太古より、知念間切の久高島には「異種の民」がいた。彼らは皆、ヒザからくるぶしにかけてとても細く、かかとがない。足の甲は短くて足の指は長く、そのかたちは手のひらのようになって、地に立つ。(5)
・佐々木喜善は友人が周防国(山口県)で体験した怪異をザシキワラシに類する事例のひとつとして紹介している。それは某氏が山口市の高等学校にいた頃のこと。夜、下宿でドイツ語の書物を枕元に置いて寝ていると、夜半に一人の童が出てきて本をペラペラ捲って遊んでいた。やがて童は寝ている友人の懐や裾に潜りこんで脇などをくすぐったので、たまらず目を開けると、暗中にもかかわらず天窓板が一枚一枚節穴に至るまで明瞭に見えたという。
・岡山県和気郡和気町日笠下出身の女性(1926年生)は、幼い頃に父から「我が家には座敷童子が住んでいた」と聞かされたという。父は座敷童子がチョコチョコと座敷から出て去っていくのを目撃し、家運の衰えを察したという。津山市のあるアパートにもいたずらっこの座敷童がいたといい、住民の看護婦さんは怖いとも思わず一緒に暮らしていたという。
・広島県三次市甲奴町小童(こうぬちょうひち)の飲食店「手打ちそば山菜料理わらべ」(2022年閉店)の店舗は古民家を改装したもので、座敷わらしが宿っているという。開店準備中の時期、澤口則子店主はどこからともなく聞こえる囁き声を耳にしたといい、開業後も人の歩く足音が聞こえたり電灯が消えたりと、奇妙なことが続いたという。店がテレビで紹介されると、「スピリチュアルの先生」が「ここは座敷童がいますね」と判定。それ以来、願いを叶えてほしい、一目見てみたいといった訪問客が増えたという。不思議な現象がよく起こる「座敷童の部屋」には、客から差し入れられた玩具やお菓子が所狭しと並んでいる。
<日招き(ひまねき)>
・沈みゆく夕日を扇子で招き返し、日暮れまでの時間を延ばして目的を達する呪術。
中国地方を舞台とする例では、平清盛による音戸の瀬戸(広島県呉市の海峡)開削の伝説が有名。安芸(あき)守だった清盛は、航路の便を図って音戸瀬戸の開削事業に着手した。しかし工事は停滞し、予定日の夕方になっても終わりそうになかった。そこで清盛は扇で沈みかけている太陽を招き返して、その日のうちに作業を終了させたという。
・鳥取県の湖山長者も、『因幡志(いなばし)』『因幡民談記』などに記述があり、古くからこの種の伝説の主人公として広く知られている。
<猿猴(えんこう)>
・水辺の妖怪。人を捕まえて尻や内臓を抜いたり、牛馬を水中に引きこんだりする。「猿猴」の本来の字義はテナガザルだが、中国地方一帯では河童にあたる存在の呼称として通用している。一般的に想像される河童と同じく、頭に皿があり、留まっている水がこぼれると力を失うとされる場合も多い。人間や神仏によって懲罰されることも多々ある。
<血取り>
・異人などが人の生き血を取ると考えられたもの。明治6年(1873)から各地で徴兵令などに反対する民衆運動(血税一揆)が起きたが、これらの発端にも血取りの風聞が関わっていた。これは前年の太政官告諭にある「西人之を称して血税といふ。その生血を以て国に報ずるの謂なり」という文言から、西洋人が生血を取りに来るとの誤解が生じたものである。
・北条県(現・岡山県東部)では、アメリカに連行される、石高1000につき女1人・牛1匹を異人へ引き渡されるなどの噂にまで発展し、津山の県庁が強く否定するも県民の疑念は拭えなかった。貞永寺村の卯太郎という者は「10歳から40歳までの人の生き血を絞るために白衣の者が来る」と噂を流して住民の不安を煽り、実際に白衣を着た人物の徘徊を見せて暴動を誘発し、大規模な一揆に発展させたという。
・鳥取県会見郡でも、異人は人間の生き血を飲む、徴兵で生き血を絞り外国に売るといった噂が流れていた。鉱山局が雇った外国人が検査に訪れた時は血を取るための調査と思いこみ、人々は門札を外して家族構成を隠したという。古市村(現・米子市)の農民の妻が不審な二人組を目撃すると、村人たちは血取りが来たと大騒ぎして半鐘を鳴らした。混乱は村から村へ急拡大、竹槍を持ち出す者、通行人に暴力をふるう者まで出た。集合した農民は1万人規模となり、戸長宅への襲撃などが始まった。
・明治6年7月の『東京日日新聞』では、岸田銀二が備前児島の他の浦を訪れた際、同地の住民が血取りの流言を信じて避難・武装していた様子が報じられている。人々は朝廷が唐人に騙され、日本人の種を絶やすために、若い男の血を抜いて弱くし、女は外国にやってしまうものと信じていた。邑久(おく)郡では多くの者が血を取られた、美作(みまさか)では夜中に役人と唐人が家々を検め、娘を連れ去ったなどと具体的な噂まで飛び交い、政府への疑念が増大していたという。
<神ン野悪五郎(しんのあくごろう)>
・『稲生物怪録』諸作において名が語られる魔王。山ン本五郎左衛門の同族または対立する相手とされている。
「柏本」では、山ン本の口から神ン野悪五郎の名が語られる。日本では山ン本の同類は彼しかいないという。もはや神ン野が手を出すことはないだろうと言いながらも、山ン本は今後怪異があれば自分を呼べるようにと、平太郎に槌(つち)を授ける。
『三次実録物語』では、山本太郎左衛門と覇権を争っている魔王として信野悪太郎という名が語られる。平太郎の胆力に敵わなかった山本は、信野の配下となることをしぶしぶ受け入れて稲生家を去っていく。
絵巻『堀田家本』では山ン本五郎左衛門の友として権力の座を争う魔の名は真野悪五郎とされている。
・基本的には作中に名前が出るだけで姿は描写されないが、先述の『稲生武太夫一代記』では、山ン本に連れられて衣冠束帯姿の悪五郎が現れる。これは他の絵画作品では太歳(ださい)大明神の姿とされるものである。
<山ン本五郎左衛門>
・稲生屋敷に種々の怪異を起こした魔王。一ヶ月にわたって稲生平太郎の周囲に妖怪を出現させていた黒幕である。
・絵巻「堀田家本」などにおける五郎左衛門は世界の人を惑わすことを業とする魔物で、100人を誑かして魔国の統領になろうと企んでいる。しかし86人目の標的にした平太郎が類稀なる豪胆さを持っていたため、野望は潰えてしまった。観念した五郎左衛門は同族の真野悪五郎から平太郎を守るため、自身を呼び出すことのできる槌(つち)(化物槌)を授けて去っていった。
・幕末から明治にかけて活動した神仙道家の宮地水位は、仙人の教えを受けて様々な異世界を往来していたという。彼が著した『異境備忘録』によれば、悪魔界の12柱の魔王の中には、神野悪五郎月影、山本五郎左衛門百谷という名の者がいるという。『稲生物怪録』との関係は語られていないが、同作の魔王の名を参考にした可能性は高い。ちなみに、宮地水位の世界観において神野・山本よりもはるかに強大な存在が、序列第一位の魔王「造物大女王」である。
<山本太郎左衛門(さんもとたろうさえもん)>
・『三次実録物語』に登場する魔王。稲生家に1ヶ月にわたって怪異現象を発生させた黒幕で、「柏木」や「平田本」系統の作品などに登場する山ン本五郎左衛門と同じ立ち位置の存在。
七月晦日(みそか)、魔王は裃(かみしも)を着た武士の姿で平太郎の前に現れて狼藉を詫び、仮の名として「山本太郎左衛門」と名乗った。彼は対立する魔王・信野悪太郎を従えるための賭けとして、万物の王たる人間の中でも特に気丈な青年100人を脅かし、正気を失わせようとしていた。既に唐、天竺、日本で16歳の青年85人を脅かしてきた太朗左衛門だったが、平太郎の勇気を挫くことは叶わず、不本意ながら悪太郎の下につくことになった。
<天狗使いの彦六>
・岡山県津山市倭文地域に伝わる。
里公文上(さとくもんかみ)の彦六という男は不思議な術を使うため「天狗使いの彦六」と呼ばれた。ある時、彦六は大名行列を前にしても立ったままだったため咎められたが、斬られそうになった瞬間に姿を消したという。またある時は伯耆大山(鳥取県)に参詣すると言って夜に家を出て、翌朝には大山の札と証印を貰って帰ってきたという。
<阿久良王(あくらおう)>
・岡山県倉敷市児島地方に伝わる鬼。
延暦年間(782~806)、児島の由加山(ゆがさん)を根城にする阿久良王(阿黒羅王とも)という鬼の大将が、東郷太郎・加茂二郎・稗田(ひえだ)三郎なる家来を連れて田畑を荒らし、物や女を奪うなどの悪行を働いた。この噂は朝廷にまで届き、坂上田村麻呂将軍が鬼退治に派遣された。将軍は通生の浦へ来て、神宮寺八幡院で七日七夜の祈願をした後、わずかな家来を連れて由加山を目指した。道中、白髭の老人が将軍一行を援助して導き、人が飲めば薬となり、鬼が飲めば毒となる霊酒を授けてくれた。やがて現れた稗田三郎と斬り合いになったが、将軍が由加大権現に祈ると鬼はすぐに降参した。三郎の案内で鬼の棲み処に着いた一行は、女の鬼に霊酒を飲ませ、寝入ったところを斬り殺した。すると阿久良王が悪行の償いのため「由加大権現の使いとなり、人々を助ける」と誓って絶命し、首を刎ねられると75匹の白狐に変じた。鬼退治を全うした将軍は神恩に感謝して本荘八幡宮や由加神社社殿を造営した。その後、氏子が盗難に遭うと、必ず75匹の神狐が盗賊を探し出して、奪われたものを取り戻したという。
<猿隠山の化物>
・島根県能義郡広瀬町東比田(現・安来市広瀬町東比田)に伝わる。
昔、両目山には化物が棲んでいて、夜に人を取り食らっていた。杵築(きづき)大社(出雲大社)への勅使・柳原大納言の供として当地に来た北面の武士・藤内民部藤原信貞は、夢枕に立った白髪の神様の加護を受け、化物退治に乗り出した。神使の古猿の導きで山中にある化物の塒(ねぐら)に行き着いた信貞は、襲いくる化物を矢と刀で倒し、この地に山王権現を祀った。化物は身長六尺、頭に三尺ほどの銀髪を垂らし、体毛は黄色く、四足は狼のごとく、尾は牛に似た、名も知れぬものだった。猿の教えで化物退治ができたので、山は猿隠山と呼ばれるようになった。これは天喜元年(1053)の出来事で、化物が潜んでいたのは山の七合目あたりの岩窟といわれている。
<山中の貴人>
・浄免院という人物が雲州(島根県)の太守だった頃、寺西文左衛門という弓術に秀でた武士がいた。ある秋、寺西は山へ松茸狩りに行き、帰り際に角平という供の者の姿が見えなかったため、その名を呼んだ。同行の者が呼んでも返事はなかったが、寺西が呼びかけると山奥から何か応じる声がした。そうして発見された角平は、山中で主とはぐれてから、誰とも知れない高貴な人々に捕まっていたと語った。貴人たちは寺西の声を聞くと、迷惑そうな様子で角平を解放したという。角平を誑かそうとした狐狸の類が、その主人が弓の名手であると気づいて恐れをなしたものと思われた。
(2014/9/17)
『宇宙人についてのマジメな話』
(平野威馬雄)(平安書店) 1974年
<空飛ぶ円盤に憑かれた男>
<岡山市の安井清隆(60歳)(ペンネーム)(故人)>
・ 星の住人は、ちゃんと男女の性別があり、目は碧く、髪は金髪だったという。
・ 地球人ともっとも違うのは、その生存期間です。百歳はまだ幼児期で、平均寿命は3万年から4万年ということでした。それに「老」「病」がなくて、3万歳の人も青年みたいな風貌をしていました。
・ 住民は小型円盤がそのまま、マイハウスになり、高層建築に見えるものも、小型円盤の積み重ねだったという。
・ 空飛ぶ円盤なので、移動はむろん簡単。
・ 星全体が単一国家でほしいものは定められたところへ行けば、すぐに支給されるので、争いもなく戦争も皆無の理想郷。
『UFO革命』
横尾忠則 晶文社 1979年3月
<母船で連れていかれた太陽系外惑星 (安井清隆)>
(安井)・普通の日本人よりもっと立派な日本語、まるでアナウンサーみたいな日本語で、声もそういう調子でした。
・ええ、高いんです。背が私の倍ぐらい、2メートル4、50ありました。
・「もっと遠い星で、太陽系の外の星なんです。まだ地球上では確認されていないので名前もありません」
・私のことは子どもの頃から全部観察してあり、記録されてあるらしいですね。
・宇宙人の名前はチュェレイさんといいます。チュェレイさんと一緒にいた女性は、背の高さは私と同じくらい、1メートル70センチはありました。髪の毛は少し長めで金髪なんです。
・母船はものすごく大きく、何メートルなんてものじゃなく、葉巻型になっていて長い方が50マイルぐらいだとチュェレイは言っていました。ということは、岡山県の幅ぐらいはあるでしょうね。とにかく想像を絶する巨大な母船なんですね。
・母船の中を小型円盤がピューピュー飛んでいて、全体が街のようになっているんです。
・どこから灯りが出ているのかさっぱりわからないんですが、とにかく昼間の太陽光線と同じなんです。
・彼らが、植えた草や木もあり、池のようなものもありましたよ。非常に気持ちがいい場所でしたよ。
・建物は地球のビルのように四角形のものや堕円形のものもあり、その中がコンパートメントのように仕切ってあるようですね。
・この母船は、巨大な宇宙空間を飛ぶと、ゼロに近い時間で飛ぶらしいですね。その原理は、私たち地球人の知識では全然見当がつかないですね。そして、この母船の中で、時時、地球の各国の人が招待されて色々な話をすることがありますが、その内容については、詳しいことは公表できないことになっているんです。ただ彼等は、原則として地球には干渉してはいけないことになっているらしいんです。
・飲み物は、地球のコーラに似たようなものを飲ませてくれました。けれど、特別変わった味ではありませんでしたね。そのほかにも甘い飲み物はあったんですが、私は、飲まなかったんです・・・・。食べ物は、肉をやわらかくしてトロトロしたものをスプーンで食べるんです。
・リスの肉らしいんです。それとトウモロコシのようなねぎ坊主に似た穀物をくだいて、粉々に作ったパンのようなものがありましたが、これは大変おいしかったですね。味付けの感じは、いわゆる西洋料理のような感じですね。
・チュェレイ星に行く時は、その母船でチュェレイ星の近くまで行くんです。
・降りたところの風景は、どちら側が北か南か全然分かりませんでしたが、とにかく、一方に海があり、その彼方にうっすらと山が見えていました。そして、海と反対側の方は、降りた所もそうでしたけれど、わりと荒れた土地、いわゆる荒蕪地といったらいいでしょうが、そんな感じの平野のような土地が続いていて、そのまん中に街というより都市といったらいいでしょうか、かなり大きな街が見えていました。
・草はね、少し違っています。ちょうど、芭蕉の葉っぱを少し厚くしたような、あるいはゴムの木の葉のように葉の肉が厚いんです。そういう草木が沢山あり、全部の木が闊葉樹ですね。それから動物もいるんですが、皆大きいですねえ。リスが羊ぐらいの大きさに見えました。ただ全部の動物を見たわけではありませんでしたけれど・・・。
・太陽はあります。ただ地球で見るよりははるかに大きいんですが、逆に太陽の熱は地球よりも強くないんです。そして、チュェレイ星は地球のようには自転していないらしいんです。
・都市というのは、かなり大きな街でした。岡山市の旧市内ぐらいは充分あったと思います。そして、もっと驚いたことがあるんです。最初に降りた所でざっと周囲の風景を見てから、もう一度円盤に乗ってチュェレイ星をグルッと一周してもとの場所に帰って来たんですがー海や山などの風景が同じだったのに気がついたのでチュェレイに聞いたら、「そうだ、最初に降りた場所だ」というのでわかったーさっきあった都市がなくなっているんです。おかしいなあと思って、風景は同じようだけれども、あそこに見えていた都市がないのはどうしてなのかと訊いたら、笑いながら、「あれは全部円盤でできていて、今はもう他の場所に飛び去ってしまったのだ」というんです。
『UFO革命』
横尾忠則 晶文社 1979年3月
<第4種接近遭遇>
<UFOに同乗した人>
・「運動公園でUFOに乗った人」で少しご紹介した故安井清隆(ペンネーム)です。安井さんが初めてUFOを見たのは、昭和28年頃の夏だろうと推定されます。岡山市富田町の家の前で夕涼みをしている時に2日続けて目撃したそうです。
・その人は自分の名前をチユェレイと名乗りました。その後、安井サンはチユェレイさんの故郷の星のことを便宜上チユェレイ星と呼びました。
・昭和35年の5月14日。マスコミ各社が集まっていた総勢100人の観測会で33機の大編隊が現れ、読売のカメラマンが撮影に成功したといわれます。だが、この記事はなぜか発表されていません。そして当日取材に来ていなかった夕刊紙がこのことをスッパ抜き、一躍岡山の話題になりました。
・また、もっと驚いたことには、チユェレイ星を一周してもとに戻ってみると、風景は同じなのに、さっきは確かにあったはずの都市が消えていたのです。チユェレイさんは笑いなら「あれは全部円盤でできていて、今は他の場所に飛び去ってしまったんです」と説明しました。その生活のための円盤は四角形のものも沢山あって、さっき見た都市は円盤が重なってビルのように見えていたのです。円盤は絶えず1メートル位浮いているので、道路を作る必要もないとのことでした。しかし、安井さんはどんな単位で街を作るのか、なぜ街は移動するのか聞くのを忘れたといいます。
・チユェレイ星人はみんな身長2メートル以上ありますが、動植物も全体に大きく、リスでも羊くらい。花も直径3~5メートルくらい、木はすべてゴムのような肉厚の広葉樹でした。
・チユェレイ星人の体は全体的にひとまわり大きいものの、地球人と同じです。生殖行為もほとんど同じということでした。原則として一夫一婦制ですが、必ずしも護られなく、恋愛(?)は、彼らにとって最も深い関心事のひとつだとか。しかし、裸に対する抵抗はないらしく、風呂は混浴でした。安井さんはチユェレイさんと一緒に、その風呂に入ったそうです。
『岡山に出現したUFO』
(秋田めぐみ) (岡山若者新書) 1987年
<岡山の安井さんのチュェレイ星への異星旅行>
・ 円盤は都市という程度の規模なんですか?
・ さっきあった都市がなくなっているのです。あそこに見えていた都市がないのはどうしてなのかと訊ねたら、笑いながら「あれは全部円盤でできていて、今はもう他の場所に飛び去ってしまったので」というんです。
・ じゃあ、都市は全部ドーム型になっているんですか?
・ これらの円盤は、飛行するためというよりは、生活する場としての円盤なのですから、四角型の円盤も多くあり、それらが積み重なった場合、大きなビルのように見えるわけなんです。最初見た円盤の街を作ることは、簡単なわけですよね。ただ、どういう理由で、あるいはどんな単位で一つの街を作っているのか、さらにそれらの街は、たえず場所を移動しているのか、何のために移動するのかなどまでは聞き出せなかったんですけれど、いずれにせよ、パァーと集まれば海の真ん中にでも瞬間的に大都会ができるんですから便利だと思いますね。
・ 地上からたえず、1メートルぐらい浮いているわけですから、地上に固定した建造物は全然なく、たえず動いている。チュェレイ星全体が単一国家で、欲しい物は、規定の場所に行けば手に入るし、争いも皆無らしいんです。
・ もちろん、建物は全部円盤でできているわけです。そんな建物がひとつだけ、ぽつんと浮いているところもありました。
・ チュェレイ星人の平均寿命は3万歳から4万歳くらい。
<異星人とテレパシーなどでコンタクトする方法が分からない>
・ “コンタクトする方法は?”円盤に対しての関心を毎日の生活の中でたえず持ち続け、そして宇宙人に早く会ってくれと頼む(念ずる)しか方法がないんじゃないでしょうか。
『UFO革命』
(横尾忠則)(晶文社)1979/3/1
・また「時間と空間は相対的なもの」というのは今の地球の科学でも定説になっていますが、天文学上でも各星によって1年(1行程)の長さが違います。チユェレイ星人の平均寿命は地球時間で3万~4万年くらいらしく、チユェレイさんは地球人の30歳前後しか見えませんでしたが、実際は1万歳くらいとのことでした。そして、地球人がピラミッドを作っている頃から地球に来たことがあって。「あれ(ピラミッド)は地球人が作ったものだ」と言ったそうです。
・「異星人には同じ人間型でも5メートルくらいのもいる。人に言うと怖がるからしゃべらないことにしている。それに人間とはまったく違う形態の知的生物もいる。チユェレイさんたちでもつきあってもらえないほど次元が高く、チユェレイさんたちが研究しても分らないのがいる」と言っていたとのことです。
・こんなにも沢山の人が、こんなにも様々なUFOとの出会いをしている・・・。この事実はなんびとも否定できません。この事実、それも当地岡山においての事実を秋田さんは足で調査し、一冊の本にまとめてくれました。貴重なものだと思います。
・ここ岡山の街にも事実か、単なる流言飛語か、沢山のUFO目撃の噂があります。そこで岡山のUFO研究といえばこの方を抜いては語れないといわれている畑野房子(就実高校理科講師)のご協力のもとに、この噂の真相を調べてみました。(月刊※タウン情報おかやま別冊)(1987年)
・人間が本能的に持っている未知への探究心が大事。
『世界不思議大全 増補版』
泉保也 Gakken 2012/8
<ジョージ・アダムスキー 史上最大のUFOコンタクティ>
<驚異の宇宙旅行と素晴らしい宇宙船>
・アダムスキーは、その後数回にわたって異星人とコンタクトすることになるが、そのたびに彼は驚くべき体験をしている。
1953年2月18日、例によって彼は予感めいた衝動に駆られ、ロサンゼルスのとあるホテルに投宿した。
夜になって、ロビーにいたアダムスキーにふたりの男が接近してきた。ふたりは普通の服を着ており、話す言葉にも何らおかしなところはなかった。
しかし、彼らが握手を求めてきたとき、アダムスキーは異星人だとわかった。彼らは特殊な握手をするからである。
ふたりはアダムスキーを車に乗せ、砂漠地帯に向かい2時間ほど走行。ドライブ中、ひとりは火星からやってきたといい、もうひとりは土星からやってきたと話した。
車が砂漠に着くと、そこにはUFOが待機していた。近くには例の金星人がいて、アダムスキーをにこやかに出迎えた。不思議なことにこのとき彼は、英語を流暢に話せるようになっていたのである。
アダムスキーは、彼らに仮の名前をつけ、金星人をオーソン、火星人をファーコン、土星人をラミューと呼ぶことにした。
・UFOは信じられないくらいの高速で飛行し、地上1万2000メートルの高度に達した。そこにはなんと、全長600メートルはあろうかという巨大な葉巻型母船が滞空していたのである。
・アダムスキーを宇宙旅行に招待したのは、偉大な指導者(マスター)と呼ばれる人物だった。
・土星型UFOは、上空に待機している母船に向かった。今度の母船には、20歳前後にしか、見えない人々が大勢いたが、彼らの年齢は、実際には30~200歳以上にも達するという。
<コンタクティ 異星人からのメッセージを伝える人々>
・コンタクティの証言を「コンタクト・ストーリー」という。
<ハワード・メンジャー>
・アメリカ人。初コンタクトは1932年の夏で、金髪の金星人女性と会見。高校卒業後、陸軍に入隊してからハワイで黒髪・黒眼の異星人と出会い、太平洋戦争時の沖縄戦に従軍した折、沖縄で軍服を着た金星人と会見、「今後もコンタクトが続く」と告げられた。
・退役後の1956年にニュージャージー州プレザント・グローブでUFOを目撃して搭乗員の男女と会う。以後、金星や火星、木星、土星から来たという異星人と何度も会見し、UFOに同乗して金星や月の裏側にある基地を訪れた。妻も金星人の転生者だという。
<安井清隆>
・日本人。岡山市で語学塾を開いていた1960年4月23日の夜、満月の2、3倍はありそうな土星形のUFOを目撃。1週間後の30日午前4時すぎ、テレパシー通信を受けて戸外へ出たところ、3機のUFO編隊を組んで旋回しているのを目撃した。うち2機は姿を消したが、残る1機も導かれるようにあとを追った。
・UFOは総合運動場に着陸し、中から銀色のスーツに身を包んだ、2メートル40センチほどの長身でマスク姿の人間が現れ、両手を差しだしながら安井に近づいてきた。握手後、マスクをはずした男の顔は彫りの深いヨーロッパ系だったが、日本語で話しかけてきた。しばらく、会話を交わしただけで、最初のコンタクトは終わった。
・同じ年の10月30日、「富山県黒部市の宇奈月温泉近くの河原で待つ」というテレパシーを受信。11月1日の夕刻、黒部川で先に会見した男性と金髪の女性と遭遇した。男性はチュェレイと名乗り、それが母星の名でもあると語り、直径5~6メートルの小型円盤への搭乗を許された。円盤は15分ほどで白馬岳の頂上付近に到着。直径30~40メートルの円盤に乗り換えた。内部は操縦室、食堂、倉庫、会議室からなっていた。
・その後コンタクトは中断し、再開されるのは1970年2月。岡山市郊外でチュェレイと再会し、円盤で白馬岳の基地を訪問。全長60キロはあろうかという葉巻型の巨大母船の映像を見せられた後に、その母船へ案内された。母船は恒星間飛行に用いられるもので、内部には森や湖、山などがあり、建物が立ち並び、小型円盤が飛び交っていた。1971年2月末には、その巨大母船に乗ってチュェレイ星を訪問した。が、その後テレパシー通信はぱったり跡絶えてしまったという。
<ステファン・デナルデ>
・オランダ人実業家。1967年7月、オランダ南西部ウースタ―シェルトの沖合をヨットで航行中、海面に浮かんでいた異星人の宇宙船(水上艇)に乗り上げて異星人と遭遇し、乗船を許された。
・身長150センチほどの異星人はヒューマノイド型ではなく、顔の真ん中に窪みがあり、手は鉤状で、全身が薄褐色の毛で覆われ、獣じみて見えた。
会話はテレパシーでなされた。彼らの母星は、地球から10光年彼方にある惑星イアルガで、自転速度は地球よりも遅く、重力は地球の約3倍。窒素やアンモニアからなる大気は濃密で、大気圏の雲が視界をさえぎっており、太陽光は見えない。
・そのイアルガ星へ、小型の円盤から高空に滞空する大型円盤に乗り継いで案内された。イアルガ星は海が大部分を占め、陸地は島だけで、それらは鉄橋で結ばれていた。石油タンクのような形状をした集合住宅が立ち並び、ひとつの建物の直径は約300メートル、高さは約135メートルで、約1万人が居住できる。
ほかに自動機械化された農園、恒星間飛行用の大型円盤の建造工場なども見学してから、再び円盤に乗って地球へ帰還した。
<R・N・フェルナンデス>
・メキシコ大学教授。原子力委員会のメンバーも務める科学者。1972年11月14日、大学構内で異星人女性とすれ違った。身長190センチの長身で、瞳は緑色、黒髪の美女である。それより先、教授は女性の声で何かを訴えようとするテレパシー通信を受けており、異星人であると直感したのだった。
・その後、2度遭遇したものの、会話を交わすことなく迎えた1974年12月22日、彼女が「テレパシーでは通じないようなので、直接話にきました」と教授を尋ねてきた。彼女はアンドロメダ銀河からやってきたリアと名乗り、知的生命体の調査のために地球を訪れていると説明、近いうちに宇宙船へ招待すると約束した。
・それが実現したのは翌1975年4月22日だった。宇宙船は直径5メートルほどのドーム状円盤で、乗船するや、超高速で大気圏外に飛び出した。リアは宇宙空間に浮かぶ青い地球を見ながら、地球環境の脅威、遺伝子工学、反物質などについて語った。
・リアはその後、近い将来凶悪な異星人が地球に来襲する、という警告を残してアンドロメダ銀河へ帰っていった。
<宇宙飛行士が認めたコンタクトの事実>
・ならば、彼らの主張はすべて虚言や妄想の産物かというと、必ずしもそうではない。宇宙探査によってコンタクティたちの話が真実と判明したケースもあるからだ。
・かつてのアポロ計画にも注目したい。宇宙飛行士と管制センターとの漏洩交信記録から、「道」「ドーム群」「構築物」「トンネル」「テラス」などが月面に存在するらしいことが指摘されたからだ。それらはおそらくUFOの基地だろう。
・アポロ14号で月面に降り立ったエドガー・ミッチェルが2008年7月、「アメリカ政府は過去60年近くにわたって異星人の存在を隠蔽してきた」と爆弾発言したことも、コンタクティに有利に働く。地球へ飛来している異星人が人類との接触を試みないとは考えられないからであり、すべてのコンタクト・ストーリーを荒唐無稽と斬って捨てるわけにはいかないのである。
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