとする熱意を持った世代にレヴィは影響を及ぼしたのである。
<エドワード・ブルワ=リットン>
・しかし、人気小説家であると同時に、ブルワ=リットンは19世紀の最も重要なオカルティストだったと言えるかもしれない。
彼が数作の娯楽作品において取り上げた、秘教的で魔術めいた様々なモチーフは非常に影響力があった。短篇「幽霊屋敷と幽霊」、別名「屋敷と脳髄」はヴィクトリア朝時代のすぐれた幽霊譚のひとつであり、ポーやM・R・ジェイムズと並んで古典的名作のアンソロジーによく収録されている。幽霊に対する驚くほど現代的な科学的調査――彼は心霊現象研究協会に1世紀ほども先んじて心霊現象の調査にあたった初期のひとりだった――が描かれた、不穏で薄気味悪い雰囲気の、とても印象に残る短篇だ。トールキンのガンダルフに匹敵する魔術師も登場する。なぜか見過ごさせることの多い作品『不思議な物語』は転生と不老不死の霊薬(エリクシール)を求める錬金術的な旅路を軸にしている。しかし、薔薇十字団や秘教的知識に対する関心や、優越者についての考えを明白に表した長編2作もある。薔薇十字団についての長篇『ザノーニ』と神秘主義的SF長篇『来るべき種族』である。2作とも近代における神秘主義の再興において重要な役割を果たすことになった。
・ブルワ=リットンは、驚くほど多才なヴィクトリア時代人のひとりであり、政治家としての華々しい経歴と特筆すべき文学的業績に加え、今日だったらタブロイド紙の一面を飾るような社交生活を送っていた。個性ある洒落男でもあり、男性が黒いイブニングを着る習慣も彼から始まった。
・アウトサイダーのような人間は、規則正しく凡庸な社会に守られている普通の市民より、精神的に経験を積み成長を遂げる可能性が高いと気づいたのだ。もちろん、この考えは19世紀の後半になってから社会に衝撃を与えることになる。ニーチェが提唱する数十年前に、ブルワ=リットンはより高次の存在が出現した暁には自身が「善も悪も超越している」と気づくだろうと述べていたのだ。いまは「オカルト・ナチス」というサブジャンルの重要な要素となっている「ヴリル」という神秘的な力が登場する『来るべき種族』で、ブルワ=リットンはそのような超人のみが構成する文明を描いている。超人と初めて会ったときに主人公はこう言う。「人に似たこの存在には、人類に牙を剥く力が備わっていると感じた」。ヴリル・ヤは「人間に似た種族だが、肉体ははるかに強く、精神ははるかに広く、口にできないような絶望感を引き起こす」。ヴリル・ヤは数百年生きるとされる。バーナード・ショーは、独特の進化主義者的戯曲『思想の達し得る限り』で「年寄り」という存在を描いたとき、『来るべき種族』を念頭に置いていたかもしれない。少なくとも、ブルワ=リットンの愛読者であり、人類の進化について同じような疑問を持っていたある人物は、神秘主義の歴史において比類ない影響力を発揮した。マダム・ヘレナ・ペトリーヴナ・ブラヴァツキーである。
・どちらにしても、『ザノーニ』が19世紀の神秘主義において重要な作品のひとつである――もしいちばん重要でないとしたら――のは間違いない。フランス革命と恐怖政治の始まりを背景とした『ザノーニ』は、オカルト科学の百科事典といえる。プラトン主義、ピタゴラス、新プラトン主義者。迦波羅、本草学、照応という概念、次元の階梯についてのグノーシス主義思想、アストラル界、元素、秘密結社。オカルト観相学、メスメル、カリオストロ、ジャック・カゾット。ブルワ=リットンはこれからの事柄についての論考に頁を割いている。マチューリンの『放浪者メルモス』と似た筋を持つメロドラマだが、複雑なプロットと登場人物を備えた『ザノーニ』は加入儀礼の寓話であり、スピリチュアルな道程における試練に対する主人公たちの反応を描いている。常に若く謎めいたザノーニは紅はこべとサン=ジェルマン伯爵が合体したような存在で、奇妙な力を持ち、必要とされるときには現れ、まばたきのあいだに消え失せる。
・陰鬱でどことなく気味の悪い人物である師メイナー――『来るべき種族』に登場する超人の初期のプロトタイプ――と並んで、ザノーニは、歴史ある薔薇十字団よりもさらに数千年早く誕生した達人(アデプト)たちの結社、古い神秘主義団体の生き残りのひとりである。ザノーニは少なくとも5千歳は超えていると語られる。永遠の生に倦んだザノーニは、美しいヴィオーラに対する愛のために己の不死性を犠牲にしたいと願う。
・ブルワ=リットン流に描かれた冷酷なジャコバン派である。『ザノーニ』は、語り手がいまや老人になったグリンドンとオカルト専門書店で出会うところからはじまる。この書店はジョン・デンリー所有の店で、コペンハーゲンに実在し、19世紀初頭のオカルト団体にはよく知られていた。薔薇十字団についてグリンドンと話した語り手は、彼の死後、未知の暗号で書かれた謎の原稿を受け取る。そこに書かれていたのが、たぐいまれなザノーニについての物語だった。後にディケンズはブルワ=リットンのプロットとクライマックスのシーンを、革命の物語『二都物語』で用いている。
・彼自身が薔薇十字団やその他の神秘主義結社と関係があったかどうかはわからない。より有名な黄金の夜明け団の先駆的存在ともいえる英国薔薇十字教会の会員だったとはよく言われるが、ジョスリン・ゴドウィンも、黄金の夜明け団の研究者ロバート・ギルバートも、その可能性を強く否定している。
・ブルワ=リットンがフリーメイソンのロッジに入会した記録はない。ただ、フランクフルトに滞在中、<アジア同胞会>に加わった可能性はある。これは秘密結社最盛期である18世紀に創設され、イルミナティが悲惨な末路を遂げた後に解体されたと言われるフリーメイソンの一派である。『ザノーニ』やブルワ=リットンの他のオカルト的著作に登場する要素は、熱心に探せば現存する史料に見出すことができるものだけだし、これまで見てきたとおり、ブルワ=リットンは猛烈な読書家だった。そうは言っても、ブルワ=リットンが真の卓越者ではなかったと決めつけてはいけない。真の魔術師は霊感を得た芸術家であるという、啓蒙的神秘主義の衣に包まれた『ザノーニ』の秘教的なメッセージは、他の様々な知識に比肩する深慮な叡智なのである。
<世紀末のオカルティズム>
<マダム・ブラヴァツキー>
・既に述べたように、1875年はオカルティズムにとって重要な年だ。その年、エリファス・レヴィが死に、アレイスター・クロウリーが生まれた。いずれも特筆すべき事件だ。しかしもっと特筆すべき事柄としては、3人の変わった人物が、近代のオカルティズムのみならず近代の文化全般に深い影響を与えた組織を設立したことがあげられる。
・1875年9月13日、ニューヨーク市でマダム・ヘレナ・ペトローヴナ・ブラヴァツキー、ヘンリー・スティール・オルコット大佐、ウィリアム・クァン・ジャッジの三人は、前に属していたオカルト団体――ある会員は皮肉で「ミラクル・クラブ」と呼んだ――の後継となる組織を結成しようと集まった。神智学協会だ。
・ヘレナ・ペトローヴナ・ブラヴァツキー(信奉者たちは「HPB」とも呼んだ)は、1831年にウクライナのエカテリノスラーフでヘレナ・フォン・ハーンとして生まれた。
・初期の神智学協会の特色だった潜在能力とオカルト現象への漠然とした関心は、創設されて間もなく、オルコットとブラヴァツキーが導入した東洋の形而上学的思想によって複雑になった。
・神智学協会は今の20世紀的意識から明らかに読み取れるような影響力を振るうことはなかっただろう。転生、過去生、アストラル界、高次意識や精神の進化などについての多数の教義の中心には、マダム・ブラヴァツキーがいた。畏敬の念を呼び覚ます、刺激的で悪党めいた存在だ。
・ブラヴァツキーは夫から離れてンスタンティノープルに赴き、サーカスで裸馬を乗りこなしてみせる仕事に就いた。ここで彼女は性行為を不可能にする怪我をしたとされる。禁欲の美徳はやむをえない事情によるのではないかと言われる理由だ。それからしばらく霊媒ダニエル・ダングラス・ヒュームの助手をし、その後にはセルビア王立合唱団を指導した。
・もしくは隠れた師たち――ブラヴァツキーは彼らと常に連絡を取っていると述べていた――が気分を一新したがったのかもしれない。
・隠れた師たち、ヒマラヤの秘密の寺院から人類の進化を導く達人たちである。彼らは教えを大衆に伝える人間として彼女を選び、魂のない物質主義的原理の中へ近代世界が深く沈み込んでいくのを防ごうとした。ブラヴァツキーが虚空から取り出してオルコット大佐を驚かせた。有名なマハトマからの手紙が証拠である。師たちのメッセージの中には、オルコットは妻子を放棄して大義に全身全霊を捧げるべきだというものもあり、オルコットは即座に従った。
・オルコットはHPBの能力に感服していたが、大衆はさらに多くを期待した。ブラヴァツキーは、魔術や超能力から古代の人類、秘密の教え、ヒンドゥー哲学までのすべてを網羅した大作『ベールをとったイシス』で応えた。オカルトはいんちきではなく真の科学であり、現代の人類には失われたものの、古代人とごく少数の進化した存在――つまり達人たち――には知られている自然の秘密についての深い知識に基づいている、という主張が同書の基礎となる前提だ。同書は近代科学が提示しているものとは大幅に異なった宇宙の進化と人間の進化の概略をも示した。初版千部は発売後十日で売り切れ、ニューヨーク・ヘラルド紙では「今世紀の最も特筆すべき著作のひとつ」と評された。その十年後、ブラヴァツキーはさらに厚い『シークレット・ドクトリン』を発表する。事実上、近代オカルティズムの旧約聖書と言える書籍だ。執筆中のブラヴァツキーは、ハシンを吸いながら自身のオカルト蔵書をあさり、さらに、多く引用したメッセージの真実を確かめるため、アカシック・レコードを丹念に調べた。オルコットは、文章の途中で彼女が手を止めて束の間少し離れたところを見つめ、それから急いでペンを紙に下ろして書き付ける様子を描写している。オルコットは、文章の途中で彼女が手を止めて束の間少し離れたところを見つめ、それから急いでペンを紙に下ろして書き付ける様子を描写している。オルコットによると、アストラル・ライトを参照して正しい参考文献を見つけ出していたのだという。
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