9世紀初め、畿内において三つの型の狐の行動イメージが成立していた。狐の人への変身、とくに人との通婚、およびその結果としての人の姿をした子孫の誕生、人への付き、および狐の怪異、がそれである。(3)
<悪魔と戦う際の基本知識>
<悪魔は「縁のある人々」の「いちばん弱いところ」を狙う>
・ただ、霊道が開けていたりして、普通の人よりも非常に感じやすいタイプの人はいます。そういう人の場合、ある程度、家に煙突が立っているようなものであり、サンタクロースが入ってこられるようにはなっているのですが、“サンタクロース以外の者”も入ってこられなくはないわけです。
・基本的には、「波長同通の法則」というものがあるのですが、特殊な例外として、「ある人を強度の霊障状態、悪霊憑依や悪魔憑依の状態に置くことによって、その人だけではなく、その人の家族である、きょうだいや親、子供、あるいは仕事に関連している人を間接的に狙う」というスタイルも、あることはあるのです。
・このように、目的性を持って狙ってくることもあるので、本当に手強いと言えば手強いわけです。
<「特定の場所」に関係のある「地縛霊」への対策>
・普通の悪霊の場合、例えば、特定の場所に関係のある「地縛霊」のようなものであれば、そういうものがいる所に近寄らなければ、基本的に縁はなくなります。
・アメリカのホラーには、ハウス、家に関連するものがよくあります。「地下室とか、誰かが死んだ特別な部屋とか、そのような所に幽霊が住み着いていて、それに取り憑かれ、さらには、その幽霊の奥にいる悪魔に取り憑かれる」というパターンのものが多いのです。イギリスでもそうでしょうか。
<バチカンのエクソシストが学ぶ内容>
・お祓いができる人と言うか、海外で言うところの「エクソシスト」の数はものすごく少ないのです。バチカンは、「年間50万件以上、悪魔祓いの要請が来る」と言っているのですが、実際にやっている件数はものすごく少ないだろうと思いますし、エクソシストの認定資格を持っている人も非常に少ないわけです。
また、バチカンにおける、エクソシストを育てる授業の内容等を見ても、「はたして、これで祓えるのかな」と感じるものがあります。
基本的には、「悪魔の名前はあまり知らないほうがよい」と私は思うので、幸福の科学ではそれをたくさん教えたりはしないようにしているのですが、バチカンで教えている内容を見たら、要するに、「悪魔の名前を覚える」ということをしているのです。悪魔の似顔絵というか、絵姿を見たりもしていました。
おそらく、リストか何かには五百ぐらいの悪魔が載っていて、特徴がいろいろと書いてあるのではないかと思います。
<悪魔との戦いでは「対話しない」「目を見ない」>
・バチカンが教えているエクソシズムの基本は、次のようなものです。
まず、悪魔に憑かれていると思われるような人を縛ったりして、体の自由を奪います。ものすごい力を発揮して暴れる場合もあるので、そうしないと危険なのです。
そして、「相手の目を見るな。悪魔がいろいろ言っても、耳を貸してはいけない」ということと、「相手の目を見るな」ということを教えているようです。
・また、悪魔を相手にしているときに、同じ次元での言い合いになると、波長が同通してき始めます。そのため、「話を聞くな。耳を貸すな。会話をするな」と言っているのです。
・このように、キリスト教系のエクソシズムでは、「あまり会話でのバトルに入るな。耳を貸してはいけない」と言われています。
それから、「相手の目を見るな」とも言われています。これは、「目を見ると、催眠術的効果に引っ掛かることがあるから」ということなのだろうと思います。
ただ、ラテン語の『聖書』を読み、聖水を振りかけ、十字架を相手の顔や体に押しつけたりすることに、どのくらいまで本当に効果があるのか、若干、疑問がないわけではありません。
<ホラー映画のように、「五寸釘のようなものを吐く」ことはない>
<自傷行為や自殺衝動が生じる理由>
・それは、憑いている者の声が、耳元、あるいは頭のなかで、「死ね、死ね、死ね」とか、「飛び降りろ」とかいう感じで、たくさん聞こえてくるからです。それが、夜も眠れないぐらい延々と続くので、だんだん、だんだん、催眠術にかかったように、その気になってくるわけです。
・そのように、悪魔というのは、まずは、憑いている人を殺そうとしたり、事故を起こさせようとしたりする傾向があることが多いと思います。
<アメリカと日本のホラー映画の違い>
・しかし、宗教を三十数年やってきた私の経験では、「“そら豆のスープ(緑色の液体”を吐く)というようなことはありえないことです。
・そのように、アメリカ系のエクソシズムの映画は、物理的に見せなくてはいけないので、多少、演出過剰なのです。もちろん、向こうではそれでヒットするのですが、日本では、あまり観てくれる人はいないでしょう。
・その意味で、アメリカン・ホラーというのは、ホラーといっても、基本的には、殺人事件のスリラーを、幽霊・悪魔に絡めたものなのではないかと思います。
<悪魔祓いの方法と応用知識>
<幸福の科学の法話の音声や映像をかけてみる>
・なお、強度の霊障状態になると、霊能者ではなくても、霊能者に起きるのと同じような現象は確かに起きます。要するに、常時、悪霊や悪魔に憑依されていると、霊が視えてきたり、怪しげな声が聞こえたりすることが非常に多いのです。
・ともあれ、「真理の話をすると、ものの見事に眠り始めて、本当に聴こえなくなる」ということは、実際にあると思うのです。
<霊障かどうかは、真理の本を「音読」させてみると分かる>
・いずれにしても、「幸福の科学から出している本を読ませてみると、読めない」ということはあります。
<霊障の場合、「幸福の科学の支部」や「神社」に行くのを嫌がる>
・あるいは、そういう人は、幸福の科学の支部にも来にくくなります。「支部の敷居をまたぐのが怖い」と言う場合、「一般的に、宗教が怖い」というだけではなくて、「霊障であるがゆえに行きたくない」ということもあるのです。
・川島神社をめぐるエピソードとして、子供時代に、母からこのような話を聞きました。
徳島には犬神がいて、「犬神憑き」というものがあると言われているのですが、「あるとき、近所の犬神憑きのお祖母さんを川島神社に連れていこうとしたら、そのお祖母さんは、鳥居をくぐったあと、急に四つん這いで歩き出した」というのです。
川島神社に、本当に、そこまでの霊力があるのかどうかは分かりませんが、あるいは、犬神というのは、動物霊に近いものかもしれないので、神様のところへ連れていかれるのを嫌がったのかもしれません。
<幸福の科学の「正心法語」などのCDを聴いても祓えない場合には>
・ただ、「その人の魂自体が腐ってきている。腐敗してきている」という場合は、憑いているものと、憑かれている者とに、かなり「同質の部分」ができています。
・これは、いろいろな経験があって、すべて知っている上で言っていることなのですが、そのように、祓えない場合があるのです。それは、もう、本人自身の「中身」がかなりの部分、腐食している場合です。
<どうしても反省ができない人への対処法>
・ところが、深い霊障になっている人の場合、基本的に反省ができません。しっかり思い出せないこともあるし、自分が惨めになったり、自己否定に陥ったりするので、徹底的に抵抗する傾向があって、反省できないことが多いのです。
・そういう人は、たいていの場合、子供時代から、「家庭のなかに悪霊がいる」という環境のなかで汚染されていることが多いのです。その場合、親もまた、何もかも他人様や環境のせいにするような傾向を持っていることがよくあり、子供もその影響を受けているわけです。
<霊査で分かってきた「身分制社会のプレアデス系の傾向性」>
・霊査をすると、これは必ずしも霊障の問題ではないのですが、「宇宙人系のリーディング」をいろいろとやっているなかで、プレアデス系の魂について気がついたことが一つあります。
もちろん、プレアデス系といっても、星が幾つかあるので、すべての星が同じかどうかは分からないのですが、どうも、プレアデス系の魂を分析していると、身分制社会に生きているようなのです。
つまり、プレアデス系の社会というのは、明確には言えませんが、おそらく二割ぐらいが上流階級で、あとの八割ぐらいがその人たちを支えているような状況になっているのではないかと思うのです。
・そのため、昔、プレアデス系の星から、地球の日本、あるいは、ほかの国に来て、神を名乗った者もたくさんいると思うのですが、「そういう者は、いわゆる労働や貨幣経済的なものを否定する傾向が強い」ということが分かってきたのです。
そういう意味で、プレアデス系の人には、「勤勉さ」とか、「努力」とか、「働く」といったようなことを軽視する傾向はあるように思います。
<宇宙人のプレアデス・バガ・アンドロメダ・ケンタウルス系の「魂のブレ」>
・なお、そこまで行っていないようなプレアデス系の人の場合は、「“狐”変転」というか、狐風のプライドを持って騙しをする人も、一部いるように思われます。
ちなみに、日本の昔話には、狐や狸が化かす話がよく出てきます。
現代では、狐も狸も化かしたりはしないですし、昔の話にはいろいろなものがたくさん混ざっているため、よくは分からないのですが、いわゆる幽霊としての「動物霊」風のものや、畜生道に堕ちた人間が取り憑いて化かしている場合もあるとは思います。
・あるいは、ベガ系で正統ではない者の場合は、要するに、(ベガは)変化しやすい性質を持っているタイプなので、「“狸”変化」している可能性もあるのではないでしょうか。人を騙して、いたずらしたり、悪さをしたりするほうに、魔性が出てくる場合もあるかもしれないと思います。
・ちなみに、プレアデス系の人でも、美人や美男であったり、頭や家柄がよかったりすると、天狗になりやすい傾向は出てきます。また、ベガ系の人でも、やや、心が曲がっているような感じになってくると、そのように見える場合もあります。あるいは、アンドロメダ系の人でも、実際上、正義を掲げて戦う傾向はあるものの、強さに酔いしれると、天狗的になる傾向は出てくるように思います。
・それから、ケンタウルス系の人も、知能や科学の発展を、かなり鼻にかけている人が多いので、科学万能主義や唯物論的な思考等に入っていきやすい傾向の人も多いように思います。
<「悪霊の生産工場」となっている先祖供養系宗教の間違い>
・また、悪魔やその他の悪霊・悪霊等が、「取り憑かれている人の祖先」を名乗って出てくる場合もあります。亡くなった父や母、祖父、祖母、きょうだいなどを名乗って出てくることがわるわけです。
やたらと先祖供養ばかりをする宗教も数多くありますが、そのなかには先祖ではない霊もたくさん来ていて、「悪霊の生産工場」になっているようなものもたくさんあります。
・密教系のある宗教では、「千日間、このお経を読んで、座って数珠を擦りながら拝んでいたら、先祖の因縁が切れる」というようなことを教えていました。
<悪い現象は、すべてがよくなる前触れ」という光明思想系統の騙し>
・あるいは、病気をしたり家族が死んだりして、悪い現象がたくさん起きてくると、「これは、すべてがよくなっていく前触れなのだ。今は最悪だと思っているけれども、それは悪いことがすべて崩壊していく過程なのだ。運命のケミカライゼーション(自壊作用)なのだ。崩壊が始まっているので、あとはよくなるしかないのだ」ということだけを説くような宗教もあります。
<霊障にならないための自己点検法>
<「心の持ち方を正し、生活を正していくこと」が基本>
<心が変わらなければ、憑いているものは、取っても戻ってくる>
・やはり、自分自身を正さなければ、「慣性の法則」は働き続けます。
例えば、列車が猛速度で進んでいるときに、ブレーキをかけても、何百メートルも止まりません。そのようなものと同様に、自分の心の傾向性も急には止まりませんので、そういうものだと心得てください。
<真のエクソシスト>
<悪魔に最終的に勝つ力>
<教えられる人が少ない「真のエクソシスト」>
<「真の降魔師」「魔を降すマスター」になるために>
<「正しい道」を悟る人が多く出ることが大事>
・そういう意味で、生きている間には、正しい道と、そうでない道と、どちらにも行く可能性があるわけですが、「正しい道を悟る人が、できるだけ多く出る」ということが大事なのではないかと思っています。
<不成仏霊が現れやすい「場所」>
<不成仏霊が長く地上にいると「障り」が起きてくる>
・現実問題として、つくづく、「降魔は本当に難しいことだ」と思います。
<「憑依の原理」とその実態>
<地獄霊は「心に共通項がある者」に乗り移る>
<地獄からは生まれ変われないため、地上の人に憑依する>
・「地獄にいる状態では、母親の子宮に宿って生まれてくるのは、かなり困難なのではないか。一定のレベルまで心の平静を取り戻し、天国的状態というか、最低でも4次元の精霊界ぐらいのレベルまでは上がらないと、生まれ変わるのが難しいのではないか」と考えています。
それが、「憑依の原理」の存在理由だろうと思うのです。
<「犯罪時の記憶がない人」に起きていること>
・これは、おそらく、本人の魂が体から抜けていて、そこに悪い霊に入られているのです。そして、人を刺し、そのあと、その霊が抜けて元に戻ると、人を刺したときの記憶がないわけです。
裁判では法律によって裁いてはいるのですが、憑依の問題があるので、けっこう厳しいのです。
<霊的な影響を受けている人の「善悪の判定」は非常に難しい>
・幸福の科学を始めた当初、3年間ぐらい、「入会願書制度」を設け、「入りたい」という本人が書いた願書を私のほうで見て、合否を判断していたことがあります。
その願書のなかには、精神病棟に入っている人から来たものがあって、読んだところ、「東京大学の法学部の先輩だ」という人でした。
<戦い方①――危険を伴う外科手術型エクソシスト>
<バチカン系の「エクソシスト」の怖い事例>
・例えば、精神病院などでもよくあるように、本当に、当人の手足を縛ったり、体を何かに縛りつけたりしなければ、ものすごい力を発揮する場合があります。
あるいは、バチカン系の「エクソシストもの」にも、革バンドのようなもので縛って、体を拘束するシーンが出てきますが、そうしなければ、怪力を発揮することがあるのです。
<「異言」を語る悪魔の場合『聖書』・十字架・聖水だけでは難しい>
・そのように、欧米系の悪魔は念力が強いので、もう一段、物理的なフォース(力)が出るのかもしれません。
・異言のなかで、ラテン語のようなものを話すこともありますが、その場合にも、悪魔であることはあります。
そうしたラテン語を読めたのは、だいたい、紀元後から中世ぐらいまでの神父や修道士などの聖職者階層の人です。そのような人は、やはり、エクソシストを行うときも、ラテン語の『聖書』を読んだりしていましたが、悪魔のほうも、それを話すケースが出てきています。
・そのため、「イエスの説教は、だいたい、アラム語で話された」と言われていますが、異言現象のなかで、アラム語が出てくるケースはよく出ているようです。私もいちおう話せるのですが、そういう現象が出てくることがあります。
あるいは、それ以外のもっと古い、古代メソポタミアの言語や、エジプトの言語が出てくるような場合もあります。
その場合、聖霊が語っていることもあるのですが、そうでないこともあります。そのくらいの古さの言葉を操るとなると、普通の悪霊ではないので、大きな悪魔と見てよいと思います。
<戦い方②――“漢方薬”的な防衛込みの方法>
<慢性的な悪霊・悪魔の攻撃から身を護る方法>
・やはり、日ごろから、丁寧に防衛しておくことが大事ではないかと思うのです。「日ごろから道徳を」などというと、バカにされるかもしれないし、宗教も、そういう意味で、バカにされることはあると思います。
・仏教で言う戒律も、現代人に言うと、「ちょっと勘弁してくれ」というものは多いと思います。
<酒や麻薬・覚醒剤系統が起こす理性麻痺の危険>
・なお、戒律の対象としては、昔は「お酒」を挙げていましたが、今であれば、例えば、異常に厳しい喫煙、あるいは、アメリカなどでは少し緩いようですが、麻薬、覚醒剤系統のものもそれに当たるでしょう。
<自分の「隙」を知り、この世的に解決できるものは解決する>
・それから、悪霊や悪魔が家族系統を狙ってくる場合、「弱いところはどこか」ということを、いつも見ている感じがします。そのため、家族のなかで弱いところがあれば、必ず襲ってくるわけです。
<他人や環境のせいにせず、正邪を判定する自力を>
<「謙虚な心」が自分を護る理由>
<最終的に必要なもの――信仰心で神仏と一体になる>
<だんだん「強いもの」が出てくるとき、最終的に勝つ力>
・「降魔」というものは簡単なことではありません。最初は「いける」と思っても、だんだん強いものが出てくるのです。この段階を経験した人はそれほど多くいるわけではないので分からないでしょうけれども、やはり、「信仰心を持っていなければ、最終的には勝てない」ということを知っておいてください。
・ただ、自分の分を超えて、いろいろなものに対する欲をあまり持ちすぎると、失敗することはあるということです。
<小さな成功を積み重ねることの大切さ>
・私は、「平凡からの出発」であるとか、「小さな成功をコツコツと積み上げていけ」といったことをよく語っていますが、これは別に、必ずしも「凡人のすすめ」をしているわけではありません。
・これは、武田信玄的に言えば、「六分の勝ちでよしとする」ということかもしれません。すなわち、「勝つことでも隙はできる」ということです。
・そういう意味では、「濡れ手で粟」や「棚ぼた」型の成功はあまり狙わずに、やはり、目に見える努力を積み重ねることが大切です。周りから見ても、「あれだけコツコツとやっていたら、そのくらいは当然かな」と思われるように努力したほうがよいのではないでしょうか。
<「人としての賢さ」「心のなかの愛のあり方」に隙ができるとき>
・特に、若い人の場合には、やはり、異性のところで失敗するケースがとても多いでしょう。
ただ、一定の年齢を超えれば、考え方が多少は変わってくることもあるのです。
・ですから、人間が賢いか賢くないかということは、必ずしも、マークシート試験での点数の取り方のようなもので決まるわけではないと知っておいたほうがよいでしょう。やはり、「人の筋」は見なければいけないということです。
とりわけ、「愛」というものは、そのあり方によっては、悪魔につけ込まれる隙になりやすいところではあります。
<教えを説いても、それを行じる気がない者は護られない>
・その意味では、釈尊の態度としては、「阿含経」のように、実際に話したと思われるものを見るかぎりは、ずいぶん突き放したものの見方をしています。
・本人がそれに気がつけば助かるのです。要するに、向こうが怨霊と化して取り憑いてきていることに気づき、自分の本心を取り戻し、本人の意志がしっかりすれば助かることもあるでしょう。
<宗教のプロとしてのエクソシスト>
<「真のエクソシスト」質疑応答>
・そのように、信仰における価値というものは、この世のものとは多少違うかもしれないので、「この世で値打ちがあることは、宗教のなかでもすべて通用する」と思うのは間違いです。逆に、この世的には値打ちがないと思われるようなことが、宗教では値打ちがあるように見えることもあるので、このあたりは知ってほしいと思います。
<信仰の世界において「純粋」になることの難しさ>
・地位や名誉、権力、金銭など、この世的に値打ちのあるものはいろいろあろうかと思いますし、それは役に立つところもあるでしょう。ただ、それが役に立たないこともあるのです。
例えば、宗教にお金を寄付しても、すぐに悪霊が立ち去ってくれるわけではありません。
・したがって、霊能力にも限界があることは知っておいたほうがよいのです。信仰心が立っていればこそ、自分自身を護り続けることができるし、人を救うこともできるということを知ってほしいと思います。
<信仰心が立っていなければ、自分自身も護れない>
<幸福の科学の霊言と他の団体の霊現象との社会的信用の差>
・以前には、1994年ごろまで幸福の科学の会員だった人が、「霊言を降ろせる」などと称して信者を引き抜くようなこともありました。
・そこで、「『大川隆法には霊能力がない』と宣伝して信者を引き抜いているのか。それならば、出しましょうか」ということで、その後、私は五百書以上の霊言集を発刊しました。
・あちらの霊言集はまず広告には載らないのに、こちらの霊言集のほうはきちんと新聞の広告にも載るのです。まことに不思議ですが、これは「信用の差」としか言いようがありません。
・いずれにせよ、この世的な信用も必要ですし、信仰者として真っ当であるかどうかというところも大事だと思います。
<Q2 よい心境を保ち続ける方法>
・(質問者B) これは、非常に難しい体験談として聞いた話ではございますが、悪霊撃退系の祈願などを受けた方のなかには、一時的には、改心したり、大いなるものへの帰依の心が戻ってきたり、信仰心が強くなったりと、天上界の光が入って、心が元気になったように見えても、すぐに心境がブレてしまい、再び憑依されてしまうという現象が繰り返し起こることがあるそうです。
<心の状態に働く「慣性の法則」>
・(大川隆法) やはり、どうしても、「慣性の法則」というものはあります。この世で生きてきた年数分だけ、今までの方向性があるので、それを急に変えようとしても変わりません。
・ちょっとした諭しや儀式で改心できたと思っても、それが一時的なもので元に戻ってしまうかどうかは、「その人が、過去、どう生きてきたか」という、その“生き方の道筋”の「長さ」と「重さ」によります。やはり、そうした過去の生き方の流れがあるわけです。
・仏教でも言われていることではありますが、人にはそれぞれ、「上根・中根・下根」というものがあります。
上根の人の場合、ちょっとした教えでも、比較的すぐに、ある程度、分かってしまうこともあります。そして、中根の人は、普通の人が経験するぐらいの努力をしなければ悟りには至らず、下根の人になったら、やってもやっても、なかなか悟れないということがあるわけです。
<神秘体験をして自分の使命に気づいたパウロ>
・実際は非常に宗教的で霊的な人であるのに、たまたまきっかけを得ていなかったために、今まではまったく正反対の生き方をしていたけれども、きっかけに触れたことで、急に百八十度回転して改心したというような人も、たまにいます。ただ、そういう人は、歴史的にも数えるほどしかいません。
例えば、「パウロの回心」がそうでしょう。
・パウロは、当時、サウロと名乗っていましたが、そのサウロのまったく見えなくなってしまった目を治してくれたのが、実は、イエスの弟子でした。イエスが、目の見えない人の周りを、唾か何かで洗って治したように、アナニアという人がサウロに手を置いて祈ったら、目が開いて見えるようになったのです。
このように、白光でもって倒れて見なくなった目が、見えるようになったという奇跡もありました。
また、白光が臨んでサウロが地に伏したとき、「サウロよ、サウロよ。どうして、おまえは、私を迫害するのか」という、イエスの声が聞こえてきたそうです。現実には弟子を迫害していたのですが、イエスは、そうは言わずに、「どうして私を迫害するのか」と言ってきたのです。
かつて、パウロはイエスの弟子を迫害し、それによって捕まって処刑された人もたくさんいたのですが、そういう神秘体験を経験したことで、今度は回心して、クリスチャンになってしまったわけです。
<光がズバッと深く心に入ってくる時>
・ほかのところでも、そういう経験をした人はいるでしょう。
例えば、長らく刑務所にいた人が、神秘体験をしてイエスの姿を診たことで、出獄したあと、牧師になったとかいうケースもあります。
そういうことが改心の現象としてはありますけれども、一般的には、やはり、今までの人生の延長上に未来は築かれるので、「慣性の法則」は働くということです。
・「人は、人生の不幸を環境や他人のせいにしてはいけないし、キリスト教が言う原罪のようなものを信じてはいけないと思うものの、それでも、やはり、何らかの業、カルマでもなかったら、現在の自分のあり方を説明できないと思いたくなるときもあるだろう」というような教えを説いていたのです。
<「自分の力で救える人もいれば、救えない人もいる」ことを知っておく>
・おそらく、エクソシスト等をしていると、救える人も、救えない人も出てくると思います。
・イエス自身も、奇跡は数多く起こしましたけれども、自分の生まれ故郷に帰ったときには、「ふるさとでは奇跡が起きない」というようなことを言っています。
・霊的実体験のある人にとっては、人間が魂と肉体の結合体であることは自明の理である。しかも人生行路の諸段階で、様々な悪魔的な、まどわかしや、天使による救済を経験するものである。
(2023/6/8)
『ソロンとカリン 龍神物語』
先端技術研究機構 ヒカルランド 2021/6/3
この本は、宇宙叙事詩とも言える龍神物語である。すべてフィクションではなく実話である。
<新創造主誕生>
<三面の大黒像>
・ある僧侶から譲り受けた、不思議な能力を持つ「三面の大黒像」。中川原家に3代伝わった秘仏を、もとあった寺へ戻す旅に出た、中川原家長男・KEN。
旅の目的は、祖父の代わりに、北海道から四国・徳島へと「三面の大黒像」を戻す、ただそれだけのはずだったのだが――。
それは、龍神島日本国からのみ選ばれるという「創造主」を選抜するために、神々によって仕組まれた創造主試験の始まりだった。
神々の援護、そして仲間の協力とともに、創造主試験を受けることになるKEN。
<伊邪那美命(いざなみのみこと)>
・――実は、大黒像の御神体とは、伊邪那美尊であり、地球コア(黄泉の国)に住む創造主系列の天体神だったことが、後に判明した。
<空海降臨>
・当時の私の職業は、企業所属の科学研究員で、産学共同研究のため北海道大学工学部大学院の先端技術研究所で「低温核融合実験」を行っていた。
・――これはずっと後にわかった事実であるが、菩薩界第10位(聖観世音菩薩位)である空海神が私に取り憑いた目的、それは“創造主(ソロジン)の後継者候補生”に対して、助け舟を出しながら道案内をするという役割のためであった。これは如来界からの命令に基づくものであった。
日本国(龍神島)は、大宇宙の担当創造主が降臨する“宇宙で唯一の場所”であり、創造主の後継者を選定する聖地であった。
・神々の世界は、プレアデス系の神々と、新興勢力のベテルギウス(オリオン)系の神々に、勢力が二分されていた。
私を創造主候補生に選んだのはベテルギウス系の神々だったことから、私に対して親切で快く協力してくれる神々と、反対に雑に扱うプレアデス系の神々に分かれていた。
<創造主試験>
・我々が所属する大宇宙には、担当の創造主(正式名称:ウケエ=イアア)が一人いて、彼は通称<セザナ神>と呼ばれている。
ビッグバン再生によって繰り返し誕生する天体宇宙の運動寿命は約180億年であり、セザナ神とは、前宇宙のたった一人の生き残りの生命で、前創造主に選ばれた人間の後継者だった。
プレアデス風の表現を借りれば、創造主は<ソロジン>と呼ばれ、前宇宙のたった一人の生き残りであり、唯一無二の人間遺伝子を有する生命である。
神界では、創造主が龍神を創って生物霊界を造営していくことから、創造主は「龍王」と呼ばれる。
・神様も創造主も、本をただせばたんなる「人間出身者」である。人間は誰でも、神様にも、創造主にもなれるのである。
・次世宇宙の創造主を選定する作業とは、神々が選出した50名の人間生命の中から、創造主試験に合格した者だけが、創造主の後継者として認められるというものだった。
・創造主の後継者選定とは、この世を終わらせてしまう恐ろしい行事だったのに、神々はプレアデスとベテルギウスという二つの勢力に分かれて、自分達のところから創造主試験の合格者を輩出させようと必死だった。
・ここでなぜヘランターニの話をするのかといえば、この白龍と私が、過去世において、ただならぬ関係だったからだ。さらに言えばヘランターニは、空海みたいな大変コントロールが難しい性質の龍神だったからである。
・魔界の門番である迦楼羅王(天狗のことである)といえば、京都の鞍馬寺にいるサナート・クマラとして有名だが、彼とは特に個人的に親しく、過去のプレアデス円盤の駆動力に関して、科学的な論争をよく交わした。
サナートは、今から47万年前にプレアデス円盤の機関士をやっていたが、彼のミスで自分も含めた円盤の乗務員全員を死亡させてしまい、死後は神界の罪人となり、魔界門番という呪縛された苦役を強いられた身の上であった。
・私自身は、冒頭の大黒天に象徴されるように、もともと如来界第7位の<シヴァ神(和名:スサノオ)>の系列門下生だったようだ。琴座のベガ星人だったシヴァ神は、プレアデス系の神々とは異なり、主にベテルギウス系の神々を支配下に置いていた。
私は、シヴァ神に育ててもらったと言っても過言ではない。しかし、シヴァ神は昔から異端の神であり、紳士的なプレアデス系の神々と比較すると極めて異色な存在だった。まるで剣闘士のような創造主のセザナ神(荒くれ大王)に最もよく似ているという、軍人系の神様であった。
・地上の人間達は、弥勒如来(ミトラ神)や天照如来(ビシュヌ神)に象徴されるようなプレアデス系の温厚で優しい神様を慕っているが、神界そのものは“軍事系の神々”と“文官系の神々”の真っ二つに分かれていた。
そんな情勢下における創造主試験とは、神界の覇権争いに近く、最終的にはセザナ神本人が乗り出してきて、規定違反を犯してまで、軍事系の門下生である私のほうに加担してきた。セザナ神は、何が何でも、私に勝ってほしかった。
創造主試験の内容とは、奈良県の三輪山に呪縛封印されている第1銀龍(ジャンバラ)と、広島県の宮島に呪縛封印されている第1金龍(ギャンバラ)の封印を解いて、両龍を合体させることであった。これができれば創造主試験にパスするのである。
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