1950年代以降、「歩く墓石」、アメーバ状のもの、金髪の「北欧系」、人間型のトカゲ、あり得ない大きさの昆虫など、50種類以上の「生物」が目撃されている。(1)
(2024/10/3)
『世界の終わり防衛マニュアル図鑑』
自然災害・核戦争・宇宙人侵略に備えた各国の啓発資料集
タラス・ヤング 日経ナショナル・ジオグラフィック 2022/11/10
<自然災害や戦争に立ち向かうために、各国政府が準備したマニュアルの進化を、豊富なビジュアルで知る>
<はじめに>
・私たちの心の片隅には、絶えず何かしら大災害への恐怖が潜んでいる。普段は、地球規模の大災害が遭うことなどまずないだろうと自分にいい聞かせていても、ふとしたはずみで、もしも最悪の事態が起こったときに何をするか、どんな気持ちになるか、どう行動するか、思いを巡らせてしまう人は少なくない。
・1918年にスペインかぜは戦争で疲弊していた世界につけこんで、兵士を媒介として国から国へ死の感染症を広げていった。それから約40年後、世界は再び感染症に襲われる。これはアジアかぜと呼ばれ、10年以上にわたって毎年のように流行を繰り返し、最終的には変異して1968年の香港かぜの流行を引き起こした。1980年代にはHIV/エイズが出現し、恐ろしい新型のパンデミックとなった。
・過去数千年間そうであったように今世紀に入っても、人類は己の無力さを思い知らされ続けている。その原因は私たちの手に負えない自然の力だ。地震、噴火、異常気象は世界中の生きとし生けるものに影響を与えている。
・世界中の人々は、核抑止力の原則、すなわち核戦争になれば人類全体が滅亡するのだから相手は先制攻撃をしていこないという考えにすがった。それを的確に表しているのが、攻撃を仕掛ければ互いに確実に滅ぶ「相互確証破壊」(MAD)という言葉だ。核戦争に勝者はなく、核攻撃から国を守る防衛手段もないことが次第に明らかになっていく。ひとたび、報復の連鎖が始まれば、世界は完全に破壊され、二度と再生することはない。核戦争後に生き残った者は死者を羨むだろうとよくいわれた。
・それに歩調を合わせるように、宇宙人の目撃情報や宇宙人との遭遇、さらには宇宙人による誘拐話が新聞の紙面に侵略し始め、宇宙から来た存在が瞬く間に大衆文化の定番になった。すると、外国ではなく異星からの侵略という新たな脅威が人々の心を占めるようになった。
・しかし、意外かもしれないが、UFOが国家の安全保障にとって実在する脅威であると見なされていたことは公開情報からも明らかだ。1950年代から20世紀末まで、世界中の政府が多大な時間と資金を投入して、宇宙船といわれるもののデータを収集分析し、それが一体何なのか合理的な説明を導き出そうとした。
<歴史の小休止>
・ソビエト連邦が崩壊したことで、40年あまり恐れられていた核攻撃の脅威がなくなり、医学の進歩によって多くの感染症が過去にないほど抑え込まれ、新しい技術の開発により自然災害の探知と制御が以前に増して現実味を帯びてきた。そして何より幸いだったのは、繰り返しハリウッドのB級映画の題材となり、観客を怖がらせてきた宇宙人の侵略が実際には起こらなかったことだ。宇宙人の乗り物、空飛ぶ銀色の円盤や葉巻型の物体、黒い三角形の実際に遭遇したと主張する人々がいたのは事実だが。
このようにソ連の崩壊以降、世界を揺るがす大きな出来事は起こらず、1990年代は「歴史の小休止」といわれるようになった。しかしすべての小休止がそうであるように、終わりは必ずくる。それが2001年、米国で起きた同時多発テロの悲劇だ。
・現在、本書の読者はかなり高い確率で世界レベルの大災害を自ら体験しているだろう。新型コロナウイルス感染症のパンデミックは決して消えることのない傷を人類に残し、世界中の国と個人が何かしら影響をこうむっている。
・規模は100年前に世界を襲ったスぺインかぜとほぼ互角となった。このパンデミックによって私たちの生活や働き方は変わった。数百万人が死亡し、さらに数百万人以上の暮らしの質が低下し、世界中の経済が大打撃を受けた。
・COVID-19を巡る世界の対応は、新型ワクチンを1種類だけでなく、数種類も迅速に開発したことなど、正当に評価されるべき点もある。しかし大半の政府の対応は、よくいってもずさん、悪くいえば犯罪的なものであった。そして、考えもしなかった悪夢が瞬く間に現実となる災いは、何もパンデミックだけではない。
<人間の勘の悪さ>
・破局的な事態が起こる確率は低いかもしれない。だがそうした事態が起こったとき、何をすべきかを知っているかどうかが生死を分けることもある。大災害を生き延びる能力が私たちに欠けているのはどうしてか。それは大災害があまりに頻繁に起こらないから――この一言に尽きる。
・例えば、2004年のスマトラ島沖地震で発生した津波のときの映像を見ると、海岸から海水がものすごい勢いで沖へ退いていく様子を人々が不思議そうに眺めているのが分かる。それはこの世のものとは思えない驚くべき光景だったに違いない。だがこのときの正しい行動は本能に逆らって、一刻も早く海と反対方向に走ることだった。
・もちろん、大規模な災害に国家の機能を維持する能力が損なわれ、対処を誤れば、統治の正当性を失う恐れもある。「どんな社会も4食を欠けば秩序を保てなくなる」といわれる。大災害が発生して多くの国民が犠牲になれば、国家も無傷では済まない。
・20世紀初頭の広報媒体は、ポスター、広告、小冊子などの印刷物であったが、技術の発達に伴い、ラジオやテレビなどの放送メディア、そして世紀末にはインターネットへと伝達手段は進歩していった。
<人々への情報提供>
・それが実際に行われたのが、世界規模の核戦争の脅威を巡る宣伝活動だ。核戦争は絶えずいつでもどこでも現実に起こりうる危険性があったことから、国民に備えてもらうための宣伝活動に政府は相当な資金を投じた。その結果、1950年代の米国の「かがんで隠れろ」、1980年代の米国の「命を守り、生き残る」など、さまざまなメディアを利用した社会教育キャンペーンが生まれた。
<効果的なアドバイスの作成>
・20世紀を通じて、各政府は災害時のアドバイスを伝えるための工夫を続けた。想像できない脅威を巡る公的なアドバイスに一般の人々がどう反応するかは、さまざまな要因に左右される。
・災害の手引きは、文字だらけの分厚い本から、簡略化されたマニュアルに変った。
・いざ危機が起こったときに、分かりやすいポスターや冊子があるかないかで、命を守る正しい行動を取れるか、間違いを犯すか、アドバイスを完全に無視するかが変わってくる。
デザインやレイアウトに気を配ることで、ガイドブックを理解しやすく、行動を起こしやすいものにできる。こうした要求を満たすものを当局が外部の助けなしにつくれると思ったら、それは間違いだ。テムズ・バリアー(テムズ川の防潮水門)が建設される前の1980年、大ロンドン議会はテムズ川の氾濫が起こった場合のことをを深く憂慮していた。1965年、1975年、1978年の3度にわたり、テムズ川の堤防は、水位の上昇によって決壊の危機に瀕したのだ。万が一堤防が決壊していたら、2万戸の住宅、50の地下鉄駅、35の病院をはじめとするロンドン市の116km²あまりが浸水すると予想されていた。洪水警報が鳴ったときに何をすべきか、市民が知っておくことが大事だった。
<人間の行動とリスク認知>
・1980年代に英国政府は一般市民を集め、核戦争を生き抜くための情報の有用性を徹底的にテストした。
・大衆文化の役割も、政府からの情報を社会がどう受け取るかを考える上で見逃せない。例えば映画は、災害を実際に体験しなくても、どういった状況になるかを想像させてくれる。ハリウッドは、パンデミックから、核戦争、宇宙人の侵略(タイトルを挙げればキリがない)まで、あるとあらゆる大災害をテーマとする映画を製作してきた。
・ただし映画が社会の危機意識を歪めてしまうこともある。その一例が竜巻だ。たいていの映画では、竜巻は田舎で発生するが、実際はどこでも発生する危険性がある。
・米国とフランスの研究によると、深刻な洪水の際、男性ドライバーは車で水の中を走ろうとするなど、特に危険で不適切な行動を取ることが分かっている。実際、米国の洪水による死亡者の半数以上は、判断を誤ったドライバーだ。
・竜巻警報を正しく理解して、避難し身を守るための行動を取る人もいるが、警報を聞くだけでも何も行動しない人もいて、結果、犠牲者が出る事例もあった。だが、竜巻警報の中に、「地下室や竜巻シェルターに入らないと死ぬかもしれない」など、確率に加えてその先の結果も示すと、人々が命を守る行動を取る可能性が高まることが研究から明らかになっている。
<政治的イデオロギーと緊急時の指針>
・どの国にもその国独自の文化やイデオロギーがある。それは、政府が国民に伝える内容も国によって異なるということだ。だから社会へ情報を伝える手法も、国の文化や権力者の政治的志向の違いによっておのずと変わってくる。
・核攻撃を生き抜くために策定された英国の「命を守り、生き残る」計画がその例だ。1970年代に準備されたこの計画は、その存在が一般に漠然とは知られていたものの、有効性を保つため、核攻撃の危機が迫るまで慎重に隠されることになっていた。1979年にマーガレット・サッチャー率いる保守党政権が誕生すると、この核攻撃の際に出されるはずの一連のアドバイスがマスコミにリークされ、すぐに公式に公開されることになった。しかしこのやり方はまったく裏目に出た。英国人の大半が馬鹿げているとこきおろし、キャンペーンはすっかり物笑いの種になってしまったのだ。
これで社会がこの情報を真面目に聞く可能性は完全に失われ、反核運動家に政府の姿勢を揶揄する格好の餌を与え続けることになった。
<愛国心と文化的アイデンティティー>
・ナショナリズムや愛国心といった概念を持ち出すことで、国家を守るべき対象として見せることも可能だ。この手を使えば、自らがよりどころとする国家や文化が滅ばないように、何か役割を果たさなければならないと人々に思わせることができる。例えば、社会主義国時代のハンガリーの民間防衛ポスターには、あらゆる階層の人々が国家を守るのに力を貸そうと立ち上がる姿が描かれている。
・梅毒は歴史的に、英国人からは「フランス病」、フランス人からは「ナポリ病」、ロシア人からは「ポーランド病」、ポーランド人からは「ドイツ病」と呼ばれていた。HIV/エイズは同性愛者の病気という誤った思い込みから、公衆衛生当局の対応が遅れ、危機を深める結果となったことはいまだ記憶に新しい。
<パニック予防の100年>
・アドバイスに従うのは難しい――それが自分の命を左右するかもしれないものであればなおさらだ。
・本書には、第一次情報化時代に政府が発したさまざまなアドバイスが記録されている。この記録は情報媒体を駆使して、思いも寄らぬ事態に直面する社会を助けようと人類が全力を尽くした証しでもある。
<パンデミック>
<新しいウイルス 2009年~現在>
・21世紀に入っても、グローバル化、人口増加、格安旅行は衰える気配がなく、この状況をウイルスが利用し続けていることは、近年のパンデミックの発生を見れば明らかだ。インターネットやソーシャルメディア、テレビのニュースなどで瞬時に情報が広がる時代にあって、各国政府もウイルスの危険性を伝える手法を変えることが求められている。
・2009年、スペインかぜと同じインフルエンザA型の新型株がメキシコに現れ、感染が拡大したことから、WHOはパンデミックを宣言した。
・2002年から2004年にかけて、SARSを引き起こす新型コロナウイルス、SARS-CoV-1が流行した。
・SARSコロナウイルス1はパンデミックと呼ばれるほどの大流行しなかったかもしれない。だがその兄弟分であるSARSコロナウイルス2はパンデミックを引き起こした。これこそCOVID-19の大流行、いわゆる「新型コロナウイルス感染症」の原因となったウイルスだ。COVID-19は2019年12月に初めて確認されると、2020年1月に公衆衛生上の緊急事態宣言が出され、2020年3月には正式にパンデミックと認められた。COVID-19は世界中で数百万人の死者を出し、各国を社会的パニックに陥れた。
・ほかにも脅威となっている新型コロナウイルスはある。例えばMERSだ。2012年に確認されて以来、これまで858人の犠牲者を出している。人類が存続する限り、パンデミックとの戦いは終わらないだろう。今後も世界の人口は増加し、距離は縮まる。ウイルスの脅威は高まる一方だ。
備えること、それが私たちすべてにとっての利益となる。
<自然災害>
<いざという時にために>
<自然災害への備え>
・地震、火山の噴火、気象災害などの自然災害はいつ起きてもおかしくない。
・また、予測しがたい自然災害に加えて、人間の活動が原因となる気候変動の影響の深刻化もある。社会を災害から守るための機関は、その両方に対処しなければならない。気候変動の影響は、氷河の縮小や海氷の減少、熱波の長期化と高温化、永久凍土の融解など、すでに目に見える形で表れている。こうした気候変動が地質学的な自然災害にどういう影響を与えているか、現在のところ定かではない。しかし、激しい暴風雨や洪水が地殻に影響を与え、地震や火山噴火などの地質活動を活発化させていることを示す証拠は増えている。
・激しい気象現象がめったに起こらない温帯地域でも、気候変動の影響で気象パターンが変わってきていることを示す証拠がいくつか出てきている。寒い冬が減り、洪水やハリケーンなど、激しい風雨をもたらす気象現象が増えるといったことはその例だ。2005年に米国を襲ったハリケーン・カトリーナもその1つで、1800人以上の死者と約1610億ドルの被害を出す大惨事となった。北大西洋のハリケーンはこれからも勢力や頻度が増大し、長期化していくとNASAの科学者は見ている。
・グリーンランドでは2019年に、過去最高となる5860億トンの氷が消失し、その勢いは、これからさらに山火事が南北アメリカ、東南アジア、オーストラリア各地を襲った。アフリカのサヘル地帯はますます激しい干ばつに見舞われ、農業が壊滅的な打撃を受ける一方、インドネシアの一部地域では洪水による浸水が徐々に進んでいる。
・気候変動による人々の大規模な移住はすでに始まっており、今後数十年のうちに、住む場所を追われる人々は数百万人ではなく数十億人に膨れ上がると懸念される。
・気候変動の影響が大きくなっていることで、社会に向けて情報を発信し続け、自然が牙をむいたときに対応できるように人々に備えさせることがすでに難しくなってきている。人々の命を将来にわたって守り続けるため、政府には自然災害に備えた投資を今すぐ大幅に拡大することが求められる。
<気象災害>
・ほとんど、あるいはまったく前触れなしに突然到来し、人命を奪うような極端な気象現象は、自然災害に分類される。
・例えば、米国では毎年1000個の竜巻が発生するが、その半分以上が米国中部を南北に伸びる「竜巻街道」で起こっている。この地域はちょうど、北西部から流れ込む冷たく乾燥した空気の寒気団と南東部のメキシコ湾から来る暖かく湿った空気の暖気団がぶつかることで、最大で時速512㎞にもなる恐ろしい旋風が発生するのだ。破壊力が最大級の竜巻は、重いものを数㎞も吹き飛ばし、木々を根こそぎ倒し、家屋を基礎から持ち上げる。さらに、町を壊滅させ、毎年数百人の命を奪っている。だからこそ、できるだけの多くの人に竜巻の危険を知らせる警報システムの整備が欠かせない。
・20世紀を通じて、レーダーによる予測技術の進歩と、一般市民向けの通報システムの確率により、竜巻警報のリードタイム(猶予時間)は飛躍的に伸びた。だがそれでもリードタイムは依然として平均15分程度であり、警報の70%あまりが空振りに終わっている。
・だからこそ政府としても、竜巻が頻繁に発生する地域の人々には、竜巻を見たときに何を探し、どのように行動すればよいか知ってもらわねばならない。米国では竜巻に備えるためのプログラムが1950年代から実施されている。
・竜巻が同時多発している中、当局が頼りにするのは何といっても人々から寄せられる目撃情報だ。当局から警報が発せられると、米国の地方テレビ局は放送予定の番組を中止して、竜巻の実況放送に切り替える。
・なお、竜巻が発生するのは米国だけではない。南極大陸を除くすべての大陸で竜巻は発生する。ドイツ、イタリア、フランスの一部がヨーロッパの「竜巻街道」と呼ばれているが、実際には竜巻は、ヨーロッパ大陸のほとんどが起こっている。1km²当たりの竜巻発生数が地球上で最も多いのは、何と英国だ。1981年には、勢力が弱いながらも、1日で100個以上の竜巻が発生し、竜巻発生件数がヨーロッパ最大を記録した。これは当時、観測史上2番目となる発生件数だった。
・1970年にイタリアのベネチアとパドバを襲った竜巻では36人が死亡し、1984年にソ連を襲った竜巻では400人もの死者が出ている。
・大洪水もまた特定の地域で頻発する気象災害の1つだ。特に毎年モンスーンの季節がやってくる東南アジアでは、際立った問題だ。洪水はある程度予測して備えることができる。それでも毎年、豪雨による鉄砲水や土砂崩れで何千人もの命が失われている。これらの地域では洪水警報システムがしっかりと構築され、改善が日々続けられている。
・ほかの気象災害と同じく、洪水も、近年起こっていない場所で発生すると、壊滅的な被害をもたらす可能性が高い。テムズ川に面したロンドンは20世紀の大半、毎年9月から翌年4月にかけて、大洪水の脅威に繰り返しさらされてきた。
・洪水警報が発令された際に、どう行動すべきかを市民に知ってもらうことが不可欠であり、当局は、ロンドンで暮らす人や働く人に、テムズ川洪水訓練に参加するように呼びかけた。この訓練は1982年にテムズバリアー(高潮を防ぐ水門)が完成するまで続けられた。
<大地が動くとき>
・(日本を除く)世界の多くの地域では、大雨による洪水と違って、津波の場合、前もって警告が出されるケースは少ない。地震や海底火山の噴火によって大量の海水が持ち上げられると、津波が発生する。そのため、津波は断層の近くで発生する確率が高い。発生確率が特に高い地域は、オセアニア、インドネシア、日本、アジア東部、それに米国西海岸だ。
・ユネスコは世界的な津波警報システムとともに国際的な津波情報センターを運営している。ここでは津波に備えた社会教育プログラムを提供するほか、11月5日を世界津波の日として啓蒙活動を行っている。こうした活動を行っているのはユネスコだけではない。津波の危険性が高い地域の政府当局も真剣にこの種の活動に取り組んでおり、米国のハワイ州では1990年代から毎年4月を「津波啓蒙月間」に定めている。
・20世紀最悪の火山災害となった1902年のマルティニーク島プレー山の噴火では、わずか60秒で3万もの人が命を落とした。その原因は噴火で起こった火砕流だ。
・1991年、フィリピンにあるピナトゥボ山の火山活動を調べていた火山学者たちは、これは未曽有の大噴火が起こる前触れだと、周辺に暮らす20万人あまりの人々に避難勧告を出した。
・地震もまた人々の命を脅かす大きな地殻変動の1つだ。日本では、家屋やオフィスのみならず、社会そのものの耐震性が考慮されている。建物の被害を最小限に抑えるための技術開発に資金が投じられ、日常生活においても地震への備えは怠りない。
・チリもまた地震の備えを社会に浸透させることで、人命が守られている国だ。地震の備えが整っていない国に比べて、大きな地震による死者数は数分の1にとどまっている。
・例えば、ニュージーランドの民間防衛組織は。「伏せる、覆う、つかむ」という標語をつくり、人々に地震の際は転倒しないように床に伏せ、頭と首を覆い、身を守るものにしっかりつかまるようにとアドバイスしている。
<林野火災と戦う>
・自然界において山火事の果たす役割は大きい。生態系によっては、山火事のおかげで重要な栄養分が土壌に戻り、山火事が発芽のきっかけになる植物もある。
・とはいえ、制御不能となった山火事は、草木を燃やし尽くすだけでなく、交通、通信、エネルギーのインフラに壊滅的なダメージを与える。
・山火事は世界中で発生している。原因は、落雷のような自然現象に加え、消されずに放置された焚き火、放火、花火、捨てられたタバコといった人為的なものがある。山火事というと、ニュースで報道されるような米国の森林火災を想像しがちだが、実際には、草原やプレーリー(大草原)、泥炭地など、植物が密集している場所であれば、どこでも発生する。
・山火事の移動速度は植生によって変わり、森林では時速10㎞だが、草地では時速20㎞にもなる。これは健康な人間が走る速度とほぼ同じだ。まれにだが、山火事の勢いが強いと、甚大な被害をもたらす「火災旋風」が発生することがある。
<核戦争>
<命を守り、生き残る>
<核戦争への備え>
・これまでの章で取り上げてきたパンデミックや自然災害は恐ろしいとはいえ、私たちの頭で理解できないことはない。しかし核戦争は違う。ただ恐ろしいだけではない。核兵器の想像を絶する破壊力と殺傷力を経験した人は人類全体から見ればごく一部でしかなく、理解の枠をほとんど超えている。そんな兵器が引き起こす大惨事に社会はどう備えればいいのか。
・核戦争がもたらす被害が未知数であるにせよ、政府は国民を安心させるため、核の時代を通じて、生き延びるための現実的かつ実用的な手段があるといい続けた。多くの国々で、核戦争の危機が迫ると市民ボランティアで人と社会を守る「民間防衛」と呼ばれる準備が行われ、核攻撃後に対処する計画が進められた。
・第ニ次世界大戦が終結して間もない1940年代後半、冷戦が始まった。冷戦初期の核攻撃に関する政府の刊行物は、今からすれば怒りを覚えるくらい楽観的なものだった。
・一目瞭然の圧倒的な威力を前に、政府は核攻撃の真実を隠しきれなくなったのだ。根拠のない楽観主義は姿を消し、「大変なことになるだろうが、いろいろと知っておけば生き延びる可能性は高い」という考えが主流となる。
・そうした中、1961年にソ連が史上最大の核爆弾「ツァーリ・ボンバ」の実験を敢行する。その威力は50メガトン、広島に原爆が投下されてからわずか16年で核兵器の破壊力は3000倍以上になったのだ。さらに翌年にはキューバ危機も発生し、世界は初めて核による滅亡の危機に瀕する。
・核攻撃から命を守るガイドブックは冷戦の東西両陣営で発行された。両陣営で共通する事柄もあるが、表現は両陣営のイデオロギーが色濃く反映され、大きな違いがあった。西側諸国のガイドでは、個人や家族が自分たちを守る方法を重視し、人々が核攻撃に備えて家の安全性を高めたり、家族用核シェルターをつくったりする様子が描かれていた。
・これと対照的に、東欧諸国や中国のガイドでは、屋外や共同シェルターで人々が協力して作業する姿が多く描かれ、地域社会全体として核戦争に備え、それを民間防衛隊や病院スタッフ、兵士などの公務員や軍関係者が支援する場面が多かった。
・1970年代から1980年代になると、核戦争に勝者がいないことが明らかになり始める。両陣営が保有する核兵器は世界を何度でも破壊できる数に上り、一方が核攻撃を始めれば、必ず共倒れになる。それゆえ、互いに核攻撃はできないという、いわゆる相互確証破壊(MAD)という考えが出てきた。また核兵器が空中で爆発すると電磁パルス(EMP)が放射され、何㎞にもわたって車のスターターやラジオ、電話回線などの電子機器が使えなくなることが新たに判明した。
・その結果、西側諸国において政府の公式アドバイスは興味を持たれないどころか、相手にもされず、逆に公然と批判され、物笑いのタネとなった。こうして、各国政府は冷戦が終結する1991年以前に民間防衛に関する広報物の発行をやめていた。
・今見ると、個人、家族、地域社会を核攻撃から守るために政府が作製した情報の量には驚かされる。そして、そうした情報が必要にならなかった幸運にも驚くほかない。
<核攻撃に備える>
・多くの国で核攻撃に対する国内の備えを担ったのが、政府後援の民間防衛隊だ。こうした組織では、男性が建物からの救出作業、要救護者の手当て、消火活動、放射線の監視といった専門技能の訓練を受け、女性には弱者の避難や住むところを失った人たちの救助、休憩所の設置、炊き出しなど、主に生活面の支援が期待された。表向きはあらゆる災害の支援要請に応える組織だったが、真の目的は核攻撃に備えることにあった。
・米国では民間防衛組織が地域社会における核攻撃防衛の最戦線となった。それらの組織による刊行物の多くには「民間防衛」のシンボル(オレンジ色の円の中に青色の三角形)が誇らしげに描かれていた。
・1950年代には、フランス、スウェーデン、ノルウェー、オランダ、西ドイツ、デンマークでも本格的な民間防衛組織がつくられた。スイスやアイルランドといった中立国も例外ではない。英国では地域社会の備えは民間防衛隊が、核攻撃に備えた空の監視は別の組織、王立観測隊が担った。
・とはいえ、米国ほど民間防衛に真剣に取り組んだ国はほとんどない。核攻撃への備えがあらゆる場面に入り込んでいた。カーラジオには特定の周波数に印が付いており、そこに合わせると最新情報を聞くことができるようになっていた。
学校では緊急時のための訓練が行われた。民間防衛のシンボルがミスター・ソフティのアイスクリーム販売車にさえ描かれていた。この販売車には、発電機、食料、水、拡声器、投光器が積んであり、核攻撃の後に人々を支援できるように準備してあった。
・ほとんどの共産主義・社会主義国にも民間防衛組織は存在していた。特に充実していたのはソ連、チェコスロバキア、ハンガリー、東ドイツで、米国と並んで一方の核超大国であるソ連は、防衛教育を国民生活の一部としていた。宿敵の米国と同様、小学生は防衛訓練への定期的な参加を強制され、万が一核攻撃があった場合に冷静に対処する方法を学んだ。
・各国政府は民間防衛組織を通じて一般市民にアドバイスを伝えたが、その媒体に使われたのがガイドブック、パンフレット、ポスターだ。1959年に米国国防総省は、家族を守るための核シェルターを事が起こる前に建設しておく方法を簡単に示したイラスト付きガイド「生き抜くための10カ条」を発行した。1961年にはカナダ政府が「生き残るための青写真」シリーズを制作し、オランダ政府は「家族と自分を守るためのヒント」を各家庭に配布した。
・これらのパンフレットすべてには共通の項目がある。それは核爆発についての基礎知識、核シェルターの準備と揃えておく品々、サイレンの種類とそれぞれの意味、核攻撃の前、最中、その後に自分と家族がすべきことだ。
<シェルター>
・要するに、死の灰の強力な放射線を浴びると死んでしまうので、それが弱まるまでの数週間、その影響をブロックしようというのだ。団地住まいなどで一軒家に住んでいない人々のことは、政府は単に無視した。
・核シェルターに備蓄しておくものについてのアドバイスもあった。1981年に英国で発行されたガイドブック『家庭向け核シェルター』には、用意するものとして2週間分の食料と水に加え、携帯ラジオ、缶切り、防寒着、懐中電灯および予備の電池と電球、仮設トイレ、時計、カレンダーといったアイテムがこれでもかと列挙されている。
・当局はシェルターをつくることがいかに重要か人々に伝えようとしたが、反応は鈍かった。1961年、ジョン・F・ケネディ大統領は、米国の民間防衛プログラムが「無関心、無頓着、猜疑心」に直面していると述べ、もっと力を注がねばならないと訴えた。公共シェルターの建設計画を奨励し、全米でのシェルター設置を財政的に補助した。
・鉄のカーテンの向こう側でも、ソ連が野心的な大規模シェルター計画に着手し、核攻撃に耐えられる地下鉄のトンネルや駅を建設するという妙案を思いついた。フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、スイスなど、ヨーロッパの一部の国では、トンネルや政府機関の建物に市民のためのシェルターが設置され、新しい建物には核シェルターの設置が義務付けられた。英国では、こうした一般市民を守るための備えは行われなかった。1960年代に社会的弱者を田舎に避難させる「疎開計画」が策定されたものの、すぐに中止され、国民それぞれが自分の力で身を守ることになった。もちろん政府発行のガイドブックを参考しながら。
<爆風と死の灰>
・核爆発といわれて、多くの人が思い描くのは、強烈な閃光、とてつもなく大きな爆発音、瓦礫の荒野に昇るキノコ雲だろう。だが実際の核爆発の凄まじさはそんなものではない。太陽よりも明るい閃光は、その方向を見ていたあらゆる人の視界を一時的に奪う。閃光とともに飛んでくる有害な赤外線や紫外線によって、皮膚はやけどになり、目は傷つき、着衣やカーテンなどの可燃物が発火する。その次に来るのが爆風だ。これは爆発から放たれる高圧の衝撃波で、猛烈なスピ―ドの強風を生み出し、それを受けた建物は軒並み破壊される。爆発の中心にできた火球が地面に接触すると、地上の粒子が上空へと舞い上げられ、これが放射性降下物、いわゆる死の灰となる。核兵器がもたらす影響で最も恐ろしいといわれるこの死の灰は、時間の経過とともに地上に戻り、風下に流れ、雨雲と混ざることで、広大な地域に拡散する恐れがある。
・核戦争後の世界として想像される、生き残った人々が中世さながらの環境に逆戻りして、つらい生活を送る光景は一部しか正しくない。中世の生活では、目が見えなくなったり、皮膚を焼かれてただれたり、不安に心を病んでしまう人もいなければ、日々の食べ物や水のせいで苦しみながらじわじわと死んでいくようなことはなかった。
・核爆発が起こったら、わずか数秒の間に、最初に襲って来る熱線と爆風から身を守る場所を探して隠れなければならない。1970年代に探して隠れなければならない。1970年代に英国で作成された評判の悪い小冊子『命を守り、生き残る』には、次のように書かれている。「何でもよいから体を覆うか、溝の中に横たわるかして、頭と手の露出した皮膚を覆う」。米国のパンフレット『生き抜くための10カ条』には、「とにかく、何かの物陰に隠れること」だけ書かれている。爆風を生き延びたら、死の灰が降ってくるまでわずかながら時間がある。『命を守り、生き残る』では、この間に火事を消し、ガスの元栓を止め、自家製の核シェルターに入り、少なくとも48時間はそこから動かないよう勧めている。その後はラジオを聞いて指示を仰ぐようにといっている。まだどこかで放送が続いていればの話だが。
・政府が指針を示していたのは一般家庭だけではない。農業も、世界の終わりのような状況で生き残った人々に食料を供給するという重要な役割を担うことになる。アイルランドの『死/生』(1965年)や英国の『本土防衛と農家』(1958年)などの小冊子には、放射能を含む死の灰から家畜や作物、農場の施設を守る方法が詳しく書かれている。
・東欧諸国では、色鮮やかなポスターや民間防衛マニュアルを通じて、共同シェルターの建材の種類による防護効果の違い、核爆発から身を守る方法、死の灰を浴びてしまった人を川で除染する方法を伝えるのみならず、応急処置のやり方や共同シェルターに入る前にガスマスクを着ける方法まで紹介していた。
・1970年代の中国のポスターには、一般市民が協力して共同シェルターを建設し、予期せぬ核攻撃の際には一斉にシェルターに逃げ込み、その後、汚染された建物を洗浄する様子が描かれていた。
・1991年ソ連崩壊によって冷戦が一応終結し、核攻撃の脅威は消え去ったように見える。だが今もこの世界には、地球を何度も破壊できるだけの核兵器(9000発以上)が配備され、重要標的に向けていつでも発射できる状態にある。今がどんなに安全に思われるとしても、世界は破滅の1歩手前にある。ボタン1つですべてが終わるのだ。そう考えるとぞっとする。
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