神野山は、日本神話の火の神である加具土(かぐつち)命が父神伊弉諾(いざなぎ)尊に斬られたとき、その髪が飛び落ちたところで、「どんずりぼう」は加具土命と同体と考えられる。(1)

(2024/12/23)

『天狗説話考』

久留島元   白澤社   2023/11/27

・天狗は、古代日本では飛行する悪霊として、人に取り憑き、仏道修行をさまたげる天魔と同一視された。  

<はじめに>

・日本人、というよりも、日本に育ち、日本文化に親しんだ人で、「天狗」を知らない人はいないだろう。よく知られているのは、赤ら顔で鼻が高く山伏の姿で手に羽団扇をもち、深山に棲む仙人か神霊のような姿の大天狗だ。アニメや絵本、また食品パッケージにもよく採用されている。鬼、河童とならび、日本を代表する妖怪である。

・天狗は妖怪ではない、と思われている一番の理由は、天狗は山の神、あるいはその眷属として信仰の対象だ、という認識があるだろう。京都では愛宕山、鞍馬寺、東京の高尾山、九州の英彦山などが天狗信仰の霊地として有名だ。これらは修験道の修行地でもある。

・とはいえ、天狗が人をさらうという話題は、落語だけでなく近代までよく語られた、都市伝説のパターンでもある。被害者は大人のこともあるが、おおむね少年だった。突然姿を消し、家出か誘拐かと騒いでいると何年もたって発見され、天狗に連れ回されたなどと口走る。神隠しの一種だ。少年ばかりが狙われるので性愛の相手をさせられたと勘ぐる向きもあり、「天狗の情郎(かげま)」などという表現も残っている。

・有名なのは江戸時代後期の寅吉という少年で、寅吉の語る天狗界に強い関心を示したのが国学者の平田篤胤だった。この寅吉の話が、2018年、あるツイッターのつぶやきをきっかけに突如脚光を浴びた。岩波文庫『仙境異聞』が三度も増刷、人気にあやかり角川文庫で現代語訳も出版された。まさに日本人の「天狗」への関心の強さを示した珍事だった。

<序――「天狗」研究から「天狗説話」研究へ>

<本書のスタンス――「天狗説話」>

・また、世間には天狗の正体を「漂着した外国人だった!」とか、「古代に降り立った宇宙人だった!」とか、大胆な解釈を唱える書籍もある。

・とはいえ、荒唐無稽に思われる天狗=宇宙人説も、まんざら由緒がないわけではない。あとでも紹介するが中国では「天狗」を星の名前に使う。日本でも京都の鞍馬寺では、本尊の千手観音、毘沙門天、魔王尊の三身のうち、大天狗として知られる魔王尊を「650万年前に飛来した金星の化身、サナートクマラ」と説明している。

・なお戦国時代に日本で活動した宣教師の側も、diaboつまり悪魔の訳語として「天狗」を用いている。宣教師たちにとってあやしい教えで人を惑わすのはまさに悪魔の所行であり、異教の地で悪魔を退治し、キリスト教徒を広めることが自分たちの使命だと感じただろう。

<民俗学の天狗研究>

・日本民俗学の父、柳田國男は、天狗のみならず日本の妖怪研究に先鞭を付けた先駆者だが、天狗を、平地人とは異なる独自の文化をもった異民族「山人」を神秘化したものだととらえた。柳田は、天狗の仕業として語られている山中の怪異を調べることで「日本人とは全然縁の無い一種の人類」「旧人類」の消息がわかるのではないかと考えた。

・知切光歳(ちぎりこうさい)がもっとも心血を注いだのが、歴史、知名度、信仰の広まりから選定した独自の「天狗番付」である。

<天狗はどこから来たか>

・「天狗」という言葉はもともと漢語、つまり中国から来た言葉である。現代中国語で発音すればtiangou、ふつう「テンコウ」と呼ぶ。天の馬を天馬(ペガサス)と呼ぶように、字義通り解釈すれば天を飛ぶ神犬が「天狗(天犬)」である。

・天から下りてきて子どもを害する、犬に似た怪物だという伝承もある。

・空からやって来て子どもを害する、さらうという性質は、日本の天狗とも似ている。異なるのはもともと天にいる、という設定である。

・この記述では雷の落ちた場所にもあらわれる霊獣のように、星の落ちたところに出現した獣を天狗といっている。

・中国の「天狗」はおおむね字義どおりの、空から降りてくる犬のような怪物、または怪物に擬えられる凶星とまとめられる。しかし、『山海経』には「天狗」は深山に棲む、白い首で狸(タヌキではなくヤマネコ)のような怪獣で、凶をふせぐによい、とある。

<馬琴の天狗論>

・馬琴は天狗を5つに分類する。すなわち、第1は『日本書紀』や中国の天文書でいう星の名である。第2は仏説にいう夜叉飛天である。第3は『山海経』にいう獣の名である。第4は中国の木魅(コダマ)、第5は軍記物語に登場する怨霊、冤鬼(ゆうれい)である。

<天狗像の形成>

<鞍馬天狗>

<画期としての「鞍馬天狗」>

・鞍馬の天狗を有名にしたのは、義経の兵法修行の伝説をもとにした能『鞍馬天狗』である。

・ところが、『鞍馬天狗』の天狗は、若き義経に兵法を授ける守護神のような存在である。

<判官びいき>

・さらに『義経記』では、陰陽師・鬼一法眼(きいちほうげん)の娘に通じて大陸由来の兵法書を手に入れたと語られる。ここから『鬼一法眼虎之巻』なる秘伝書さえつくられた。ちなみに歌舞伎作品では鬼一は鞍馬天狗と同一視され、鞍馬山に「鬼一法眼之古跡」も伝わっている。

<鞍馬寺と天狗説話>

・ここでいう「武士道の精髄」は、まさに能『鞍馬天狗』にみる室町後期の天狗像にあてはまる。

<愛宕山太郎坊>

<天狗の名前>

・天狗の登場する能作品として『鞍馬天狗』以前に『花月』がある。天狗をシテ(主役)とするものではないが、一説に世阿弥作ともいわれる古い曲である。

・太郎という名前は序列の一番をあらわす記号であり、天狗界の頭領という意味合いしかない。

<愛宕の信仰と太郎坊>

・ここで問題にしたいのは、鞍馬と並ぶ天狗信仰のメッカ、愛宕山という場の問題である。平家物語異本のひとつ『源平盛衰記』には、安元の大火(1177年)を愛宕山の天狗の仕業とする有名な伝承が語られている。

<アタゴとヲタギ>

・現在、愛宕社は全国に800とも900ともいわれるが、戦勝祈願や火伏せの信仰は、中世に山岳修行者たちが武家や庶民の身近な祈禱にかかわって広めたと考えられる。

<愛宕の「天公」>

・通説は、この「天公」を天狗と推定し、久寿年間当時から愛宕は天狗信仰の霊地だったと結論づけている。しかしこの飛行する「天公」を天狗と理解してよいのだろうか。

 結論を出す前に、そもそも「天公」とは何だろうか。日本での用例は少ないが、漢籍では「天の公(きみ)」つまり天をつかさどる神をさす一般的な語彙である。天帝、天主とも呼ばれる。

・地蔵菩薩を信仰すれば諸々の悪神も菩薩に至るといい、悪神が列挙されるなかに「天狗・土公」がいる。土公神が陰陽道で重視される土を司る神。ここでの「天狗」は、土の神「土公」と対になる「天の神(悪神)」ということになる。

・もともと漢語の天狗は、「天の犬」や不吉な星をさす語だった。これが天にまつわる魔物と考えられたことは、むしろ当然である。「地霊」と対になる天狗、「土公」と対になる天狗。これらの事例を『台記』記事の「天公」に重ねると、「天を飛行する(悪しき)神霊」という天狗像が浮かんでくる。

<天狗像の原型>

<飛行する悪霊>

・天狗像の原型は、「飛行する(悪しき)神霊」という、漠然としたイメージだったようだ。それを具体的にあらわすとすれば、鳥類として描くのがごく自然だったのではなかろうか。特に説話のなかで天狗と結びつけられたのはトビである。

・藤原忠実という人物はほかにもいろいろと「見える」人だったようで、『中外抄』には他にも怪しげな説話がある。

・ガルーダは仏教では八部衆のひとつ迦楼羅天として鳥類の武人姿で造形される。これが、いわゆる鳥類型天狗にそっくりで、天狗のルーツともいわれる。つまり、下界の龍(ヘビ)と、天界の鷲との対立は、ひろくアジアで共有された神話的イメージとも重なる。

<憑依するモノ>

・天狗は当代の高僧を知るためトビに変じて右大臣の屋敷内に侵入し、病を引きおこす。とばっちりをくった右大臣が、トビの姿をした天狗に胸をふまれて苦しむというのは、病に対する当時のイメージが具体的に語られていて興味深い。

・仏教者は、往生をさまたげる魔(天狗)への注意を語る一方で、貴族を悩ませる憑きモノの正体を見抜き、修法で撃退する験者として存在感を示した。天狗説話の定着する背景に、仏教側のPRがあった面を忘れてはいけない。

<変化する天狗像>

・天狗説話を多くおさめる仏教説話集としては、平安時代末期、院政期に成立した『今昔物語集』が有名である。

・この構図は、天竺、震旦・本朝の三国の説話を集成した『今昔物語集』という説話集の基本コンセプトに合致している。すなわち、当時最大の文明国だった震旦(中国)に対して、仏教の生まれた天竺(インド)を配して相対化し、歴史的にも国力も後れを取る日本を、逆に神仏の守護する国として同格に位置づけようとする試みである。

 そのため朝鮮半島など周辺仏教国の存在は捨象され、日本仏教の霊験がくり返し確かめられた。当時の人々からすれば文明国としての誇りを示したつもりだ。

<天狗と仏法>

・かつて森正人氏は『今昔物語集』の天狗説話を詳細に分析し、反仏教的な性格とともに反中央的な性質を見いだした。

・ここでも『今昔物語集』は、公に仕える仏教者が尼天狗を斥けた勝利を語る。尼天狗という言葉は用例が少なく、この説話の場合はたまたま尼に化けたか、取り憑いただけで天狗の性別は関係がないのかもしれないが、のちには女の天狗を尼天狗と呼ぶ例もある。

『今昔物語集』において天狗を打ち破ることは、国を護る仏教者の存在意義を語ることであり、日本仏教の権威を証明する重要なメッセージであった。

<流星と猛禽>

・平安時代の学者たちは、「天狗」も「アマツキツネ」=「天狐」も、飛行する悪霊をさす語彙と考えていたようだ。

<トビかキツネか>

・平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行した呪法のひとつ、六字経法という密教修法がある。ここに災いをなす三類形(三鬼)として「天狐」「地狐」「人鬼」の姿が描かれている。天狐はトビ形の猛禽類、地狐はキツネの姿、人鬼が人の姿で図示される。この図を護摩で焚いて災いを除くという。

<天狗の鼻が高いワケ>

<鼻高天狗の起源>

・いま知られている鼻高の天狗像は、室町時代後期から江戸時代初期にかけてひろまったものである。

・では鼻高の天狗像はどこからきたのか。まず検討したいのは、能の天狗像である。現行の能では大癋見(べしみ)とよばれる、鼻の大きな鬼神面をほぼ天狗専門に宛てている。

・つまり「飛行する悪霊」天狗がトビのような猛禽類でイメージされ、トビの擬人化として「鳥頭人身」図像が成立、一方で魔王をあらわす大癋見面の「大きな鼻」がくちばしを想起させ、鼻高の造形に近づいたというのがおおよその流れではないだろうか。

<先導する鼻高>

・兼良は祭礼で「赤面長鼻」の面をかぶる王の舞は、まさに猿田彦の遺風であるという。

<カラス天狗の登場>

・トビを擬人化した姿、能で使われた「大癋見」面の大きな鼻、そして祭礼で使われる鼻高の異形面。

・もともと謡曲などで鼻高の大天狗に奉仕する下位の烏類天狗は「木の葉天狗」と呼ばれており、江戸時代にもこの表現がよく使われる。

<天狗の中世>

・古代において、天狗は人に取り憑く悪霊として理解された。当時、病はなにか悪いモノの発する力にあたって発症すると考えられたので、身心の健康ももちろんであるが、モノの正体を判別し、対処することが重視された。

・こうして仏教者たちは天狗説話を積極的に語りはじめるが、平安時代の終わり、院政期から鎌倉時代にかけて天狗説話が増幅する。それは中世という時代の始まりであり、天狗説話隆盛期の始まりであった。

<彼岸からの声>

<第六天魔王の影>

・文観は真言宗のなかでも呪術的性格の強いいわゆる立川流の中興とされ、後鳥羽政権と深く結びついていた。

・文観の時代からさかのぼること百年ばかり。貞慶の前に姿を現した楼閣の主は、名指されてこそいないが阿修羅王に違いない。興福寺が所蔵する少年のような造像が有名だが、本来は仏法に対立する戦いの神で、とくに帝釈天と戦いをくり返し、日月を喰らって日蝕・月蝕をおこすという。ここでは後鳥羽院による承久の乱(1221)を招いたとされ、戦乱を司る神の面目躍如といえる。

・一方、第六天魔王は、他化自在天、大自在天などとも呼ばれ、インドのシヴァ神に通じるというのが、仏道を妨げ、世を混沌に返そうとする天魔の首魁である。

・仏敵の代名詞であり、『酒呑童子絵巻』では源頼光に退治された大江山の酒呑童子が第六天魔王の化身と語られ、比叡山を焼き討ちした織田信長も第六天魔王を自称したといわれている。

 そのような強大な力をもつ魔王にしては、この計画はやや迂遠な気もするが、それだけ近寄りがたかったのだろう。この説話で第六天魔王は阿修羅王の配下として、先に紹介した天狗と同様、人々の心に取り憑き、乱世を招こうとする。仏道修行をさまたげる「天魔」「魔王」が、天狗とおなじ、乱世の到来にかかわるものとして語られている。

・能『第六天』は、この『太平記』の第六天魔王説話にもとづく内容で、貞慶の前に魔群を率いた第六天魔王があらわれるが、伊勢の加護により素戔嗚尊(すさのおのみこと)が顕現して魔王を撃退するという展開である。第六天魔王は天狗と同じ大癋見面で演じられる。

<中世神話>

・貞慶は伊勢神宮の途中で第六天魔王に遭遇することになったが、実は伊勢神宮と第六天魔王は、中世において強固に結びついていた。

・また、天台宗の根本経典『摩訶止観』は、現実のすべては仏性を具体化したもの、逆にいえば現実こそ仮の表象にすぎないという思想をもち、「魔界即仏界」と説く。すなわち、自分の意識の持ちようで現実は霊界にも仏界にもなるし、魔が仏への契機になることもあるという。

<魔道と天狗>

<魔界転生>

・無住はこのあと天狗は日本だけでいうといい、「聖教に確かなる文証なし」、仏教経典に確かな典拠がないとしている。そして先人の考えでは「魔鬼」や「鬼類」であり、真実の智恵、道心がなく、執心偏執、高慢さの残った者がみな天狗になるという。

 無住は漢籍や仏典の「天狗」の用例を知らなかったのか、知っていて違うと考えたのか、言及していない。そのうえで天狗は大きく善天狗、悪天狗の二種に分けられる、と解説する。

・現代の日本で「悪魔」や「魔界」は西洋的な印象があるかもしれないが、漢訳仏典にも登場する立派な仏教語彙であり、日本仏教では「天狗」「天狗道」と同じものと扱われていた。

・このように間違った修行で天狗になる修行者は、仏教者にとって反面教師でもあり、恐れるべき破壊者、誘惑者でもあったが、ある意味で身近な存在だった。この点、西洋の悪魔とも共通する。結局、悪魔の世界を語っていたのは、洋の東西を問わず、悪魔と対決する宗教者たちだ。宗教者は「魔」を払い、信仰を取り戻させる役目を担うが、逆に信仰を広めるため「魔」の恐怖を広める立場にも立っていた。

<魔道とは何か――『比良山古人霊託』>

・仏教の教えでは、生命は死ぬと六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に転生する。犬や蛇(畜生)に生まれることもあるし、再び人になるかもしれない。罪を重ねたり、執心を残したりすると六道のなかでも三悪道(畜生・餓鬼・地獄)に生まれ変わるが、天道や人道に生まれても死や老衰、病など本質的な「苦」から逃れることはできず、六道輪廻から「解脱」することを願って修行を重ねることになる。

 天魔・天狗はその修行を妨害し、仏の救済から外れた魔道(魔界)へ誘う存在だが、しかし、本来の六道に「魔道」はふくまれていない。

・本書は慶政と天狗による問答の記録で、いわば天狗独占インタビューである。江戸時代の平田篤胤『仙境異聞』に先立つことおよそ6百年、好一対の奇書といえよう。

・慶政は、天狗の姿形や生態についても質問している。天狗は「軽々しく露顕すべきではない」と言いながら(オフレコということだろう)、「姿は十歳くらいの子どものようで頭や体は人のようだが、足は鳥に似て翼があり尾は短い」「トビが我らの乗り物だが、乗っていないこともある。人間の子どもがトビを捕まえたりするのは我らが乗っていないときだ」とか、「妻子は皆もっている。私は嵯峨野で人に棄てられ迷っていたところを妻にしたが、婦天狗は人には取り憑かない。子は幼いころはかわいいが、長じると互いに犯し(危害を加え)あう」など、丁寧に答えている。

<魔道を語る>

・こうした魔道案内書では、魔道は仏道修行をしながらも執心や欲心を残したものがおもむく世界とされる。魔道、天狗道は、地獄よりはマシだが苦しみの多い世界であり、解脱のために供養を願っているという共通項があるようだ。

<『七天狗絵』の成立>

・さらに魔道案内書が続出した当時の宗教事情について述べておくと、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)という二度の蒙古襲来を経て、幕府は大寺社への保護政策を進めた。蒙古軍を撃退した台風が、寺社の祈祷による神風との信仰があったためである。その一方、禅宗や、のちに鎌倉新仏教といわれる浄土宗、日蓮宗、時衆などの新しい教えも支持を広げていた。

 そうした時代に『七天狗絵』が成立した。絵巻は七巻構成で、興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、山伏、遁世を「天狗の七類」と名づけ、仏教界を風刺、批判する内容をもつ。

<天狗狂乱>

・大きな天変や戦乱、身近ないたずらに至るまで、物騒で不可解な事件が起こると、天狗の仕業ではないかと考えたのである。

<魔の系譜>

・現世に混乱をもたらす天魔は、また戦乱や政争の敗者である怨霊とも同一視された。鎌倉時代に成立した『保元物語』末尾に描かれる崇徳院の壮絶な最期は有名である。

・軍記物語にとりこまれた天狗説話の背景には、魔道に関心をもち、魔道案内書を書き連ねた同時代の仏教者たちがいた。天皇家や摂関家、武家、寺社家などいくつもの権力が分立し、緊張状態にあった中世は、さまざまな神霊の声が取り上げられた。

<戦乱と天狗>

・魔道の存在とされた天狗は、中世の社会不安を象徴する存在であったが、特に戦乱と結びつける発想は中国の天文学に由来する。

<妖霊星を見ばや――『太平記』の天狗>

・『太平記』巻五、衰勢の鎌倉幕府をあらわす場面もよく知られている。ことさら田楽を好んだ執権、北条高時の宴席に、どこからともなく異形の田楽法師たちが現れ、躍り狂う。この法師たちは、あるものはくちばしの尖った鳶のような、あるものは翼のある山伏のような姿で、口々に「天王寺の、妖霊星を見ばや」と謡い囃した。

<天狗山伏>

・『太平記』巻六では、後醍醐天皇からの論旨に呼応して新田義貞が兵を挙げたところ、山伏が早々に触れ回り、里見、大井田の各氏が加わったと語られる。義貞は、連絡もしなかったのに兵が集まったのは天狗の所行かと驚いたといい、古活字版ではそのものずばり「天狗山伏」が知らせた、と記される。後世に作られた絵巻でも、鳥頭の天狗山伏が活躍している。

<天狗銘々伝>

<是害房の冒険>

・中世の天狗界は「魔道」として語られていたが、そこに暮らす天狗たちは貴族や高僧の死後の姿であった。真済や崇徳院といった人々は、あるいは天狗としての呼び名もあったのかも知れないが、現世での名称や肩書きをひきずったまま、現世にメッセージを発していた。

<是害坊登場>

・村上天皇の御代、康保三年(966)春のこと。唐(中国)の是害房天狗が愛宕山の天狗、日羅房を訪ねて飛来した。是害房は、中国では名だたる大寺、霊峰の高僧をことごとく苦しめたので、小国ながら東の仏法国として名高い日本の高僧名僧の修行をさまたげるため、同じ道の同志として協力してほしいと願うのだった。

<魔仏一如の論理>

・大言壮語しながら口ほどもなく打ち負かされた是害房に対して、日羅房は「小国と侮っていたのだろうが、日本は神国であり、仏教の霊跡も多い。かつて神功皇后や聖徳太子が朝鮮半島に遠征して制圧したことも、我が国の仏法を護るためだった。他国に優る仏法の霊地も多いのだ」と説き聞かせ、四天王寺、金剛山、高野山、比叡山などの由来を述べたてる。この高説を聞いた是害房は大いに反省し、「傷ついた体を癒して帰りたい」と願うと、日羅房は「賀茂社から流れる川の水を沸かして湯治をすれば、煩悩の垢が消えて罪障も消えるだろう」と教える。

 かくして是害房は賀茂川の河原に運ばれ、傷を癒すことになった。垢を流し、薬湯をのんで回復した是害房は日本の天狗たちと歌会を催し、別れの歌を詠んで本国へと帰っていった。

<絵巻成立の背景>

・絵巻が成立した鎌倉時代中期は、二度の蒙古襲来を経験し、異国への危機意識が高まっていた時期である。つまり大陸の天狗を日本の高僧が打ち払ったという古代の天狗説話が、異国への警戒感や、それにともなうナショナリズム勃興のなかで絵巻化されたということだ。

<能『善界』>

・能『善界』は、天狗物の能が多く作られた室町後期に、曼殊院本系の絵巻にもとづいて作られた。

・能『善界』では、まず幕が開くと唐から飛来した善界坊が山伏姿で登場し自己紹介をする。

・天狗たちは「魔境」に沈む身の上で仏敵となる怖ろしさを自覚しながら、なお逃れがたさ、罪深さを吐露する。

・続く後場では、比叡山の僧正が参内する途中、正体をあらわした善界坊が登場し、風雨を起こし、僧正の車に手を掛けて襲う。僧正が祈ると不動明王や諸神が霊験を発揮して善界坊を責め、やがて通力を失った善界坊は羽扇をうち捨てて雲中へ消え去る。

<天狗銘々伝>

<天狗祭文と天狗揃>

・現在知られている限り、天狗の名前を列挙する「天狗揃」の趣向は、能『花月』が古く、各地の山に天狗が止往しているという考えが室町中期ごろにはできあがっていたことがわかる。

・ところで、江戸時代半ばに成立した『天狗経』では天狗の名前は48狗に急増する。

<天狗揃の系譜>

・かつて知切光歳も、お伽草子『天狗の内裏』のなかに、愛宕太郎坊、比良山次郎坊、高野山三郎坊、那智山四郎坊、かんのくら豊前坊、大唐ほうこう坊、天竺日輪坊などの名前があることを見出していたが、山岳信仰とのつながりを重視する知切は、ずさんな寓話、お伽噺だと軽んじて省みなかった。

・愛宕や鞍馬、飯綱、彦山などから全国へ広がった山伏たちが、火除けや鎮宅など、身近なまじないとして天狗祭文を利用していたのは確かだろう。おそらくそれが民衆のあいだで、身近な芸能とまざりあって定着した。

<知切光蔵と「天狗列伝」の限界>

・これまでもたびたび言及してきた知切光歳『図聚天狗列伝』西日本編、東日本編は、全国の天狗説話を地域別に分類、解説した労作である。

・考えてみれば、人間が天狗の名前を知るには、人間とは違う天狗の世界を設定した「物語」があって初めて判明する。是害房や鞍馬天狗のような完成された説話か、天狗界にさらわれて修行したという寅吉少年のような詳細な体験談でもなければ、天狗の名前が伝わらないのは当たり前なのだ。

<大山惣持坊の正体>

・古き書が何かはよくわからないが、少なくとも『伯耆民談記』が成立した当時は明らかに大山の天狗は伯耆坊だった。

<大山の信仰>

・そもそも大山といえば、山陰随一の霊峰である。

・つまり大山は古い霊場にもかかわらず、石鎚、児島修験といった多様な集団が信仰を寄せる入会地となっていた。このことも天狗名の不安定さにつながったのかもしれない。

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<相模大山の信仰>

・ところが知切光蔵は、八天狗の伯耆坊は伯耆大山(鳥取県)を見限り、相模大山(神奈川県)に移った相模の天狗である、と紹介する。

・このように相模大山は天狗説話の多い場であるが、「伯耆坊天狗」の名称が語られることは少ない。結局のところ伯耆坊移住説は、作家でテレビ人でもあった知切が、昭和30年代に発見した「板切れ」をもとに発想したストーリーと見なすのが妥当である。

<相模坊の出自>

・これを見るかぎり相模坊は古くから白峯に住んでいた天狗の頭領のようである。前場で西行を白峯陵に案内した老翁(実は天狗)によれば、生前も崇徳院に従っていたのは白峯の相模坊ら天狗ばかりであったという。

<白峯寺の信仰>

・相模坊には「さがん」のルビが打たれており、現地の呼称を反映したと思われる。ここでは本尊の千手観音に対置され、形は天狗だが本体は不動明王、南海の守護神であるという。

<大峯前鬼>

・大峯前鬼は修験道の開祖、役小角に従ったという鬼である。前鬼、後鬼の夫婦ともいわれ、吉野郡下北山村の前鬼と呼ばれる集落に、鬼の子孫という五家が伝わっている。

 慶長十七年(1612)の銘をもつ釣り鐘には「鬼熊、鬼上、鬼継、鬼助、鬼童」の名が刻まれており、少なくとも戦国時代末から五鬼家の子孫が代々宿坊を営み、山伏の修行場を支えてきた。現在も61代五鬼家の当主が宿坊を守っている。

<彦山豊前坊>

・能『鞍馬天狗』では諸国の天狗の第一に豊前坊(ぶぜんぼう)の名をあげ、西国を代表する天狗として知られていたことが明らかである。

<飯綱三郎>

・八天狗のうち、伯耆坊は伯耆大山の天狗なので、残る東日本の天狗は飯綱三郎しかいない。これは江戸時代にも京を中心とした謡曲や寺社縁起の教養が伝承の基盤だったことを示している。

・飯綱信仰の発祥については二説があり、ひとつはもちろん飯綱山の修験であるとする説。

・もうひとつは呪法の名としての「飯綱の法」が先にあって、やがて神像や信仰集団が作られ、山の名に付けられたという説である。「飯綱の法」といって想起されるのは、天狗よりもむしろ狐を使った呪法であろう。飯綱権現の神像は、剣を持った鳥頭人身の天狗が白狐の上に騎乗する姿で描かれる。この図像は日本で稲荷神と習合した荼吉尼天(だきにてん)の影響が強いため、稲荷との関係も無視できない。

 荼吉尼天は本来ヒンドゥー教のダーキニーで、野千(ジャッカル)を眷属とする鬼女という。野千は日本では狐の異名として定着しており、稲荷神とも習合した。荼吉尼天の呪法は密教において重視されたが、性愛や呪殺に関わるためしばしば外法などと呼ばれる。実際には王朝文化のなかで男女の仲をとりもち、子の誕生を祈る呪法はきわめて重視されており、密教論理として精緻に位置づけられていた。荼吉尼天呪法がいつから稲荷山で定着したかはわからないが、大江匡房『新猿楽記』に、老齢の本妻が稲荷山の愛法を修する描写があり、庶民にとっても男女の縁を祈る修法が身近だったことがわかる。それに応えて民間宗教者が横行したことも間違いない。

 稲荷信仰の総本宮である稲荷山は、標高はそれほど高くないが広大で、東寺につらなる真言密教の霊場であった。その霊験としては愛法や、憑きもの落としなどが期待された。室町時代には鍛冶職からの信仰もあり、山の神、火の神としての性格も備えていたと考えられている。

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