神野山は、日本神話の火の神である加具土(かぐつち)命が父神伊弉諾(いざなぎ)尊に斬られたとき、その髪が飛び落ちたところで、「どんずりぼう」は加具土命と同体と考えられる。(2)

<秋葉三尺坊>

・飯綱信仰と切っても切れない関係に遠州秋葉山(静岡県浜松市)の秋葉神社に祀られる秋葉権現は、愛宕と並ぶ火伏の信仰で知られる。

・信州の生まれで白狐に乗る鳥形人身の図像をもち、火伏せ信仰をもつといった特徴は、三尺坊信仰が戸隠・飯綱信仰の影響下に、愛宕信仰と習合して成立したことを示している。そして白狐に乗る鳥形人身の図像は、関東一円の天狗信仰において共有され、高尾山の飯綱権現や、大雄山最乗寺の道了尊も同様の姿をとっている。

・成立の遅れる秋葉三尺坊信仰はともかく、愛宕、飯綱、そして稲荷といった諸信仰と各地の天狗説話がどう関係してきたかを明らかにすることは難しい。

<比良山次郎坊と八天狗>

・八天狗の中で比良山次郎坊は、由緒でいえば愛宕太郎坊に次ぐ天狗界のナンバーツーだが、エピソードらしいエピソードはまったくない、影の薄い天狗である。

 比良山は滋賀県琵琶湖西岸から京都府境につらなる比良山地のことで、狭義では蓬莱山をさすが、西は丹波山地、南は比叡山地につながり、古くから天台や、南都興福寺系の山林寺院が建立された。天狗の山としても『今昔物語集』に、蛇に化けていた満濃池の龍をつかまえてあとで蹴殺されてしまった天狗が登場し、比良山の天狗のロングインタビューを収録した『比良山古人霊託』という奇書もある。

・そのほか、近隣には「伊吹山難杖坊」、「伊吹の鉄五郎」、「長命寺普門坊」、『天狗経』には「如意ヶ嶽薬師坊」、「比叡山法性坊」、「横川覚海坊」などの天狗名が伝わる。さすがに滋賀県は天台宗の二大拠点、比叡山延暦寺と園城寺があり、古代以来の霊場も多く、天狗説話に事欠かない。しかし愛宕山や彦山のような山岳信仰を背景に語られる天狗とはやや毛色が違う。

<高尾山の天狗>

・東京近郊でもっとも有名な「天狗の山」は高尾山だろう。

・高尾山の天狗は飯綱権現の使者と語られ、境内の天狗社には健康や運動などの利益を求めてゲタやスニーカーが奉納されている。しかし古い文献には登場せず、民間伝承として近代に採集されたものがほとんどだ。

<天狗の行方>

<天狗説話の広がり>

・中世の天狗はあくまでも「魔」であり、悪霊であって、修行者を誘惑して魔道にいざなったり、人に取り憑いたり、かどわかしたり、害をもたらす存在だった。修験道も仏教をベースとする限り、天狗を魔のものとする前提が崩れることはない。

<宣教師の見た天狗>

・ここでは仏教者たちがイエズス会の宣教師たちによる非難に対して「天狗」と反論していたことがわかる。一方で少しあとに作られた『妙貞問答』では、「天狗(悪魔)」はルシヘルをはじめ地獄で毒寒、毒熱の責めに苦しみ続けるものたちであり、キリスト教の教えを信じなければ同じように地獄で苦しむのだと説いている。

<人を試す天狗>

・江戸時代初期に成立した浅井了意『狗張子(いぬはりこ)』巻六ノ三に、武田信玄に仕えた武将、板垣信形(のぶかた)が天狗に出会ったという話がある。

<悪心を憎む天狗>

・賤ヶ岳七本槍で知られる勇将、福島正則も天狗に戒められたという話がある。

・ここでは天狗は道徳の監督者である。伐採など開拓を進める領主の振る舞いは、高慢な武辺者と同じく懲らしめられる対象となる。

<天道と天狗>

・人を試す天狗像の前提には、第一に天狗を神仏に近い存在と見なす天狗信仰があり、第二に神仏が人の傲慢さや無法ぶりをたしなめ、罰を下すことがあるという考えが成立していたことを指摘しておかなければならない。

<俳諧のなかの天狗>

・もちろん江戸時代の天狗説話は、信仰にもとづくものばかりではない。むしろ人々に(害のない程度で)いたずらをする天狗像のほうが江戸庶民には、うけた。

 江戸時代の天狗像を探るのに好適な素材として、俳諧がある。俳諧は連歌の一形式で、和歌を五七五の長句、七七の短句に分け、唱和形式で二人以上の作者がつないでいくものである。

<江戸の天狗論>

<怪異批判の芽>

・俳諧は、正統とされた和歌、連歌に対して、詠まれていない新奇な素材を模索した。もともと座興として親しまれ、地方武士にも愛された俳諧は、諸国を旅する俳諧師たちがつなげ、広げてきたものである。こうした性質は諸国の奇談を集める姿勢とも似ている。

<朱子学と天狗>

・羅山は、天狗を魔道におちた高僧の死霊と規定し仏教者を批判した。いわば中世以来の価値観に立っている。しかし白石は天狗を鬼神と同定し、山林の気が集まった、自然現象と説明する。

<天狗考証>

・中世の魔道知識は一部の仏教者による秘説として伝承され、権威を持っていた。しかし近世において異説は、別の立場から「偽作」「正説に非ず」と否定され、権威性を失ってしまう。いわば第三者によるファクトチェックが働くわけだ。潮音、諦忍の天狗説は、中世に語られた「反仏教的天狗像」の末路というべきかもしれない。

<天狗とは何か  幕末から近代へ>

<エンゲルと山人>

・松浦静山の随筆『甲子夜話』70に、静山と交流のあった行智という修験者の天狗論がまとめられている。行智は梵字の研究者でもあり、まず天狗を「狗賓(ぐひん)」ともいう理由について、経典に見える「蛩蛩(グウイ)」という言葉を、下級の鬼神の名称と理解したことから転じたと解説する。

・第二は「真の天狗」というべきもので、鷹のくちばし、鷹の眼、両翼あり、人に災いして世の動乱を好むという。これを行智は、西洋にいう「エンゲル」すなわち天使というもので「正直の人に仇する、悪魔の属なり」と述べる。いわば鼻高天狗を「グヒン」、鳥類天狗を「エンゲル」として、形態の違いに、神仙と悪魔という違いを当てはめたのだ。

・なお文化七年(1810)に刊行された、日本で最初の本格的日蘭辞典と呼ばれる『蘭語訳撰』でも、天狗の訳語に「Engel」を宛てている。分類は動物となっているから、有翼という形態の類似から「エンゲル」を天狗とする理解に至ったものらしい。あるいは堕天使の知識から悪魔とする解説を導いたのだろうか。初期のキリシタン文献では「悪魔」を宛てていたので、奇妙な逆転現象が起きている。

・寅吉は江戸でたばこを売る越中屋与惣次郎の次男として誕生した。七歳のとき東叡山寛永寺(東京都台東区)の黒門前で丸薬を売る老翁に誘われて虚空を飛び、常陸国南台丈(茨城県難台山)に至って弟子入りし、修行の日々に入る。老翁は杉山僧正と呼ばれ、岩間山、筑波山などで修行する「岩間十三天狗」の一人だというが、天狗は俗称らしく、篤胤らは「山人」と呼ぶ。

・岩間天狗の活動は多岐にわたり、町で「わいわい天王」に扮することもある。これは天狗(猿田彦)のように鼻高面をかぶり、「わいわい天王騒ぐのがお好き」などと囃しながら牛頭天皇の札をまき、門前で祝いを述べて銭をとる芸能者である。また、天狗として近隣の山々を回ることもあり、人が熱心に祈願すれば願いを遂げてくれるという。寅吉は師に連れられて数百里を移動したり、外国や、ときに空を旅して星や月に近づいたりした。山と自宅を行き来しながら15歳ごろまで修行を続け、嘉津間(かつま)という名を得たが、ほかに蛭子流という神道を学んで白石平馬という名もあるという。

・また鳶や狐などの動物が年を経て手足を生じ、天狗になることがある。凡人であっても生きたまま、あるいは死んでから翼が生じることがあるが、これらは山人とは違う。最乗寺の道了、秋葉三尺坊がこうした「真の天狗」で、山周りに協力することもあるが、多くは仏教者で志願が異なるという。

<異世界物語としての天狗説話>

・すでに紹介したとおり天狗にさらわれて異郷を旅する話は類例が多く、江戸時代には『甲子夜話』巻73、上総の源左衛門の話など、複数の事例が記録されていた。

・まず寅吉が出会った杉山僧正は、丸薬売りに扮していたが、商売を終えると荷物を壺のなかに入れ、そのまま寅吉も自分も壺のなかに入り空を飛んで常陸へ向かったという。

・江戸時代末期における「天狗にさらわれた人々による天狗界ルポ」の隆盛は、まるで中世における魔道案内書の再来だ。異なる点は、中世の魔道説は、生前の罪や業によって苦しむ死者、死霊の世界という仏教的文献で意識され、さらに仏教学上の秘説として一部の学僧のみが保持した知識だったことである。

 これに対して江戸時代の天狗界は、山岳修験の霊場をベースに神仙譚や近世神道学をブレンドして想像された山中の異界であり、出版文化を通じて広く流通した。

<心霊研究と民俗学>

・近代に「天狗界ルポ」を集成した友清の『幽冥界研究資料』序文では、欧米で勃興していた心霊研究を日本で実践するための資料として編集したことが宣言されている。

・繰り返すが、小桜姫は史料上実在を確かめられない。また実在かどうかは別として、地元の歴史にまつわる神霊をまつること、そうした神霊が人に取り憑いて宣託を行なうこと、などはほかの地域でも類例が見られることである。浅野はこうした神霊の働きを心霊研究の文脈に位置づけ、幽冥界とのコミュニケーションを探求した。

・しかし平田国学の流れを受け、浅野や友清の仕事にも関心を向けながら、むしろその類型性に目を向けたのが柳田國男である。柳田は大正14年に執筆、翌年刊行した『山の人生』のなかで「山へ入って還って来なかった人」「行方不明になったが、山から還ってきた人」「町の迷子」「神隠し」と連想をつなげ、幽冥界研究に言及する。

・柳田は『山の人生』のなかで天狗説話にも触れ、天狗に関する文献資料をいくら広く集めて考証しても輪郭は次第に茫漠となっていくと指摘、それは「最初から名称以外に沢山の一致がなかった結果である」という。

・柳田が幽冥界や天狗そのものではなく、それを信じた人々の習俗に着目した点は慧眼で、それによってなんとか「学問」としての客観性に踏みとどまることができた。

<山の神としての天狗>

・全国的にみれば、天狗を山の神、あるいはその眷属として理解している地域が大半だろう。もちろん細かくみれば差異があり、鞍馬寺のように昭和になって本尊のひとつに格上げされた例や、高尾山のようにあくまで眷属と位置づけているところにもある。

・天狗と山の神の関係について考えるため、近代の天狗説話に目を向けてみよう。岩田重則氏は、戦時中に弾丸除けとして天狗信仰が流行した事例を複数紹介している。

 山梨県南都留郡忍野村の内野天狗社は、日清日露戦争に出征した地域の若者が一人も戦死しなかったことから戦の神様として信仰された。

・静岡県三島市の龍爪神社は、静岡市龍爪山の穂積神社から勧請された神社で、狩猟、鉄砲打ちによる龍爪講が組織されていた。この龍爪神社では戦時中、弾丸除けのお札を配布し、賑わっていたという。岩田氏は武運長久の祈願した天狗面が奉納されていることから、龍爪権現が天狗と認識された面を指摘している。

<神野山の天狗>

・奈良県山辺郡山添村の神野山も、戦時中は戦勝祈願、弾丸除けの参拝者が多かったという。神野山には真っ黒な岩石が河のように連なった鍋倉渓という奇勝があり、地元では青葉山の天狗との喧嘩で岩が投げ込まれた石合戦の跡だと伝える。争った相手は同じ奈良県内の一体山、あるいは生駒山の天狗だという伝承もあり、ほかに他惣治という男が天狗に弟子入りしたという話や、他惣治が修行したという天狗杉が残るなど、天狗説話の豊富な土地柄で知られる。

・現在、神野山は県立公園「神野山フォレストパーク」となっている。毎年ゴールデンウィークのつつじまつりでは多くの観光客を、村の公式キャラクター、カラス天狗の「てんまる」が出迎えている。

・そのなかで1988年に神野山天狗研究会が発行した『神野の民話』では、石合戦の話を次のように語る。

・今は昔、大和の神野山は大杉1本のほか何ひとつないはげ山で、そこに女のからす天狗が住んでいました。またはるか彼方にある伊賀の青葉山には、草木が生いしげり、美しい岩山があってそこには、男衆の天狗が住んでいました。

 ある時、ふとしたことからこの両方の天狗たちが大げんかをはじめ、青葉山の天狗は芝生や草木、それに自慢の岩山まで神野山めがけて投げつけ、はてはいきり立って人の命のもとまであびせつけました。

 神野山の天狗衆は身に含んだ人の命を懐妊し、やがて全山は生き生きと芝生が生え、つつじやあせびの花が咲く森となり、奇岩流れる鍋倉渓が出現したということです。

 これはまさに豊穣(アバンダンス)の聖地の誕生であり、なだらかなスロープを描くこの美しい山は、万物発生の地(髪生山)、神の山として多くの人びとの信仰の大本となり、だれ言うことなくこの山の天狗衆を豊穣烏天狗(どんずりぼう)と呼び、家々の門口にはそのお面をかざり、幸せが来ますように祈ったと言います。

・同書によれば神野山は、日本神話の火の神である加具土命(かぐつちのみこと)が父神伊弉諾尊に斬られたとき、その髪が飛び落ちたところで、「どんずりぼう」は加具土命と同体と考えられる。しかし一方、仏法でいう金翅鳥、迦楼羅天の子孫であり、仏法を背景に現実の鳥を相合した存在なのだ、ともいう。

 もちろん神野山は霊地として古くから信仰されたが、古代から有力寺院があったことからすれば、天狗信仰とは呼べないものと推測できる。なお加具土は京都愛宕社の祭神のひとつだが、記紀には髪が飛んだという描写はない。

 むしろこうした言説は、昭和になって民話など地域文化が見直されたことで、解釈を加えて生みだされた新たな神話だろう。こうした新しい信仰の対象として天狗が見いだされたということだ。

<天狗は神か、妖怪か>

・すなわち「妖怪」を神から零落した信仰の残滓ととらえる視点で、天狗を山の神、山の信仰を反映とする説もこのひとつである。

 一方、小松和彦氏は柳田説を批判し、祭祀対象として管理されたものを「神」、祭祀対象ではないが、超越的存在として恐れられている存在を「妖怪」と区別し、人間にとってプラスとマイナスの面に対応した定義を提唱した。そのうえで「神」と「妖怪」の関係は一方的な零落ではなく、時代や条件によって流動的に変化しうる関係ととらえた。

・したがって天狗を「妖怪」に分類しても差し支えないと思われるが、結局「妖怪」は現代の研究者が用いるレッテルであり、天狗説話を語ってきた人々のものではない。そこで用いられたのは「天狗」であり、「天魔」であった。

<天狗説話の来歴>

・天狗は漢籍や仏典では戦乱を予兆する凶星や禍々しい獣として語られたが、古代日本では飛行する悪霊として、人に取り憑き、仏道修行をさまたげる天魔と同一視された。

 また天狗は、飛来して人を襲ったり、取り憑いて病にしたりする性質から、しばしば鳥類としてイメージされた。

・修験の影響も指摘される能『鞍馬天狗』では、諸国の天狗を従えた鞍馬山の「魔王」が義経の兵法の守護者としてあらわれる。

愛宕、鞍馬、飯綱などを拠点に生まれた天狗信仰は、やがて戦勝祈願や防火信仰をうたって武家や庶民の間で定着していく。そして天狗は神仏と同じように悪をいさめ、善を助ける「神々の中の武人」として、道徳的性格を強調された。こうして江戸時代初期に天狗は山の神霊として認知された。

・天狗を通じて幽冥界の知識を得ようとする試みは、近代になって心霊研究に引き継がれた。柳田國男の民俗学は心霊研究とは一定の距離を置いたが、国学によって位置づけられた、幽冥界に出入りする神仙という天狗像の影響は強く、「山人」や「山の神」を日本の固有信仰と設定して探求することになった。

 以上、これまで述べてきた天狗説話の来歴をいっきに振り返った。おおまかにいえば、「飛行する悪霊」という基本的性質は共通しつつ、中世の「天魔」から、「山の神霊、怪異」へと変化し、現在に至っているのだが、その内実は単純ではない。

<あとがき>

・そしてもうひとつ、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの余波で国内資料のデジタル化が進み、自宅にいながら多くの資料を確認できるようになったことである。

『日本神人伝』

不二龍彦      学研     2001/5

<友清歓真(ともきよよしさね)>

・大正から昭和初期にかけて「仏教以前の古道に戻る」ことをスローガンに掲げた一大オカルト・ムーブメントが湧き起こった。「古神道」と呼ばれた、このムーブメントの理論的支柱として活躍した友清歓真の、知られざる生涯を追う。

・宮地水位が通った神集岳神界で暮らす人々の様子を水位以上の濃やかな筆でつづり、『玄扈雑記(げんこざっき)』にまとめあげた。

<異境に出入りし、その消息を伝える>

・本書では、自在に異境に出入りし、その消息を伝えた脱魂型シャーマンとしての友清を中心に紹介していきたい。というのも、友清が親しく出入りしたという異境が、おもしろいことに宮地水位の通った神集岳神界などの異境とまったく同じで、時代の推移による神都の変化や神都での人々の暮らしぶりなど、水位が伝えなかった部分まで、実に味わい深い筆で活写しているからなのである。

・友清は『異境備忘録』を読む以前に、そこに書かれてある幽界の消息を「感得」していたと、ここで明言している。そしてその後、水位の手記を入手し、読んでみたところ、その内容が自分の感得した内容と「大体において万事符を合した」、つまり事前に読み知った知識があったわけでもないのに、結果として水位の体験と自分の体験が一致していたのだから、彼らが参入した幽界は間違いなく実在するといっているのである。

 これはなかなかおもしろい事例である。シャーマンや霊媒が伝える霊界情報は世界中にゴマンとあるが、互いに無交渉の者同士の見聞が一致するといっているのである。

<霊感に打たれ、綾部の道を識る>

・「山口県の私の郷里から数里のところに泰雲寺という寺があるが、その寺の前位道逸というのは天狗になって、いまなおその裏山に住んでいる。私は少年時代、剣術が上達するようにと思って、その寺の裏山の滝を浴びにいったりしたことがあった。その道逸という天狗はマダ住職として寺にいる時から霊力があって、1日の間に宮嶋(30里位ある)へ行って遊んできたり、一寸の間に萩(10数里ある)へ豆腐を買いにいってきたりしたということを、村の者が話していた」(注・1里=約4キロ)

<大本と決別し、本田霊学に走る>

・綾部の大本を訪れた友清は、さっそく王仁三郎の右腕として辣腕をふるっていた浅野和三郎の鎮魂帰神を受けた。そのとき友清からでてきたのが、あまり高級とはいえぬ「天狗」で、彼がそれまで官憲と張り合ったり、種々乱暴なことを行ってきたのは、すべてこの天狗が憑っていたためと知れた。

<日本は、霊学宗源の国である>

・大正8年に『鎮魂帰神の原理及び応用』、翌9年5月には『鎮魂帰神の極意』を出版して大本の鎮魂帰神と一線を画した友清は、同年「格神会」を組織し、活発に古神道霊学の吸収と確立に乗り出す。

<太古神法の最奥義を受け継ぐ>

<大洗濯につながる大戦争が勃発する>

・このときを待っていたかのように「神人交通の先駆け、道ひらきの神」である大山祇神(おおやまつみのかみ)からの天啓が、友清に訪れる。

・友清は神示に従って山口県熊毛郡田布施町の石城山に登った。そして山上の石城神社拝殿に詣でたとき、突如として大山祇神による「十の神訓(山上の天啓)」を拝受したのである。

 天啓は、この石城山こそ、太古から定められていた大神たちの神山・神都――宮地水位のいう「神集岳神界」の地上版であると告げていた。

<神国日本の犠牲によって世界が一新>

・友清はしばしば幽界への散策を行い、「人間死後の生活における衣食住及び文化財の客観的実在」を機関誌に淡々と発表していった。

<『玄扈雑記(げんこざっき)』に記された霊界の実相>

・そのころの石城山霊界は、友清が昭和9年に訪れたころの石城山霊界とはずいぶん変わっていた。当時は九州1個ないし2個分ほどの広さに思えたが、それよりもっと広く、行政区画は3つか4つに更改されていた。人口も4万人と聞いたと思ったが聞き間違いで、実際には14万人住んでいるという。

 その西南部の一角の「小さな文化住宅式の、この界としてはあまり見栄えのしない家」に田畑氏は暮らしている。田畑氏の住む西部はどちらかというと鄙びて、住人も「のらくら者」が多いようだが、東部はそれより活動的で、人間界でいうと、科学的な研究機関や学校、工場のようなものもある。住まいも「米国あたりの最新の意匠による別邸とでもいったようなところがある」らしい。

・「この界では貧富はないとはいえません。現に私は、この界では富めるものではないといえましょう。求めるところは徳と知恵であるから、貧とはそれらが乏しいことを意味するといった観念論は別として、衣食住にしたところで、私はこの界で富めるものではありません。むろん何の不満も不平もありませんが、富めるものとは考えられません。私でも、この室内に欲しいと思う調度品があっても、ことごとく思うようになるわけではない。思念すればそこに品物が現れるというような、何だか変な頼りない霊界と違って、この霊界はほとんど人間界のような生活感情と条件の支配を受けているので、貧富ということも無意味ではないのです」

・ここで田畑氏がいっている「思念すればそこに品物が現れる」ような霊界は「たま」の霊界という。欧米の心霊科学や仏説などでは、あの世は思ったものがそのまま物質化して現れると説いているが、友清によればそれは霊界のうちの「たま」の霊界で、「欲する品物が欲するままにそこに現出する代わりに、注意を怠っていると消えたり、一瞬にして千里に往来したり、もやもやと雲のようなものが友人や知人の顔となり手となってついに完全な姿としてそこに出てきたり」する。

<神仙界といえども雨も雪も降る>

・貧乏とはいっても、田畑氏は立派な書籍を数多く所持している。人間界ではちょっと手に入らないものもあり、「洋装のものは多くは白い強い紙の仮綴じ」で、なかには「羊皮紙やモロッコやスペインの皮らしい豪華なもの」が無造作に書棚に押し込められていた。聞けば、図書館から気軽に借りだしたりコピーすることができるらしく、コピーといっても用紙から時代色まで原本と変わりないという。

・御本宮の祭神は大物主神、少彦名神、事代主神ほか9座。左右に別宮があり、右には上級神界(紫府宮神界)の主神である天照大神ほかが祀ってあるが、左は「異様な形式」の御社で、36座の神霊が祀られている。その中の「天寿真人」とは聖徳太子、「天方真人」とはムハンマドのことだと説明された。

 参道から枝になった小道を通り、暮春の野趣を楽しみながら田畑氏の庵に戻った。このときは暮春の心地よい天気だったが、いつもそうだというわけではない。人間界と同じで雨もあれば雪もある。「神仙界に類したところといえば、いつも天気晴朗で澄みきった世界を瞼に描きがちであるが」、そうはいかないのである。

・その帰途、友清は梅や竹が生えている野の空き地に建つ2軒の家を見つけた。「サイバル編輯(へんしゅう)所」という看板がかかっていた。あれは何かと田畑氏にたずねると、こんな答えが返ってきた。

「なに、つまらんもんです。川柳やドドイツまがいのものをやっている連中の同人雑誌です」

<原子力の過剰使用で地球が爆発する>

・石城山霊界で、友清は「麗明先生」という神仙からいろいろ教えを受けている。麗明先生は最後の氷河期にも地上にいたことがあり、その後も数回人間界にでたが、1200年ほど前に中国長安で暮らしたのが最後の人間生活だという。宮地水位もこの麗明先生から教えを受けている。

<ミタマの因縁次第で霊界が決まる>

・人は死ぬと、ミタマの因縁に引かれて上下さまざまな幽界に入っていくと友清はいう。その幽界は、「天津神国」3界、「国津神国」3界、「黄泉国」2界の計8界に分かれ、石城山霊界すなわち神集岳神界は国津神国(地の神界)の最上層界の中心神界、万霊岳神界はその下の界の中心神界、現界はさらにその下という格付けになっている。

 原則として死者はそれぞれ因縁の霊界で永遠の生活に入るが、なかには転生してくるケースもある。

 たとえばだれかが予定の寿命より早く死ねば、その寿命を使い切るために生まれてくる。

 60歳の定命の者が40歳で死ねば、再生して20年生きて死ぬ。これを「車子」というそうだが、こうしたケースや、ほかの理由で地上に生まれてくるのである。

 しかし、大多数のものは、先の幽界8界のいずれかに入る。

「たま」の霊界に入るか「むすび」の霊界に入るかも、ミタマの因縁で決まる。

 ともあれ幽界は、ひたすら神様を讃えたり、聖人君子のようにふるまったり、生前を反省させられてすごすような杓子定規の世界ではないらしい。

 そのことは石城山霊界の田畑氏の暮らしぶりからもうかがえるが、より高位の神都・紫府宮神界でも、事情はさほど変わらないようだ。

 紫府宮神界に楼閣や宮殿によって形成された「風神館」と呼ばれる大神域がある。

「地上の大気から人間の呼吸にまで及ぶ神秘な幽政が行われる」ところだというが、この「風神館」から南東に60キロほど行ったところに、同神界最大の俗人の街がある。人間界でいうと小都市くらいの規模のこの街では、とくに「ガッス」と呼ばれる裏町の眺めがよく、あるとき友清はそこをひとりで漫歩していた。

 道の横には幅10メートルくらいの浅い清流が流れており、川を隔てた向こう側には小さな工場の寄宿舎とでもいったような建物がある。

 ふと見ると、その建物の窓の向こうに数人の娘がいた。

<鷲谷日賢(わしやにっけん)>

・世尊(釈迦)、宗祖(日蓮)、諸天神の加護によって現界と霊界の大因縁をきわめ、神霊を現界に呼び出し、霊界通信と悪因縁祓いを実践。しかも、滔々と語る霊的太古史は、まさに日本神話の枠を取り払い、世界全体を舞台にした巨大なスケールのものだった。

<死霊や神々が神霊秘話を語った>

・近代以降の日本で霊界問題を最も熱心に追及してきたのは、おもに古神道関係者だった。彼らは鎮魂帰神を用いてさまざまな霊界情報を収集したが、伝統仏教は、この問題に関して古神道家ほどの情熱を示すことはなかった。

<神は原始の海に発生した有機体>

・たとえば、ギリシア正教の主神は前世期の「巨大な蜘蛛」の霊だと日賢はいう。また、人間を食らう夜叉族は「古代のサソリ」、ロシア正教の主神は牛馬を捕えて食べる「巨大な蠅とり蜘蛛」……といった具合である。

 そして、これら太古の神霊中、支配力の最も大きいのが、恐龍の戒体をもつ龍神族なのである。

・さて、このように地上世界と霊界を行き来して活動している龍神系神霊のうち、のちの世界に最も重大な影響を及ぼしたのが、ユダヤ教およびキリスト教旧教、および新教の主神は、実はみな違った神霊なのである。

・彼の霊界通信が伝える壮大な神々の叙事詩の粗筋はこうだ。

 紀元前のメソポタミア地方を支配していたのは、「エホバ」という名の龍神だった。ユダヤの民は、こぞってエホバに帰依し、エホバもまた、よく彼らを守り導いていたが、そこに割り込んできたのが、ヤーヴェという名の「太古インドの龍神」である。ヤーヴェはインド名を「ブリトラ」といいい、その正体は、かつて帝釈天(インドラ神)と戦った「魔神」であった。この魔神の侵略に困りはてたエホバは、須弥山頂上にある三十三天に昇り、最強龍神である帝釈天に救いを求めた。

・帝釈天は四天王のひとりである大広目天(ビルバクシャ)とキリストを地上に送ってヤーヴェを退けようと図ったが、ヤーヴェはこれに反抗して、キリストを磔刑に処した。ここまではヤーヴェが優勢だった。

けれどもエホバおよびキリスト教はくじけることなく勢力を広げていった。そして、ついにローマ世界を支配するに至り、ヤーヴェの勢力の駆逐に成功した。そのため大魔王ヤーヴェは、ユダヤの民を率いて「漂泊の旅に迷う」ことになったのだというのである………。

 一読、荒唐無稽としか思えない話ではある。しかし、頭ごなしに否定してしまうこともできない。というのも、『旧約聖書』でいう天父=エロヒムは複数の「神々」を意味するヘブライ語だといわれており、実際、旧約の神は、それに先行するシュメール、バビロニアそのほかのメソポタミアの神々の一部が昇格したものにほかならない。

・日賢は恐龍の時点で生物学的な進化をストップした霊の一部が神となり、その後も進化を続けた霊の一部が人類になったと主張する。その意味では、龍神は人類の祖先といってもよいわけだが、これと同じことを、たとえばイギリスの心霊研究家ジョフレー・ホドソンが書いている。

・このように、太古神を龍神とした日賢は、日本の超古代史においても、やはり同じように龍神が活動していたことを明らかにしていく。

<インドの有翼人種が高千穂に移住>

・日賢は、日本に最も古くから住んでいた龍神が、記紀の時代に至ってあらゆる神の筆頭と位置づけられ、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と呼ばれるようになったという。

 天之御中主神は原住民のコロポックル族の神として、千葉県(房州)を本拠に日本を治めていた。いわゆる天神七代の時代が、その治政時代に当たる。

 ところが、今から約3000年前に大事件が起こった。インドの高原を本拠としていた龍神が、その一族および有翼人種(キンナラ族)をひきつれて日向の高千穂に移住してきたというのである。

 このとき日本にやってきた龍神を「国常立尊」という。また国常立尊を守護して渡来したインドの最高神が「ヴィシュヌ」である。ヴィシュヌとキンナラ族の族長・国常立尊は、日向の高千穂から、さらに住みよい土地を求めて相模国(神奈川県)足柄郡箱根の高原に移り住んだ(この一帯こそが、正真正銘の「高天原」だと日賢はいう)。

 その結果、先住民族であるコロポックルは次第にヴィシュヌ・キンナラ族に追いやられ、代わって渡来神の暮らす相模国の高原はおいおい発展し、華やいだ古代文明を築くまでになった。

・日賢によれば、現日本人の祖先は、「天の楽神」とも呼ばれる有翼半獣神のキンナラ族――インドではキンナラ族は人間の体に馬の首をつけた姿で描かれるが、日賢は優美な天使形でキンナラを描いている――だという。

 このキンナラ族は精霊のような存在で、翼をもって自由に空を飛ぶ。日賢の話どおりなら、彼らが移住してきた当座、日本上空は音楽を奏でながら空を舞うキンナラ族で満ちていたことになる。なんとも優雅なヴィジョンではないか。

・さて、ヴィシュヌの霊的指導のもと、国常立尊の一族は次第に数を増し、いわゆる「地神時代」の春を謳歌して、やがてイザナギ・イザナミ両神の治世時代を迎えた。ちなみにイザナギ大神は身長212センチ以上あり、仁王尊のような相貌で、骨格逞しく、赤色の肌、白い翼があると日賢は「霊視」している。

・このナギ・ナミ時代に、その後の日本の方向を決定するような大きな霊的事件が起こった。日本土着の龍神・天之御中主神がイザナミの胎内に入り、天照大神として誕生してきたのである。これは、インドの国常立尊=キンナラ系の血の中に、日本土着の龍神系の血が色濃く入り込むことを意味すると同時に、日本の龍神系の霊統の復活をも意味していた。

・天照大神(土着の龍神)の勢力が非常に強まった。これを不服としたのが、「天地の果てまで三歩であゆむ」と『ヴェーダ』にも謳われたインドの最高神、ヴィシュヌであった。

 そこでヴィシュヌは国常立尊=キンナラ系の血を色濃くひく素戔嗚尊(天照同様、イザナミの子)を使って、天之御中主神(天照大神)の霊系を強く牽制した。そのため天照大神が岩戸に隠れ、太陽が消えるなどの天変が起こったが、両者の戦いは最終的に天照勢力の勝利に終わった。

 そこでヴィシュヌは素戔嗚尊とともに出雲に去って出雲民族を創出し、ひとまずそこに根を降ろした。

 そして、のちに丹波に移り、その地にヴィシュヌの霊統を降ろしたあと、雄略天皇のころ伊勢に遷って今日の外宮に鎮まった。そのため、外宮と内宮は千数百年もの長きにわたって反目を続けることになり、その霊的因縁が、のちのちまで尾を引くことになったというのである。

<日賢の霊話は「本地垂迹説」の現代版>

・摩訶不思議な神代史は、まだまだ続くが、ここまで読み進まれた読者は、右の霊話を完全に日賢の妄想と思われたことだろう。

 けれども、こうした“妄想”は、実は古くから日本で育てられてきた“本地垂迹説”の現代版バリエーションにすぎない。

・その天地開闢の秘説によれば、この大宇宙のいっさいが空無に帰したのち、原初の海に、頭が1000、手足が2000のヴィシュヌが現れた。

 ヴィシュヌの臍からは光り輝く蓮華が伸び、そのなかには、同じく光り輝きながら結跏趺坐しているブラフマー(梵天)が誕生しており、この梵天から世界のすべてが生まれた。

 ところで、ヴィシュヌから生まれたこの梵天こそ、本朝の国常立尊の本体(本地)だと、それら著作はいうのである。

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