バチカンは国家だが、多くの専門家が世界最大の情報組織であるという。それは13億のカトリック教徒がある意味、情報員で兵士だからだ。(3)
<ムサシ機関=小金井機関>
・阿尾の著書でムサシ機関長(別班長)だったことを暴露され、(多くのマスコミから電話や手紙による取材攻勢を受け、その対応に苦慮した)平城弘通は、別班の元トップとして(いまさら当時の情報活動のことを機密にしても、かえって誤った事実が歴史に残るのではないか)と考え、2010年9月に『日米秘密情報機関「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』を出版した。
同署には阿尾への強烈な批判も含まれているが、さすがに元トップが著した内容は、別班の創設の経緯や当時の組織構成、所属要員、経理処理、自身の別班長就任のいきさつなどが詳細に書かれており、ここまで紹介してきた他の刊行物に比べても、史料的価値は高い。
<別班と米軍の関係>
・そもそも、旧帝国陸軍の“負の遺伝子”を引き継ぐ別班は戦後、なぜ“復活”したのか――。一連の告白本が刊行されるまで、その誕生の経緯は長い間、謎とされてきた。
しかし、元別班長の平城によれば、1954年ごろ、在日米軍の大規模な撤退後の情報収集活動に危機感を抱いた米軍極東軍司令官のジョン・ハル大将が、自衛隊による秘密情報工作員養成の必要性を訴える書簡を、当時の吉田茂首相に送ったのが、別班設立の発端だという。
その後、日米間で軍事情報特別訓練(MIST)の協定が締結され、1956年から朝霞の米軍キャンプ・ドレイクで訓練を開始。1961年、日米の合同工作に関する新協定が締結されると、「MIST」から日米合同機関「ムサシ機関」となり、秘密情報員養成訓練から、情報収集組織に生まれ変わった。
・ムサシ機関の情報収集活動のターゲットは、おもに共産圏のソ連(当時)、中国、北朝鮮、ベトナムなどで、当時はタイ、インドネシアも対象となっていた。平城によると(その後、初歩的活動から逐次、活動を深化させていったが、活動は内地に限定され、国外に直接活動を拡大することはできなかった)という。
それでは、いつから海外へ展開するようになったのだろうか。
<ヒューミント部隊一元化>
・幹部経験者の話をもとに取材を進めていくと、情報本部の動きが徐々に掴めてきた。そもそも、情報本部が陸海空3自衛隊のヒューミント活動を見直す契機となったのは、政府が2015年に「国際テロ情報収集ユニット」を発足させたことだった。同ユニットは首相官邸が司令塔となり、テロを未然に防ぐべく情報を集約することを目的としていた。防衛省も要員を出向させているが、活動の実体は情報収集のプロである警察庁と在外公館を抱える外務省が主導する。
しっているようで、知らなかった『自衛隊の今がわかる本』
菊池雅之 ウェッジ 2018/11/17
<怖かった体験 硫黄島取材>
・ゴキブリと怖い話が大の苦手。そんな私が、世にも奇妙な体験をした時のことを書いてみよう。部隊は、小笠原諸島の南端に位置する硫黄島。
行政区分上は、東京都内ではあるが、都庁から約1200㎞も離れている南海の孤島だ。東西8㎞、南北4㎞しかないこの島を巡り、第2次世界大戦末期には熾烈を極める戦いが繰り広げられた。日本軍の死者は当時島にいた守備隊の96%にあたる約2万129名にもなった。まさに玉砕。一方の米側も死者約6821名、けが人2万1865名と被害は大きかった。
・現在、毎年3月中旬に日米両英霊の死を弔うために、硫黄島で慰霊祭が行われている。
・慰霊祭は午後からだったので、米軍の艦砲射撃により山肌がえぐれた摺鉢山にも登った。
硫黄島には、海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれている。以前ここに勤務していた海自幹部の方から「硫黄島は幽霊が出るよ。ここに勤務すると、誰もが一度は出会う。ただ英霊であり、怖がるのも失礼なので、ただ『ご苦労様でした』と頭を下げると、スッと消える。あと、浜辺の砂を持ち帰ってはいけない。まだまだその下には遺骨がたくさん残っているからついてくるよ」と、聞いた。
・慰霊祭は無事終わり、夜、嘉手納基地へと戻ってきた。那覇市内のホテルに到着したのは夜10時を回っていた。さすがにヘトヘトに疲れ果て、靴も脱がずにそのままベッドに倒れ込み寝てしまった。
それからしばらくして、寝苦しさに目が覚めた。だが、体が動かない。金縛りだ。汗がどっと吹き出してきた。すると窓側に白い影のようなものがふわふわ浮かび、時折、壁にぶつかるのか、ドンドンという音が室内に響く。「ま、まさか……」。頭では分かっていても体が動かない。とにかく教えられた通り、「ご苦労様でした! ご苦労様でした!」と念仏のように繰り返し唱えた。すると急に体が動いてベッドからずり落ちた。
訳が分からないまま、汗ばんだ上着を脱ぎ、靴を脱ぐと、中から砂がザーと落ちてきた。ソール(靴底)の部分が破けていて、そこに大量の砂が入っていた……。
<自衛隊の歴史「これまで」と「これから」>
・もはや従来型の部隊配備や装備では、脅威に太刀打ちできない。現在、日本は、東西冷戦当時に匹敵する、いやそれ以上の危機に瀕している。
<指揮系統を抜本的に見直す陸自>
・陸上自衛隊は、これまでも部隊の改編や新設は行ってきたが、抜本的に着手する。それが「陸上総隊」の創設だった。空自は「航空総隊」、海自は「自衛艦隊」と、それぞれ総司令部を有していたが、陸自だけが欠落していた。
・陸上総隊にはその他、これまで防衛大臣直轄部隊であった、システム通信団、中央情報隊も移籍してきた。
システム通信団は、防衛省内に置かれている通信部隊で、陸自通信部隊の中で最大規模の部隊だ。情報流出を防ぐセキュリティ全般を担当する通信保全監査隊、サイバーテロを防ぐシステム防護隊などが内包されている。中央情報隊は、陸自を代表する情報・偵察(内偵)機関だ。基礎情報隊、地理情報隊、情報処理隊、現地情報隊(ヒューミント部隊)などが内包されている。
<海自は増強、空自はF-35Aを配備>
<ミサイル防衛強化へ>
・‘23年を目標として新たに配備を計画しているのが「イージス・アシュア」だ。陸上設置型イージスともいう。こうして、“陸海イージス”により日本列島をしっかりとガードしていくこととなる。
<人材の確保が急務>
・このように陸海空自衛隊は、最新装備を揃えている一方で、深刻な問題に直面している。少子高齢化に伴い、自衛官のなり手不足に頭を悩ませているのだ。2018年3月、防衛省は4年連続で定員割れしていることを明らかにした。いかに高性能な兵器であっても、それを運用する人員がいなければ動かせない。そこで、苦肉の策として、27歳までとしていた入隊条件を32歳に引き上げた。また、体重制限もBMI28までという制限をBMI30とし“ぽっちゃり”程度の肥満であれば受け入れることとした。
東西冷戦以来の危機的状況に面している日本にとって、優秀な人材をいかに獲得していくかが、最も重要な任務となっている現状がある。
<周辺諸国との比較{実力編}>
<戦力は世界トップ10に入る実力。ただ、予算&隊員数は……>
・日本国民の生命と財産を守る自衛隊は、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊という3本柱で編成されている。
一番人数が多いのが陸上自衛隊だ。その数13万7477人。
・2018年8月、‘19年度のお金の使い道となる「平成31年度概算要求の概要」が発表された。防衛予算の総額は5兆2986億円。
・そこで一例としてアメリカの状況を見てみよう。‘19年度会計における国防予算は約78兆円。日本の仮想敵国となった中国の’18年の国防予算は約18兆4000億円。ただし、これにはからくりがあり、軍事研究にかかる費用などは別枠であったりと、正確な国防予算は公表していない。北朝鮮や中国などに囲まれ、日本と同じような安全保障環境に置かれているお隣、韓国は、‘19年の国防予算が約4兆7000億円。韓国も過去最大規模の概算要求額となっている。
・話が飛躍したので、現在の自衛隊に戻ろう。実は防衛予算のうち、2兆2000億円近くを人件・糧食費が占める。自衛隊の根幹をなすのは人間力であり、これを不必要に減らすわけにはいかない。
・このように、人数、お金、その使い道を見てみると、自衛隊は世界でも有数の軍隊である。
<周辺諸国との比較{人員編}>
<2正面作戦を乗り切るには自衛隊員数は足りない ⁉>
・陸海空自衛官及び事務官等職員の総数は24万4893人。この内、陸上自衛隊の数は約14万人。作戦基本単位となる師団・旅団の総数は15個。
・まず中国。中国軍の兵員数の総計は98万人。すでに100万人を超えているとの報道もある。さすがに大国だけあり、この数には圧倒される。さらに海兵隊1万5000人を有する。
・北朝鮮の兵員数の総計は110万人。すごいのはその内の40万人が特殊部隊や工作員である点だ。
・韓国の兵員数は、40万人。作戦基本単位となる師団等は54個もあり、2万9000人の海兵隊も有している。日本と韓国に共通しているのは、国内に米軍を駐留させている点だ。在日米軍の兵員数は2万1000人。在韓米軍の兵員数は1万5000人。なお、駐留米軍の兵員数には、空軍や海軍は含まれていない。
日本と同じく中国の脅威にさらされている台湾。台湾軍の兵員数の総計は13万人。これに約1万人の海兵隊がいる。作戦基本単位となる師団等は15個。数や編成を考えると、日本と台湾は非常によく似ている。
<周辺諸国との比較 {装備編}>
<~各国とも兵器の増強、近代化が進む~>
・東アジア全体を見てみると、各国とも保有する兵器の近代化・ハイテク化が進んでいる。
まず中国。艦艇約750隻(トータル178.7万!)、作戦機2850機を保有。
・極東ロシア軍の動きも活発だ。東西冷戦当時のソ連軍は、艦艇800隻、作戦機約2200機を配備していた。当時に比べると、現在は艦艇260隻(64万t)、作戦機400機と、かなり縮小して見える。
<各国軍との共同訓練>
<米国を中心に、諸国と行う数多くの訓練、その意味>
・本来共同訓練とは、指揮系統・装備体系が異なる国同士が一緒に訓練することで、これまでとは違う方法を学び、自分たちの問題点や訓練方法を洗い出し、練度向上を目指すことに目的がある。これに最近は示威的な要素も加わってきたのである。
『ソドム』
バチカン教皇庁最大の秘密
フレデリック・マルテル 河出書房新社 2020/4/22
<バチカンは私の見るところ、「ゲイ」が支配する組織である。>
・教会は構造的に同性愛化する性質がある。性的虐待を個人的、制度的に隠蔽するシステムになっている……。本書を公にするのは教会のためだとかたく信じている。
私以前にこの重大なテーマを扱った者はいなかった。この半世紀で最も重大な秘密のひとつを明らかにすることは、これまで一度も試みられたことはなかった。
・本書が50か国以上でかつてない反響を呼んだことは、本書の出版が時宜にかなっていたことを示している。『ソドム』はすでに、およそ20の言語で翻訳され、無数の記事や論争、コメントで取り上げられている。
・いつのまにか、ソドムといえば「男色」ということにされてしまった。いずれにせよ、バチカンはソドムのようなところだというのだから、本書を読んだ世界数十か国の人々はびっくり仰天した。そうではないかと薄々気づいていた人はかなりの事情通だが、まさかここまでとは思っていなかったようだ。本書が世界に与えた衝撃は大きかった。
<スイス軍の法規>
・私が話をきいた弁護士たちによれば、結婚を禁じるだけでもスイスでは差別になるだけでなく、結婚を奨励し、それ以外の性的関係を禁じている教会の原則にも反している。
こうした法的な問題点について、この弁護士を通してスイス衛兵の責任者たちにドイツ語で質問してみたが、彼らの答えは意味深長である。彼らは差別であるとする考えを否定する。軍事的な理由から、いくつかのルールを課さざるをえないからである(しかしながら、新兵の年齢や身体的条件に関して、軍の特殊性を考慮して定められたスイス軍の法規にも違反している)同性愛については、彼らは書面で以下のように伝えてきた。「ゲイであることは募集においては問題とはならない。ただし、あまりに『オープンなゲイ』であったり、目立ちすぎたり、女性的すぎる場合は別である」。さらに、研修中に口頭で伝えられるルールや行動規範にも、差別や労働法に関して違反があるし、ハラスメントを受けても黙っていなければならないのは大きな問題である。
スイスやイタリアの法律、さらにEUの法律の観点からいって、法的に問題があるだけでなく、道徳的にも問題がある。バチカンというきわめて特殊な国家が勝手に特権を行使していることを、それは雄弁に物語っている。
<ゲイに対する十字軍>
・ヨハネ・パウロ2世がマルシアル・マシエルを守り、彼の側近の一部がスイス衛兵をナンパして色欲にふけっていたちょうど同じ時期に、バチカンは同性愛者に対する大きな戦いを開始した。
こうした戦いは新しいものでも何でもない、熱狂的な反ソドミーは中世から存在した。それでも、特別な性癖をもつと疑われる教皇は何十人もいる。ピオ12世とヨハネ23世もそのなかに含まれる――外では厳しく批判しながら内ではきわめて寛容というのがお定まりであった。教会は常に、聖職者の行動よりもその言葉においてホモフォビアであった。
・しかしながら、同性愛をめぐるカトリシズムの公的な言説は、1970年代末に一段と厳しさを増した。教会は風俗革命に不意をつかれたが、自ら先手を打つこともなければ、それを理解しようともしなかった。パウロ6世は、この問題に理解がなく、1975年にはもう、有名な声明「ペルソナ・フマナ」で反撃し、それはダイナミックな回勅「フマナ・ヴィテ」に踏襲された。聖職者の独身制が確認され、貞潔に高い価値が与えられ、婚前交渉は禁じられ、同性愛はきっぱりと否定された。
・ヨハネ・パウロ2世の在位期間(1978-2005)は、教義の点で、この一連の動きにおおむね沿ったものである。だが、しだいにホモフォビアの色を濃くする言説によってそれを悪化させるとともに、彼の取り巻きたちはゲイに対する新たな十字軍に乗り出した。
選出されたその年から、教皇は論争を硬直化させた。1979年10月5日、シカゴにおいて全米の司教向けにスピーチを行い、いわゆる「自然に反する」行為を罪とするよう促したのである。「憐れみに満ちた牧者として、あなたがこう言ったのは正しかった。『同性愛の行為は、同性愛の傾向とは異なり、道徳的によくないことです』と。この明らかなる道理により、あなたがたは、キリストの真の慈悲とはいかなるものかを示しました。同性愛ゆえに、耐えがたい道徳的問題に直面している人々を、あなたがたは裏切りませんでした。もし、思いやりと憐れみの名において、あるいはまったく別の理由から、あなたがたの兄弟や姉妹に誤った希望を与えていたら、あなたがたは彼らを裏切ることになったでしょう」
ヨハネ・パウロ2世はなぜ、これほど早い時期に、教会史上最もホモフォビアな教皇のひとりになる道を選んだのだろうか?ローマ在住の米国人バチカニスタ、ロバート・カール・ミケンズによると、そこにはおもにふたつの要因がある。
「彼は民主主義を経験したことのない教皇だった。だから、ひとりで決定を下した。彼の天才的な直感によって、また、同性愛に関するものも含め、ポーランドのカトリックがもっていた古くさい偏見によって。第二に、彼のモドゥス・オペランディ(仕事の流儀)、在位期間を通じての方針は、教会の統一だった。分裂した教会は弱い教会であると、彼は考えていた。教会の統一を守るために、徹底した厳格さを課した。そして、教皇不謬性の理論が最後の仕上げをした」
・ヨハネ・パウロ2世が民主主義の文化に馴染みがなかったことは、クラクフでもローマでも、彼をよく知る人々によってたびたび指摘されている。彼が女嫌いのホモフォビアであったことも。しかしながら、側近に同性愛者がたくさんいるということには、非常に寛容だった。大臣やアシスタントのなかにも、実践的な同性愛者がたくさんいたから、教皇が彼らの生活様式や「傾向」を知らないはずがない。
・私がクシシュトフ・ハラムサの話を初めてきいたのは、eメール、つまり彼自身を通してだった。彼が私と接触したのは、まだ教理省で働いていたときだった。ポーランド人司祭は私の本『グローバル・ゲイ』が好きだと書いており、カミングアウトしようとしており、秘密を守るという条件で私に話したのである。そのときはまだ、彼が主張するような有力な高位聖職者なのか、それともペテン師なのかわからなかったので、彼の経歴を確認するため、イタリア人の友人で『ラ・レプブリカ』の記者であるパスクアーレ・クアランタにきいてみた。
証言の正しさが確認されたことから、私はMgrハラムサと何度かe
メールをやりとりし、数人のジャーナリストを推薦した。そして2015年10月、家庭に関する世界代表司教会議が始まる直前に、彼のカミングアウトがメディアに流れて紙面を賑わせるとともに、世界をかけめぐった。
それから数か月後、バルセロナでクシシュトフ・ハラムサと会った。バチカンを免職になって以来、彼はバルセロナで亡命生活を送っていた。
<ハラムサはバチカンのホモフォビアの戦う組織の中枢にいた>
・教理省は長いあいだ「検邪聖省」と呼ばれていた。嘆かわしい事例の数々で有名になった異端審問や、検閲本や発禁本のリストである禁書目録を担当していたが、この「検邪聖省」である。バチカンの「検邪聖省」は現在も、その名が示すように、教義を定め、善いことと悪いことを定義しつづけている。ヨハネ・パウロ2世のもとで国務省につぐ地位にあったこの戦略的司法機関は、ヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿に率いられていた。同性愛に対する文書の大半を考えては公布し、教会における性的虐待の書類の大半を調べたのは、彼である。
クシシュトフ・ハラムサはその教理省で、国際神学委員会の顧問兼副書記として働いていた。
・一般に、「異端審問の訴訟」(こんにちなら「教義の論点」と言うだろう)はそれぞれ、職員によって検証され、つぎに専門家や顧問たちによって議論され、さらにさらに枢機卿会議にかけられて承認を得る。
・それは偽善に好都合な土壌でもある。現在、教理省の組織のなかにいる20人の枢機卿のうち、12人ほどがホモフィルないしは実践的同性愛者であると思われる。少なくともボーイフレンドと暮らし、3人はたびたび男娼を利用している。
従って教理省は、興味深い臨床例であり、バチカンの偽善の中心である。ハラムサの話をきいてみよう。「大半が同性愛の聖職者たちが、同性愛嫌悪を課している。それはつまり自己嫌悪であり、絶望したマゾヒストの行動と言ってよい」
クシシュトフ・ハラムサらの内部の証言によれば、同性愛の問題はラツィンガー長官のもとで、まさに病的な強迫観念となった。そこでは、旧約聖書のソドムのくだりが何度も読み直された。ダビデとヨナタンの関係がたえず解釈し直された。「肉にささった棘」をもつ苦しみを告白した新約聖書のパウロの文章も同様だった(パウロはそうして自らが同性愛であることをほのめかしているのかもしれない)。そして突然、この完全なる精神的孤独に恐怖をおぼえ、カトリシズムはそのような希望の光すらない存在を見放したのだと悟る。そのとき彼らは心のなかで泣き出しただろうか?
・教理省のゲイフォビアの有識者たちは、SWAG――Secretely We Are Gay【私たちは隠れゲイ】――という独自の暗号をもっている。彼らのあいだで、「イエスの愛した弟子」ヨハネ、「誰よりも愛されたヨハネ」、「イエスは彼を見て愛した」などと、夢のように美しい隠語を使いながら使徒ヨハネについて語るとき、自分たちが何を言おうとしているのかよく知っている。そして、百人隊長に「重んじられていた」若い部下をイエスが治癒した場面について語るとき、ルカによる福音書がほのめかすところに従えば、それが何を意味するか、彼らには一目瞭然であった。彼らは自分たちが呪われた種族――そして選ばれた種族――に属していることを知っている。
・バチカンは、同性愛者が排除されることを正当化した(それによって聖職者のなり手が減少するとは思いもせずに)、軍隊から同性愛者が排除されることを正当化した(アメリカ合衆国が「質問するな、口外するな」の規則を停止する決定を下した)。同性愛者が仕事で差別を受ける可能性のあることを、神学的に正当化しようとした。当然ながら、同性間のパートナーシップや結婚は罪だった。
2000年7月8日にローマでワールド・ゲイ・プライドが行われた翌日、ヨハネ・パウロ2世はいつもの正午の祈りの最中に発言し、「よくご存じのデモ」を強く非難するとともに、「2000年の大聖年が侮辱されたことは痛恨の極み」であると述べた。だが、ローマの通りを行進した20万人のゲイ・フレンドリーな人々に比べて、その週末にバチカンを訪れた信者の数は少なかった。
・カミングアウトで騒ぎを起こした、あるいはカミングアウトが遅すぎたとして、クシシュトフ・ハラムサはこんにち、教皇庁とイタリアのゲイ団体の双方から攻撃されている。内面化されたホモフォビアからドラマクイーンへと一足飛びに変身した高位聖職者は、人々を混乱させている。そのため教理省では、彼が辞任したのは思ったほど出世できなかったからだとささやかれている。彼が同性愛であることはとっくにわかっていたと、ある公式な情報源は指摘する。彼は何年も前からボーイフレンドと一緒に暮らしていたからである。
・ここでわれわれは、バチカンの近年の歴史で最も暗い1ページに入っていく。たっぷり時間をとって語らなければならないが、これはそれほど驚愕すべき事例なのである。
アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョとはどんな人物なのだろうか? この恥知らずな男は1935年、コロンビアのトリマ県にあるビヤエルモサに生まれた。25歳のときにボコタで司祭の叙階を受け、10年後に同じくボコタの代理司教となり、その後メデジンに赴任して、43歳でメデジン大司教に昇格した。良家に生まれ、金に不自由したことのない聖職者としては、よくあるコースである。
・「当時、司教の大多数は保守派でした。しかしロペス・トルヒーリョはただの保守ではなく、極右でした。あからさまに、大資本と貧者を搾取する側に立っていました。教会の教義よりも資本主義を擁護したのです。彼には冷笑的な傾向がありました。プエブラのCELAM(ラテンアメリカ司教会議)総会で、ある枢機卿に平手打ちをくらわすことまでしたのです」
・アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョはたいそう献身的かつ熱意をもって、メデジン、ボコタ、そしてまもなくラテンアメリカ全域で、解放の神学の潮流を根こそぎにする仕事に取りかかった。『エコノミスト』誌の記者は、枢機卿の小さな赤い帽子はチェ・ゲバラのベレー帽の裏返しであると、皮肉を込めて書いている。
・教皇のほうでも、1980年代から90年代にかけて、ラテンアメリカに右派と極右の司教を大量に任命する。
・10年足らずのうちに、CELAMの司教の大半が右に寝返った。1990年代には、解放の神学の潮流は下火となり、アルゼンチンのホルン・ベルゴリオに体現される穏健な新しい潮流が姿を現すには、2007年にブラジルのアパレシーダで開かれる第5回CELAM総会まで待たなければならなかった。それはすなわち反ロペス・トルヒーリョ路線である。
・「私は当時、メデジンで、ロペス・トルヒーリョ大司教と一緒に働いていた。彼は豪勢な暮らしをしており、外出するときは王というより、まさに『女王』のようだった。司教訪問のさいには、高級車で乗りつけ、赤絨毯を敷くように要求する。車から降りるときは、最初は片方の踝しか見せない。おもむろに片足を出してから、まるで英国女王でもあるかのように、絨毯を踏みしめるのだ。すべての者が彼の指輪に口づけせねばならず、彼の行くところどこでも、あたりに香をまかなければならなかった。こうした贅沢、ショー、香、絨毯に、私たちはただただ驚くばかりだった」
・1980年代に、メデジンはまさしく世界的な犯罪都市となった。麻薬密売業者たち、とりわけ有名なパブロ・エスコバルのメデジン・カルテル――当時、米国向けのコカイン市場の80%を握っていたと見られている――が、町を支配していた。激しい暴力――麻薬戦争、ゲリラの勢力拡大、ライバルのカルテル同士の抗争が同時に起こっていた――に対して、コロンビア政府は非常事態を宣言した。だが、政府が無力なのは明らかであり、1991年だけで6千件以上の殺人がメデジンで発生している。
・ロペス・トルヒーリョの人生はこうした時代背景のなかで考えなければならない。メデジン大司教について調べたジャーナリストたち――とりわけエルナンド・サラサール・パラシオが著書『ロペス・トルヒーリョ枢機卿の戦争』、グスタボ・サラサール・ピネダが『マフィアの腹心の告白』において――、そして、エマヌエル・ネイサが私のために同国で行った調査によると、この高位聖職者は麻薬密売業者に近いいくつかの民兵組織とつながっていた。そうしたグループから――おそらく熱心なカトリック信徒を自称するパブロ・エスコバルから直接――資金援助を受け、メデジンの教会における左派急進主義者の行動に関する情報を得ていたと見られる。
・こんにち、ロペス・トルヒーリョは直接的であれ、間接的であれ、進歩派と共謀したとして排除された司教や数十人の司祭の死に責任があるとみなされている。
・メデジン大司教の新たな生活がローマで始まった。コロンビアの極右に肩入れして成果をあげたのち、彼はいまや、風俗と家庭に対するヨハネ・パウロ2世の保守的な強硬路線に具体的な形を与えようとしていた。
・家庭「省」のトップとなり、そこを「作戦本部室」としたロペス・トルヒーリョは、かつてないエネルギーを傾注して、堕落に有罪を宣告し、結婚を擁護し、同性愛を糾弾した。すべての証人によれば、極度の女嫌いであった彼は、ジャンダー・セオリーと戦おうとした。複数の情報源によれば「ワーカホリック」であり、世界中の数え切れないほどの論壇で発言しては、婚前交渉やゲイの権利を強く非難した。こうしたフォーラムで、「妊娠を妨害する」科学者たちは目盛りのついた試験管で犯罪を行っている、白衣を着たおぞましい医者たちは婚前の禁欲を説く代わりに避妊具の使用を勧めていると口を極めてののしったため、彼の名がしだいに知られるようになった。
そのころから世界中で猛威を振るうようになったエイズは、ロペス・トルヒーリョの新たな強迫観念となり、彼の頑迷さがそこで遺憾なく発揮された。「コンドームは解決策ではない」と彼は枢機卿の権威を振りかざしながら、アフリカで繰り返し述べている。それは「性的な雑居常態」を助長することにしかならず、貞潔と結婚こそが、エイズの大流行に対する真の解決策なのである。
アフリカやアジア、そしてもちろんラテン・アメリカと、彼は行く先々で、現地の政府や国連機関に、「嘘」に身を委ねないよう説いて回り、人々にコンドームを使わせないにようにした。
・歴史はアルフォンソ・ロペス・トルヒーリョに厳しい判断を下すだろう。だがコンドームと戦った英雄はローマで、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世によって模範とされ、国務長官のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とタルチジオ・ベルート枢機卿によって滑稽なほど称えられた。
・「ロペス・トルヒーリョはマルクス主義と解放の神学に反対だった。そのことが彼を突き動かしていたのです」。
・この物語は「ハッピーエンド」なくして完結しない。物語を本当のフィナーレへ導くために、もう一度メデジン、正確に言えばメデジン大司教館のある地区に話を戻そう。ロペス・トルヒーリョの元儀典長アルバロ・レオンは、私と調査員のエマヌエル・ネイサを、大聖堂を取り囲む露地へと案内した。メデジン中心部の新市街と呼ばれる地区である。
それにしても奇妙な地区である。ボリバル公園と50番街にはさまれた、55、56、57番街と呼ばれる通りに、カトリックの品々や僧服を売る数十軒の宗教関係の店と、派手な化粧をしてヒールの高い靴をはいたトランスセクシュアルが店先にたむろするゲイ・バーが、文字どおり対になって並んでいる。天上と異教のふたつの世界、まがいもののキリスト十字架像と安価なサウナ、聖職者と男娼が、コロンビアに特有のやや祝祭的な、なごやかな雰囲気のなかで同居している。フェルナンド・ボテロの彫刻に似たふくよかなトランスセクシュアルが、ひどくなれなれしい様子で寄ってくる。
彼女の周囲にいる男娼や女装家は、もっと弱々しく、もっとやせ細っている。フォークロアのイメージとはほど遠く、フェリー風で芸術的である。
それは貧困と搾取のシンボルである。
・私たちはすぐ近くにある、聖職者と神学生が中心になって設立されたLGBTセンター、「メデジン・ディベルサ・コモ・ボス(あなたのように多様なメデジン)」を訪ねた。責任者のひとり、グロリア・ロンドーニョが私たちを出迎えた。
「ここは戦略的な場所です。メデジンのゲイ・ライフはすべて、大聖堂の周辺で営まれているからです。男娼、トランスセクシュアル、女装家は、非常に弱い人々です。彼らの権利について知らせることで、彼らを助けているのです。コンドームも配っています」。ロンドーニョは説明した。
センターをあとにした私たちは、57番通りで、ボーイフレンドを連れた司祭とすれ違った。彼らと顔見知りのアルバロ・レオンがそっと私に合図した。私たちはカトリック・ゲイ地区の探訪を続けた。55番街とも呼ばれるボリビア通りの美しい建物の前に来たところで、突然、足が止まった。アルバロ・レオンが2階のアパートを指さした。
「あそこですべてが起こった。ロペス・トルヒーリョはあそこに秘密の部屋をもっていて、神学生や若い男や男娼を連れ込んでいたのだ」
アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョ枢機卿が同性愛であることは公然の秘密であり、数十人の証人がそのことを私に話ししていたし、何人かの枢機卿もそれを認めている。彼の辞書の見出し語を再び借りれば、彼の「汎セクシュアリズム」はメデジン、ボコダ、マドリードそしてローマでも有名だった。
・ベネズエラ人の大学教授ラファエル・ルシアーニによると、アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョの病的な同性愛は「ラテンアメリカ司教会上層部とCELAMの一部の責任者に知られていた」。さらに、何人かの司祭の連名で、ロペス・トルヒーリョの二重生活と性暴力に関する本が出版されようとしている。ロペス・トルヒーリョのアシスタントのひとりだった神学生のモルガンも、彼の勧誘員と愛人の名をいくつか教えてくれた。彼らの多くは、仕事ができなくなるのを恐れて、大司教の欲望を満たさざるをえなかったのである。
・というのも、この「いかがわしい人物」の逸脱行為は、もちろん、コロンビアの国境でとまらなかったからだ。このシステムはローマでも存続し、ほどなくして世界各地に広まり、反ゲイの説教師にして金回りのいい客という輝かしいキャリアを築くことになった。
教皇庁のために、反コンドームの宣伝部長として絶えず旅をしながら、
ロペス・トルヒーリョは聖座の名による出張を利用して、少年を探した(少なくともふたりの教皇大使の証言による)。枢機卿は百か国以上訪れたが、お気に入りの旅行先はアジアだった。とりわけバンコクとマニラの性的魅力を発見してからは、たびたびアジアを訪れた。コロンビアやローマほど顔が知られていない世界の反対側へ何度も旅するあいだ、通りをうろつくのが好きな枢機卿はセミナーやミサをたびたび抜け出しては、「タクシー・ボーイ」や「マネー・ボーイ」探しにいそしんだ。
開かれた都市ローマがどうして出てこないのかと思うだろう。改めて言うが、ナルシシスティックな倒錯者たちは偽装生活をしており、ローマでは聖人に見せかけているのである。怪物マルシアル・マシエルと同様に、
ロペス・トルヒーリョも、信じられないほど巧妙に自分の生活を偽装していた――そのことは、バチカンではすべての者、あるいはほとんどすべての者が知っていた。
・この物語を終えるにあたり、最後にもうひとつ、私がまだ答えることができずにいる問題、多くの人々の心にひっかかっているであろう問題がある。何でも金で買える、暴力行為もサドマゾ行為も金で買えると考えていたロペス・トルヒーリョは、コンドームなしの挿入を買ったのだろうか?
「公式にはロペス・トルヒーリョは糖尿病で死んだとされているが、エイズで死んだという根強い噂が繰り返し流れている」。ラテンアメリカのカトリック教会をよく知る第一線の専門家のひとりは言う。
・ロペス・トルヒーリョがエイズで死んだかどうかはともかくとして、カトリックの聖職者がこの病気で死亡することは、決して珍しいことではない。バチカンとイタリア司教協議会で入手した10件ほどの証言によると、1980年代から90年代にかけて聖座とイタリア司教団ではエイズが猛威をふるっていた。これは長いあいだ伏せられていた秘密だ。
・カトリック上層部でエイズにかかる人の割合が高いことは、カトリック司祭の死亡証明書をもとにアメリカで行われた統計調査によって裏づけられている。エイズウイルスによる死亡率は一般人の少なくとも4倍にのぼると、その研究は結論づけている。1990年代初頭に行われたローマの神学生65人の匿名検査にもとづく別の研究では、その38%がエイズ抗体陽性であることが判明した。
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