竜神=恐竜、天狗=原人たちの霊であるとする浅野正恭の考察や、竜神=蛇類、稲奈利(いなり)=狐類、天狗=禽類、妖精=昆虫の霊であるとする藤井勝彦の説の流れなども並行して存在しており、一定ではない(1)
(2024/9/24)
『広益体 妖怪普及史』
伊藤慎吾、氷厘亭氷泉、式水下流、永島大輝、幕張本郷猛
勉誠社 2024/7/19
<妖怪普及運動の明暗 毛利恵太>
<白峯相模坊を例に>
・紹介者の役目を担うのは、研究書の内容をわかりやすい一般書として執筆する研究者や、独自の調査や探求に即した内容の書籍を執筆する文筆家などである。
<紹介者による妖怪普及>
・紹介者の解説が定着し、その後の検証で相違が明らかになった例として、ここでは二名の妖怪偉人を挙げる。狸愛好家として有名な俳人・富田狸通(りつう)と、天狗研究家として知られる放送作家・知切光歳(ちぎりこうさい)ある。富田狸通は愛媛県の伊予鉄道に勤めながら俳人として活動し、同時に狸の書画や狸像など、狸にまつわる品々を多数蒐集したコレクターとして、趣味人の間では有名であった。富田が狸の昔話や伝説、特に地元・伊予の狸たちについて書いた記事を纏めた『たぬきざんまい』は、化け狸に関する書籍の中でもある種のエポックメイキングとして後世にまで影響を残した。
・知切光歳は放送作家としてNHKの専属となり、各地へ出張する中でその土地の天狗伝説を調査した。その成果は『天狗考』や『天狗の研究』、また『図聚(ずしゅう)天狗列伝 東日本篇』及び『図聚 天狗列伝 西日本篇』として刊行され、天狗研究や全国各地の天狗伝説・天狗信仰に関して随一の資料集として重宝された。
<知切光歳の「天狗山移り説」>
・白峯相模坊は香川県高松市と坂出市にまたがる五色台という山塊を構成する一角・白峰山の守護神とされ、現在も白峯寺において相模坊大権現として祀られている。相模坊の名は古くから有名であり、明和元年(1764)に書かれた『雑説嚢話(のうわ)』巻の下本においては愛宕栄術太郎(あたごえいじゅつたろう)(京都愛宕山の天狗、太郎坊)、鞍馬僧正坊(京都鞍馬山の天狗)などと並んで「八天狗」の一角とされたほか、日本各地の山とそこにいる大天狗の名を列挙した『天狗経』にもその名が挙げられている。
・知切はこの相模坊について、たびたび「相模坊は元々相模国(神奈川県)の天狗であったが、讃岐国へと拠点を移していった」というように説明している。
・「ただ相模坊は、初めは相模の山に住んでいた天狗(あるいは山人)らしい、その相模坊が、いつのころ讃岐に飛翔してきたのか知りたいものである。相模の山といえば、大山の天狗ではなかったかと推測する。ということは、大山の天狗は伯耆坊と呼ぶ古祠があり、その止住もずいぶん古いころのことらしい。そして伯耆大山(だいせん)の天狗は清光坊と呼ぶ。こうした上古における天狗の山移りは、ほかにも例があり、事情は知らず、折々はあった状(さま)がうかがわれる」と記しており、要するに「かつて相模国大山(おおやま)には相模坊、伯耆国(鳥取県)大山(だいせん)には伯耆坊がいたが、相模坊が讃岐国白峯に移り、空所となった大山に伯耆坊が移り、更に空所となった大山(だいせん)に清光坊が現れた」という来歴があると考えていたようである。『天狗の研究』における相模大山伯耆坊や伯耆大仙清光坊についてもこの山移りを前提とした解説をしているため、あたかもそれが根拠のある定説であるかのように読めてしまうのだが、実際のところ、これは知切の推測に過ぎず、明確な典拠も示されていないのである。
・弘法大師が白峯に宝珠を埋めて寺を建立した後、貞観(じょうがん)二年の冬に大椎(おおつち)の島が震動するなどの異変が起きたとしている。当時の国司に遣わされた智証大師(円珍)が山を登ると、たちまち老翁が現れて「余はこの山の神であり、相模坊という。この地は七仏転輪、慈尊入定の場である。今、補陀落より流れてきた流木があるから、これを用いて慈尊の像を造って衆生を助けよ。我もまた、これを助けん」と言った。そこで智証大師はこの老翁を前導とし、その流木から10体の仏像を造って仏廟に納めたのだという。
・いずれにせよ縁起や地誌を読む限りでは、一貫して相模坊は白峯(松山)の守護神または天狗であり、他国の山から移ってきたという話は存在しないのである。
・伯耆坊については、相模坊と比べると知名度の割にその情報量は少ない。室町時代に成立した謡曲『鞍馬天狗』において、白峯相模坊と並んで「大山伯耆坊」の名が登場しているほか、前述した『雑説嚢話(のうわ)』にも、八天狗の一角として「大山ノ伯耆坊」が挙げられているなど、大天狗としては相模坊だけでなく愛宕山の太郎坊、鞍馬山の僧正坊などに並ぶ存在として知られていた。
<定着する独自研究への目線>
・前述したような『天狗経』における清光坊と伯耆坊の関係、また「大山の伯耆坊」がどの山を指すのかという疑問を解消する仮説として山移りは提唱され、それに巻き込まれる形で相模坊は「元々は相模の大山の天狗だった」という珍妙な設定が付与されてしまったのである。
・知切の天狗研究はその後の一般層における天狗認識に数多く引用されたことで多大な影響をもたらし、結果として根拠不十分な山移り説もまた、検証がなされないまま定説として浸透してしまった。
<妖精としての天狗 >
<神仙道や自然霊の世界観での天狗=妖精>
<妖精と妖怪は別物か>
・欧米のおとぎばなしに出て来る異境に《フェアリーランド》がある。
洋書が舶載されて以来、その訳語には主に《仙境》などが用いられ、そこに住む《フェアリー》の訳語にも《仙女》や《すだま》など複数路線があったが、20世紀初頭からの児童・幼児雑誌や1970年代以後のファンシーグッズやメルヘン路線を通じて普及した作品のデザイン、井村君江・水木しげるなどの翻訳や紹介を経て、現在のイメージや語句は、完全に《妖精》のみに移り替わっている。
しかし、《妖精》も《仙女》も漢語あるいはそれ由来の日本語として旧来から用いられており、欧米の《フェアリー》や《ゴブリン》、《エルフ》たちを表現するために特別開発された語句ではない。
・明治~昭和に活躍した南方熊楠は、研究対象も興味もはじめから世界規模なため、馬にいたずらする《かしゃんぼ》を「エルフ等の如し」と表現したりしているが、そのような流れとは別に、《天狗》を《フェアリー》と結ぶ《線》も、明治~昭和前半にいちじるしく見ることが出来る。
<天狗でもフェアリーです>
・明治期には、単に訳語の選択肢のひとつに過ぎなかったが、やがて一部の宗教者や神秘的な研究者の間には、欧米の心霊理論書に登場する《フェアリー》を日本に当てはめ、別の世界にいる存在《天狗》と《フェアリー》を結びつけた理論が発生した。
昭和初期には心霊研究家の浅野和三郎は、西洋の《フェアリー・妖精》は日本の《天狗・仙人》に該当する、としばしば主張しており、ここを中心とした《点と線》が後続する心霊科学の流れの解説に影響を持ったと考えられる。
・ただし、心霊科学なら必ずしも《フェアリー》が結びつけられるわけでもなく、竜神=恐竜、天狗=原人たちの霊であるとする浅野正恭(あさのまさやす)の考察や、竜神=蛇類、稲奈利(いなり)=狐類、天狗=禽類、妖精=昆虫の霊であるとする藤井勝彦の説の流れなども並行して存在しており、一定ではない。
その後の推移を眺めると、天狗を《自然霊》のひとつと位置づけ、欧米にはいない日本独自の存在だとする脇長生(わきたけお)・宮沢虎雄の解説が、心霊科学での《線》としてはつづいていったようである。
<幽界発想の素地>
・前述のような展開が《妖怪》全体ではなく、主に《天狗》と結びついた素地は、幕末からつづく国学者や宗教者による《天狗》を《幽界》に棲む神仙だとする考え方にあると言える。
例えば、幕末に島田幸安の神仙・天狗世界の体験をつづった参澤明(みさわあきら)『幸安仙界物語』には天狗の位階「山霊(大天狗)」/山精(小天狗)/木仙/鬼/境鳥(木葉天狗)/妖魔(魔天狗・邪鬼)」や、天狗を含めた地仙界の位階「神仙(おおかみ)」/仙人(かわひと)/山人(やまひと)/異人(ことびと)/休仙(みたま)/山霊(やまのかみ)/山精(こだま)/木仙(すだま)/鬼仙(おに)/山鬼(たかかみ)/境鳥(たかとり)/麒麟(ましか)・鳳凰(ながなきとり)・霊亀(おおかめ)・神霊(おかみ)」が見られ、国学者の宮負定雄(みやおいやすお)をはじめ、その後の宗教者・研究者が『仙境異聞』に連なる《幽界》資料として活用した言及が重ねられている。
天狗界・妖精界・地仙界などを、人間以外の世界が多層に重なる構造のうちの一角に設定する流れもそこで展開・拡大されているたものである。
・そのような拡大傾向は、本家イギリスの《フェアリー》にもあり、天使と結びつけられ、位階や多層世界が設定されていたりもする。
ダフネ・チャーターズ夫人は、庭の《フェアリー》たちと日々おしゃべりをした結果「デーヴァ/ラ=アルス/ヒアルス/アスピリテス/ファラリス/エルフス/ノメネスやノームス/ミヌティス/ウニティス/ルティメス」という位階別の存在がおり、植物の育成に携わりながら天と地を往来し、エルフスより上級のフェラリスやデーヴァになると、千年以上の修行を星空研究棟で積んだ優秀特級《フェアリー》である、という理論を1950年代に説いている。
日本では、それこそ天使の位階ほどの認知度には到っていないが、このような《フェアリー》の位階や設定も海外では、国学者が幽界実況を求めたり、宗教者や心霊科学者がそれを理論に当てはめたりするのと同様に活用されており、ダフネの《フェアリー》の理論が新刊のスピリチュアルガーデニングの本に、そのまま紹介されている例も見られる。
<折口信夫>
<晦渋(かいじゅう)な妖怪観>
・折口信夫は大正年間から第ニ次世界大戦後の1953年まで精力的に日本人文学・民俗学の研究と創作・評論活動を行ってきた。
<妖怪>
・正月に来る神と同等の役割を果たす魂が、歳徳神(としとくじん)になれずに妖怪になった民俗事例などを挙げながら、魂→祖先の霊→純化して「神」、不純なものは「妖怪変化」と展開していったと説く。また晩年の「民族史観における他界観念」では、神聖霊の性質形態は常に対立的に分化する。邪悪の性格を深めていく精霊(庶物霊)は異形の霊体、すなわち醜悪性を示す動物身で表されるようになり、他界から来る妖怪像が形成されていくという。
・しかし、一方で祖先の霊が不純化して妖怪へ、あるいは精霊から妖怪へという考えも示しており、事実上、最後まで結論は出せなかったというのが正しいのではないか。
なお、ザシキワラシ・クラボッコ・ザシキボウズ・アカシャグマ・キジムン・ガアタロウなどは精霊の一種と捉えられている。また、蒐集事項に「餓鬼」を特記しているのは、近世の幽霊はこれに由来すると考えていたからだろう。この他、ダル(ヒダルガミ)・イッポンダタラ・ウブメも餓鬼の周辺に位置付けられている。
<鬼>
・折口にとって鬼とは異形の神であり、来訪する神(まれびと)である。青木美樹は折口の「鬼」概念は大人弥五郎の人形、花祭・雪祭の鬼、ナマハゲに大きな示唆を得て形成されたと指摘する。
古代の鬼は「巨人と言うだけの意義でした」という。ついで蓑笠を着た「まれびと」のイメージを重視する。すなわち、この装束は来訪神を示すもので、鬼はその同類と見たのである。
・また、天狗との関係の近さも折口の鬼の概念の特色の一つだ。芸能史の研究に欠かせぬ対象であることは天狗も鬼も同じである。そして、天狗は鬼から変化したものと捉えていた。
青木によると、折口は最終的に、鬼を「かみ(神)にもなれず、たま(霊)のままではなく、ものでもない、新たな霊の拠りどころ」という認識に至ったという。結局、妖怪も鬼も発生論的には極めて把握しがたい対象であったため、明確な想定ができなかったものと思われる。いずれにしても、折口にとって鬼とは日本人の霊魂観を明らかにするために重要な存在であり、同時にまれびと・来訪神の研究に欠かせないものでもあった。
<河童>
・折口の関心対象として、もう一つ見逃せないのが、河童である。晩年の1949年に書いた「河童像」に「私も一時、水神像の蒐集に情熱を持ったことがあった」と述べている。またそれより先に、「河童の最古い標準的な名前」はミズチ(ミズシ)であり、河童はそれが「零落した姿」であるとする。すなわち、河童とは水神の零落したものとして捉えていたことと同時に、ある種の愛着を抱いていたことが分かる。
・河童は鬼と同様にまれびと論を構成する一つとして捉えられているが、こちらは柳田的な認識に基づいている。しかし直接的には壱岐島へのフィールドワークの実感に基づく。そして、この島が「北九州一円の河童伝説の吹きだまりになっていた事」を、知り、その調査体験を踏まえて「河童が、海の彼岸から来る尊い水の神の信仰に、土地々々の水の精霊の要素を交えて来た」と考えるに至った。河童が相撲を好むこと、胡瓜好きなこと、皿は、椀貸し伝説と関連付け、水神の無尽蔵の膳椀が変化したものという。
<『稲生物怪録』と泉鏡花>
・ここで平田の学問における天狗や神隠し、異界を論じている。中でも『稲生物怪録』は「非常に変わった本」と評し、やはり、持論に近づけて「必お化けも、われわれの祖先が持っていた神への考えから出ているのだ」と考える。
折口は当初、『稲生物怪録』を篤胤オリジナル作品と考え、その創造性に感心していた。
<研究者が妖怪を普及させた 永島大輝>
<ザシキワラシ普及史>
・ザシキワラシは今の日本ではかなりメジャーな妖怪だろう。
そして、現在もそれなりに語られているのだ。研究者は、妖怪を研究する一方で人口に膾炙するのを手伝っても来た。そして妖怪は視覚優位な世の中で可視化され、造形化された。
<ザシキワラシ普及史――研究者に発見される>
・妖怪がいかに普及したか。今日では「会うと幸せになる」と言われる有名な妖怪で、日本各地にいるザシキワラシだが、もともとは岩手県を中心に伝承されていたローカルのものである。
そんなザシキワラシが柳田國男の『遠野物語』に記される。佐々木喜善が柳田に語り、それを記したものだ。
佐々木喜善はさらなる事例を募る。こうした研究者のネットワークを通じて多くのザシキワラシ情報提供があった。
同じく岩手県の宮沢賢治も「ざしき童子(ぼっこ)の話」という著作がある。やはり佐々木喜善と情報提供などの交流もあった。
・この時のザシキワラシは今日のような「会うと幸せ」になるものではなく恐怖の対象である。ザシキワラシは、次世代の民俗学者によって研究されていく。
<ザシキワラシ普及史――研究者以外の日本人に再発見される。>
・当初は300部しかなかった『遠野物語』が文庫化し、入手しやすくなった時代は高度経済成長期と重なる。囲炉裏のそばで語られる民話や素朴な民具や受け継がれた行事食や古いお祭りなどに心を動かされる日本人にとって、妖怪も例外でなく懐かしいものとして受け入れられていくようになる。
・そして1970年代、ディスカバージャパンのキャッチコピーとともに国鉄の旅客誘致キャンペーンが行われた。香川雅信によればこのディスカバージャパンにより「ザシキワラシは、都市生活に疲れた人びとのノスタルジアをかきたてるものとして、また「地方」の風俗慣習に向けられた好奇のまなざしや満足させるものとして、「消費」されるようになった」としている。遠野物語の舞台、岩手県遠野市は「民話のふるさと」というフレーズを掲げ、岩手県金田一温泉の緑風荘も「ザシキワラシが出る宿」として注目されるようになっていく。
・こうしてかわいい幸せを呼ぶキャラクターザシキワラシが普及していく。
<ザシキワラシの普及しないローカル性>
・一方では聞き書き調査が続けられていた。その最大のものが、高橋貞子『座敷わらしを見た人びと』である。『座敷わらしを見た人びと』では、ザシキワラシが恐怖の対象である事例がたくさん載っている。
<妖怪研究の具体――見えるようになるザシキワラシ>
・「ザシキワラシが見えるとき」という論文のタイトルにあるように、ザシキワラシは見える妖怪になっていく。
・しかし現在では、「ぬりかべは本物だよ 高校時代の友だちに、とても霊感の強い人がいて、いつもいろいろなものをみています。その人が小学生のころ、学校からの帰り道、お墓のところで、ぬりかべが立っているのをみたといいます。はっきりとみたので、ぜったい本物だといっています」とか一反木綿が空を飛んでいたとかいう話がある。ザシキワラシ同様に柳田の妖怪談議で文字化された地方ローカル妖怪を水木しげるが造形化したために、キャラクターとしての地位を確立し、作品を飛び出して現実世界の妖怪になったわけだが、視覚優位の時代ならではの妖怪になっている。
<ザシキワラシ人気者になる>
・一方で私自身が2022年度、中学校の生徒から「家のおもちゃが勝手に音が出た」から「ザシキワラシがいる」のだという話を聞いた。幽霊よりも怖くない、なにかふしぎな話にザシキワラシの名前を付けるのは、いまもなお行われている。活きた妖怪であると言える。
・谷原のほかに、室蘭の都市民俗として山本麻椰「室蘭の座敷わらし」が島村恭則研究室のblogに書かれている。飲食店に「座敷わらしのようなものとして捉え」られている霊が出る、霊感のある人は皆みているという話が記録されている。現代の民俗学の実践例である。そして、現在も遠野物語やザシキワラシについて考察する文章が新たに描かれており、研究者が民俗学や妖怪へのイメージを強固にしているともいえる。
<九千坊と獏斎坊の故郷>
<河童が砂漠から来た話とモノシリ佐藤垢石>
<河童の紹介窓口>
・各地の河童の事例や伝説を詳しく紹介した本には、石川純一郎『河童の世界』や和田寛『河童伝承大事典』がある。
<九千坊のはなし>
・そんな河童たちに関するはなしとして、しばしば紹介されているのが、河童は大陸から泳いで玄界灘を突破し、日本へ渡って来たというものである。
遥か黄河の遥か上流あるいは西域の砂漠から、河童の群れを指揮して九州へ行き着き、球磨(くま)川を居住地に定めるようになったのが《九千坊(きゅうせんぼう)》という河童である――という情報は、広く紹介されて来ている。
<河童モノシリ垢石>
・河童の情報を広く普及させたのは、特に大正~昭和の創作物の影響が大きいのだが、随筆を通じて知識層・読書層に広くその紹介者となっていたのは、釣りや食についての随筆で知られた佐藤垢石(こうせき)である。
<ヤルカンド河の食糧危機>
・『西日本新聞』で1951年から連載された「河童のヘソ」は、大陸の潼関(どうかん)にいた河伯(かはく)の親分が巨大魚の鯤(こん)と黄海で闘って大敗し、移住を決めるはなしから始まっており、九州に渡ったその河伯が《九千坊》だと書いている。
・一般に「黄河の遥か上流・果て」と、どことなく曖昧なまま普及した河童たちの故郷も、この文章では「中央亜細亜新疆(しんきょう)省ヤルカンド河の源流」と明確に設定されている。パミール山地のヤルカンド河の源流をすさまじい寒気が襲い、食糧危機に見舞われた河童たちはよその土地を探すことになった。西へ向かう《獏斎坊(ばくさいぼう)》たちと別れ東へ向かった九千坊たちは、ヤルカンド河→タクラマカン砂漠→楼蘭(ろうらん)→玉門関(ぎょくもんかん)→ツァイダム・青海(せいかい)→黄河→オルドス→潼関(どうかん)→黄海→日本海→九州と移動したと説かれている。黄海から先では《海若(かいじゃく)》という魚とも海獣ともつかない、長さ五六百尺、幅ニ三百尺もあるという巨大な妖怪が河童たちを襲う場面も存在する。
・早稲田大学での後輩にあたる小説家・日野葦平も、河童たちの故郷をペルシャ・アラビアに設定しており、振り出し地点が垢石よりも少し西になっているのみで、根幹のおなじ物語を作品や談話で用いている。
このように、発端の《点》であるはずの垢石のはなしに出て来る地名や動機、登場妖怪の情報量は、一般に語られるものとは異なって来るわけである。別の方角の道を進んでヨーロッパのハンガリーに到り、向こうで暮らしているとされる獏斎坊たちについては、現在まで妖怪事典や妖怪図鑑などで九千坊と同列に語られる機会はほとんど見られない。
<紹介上の長所と短所>
・この一連のはなしは、東ヨーロッパの水の妖怪や沙悟浄に設定を繋げていることからもわかるように、石田英一郎『河童駒引考』に登場する地名や要素を各種配合して生み出されたものと考えられ、1950年代の河童研究や作品群にのせて描かれた随筆上の物語に過ぎず、当時から垢石による潤色・創作と研究者には見られて来ている。
<物語られた隠神刑部>
<その栄枯転変>
<四国狸の代表格・隠神刑部>
・伊予松山(現・愛媛県)の隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)といえば、八百八狸を率いる狸の頭領であり、狸王国である四国地方だけでなく全国的にも名の知られた化け狸である。隠神刑部の物語は、かつて松山藩で起こったという御家乗っ取り騒動の中で語られているが、実はこの騒動は史実において実際に起こった出来事ではない。
享保年間、伊予松山藩の内部では家老同士の権力闘争が起き、享保の大飢饉や久万山(くまやま)騒動が発生する中で、家老の奥平貞国が最終的に失脚・遠島処分となった。
文化二年(1805)に書かれた実録本『伊予名草』は、松山藩の歴史に創作逸話や口碑を取り入れた小説的な内容となっている。その中で享保の松山藩における一連の史実は、家老の対立から奥平久兵衛による御家乗っ取りの企てと失脚の物語へと脚色された。この脚色された「松山騒動」が講談となって更に手を加えられ、物語を盛り上げる素材として新たに登場したのが、隠神刑部であった。
<物語としての八百八狸物>
・拙著の『日本怪異妖怪事典 四国』の隠神刑部の項目でも記しているが、『松山奇談 八百八狸』における隠神刑部は天智天皇の御代に生まれ、松山の菩提山菩提寺を守護する古狸であった。松山藩松平家の時代に、犬の乳で育ったために異能の力を持つ武人・後藤小源太と対面した隠神刑部は、自身を祀って供物を捧げてくれるならば松山藩と松平家を保護すると約束し、小源太は約束を守って隠神刑部を祀った。しかし小源太は後に主君の奥平久兵衛と共に御家乗っ取りを企てたので、隠神刑部は松平家の後継・直次郎を助けて陰謀を暴き、久兵衛は島流しとなり小源太は狸に化かされて自害したのだった。一方の『松山狸問答』『松山狸退治』においては、隠神刑部は稲生武太夫(いのうぶだゆう)という武人と忠義派によって退治されるという筋書きになっている。
・以上のように、八百八狸物は講談や浪曲、小説の人気ジャンルとして展開の幅を広げていったが、化け狸伝説としての隠神刑部はある時を境に解釈が一本化されていく、その要因となったのが富田狸通(とみたりつう)の『たぬきざんまい』(1964)である。
<狸を愛した俳人・富田狸通>
・愛媛県の俳人・富田狸通は大の狸愛好家として知られ、狸を用いた画図や狸像を蒐集したコレクターでもあった。その富田が地方紙『愛媛タイムス』に連載していた狸に関する記事をまとめた書籍が『たぬきざんまい』であり、その内容が後世の化け狸伝であった。
・富田の示す粗筋は以下の通りである。
犬の乳で育った浪人・後藤小源太は、奥平久兵衛に剣術の腕を買われて松山藩に抱えられた。小源太は化け狸・隠神刑部を退治する命を受けて久万山に向かったが、恐れをなした隠神刑部と契約を交わして松山藩の守護神として祀り、その代わりに八百八狸の神通力を行使できるようになった。しかしそれに目をつけた奥平久兵衛が巧言を弄して小源太を御家乗っ取りの一味に引き入れ、彼を通じて隠神刑部をも陰謀に巻き込んだ。これに対して主家の跡取りである直太郎を立てる忠義派の家臣もあり、特に近習頭の山内与右衛門は藩主の松平隠岐守に陰謀について諫言したが、一味によって切腹に追い込まれてしまった。しかしその亡霊が松平家に伝わる「菊一文字」の名剣と結び付き、八百八狸の神通力に対抗して主家を守るのだった。その後、城下町でも八百八狸による怪異や異変が相次いだが、かつて小源太の同門であった芸州広島の剣士・稲生武太夫が次々と狸を退治し、最終的に日頃信仰していた宇佐八幡大菩薩から授かった「神杖」によって隠神刑部と八百八狸を久万山に追い詰めて退治したのであった。
・このように1960年代以降に隠神刑部の物語が一本化していった背景には、それまで多様に発展していた物語としての八百八狸物がほとんど顧みられなくなったのも要因の一つだといえる。
・そのような中で富田が「愛媛の狸話」の一つとして八百八狸物をピックアップした結果、化け狸としての隠神刑部の“伝説”が派生することなく後世まで固定化され、現在の認識に至っているのである。
『世界不思議大全』 増補版
泉保也 Gakken 2012/8
<「ダルシィ文書」と異星人地下基地の秘密>
<異星人とアメリカ政府が結んだ密約とは?>
<明らかになった異星人地下基地>
・1970年代半ばから、アメリカ、ニューメキシコ州アルバカーキに近いマンザノ山地一帯でキャトルミューテレーション(家畜虐殺)事件が続発し、加えてUFO目撃報告も相次いだ。
・電波の発信源がアルバカーキ北方235キロ、コロラド州境に近いダルシィ付近、ジカリア・アパッチ族居留地内のアーチュレッタ・メサであることを突きとめたのだ。
<博士の行動と報告書がもたらした意外な反応>
・ベネウィッツが受けた衝撃と驚愕は大きく、異星人地下基地が国家の安全保障の重大な脅威になりかねないという深刻な憂慮も抱いた。彼の自宅近くにはカートランド空軍基地があり、アメリカでトップの規模といわれるマンザノ核兵器貯蔵庫エリアが設けられていたからだ。
<「ダルシィ文書」が物語る地下基地の実態>
・彼らの証言はベネウィッツの真相暴露を裏づけるものであり、内部告発者が公開した書類、図版、写真、ビデオなどを「ダルシィ文書」と総称する。
・基地の広さは幅約3キロ、長さ約8キロ、秘密の出入り口が100か所以上あり、3000台以上の監視カメラが設置されている。
・基地全体は巨大な円筒形状をなし、基地の最深部は天然の洞窟網につながっている。内部構造は7層からなる。
• 地下1階=保安部、通信部のほか、駐車場兼メンテナンス階。車両は厳重なセンサーチェックを受け、専用トンネルを通行して一般道路に乗り降りする。
• 地下2階=地球人用居住区のほか、地中列車、連絡シャトル、トンネル掘削機の格納ガレージとUFOのメンテナンス階。
• 地下3階=管理部、研究部、メインコンピューター室があり、基地全体を統御している。
• 地下4階=地球人と異星人間のテレパシー、オーラなどの研究、マインドコントロール、心体分離実験、地球人と異星人の心身交換実験などが行われている。
• 地下5階=グレイ族とレプトイド(恐竜人)族の専用居住区、ベネウィッツは居住者を2000人以上と推定したが、カステロは5000人以上と証言している。
• 地下6階=遺伝子工学の実験室が並ぶ。魚、鳥、ネズミなどの異種生物の形質合成、人間の多肢化、グレイ族のクローン化、地球人とグレイ族のハイブリッド化など、戦慄を覚えずにはいられないおぞましい生体実験が行われている。また、さまざまな成長段階のハイブリッド種の胎児の保存槽、培養中の異星人ベイビーを入れた容器も多数並んでおり、“悪夢の広間”と別称されている。
• 地下7階=拉致された地球人やハイブリッド種が何千体も冷凍状態で保存されているほか、地球人を監禁する檻もある。
・なお、ダルシィ地下基地に居住する異星人は1種族ではなく、次の4種族で構成されている。
① 標準的グレイ族=身長1メートル20センチ前後。レティクル座ゼータ星出身。
② 長身グレイ族=身長2メートル10センチ前後。オリオン座リゲル系出身。
③ ドラコ族=レプティリアン(爬虫類人)で身長2メートル前後。肌の色は白くて有翼。オリオン座ドラコ星系出身。基地全体を統括する支配階級。
④ レプトイド族=身長2メートル前後。恐竜から進化した地球の先住民らしい。最下層の労働階級で、掃除や炊事、運搬など日常的な雑用を担当。
ちなみに、実験対象として拉致された民間人以外の地球人(軍人、科学者、技術者、保安要員など)はドラコ族に次ぐ第2の地位にあるという。
<全米各地には200以上もの秘密地下基地がある>
・周知のように、アメリカにはコロラド州シャイアンマウンテンにあるNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)のように半公然的な地下基地はあるが、ダルシィ基地をはじめとする200余か所の地下基地・施設はトップシークレット扱いだ。
<アメリカ政府が結んだ異星人との密約>
・この予備的なコンタクトから約1か月後の1954年2月20日深夜、カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地において、異星人と連邦政府は「グリーダ協定」と呼ばれる密約を交わした。
一、異星人はアメリカに関わるいっさいに感知しない。
一、同時にアメリカ政府も、異星人たちの行動に干渉しない。
一、異星人は、アメリカ政府以外のいかなる国とも協定を結ばない。
一、アメリカ政府は異星人の存在を秘密にする。
一、異星人がテクノロジーを提供し、技術革新の支援をする。
ところが、予備折衝では右の5か条で同意していたが、協定締結の段階で異星人側から新たな項目を付け加えたいと申し入れがあった。
・人間を密かに誘拐し、医学的な検査や遺伝子工学の実験を行いたい。誘拐した人間は体験のすべての記憶を消したうえで無事にもとの場所へ戻す、というものだ。
非人道的な生体実験であり、当然のことながら、アイゼンハワー大統領以下の連邦政府側は躊躇した。だが、両者の文明差は5万年ほどもあり、戦うわけにはいかない。連邦政府は無条件降伏したも同然の状況で、異星人の要求をのまざるをえなかった。かくて、“悪魔の密約”と称される秘密協定が正式に締結されたのである。
・当初の地下基地は2か所。そのひとつがダルシィの地下であり、もうひとつがエリア51から南へ6キロのところにある。「S-4」というエリア内の地下だった。その後も地下基地・施設の建設は続行されて200か所以上を数え、現在もなお新設されつづけている、というのである。
・異星人との密約、地下秘密基地――荒唐無稽というか、きわめて現実離れした話だ。トンデモ説と笑殺されてもおかしくない。が、それを裏づけるような証拠や証言が多数存在するという事実を無視するわけにはいくまい。
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