バチカンは国家だが、多くの専門家が世界最大の情報組織であるという。それは13億のカトリック教徒がある意味、情報員で兵士だからだ。(2)

<教皇 バチカン市国>

<世界で最も小さく最も影響力のある国家>

<バチカンは国家だが、多くの専門家が世界最大の情報組織であるという。それは13億のカトリック教徒がある意味、情報員で兵士だからだ。>

<常に戦争と外交の中に存在した血なまぐさい宗教団体>

・バチカンの規模は極めて小さく、国家予算も日本円にして300億円程度である。

・財源は宗教関係図書の出版、美術品製作、市内観光の観覧料、信徒からの募金でまかなわれている。しかし、この金額はあくまで国としての表向きの予算であり、宗教団体としての予算は別である。国家運営とは別に、バチカンは多額の宗教資金を投資運用している。この金の動きは外部からはうかがい知ることができないが、こちらは兆を超えると噂されている。

・ローマ帝国時代から今日まで、常に法王庁は政治と戦争の中にあり続けた。

 第2次世界大戦では、ヒトラー率いるナチス・ドイツと深い交流を持ち、イタリアのファシスト党への協力もおこなっていた。

・戦争末期には、多くのナチ党員の国外脱出を手伝い、枢軸側の敗戦が確定的になると、多数の司祭が各国に政治亡命を果たしている。

<戦国時代から続くカトリックの情報収集>

・バチカンに情報をもたらす者は、各国に散っている司祭たちである。

 日本の戦国時代に、イエズス会などの宣教師たちが本国に詳細な報告書を送っていたことはよく知られているが、その伝統は今も脈々と息づいている。

・バチカンの人口は2019年度で825人。東京の代々木公園よりもわずかに狭い広さのこの国が、179もの国と地域に大使または外交施設を派遣しているのである。

 バチカンは人口825人の国ではなく、実質は信者13億4000万人から構成されている巨大な国なのだ。そしてその力の源泉に、世界中の外交使節、司祭や信者からもたらされるさまざまな情報がある。まさに、バチカンこそが世界最大の情報組織と呼べる存在である。

<カナダ 安全情報局>

<国境警備隊を起源とする諜報機関>

<カナダの安全保障に関する国内外の情報収集と分析を行い、政策立案や軍の戦略策定、テロリズム対策などに資する国家機関。>

<国際テロ対策や対スパイ活動、サイバー攻撃に対抗する>

・カナダの安全保障に関する国内外の情報収集と分析を行い、政府に報告をしながら政策立案や軍の戦略策定、テロリズム対策などに資する国家機関が、カナダ安全情報局(CSIS)である。

・CSISの広報官は2012年9月、カナダのメディアの取材に答える形で、カナダの多くの大手企業幹部が中国のハッカーに狙われている実態を警告している。

<中国の動きに警戒を強める局長自らがチャイナ批判>

・局長によれば、「一部の外国政府」は無料で高官を招待し、これを利用して自身のスポークスマンになるように仕立てるといい、これこそが中国のロビー活動における常套手段だと警告している。

<オーストラリア 保安情報機構>

<テロリズム、スパイ対策が主任務の諜報機関>

<MISやCIAなど連合国のノウハウを得て戦後発足した豪州インテリジェンス機関。独自のスパイ衛星の獲得を目指して米国との情報共有を開始。>

<ユダヤ系豪州人が謎の自殺  正体はモサドのエージェント>

・オーストラリア保安情報機構(ASIO)は、豪州国内の情報収集・分析を行う専門機関とされているが、実際にはテロ、スパイ対策を目的に、国外での情報対策や防諜も主任務のひとつである。

<アラブ系諜報員の獲得が課題 独自のスパイ衛星獲得を模索>

・近年におけるASIOの悩みのひとつが、豪州国内に1000人以上いると言われる中国人スパイと、国際テロ組織と関係しているムスリム過激派の存在である。

<イスラエル 諜報特務庁>

<CIAを超える世界最強のインテリジェンス機関>

<諜報能力と作戦遂行能力は世界トップ。アラブ諸国のあらゆる政府機関に入り込み、アラブ社会でイスラエルに見えていない物はひとつも無い。 >

<首相直轄の最強組織 アラブの極秘会議も筒抜けに>

・世界最強の諜報機関は、米CIAでもロシアFSBでもイギリスMI6でもなく、イスラエルのモサドやシャバックであるというのは、多くの専門家の一致した意見である。

・活動根拠となる法律や憲法が存在しないため、厳密には法的に存在しない組織ということになる。そして、このモサドとシャバックの他に、法的に定められたアマンという国防参謀本部の下にある国防軍情報部がある。このアマンから選ばれたメンバーがモサドやシャバックに移っていく。

・諜報ネットワークを世界中の隅々まで張り巡らしているイスラエルの諜報機関は、アメリカやロシアでさえまったく摑んでない情報を、どこよりも早く獲得していることが多い。

<海外潜伏の元SSを拉致  恐るべき作戦実行能力 >

・イスラエルの諜報機関のなかでも、特にモサドが世界にその実力を最初に示したのは、1960年の「アイヒマン捕獲作戦」の成功だ。

<日本のスパイ組織>

<CIRO 内閣情報調査室>

<「日本版CIA」と呼ばれる内閣情報調査室は、日本の情報組織の頂点であり、国内のインテリジェンス・コミュニティのまとめ役である。>

<インテリジェンスにも影を落とす縦割り行政の悪弊>

・内調は内閣官房に所属し、本来的には他のインテリジェンスを統括する立場にある。

<国際テロ対策や対スパイ活動、サイバー攻撃に対抗する>

・内閣情報調査室には、各省庁のインテリジェンス活動の連絡と統括、情報の一元化という役割が付与されている。

<DIH 防衛省情報本部>

<国内の情報組織としてもっとも実戦的な機関>

<防衛省情報本部は、日本の情報組織としてはもっともレベルが高い。教育機関を持ち、合衆国との連携も視野に入れた実践的組織である。>

<防衛省直轄の自衛隊運用のための情報組織>

・また、米軍の陸・海・空・海兵隊の4軍にそれぞれ情報機関があるように、陸自、海自、空自にもそれぞれ情報部隊が設置されている。

<高い通信傍受能力はアメリカからも期待されている>

・防衛省は小平駐屯地に養成機関を設置している。

・しかし、自衛隊法は他国の軍法よりは規定が甘く、防衛機密の漏えいに関しても厳罰に処することができない。

<MIC 陸上自衛隊中央情報隊>

<陸上自衛隊を支える戦術レベルの情報組織>

<陸上自衛隊の部隊運用のため、戦術レベルの情報を収集することを目的に新設された中央情報隊。自衛隊の先導役として大いに期待される。>

<海外派遣での情報収集のため新設された陸上自衛隊独自の組織>

・中央情報隊は、自衛隊が海外派遣されるに際し、現地での情報収集能力の強化を狙ったもので、対人情報工作を担当するいわゆるヒューミント要因も含む部隊である。

<他国頼みだった海外派遣での情報収集>

・面白いのは中央情報隊のシンボルマークである。欧米諸国の情報機関のシンボルマークには鳥を用いているケースが多いが、CIAは、エジプト神話のホルス(太陽神ラーの息子で、天空神・隼の神)である。

・中央情報隊では、同じ鳥であるが、こちらは3本足の八咫烏をモチーフとしている。

<PSIA・FAID 公安調査庁・警察庁外事情報部>

<日本の治安維持のための情報組織>

<国内の治安維持のために存在する二つの組織。敵対する外国勢力や、国内の破壊的組織、テロリストを監視し、テロ行為を未然に防ぐ!>

<国内の破壊活動を防ぐ公安調査庁>

・調査対象は、テロリストや暴力的宗教団体、革命主義者、極右、極左などであり、まさに国内の治安維持の根幹ともいえる存在である。

<巨大な警察組織を背景とする警察庁の情報組織、外事情報部>

・公安調査庁とライバル関係ともいえる存在が、警察庁のインテリジェンス部門である外事情報部である。

<陸軍中野学校>

<戦前にあった日本のスパイ養成所>

<東京中野に、日本陸軍の極度に実際的なスパイ養成機関が存在した。それが、世に名高い陸軍中野学校である>

<諜報などの秘密戦に特化した旧日本陸軍の、実在した学校>

・日本には戦前、スパイ養成所ともいえる秘密の訓練学校が存在していた。

・創設当初は純粋なスパイ養成機関であったが、太平洋戦争の開戦と共に実質的にゲリラ戦学校に移行する。

 学生は陸軍の関係学校に移行する。学生は陸軍の関係学校出身者などから選抜されたが、実際には民間大学からの転向が多数を占めている。

・これらは将来的には民間人に混じって情報戦に従事することが予測されたため、いわゆる「軍人らしさ」を排除する目的で行われたのである。

・求められる信条は「地位や名誉を求めず日本の捨て石となって朽ち果てること」であり、軍隊が重視する栄誉とは異質である。

 また、捕虜となっても生き延びて二重スパイとして任務を遂行せよ、と実に徹底した信念を持って教育がなされていた。 

<東南アジアで花開いた中野学校で花開いた>

・開戦初期、陸軍の攻略目標はマレー半島であった。開戦に当たり出身者で構成されたF機関が現地に侵入し、住民の慰撫工作、英軍の大半を占めるインド人兵士に投降を呼びかけた。

・卒業者は戦後も学校の精神を貴び、日本国内外で連合軍に対してゲリラ戦を実施し、結果的にアジアの独立運動に関与した。

<スパイ事件簿>

<1963年 ケネディ大統領暗殺事件>

<大統領はCIAに殺されたのか>

<46歳の若き大統領が遊説先のダラスで暗殺された。踏んではいけない虎の尾を踏んだケネディには、CIAやマフィア、産軍複合体など多くの敵が存在していた。>

<事件の概要>

・第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが1963年11月22日金曜日、テキサス州ダラスで暗殺された。

・その中で信憑性が高いのが、CIA説、マフィア説、産軍複合体説など。事件から50年が経過した今も謎に包まれている。

<ことごとく対立していたケネディとCIA>

<弾は曲がって飛んだ ⁉ 「魔法の弾道」に隠された謎>

・しかし、これには多くのジャーナリストや研究者が異論を唱えた。狙撃された車内におけるケネディと知事の位置関係から考察すると、弾道のつじつまが合わないのである。

<真相が明らかになるのはいつの日か?>

<銃声は3発ではなく5発 犯人は3人以上いたのか>

・最近になって新たな証拠も出てきている。一つは、ウォーレン委員会が報告した「銃弾3発説」を否定するものだ。

<犯人はケネディ憎しのCIAか今も囁かれる巨大な陰謀説>

・いずれにせよ、ケネディの死については、事件から60年経った今も多くが謎のままだ。

・こうして謎の死を遂げた事件関係者は32人にも及ぶ。アメリカでは、今もケネディ暗殺事件の真相を解明しようと動くのは危険だとさえ言われているのだ。

<1970年~現在 北朝鮮の日本人拉致事件>

<ある日、国民が突然拉致されてしまう恐怖>

<北朝鮮による日本人拉致は、政府認定の12件17名だけではなく、その数倍以上が拉致されたと推測されている。拉致事件は、今後も追及すべき政府の最重要課題のひとつである。>

<事件の概要>

・1970年頃から80年頃にかけて、北朝鮮による日本人拉致が多発した。現在、17名が政府によって拉致被害者として認定されているが、それ以外にも多数の拉致被害者が存在すると推測される。

 2002年9月、北朝鮮は日本人拉致を認め、同年10月には5人の被害者が帰国しているが、他の被害者については、未だ北朝鮮から納得のいく説明はない。

・近年になり、脱北した元北朝鮮情報部員より、海難事故に見せかけての拉致が多数行われていたという証言があった。日本人拉致事件の闇は、まだまだ深い。

・日本に限らず、海外でも、韓国やアメリカ、ヨーロッパ諸国など14ヶ国からの拉致が報告され、国際的には北朝鮮拉致問題と呼ばれている。

<今も北朝鮮は戦争継続中>

<日本人を拉致することで北朝鮮の情報部には各国での自由な行動という、大きなメリットが発生する>

・朝鮮戦争は、1953年に休戦しているが、公的には現在もまだ終結していない。つまり、今も北朝鮮と韓国とは、戦争中ということになる。

・一方日本国内での年間行方不明者は8万人に及ぶ。理由は犯罪被害、失踪、孤独死、など多数に上る。原因を一概には断定できないが、北朝鮮関与と考えられる事件が主に日本海沿岸で起こっており、同時期に不審船の活動が見られるなどの共通点もあった。

・1988年、国家公安委員長が「北朝鮮の拉致の疑いが十分濃厚」との見方を示し、さらに北朝鮮亡命工作員により金日成主席から指示が出ていたとの証言が得られた。

<帰国した者以外の拉致被害者たち>

・それまで、事件そのものがなかったと主張していた北朝鮮当局が、全員ではないにしろ、5人の拉致被害者の日本への一時帰国を認め、それが実現した。

<闇に埋もれた多くの拉致事件>

<近年では日本のホームレスから国籍を買って日本人になりすましている>

・また、近年では、北朝鮮を脱出した北朝鮮の情報部員が、漁船などを襲い、使えそうな船員を拉致して、それ以外は船ごと海に沈めるという作戦が頻繁に行われていたと証言している。

・近年では、拉致はせず、ホームレスから戸籍そのものを買い取ったり、養子縁組などを多用してパスポートや戸籍を作成したりと、手口そのものが大きく変化していると研究者は警告している。

 

・また、日本人拉致であれば問題となるが、本人の意志とは無関係な形で、在日朝鮮人が拉致されてしまうケースもあったと推測されている。

『自衛隊の闇組織』 秘密情報部隊「別班」の正体

石井暁   講談社   2018/10/17

<自衛隊の“陽”と“陰”>

・度重なる災害派遣での献身的ともいえる活動などにより、東日本大震災翌年の内閣府の世論調査で自衛隊に対する好感は91.7パーセントに達し、調査を始めた1969年以来最高となった。(中略)しかし、災害派遣は自衛隊の一面に過ぎず、その本質があくまでも軍事組織にあることは論を俟たない。さらに言うと、非公然の秘密情報部隊「別班」は、首相、防衛相にも知らせずに海外展開し情報収集活動を行うという、帝国陸軍の“負の遺伝子”を受け継いでいる武力組織なのだ。自衛隊には災害派遣に象徴される“陽”の面と、「別班」に象徴される“陰”の面があることを、私たちは忘れてはいけないと思う。

<おもな任務はスパイ活動>

・別班は、中国やヨーロッパなどにダミーの民会会社をつくって別班員を民間人として派遣し、ヒューミントをさせている。有り体に言えば、スパイ活動だ。

 日本国内でも、在日朝鮮人を買収して抱き込み、北朝鮮に入国させて情報を送らせるいっぽう、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)にも情報提供者をつくり、内部で工作活動をさせているという。また、米軍の情報部隊や米中央情報局(CIA)とは、頻繁に情報交換するなど緊密な関係を築き、自ら収集、交換して得た情報は、陸上自衛隊のトップの陸上幕僚長と、防衛省の情報本部長(情報収集・分析分野の責任者)に上げている。

 ではいったい、どのような人物が別班の仕事に従事しているのかというと――陸上自衛隊の調査部(現・指揮通信システム・情報部)や調査隊(現・情報保全隊)、中央地理隊(現・中央情報隊地理情報隊)、中央資料隊(現・中央情報隊基礎情報隊)など情報部門の関係者の中で、突然、連絡が取れなくなる者がいる――それが別班員だというのだ。

・「はじめに」でも紹介したように、別班員になると、一切の公的な場には行かないように指示される。表の部分からすべて身を引く事が強制されるわけだ。さらには「年賀状を出すな」「防衛大学校の同期会に行くな」「自宅に表札を出すな」「通勤ルートは毎日変えろ」などと細かく指示される。

 ただし、活動資金は豊富だ。陸上幕僚監部の運用支援・情報部長の指揮下の部隊だが、一切の支出には決裁が不必要。「領収書を要求されたことはない」という。情報提供名目で1回300万円までは自由に使え、資金が不足した場合は、情報本部から提供してもらう。「カネが余ったら、自分たちで飲み食いもした。天国だった」という。

 シビリアン・コントロールとは無縁な存在ともいえる「別班」のメンバーは、前述の通り、全員が陸上自衛隊小平学校の心理戦防護課程の修了者。同課程の同級生は、数人から十数人おり、その首席修了者だけが別班員になれるということを聞いて、すとんと胸に落ちるものがあった(後から、首席でも一定の基準に達していないと採用されないも聞いた)。

 同課程こそ、旧陸軍中野学校の流れをくむ、“スパイ養成所”だからである。

<中野学校の亡霊>

・中野学校は1938年7月、旧陸軍の「後方勤務要員養成所」として、東京・九段の愛国婦人会別棟に開校した。謀略、諜報、防諜、宣伝といった、いわゆる「秘密戦」の教育訓練機関として、日露戦争を勝利に導いたとされる伝説の情報将校・明石元二郎大佐の工作活動を目標に“秘密戦士”の養成が行われた。1940年8月に中野学校と正式に改称し、1945年の敗戦で閉校するまでに約2000人の卒業生を輩出したとされる。

<影の軍隊>

・<私は嘘と偽の充満した自衛隊の内幕を報告して先生の力で政治的に解決して頂きたいのでこの手紙を書きます>との書き出しで始まり、<自衛隊にJCIA(筆者註・CIAの日本版)はないと内局の者供がいっていますが、それは嘘です。陸幕二部別班はJCIAです>と暴露。さらに<内島二佐が別班長で、私達24名がその部下になっています。私達はアメリカの陸軍500部隊(情報部隊)と一緒に座間キャンプの中で仕事をしています。全員私服で仕事をしています。仕事の内容は、共産圏諸国の情報を取ること、共産党を始め野党の情報をとることの2つです>という内容だった。

 共産党機関紙「赤旗」はこの手紙の情報に基づき、チームを組んで取材を開始。その連載はのちに『影の軍隊「日本の黒幕」自衛隊秘密グループの巻』としてまとめられた。同書によると、手紙には次のような文章も記されていたという。

<外国の情報は旅行者や外国からの来日者に近づいて金で買収します。日本からの旅行者には事前に金を渡して写真やききたい事を頼みます。(中略)一部は500部隊からも貰います>

 二部班員は官舎にも入れて貰えず、進級や特昇も他の者より不利です。仕事の内容は家族にも言えず毎日が暗い日々です。私達の本部は座間ですが、仕事の事務所は、東京に6ヵ所、大阪に3ヵ所、札幌2ヵ所、福岡1ヵ所です。興信所や法律事務所などの看板を出しています>

<金大中事件の元自衛官達も私達と一緒に仕事をしていた連中です>

<私達が国民の税金を多額に使って、国民にかくれてコソコソと仕事をしているのに高級幹部はヤンキーとパーティーで騒いでいます。本当に腹が立ちます。自衛隊を粛清して下さい。私達がここで仕事をしていることは一般の自衛官は幹部でも知りません。長官も陸幕長も知らないと思います。代々の二部長がやっている事でしょう>

<謎の興信所>

・「赤旗」がその存在を炙り出した「影の軍隊」は、いまも存続しているのか。さらには、海外展開と情報収集活動について追及したい――こうした思いを私と共有してくれたのが、勤務する共同通信社会部の防衛庁(当時)担当の後任記者・中村毅だった。

・端緒の情報を入手直後、その中村と最初に向かったのが、前述の金大中事件に関与したとされる元3等陸佐・坪山晃三の事務所だった。JR東京駅の八重洲口にほど近い、古びた雑居ビルの一室が、元3等陸佐が所長を務める興信所「ミリオン資料サービスだ」。

・取材の準備作業としては完璧だったが、結果的には完敗だった。「さすが元別班員。一筋縄ではいかない」と思った。2時間以上におよぶ長時間インタビューの間、元3等陸佐・坪山はずっと温厚そうな表情を保って冷静に話してくれたが、私たちが本当に聞きたいこと、さらには記事にできそうなことは一切話さなかった。それはそうだろう。初対面の新聞記者の取材にベラベラ口を開くようでは、別班員になれるはずもなかったし、もしなれたとしても途中でクビになってしまうだろう――中村と二人でそう納得するしかなかった。

<キャンプ座間の看板と小平学校の石碑>

・さらに、赤旗取材班が迫った元別班長で元2等陸佐・内島洋が週に5日も通勤していたという米陸軍キャンプ座間の第500部隊について調べると、部隊はその後、米ハワイ州に移駐し、隷下部隊の第441軍事情報部隊が座間に駐留している、とのことだった。

 ところが、2013年3月26日、陸上自衛隊中央即応集団が朝霞駐屯地から、キャンプ座間に移転した際の取材で、新たな発見があった。キャンプ座間内をバスで見学した際、敷地内に「500 MI BRIGADE(第500軍事情報旅団)」と入口に掲げたビルを見つけた。第500部隊の後継部隊が、在日米陸軍司令部のあるキャンプ座間に今も存在していたのだ。それは、米軍と自衛隊の情報をめぐる極めて密接な関係を示していた。

・また、陸上自衛隊調査学校(現・小平学校)の対心理情報課程(現・心理戦防護課程)修了者たちのグループで、非常事態に招集され、ゲリラ戦、遊撃戦を戦うことが使命とされる「青桐グループ」について、新たに確認できたことがあった。前述したように、別班とは兄弟のような同じ“影の軍隊”だが、防衛庁(防衛省)は一貫して、その存在を否定してきた。

 しかし、私が新聞記事として出稿する直前の2013年春、小平学校関係者に依頼して同校敷地内に「青桐」と書かれた同グループの象徴的な石碑が現存していることを確認、写真撮影してもらった。

<別班と三島由紀夫の接点>

・別班と青桐グループは、金大中事件の約3年前に起きた「三島事件」にも大きく関わっていた。1970年11月25日午前11時ごろ、当時ノーベル文学賞の有力候補とも言われていた三島由紀夫が、民間防衛を目的とした私兵組織「盾の会」の森田必勝らメンバー4人と市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に車で乗り付け、総監の益田兼利に面会後拘束し、幕僚らを斬りつけた上で、三島がバルコニーで演説。自衛官にクーデターを呼びかけた後、三島と森田は割腹自殺した。

・三島が1967年4月に初めて自衛隊に体験入隊し、翌年10月には「盾の会」メンバーらとともに再び体験入隊してさまざまな訓練を受けていたことは、一部で知られていた。体験入隊先は陸上自衛隊の幹部候補生学校、富士学校、第1空挺団、航空自衛隊の百里基地などで、精神教育、服務、基本教育、武器訓練、野外勤務、戦術、通信、体育などの一般的な教育訓練を受けた。

・しかし実は、三島らは訓練を通じて自衛隊の“最も深い影の部分”も垣間見ていた。前述の旧陸軍中野学校教官から陸上自衛隊に入隊し、当時陸上自衛隊調査学校情報教育課長を務めていた山本舜勝(後に調査学校副校長)は、中野学校元教官で調査学校長などを歴任した藤原岩市の紹介で、三島と面会。山本は調査学校の対心理情報課程と同じような諜報、防諜、謀略の教育訓練を指導するなど、三島と「盾の会」にとって、“主任教官”と言える存在になっていったのだ。

 訓練は、きわめて実戦的な内容だった。有名作家だと誰にもバレないように変装して東京都台東区の山谷地区に潜行する訓練、厳戒態勢の陸上自衛隊東部方面総監部への潜入訓練、チームプレーによる尾行訓練……。調査学校対心理情報課程学生との対抗訓練では、一定の時間内に相手部隊の規模、装備の状況、周辺の環境などを把握する競争をしており、三島および「盾の会」と、別班、青桐グループとの深い関係がうかがえる。

・山本は2001年6月に著した『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した事実の告白』の中で、青桐グループについてこう評価している。

<私は、「青桐グループ」であれ、三島の「盾の会」であれ、世界の主要な国家が自らを守り、世界平和を実現するために持っているような不正規軍として確立され、十分にその役割を果たすことになったとしたら、それはむしろ望ましいことであり、日本という国家に安寧をもたらすものであると考えている>

<正規軍に対して、情報活動を担い、暗黙裡の活動をも行うこの部隊が、仮に「影の部隊」と呼ばれたとしても、私はそのことに格別抵抗を感じはしない。今はその状態にはほど遠いが、「いずれそうなるだろう」と言われることを悪いこととは思わない>

・三島と「盾の会」の訓練を指導したことについては、次のように書いている。

<三島はある時期から私の指導の下での訓練を受けた。私は三島の考えを知ったときから、その考えに共感し、できればその実現に手を貸したい、と言うより、ともにやっていきたいと考えていた>

<祖国防衛軍の構想が不正規軍の考え方に基づいている以上、私は三島らに調査学校対心理情報課程の学生に対するのと同じ訓練を課さねばならなかった>

・別班、青桐グループと同じ内容の教育訓練を受け、民間防衛組織、不正規軍として憲法改正を目指す自衛隊のクーデターに参加することを夢見た三島は、1969年10月21日の「10・21」ベトナム戦争反対国際反戦デーに治安出動が発令され、それを契機に自衛隊がクーデターを起こすことを念願していた。しかし、最後まで治安出動が命令されなかったことに深い絶望を感じた三島は、「三島事件」への道を走り始めていった。

<非公然組織になった経緯>

・「秘密は墓場まで持って行く」ことが、自衛隊情報幹部の鉄則と仄聞していたが、山本舜勝が『自衛隊「影の部隊」』を著して以降、別班の関係者たちが、堰を切ったように次々と自らの経験を語り始めた。

 2008年10月、陸上幕僚監部第2部長(情報部長)で“朝鮮半島問題のエキスパート”と称された塚本勝一は、在ソウル日本大使館で初代の防衛駐在官を務めていた時に発生した「よど号事件」について、自著『自衛隊の情報戦 陸幕第二部長の回想』でその内幕を詳述している。

・<調査学校で情報の基本を学び、この分野に興味を示した十数名の要員を陸幕二部の統制下にある部隊に臨時の派遣勤務とし、盲点となっていた情報の穴を埋める業務の訓練にあたらせることとなった。(中略)陸幕第二部は直接、情報資料の収集には当たらないが、情報のサイクルの第三段階、情報資料の処理、その評価と判定をするためには、それに必要な情報資料の収集も行なう。陸幕第二部の要員が部外の人と付き合って話を聞いても、職務から逸脱したことにならない>

<後ろめたいこともなく、ごく当然な施策なのだから、部外の人を相手にする部署を陸幕第二部の正規の班の一つとするべきだったと思う。しかし、教育訓練の一環ということで、予算措置の面から陸幕内の班にできなかったようである。私が陸幕第二部長であったときも、このヒューミントは教育訓練費によっていた。そのためもあり、都内を歩く交通費にもこと欠くありさまであった>(筆者註:私が直接取材した元別班員たちの証言によれば「活動資金は潤沢だった」とのことだが、草創期資金難だったようだ)

・松本は著書の中で調査学校の対心理情報課程の創設について次のように説明している。

<調査学校の研究員として情報部隊の構築と教育体系を組み立てていた時代に、同僚の池田二郎は調査学校のカリキュラムの一つに「対心理課程」という名称をつけた。「対心理課程」というのは、実は米軍のグリーンベレーに相当する特殊部隊を育成することを想定した教育課程だった。初期の私たちのイメージでは、自衛隊の中でも精鋭を集めたレンジャー部隊の中から選別し、さらに独立した部隊として、情報収集から特殊工作活動を行うこともできる特殊部隊を養成しようという目的だった>

<彼らは知的ゲームのような「心理戦」を期待していたが、実際に山野や市中に入り込むような特殊部隊の訓練に戸惑っていた>

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コンタクティとチャネラーの情報を集めています。 森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

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