大本の聖典『霊界物語』にもほとんど同じ「猩々姫」のエピソードがある。違いは結末で、半人半獣の赤子は引き裂かれそうになるが、最終的には絞殺され、姫は入水して死ぬ。(16)

『UFOと地底人』

 ついに明かされた異星人と空洞地球の真実

  中丸 薫 GAKKEN   2009/1

<地底世界での生活>

・光の地底都市は、全てあわせると2500以上もあり、それぞれの都市は「アガルタ・ネットワーク」と呼ばれる光のネットワークで統合されている。

・テロスの位置は、地表からおよそ1.6キロの地中。またあらゆる都市の中でももっとも優勢な都市は「シャンバラ」と呼ばれ、地球のまさに中央―空洞地球―に位置している。ちなみに、ここへは、北極と南極に存在する「穴」からアクセスが可能になっているという。昔から、極地には空洞地球の入口があるとされていたが、それはこの「シャンバラ」への入口のことだったようだ。

・空間を移動するときに使われるのが、UFOだ。このUFOは「シルバー・フリート(銀艦隊)」と呼ばれ空洞地球世界の都市、アガルタで製造されている。

<身長4.6メートルの空洞地球人>

<闇の権力が独占するUFO情報>

<宇宙連合と銀河連邦はまったく違う組織>

・「アシュター・コマンド(司令部)」とは、司令官アシュターと主サナンダ・クマラの霊的な導きの下に存在する「光の偉大な聖職者団(グレート・ブラザーフッド/シスターフッド)の空挺部隊だった。

『日本人の魂の古層』

編著  金山秋男   明治大学出版会  2016/3

<石原莞爾から宮沢賢治へ――古層をめぐって>

・ただ、この二人には共通点も「いくつかあります。どういう点かといいますと、まず、東北人であること。石原は山形で、宮沢は岩手出身です。それから二人は日蓮宗の信徒で、在家の団体である国柱会の会員でした。宮沢も石原も1920年(大正9年)に入会しています。

・しかも、ただ入会しただけではなく、彼らは二人ともユートピア志向が強く、石原の方は満州に「王道楽土」というユートピアを求め、宮沢はイーハトヴという理想郷を創作し作品の中で表現しました。

<国柱会とは何か>

・石原莞爾と宮沢賢治、この両方を語る上で欠かせない、二人にものすごく影響を与えている人がいます。それは田中智学という人物です。

 智学は、「国柱会」という日蓮系の在家の組織を作った人です。

・田中智学は、江戸以来妥協的になっていた日蓮宗を、その本来の性格へと戻そうとしたわけです。これが国柱会の前進である蓮華会とか立正安国会といった組織を彼が作っていった理由です。智学は、折伏主義の立場をとることで、日蓮の教えに帰依しないものを論破して改宗させようとしたのです。

<田中智学の「八紘一宇」>

・第1次世界大戦のころ、立正安国会は「国柱会」と名前を変えます。日蓮の教えの中の言葉「我日本の柱とならん」から智学が名づけたものです。主張としては、今ご説明したことの延長ですが、日蓮主義に加え、さらに国体論というのが出てきます。

・智学自身は宗教家として戦争を批判していますし、ある意味では平和主義者ともいえます。ただ、「世界の道義的な統一」という大義のためには、武力も肯定するのです。国柱会が満州事変を支持していたのも、こういった考えからです。彼はこの武力の行使が侵略のためのものではないといっていますが、彼の考え方には、今日の視点からすると、やはり侵略戦争自体をも肯定する面があったのではないかと思います。

 この「八紘一宇」ですが、これは田中智学の『日本国体の研究』などに出ている言葉です。

・非常に強引な解釈ですが、ともかく、日本の中心が世界の中心になる、こういう考え方なんです。その結果、神武天皇の述べていることと、日蓮の語っていることは同じだ。すべて法華経の真理なんだというのが彼の解釈になるのです。

 そういう発想が根本にあるので、彼にとって「日本の古層」は法華経の教えと同じであるということになります。

<石原莞爾『最終戦争論』>

<「最終戦争」とは何だったのか>

・まず、なぜ最終戦争というものが起きるのでしょうか。石原の考えでは、これにはまず軍事上の理由があります。彼はヨーロッパの軍事史をよく研究していまして、ヨーロッパの軍事史を見ていると、必ず最終戦争になるだろうというのが、彼の考え方です。なぜヨーロッパなのかというと、当時もっとも軍事的に進んでいたという理由からです。

 戦争の歴史を観察していくと、決戦戦争と持久戦争の移り変わりがあるというのが石原の持論です。

・最終戦争についても、彼は、一瞬にして敵の首都を廃墟としてしまう兵器の開発が必要だといっています。超音速の航空兵器だとか、核兵器、大陸間弾道ミサイルを予測していて、そういうものの開発が行われることで、最終戦争は実現すると考えています。太平洋戦争が始まる前の時点で、未来に開発されるものを予測していたんです。『最終戦争論』を今読んでみても、戦後活躍する兵器をすでに見通している点で、彼の才能には驚かされます。繰り返しになりますが、彼はこういう点では非常に先見の明がありました。石原を評価する人は、満州事変の作戦と、こういうところを評価する人が多いんです。

<一瞬にして敵の首都を……>

「一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行われる時が、人類最後の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦でつかっているようなものでは、まだ問題になりません。もっと徹底的な、一発あたると数万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大戦力のものができねばなりません。

・飛行機は無着陸で、世界をグルグル廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。その代わり大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう……。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間に終る。それ精神総動員だ、総力戦だなと騒いでいる間は最終戦争は来ない。そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。この次の決戦戦争では降ると見て笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります」。(『最終戦争論』37頁)

<宗教に支えられた「最終戦争」>

・ただここで問題なのは、こういう非常に合理的な判断をする軍人が、どうして日蓮や国柱会のような宗教的なものの考え方と結びついてしまうのかということですね。宗教的なものの考え方ということでは、日蓮の予言というのが大きな影響力をもっています。石原は、日蓮と智学から末法の世における上行菩薩による救済という考えを学び、次のようにいいます。

・そして日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起こる。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります。(『最終戦争論』58頁)

・元寇のとき、日蓮は蒙古が日本に侵入してくると予言していましたが、それを田中智学が現代のものとして再解釈したものを、石原がまた持ち出してきます。大戦争が起きて、そのときに、上行菩薩、いわばメシア、救世主が現れて、日本を中心とした世界統一が行われるというわけです。そういう考え方を彼はこの「最終戦争」のバックボーンにしています。そこで、この世界統一、「一天四海皆帰妙法」は日本を中心とした世界の統一と解釈しているわけです。

<ドリームランドとしての岩手県>

・この宮沢賢治が、先ほどの、かなり右寄りの国柱会の会員でした。ただ、不思議なことに、彼の著作の中には、天皇崇拝という考えは出てきません。それから、いわゆる侵略戦争、対外的に攻めていくということに関しても言及されていません。また、さっきいった日本国体論とかいったことに対しても、まったく関心がないんです。

・彼も石原莞爾同様、ユートピア志向が強い人です。『注文の多い料理店』という童話集の題名には、「イーハトヴ童話集」と付されています。「イーハトヴ」とは何かというと、彼が書いたとされる出版時の宣伝文句では、自分の心象風景としての、ドリームランドとしての岩手県だ、とされています。ここはユートピアのようなところで、ドリームランドであると。なかなか気のきいた、さすがというほかない表現ですね。

<イーハトヴ>

「イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスガ(原文ママ)辿った鏡の国と同じ世界の中、テバーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン(原文ママ)王国の遠い東と考へられる。

「実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもつて実在した/ドリームランドとしての日本岩手県である。(この行赤刷り)/そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従へて北に飛躍し大循環の風を従へて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。/罪や、かなしみでさへそこで聖くきれいにかゞやいている。/深い掬(ママ)の森や、風や影、肉之(ママ)草(「月見草」の誤植か)や、不思議な都会、ベーリング市迄続々(ママ)(「く」の誤植か)電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。この童話中の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女期の終り頃から、アドレツセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとつている」。

<異界との交流>

・彼のユートピア志向のもうひとつの特徴は、異界との交流です。別の言葉でいうと、生の世界と死の世界の交流ということになるでしょうが、これは金山秋男先生が研究しておられる死生学の問題ともからんできます。

 有名な作品を挙げれば『春と修羅』という詩集です。

<森羅万象すべて仏>

・宮沢賢治の場合もそれと似たようなところがあり、彼は菜食主義者ですけど、他の人とのつきあいや自分の好みから肉を食べたりするところもあって、決してゴリゴリの菜食主義者ではなかった。しかし、この菜食主義が彼の長生きしなかった原因のひとつになっているのも確かでしょう。

・「注文の多い料理店」では、狩人の二人が食事をとるために、山猫軒というお店に入っていく。「注文が多い」というのは流行っているんだろうと狩人たちは勝手に解釈するのですが、「注文が多い」というのは要求が多いということで、やれ靴はちゃんと脱げとか、泥を払えだとか、裸になれとか、体に塩を揉み込めとか、そんな要求が次々と来て、それを自分に都合のいいように解釈していたら、最後に食べられるのは自分たちだと気づいて怖がっていたところに、自分の飼い犬が来て追い払ってくれて助かるという話です。こういうところにも狩猟で獲物を殺すことに対する宮沢賢治の怒りが現れています。

<人間は世界の中心ではない>

・田中智学や石原莞爾の古層とはだいぶ違って、すべての動物、植物、異界の住人までを巻き込んだような古層。これがそこにあるのではないでしょうか。決してどこかに中心を置くようなものではなく、人間中心でもなければ、日本中心でもない。こういうものの考え方が賢治の中にあることが、彼が今でも評価され、僕らの心を打つゆえんではないか、と思うわけです。

<自己犠牲と他力>

・日本人の魂の古層といったとき、日蓮の教えと法華経はそれにあてはまるでしょうか。ふつうに考えればちょっと違うのではないかということになります。しかし、田中智学は近代の天皇制と法華経の教えを結びつけながら、『日本書紀』の中の神武天皇の言葉という「古層」に至りました。これが「八紘一宇」です。石原莞爾は忠実にこれを実現しようとしました。満州事変を引き起こした、最終戦争と絶対的な平和の考えは、この「古層」と関係しているのです。

・それに対し、宮沢賢治は智学の「八紘一宇」の思想にも影響を受けつつも、日本中心、天皇中心、人間中心の発想を捨て去り、洋の東西を問わずいろいろな人々、動物、植物、異界の住人を含んだハイブリッドな共同体を夢見ます。これは智学の見つけた「古層」が、賢治のもつ素朴な世界観や自然観の中で、変容したものなのではないでしょうか。それによって、もっと古い古層が見つけられたのだと僕は思います。自然と人間のあり方、動物と人間のあり方、共同体のあり方が再び問い直されている今日、僕は宮沢賢治の文学は21世紀の僕らのあり方を再び考え直す重要なものになっていくのではないかと思っています。

『近現代の法華運動と在家教団』   シリーズ日蓮4

責任編集  西山茂     2014/7/25

『国家改造と急進日蓮主義――北一輝を焦点に』 津城寛文

・ほとんどの宗教には、平和的な理想とともに、闘争的な種子が含まれている。とくに、理想を実現するための手段として、「聖戦」「正義の戦争」などの語彙を持つ思想は、内外の一定の条件が揃えば、急進的に闘争化する。非暴力の原理を打ち出した宗教ですら、人間集団のつねとして、一部が暴力化することは避けられない。

 本稿では、1930年代(昭和10年前後)の日蓮主義の急進化を、北一輝(1883-1937)に焦点を絞り、さまざまな「法」「仏法」や「国体思想」などの宗教的世界観、「世法」と呼ばれる実定法、「心象」と表現される私秘的ビジョン、考え、思想・行動の根拠・原理となる規範体系)の交錯する情景として描いてみる。

<時代状況>

・「右翼テロ」の出発点とされる1921(大正10)年の安田善次郎刺殺事件の犯人、朝日平吾は、社会に害をなす「吝嗇」な「富豪」を殺害するという暗殺思想を単独で実行し、「右翼テロリズムの偶像」となった。朝日が『改造法案』の影響を受けており、遺書の一つは北一輝宛であったこと、それを受け取った北が読経中に朝日の幻影を見たというエピソードは、随所で語られる。

・「国家改造」「昭和維新」という言葉が流行した時期、国内ではテロやクーデターのうねりが高まっていた。北一輝を迎えた猶存社(1919年結成)は、その震源の一つであり、「国家組織の根本的改造と国民精神の創造的革命」を宣言し、綱領の七点の内には「改造運動の連絡」が謳われており、指針として配布された北の『国家改造法原理大綱』という政府批判の強力な「魔語」、「霊告」などが絡み合い、事件が相継ぐ。このように、一連の事件の出発点から、北一輝の関与が見え隠れしている。

・北一輝は、「北の革命思想と宗教というテーマに取り組んだ研究は、まだ見当たらない」と指摘されるように、政治と宗教の関係に「謎」が残る人物である。またその「宗教」は、西山茂氏によって「霊的日蓮主義」と表現されるように、「社会」的側面だけでなく、「他界」的要素に光を当てねば理解できない部分がある。

・「日蓮主義」とは田中智学が造語し、その影響で本多日生も用いた言葉で、「法国冥合(政教一致)」による理想世界の実現を最終目標とする、社会的、政治的な志向性の強い宗教運動を指し、1910年以降の社会に大きな影響力を及ぼした。統一閣を訪れた中には、のちの新興仏教青年同盟の妹尾義郎、いわゆる「一人一殺」を標語とする「血盟団」の首謀者の井上日召(1886-1967)、いわゆる「死のう団」の指導者(盟主)の江川桜堂(1905-38)などがいた。狭い意味での日蓮主義は、この智学と日生、およびその周辺を指すが、従来の研究では近現代の日蓮信奉者や日蓮仏教を広く取りまとめる用語としても拡大使用される。そのような(不正確かもしれない)傾向との連続性のため、本稿では敢えて広義の日蓮主義を採用する。急進日蓮主義とは、この広義の日蓮系の思想運動が急進化、かつ事件化したものを指しているようであり、血盟団事件、死なう団事件、2・26事件が目立っている。

<血盟団事件と死なう団事件>

・井上日召が日蓮宗に惹かれたのは30代半ばからで、国柱会その他の法華宗や日蓮主義の講演を聴き回り、日蓮関係の書籍を読むことで、「自分の肉体を武器として、日本改造運動の一兵卒」になることを志すようになった。やがて日蓮主義や日蓮各派から離れ、改造運動指導者を別に求め、40代を超えて「国家改造の第一線に立とうと決心」し、茨城県の立正護国堂で実行者たちを育成することになった。

・戦後に発表された「血盟団秘話」では、当時は語られなかった経緯も出てきて、暗殺という直接行動については、「悪いに決まっている。テロは何人も欲しないところだ。私は政治がよく行われて、誰もテロなどを思う人がない世の中を、実現したいものだと念じている」と述べている。

・江川家の墓所を預かる三有量順氏は、江川桜堂の関係者から託された一次資料をもとに、「日蓮会」および「日蓮会殉教青年党(いわゆる「死なう団)」の当事者側の情景を描き出している。夭逝した桜堂を、三友氏は「哀悼の会」をもって「市井の熱烈な日蓮主義者」と呼び、「純粋な法華・日蓮信仰は周囲の人々に感化を及ぼした」こと、「自ら書画をよくした」ことなどを資料で跡付けている。そこに像を結ぶのを抱いて強化活動に邁進しようとする、若き宗教的指導者」としての桜堂である。

・それによると、血盟団事件や5・15事件で東京の警視庁がめざましい活躍をしていたので、神奈川県警も手柄を立てようと焦り気味であったところに、恰好の事件が起こった。日蓮会は「政治的、思想的、反社会的団体ではない」ことを井上が説明したが、県警は「死なう団は右翼テロ団」という報告書を出して、事件はまったく違ったものになったという。この間の県警による捏造や隠蔽などの不祥事も、淡々と語られている。

<2・26事件>

・2・26事件は、先行する血盟団事件や5・15事件と同様、「その後の用意・計画がない」とされる一方、綿密な計画を持つクーデターともされ、別のあり得たシナリオもさまざまに描かれている。夥しい研究によっても全容が解明されているとは言い難く、とくに北一輝の思惑や関与については、定説がない。そのようなわかりにくさの集約した場面が、2・26事件後の北の「無為無策」という「謎」である。

・考えられる別のシナリオについて、首謀者の一部にそのようなプランや思惑がじっさいにあったという指摘が散見する。筒井清忠氏によれば、血盟団事件や5・15事件は、「暗殺を行なうことそれ自体が目的」の「捨石主義」的なテロであったが、2・26事件は「政権奪取計画」を持ったクーデターだった。

 この事件の「成功」の可能性を検討」するために、筒井は青年将校を、「斬奸」のみを目的とする「天皇主義」グループと、「政治的変革」を目指した「改造主義」グループに二分する。磯部浅一らを中心人物とする後者は、『改造法案』を「具体的プログラムとして」、「宮城占拠」や工作により、「皇権」「政治大権」を奪取奉還することを目指していた。

・政府や軍部内にさまざまな動きがある中で、天皇の意向を受けた木戸が合法的な手続きを踏んで「鎮圧」を決定した、というわけだが、別の「法」に基づく合法性があり得たとすると、これは「合法性」の戦い、さらには「法」そのものの戦いと言える。この「磯部と木戸の戦い」というところを、背後まで突き詰めて「北と天皇の戦い」と言い換えても、同じことが言えそうである。

<北一輝の社会思想>

・「非合法、合法すれすれ」の煽動家とされる北は、若き日の社会思想では、その理想とするところも、論説による啓蒙や投票といった手段についても、合法的なもので一貫していた。

 初期の論考「咄、非開戦を云ふ者」や「社会主義の啓蒙運動」そして集大成『国体論及び純正社会主義』においては、「国家の力によりて経済的平等を実現」「鉄血によらず筆舌を以て」「立法による革命」「純然たる啓蒙運動」「普通選挙権の要求」「「投票」によりて」など、「方法は急進的にあらず、手段は平和なり」と主張される。その「理想を実現」するため、対外的には「帝国主義の包囲攻撃の中」において「国家の正義を主張する帝国主義」の必要が説かれる。戦争の擁護というリアル・ポリティックスも、好き嫌いはともかく、現代においてすら、非合法な主張ではない。

・『改造法案』には、巻一で「憲法停止」「戒厳令」、巻二で「在郷軍人会議」(検閲を憚ったもので、実は「軍人会議」とされる)の革命思想が出ている。「啓蒙」と「投票」という平和的手段による「革命思想」から、革命は合法的にはできないというリアリズムに変わった転換点は、『支那革命外史』の前半部と後半部のあいだに求められている。北自身、このころから「信仰」に専心したと供述し、また暗殺された友人・宋教仁の亡霊が現われた、というエピソードもしばしば語られている。

<「霊告」という私秘的ビジョン>

・北一輝の影響は、「統帥権干犯」といった政治的「魔語」の操作だけでなく、「霊告」という呪文となって、財界や軍部に浸透していた。法華経読誦を手段とする「霊告」については、以前から断片的なエピソードとして言及されてきたが、松本健一氏が、『北一輝 霊告日記』として編集刊行して以来、全貌が知られるようになった。1929年から1936年まで記録されている「霊告」について、松本氏の最も短い説明は、北が法華経を読誦していると、その横に座っていた妻すず子が何か口走り、それを北が解釈、筆記したもの、となる。

・シャーマン研究の用語を使った説明では、「シャーマンの言葉」を「プリースト」が聞き取り、読みとったものとされる。「プリースト」という言葉の使い方はやや不適切であるが、これは「霊告」がシャーマニズム研究の対象となるべきことを指摘したという意味で、重要な説明である。その機能については、「北の漠然とした思いや心理に、表現を与える」「神仏の名を借りて誰かに自分の思いや考えを述べる」もの、とされている。松本氏が強調しているのは、「霊告」と前後の事件を読み合わせると、それが「幻想」の記述ではなく、「時々の事件をふまえての記述」になっていることである。たとえば、「軍令部の動きと政友会、そして政治の裏面における北一輝の暗躍とは、明らかに連動する」として、ロンドン海軍軍縮条約が調印された際の、「朕と共に神仏に祈願乞ふ」という明治天皇名の霊告は、「明治天皇の名を借りて……国家意志を体現しようとしたもの」とされる。5・15事件に際しての山岡鉄舟名その他の霊告が、どれも「まだ時期が早い」といって止めるのは、明治維新の「事例」を引いて「忠告」するもの、と解釈している。

・「霊告」という「宣託」の出所について、北一輝研究では「想像力」「無意識」といった心理学用語で済まされる一方、「心霊学」といった分野が示唆されることもある。北一輝研究の一里塚とされる田中惣五郎氏は、「お告げ」や「亡霊」について、「心霊学の域にぞくする」として、そのような説明を求めている。

・大正半ば以降の北が法華経読誦に没頭したこと、「亡霊」と語り始めたこと、とくに「霊告」を綴ったことについて、これまで多くの論者によって二つの契機が指摘されている。一つは、暗殺された友人、宋教仁の幻影を見たことである。もう一つは、法華経読誦による神がかりを永福虎造という行者に習ったことである。どちらも、弟・昤吉の記録が重要な典拠になっている。

・こういう問題を考えるときに、最も巧みな用語を工夫しているのは、やはりC・G・ユング(1875―1961)である。ユング的な解釈では、無意識は集合的無意識にまで拡大し、「漠然とした思いや心理」の範囲は限定が難しくなる。藤巻一保氏は霊告について、北の自我が後退し、「神仏」=「深奥の闇に形成された意識化の影の自我」が前面に出てきた者、と説明する。「影」とはユング心理学の用語である。『霊告日記』を、「その特異な性格から、アカデミズムが言及を避けてきた著作」「霊界通信録」と位置付けた藤巻氏の著作は、たしかに「まとまった分析は、筆者の知るかぎり、本書が最初のもの」とは言える。

・藤巻氏は北昤吉の記述などから、北の特徴を八つにまとめている。そのうち、「神秘的性質」「霊感」「神憑り的」「幻視者」の四つは「作家や詩人、画家」などとも共通し、五つ目の「法華経の「狂信者」」も少なくないが、六つめから八つめの「霊界通信ができる」「ウィルソンを呪殺したと確信する呪術者である」「予言者である」の三つについては、これらは「シャーマニズム研究に共通する難問であり、藤巻の説明もその前で足踏みしている。そこから一歩でも踏み出せば、ウィリアム・ジェイムズらの心霊研究が待っていることに気付くだろう。

<「法」のせめぎあい>

・西山茂氏の言う「霊的日蓮主義」には、日蓮的な仏法(宗教的世界観)、世法(実定法)に加え、さらに私秘的なビジョンという、三つめの「法」が関わる。この私秘的ビジョンを「心象」と呼ぼう。宮沢賢治が「自分の目に映る情景」を他人に伝えるときに用いた言葉を、用語として採用するものである。

・この三つの法は、宗教とまとめられる世界に、さまざまな組み合わせで交錯している。北一輝の場合、霊告(心象の範囲)は、法華経読誦(仏法の範囲)を手段として、国家改造(世法の範囲)に関与している。国体論の中にも、記紀神話(宗教法の範囲)、と統治(世法の範囲)と、各人のビジョン(心象)が交錯している。

・北夫妻のシャーマニズム技法について、藤巻氏の指摘で、最も重要なのは、永福から伝えられた「神懸かり」は「安直な方法」「興味本位の見世物」「民間巫覡や「霊術家」の降神法」「催眠術で身につけた精神統一」および自己暗示」であり、「複雑な手続きと厳格な次第」を持つ「日蓮宗の寄祈禱」とは異なる、という点である。

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)

北一輝(きたいっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死した。

1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に『日本改造法案大綱』を刊行し「国家改造」を主張した。

その後、1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した(二・二六事件 背後関係処断)。

死刑判決の5日後、事件の首謀者の一人とされた陸軍少尉の西田税らとともに、東京陸軍刑務所で、北は銃殺刑に処された。この事件に指揮・先導といった関与をしていない”北の死刑判決”は、極めて重い処分となった。

これ以降、梅津美治郎や石原莞爾など陸軍首脳部は、内閣組閣にも影響力を持つなど、軍の発言力を強めていった。

なお、北は、辛亥革命の直接体験をもとに、1915年(大正4年)から1916年にかけて「支那革命外史」を執筆・送稿し、日本の対中外交の転換を促したことでも知られる。大隈重信総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名である。

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