「クオータ制」の制度を採り入れていない先進国は日本くらいなものです。(1)
(2024/9/6)
『小選挙区制は日本をどう変えたか』
改革の夢と挫折
久江雅彦、内田恭司 岩波書店 2024/7/1
<「こんな政治に誰がした」>
・小選挙区比例代表並立制の導入から30年。2009年には民主党による政権交代が実現したが、掲げられた理想とは裏腹に、政策を軸とした二大政党制は生まれず、自民党1強のもと派閥の裏金、世襲議員の跋扈、投票率の低下など、この国は政治の歪みに喘いでいる。なぜ選挙制度改革は失敗したのか。
<はじめに 日本の民意を体現する選挙制度を考える 久江雅彦>
<「人を選ぶ」日本の選挙>
・衆議院の中選挙区制が廃止され、小選挙区比例代表並立制は導入された1994年から、2024年でちょうど30年が経過した。光陰矢の如し、である。
・「日本の選挙は政党や政策ではなく、人を選ぶのが基本です」
<どんな時に政権交代は起こるのか>
・なぜ地域代表たる自民党候補が大敗して野に下ったのか。細川政権の時は、その前にリクルート事件、金丸事件などスキャンダルが相次いだところに、自民党の権力を握っていた最大派閥の竹下派が分裂する「惑星直列」が起きたからだ。
・小選挙区比例代表並立制の導入によって、二大政党制に向かっていくと言われたにもかかわらず、現在の政党勢力図はまったく違う。
・近年、与野党の支持割合は概して、自民党30%弱~40%ほど、野党はおよそ20~30%弱、支持政党なし40%前後、という分布になっている。与党という括りでは、自民党に数%の公明党も上乗せされる。
<日本の選挙制度に相反する仕組みが組み込まれている>
・なぜ、現在の野党は一つの固まることができないのか、それは、野党間の基本政策の違いのせいばかりではない。選挙制度が野党の一本化を阻んでいるのだ。
・さらに、日本の参議院の選挙制度は一人区と複数区が混在している上、全国比例代表の枠があり、二者択一になりにくい。
・1億総中流が定着した1980年代からバブル崩壊を経て、90年代後半からの労働に関わる一連の法改正により、若年の非正規労働者が急増した。どんなにがんばっても、ただ食べるだけで精一杯で貯蓄もない、結婚もできない僧が膨らんでいる。れいわ新選組の台頭は、そうした声なき声の表れかもしれない。
<裏金も旧統一教会問題も根幹に選挙制度>
・近年批判を浴びている自民党派閥の裏金事件と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題も、選挙制度との関係を抜きにしては読み解けない。
・そして、人海戦術で自民党の選挙を下支えした組織の象徴が旧統一教会である。
・科学的社会主義を標榜する日本共産党や創価学会を支持母体とする公明党と違って、自民党議員のほとんどは特定の思想信条を持たない人々から選ばれている。
<選挙制度改革を生き延びた派閥政治>
・こうして、気がつけば双六は振り出しに戻ってしまった。35年の歳月が流れ、もはや政治改革大綱を決めた時に国会議員だった人は衆参両院を合わせて20人ほどになってしまった。
・裏金問題で白日のもとに晒されたのは派閥の負の側面、つまり「集金マシン」「ポスト配分機能」としての派閥である。
・こうした政治の堕落の背後には、自民1強を増幅させてきた選挙制度の陥穽が存在することも忘れてはならない。
<足らざるものはカネと人手>
・派閥の裏金問題と相前後して、旧統一教会による自民党への選挙支援疑惑も浮上した。裏金と旧統一教会の二つの問題は、いわば「選挙の暗部」であり、地下茎から分かち難く結束している。この表裏一体の秘奥を解くカギは、自民党というヌエのような集団の本質に潜んでいる。
・かくして、主として自民党本部から幹事長経由で手渡しされる政策活動費という名の「表の裏金」が、よすがとなる。その額、年間14億円超。なぜ「表の裏金」かと言えば、幹事長も受け取った議員も、金額も時期も一切公にする必要がないからだ。
その不足分については、政党交付金が党本部から各議員や候補の選挙区支部に流れる仕組みで、国会議員の場合で一人当たりおよそ年間1200万円。
<自民党選挙につけいる旧統一教会>
・では、なぜそこまでカネが必要なのか。
税金で賄われる公設秘書は3人までだ。自民党議員の多くが、これ以外に7人前後の私設秘書を選挙区と東京に抱えている。地元には複数の事務所を構え、車も必要になる。かくして人件費や事務所、車やガソリン代などの固定費で、年間3000万円を優に超えるという議員が多い。都市部の落下傘候補に至っては、有力な地元自治体議員から「選挙で協力を求めるからには、丸いもの(カネ)を持ってこい」と要求された人もいるという。
・表のカネにしても裏金にしても、詰まるところ、資金力で政治活動や選挙をしているという現実がある。これでは、よほど自民党に逆風が吹かない限り、資金力に劣る野党候補が太刀打ちするのはなかなか難しい。
・しかし、誰もがそんな熱心な支援者に恵まれているわけではない。とりわけ都市部周辺で、野党と際どい戦いを迫られる候補は、猫の手も借りたいほど苦労する。証紙貼りやポスティングなど、最後は人海戦術がものを言う。
・そこにつけいった組織こそ、旧統一教会である。信者数こそ全国で7万人ほどと決して多くはないが、寝食を忘れるほど熱心に選挙支援をしてくれる。中には選挙事務所の近くに部屋を借りて、早朝から深夜まで電話をかけまくる信者もいたと明かす議員もいる。これほど左様に、自民党候補にとってカネと人手は当落を左右する命綱なのだ。
・同士討ちでサービス合戦になる中選挙区制から小選挙区比例代表並立制になれば、カネはかからなくなり、派閥も消えていく――。現実を直視すると、30年前のそうした想定は外れてしまった。
<金権政治打破から改革は始まった>
<想定外だった解散権の乱発 佐々木毅>
<選挙制度と政治資金――改革の二つのエンジン>
・衆議院の選挙制度改革を進める力になったのは、私の認識ではやっぱり「政治とカネ」問題でした。
・野党からすれば、「政治とカネの問題はすぐれて自民党の問題である。だから自分たちできちんと始末をつけろ」ということで終わってしまう面がありました。そこで、選挙制度改革をカネの問題とセットで出し直したわけです。
・「カネの問題こそが、政治腐敗と国民の政治不信のみなもとだ」ということは、多かれ少なかれコンセンサスだっただろうと思います。カネの問題は結局のところ、選挙にカネがかかるという問題に帰着する。だから選挙の問題を度外視してカネだけの議論をするのは、現実を見ていないことになるわけです。
<論理的支柱となった民間政治臨調>
・まずは選挙制度をどうするかですが、中選挙区制に代わる制度として、小選挙区制や比例代表制を取り上げました。
<どこにどれだけのカネが流れているかわからない>
・政治資金の議論の中で、われわれが一番の旗印にしたのは透明性でした。どこにどれだけのカネが流れているのかまったくわからないのです。
・1990年代当時、政治の大改革をやったのは日本とイタリアでした。
<政治の力学の中で消えていった選択肢>
・しかし、この段階に至ってもなお、野に下った自民党だけでなく連立与党の社会党ですら、党内の反対派が改革をつぶそうとしていたのです。
・議論すればきりがないのですが、要は政治の力学の中でもみくちゃになり、最後はもうこれくらいしか選択肢が残っていませんでした。相対多数が確保できる案なら、もうそれでしかたがないというのが実情だったと思います。
<頻繁な選挙が政治全体のパフォーマンスを下げている>
・ともかくカネの流れについては、まだまだではありましたが、政治資金収支報告書を調べれば何とかわかるようになりました。
・一つ言えば、政治改革の議論が沸騰していた頃、日本における最大の“野党”は米国だったのです。米国が「コメ市場を開放しろ」「貿易摩擦を撤廃しろ」と要求してきた時、日本の与野党の対立構造は、実は何の意味も持ちませんでした。
・小泉純一郎という「自民党をぶっ壊す」と主張する総裁が現れたことで、自民党の政治基盤が深刻な打撃を被っていき、その結果として民主党による政権交代の実現へと一歩前進したのは皮肉なことでした。
不明を恥じるのですが、安倍晋三政権をはじめとして、首相の判断で衆議院を解散する「7条解散」が頻繁に発動される事態は、政治改革の当時まったく想定していませんでした。
・国民に選ばれた代表者なのに、しょっちゅう入れ替えができるなら、国会での活動はあまり期待されていないのも同じです。
・衆院解散・総選挙には民意を反映させる意味合いがあるという、そのこと自体は否定しませんが、頻繁に選挙をおこなうことにより、政治全体のパフォーマンスを下げてしまう面は考えなければなりません。
<政治家の熱気、社会の熱気が大きかった時代>
・いずれにしても、この選挙制度が悪いと言うなら、国会で腰を据えて議論すればいいのです。
・しかし、出てくる案は弥縫策ばかりです。
・米国はトランプ前大統領の登場で分断が進んでいるし、英国ではあっという間に内閣がつぶれたりしています。いまやモデルがなくなってしまい、そういう意味では議論がしにくくなった感じがします。
・1997年、98年の金融危機あたりは転機でしたが、自民党は、国民に社会の階層化を自覚させないように、安倍政権に至るまで、あらゆる手段を使って社会の安定を印象づける政治をやってきました。安倍政権における異次元緩和はその最もたるものだと思います。
<少数意見の排除、失われた多様性 河野洋平>
・政治の現状を見ると、あの選挙制度の改革は失敗だった思います。現在の社会は多様な意見が尊重させる社会になっているにもかかわらず、政界はその逆です。社会と政治に溝があり、国民の政治離れに拍車をかける結果になっています。
小選挙区制は何としても変えなければならないと思います。
・この改革の失敗が制度に起因するのか、運用が悪いのかはわかりませんが、いずれにしても失敗だったことは明らかです。
<自民党の存続には改憲法案成立が不可欠>
・あの頃、自民党議員はみな野党暮らしに打ちひしがれて、辟易していました。しかも、細川首相に対する国民の人気と期待は高まるばかりで、それがまた自民党の焦燥感を募らせていました。
<政治家人生最大の痛恨事>
・実は、私は心の中では小選挙区制に反対で、中選挙区制の方が日本に合っているいると思っていました。具体的には、たとえば、選挙区を全国で100くらいにして3人区にすれば、国民の多様な声をある程度反映できると考えていました。
・そもそも日本国民の意識から言うと、大きな政党が二つの存在していたとしても、あまりに対照的だったら、日本社会が激変することへの不安から、政権交代は起きにくいでしょう。逆に似た大政党が二つだと、政権交代がどんな意味を持つのかわかりにくくなります。
<「民意の集約」と「民意の反映」を両立させる困難>
・中選挙区制のときは、自ら支持の輪を広げて、有権者の30%の支持が得られれば当選することが可能でした。ところが、現在の選挙制度は違います。有権者から支持を受ける以前の問題として、まず党執行部から公認をもらわなければなりません。昔のように、無所属で当選してから自民党に入るという例は、かなり減りました。有権者の支持よりも党執行部のお墨付きという壁の方がはるかに高く立ちはだかっているのです。
・中選挙区では、自民党の派閥同士で競っていました。所属している派閥が選挙活動をバックアップして、当選後には若手政治家として育成する機能も果たしていました。
<最後まで反対していた小泉氏がおこなった刺客選挙>
・振り返れば、私が自民党総裁のとき、小選挙区制の導入に最後まで反対していたのは後に首相になった小泉純一郎さんです。しかし、その小泉首相時代に、この制度の欠陥があらわになったのです。総裁の権限が絶大になった結果、世論に風を吹かせれば、候補者も独断で好き勝手に決められるようになりました。
・民主党の蹉跌の原因は、やはり地に足がついた政治活動をしていなかったことだと思います。
・今でも、民意の反映という点では以前の中選挙区制の方がよかったのではないかと思うことがあります。
<中選挙区速記制の可能性>
・一つの考えとして、私は先ほど述べたように、全国を一律で定数3人の中選挙区制として、なおかつ複数の候補に投票できる連記制にすれば、民意をより反映できるのではないかと思います。
・投票率の低下傾向もとても危惧しています。
<政権交代こそが改革の原点 細川護熙>
<当時の政府案では小選挙区・比例が半々だった>
・私は政治改革を掲げて日本新党を結成し、1993年に非自民・非共産8党による連立政権を打ち立て、初めての政権交代を果たしました。
・今振り返ってみても、細川内閣は、政治改革以外にも、自民党政権38年の行きづまりがもたらした数々の難題に直面していました。
<ぎりぎりの妥協で自民党案を丸呑み>
・自民党案は、比例はあくまでも付け足しで、小選挙区を300にすることが狙いであることはわかっていました。しかし、先にも触れたように細川内閣の大きな使命として、この改革を全うさせようと、この場で事実上、自民党案の丸呑みを決断したのです。
<日本の「ベルリンの壁」を破る>
・いま振り返ってみても、選挙制度改革以前の中選挙区制では、いろいろな問題が生じていました。私も郷里の熊本県で選挙を経験しています。1969年の衆院選に旧熊本1区で立候補した時です。
それまでの選挙戦では本当に札束が飛び交ったり、開票の際には突然停電になって投票箱が入れ替わったりしていたんです。だから「もう、どうしようもない制度だな」というのが実感でした。
・政治にカネがかかると言えば、参議院議員の時、私は自民党国会対策委員会のメンバーで、委員長は金丸信さんでした。それで、年の瀬になると社会党の議員にお歳暮を配るんですよ。私はそれを持って国会の中をうろうろしていました。本当に重たい袋でした。
自民党はこうして38年間、社会党との「55年体制」の下で、ずっと一党支配を続けてきました。その間、党内は派閥間抗争に明け暮れ、リクルート事件や金丸事件など「政治とカネ」の問題が後を絶たず、政治の腐敗と停滞は目を覆うばかりでした。
<政治改革は一回やれば終わりではない>
・そして、あれから30年がたちました。この選挙制度が政治の劣化を招いたとの批判があるのは承知していますが、かなり誤解を含むものも見られます。しかし、この制度のすべてが間違いとも言い切れないでしょう。たしかに、小選挙区制の導入で、各党の執行部が選挙での公認権や資金を配分する権限を握り、所属議員はトップの意向に逆らえなくなったという話はよく聞きます。
・だから100点満点だったと言うつもありはありませんが、政治改革により選挙にかかるカネは少なくなり、自民党の派閥政治も鳴りを潜めるなど、相当の成果はあったと思います。
<長期の自公連立政権という矛盾 曽根泰教>
<選挙制度改革は憲法改正に相当する変化>
・30年前の衆議院選挙制度改革を総括するなら、日本の政治体制の変革を目指した大きな改革だったと言えます。国によっては、憲法で選挙制度を規定していますから、憲法改正に相当することを、法改正でおこなったと言えると思います。
・しかし、民主党による政権交代はありましたが、現実は自民党と公明党による連立政権が一貫して続き、新たな55年体制での自民党1党支配のようになっています。
・民主党には官僚出身の議員もいたので、個別政策ではそれなりのものをつくることはできました。しかし、政権を運営するノウハウがありませんでした。
<並立制では想定しなかった自公連立政権>
・日本では衆議院だけでなく、参議院でも多数を取らないと法案が通りません。だから自民党は、衆議院で単独過半数を取れていても、「ねじれ」を避けるために連立を組みます。
<パーティー裏金問題 ふさぎきれない制度の穴>
・自民党派閥のパーティー裏金問題にしても、こうしたことまでは予測できなかったのが実情です。選挙制度改革により、選挙で使うカネはおおよそ半分以下になりました。
・しかし、派閥は、パーティー券を企業・団体に買ってもらう手法で制度に穴を開けました。それでも裏金をつくらず、きちんと収支を報告すれば問題はありません。
・選挙区において、県議会議員や市議会議員で形成されるピラミッドは非常に強いですが、それを維持するためにはカネがかかります。こうした地方議員にカネを渡さざるを得ないところがあったのではないでしょうか。それに、現金でのやりとりだから、記録を残さなくてもばれないと思ったのでしょうね。
・このようなことをなくすべく、制度の穴をふさごうとしても政治家はすぐに新たな穴を見つけ出します。
<社会構造の変化をのみ込んできた自民党>
・今後の選挙制度をどうしていくのかは難しい問題ですね。これは、なぜ自民党と競争する勢力は生まれにくいのかという問いにつながります。
・それでも選挙制度改革の時は、国民の意識は中道右派と中道左派的なものに分かれるだろうとの予測がありました。しかし、中道左派という大きな塊はできず、そういう意味では、国民の意識の変化を十分に予測できませんでした。
<おすすめの制度というものはない>
・小選挙区比例代表制の導入が、そもそも与党と野党が相譲らぬ末の妥協の産物だったことも、今後の選挙制度のありかたを難しくしています。
<比例代表の責任ある活用を>
・ともかく、ベストの選挙制度を見出すのは難しい。それでもあえて言うなら、現行制度で比例代表をうまく活用すべきです。重複立候補をやめて、政党が責任をもって順位をつけた名簿を作成する。
・さらにもう一つ挙げるなら、定数が10や20どころか、40や50もあるような地方議会の選挙制度改革も必要です。
<小選挙区制と自民党>
<女性の政治進出を担保するクオータ制が必要 野田聖子>
<弊害はあってもベターな小選挙区制>
・私は中選挙区制で最後となった1993年の衆院選で初当選しました。その後、小選挙区比例代表並立制となりましたが、連続10回当選した経験から言えば、今の選挙制度の方がベターだと思っています。
実際、当選1回生の私は選挙制度改革に賛成の立場でした。というのも、中選挙区制の下では自民党候補同士での戦いになり、当時は国会を欠席してまで後援者の結婚式や葬儀に駆けつけるなど、いわばサービス合戦が繰り広げられていました。「あの先生は来たのに、おまえは来なかった」と言われたことは数知れません。
・私はそんな状況を変えたい、変わってほしいと願い、選挙制度改革に賛成したのです。現在はそういったこともなくなり、以前より政治活動に専念しやすくなったと思います。
・他方では、小選挙区比例代表並立制の弊害も痛感しています。それは、党執行部の言うことを聞かないと公認をもらえなくなるからと、上の顔色ばかりうかがう議員が増えてしまったことです。中選挙区制の頃は「今の自民党の政治はおかしい」という声が党内でも公然と出てきて、それが活力となっていました。
・しかし、郵政民営化に賛成した人の多くは中身を理解しておらず、ただ単に勢いやムードだけで賛成していました。私はそれに耐えられませんでした。
なぜかというと、私は小渕内閣で郵政相を務めていた経験から、賛成派の主張はまったく筋が通っていないと確信していたからです。私は常に統計などのデータに基づき政策を考えますが、郵政を民営化しなければならないデータや客観的な数字は、どこにも存在しませんでした。
・賛成派は「郵便局員が25万人強いて、民営化すれば、その人たちに使われていた人件費が浮く。そしてその分を福祉や教育、地域に回せる」と夢物語を吹聴していました。ところが実際には、郵便局は国営でしたが、黒字を出していて、その利益で人件費を賄っていました。税金など一切使われていなかったのです。私は、誰もが皆この事実を理解してくれると思っていたのですが、実態は逆でした。郵政民営化法案が否決されたら解散、
反対すると公認しないとなり、あれよあれよという間に自民党内の潮目が変わりました。当初反対だった多くの議員が賛成に転じていき、見回せば、反対していたのは私を含めて衆議院で30数名ほどに激減してしまいました。
・まやかしの二項対立が争点になり、それに拍車をかけてしまうのが小選挙区の落とし穴なのかもしれません。中選挙区であれば、あそこまで賛成派になびく自民党議員は続出しなかったのではないでしょうか。
<刺客を送り込まれた郵政選挙の経験>
・結局、郵政民営化に反対の女性議員は私だけで、「造反組」のシンボルと化してしまい、連日、テレビ、新聞、週刊誌等で「守旧派」とおとしめられ、全国からの批判と反発の嵐に見舞われました。議員会館の事務所のファックスには抗議の文書が立て続けに入り、男性ばかりか、女性からも猛反発を受け、「裏切り者」「小泉首相に逆らうな」と、心無い言葉が書き連ねられた文書も少なくありませんでした。
・それでも私は、心のどこかで平静さを保っていました。それは自らを偽って反対していたわけではなく、郵政民営化は正しくない、自分は正しい主張をしているという自負があったからに他なりません。ただ一番心が痛んだのは、私自身というよりも、私をずっと支えてきてくれた支持者の方々やスタッフが、誹謗中傷にさらされたことです。あの時のことを思い起こすと、今でも暗い気持がよみがえるほどです。
・この経験から、結局どんな選挙制度であっても、選挙では、政策や理念にも増して、候補者個人に対する信頼と支持基盤が当落を大きく左右するという思いを強くしました。
<自民党には女性の衆議院議員がいなかった>
・政治家の子どもというのは、大きく二つに分かれます。親を崇拝してその道に続く人と、徹底的な政治アンチになって近寄らない人。私の父は後者でしたから、孫の私に白羽の矢が立ったのです。
・残念ながら、90年国政への初陣は、自民党からの公認を得られず落選でした。しかし、もう1回だけ衆院選に立候補しようと心に決め、私は選挙活動を再スタートしました。
政策パンフレットを手渡すため、来る日も来る日も歩き回りました。3年間で9万軒以上を訪問したでしょうか。岐阜の郊外では、一軒一軒の距離がとても離れています。山を越えて行くこともしばしばでした。歓迎されず、塩を撒かれたことや、犬に噛まれたこともありました。しまいには歩きすぎて、かかとが疲労骨折。しかし、こうした地道な活動のおかげで、少しずつ私を支持して下さる人の輪が広がっていったのです。
・小選挙区比例代表並立制は政党同士の戦いとされていますが、地域代表としての色彩も濃く出ますから、自民党にせよ、野党にせよ、やはり地域に根差した後援会を築くことができたかどうかが、勝敗の分かれ道になってきます。
・とはいえ、小選挙区比例代表並立制で、自民党執行部の権限が絶大になったことは明らかです。まさに郵政選挙はその象徴です。
・中選挙区制の頃は「今の自民党の政治はおかしい」という声が党内でも公然と出てきて、それが活力になっていました。
・もう一点、小選挙区比例代表並立制の弊害を指摘するならば、1選挙区で公認候補は1人に限られるために、候補者が現職に固定される傾向が顕著です。
<現職優位を打破する女性の人数割当制>
・とりわけ現状の選挙制度は、女性の政界進出が阻んでいます。複数の公認候補を立てることができた中選挙区制では、女性にも間口が開かれていたと思いますが、今は元来男性優位の政界にあって、小選挙区で男性議員がいったん議席を獲得すると「現職優先」で女性が入る余地がなくなります。
・あれから30年が経過して、今現在どうなっているかと言えば、自民党が逆風の時や、補欠選挙の時など、世間の耳目を引くためには女性候補を立てるという形が定着している気がします。
この現状を是正するためには、私は候補者や議席の一定数を女性に割り当てるクオータ制を日本にも導入すべきだと考えています。男性の知見に偏っている社会を変革するには、女性の政界進出が肝要です。
<選挙制度改革は権力闘争の手段にすぎなかった 山崎拓>
<打倒「経世会」の執念>
・とにかく政治は権力闘争の世界ですから、選挙制度改革という政治テーマもその手段だったわけです。YKKの行動原理は、田中角栄元首相につながる「田中金権政治」の打破です。
・その時に私が調子に乗って、「あんたらは、先の総裁選では田中角栄に1票を投じたはずだ。札束が乱れ飛んだと聞いているが、一体いくらもらったのか」と聞いたのです。そうしたら一人が、ばか正直に「3000万円もらった」と言ったんですよ。
私が「10人いるが、1人300万円で、10人で3000万円か」と聞くと、「いや一人3000万円だ」と。私は驚いて「じゃあ10人で3億円じゃないか。そんな莫大な金額をもらったのか」と聞いたら、答えたその議員は、その場の議員に一人ずつ「なあ、本当だよな」と聞くので、聞かれた方は困りながらもうなずいたわけです。
われわれ三人はあきれ返りながら帰りましたが、小泉は特に怒っていました。
<比例で復活できるなら候補者は命懸けで戦わない>
・ただ小選挙区制の弊害は大きいですね。公認権と政治資金を握る党首脳の力が強くなり、上にもの申す議員がいなくなりました。候補者から見れば、小選挙区と比例代表で重複立候補できるため、小選挙区で負けても比例代表で復活当選することができます。勝っても負けても当選できるのなら、候補者は命懸けで戦わないですね。
それに有権者から見れば、候補者よりも党を選ぶ選挙になるので、候補者は自民党の公認さえ得られれば、個人の資質に関係なく当選できます。
・有権者だって、石ころを落としたと思ったのに比例で復活したりするのだから、ばからしいと思うでしょう。だから投票率も下がり続けています。結果として政治家の質は劣化し、日本という国の衰退につながっているのです。
<なぜ自民党が小選挙区で強いのか>
・そもそも、なぜ自民党が小選挙区で強いのでしょうか。それは日本国民がブランド主義だからです。わかりやすい例では言えばデパートです。お中元やお歳暮で有名デパートの包装紙のものを贈れば喜ばれ、スーパーやコンビニの包装紙だと怒られるわけです。
有権者に「どの政党を支持していますか」と聞くと、大体3~4割くらいは自民党と答えるでしょう。
・野党の多くは比例代表で救済されることを頼みとして選挙をやっているだけになり、こうして自民党による一党支配が続くことになりました。
政治家の質が劣化したと言いましたが、このままだと政治はいっそう地盤沈下を起こして、日本の民主主義はもうどうしようもない状況に陥ってしまうでしょう。
・政治家は危機や試練を乗り越えることで鍛えられる。政治家にとっての試練は、本来は選挙なのです。だからかつては「生きるか死ぬか」で戦ってきたんです。
<政治改革のキーパーソンは小沢一郎>
・先にも触れましたが、政治とは権力闘争なのです。選挙制度改革は、小沢が主導して進めたと言っていい。そしてその選挙制度改革は、小沢にとっても権力闘争の手段だったのです。
<政党は物言えぬ空気に覆われてしまった 石破茂>
<「つまらん議員ばかりになる」小泉元首相の警告>
・いま振り返れば、選挙制度改革は、当初思っていたようにはいきませんでした。「結局、改善になったのだろうか」という疑問を強く抱いています。
・この自民党を割って出るまでの過程で、激しい論争を繰り広げていたとき、小泉さんは「やってみれば、俺の言っていることがわかるよ」と言っていましたが、結果的には、小泉さんらの意見は正しかったのかもしれません。私の予言は外れてしまったからです。
・この総務会も、今ではほとんどの議員が発現すらしない会議となっています。私も久しぶりに総務会のメンバーになりましたが、村上誠一郎さんがおられなくなって、意見を述べるのは私くらいになってしまい、忸怩たる思いが拭えません。「つまらん議員ばかりになるぞ」と喝破した小泉さんの往時の言葉が去来します。
・なぜ、物言えぬ空気に覆われるようになったのか。やはり小選挙区制になり、選挙の時の公認や応援、あるいは政治資金を差配する執行部ににらまれたくない、という思いが先に立つという面が出てきたのではないでしょうか。
・自民党がそんな状態にありながら、なぜ国政選挙で勝ち続けて多数を占めているのかと言えば、野党が自民党よりもさらに国民の支持を得られなくなっているからです。決して、自民党がすばらしいという評価を受けて勝ち続けているわけではありません。
・しかし、民主党政権からはわずか3年で人心が離れ、下野を余儀なくされました。
政権公約が絵に描いた餅だった。官僚組織を使いこなせなかった。統治能力が欠如していた――。民主党政権に対する批判は、数え上げればきりがありませんが……。
<正しいと思われた制度がなぜ機能しなかったのか>
・少なくとも「二大政党制になって、国は良くなる」という方向には進まなかった、というのは事実だと思います。理論的には正しいと思われたはずの制度は一体、なぜ機能しなかったのか、自戒を込めて、この点を突き詰めて考えていく必要があります。
私自身は、中選挙区制で当選するほうがおそらく楽だったと思いますし、自分のことだけ考えれば、選挙制度を抜本的に変える旗を振る必要はなかっただろうと思います。
・同じ自民党の候補が敵となり、互いに悪口を言い合う。そんなことにエネルギーを費やす中選挙区制とは何なのだろうと疑問に思っていました。自民党同士が争うのは嫌だという素朴な気持ちもありましたし、不毛な争いとなる中選挙区制に嫌気が差していたのです。
・中選挙区で競う自民党の議員にとっては、それぞれの生き残りのかかった一大事です。しかしながら、それはあくまでも議員同士の争いであって、国家の利益はおろか、地域の利益ともかならずしも合致するものではありませんでした。
・小選挙区比例代表並立制は1996年の衆院選から導入され、私は「これで日本の政治は良くなっていくに違いない」と本当に信じていました。しかし、その後の経過は必ずしも期待したものではありませんでした。
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