当選のバンザイをした瞬間から、次の選挙は始まって始まっているのだ。決して浮かれてはいけないし、勝ち誇ったような顔を見せてもいけない。 握った手の数、歩いた家の数しか票は出ないのだ。(2)
<大切なのは国民一人一人の幸せ>
・「西暦3000年には日本人は1千人になる」などというと、「そんなことはありえないよ、大げさな」というような反応を示す人も多くいます。私が言いたいのは「このまま放置したら」大変なことになる、ということです。つまり、今なんとかしましょうよ、その認識を共有してください、ということなのです。
・この半世紀で国家予算が60倍なのに対して、社会保障制度の支出は160倍。これも、いい悪いの問題ではなく、「持続可能性の高いプランニングを考えましょうよ」と言いたいのです。
・アベノミクス以前、日本の経済は停滞していました。売り上げも賃金も伸びない。特に輸出中心の製造業は苦しい状態でした。それが大胆な金融緩和によって、円安となり、輸出産業は潤いました。円換算によれば収益も増加しました。
しかし、実は全体の売り上げは伸びていませんし、賃金も上がっていません。だから「実感がない」と言われるのです。
株価の上昇も円安の賜物だと考えたほうがいいでしょう。これもよかったことの一つですが、そこにとどまらず、国民一人一人の幸福につなげる方策を考えなくてはいけません。
有効求人倍率も上がりましたが、これも団塊の世代の方々が大量に退職する年代を迎えたことによる構造的な人手不足が背景にあると考えたほうがいいでしょう。
<賃金が上がらない理由>
・就業構造も大まかにいうと、製造業からサービス業へ、男性から女性へ、正規から非正規へ、若者から高齢者へとシフトしています。これはみな、賃金を押し下げる要因となりえます。
・さきほど、企業の収益が上がっているのに、売り上げは伸びていない、という話をしました。売り上げが伸びていないのに儲かっているというなら、それはコストが下がっているということです。つまり企業にとって人件費が下がるのは、短期的に見た場合には悪いことではありません。しかし長期的に見れば、労働者すなわち消費者なのですから、国内でモノを買ってくれるお客様の手取りが増えないことになってしまいます。アベノミクスの次に改善しなければいけないのは、まさにここです。
・こうした問題は構造的なものですから、「金融緩和」と「財政出動」だけでは解答を示しえないのです。売り上げも賃金も設備投資も伸びていないというのは、そういうことです。企業にお願いして賃金を上げてもらう、国内の設備投資に回してもらう、というのは、運動論として意味があるかもしれませんが、全体的な状況改善にはつながらないでしょう。
・それでも、ある種の論者はこう言います。「まだまだ金融緩和が足りない。もっとやれば、景気も回復していく」
金融政策は日銀の所管ですから、私がどうこういうものではありません。
・今の日本のように人口が減少していくことを経済学の教科書は想定していませんでした。こんなに高齢者が多くなることも想定していませんでした。
<地方創生は経済政策でもある>
・もちろん、政治も政策も「こうすれば万事解決」といった魔法の杖ではありませんが、すでに一つの方向性は見えています。
私は、日本経済の構造を変える一つの答えとして、どれだけ地方の力を伸ばせるかということがあるだろうと考えています。
・しかし、日本のGDPの7割、雇用の8割を占めているのは、ローカルの中小企業なのです。
<官僚も企業も地方を目指せ>
・文化庁を京都に移したことに代表される省庁の地方移転は、そのための試みの一つでした。
・企業に対しても、本社機能の一部を地方移転した場合には減税というインセンティブも用意しました。
<東京以外でも住めば都>
・人材が東京、首都圏に偏在している状況は日本全体にとって不幸な話です。
・大企業はある意味で、政府が放っておいても自分たちで人材を確保し、生き抜くために手を打ちます。
・関連して取り組んでいくべき施策として、中古住宅の流通を活性化させることも挙げられます。
<地方創生の成功例>
・地方が活性化し、蘇った実例は数多くあります。いずれも関わった人たちの創意工夫、熱意が感じられる感動的で興味深いエピソードばかりです。
<東京だけが憧れだった時代は終わった>
・私は、この先の日本に明るい未来をもたらすのは、こうした地に足の着いた取り組みであると確信しています。
・『日本列島創世論』を読んだ方から「石破の言っていることはスケールが小さい」という批判があったとも聞きました。
・すでに若干述べてきましたが、地方創生は地方だけの話ではありません。
・急に現金が支給されたので、なかにはおかしな使い方をした自治体も少なくありませんでした。なかには「村営キャバレー」のようなものを作ったところまであった。そのため、この政策は当時、評判が良いものではなかったようです。
<長期的ビジョンで議論を>
・国会議員も、あるいは中央メディアもあまり取り上げないことですが、今でもこの国の経済を支えている多くの人は圧倒的に地方にいます。8割以上のローカル企業が地方から日本経済を支えています。その地方が変わらないで、日本が変わるはずがありません。
・さらに問題なのは、過度の人口集中により災害に対してきわめて脆弱で、世界一危険な大都市とさえ言われていることです。
・本来、こうした長期的な国家ビジョンについては、国会でもっと議論されるべきテーマです。
<選挙で勝つ体制が長期ビジョンを支える>
<田中派からスタートした政治家人生>
・水月会をつくるにあたって、「石破は派閥否定論者だったはずじゃないか」といったご指摘をいただくこともありましたが、それはちょっと事実とは異なります。もともと私は決して派閥否定論者ではありません。そもそも田中派に育ててもらい、渡辺派で初当選したのですから。
<「君は政治家になるんだ」>
・そんなことがあり、その年、私は三井銀行(当時)に入行し、日本橋本町支店に配属されます。入った当初は、お札の勘定すらおぼつかず、仕事を身につけるために朝7時半に職場に入り、夜は残業につぐ残業という日々でした。午後11時よりも早く帰った記憶がありません。
それが当時の日本企業ではよくある風景でした。
・時は安定成長期、初任給は8万円弱、週休1日(土曜は半休)、千葉県松戸の社員寮を朝6時半に出て、ほとんど終電で帰る。終電前の1時間ほど、毎晩のように先輩に連れられ神田の「一番鶏」という焼鳥屋で飲んでいました。
・その数日後に、田中先生にお礼のあいつさつに行った時に、私は突然、選挙に出ろと言われます。「君が衆議院に出るんだ」
<木曜クラブの選挙術>
・総理の座から降りていたとはいえ、この頃の田中先生の力には絶大なものがありました。
・銀行を辞めて、すぐに立候補できたわけではありません。まずは、木曜クラブの事務局員になりました。当時の田中派の選対本部でもありました。
・田中派は選挙に強いと言われていたゆえんは、こうしたシステムの存在にありました。事務局がシステマチックに選挙に取り組むのです。
応援といっても、ただ有名な政治家を投入するといった単純な発想には基づいていません。
・ここで資料作りからコピーまであらゆる下働きを経験しました。
<渡邊派へ移籍>
・選挙は候補者本人がやるものだ、という考えも徹底して教え込まれました。日頃から小さな会合などを候補者本人が行う。その地道な蓄積があってこそ、その後の選挙を戦えるのだという考え方です。
・こうした田中派の選挙の戦い方を学習できたことは、その後の私にとっても大きな財産になっていきました。
・その後、派閥によってこんなに選挙のやり方が違うのか、ということを痛感しました。渡邊派の選挙への向き合い方は、田中派ほどシステマチックなものではありませんでした。田中派の選挙戦は「総合病院」のようだと喩えられるほど、メンバーに対して行き届いたものでしたが、「地鶏集団」渡邊派のそれはまったく異なるものでした。
派閥の重鎮である江藤隆美先生が、「石破君、田中派と違って、わしらはみんな地鶏じゃけえ。エサは自分で探して歩かなければいかんのじゃ」と仰っていたことがあります。つまり派閥の力に頼るのではなく、各議員が自力で戦う文化だったのです。
・誤解のないように補足しておけば、田中派は選挙のことばかりを考えて政策をおざなりにしていたわけでは決してありません。新総合政策研究会という政策の勉強会も月一回、行われていました。
<自民党田中派化計画>
・2012年、安倍総裁の下で自民党幹事長になった際、考えたのは、自民党全体をあのころの田中派のようにしたい、ということでした。より正確に言えば、選挙に強い田中派の文化を自民党の文化として浸透、定着させたいと考えたのです。
・それだけに党全体で、選挙に常に備え、勝つためのノウハウを共有する体制を作りたい、と私は考えました。
<風頼みからの脱却>
・小選挙区制度は、「風」次第で大きく情勢が変わる制度だとされています。
・だから幹事長として、党内全体を改革すべきだと考えたのです。
このように述べると、「政治家は選挙のことばかり考えている」と嫌う方もいるかもしれません。しかし、私は風に負けない政党でなければ、長期的な政策を打ちだせないと考えています。
<党本部の改革案>
・自民党を「田中派化」するにはどうすればいいか。
・そもそも民主党に政権を奪われたのは、自民党と国民の感情が乖離していたからです。
<選挙必勝塾>
・派閥連携策はうまくいきませんでしたが、選挙に強い体制を作るための選挙必勝塾の開催は実現しました。当選回数が浅い議員を主な対象として、細部にまで立ち入った内容を伝授するセミナーを開催しました。
・彼らには初当選の直後から私はこう繰り返していました。
「当選のバンザイをした瞬間から、次の選挙は始まって始まっているのだ。決して浮かれてはいけないし、勝ち誇ったような顔を見せてもいけない。
初登院までは東京に来なくてもいいから、公職選挙法の許す範囲でお世話になった方々にお礼のあいさつをし、暇を見つけては選挙区に帰れ。握った手の数、歩いた家の数しか票は出ないのだ」
これもまた私が旧・田中派で叩き込まれた教えでした。
<人材抜擢のシステムを>
・与党に戻り、幹事長を務めていた時には、大臣未経験者全員に、どのような役職に就きたいか、希望票を提出してもらいました。希望票には第三希望まで記入可能としました。
・大臣を当選回数で決めるようなやり方は、昔は合理性があったのかもしれません。しかし今の時代に合うものだとは思いません。当選1回でも適任の人もいれば、10回でも不適格な人もいることでしょう。
<何よりも磨くべきは政策である>
<水月会とはどんな集団か>
・それでもなお、なぜこういう集団があるのか。
・常に「次」に備える政策集団は必要ではないか。何かあった時になって「どうしよう」では無責任ではないか。こうして水月会は発足しました。
<ベンチャー改策集団>
・そもそもこうした形で派閥が生まれることは自民党の歴史の中でも、おそらく初めてのことです。水月会以外の派閥には、みんな何かしらの「源流」が存在しています。
・その観点からすれば、私たち水月会は異形の集団とも言えるでしょう。誰が言うともなく「ベンチャー政策集団」と言われるゆえんです。
・先日、こんなことを言っていた人もいました。
「最近、テレビやインターネットテレビに出演する自民党議員の6割くらいが水月会所属議員だそうですよ」
これは、とりもなおさず政策論争に強く、説明能力の高い議員がメンバーの中に揃っている証拠ではないか、と思い、嬉しくなったものです。
<勉強会での研鑽>
・2018年、水月会は『石破茂と水月會の日本創生』という本を出版しました。これは私も含めて、会の会員が月2回開催される勉強会で発表したことをまとめたものです。
・水月会の勉強会は、外部講師を招くこともありますが、メインは所属議員それぞれの発表です。
<共有すべき認識とは>
・現在の与党である自民党、公明党ではなくとも、責任政党であれば共有できる現状認識、議論の前提は存在しています。
・また内政については、急速な人口減少、少子化、超高齢化が国家的な危機となりうるものであり、これを解消する政策を打ち出すのが急務である、というのもまた共通認識になりうるでしょう。
・だからといって国債を無制限に発行することはできませんし、国債依存度を下げていくべきだ、というのも多くの政党のコンセンサスであろうと思います。
<国債発行も財政健全化も手段であって目的ではない>
・経済学者や評論家の中には、日本の借金は国内で消化しているものだから問題ない、といった見解を述べる人もいます。
・それは言い換えれば、総体としてのGDPだけではなく、一人当たりのGDPを増やすことを目標の一つに掲げることでもあります。
<社会保障をもっと多様に>
・デフレ脱却に相当近づいてきているのに、個人消費が伸びない理由の一つとして、「長生きリスク」が挙げられています。
・また財政運営を考えるうえでも、その圧倒的な支出は社会保障関係費に向けられていますから、年金・医療・介護の支出をどう考えるかが一つ大きな項目でしょう。
「税と社会保障の一体改革」は、安定した財源として消費税と社会保障とを結びつけ、財源を確保したうえで社会保障の増え幅に対応しようとするものでした。しかしこの時点で、少なくとも私は二つの見逃しをしていました。
一つめは、日本における消費増税の政治的リスクの高さ。二つめは、社会保障給付の内容です。
・一方で、「診療報酬の外の世界」で「正当な利益を確保できる、新産業としての医療・介護」という視点も重要です。我が国が誇るべき国民皆保険制度は診療報酬の中の世界で維持しながらも、その周縁部分、まさに「サービス産業」としての伸びしろ部分に、顧客満足度の向上と効率化を両立させるカギがあるはずです。
このような方策で、もう一度社会保障の負担と給付のメニューを洗い出し、明確化し、国民一人一人に選択していただくことで、将来不安も払拭できると思うのです。
<ここまで広がる「地方創生」の可能性>
・6章で、「地方創生」は本来的には「小さな」話ではない、ということを申し上げました。これは少しかっこいい言い方でいえば、「トップダウン・エコノミーからボトムアップ・エコノミーへの転換」でもあります。
少し視点を変えると、例えば「モノ消費からコト消費へ」ということが言われます。
・ロボット、ドローン、AI、機械化、顔認証などの新技術と相性がいいのも地方のローカル産業です。農業や観光業、中小の建設業などと組み合わせれば、地方を中心とした生産性は向上します。
このように、地方創生の可能性はとどまるところを知らないのです。
<教育にも革命的な選択肢を>
・意外に思われるかもしれませんが、私は左官、建築板金、鳶などの職人の方々の関係団体の議員連盟の会長などを多くお引き受けしています。
・そこから派生して考えれば、あまりにも画一的な教育体系の中で、職業選択の幅が著しく狭くなっているのではないか。
・結婚、出産、育児、病気療養、介護、看取りなど、人生において大切なイベントは多くあります。これらのイベントを、一人一人が望む形で、一人一人が望むタイミングで実現するためにも、中断したキャリアをグレードアップして継続するための教育は不可欠です。
<自立精神旺盛で持続的に発展する国づくり>
・日本の高度経済成長の背景となった人口ボーナス期とは全く異なる人口構造になったにもかかわらず、産業構造の転換も、人口政策も後手に回ったことは、我々政治に携わる者に大きな責任があります。
アベノミクスの金融緩和で財政出動で生まれた時間的猶予の間に、産業構造の転換と、地方・女性・人生のベテランが持つ潜在力を最大限に引き出す必要があります。
・このように壮大な国家ビジョンは、私一人ではとうてい実現できません。でも今の私には、少なくとも水月会の同志たちがいます。本当に心強い限りです。
・会の人数は相変わらず少ないままですが、渡辺美智雄先生の言葉をもう一度ご紹介しておきます。
「いい加減な奴が百人いるより、信念を持った確信犯が20人いれば、世の中は変わる」
<おわりに>
・毎週末のように各地に出向いても、とてもすべての市町村は回りきれていません。これまでに回ったのは、全国1718あるうちのせいぜい350市町村くらいでしょうか。
・最近の自民党を見ていて危惧を覚えることがあります。どうも、街頭で政策を訴える機会が減っているのではないかと思うのです。
政治の根本の一つは演説です。少なくとも私はそう思っています。政治家は演説をすることで進化すると言ってもいいでしょう。
・民主党が政権を取り、自民党の人気が最低レベルだった時期にも、谷垣総裁を先頭に自民党の議員は街頭に出て、政策を訴えていました。もちろん罵声を浴びせられることもありましたが、それでも訴え続けることが大事でした。
・さまざまな人が聞いている街頭で、聴衆を惹きつけるだけの論理を構築することが政治家には求められます。
私は大臣を拝命しているときは、質問する野党議員のことをなるべく事前に調べるようにしていました。
・国会は議論の場であると同時に、そうした調整の場という意味もあります。
・これはチャーチルの有名な言葉とも通じるところがあります。「民主主義は最悪の制度である。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けば」
民主主義は意思決定に時間がかかり、とても面倒で、煩雑です。
・政治家は出来る限り多くの人に「私たちのことをわかってくれている」と思われるように心がけなければならない。そのためには、本書で繰り返してきたように、謙虚さ、誠実さ、正直さが必要なのだと、私は信じています。
・それでも「田中先生が聞いてくれた」「竹下先生が聞いてくれた」というだけで満足してくだる方も多くいたのです。それはやはり、「話を聞いてくれて、わかってくれた」と思ってもらえたからでしょう。
・これからの日本において、政治家はうまい話ばかりは出来ないと繰り返し述べてきました。「出来んわなあ」という局面は必ず増えていきます。
それでも相手に納得してもらえるような政治家でありたい。
『政治家は楽な商売じゃない』
平沢勝栄 集英社 2009/10/10
・「政治家は楽でいいな。政治資金の使い方もいい加減でいいんだから」「結構、儲かるんだろうな」などと思っている人もいるのではないだろうか。
・しかし、政治家という仕事は決して楽なものではない。11年前、地盤、看板、カバンもないまま衆院選に挑戦し、幸いにも当選させていただいて以来、私は、公務や選挙区での活動に全力で取り組んできた。1年365日、1日も休みなしの状況で今日まできた。
・また政治家は決して楽な仕事ではない、もちろん人によって違うだろうが、徒手空拳で政治家の路を選んだ私だからこそ、よくわかることだ。
<勝栄流、ドブ板選挙>
・私の場合、365日、それも毎日24時間を選挙活動に充てていると、いっても過言ではない。これは決してオーバーではない、家族サービスなど全くできないと言っていい。
・毎日の活動は漕ぐのを止めたら倒れてしまう自転車に似ている。体力勝負である。政治家と言う仕事はもちろん個人差はあるだろうが、決して楽な商売ではないのだ。
<日々是選挙なり>
・政治家にとっては「日々是選挙」だ。したがって、慢心はもちろん、一瞬の油断でさえ政治家には命取になる。
・「選挙に勝つための条件は三つある。一つは36歳以下であること、それから、5年から7年、地域を必死で回ること。最後に地元の2流、3流の高校の出身であること」。最後の条件は、一流高校と違いそうした高校の出身者は卒業後の結びつきが極めて強いから、選挙に有利と言う意味らしい。私は、どの条件にもあてはまらない。
<ドブ板選挙は体力が勝負>
・選挙区では1年中、なんらかの会合や催し物が開かれている。1月から3月までの新年会だ。私は毎年計5百か所ぐらい出席する。それが終わると卒業式に入学式のシーズンを迎える。
・政治家でも二世や三世なら祖父や父親からの地盤があるから私などと違って楽かもしれない。
・政治家は勉強も欠かせない。しかし、1日中、走り回っていると勉強する時間がない。
・私が基本にしていることは、徹底して「人に会う」ということだ。それが選挙の第一歩だと考えている。地元にいる限り、私の一日は「人と会う」ことから始まる。
<国会議員の本分>
・まずは国会議員の本分としての仕事がある。それを最優先でこなし、余った時間で選挙活動にも励んでいるのだ。
<個人の後援会>
・政治家にとって後援会と言うのは、膨大な時間と労力をかけて作り上げるもので、いわば政治家の命綱だ。二世、三世議員は祖父や父親の後援会をそのまま譲り受けることからきわめて楽な選挙となるが、私にはその基盤となる後援会が全くなかった。
・現在私の後援会員は約6万人を数える。この後援会が今日の私のドブ板選挙を支える基礎となっている。
<政治家とカネ>
・国会議員は普通に活動するとどうしてもカネがかかる。仕事をやればやるほどカネがかかるともいえる。
・普通に議員活動をしておれば、月にどうしても5、6百万円はかかる。先に述べた議員年収などでは、とてもまともな活動はできないのが現状だ。歳費と期末手当だけではとても政治活動費は賄えないし、政党からの助成金でもまったく足りない。支援者からの支援がなければ、政治家として十分な活動ができない現実がある。だから、パーティーは多くの議員にとって不可欠とも言える。
・夏はもちろん、盆踊りや花火大会などのシーズンである。このうち盆踊りや夏祭りは町会、自治会単位で開催され、約3百ヶ所に顔を出す。
・もちろん、こうした行事のほかにも冠婚葬祭や祝賀会、記念式典などが一年中、目白押しだ。
<拉致は防げた>
・拉致は防ぐことができた。私は、今でもそう思っているし、警察にいた者の一人として、この点については返す返すも残念でならない。実は私が警察に在職していたときから、北朝鮮による拉致事件が起こっているのではないか、と関係者は疑いを抱いていた。
・実際に実力行使で不審船をストップさせたのは2001年12月の奄美大島沖事件が初めてであった。
<拉致問題は時間との戦い>
・私の師でもある後藤田正晴さんは生前、政府の対北朝鮮外交の進め方に介入する関係者の言動に強い不快感を示しておられた。私は、リスクを覚悟しながら行動する政治家は、リスクを取らずして非難だけする人など何も恐れる必要はないと考えている。この言葉を後藤田さんが存命中に常に言っておられたことである。
・10人帰って来ると、あと10人はいるのではないか。その10人が帰国すれば、あと30人はいるのではないかとなるのは当然であり、自明の理だ。
・日本の警察に届けられている行方不明者や家出人の数は8万人から9万人に達する。この中に「もしかすれば、うちの子供も拉致されたのでは」と思う人が大勢出て来るだろうし、相手がいままで平気で嘘をついてきた北朝鮮だけに、先方の説明をそのまま信じることはできない。要するにこの話は今の金正日体制の下ではエンドレスに続く可能性がある。
・すると北朝鮮側は、「拉致事件は、日本と北朝鮮が戦争状態の時に起きたことだ。戦争時に末端の兵士が行った行為を罰するわけにはいかない」と答えた。だとすると拉致事件の最高責任者は誰かと言えば、間違いなく金正日だ。北朝鮮は、ならず者であれ何であれ、曲がりなりにも国家である。そのトップを引き渡すということは、武力行使か金体制の崩壊しかあり得ないのではないか。
<日朝交渉の行詰まり>
・小泉さんが訪朝時、食事どころか水にも手を付けなかったからだそうだ。アメリカのオルブライト国務長官は2000年の訪朝時に、北朝鮮の水などを口にしたそうだが、小泉さんは二度の訪朝のいずれもでも水さえ口にしなかった。
・私は、小泉さんは立派だと思う。北朝鮮の水に何が入っているかわからないし、そもそも水といえども飲む気にはなれなかったのだろう。しかし、北朝鮮にいわせると「自分の国に来て水一滴も飲まないで帰るとは失礼だ」ということになるようだ。だから私は、小泉さんの三度目の訪朝はないと思う。
『「政権交代」 この国を変える』
岡田克也 講談社 2008/6/18
<「座談会」と呼ぶ、私が最も大切にしている集いがある>
・週末ごとに地元・三重県で20人、30人規模で開催する対話集会のことだ。私は、この座談会を20年間にわたって繰り返してきた。2005年秋に民主党代表を辞任したのちも、1万人を超える方々と膝を突き合わせて対話してきた。
・政権交代ある政治、これこそ私が、いままでの政治生活の中で一貫して主張してきたことだ。
<政権交代とはどういうことなのか>
・同じ民主主義、市場経済を基本とする体制の中で、どちらの党の政策がよりよいか、具体的な政策を国民一人ひとりが選ぶこと。
・選挙運動を始めてから地盤が概ね固まる当選2回までの間に、通算すると5万軒、いや7万軒は訪ね歩いたのではないだろうか。すべての活動の基本は有権者との直接対話だという、私の考えは今も変わらない。
・代表辞任後のこの2年9ヶ月間、私は、地元で350回、延べ1万人を超える有権者との対話の場をもってきた。週末はよほどのことがない限り地元に帰って、公民館とか神社の社殿とか、ときには個人宅をお借りして、平均30人ぐらいの集会を開く。私は、これを「座談会」と呼んでいる。
<自由で公正な社会を実現する>
・市場にも限界がある。競争政策、市場メカニズムを活用すれば、そこからこぼれ落ちる人が必ず生じる。それは政治が救わなければならない。
<公正な社会を実現する>
・社会的公正とは何か。私は、中間所得者層の厚み、実質的な機会の平等、セーフネット、世代間の公平―以上の4点を挙げたいと思う。
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