9世紀初め、畿内において三つの型の狐の行動イメージが成立していた。狐の人への変身、とくに人との通婚、およびその結果としての人の姿をした子孫の誕生、人への付き、および狐の怪異、がそれである。(1)

(2024/12/29)

『狐の日本史』 

古代・中世びとの祈りと呪術

中村偵里     戎光祥出版  2017/6/1

<古代人は狐をどう見たか>

<六国史に記された狐>

・六国史の記事から判断すると、日本中央の支配階級は、7世紀半ばから8世紀の中期ごろまで、白狐・黒狐を瑞獣(ずいじゅう)として珍重する傾向があったが、それはこの一時期の現象にすぎず、しだいにその傾向は衰え、9世紀には消えてしまった。

<古代地方民の狐イメージ>

・地方または衆庶の間では、狐はどのように見られていたのだろうか。『風土記』(8世紀前半成立)においても、『出雲国風土記』が他の動物とともに、その生息を記すにすぎない。

<稲の豊作を保証する>

・『風土記』における狐の微在に照らして考慮すると、8世紀の前半までは、以上のような狐の俗信は存在せず、また、衆庶は狐にさまざまな特殊な意味を託してはいなかった可能性が高い。そして8世紀末には、たとえ美濃・大和・紀伊などの一部の地域の人たちにおいてであれ、現代にまで継続する狐のイメージが誕生していた。これは、大陸から来た渡来人の霊狐信仰が持ち込まれた可能性が高いだろう。

・ここでは、農耕、とくに稲作の神である蛇と狐を代表する二人の女性が力比べをして、前者が圧勝した。この時期、蛇神の神威は狐神のそれよりも明らかに勝っていた。

<人と狐の通婚譚>

・次に、10・11両世紀の説話や日記に現れた狐の行動について概観する。

・この話は、トヨタマ姫神話や浦島子伝承のような他界訪問伝説の崩れた型が、妖狐譚と結びついて生まれたのだろう。

・山神の派生として水神の機能もあわせ持っていた蛇は、こうして“わに”と合流して、湖・池の底に住む他界神の役割を演じるようになった。

・要するに、狐はたんに人に化けるだけでなく、状況全体を作為して人を化かす能力をも示す。

・つまり、元来は、狐と寝た男のほうが命を失うはずだったのである。交わった人の男性が命を失うのだとすれば、この狐に妖狐の片鱗を見ることができよう。

<狐付きを落とす>

・次に、狐付きを落とした事件の例をあげよう。

・『日本霊異記』には、狐が付いて病になる話はあったが、狐落としは登場しなかった。右の二話は実話かどうか不明だが、狐付きによって人が苦しむ以上、なんらかの手は打たれていたに違いない。しかもそれは、呪術か祈祷以外にはありえなかっただろう。

・10世紀末から11世紀初期にかけて記録された貴族の日記が、いくつか残っている。そのうち『小右記』、藤原行成の『権記』および藤原道長の『御堂関白記』における狐の記事に当たってみよう。

・史書と日記から、10世紀後半における狐の怪異情報が洩れ見えることはまれである。11世紀初期においても、狐の行動が貴族たちに強い印象をあたえることは少なかったようだ。

<女性に化けて男性をからかう>

・この話には、狐付きを原因とする病気、および祈祷による狐落としと病気の治癒のテーマだけでなく、狐が人の態度しだいで吉凶両様の反応を示すという認識、さらにこれに関連するが、狐が場合によっては、「神のごとくして」人を守ると信じる通念をうかがい知ることができる。

<『今昔物語集』に見る狐観念>

・『今昔物語集』初出の狐説話に関して、総じて次のことが言えよう。第一に、狐が女性に変身して人の男性と結びつこうとするテーマにおいて、目的はどちらかといえば悪に傾くが、それもあまり徹底しない。

・第二に、狐に神性・霊力が認められた場合も、威厳は感じられない。人に比べると弱者であることを、しばしば隠さない。

・『今昔物語集』とほぼ同時期に成立した大江匡房(おおえのまさふさ)の『狐媚記(こびき)』には、1101年に起きたいくつかの狐怪が記されている。

・以上の四話のうちには、牛童が命を失うなど、狐の威力を侮れぬ事件も含まれるが、狐が人に汚らしい贋物をつかませるという点で、テーマは統一されている。

<平安貴族たちの認識>

・『今昔物語集』・『狐媚記』には、予兆としての狐の行動に関する説話は現れなかった。

<中国で語られる狐説話>

・『今昔物語集』巻27―40のような、人を守る狐も中国にいた。

・全体に、日本の狐話の類話は中国にも見いだすことができるが、後者がその基本的な筋書きを保ったまま、日本でおこなわれた例は少ないといってよい。したがって、中国起源→日本移入の手続きを経て両者の類似が成立したのか、それとも両民族でそれぞれ類似の話が成立したのか、不明な場合が多い。ただし、狐が人の髪の毛を切るような特殊な話柄は別である。いずれにせよ、日本において狐は、多少とも独自のイメージを獲得したことは間違いない。

<変転する狐のイメージ>

① 支配階級の間では、7世紀後半から白狐を瑞兆として重視する習慣が始まる。それまでは、日本の住民のなかに狐に関する特段の関心は存在しなかったと思われる。

② 8世紀の半ばまたは後期に、白狐の瑞兆視が消滅するのと前後して、狐の行動を一種の怪異と見る観念が発達した。中国から妖狐のイメージが入ってきたことと関連があるかもしれない。

③ 9世紀初め、畿内において三つの型の狐の行動イメージが成立していた。(イ)狐の人への変身、とくに人との通婚、およびその結果としての人の姿をした子孫の誕生、(ロ)人への付き、および(ハ)狐の怪異、がそれである。

④ 9世紀の初めには、地方の特殊な層において狐信仰が始まる。そこでは、狐の子孫伝承と農耕信仰が接続していただろう。11世紀の京においては、狐は農耕信仰からはなれて、一部衆庶の間で異性に対する愛の成就、火災防除その他の現世利益の祈願対象とされることがあった。

⑤ 人との交流の伝承は、11~12世紀の人々の間におおいに流布した。人をだまし、からかい、あるいは試すなど、その形態は多様である。

⑥ 狐付きは病をひきおこす場合が多いが、コミュニケーションの媒体としての役割を果たすこともある。ひとたびは病気の原因になっても、落ちた後は付かれた人を守護する例もあった。

⑦ 狐の怪異、または予兆行動に対する注目度は、時期によって変動したようだ。

⑧ 以上のような変異に富む狐のイメージは、発生階層から上下の階級に広まっていったと想像される。

<狐落としの呪法・「六字経法」>

<六字経法はいかにして成立したか>

・狐を引き出すために、相応・性信のような台密・東密の高僧は、六字経法にかぎらずさまざまな加持祈祷のくふうを試みたであろう。しかし、狐落としの呪法は、彼らのみに独占されていたのではない。

<安産に有効な六字経法>

・六字経修法が、狐落としに熱意を傾けたことを示す資料をいくつかあげる。『小野類秘抄』(1153年)において、寛信は「六字法の時、狐鳴かば、法成就となる」と主張し、その例を二つあげた。

・『覚禅抄』巻31には、六字経修法の最中に狐が出現したとの記載がいくつかある。

・以上、いずれも伝聞であるから、史実であるかどうか疑わしい。しかし、少なくとも11世紀の前半から12世紀の中葉にかけての時期に、六字経の修法をおこなうと、狐が彼憑依者から落ちて出るという理解があったことは、間違いないだろう。

<天狐・地狐・人形――三類形の意味>

・六字経法は、日本において当初、鬼魅や呪詛の解除法として修され、やがて狐落としに重きがおかれるようになったのだろうが、それでも天狐・地狐は、鬼魅一般をも代表していたと思われる。

・以上を勘案すると、六字経法における天狐・地狐・人形の処理は、元来、六字経法と無関係な狐落とし・天狗落とし・怨家呪詛の呪法が、六字経法に吸収されて成立した、という推定も成り立つ。

<拡散する修法の目的>

・いずれにせよ、依頼者を悩ませている原因を排除するのが六字経法の最初の主旨だったと思われるが、ある時期から、この修法の性格が変化しはじめたようである。つまり、怨家からこうむる災厄を受動的に除くのではなく、能動的に反転呪詛する意図が加わった。

・ともあれ、呪詛神を伴う曼荼羅のねらいは、おのずから明らかであろう。たんに被害者に憑いた狐などを追い出すだけでなく、また、彼にむけられた呪詛を取り除くだけではない。修法の目標は、怨家に対する正面切っての呪詛でなければならない。

・六字天像は聖観音の面影をとどめているが、六字明王は忿怒相(ふんぬそう)を顕す像だった。

・こうして、仁海が活躍した10世紀の終わりごろから、六字経法は徐々に積極的な呪詛法としての側面を強めていった。とくに、六字経法が呪詛法としてもっとも盛んに用いられたのは、おそらく12世紀の半ばおよび後半だったのではないか。保元の乱から始まる戦乱を予兆する社会情勢を背景にして、権力闘争の渦中にあった支配者たちが、六字経法を多用しはじめたものと思われる。

・こうなると、「狐」はもはや動物の狐とは別の意味になってしまう。それは災厄の象徴であり、人狐・地狐・天狐は、人災・地災・天災と言いかえてもよい。こうして13世紀以後は、六字経法の意義は拡散しはじめ、狐との関連も必然性が失われるにいたった。

<和様ダキニ天の誕生>

<インド・中国・日本のダキニ>

・中世になると、密教諸流派は狐を味方に取り込む修法を形成しはじめる。ダキニ天法がそれである。

・ダキニは、『大日経』巻4「密印品(みついんはん)」にある夜叉鬼(やしゃき)であるが、この経典では、ただダキニの印と真言が述べられているにすぎず、その性状・行動についてはなにも記されていない。

・大日如来はダキニを責め、人肉を食べることを禁じたところ、ダキニは自分は人の肉を食べなければ生きていけないと訴えた。そこで大日如来は、死人の心臓を食べることを許した。

・ダキニとは、脳死判定・心臓摘出をおこなう医師のような、まことに奇妙な呪力をふるう夜叉である。

・『大日経疏』よりもさらに古い時代までさかのぼると、ダキニはインドの民間信仰における下級女神だったと思われる。

<天台エンマ天曼荼羅におけるダキニ>

・名波弘彰は、ダキニ天法はエンマ天供の別供としておこなわれていたのが独立し、これにともないダキニ天も独尊化したのだ、と主張する。首肯すべき指摘である。

<東密エンマ天曼荼羅におけるダキニ>

・ところで、東密エンマ天曼荼羅のダキニは、どのような形姿をあらわすのだろうか。

・東密においては、はじめからダキニをエンマ天の仲間に入れ、野千・烏・鷲・婆栖鳥なしの曼荼羅を採用したのではないか。

<ダキニの女形化、狐との習合>

・ダキニが狐=野千とみなされると、エンマ天曼荼羅において野千は余分になり、やがて姿を消した。ダキニとダキニ女は女形を示すが、この女形は、12世紀末に狐が専女(とうめ)と称されるようになったためと関係があるのかもしれない。

・そうすると、三段論法でダキニと野千もつながる。『大日経』などの野千は、元来ジャッカルの音訳である。ところが、中国や日本にはジャッカルは生息しないので、狐と混同された。

<騎狐女神のダキニ天像>

・さきにもふれたが、中世に進行したダキニ天像の成立と変遷に深甚な影響をあたえたのは、弁才天像であった。

<弁才天とダキニ天の共通性>

・ここで三十番神のうちの稲荷神像についてふれたい。三十番神とは、一箇月三十日の間、国家・人民・仏法などを守護する三十柱の善神をいう。

・あと一つ、眷属童子に関しても、ダキニ天像は弁財天像と連絡する。中世の「ダキニ天曼荼羅」において、ダキニ天の近くにいくたりかの童子が眷属として付属することがあった。

・初期のダキニ天像は、弁才天に倣い童子を呼びよせたが、後期のダキニ天は諸童子を去らしめた。ちなみに、蛇に関してもほとんど同断である。以後、もっぱら狐が眷属の地位を独占するようになった。こうして、最終的にダキニ天像が完成したが、中世においてはダキニ天像の定型化傾向は弱く、その形態はさまざまに流動し、現行の像に固定したのは、おそらく近世以後のことであろう。

 事実経過は以上のとおりである。ただし、他人の空似ということもある。

<弁才天――蛇――狐――ダキニ天の習合>

・1200年ごろの『北院御室拾要集』の摩多羅神に弁才天とダキニ天は共存していた。しかし、遺憾ながら、そののち弁才天とダキニ天の習合を裏づける文献は、14世紀までは出現しない。

・この説話で、弁才天∪ダキニ天=貴狐天王という関係が推察される。つまり、ダキニ天は弁才天の派生者とみなされていた。

・もう一つ、説話を紹介したい。14世紀の半ばに成立した『稲荷大明神流記』によれば、稲荷山はかつて竜頭太(りゅうとうた)とよばれる山神の支配下にあった。竜頭太は、蛇神であろう。この神は、農耕と探薪をいとなんで生活をしていたが、空海に帰依して稲荷山の占有権を彼に譲る。引きつづき、船岡山の狐一家が稲荷山に入り、稲荷神の眷属となった。

・まず、弁才天と蛇の習合について述べる。弁才天は、インドにおいてすでに河の神であり、それが仏教の経曲に接受された。このような由来は日本にも伝わり、水神として信仰の対象になる。

・ダキニ天と狐の習合はかなり早くから始まったようだが、これが流行するには13世紀まで待たなければならなかった。

・おそらく、12世紀終わりころには、農耕神・食物神またはその眷属としての蛇の役割の一部を、狐が奪いはじめていたのだろう。14世紀になると、狐の力はなおさら強大になった。

 蛇の地位下落の原因については、かつて私見を述べたことがある。神話の時代の蛇は、国土を支配する畏怖すべき大いなる神であり、権力者の祖先神とみなされていた。しかし、平安時代に入ると、おそらく仏教の影響もあって死霊の象徴としての機能を著しくし、しばしば忌避の対象となった。狐もまた墓地に出没するなど、蛇と共通のネガティブな性格を示すが、他面、イヌ科の動物らしい愛らしさを見せる。本章では詳論を避けるが、ダキニ天修法には、愛法としての役割も知られていた。これには、蛇よりも狐が似つかわしかったのであろう。

 最後に一言。弁才天像やダキニ天像が変化していく過程で、偽経の成立が並行した。一部は後者が先行し、前者はその結果だったのかもしれない。また、大弁功徳を弁才天と混同するような誤解・誤読も、これらの営為は、衆庶の心の表現でもあった。ことの善し悪しは別として、偽経の成立や経典の誤解・誤読は、日本人の観念史の一こまとして、歴史的な意義を持っていることを確認したい。

<ダキニ天像の完成>

① 元来、ダキニとはインド民間信仰における下級女神である。それが、『大日経』などの密教仏典において、鬼神のイメージに造作された。

② 日本には、唐から請来した「胎蔵旧図様」・「現図胎蔵曼荼羅」を通じて、中国のダキニ像が導入された。それは、人の死体を食べる夜叉であった。

③ 日本において、遅くとも12世紀前半には、ダキニはエンマ天供の一部として修せられ、エンマ天曼荼羅のなかに描かれるようになる。

④ 12世紀半ばのエンマ天曼荼羅のダキニは、長髪で袋を持つ姿を示す。死体の身体を貪り食い、その血液を愛好する気配は、もはやまったく見られない。

⑤ 12世紀後半のエンマ天曼荼羅において、ダキニが狐と習合し、また、神使としての狐が専女とよばれたことの影響を受けたのだろう。

⑥ こうして13世紀には、ダキニはエンマ天供から自立し、独立の修法の対象にふさわしく、ダキニ天に昇格した。この段階初期のダキニ天の姿は、さまざまに流動していたと思われる。

⑦ おそらく、12世紀の終わりころには、宇賀弁才天とダキニに習合が始まる。両者の媒介をしたのは、宇賀弁才天と密着した蛇と、ダキニと習合した狐であった。この二つの動物は、民俗的な食物神・農耕神としての共通性を有していた。ダキニがダキニ天に昇格したのちは、両者習合の傾向はいっそう明白になる。

⑧ 前後して、蛇の地位の一部を狐が奪い取る現象が生じ、宇賀弁才天に狐も付着した。これは、ダキニ天が宇賀弁才天に接近するのに貢献したに違いない。

⑨ ダキニ天は、宇賀弁才天の持物や姿形を模倣した。持物に関しては、宝珠・剣・鍵を宇賀弁才天にならって所持するようになった。この獲得物は、のちのダキニ天像、および眷属としての狐像にとって重要な意味を持ってくる。ダキニ天は、宇賀神から蛇をも一部譲りうけたようだ。

⑩ ダキニ天の騎狐姿は、ダキニ天と狐の習合にもとづくものであろうが、宇賀弁才天と狐の結合も、いくらかこれに寄与したかもしれない。

⑪ 現在のダキニ天像は、初期の騎狐女神ダキニ天像における蛇との習合傾向を、ほとんど払拭して完成した。

<結びつく辰狐とダキニ天>

<地位上昇の祈願を叶えるダキニ天法>

・独立したダキニの修法は、速水侑が主張するように、鎌倉時代から知られるようになったと思われる。では、この修法はどのような意図でなされていたのだろうか。それを解明する資料は、三種類に分かれる。一つは、説話・物語で知られるダキニ天法関連記事である。外部から見たダキニ天修法の風聞といってよいだろう。二番目に、その解説者、とくに神仏習合の立場にもとづく立場のものの説明は、注目に値する。そして最後に、密教僧側の著作をあげなければならない。

・以上を通覧すると、ダキニ天の法について、どのような目的でこの修法がなされたか、あらまし理解できる。密教と習合した神道側の説明は、『天照太神口決』の文に包括的に明らかにされている。すなわち、王位の継承と保持をはじめ、人びとそれぞれの立場に応じた地位上昇の祈願をかなえるのが、ダキニ天の法であった。

<即位灌頂で修されたダキニ天法>

・しかも、神仏習合系の書でとくに強調されるのは、天皇の即位にともなう灌頂(かんじょう)の際のダキニ天修法である。これを管轄しているのは、『天照太神口決』にあるように、摂録つまり摂関家であり、実施するのは東密の僧であった。『平家物語』・『源平盛衰記』のダキニ天修法も、「分々の高位自在」という趣旨には沿う。藤原成親は官位を得ようとしたのだし、平清盛も貧窮からのがれるためには、官位の上昇が必要だと考えていただろう。

 しかし同時に、叙述の文脈を読みとると、人々はダキニ天修法にどこか邪な要素を感じとっていたようであり、実際、多くの例で『外法(げほう)』とよばれる。その邪法的要素は、『太平記』においてついにあからさまになった。清氏は、将軍呪殺の疑いをかけられたのだ。貴族の日記においては、管見のかぎり、彼らがダキニ天修法をおこなったという記事は書かれていない。この修法を試みたとしても、記録をはばかったのだろう。

 いずれにせよ、天皇の即位に関するダキニ天の修法を邪法とよぶことは、不謹慎な表現であったろう。それを呪殺の邪法と完全同一視はできない。けれども、この両極端の間に連続性が存在したこともまた、疑いをいれない。ダキニ天の修法は秘密の法であるから、もともと批判的な立場のものから見れば、うさんくさい。天皇即位時における摂録伝授のダキニ天の修法も、その例外ではない。天皇は1人である。天皇を操縦して権力を行使する権限を手中に入れるものの定員は、わずかの数にかぎられる。得をする人がいれば、そのあおりをくって損をする人がかならずでてくる。摂関家でない定員外のものにとって、ひそかにおこなわれる即位灌頂のダキニ天秘法が、彼らの権力接近・官位上昇を妨げる邪道と思われたとしても意外ではない。

・そこで、要約すると次のようになろう。第一に、ダキニ天修法は、藤原氏が管轄する即位灌頂において重要な役割をはたす。そして『渓嵐拾葉集』によれば、その淵源は藤原鎌足とダキニ天の関係にもとめられる。しかし、実際の因果関係は、摂録伝授の即位灌頂でダキニ天修法がまずおこなわれはじめ、それを根拠づけるために、鎌足とダキニ天に関する伝承を結びつけたのだろう。第二に、14世紀には、ダキニ天修法が即位灌頂のときだけでなく、調伏をふくめた一般の現世利益をも目的として広くおこなわれていた。そして、この修法は、ときには邪法視されることがあった。第三に、ダキニ天修法の影に狐の姿がほの見えるが、それは、はっきりした焦点を結んだ輪郭を示すわけではない。

・13世紀成立の説話集・軍記を見ると、『古今著聞集』では祈祷者は大権坊という僧だとされているが、宗派や所属寺院は明らかではない。祈祷の場所も不明だが、出現した狐の尾を福天神に祀っている。この福天神は、現在も一条北堀川西にあるという。狐を祀った場所が伏見であにことに、留意しなければならない。『平家物語』でダキニ天の祈祷をおこなったのは、三室戸の僧とされる。場所は上賀茂社であった。

・また、14世紀の軍記『源平盛衰記』で、平清盛がダキニ天の化身と思われる狐に出会った場所は、蓮台野である。

・ダキニ天の秘法は、不明の例をのぞくと、真言・天台の密教僧・修験によってなされたようである。ダキニ天と稲荷社との関係が目立ちはじめたのは、はやくても13世紀後半に入ってからのことだろう。

<どのようにダキニ天信者に貢献したのか>

・さて、解明すべき課題は、ダキニ天そのものにあったわけではない。ダキニ天法における狐の役割であった。中世以来のダキニ天像が狐に騎乗することを見れば、そして、当時の世間的認識を知るならば、ダキニ天法に狐が関与していたことに、疑いをさしはさむ余地はない。

・幸いにも、神奈川県立金沢文庫に二点の重要な書がある。一つは、前章であげた『吒枳尼法秘』である。この書には、密教修法書の型通り、本尊・種子・印・真言・道場観などが順次述べられている。

・辰狐王菩薩に付属する三大王子と帝釈天は、狐に乗る。この狐は、辰狐王菩薩とは別の格づけに置かなければならない。

<各種利益を獲得するための呪術>

・ダキニ天像の前でこのような呪術はおこなわれ、また、行法の間にダキニの名を唱えることはあるが、呪術自体はダキニ法独自のものとは思われない。おそらく、貴賎諸階級の間で採用されていた呪法を、ダキニ天法がとりこんだのだろう。

ダキニ天法は、敬愛・離別・息災・増益・調伏と多面に効果を発揮したようだが、狐もまた、12世紀初期にはすでに、敬愛法の特殊型である愛法の祈願対象になっていた。

・古来、蛇がやがて平安時代になると、狐も農耕豊穣神として信仰を集めるようになった。土地の生産力と女性の出産力、ひいては性的な機能の間には、容易に連想が成り立つ。

<祭文に見るダキニ天信仰>

・高山寺(こうさんじ)には、鎌倉初期の写とされる「吒枳尼祭文(さいもん)」が現存するが、これには「男なき女男祭文」と「妻無き男の妻祭文」の二つがふくまれる。祭文とは、神への一種の告文(こうぶん)であるが、外来の神へ祈願する場合に多く使われる。

・これを見ると、ダキニに祈願する女は、実質的には狐の力を借りて男の愛を得ようとしていると判断せざるをえない。

・天狐・地狐とダキニ王および眷属との関係がいまひとつはっきりしないが、天狐等はダキニ王の眷属とみなされていたのであろう。

<伊勢神宮とダキニ天>

・以上の比較にもとづいて考えると、『鼻帰書』においては『天照太神口決』に比べ、食物信仰・農耕信仰に縁の深い弁才天・蛇の信仰が著しく目立ち、他面、仏教的要素はやや弱いように思われる。もともと伊勢、とくに外宮は、食物神駐豊受神を祭祀しており、外宮を通じて伊勢神宮全体が、食物・農耕神のイメージを売り出していたことは否めない。

<ダキニ天と辰狐は同一か?>

・ダキニ天と辰狐の関係に話をもどす。『天照太神口決』が記すダキニ天の法にも、『鼻帰書』が示す辰狐の法にも二種類、つまり天照太神相伝のものと弘法大師相伝のものがあった。けれども、これまでの分析によって考えるに、類似の二種類の修法を、東密・両部神道の側ではいずれもダキニ天の法と称し、伊勢神宮・伊勢神道の側では、二つとも辰狐の法と名づけていたのではないだろうか。換言すれば、ダキニ天の法と辰狐の法はおなじで、ダキニ天と辰狐は同一尊格ということにならないか。

・ダキニ天と狐は、13世紀になるとかなり強力に結合する。

<辰狐の名前の由来>

・最後に、辰狐の名称の由来について私見を述べる。辰狐の名は、おそらく中世の日本において創作された。「辰」は、天体の総称である。

・第二に、先述のとおり「辰」はタツ、すなわち竜である。

・第三に、辰狐は天を媒介として、そして伊勢における狐信仰を背景に、天照太神にも変身しえた。

・『渓嵐拾葉集』巻68「除障事」によれば、下級の巫女や陰陽師などが、狐の頭を辰狐と称し、天狐ダダ病は、ダキニ天の眷属の一人が、人の精を奪うことによって生じる。しかも天狐は、智者や高貴の者には付かず、愚痴下劣の者に付くのだそうだ。天狐を、一段上の辰狐によって追い出す呪術だろう。

<農耕神を介して伊勢信仰と結びつく>

・現在では、狐は稲荷の眷属として定着しているが、両者のこの関係はいつごろ始まったのだろうか。これが本節のテーマであるが、その前に、伊勢信仰と狐の関係について注目しなければならない。

・さきにあげた狐と伊勢信仰の関係も、おそらく農耕神信仰を媒介にして成立した。岡田精司は次のように述べている。伊勢外宮は、元来は太陽神を祀っていた。

・以上のように、一方では伊勢の神と結びつき、他方では京都周辺に拡散していた狐信仰が、稲荷の山に集中するにいたったのはいつごろのことだろうか。そしてその際、どのような経過があったのだろうか。

<稲荷とダキニ天の結託>

・1200年ごろの『北院御室拾要集』は、ダキニ天をふくむ三面魔多羅神が、「稲荷明神使者」であると示唆した。

・次に、ダキニ天と狐の習合について、あらためて考えたい。両者が12世紀末あたりに習合したという推定は、これまで何度も述べた。

・農耕神としての蛇と狐の関係についていえば、次の点が注目されよう。『日本霊異記』が書かれた9世紀初期には、とても蛇に匹敵しえなかった狐が、14世紀には稲荷山において前者の地位を奪うにいたった。この事件は、辰狐の登場とともに、狐の日本史における大きな画期をなす。

<辰狐と稲荷の関係の始まり>

・最後に、肝心の稲荷と狐の関係について論じる。私の知るかぎりで、両者の関連を明瞭に示すもっとも古い文献は、1332年の書写奥書がある『稲荷記』、および『渓嵐拾葉集』巻39である。

・しかし、稲を背負った老翁が東寺を訪れる挿話はすでに収められている。

・しかし、稲荷に集中していたわけではない。その後、14世紀に稲荷-ダキニ天の線が形成されると、浮遊していたダキニ天―狐の線が稲荷山に固着しようとする。

・稲荷がダキニ天と強固に結びついたおかげで、ダキニ天信仰は諸階層・諸地域に普及する便宜を得た。密教寺院の奥深くでひそかな祈祷の対象になっていたダキニ天は、広範な信仰の伝統をもつ稲荷神の名のもとに、力を振るうことができたのだ。また、稲荷信仰の側においても、その分祠を各地に簱生させるにあたっては、ダキニ天の呪力を一助とすることができた。

 稲荷信仰の流布には、狐もまた大きな役割を演じたと思われる。

・さらに、16世紀に入ると、戦国大名が次々に稲荷を勧請する。

<稲荷山に集中した狐信仰>

① 9世紀にははじまっていた狐信仰は、農耕、とくに稲作の豊穣祈願に結びついていた。それから2世紀おくれ、11世紀初期になると、狐信仰は京の町にも流布していた。ただしここでは、狐に託した衆庶の願いは、異性の愛をよびよせる敬愛の成就であった。

② 12世紀の終わりごろには、狐は密教のダキニ天法に接近しはじめた。そして、ダキニ天と最終的に一体化したとき、狐は辰狐の尊称を得た。

③ ダキニ天すなわち辰狐は、各階層において増益・息災・敬愛・調伏の祈願対象となっただけでなく、天皇の即位灌頂に際しても本尊として祀られた。

④ 狐は、当初はダキニ天と別個に稲荷山に入ってきた。他方、元来狐は、さまざまな神々に分散的に連絡をとっていたのであり、稲荷に集中していたわけではない。13世紀半ばあたりまでは、多くの狐はなかんずく伊勢の勢力圏内にあったようである。14世紀初期になると、狐信仰は、ダキニ天=辰狐のルートに乗って稲荷山に集中する。稲荷の伝統的な農耕信仰が、その下地になったことは言うまでもない。

⑤ 以上の経過を推進したのは、密教諸派、およびこれに結びついた両部・天台神道であった。同時に、修験者・民間陰陽師をふくめ、下級宗教者の活動も無視できない。

<藤原氏の恩恵者>

<藤原鎌足に鎌を与えた狐>

・狐信仰は、11世紀には確実に、畿内の衆庶の間にはじまっていた。権力者は、まず狐と伊勢の関係を承認した。中世に入り、狐とダキニ天のコンビが稲荷と縁を結ぶころから、狐信仰は上層に大いに浸透し、狐は辰狐という特殊な尊称を得た。やがて、摂関家のような権門もまた、これを利用するにいたった。

 

・鹿島明神・春日明神は吒天(ダキニ天)と一体と主張している。12世紀の終わりごろから、ダキニ天はしばしば狐と同一視され、東密ではダキニ天の呪法が盛んにおこなわれた。

<藤原氏と稲荷を結ぶ奇妙な事件>

・藤原氏と稲荷との関連について、不確実ではあるが、奇妙な事件がいくつか知られている。

 第一は、藤原時平(ときひら)が稲荷神の呪力にたよろうとした事件であった。

・村上学は、北野と稲荷が農業神として競合関係にあったことに、この伝説の由来を求める。村上の説は否定できないが、時平の稲荷社造立の伝承とも、おそらく無縁ではあるまい。

・藤原氏と稲荷社の関係の第二に、稲荷の神告により藤原一門の者の地位が昇進した、という記録がある。

・藤原の氏神である春日と稲荷の提携の話も伝えられる。

<狐信仰の盛んな東国>

・ここで、狐にかかわる話題を一つあげておこう。頼経と時頼の権力闘争が激化したおり、両者は盛んに宿敵を倒すための呪詛を試みていたらしい。

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