9世紀初め、畿内において三つの型の狐の行動イメージが成立していた。狐の人への変身、とくに人との通婚、およびその結果としての人の姿をした子孫の誕生、人への付き、および狐の怪異、がそれである。(2)
<室町時代に頻発した“狐付き”>
<狐付き事件を総覧する>
・本章では、15世紀前半の支配階級社会における狐付き事件について調べ、その背景を可能なかぎり探索してみたい。
<足利義持狐付き事件>
・多くは重複になるが、一応総括しておこう。15世紀前半の支配階級社会における狐付きの傾向は、大略次のとおりである。
① 狐がおのずと特定のものに付くことが多いが、怨恨その他の動機で、僧侶などが狐を他者に付ける、という認識も存在した。
② 狐付きともみなされるが、陰陽道の神、または日本伝来の神の祟りとも判断された不確定な例があった。
③ 狐付きの症候が重篤なときには、仏教の祈祷がおこなわれたが、主な修法は五壇法と六字経法である。
④ 狐付き現象の背後には、男性側の権力闘争、権力者側近の女性間の確執があったと思われる。このような状況が生み出した心理的な緊張により、神経症・鬱病・妄想などを発し、狐付きと判断された例が多いに違いない。また、病気そのものに付帯する苦痛や不安が、心理的異常を生み出し、それが狐付きとみなされた場合もあろう。
<桂地蔵事件と中世の衆庶信仰>
<桂地蔵の奇跡譚>
・前章では、15世紀の支配階級における狐付き騒動について紹介した。この時期、衆庶の間で狐はどのように行動していたのだろうか。
・それとともに、狐付きもやはり古代以来、新しい形態において維持し続けていたのだろう。それとともに、狐付きもやはり古代以来、衆庶の間で信じられていた。
<なぜ地蔵と狐は結びついたのか>
・以上を前提にして、地蔵が狐と結びつきをえた背景を探りたい。すでに述べたように、狐は、葬地を媒介にしてダキニ天と、また、蛇を媒介にして弁才天と習合していた。上記二天との習合ほど緊密ではないが、狐は地蔵ともいくらか縁があったようである。
・いずれにせよ、地蔵には狐が入り込みやすかった。『看聞御記』における阿波の男たちの行動についていえば、狐は地蔵に付着して、後者の効験を強化したのではないだろうか。
<どのように地蔵に狐を付けたのか>
・田中久夫によれば、地蔵信仰は、平安期に関東をはじめとする地方豪族層・武士層にまず広まった。地方の武士や豪族は農業をなりわいとしているので、地蔵にもこれに関した利益が求められる。ところが、多くの人が指摘するように、中世になると地蔵信仰は京都で盛行する。
<安倍晴明の母を狐とする伝承>
<陰陽師と狐のかかわり>
・本章においては、安倍晴明の母が狐であったという伝承が主題になる。この主題が誕生するためには、少なくとも二つの条件が先行しなければならなかった。一つは、人の男性と狐の女性との通婚伝承の存在である。この種の伝承は、9世紀初頭の『日本霊異記』にすでに見られた。人と狐の異類婚伝承がその後も継続したことは、中世に成立した無住の『沙石集』や、お伽草子『木幡狐(こわたぎつね)』における狐妻の話を見ればわかる。
・陰陽師と狐のかかわりあいは、いかにして形成されたのだろうか。干支のめぐり合わせや日月星辰の動きなどをもとにして、さまざまな問題について吉凶を占い、その結果に対する対策を示すのが、陰陽師の職掌であった。しかし、朝廷や貴族に付属した宮廷陰陽師は、依頼があればどのような事件についても卜占の対象とした。また、そのことによって、宮廷陰陽師たちは地位の上昇に成功したのだろう。さらに中世以後になると、彼らのほかに、さまざまなレベルで民間陰陽師の動きが活発になる。民間陰陽師は、もともと衆庶の間でおこなわれていた俗信や卜占を摂入することにより、勢力を広げていった。そして、宮廷・民間の陰陽師が吸収した俗信の一つに、狐の行動があった。
<陰陽書に記された狐>
・以上を通覧してわかるように、中世の陰陽道書には、狐に関する記載が現れるが、質量ともにきわめて貧弱と言わざるをえない。実際は、宮廷陰陽師も民間陰陽師も狐とかかわりあっていたが、建前上は伝統的な陰陽道の対象外だったので、正規の陰陽道書には吸収されなかったのであろう。
<葛の葉狐の伝承>
・室町時代末期の成立と思われる『簠簋抄(ほきしょう)』において、初めて陰陽書のなかで狐がはなばなしく登場することができた。古浄瑠璃『しのだづま』によって流布した晴明の母・葛の葉(くずのは)狐の伝承の原初型が、『簠簋抄』冒頭「三国相伝ホキ金烏玉兎集之由来」に初出する。
<「清明」はなぜ常陸の生まれとされたのか>
・さて、清明とその母をめぐる記載には、不審な箇所をいくつも見いだすことができるので、これらの問題を解明しなければならない。
まず、「由来」では安倍晴明は、安部清明と表記される。
・したがって、当時、霊狐が女性と化して子孫に異能を与える類の著名な伝承は、とりわけ北関東において目立っていたのではないか。
・その類の伝承が晴明に結びつくには、霊狐の活躍のほかに、あと一つの条件が必要である。すなわち、晴明自身または晴明の末裔と名乗る陰陽師集団が、筑波山麓付近にも存在しなければならなかった。
<常陸から和泉へ話が飛んだ理由>
・かりに、狐の子=晴明伝承が、常陸あたりでまず成立・成長したとしても、東国成立の伝承が、いきなり和泉の信太の森にとんだのはなぜだろうか。高原が指摘するように、常陸にも信太(しだ)の郡があった。常陸成立の伝承においては、母の狐は常陸信太郡の某森に潜伏したのかもしれない。
<鳥の声を聴く晴明>
・『臥雲日件録抜尤』の記載は、『簠簋抄』成立よりも100年ほど早く、晴明が烏声の聴解により天皇の病気を平癒し、陰陽師としての名をあげた、という伝承ができあがっていたことを示す。
<近世における修飾>
・近世に入ると、晴明と狐の母を描く作品が多く現れる。
・けれども、ほぼ間違いなく関東から来たのは、先に述べたように狐の母の話柄だけのようだ。畿内で成立可能な話柄のなかでも、烏の会話の場所が天王寺となっているのは注目される。
・『安倍晴明物語』においては、安倍童子は住吉に詣でたときに蛇を助け、竜宮にいざなわれ、秘符と烏声聴解の薬を得て阿倍野に帰還した。
<狐を利用し、狐に翻弄された戦国武将たち>
<城に稲荷が祀られた理由>
・箱山貴太郎および大森恵子が指摘するとおり、中世末・近世初頭の城址には、稲荷社が多く見られる。二人の研究者が明らかにしたこの時期の城稲荷の例は、50社近くに及ぶ。城稲荷にかぎらず、稲荷が全国各地に拡散しはじめたのは中世末と思われるが、上記の調査もこれと一致する。箱山の意見によれば、城に稲荷社が祀られた理由は、城主が領内の五穀豊穣を祈願したことにある。
・五来は、「城内鎮守はすべて荼吉尼天である」と断言しているが、彼が城稲荷の本尊がダキニ天だと推定できた例は、浜松城など比較的少ない。
・ダキニ天は、中世盛期には愛法として大いに尊重されたと思われる。しかし、戦国時代に入ると、ダキニ天修法が潜めていた呪詛法の機能が拡大していったに違いない。『太平記』には1361年、細川清氏がダキニ天に祈願して足利義詮と足利基氏を呪詛したという記事がある。史実ではないかもしれないが、ダキニ天法が、14世紀に調伏法としても注視されていたことは否定できない。
<舘林城の築城を指導した狐>
・このころにはすでに、ダキニ天と狐は不可分になっているが、狐が単独で表に出る伝承も知られる。
<刑部神の祟りによる狐付き>
・舞台は西国に移る。姫路城の天守閣に小刑部(おさかべ)大明神または刑部(おさかべ)神とよばれる祠があった。橋本政次によれば、もともと刑部神を祀る長壁(おさかべ)神社は、姫路の地主神であった。
・さきほどの物狂い事件とあわせて考えると、姫路城内で刑部神の祟りによる狐付きが発生した、という噂が広まっていたようだ。
<刑部神を狐とする伝承>
・その後も、この刑部神には狐に関する噂がつきまとって離れない。
<舘林と姫路を結ぶ富姫>
・それはさておき、ある時期から刑部・富姫に狐の要素が入りこんできたようだ。それはどこから来たのだろうか。姫山にもともと狐が住み着き、それが人々の注意をひいていたことは疑いない。
<飯綱の法を用いた信玄・謙信>
・戦国時代になると、ダキニ天そのものよりは、修験の天狗信仰と習合した飯綱(いづな)を呪詛・調伏に用いる例が多くなったと思われる。
<伏見稲荷を脅迫した秀吉>
・本書の最後に、豊臣秀吉の養女に狐が付いたので、秀吉が伏見の稲荷社を脅迫したという話を紹介しよう。
・ただし、秀吉が稲荷を信仰していなかったわけではない。
・そして、天正17年には稲荷社に社領を寄進し、社殿を修理した。これほどまでに伏見稲荷社に恩恵を施したのに、秀長と鶴松の命を見捨て、あまつさえ、最愛の養女が稲荷社の配下=野狐に狙われたのでは、秀吉の堪忍袋の緒が切れたのかもしれない。
<狐伝承を伝える者たち>
① 戦国時代になると、狐は武将と利害関係を持つようになり、築城・戦闘・怨敵呪詛において、大きな役割を演じた。とくに怨敵の調伏に際して、狐と結びついたダキニ天がその機能を全開したと想像される。
② ダキニ天の優し像容に満足しなかった武将は、天女の代わりに天狗が狐に乗る飯綱権現を採用した。
③ 狐付きを払うためには、六観音法のように六字経法の流れをくむ法も用いられた。しかし、祈祷や真言だけでなく、この時代らしく荒々しい手段がときには使用された。刀で狐を脅す法もその一つである。伏見稲荷を通じて全国の狐を脅迫した秀吉の行為は、戦国時代の荒雑な傾向の極点を示す。
④ 狐に関する伝承は、中世においては陰陽師・修験者・行者・唱導者のような下級宗教者・芸能者によって伝播されたことは、鎌足―狐伝承、晴明―狐伝承を例にとれば明らかであろう。近世になると、藩主の転封にともなう家臣団の移住が、伝承の飛び地的転移、攪拌の一因になりえたと思われる。
<あとがき>
・日本人の狐概念の歴史を描くには、古代までさかのぼって資料を探索せざるをえない。
『日本の中のユダヤ文化』
聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相
久保有政 学研 2003/7
<古代日本にはイスラエル人がやってきた>
<イナリ神社はインリ神社>
・つぎに、「アメノミナカヌシ、クニノトコタチ、トヨウケ、ウカノミタマは同じ神の別名である」ことについて、最後の「ウカノミタマ」について見てみよう。
ウカノミタマとは、稲荷神社の神のことである。稲荷大神をウカノミタマという。イナリ神社は、日本でもっとも数が多い。日本でもっとも
人気のある神社といっていいだろう。
イナリ神社を作ったのも、秦氏である。全国のイナリ神社の頂点に立つ京都の伏見稲荷大社を秦公伊呂具が立てたのが、711年。
・その羊太夫に関し「インリ」の文字(ユダヤ人の王ナザレのイエス)の刻まれた古銅券が発見されたことも、先に述べた。
・漢字の「稲荷」を見ると、稲と関係があるように思うだろうが、本来、稲とはまったく関係がない。「稲荷」の感じは、空海が創作した稲の話から来ている。しかしイナリ信仰は、空海以前からあった。
ちなみにイナリ神社というと、白キツネを思い出す方も多い。このキツネも本来、イナリ神社とはまったく関係がない。キツネも、空海が持ち込んだものである。本来のイナリ信仰は、もっと別の形態のものだった。
・「伊奈利」は、外来語に当てはめられた万葉仮名なのである。つまり「イナリ」は、もとは古代キリスト教徒たちが使っていた言葉「インリ」ではなかったか。
というのは「インリ」の「ン」の部分は、もとは「ナザレ」の頭文字である。秦氏は「ン」という発音よりも、母音も含めた「ナ」のほうを好み、「イナリ」を使っていたのではないか。すなわちイナリ神社は元来“ユダヤ人の王ナザレのイエス神社”だった、と考えるわけである。
・また日本の神社は、非常に古代ユダヤ的な礼拝所形式を持っている。拝殿があり、奥には本殿がある。その構造は古代イスラエルの神殿と同じだ。また神社の本殿には偶像がない。入り口に鳥居があり、その近くに手水舎があって、禊ぎをする。
こうした神社の特徴は、ユダヤ的な礼拝形態を保っていた古代東方キリスト教徒たちにとって、違和感のないものだった。各地で、礼拝所となるものを捜していた彼らは、日本で神社というものを見つけた。これは、キリスト教の礼拝所にもなり得ると、彼らは感じたのである。
何を拝むかを明確にしさえすれば、日本の神社は、ユダヤ教の礼拝所にもなり得たし、またキリスト教の礼拝所にもなり得た。つまり秦氏らが作ったイナリ神社は、もとは“イエス・キリスト神社”だったのではないか、と思えてくるわけである。
<大酒神社もイエス・キリスト神社>
・じつは“インリ神社”すなわち“ユダヤ人の王ナザレのイエス神社”は、ほかにもある。京都に、やはり秦氏の作った神社で、「大酒神社」というのがある。その由緒書には、それは昔、「大辟神社」といったとあるが、これは中国で昔ダビデを意味した「大闢」の略字であるといわれている。
研究家の間では、この神社は“ダビデ神社”と呼ばれている。
・つまりこの神社も、キリスト教信仰を持っていた秦氏が、イエス・キリストを拝むために作った礼拝所だったといえるわけである。
・このように、京都・太秦の大酒神社=ダビデ神社は、“イエス・キリスト神社=インリ神社”でもあったのである。同様に秦氏のつくったイナリ神社は“インリ神社=イエス・キリスト神社”だった。
<イナリ神社における三位一体神信仰>
・イナリ神社は、はたしてインリ神社なのかということについて、さらに検討を加えてみよう。
イナリ神社の中心――京都の伏見稲荷大社では、かつて稲荷山に下社、中社、上社の三社があって、三神を祀っていた。今も主神は三神、宇伽之御魂(下社)、佐田彦大神(中社)、大宮能売大神(上社)である(下社の神がもっとも中心)。
三神を祀るというのは、先ほどのキリスト教の「三位一体神信仰」を思い起こさせる。じつは、神社は昔はどこも三神を祀っていたという。それが正式だった。今も古式ゆかしい神社は三神を祀っている。
伏見稲荷大社の三神のうち、「宇伽之御魂」は、前述したように豊受大神や天御中主神と同じ神であり、「聖書がいう父なる神ヤハウェ」と同一視される。ウカ=ウケ(食物)は、ヘブル・アラム語のウケ(食物)と同じであり、それは“食物を豊かに与えて下さる神様”の意味だとも述べた。
<日本最初のイナリ神社と古代キリスト教>
・じつは日本最初の稲荷神社は、和歌山県有田市の「糸我稲荷神社」だといわれる。535年に創建されたと伝えられ、「日本最古のお稲荷さん」「稲荷神社はここから始まった」といわれる。朝廷は711年、この神社に対し「日本で最初の稲荷大神社」の称号を与えた。
・また糸我稲荷神社のある地方は、「王子信仰」が盛んなところとしても有名である。王子信仰とは、神が尊い御子の姿で顕現するという信仰である。キリスト教でいう「神が御子イエス・キリストの姿で顕現した」という信仰に、よく似ている。
<聖徳太子が尊崇したイナリ神社>
・もうひとつ、イナリ神社に関して重要なことを見よう。それは聖徳太子が建立したとされる「四天王寺」(大阪市)は、もとはイナリ神社だったことだ。
・羊太夫はまた、冶金術、すなわち金属工学に通じ、製鉄技術を駆使して優良な農機具を作ったともいわれる。彼は平城京建設にも功績を残した。そうした功績を認められ、彼は多胡郡の支配をまかされた。これだけの技術力もまた、秦氏の特技だった。
そして秦氏には、もうひとつ不思議な特徴があった。それは彼らは、もともと古代東方キリスト教徒だった、という点である。それについては後述するが、秦氏はもともと中央アジアのキリスト教国「弓月」から、朝鮮半島を通って日本にやってきた人々である。彼らは日本全国に神社を作っているが、それらの神社には、古代東方キリスト教の特徴が随所に見られる。
<日本神道は昔、唯一神教だった>
・秦氏はなぜ、アマテラス(天照大神)のような神ではなく、アメノミナカヌシを祀ったのか。アメノミナカヌシは、宇宙の中心に座す主なる神であり、この神概念はキリスト教でいう「主なる神」、宇宙の中心に座す父なる神(ヤハウェ)にもっとも近い。
<一神教から多神教へ>
・このように籠神社に伝わる日本最古の系図は、トヨウケ、アメノミナカヌシ、クニノトコタチ、ウカノミタマは、同じ神の別名だと述べる。8世紀以前の日本神道――つまり『古事記』や『日本書紀』が書かれる以前の神道――は、「一神教」だったのだ。
そしてこれらの神で、日本の大部分の神社を網羅する。さらに、神道の最高神アマテラスは、大元霊神の「本体」ではないが、大元霊神と「一体」だと、海部殻定宮司は述べる。このアマテラスをも入れれば、日本のほとんどの神社を網羅する。
秦氏は、京都の「蚕の社」で、アメノミナカヌシを祀った。それはもともと『聖書』のいう神ヤハウェであったわけである。神ヤハウェを、日本式に「アメノミナカヌシの神」と呼んだにすぎなかった。彼らはその名を用いて、『聖書』のいう神ヤハウェを拝んでいたのである。
<日本神道は、もともと一神教だった>
・実際は逆だった。たとえば、考古学上、もっとも古い民族のひとつであるシュメール人は、その文化の終わりに約5000の神々を待っていた。しかし文化のはじめには、ただひとつ「空の神」がいただけだった。「空の神」がいただけだった。「空の神」とは「天の神」と同じである。原初の宗教は一神教だった。有名なエジプトの考古学者フリンダース・ペトリー卿は、エジプトの宗教も初めは「一神教」だった、と述べている。
・『古事記』が書かれる以前の時代に、「日本固有の宗教」があった。それは古神道、あるいは本来の神道といってもよいが、その古代日本神道は、『古事記』が書かれたころにはすでに変質してしまった。なぜならそのときすでに、日本の仏教が浸透して久しかったからである。それで、神道も、すでに習合思想的になっていたのだ。
・松山高吉は、かつての古代日本人が礼拝対象とした神は『造化三神』だけだったとし、次のように述べる。「『神』という言葉は、もともと霊妙の意から出て、異霊と思うものを『神』と称した。だから『神』といっても、真の神もあれば人もあり、木石禽獣もあった。………上古の歴史をひもとけば、その大半は『神』の字でうめられているが、上代の人はその区別をよく知っていたから、惑うことはなかった。崇拝するところの神は、天地の主宰者なる造化の神に限っていたのである。………造化三神は、功徳を分けて呼んだだけであって、その実は一神である」
<八幡神社とキリスト教信仰>
・古代の日本固有の本来の神道においては、崇拝対象は三位一体の造化三神だけだったのである。それがのちに、神道の変質とともに、さまざまな『神』を拝むようになった。
・「籠神社の海部殻定宮司が、記紀が書かれる前の日本神道は一神教だったと、著書の中で述べています。また籠神社の責任ある立場の方が、『豊受大神は古代イスラエルの神である』とも述べたという報告があるのですが、それについてどう思いますか」
筆者は一笑に伏されるかと思ったのだが、彼は考え込んだ。しかも否定はしなかった。むしろ「あり得るなあ」という表情であった。古代の宇佐八幡宮は、現在見られるものとは違う形の宗教だったのである。
じつは、宇佐八幡宮やそのほかの八幡宮には、もともと聖書あるいは古代キリスト教との深いつながりがあったことが、指摘されている。たとえば民俗学の大家、柳田國男は、「宇佐の大神も、………大隅正八幡の古伝によれば、同じく告知によって受胎した一人の童貞の女(すなわち処女)であった」
と書いている。そして、それは「イスラエルの古びた教え」と無関係でないと、つまり、そこに聖書の処女降誕の物語が混入したようだ、というのである。
・また八幡信仰の始まりは、宇佐の北方、大貞(大幡)にある薦神社の御澄池に伝わる伝説である。大昔、その池に、八幡の神様が現れた。清く澄んだ湖水の中から美しく幼い男児が姿を現し、岸辺に茂る薦草(パピルスと同様の水草)に立ち、
「われこそはヤハタの神である。わがために薦草で方舟の枕を作り、御神体とせよ」と告げて、湖岸の影向石に神影を映したという。この「美しく幼い男児」といい、「薦草」といい、「方舟の枕」といい、かつて美しく幼い男児モーセが、ナイル川の岸辺の葦で作った小さな方舟に寝かせられていたという、『聖書』の記事を思い起こさせる。
もちろん、細かいところに違いはある。しかし、こうした伝説が生まれる背景には、八幡の人々が『聖書』やモーセの話に親しんでいた事実があったのではないか。少なくとも発想のベースに、『聖書』の物語があったように思われるのだ。
・八幡神社の「八幡」は、今は「はちまん」と読むことが多いが、本来は「ヤハタ」といった。「八幡」の漢字は、ヤハタという言葉への当て字である。ヤハタは日本語としてみると、とくにこれといった意味はない。
ヤハタはもとは、ヘブル・アラム語で「ユダヤ」を意味する「ヤェフダー」から来たのでないか、と考える者もいる。一方筆者は、ヤハタはおそらく、ヘブル・アラム語で「秦(氏)の神」を意味する「ヤハ・ハタ」ではなかったかと考える。「ヤハタ神社」は、“秦氏の神の社”の意味だったわけである。
じつは、八幡神社に限らず秦氏系の神社では、単にキリスト教的なものだけでなく、古代イスラエル的なものも多く見られる。古代東方キリスト教は、西洋的なキリスト教とは違って非常にイスラエル的だった。秦氏のキリスト教は、とくにそうだった。
たとえば八幡神社は、お神輿の発明者といわれている。749年、宇佐八幡宮からお神輿が上京したとあるが、記録上の初見である。お神輿は古代イスラエルの「契約の箱」によく似ており、イスラエル的発想と考えられる。
<トヨウケの神はイスラエルの神>
・先に筆者は、アメノミナカヌシ、クニトコタチ、トヨウケ、ウカノミタマは、同じ神の別名だと述べた。『古事記』に出てくるアメノミナカヌシは、『日本書紀』ではクニノトコタチと呼ばれているから、両者が同じ神の別名であることは、すぐわかるだろう。
・また先に、「籠(この)神社で祀られていた豊受大神は古代イスラエルの神である」という話を書いた。籠神社はじつは「元伊勢」とも呼ばれる神社である。つまり、かつて伊勢神宮も、同じトヨウケの神を祀っている。そしてトヨウケもアメノミナカヌシも、同一神であり、もともとは「古代イスラエルの神」すなわちヤハウェであった。
<お神輿と契約の箱>
・また契約の箱、および神輿は、両方とも移動式の神殿あるいは「聖所」である。「ミコシ」という言葉は、日本語としてはこれといった意味はない。だがあるユダヤ人は、「ミコシ」は、ヘブル・アラム語で「聖所」を意味する「ミコダシュ」が訛ったものではないかと述べている。
<山伏と天狗>
・日本には、「山伏」と呼ばれる人々がいる。白い服を着、頭に黒い箱「兜巾(ときん)」をつけ、法螺貝を吹き、山で修行する。山伏は今は仏教に属しているが、これはもともと仏教の風習ではない。インドや、中国、朝鮮半島の仏教に、そのような風習はない。
山伏は、仏教が日本に入る前から日本固有の宗教の一部としてあったものである。彼らが吹く法螺貝の音は、ユダヤ教徒が吹くショーファー(角笛)の音にそっくりだ。また山伏が額につける兜巾は、ユダヤ教徒がつける黒い箱「テフィリン」にそっくりである。
宗教目的のために額に黒い箱をつける人々は、世界中でユダヤ人と山伏しかいない。だからユダヤ人は、山伏の姿を見ると驚愕してしまう。「なぜ日本にユダヤ教徒がいるのか」と。
・また、いわゆる「テング(天狗)」は、山伏の格好をしている。鎌倉・建長寺奥の半僧坊には、立派な鼻高天狗の像がたっているが、山伏の格好をし、ニョキッと突き出た鼻、彫りの深い顔をして、手には「虎の巻」を持っている。
テングは、秦氏のいた中央アジアの言葉で「山の神」を意味する。中央アジアには、「ハン・テングリ山」という高山がある。天山山脈に属する山だ。「ハン」は、チンギス・ハンなどの「ハン」と同じ、テングリは中央アジアの言葉で天神、または山の神である。
『真のエクソシスト』
大川隆法 幸福の科学出版 2019/4/23
<エクソシスト>
・私の説くエクソシスト論は、現代世界では、最先端のものである。キリスト教、イスラム教、仏教、神道等で、断片的に説かれているものを統合したものである。しっかりと学んでほしい。
・まさしく私の戦場での実話から抽出されたテキストである。悪霊、悪魔、生霊などとの接近遭遇は、ほぼ毎日のことである。
本来は、一体一体、説法して成仏させるのが本筋である。その霊体の悩んでいるポイント、あるいは、生きている人を悪意を持って狙っている理由を見破って、論理的、理性的に論破し、成仏する方向性を明示すべきである。根本原因を除去しない限り悪魔祓い(エクソシズム)は成立しない。
そのための日頃の鍛錬としては、教学、精進、信仰、利他行などが必須である。
<波長同通の法則>
・心の世界には「波長同通の法則」というものがあり、憑依される者自身がマイナスの心を持っていると、それと似たような地獄的な霊を引き寄せてしまう。その地獄霊とのなかで起きる現象を「霊障」という。
つまり、霊障とは「霊的な障り」のこと。悪霊に取り憑かれるなど何らかの悪しき霊的な影響を受けている状態を言う。霊障になると、体調が悪化したり病気になったりするほか、さまざまな不平不満等の思いや言葉が出てきて、人間関係や仕事等にも悪影響を及ぼし、人生が破綻していく。
したがって、対策としては、自らの思いや行いに間違いがないかを反省し、生活を調え、そして、天国的な自分へと切り替えることによって、悪しき影響から離れる必要がある。
<霊障対策の基本 基礎的知識から実践法まで>
<霊障の見分け方>
<誰でも何度かは経験する霊障>
・「霊障」とか、「霊に取り憑かれる」とかいうようなことは、それほど特殊なことではなく、どなたであっても一生のうちに何度か経験すると思われます。
どういうときに多いかというと、「自分が思っていたような人生ではないコースに入り込んでしまった場合」「デッドロックに直面した場合」「職業上、あるいは趣味のサークルなどでの付き合いの関係上、悪いグループに入ってしまった場合」等です。そういうときには、なかなか逃れにくいものはあると思うのです。
<新宗教や新新宗教には「悪霊の巣窟」のようなものもある>
・私の場合、例えば、宗教学の事典のようなものなら読めるのですが、新宗教関連の事典のようなものだと、読んでいるうちに、だんだん気分が悪くなることがあります。それは、その事典が扱っている内容に、明らかに「悪霊の巣窟」のようなものが入っているからではないかと思うのです。
・また、教団が一定の規模になると、変な人も出てきます。「日本人の百人に三人は犯罪者になる」と言われているぐらいなので、百人規模の宗教では、放っておいても、犯罪に引っ掛かるような人が三人ぐらいは出てくるわけです。
<「精神病か、霊障か」を見分けるのは簡単ではない>
・「判例百選」という、裁判の記録のようなものには、「信教の自由」とその限界に関して、次のような事例が載っています。
それは、「僧侶が、狐憑き、狸憑きのような人を、その人の親族に協力させて取り押さえ、叩いたりして霊を追い出そうとしたが、そうしているうちに対象者が死んでしまったため、犯罪に問われた」というものです。
もし、本当に狐や狸など動物霊系のものが憑いていたら、奇行が多くなります。
・キリスト教系の「エクソシストもの」を観ても、精神病の人に対する扱いと同じように、相手を椅子に座らせ、革のバンドのようなもので縛って動けないようにしてから、エクソシズム(悪魔祓い)をやっている場面が出てきたりします。
現象的に見れば、精神病で暴れている人と、強力な霊障で暴れている人との区別は、ほとんどつきませんし、それらが重なっている場合も多いと思います。
そのため、バチカンのローマ法王庁では、「まず、病気でないかどうかを確かめ、病気だったら精神病院で治療してもらえ」ということで、病気の兆候がないかどうかを確認してから、エクソシズムに入るかたちになっています。
ただ、現実には、これを見分けるのは、それほど簡単なことではありません。
・しかし、これも微妙に難しいのです。むしろ、一生懸命、悪魔の存在を実証しているようにも見えて、何とも言えないところがあります。真正な霊能者であれば、「悪魔憑き、悪霊憑きか、そうでないか」ということは、すぐに分かるだろうと思うのです。
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