なぜ唯一の被爆国であり、何万人もの人たちが原爆で命を失い、今もなお核の脅威にさらされている日本において核シェルターが作られないのか、と幾人もの外国人から尋ねられました。(2)

<政策集団・自民党へ>

・政調会長としての任務は、自民党を実力ある真の「政策集団」にすることだ。そのためには何をすべきか。

 私は、以前からの持論である「手挙げ方式」を提案しました。

・これまで自民党には、こんなヒエラルキーがありました。当選1回はヒラ、当選2回で政務官、当選3回で部会長、当選4回で常任委員長、当選5回で大臣。必ずしも常にこの通りになるわけではないのですが、おおよそこういう感じの年功序列があったのです。

・すべてご紹介したいのですが、ここでは「我が党の政策の基本的考え」をざっと述べるにとどめます。

① 日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す

② 日本の主権は自らの努力により護る。国際社会における責務を果たし、一国平和主義的観念論を排す

③ 自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助の仕組みを充実する

④ 自律と秩序ある市場経済を確立する

⑤ 地域社会と家族の絆・温かさを再生する

⑥ すべての人に公正な政策や条件づくりに努める

⑦ 将来の納税者の選択権を奪わないよう、財政の効率化と税制改正により財政を再建する

この新たな綱領の下に、私たちの政策は明確な方向性を与えられました。

<震災における役割>

・このような「新しい自民党」にも違和感がなくなってきた頃、2011年3月11日を迎えました。

 激しい揺れがきたその時、私は名古屋の市議会議員選の応援を終え、新潟に向かおうとしていたところでした。

・まさに、地域に密着してきた自民党議員の底力と言っていいのだと思います。与党時代のプライドを超え、「御用聞き」に徹することができたからこそ、「民主党の手柄になろうがなんだろうが構わない、とにかく早く被災地を助けてくれ」と言えたのだろうと思っているのです。

<若手は暴れるべきだ>

・私がいま、衆参の若い議員たちに言っているのは、なぜ暴れないのか、ということです。昔話をする年齢ではないと思いますが、「俺たちが若い頃は、政治改革を掲げて大騒ぎしたものだ」と言いたくなるのです。

<マニフェストのパラドックス>

・政権交代前に、あれほど「マニフェストが重要だ」、「自民党は公約を破るが、我々はマニフェストを絶対守る」と言っていた民主党ですが、次々と前言を翻していきました。

・「このマニフェスト至上主義とかマニフェスト絶対主義とかいうことは、マニフェストを採用している国でも、否定されているものなのです。マニフェストの先進国イギリスにおいても、こんなに分厚い、詳細に書かれたマニフェスト、それを掲げていないわけです」

<「小沢ボーイズ・ガールズ」の怖さ>

・少し話はそれますが、この時の予算委員会の異常さについても触れておきます。委員会は、異様な雰囲気に包まれていました。議論で劣勢となると、民主党席はヤジの嵐でした。

・これに対して、鳩山総理がほんわりとした、訳の分からない答弁をすると拍手の嵐です。

・政権交代で期待されたのは、我々の努力では足りなかった歳出カットであり、新しい基準に基づいた予算の優先順位付けであり、しがらみにとらわれない改革であったはずです。しかし、結局そのような誰がやっても難しいところには手を付けることもしなかった一方で、どこが与党になっても守らなければいけない憲法上のルールを平気で無視するようなことは次々と行われました。

・ところが、民主党政権になってから、野党議員からの陳情は一切受け付けてもらえなくなりました。それどころか、自民党を応援したとされる団体の陳情も門前払いを食ったのです。

・自民党時代を語るときに、よくネガティブなイメージとともに「族議員」という言葉が用いられます。業界団体と結託して便宜をはかり、国民を虐げているようなイメージです。

 しかし、これはあまりに一面的な見方だと言わざるをえません。

・昔、政治改革の時にともに戦った仲間の多くが民主党にいます。

・しかし、当時めざした二大政党による政権交代は、まるで出来るはずもない方法で行われてしまいました。

 子ども手当、高速道路無料化、高校無償化、農家戸別所得補償――。自民党が「バラマキ4K」と呼んでいるこれらの政策は、社会政策とも景気対策ともつかない、したがって何の政策効果も期待できないメニューであり、しかもその財源として掲げた「無駄を省けば出てくる16.8兆円」は絵空事でした。

<政治家は、何を語るべきか>

<「ぶれない」軸>

・私は1993年、当選3回の時にいったん自民党を離党し、無所属、新政党を経て新進党の結党に参加しました。再び自民党に復党したのは97年のことです。このことから、「何度も政党を変わる自分の都合しか考えない節操のない奴」というご批判を頂くのですが、私の主張は一貫して変わっていません。離党も復党も、その主張を貫くためのものでした。

 その主張とは、第一に「集団的自衛権行使を可能とし、独立主権国家にふさわしい憲法を作る」ということ、そして二つ目は「次の時代に負担を残さない健全で機動的な財政を確保するための税制改革を行う」ということです。

・「集団的自衛権」と「次の時代に負担を残さない」。

 今でもこの二つは、私にとってぶれようがない軸となっています。自民党に戻ったのも、その時点でこの二つの政策を実現するのにもっとも適した政党だと考えたからです。

<納得のいく理解>

・ですから、所属政党が違っても、言っていることはいつも同じです。本書の冒頭の文章もそうでした。

 それは私が、自分なりに「納得のいく理解」をするまで、あまり発言したり議論したりしない、ということがあるからだと思います。

・しかし、大臣が答弁するのが原則となってからは、どの大臣も一所懸命勉強せざるをえません。必然的に、もともと全く知見のない人を据えることが難しくなり、政務官・副大臣経験者や委員会所属、部会長など、その分野に明るい人を選ぶことが多くなりました。

<大臣とは手段である>

・いい加減な大臣が出てくるのは、結局のところ、大臣を何かの名誉職と勘違いしている人がいるからでしょう。

・前章で、政調会長だった時に部会長を「手挙げ方式」にしようと提案したことを書きましたが、本来この「手挙げ方式」は大臣人事にこそ採用したらいいのではないか、と私は今でも思っています。

 大臣としてやりたいと思うことが革新的であればあるほど、行政機構そのものとは対立します。

<政治家に必要なもの>

・大臣だけではありません。政治家である以上は、常にこうした気概を持つべきだろうと思います。

・もっとも、私の質問はメディア受けはあまりよくありません。朝日新聞が一時、国会の質問者の採点をしていたことがありましたが、私の点は低いことが多く、どちらかというとキャッチコピー的なことを繰り返すような人が評価が高かったようです。

<言葉の難しさ>

・国会の質問に限りませんが、攻めばかりを考えては失敗につながります。政治家は言葉の職業だと思っていますが、それだけに言葉は両刃の剣になります。少なくとも自ら批判の種を提供しないように、心がけなければなりません。

<自分の中に原理を持つ>

・何か問題が起きたとき、大臣としてどう対処するか。あるいは、野党の政調会長としてどのような選択をしていくか。これまで、さまざまな局面で選択を迫られてきました。

・現在のところ、防衛や安全保障と外交、農政については私設図書館ができあがっています。

<もう嘘はいらない>

・本書では、一貫して、厳しい話をしてきたと思います。かつて「国滅び教の教祖」と言われた頃と変わっていないのかもしれません。

・しかし、私自身は、真剣に考えれば考えるほど、我々には限られた選択肢しかない、狭い道しかないと思っているのです。

・道は狭い。選択肢の幅は狭い。日本に残された時間は長くない。だから今やるべきことをやらなければならない。

・高齢者が増大するピークはあと約30年後。ほんとうにコストがかかるのは、「破綻」と大嘘を喧伝された年金ではなく、医療と介護のほうです。

・国には打出の小槌はない。地方公務員はともかく、国家公務員の数はそんなに多くはないので、国の施策として公務員の数や給与をカットするには限界があります。

・財政再建には、消費税率を上げることを含めた税制改正と、適度な経済成長の両方が必要です。この問題について、打出の小槌も魔法の杖も存在しないのです。

<政治家は国民を信じて語るべきだ>

・現在のように日本全体が自信喪失の状況になると、「国力相応とはこんなものだろう、ほどほどの幸せがあればそれでいいのだ」という、一種のあきらめ的な思考に陥りがちですが、それではずるずると後退していくばかりです。

・私が票につながらないと言われる安全保障と財政再建を繰り返し言うのも、それが国家にしか出来ないこと、すなわち国会議員がなすべきことだからです。

・30年近く前、私が議員になったばかりのころ、リクルート事件などの不祥事が相次ぎ、政治不信の解消が叫ばれました。政治倫理の確立、腐敗防止、資金の透明性確保、選挙制度改革――いくつもの「政治改革」が断行されたはずなのに、政治不信は解消されるどころか、一層の高まりを見せ、今や民主主義は崩壊寸前の危機に瀕しています。

・突き詰めて真剣に考えれば、日本に残された時間は実に短く、政策選択の幅は恐ろしく狭いのです。国民を信じて、勇気と真心をもって真実を語る政治を何としても実現するために、全身全霊を尽くしていきたいと願っています。

(2024/11/5)

『真・政治力』

石破茂  ワニブックス 2013/6/15

<本書の執筆に寄せて>

<自民党幹事長としての使命を果たす>

・私が本書をまとめ始めたのは、実は昨年(2012年)の初めにまで遡ります。

 一昨年の東日本大震災・大津波・原発事故を受けて、この“国難”を乗り切るため、日本国中が総力を挙げて立ち向かっていた頃でした。

 当時、われわれの自民党は野党であり、与党ほどその活動がクロ-ズアップされることはありませんでした。

<ピンチはチャンス>

・人生には、何もかもがうまくいっているように感じられる時もあれば、逆に何もかもがうまくいかないように感じられる時もあります。誰でもそうでしょう。私だってそうです。

 しかし逆風にある時こそ、今までを振り返り、もう一度見つめ直すチャンスなのだ。

・ただ、政治家という仕事をしていると、健全と言える範囲を超えた誹謗中傷にさらされることも多くあり、悲しい気分になることもないわけではありません。

<「石破派発足」?>

・さらに言えば、私自身、いわゆる「派閥解消論者」であったことは一度もありません。それどころか、「人が三人集まれば派閥ができるのは当然だ」とずっと言ってきたつもりです。

<近代的な政党とは>

・善かれ悪しかれ、政治には権力闘争という面があります。

「いつの日にか、この人を総理総裁にしたい」

 そういう思いを共有する政治家が集まって、その人をトップとして仰ぎながら、政策を研鑽し、政治や国家のあり方を学ぶのは、むしろ推奨されるべきことだと思います。

 しかし、もしその「派閥」の機能が、ポストと資金の配分にのみ特化し、「派閥あって党なし、党あって国家なし」とまで言われるようになってしまえば。もはや弊害のほうが大きいと言わざるを得ません。

<キャンピング・カーまで出動、全国を駆け巡った総選挙>

・実際に幹事長になってみるまでは、これほど多岐にわたる職だと思っていませんでした。今までの歴代幹事長がどれほど大変だったか、想像するに余りあります。

<圧倒的な勝利は収めたが……>

・昨年までの3年余にわたる民主党政権は、当初圧倒的な国民の支持を得て誕生した「非自民」の政権でしたが、そこには国家観も国民と真摯に向き合う姿勢も決定的に欠けていました。

・しかし理念のもとに与党を攻撃するのと、自らが与党として実務を担うのとはまったく違います。

・われわれは「嵐」に左右されることのない自民党を作らなければなりません。選挙は結局は候補者の努力による有権者との関係の作り方なのであり、選挙に強い自民党こそが、強い経済の復活や持続可能な社会保障の構築、国際社会に対する責務の履行を成し遂げることができるのだと思うからです。

<当選した新人議員に求めたこと>

・当選した前職、つまり衆議院議員であった経験のあるベテランたちには、直ちに上京しデフレ脱却や被災地復興、参院選勝利に向けた党内論議への参加を求めました。

・私がまだ新人であった頃、大先輩に「君たち新人議員の仕事とは、再び当選することだ」――それを聞いて私は少しがっかりしたものでしたが、ほどなくそれがどれだけ大切なことかわかるようになりました。

 最初の選挙は、どちらかと言えば自分の努力というよりも与えられたさまざまな環境によって当選している場合が多いものです。だからこそ新人議員の多くが、一期だけで終わる危険性が高いと言われるのだと思います。

・加えて「風」に左右されない選挙、つまり候補者がそれぞれ地道な後援会活動を通じて、日頃からできるだけ多くの有権者と接し、心を通わせ、「この人の言うことだったら聞いてみよう」と思っていただけるようになること。

 自民党に必要なのは、有権者にとって身近な存在となること、国民政党として受け止めてもらうことだと私は思っています。

<戦いはまだ終わらない>

・これが昔から続いてきた自民党の意思決定ルールです。ですから総務会決定に異を唱えるということは、自民党員でなくなることを覚悟しなければならないということでもあるのです。

私は、自民党が下野した3年余りという期間は、天から自民党に与えられたチャンスだったのではないかと思っていました。

・もともとは自民党への不信からすべてが始まったのですから、失った信頼がそんなに簡単に取り戻せるはずもありません。

<なぜ自民党は嫌われたのか?>

<自民党が置かれた状況は深刻だった>

・自民党が野党となってから、月の半分くらいは全国の多くの支部や同志のところを訪問する日々が続いていました。さまざまな意見交換会や現地視察、応援演説、時局後援などで日本中を飛び回っていたわけです。

<なぜ自民党の支持率は上がらなかったのか>

・私たち自民党は野に下ってから、信頼回復に向けて必死に努力していました。しかし、それが国民の皆さんにすべて伝わっていたとは言えません。

・だとすれば、「政治家とは究極の“お客さま商売”である」ということもできるはずです。ここで言う「お客さま」とは、この本を読んでくださっている方々を含む、すべての国民を指しています。

<自民党が忘れてしまった「商いの心」>

・自民党は、長く政権の座にあり続けてきた間に、自分たちの“商売”の基本中の基本を見失ってしまったのではないでしょうか。

<案内板もない、あいさつもしない会社>

・これはマズい、自民党に蔓延した殿さま商売的な感覚を正常に戻すのは簡単ではない、そう強く感じました。

 言葉だけの「党改革」では意味がありません。「殿さま商売」というのは、言い換えればずっと与党であった驕りでしょう。その驕りと決別して、お客さまである国民の目線に立つ。

 生まれ変わった自民党にはこれが絶対に必要だと痛感したのです。

<マスコミに責任を押しつけてはならない>

・日本に限った話ではありません。マスコミの体質は、先進国では世界共通といっていいでしょう。各国民も、読者や視聴者として、マスコミの体質なり限界なりを、よく理解した上で報道に接しているのだと思います。

 

・実際、かつて自民党は、どれだけネガティブなことを書かれても高い支持率を持っていたことがありました。

<田中角栄元総理がたしなめたこと>

・都合の悪い声は聞こえないフリをする。自分の耳に心地良い意見だけを喜んで受け入れる。

・選挙においても、支持者だけを集めた会でばかり演説をしていては意味がないのです。

・いくら大勢の支持者を集めて盛大な拍手を浴びても、それだけでは裸の王様になるだけです。

 敢えて街頭に出て、まったく聞く気もない人たちをいかにして立ち止まらせ、どうやって話を聞いてもらうか。そのために自ら汗をかくことが、政治家の本分なのではないでしょうか。

<真実を語る勇気、理解していただく真心>

・民主党政権誕生の前後、多くの国民は期待を抱いたと思います。

・政治は手品でもなければ、憲法でもありません。どれだけ立派な理想を掲げても、できないものはできない。

 それをわかった上で、民主党が政権交代のためだけに空手形を乱発したのであれば、国民に対する重大な背信行為であり、完璧な詐欺行為というべきでしょう。

・持続的な社会保障制度を作り直すためには、それに見合った財源を用意するため、消費税も上げなければいけません。

<小泉改革という成功体験を検証する>

・自民党が大敗し、民主党政権を誕生させた参院選の投開票日が、自民党凋落の瞬間だったと思っていらっしゃる方もおられるでしょう。ですが実は、かなり前から自民党の経年劣化は進んでいました。

・たしかに自民党は、小泉総理総裁のスター性やカリスマ性で国民の高い支持を得ることができました。しかしだからこそ、以後その成功体験に引きずられ、「選挙の顔」にふさわしいという理由だけで総裁を次々と替えてしまうことになりました。そして自民党は、再び凋落の一途を辿りました。

・実際には、第一次安倍内閣には「戦後レジームからの脱却」や憲法改正、教育再生といった高い理想があった。

<直属上司がコロコロ変われば、現場はどうなるか>

・たとえば、私が福田内閣で防衛大臣を拝命した時、それまでの9ヶ月間で私は4人目の大臣でした。

・大臣というのは、国益を背負って数々の国際会議に参加します。

・もし論功行賞や当選回数のみで専門外の議員が大臣になってしまったら、官僚が書いた原稿を読むだけといったことにもなります。そうした日本の政治が海外からどう見えていたのか。

・国民から見ても、政治の要である総理や大臣がコロコロ変わるのは納得できない。

・しかし、こんな自民党を痛烈に批判してきたはずの民主党は、政権の座に座るや、自民党以上のハイペースで総理を交替させることになりました。

<もう偽物はいらない、本物の政治を取り戻す>

<「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるのか>

・自民党が正直に真実を語ってこなかったことが、大きくふたつあります。まず、消費税増税を含む税制の抜本改革を正面から語ってきませんでした。

・もうひとつ、憲法改正に正面から向き合ってきませんでした。

・私たち日本国民は東日本大震災を経験して、もはや「想定外」などという言葉を発してはいけないとの教訓を得たばかりです。

・長く単独与党として歴代の総理大臣を輩出してきたからこそ、同じ政党の先輩たちが築いてきた憲法解釈や防衛政策を変更しづらいという面もあったのかもしれません。

<「脱原発」という無責任>

・太陽光や風力などに代表される再生可能エネルギーは不安定かつ小規模であり、安定的な供給のためにはさらなる技術開発が必要で、今すぐ原発の代替にはなりえません。

<「神話」はこうしてつくられた>

・当時から、科学者や技術者は「原子力発電が100%安全などということはあり得ない」と主張してきました。

・ですから原子力損害賠償法という法律を作る段階で、本来なら「最終的な賠償責任は国にある」と明記しなくてはならなかったのでしょう。

<諸外国の原発を軍隊が警護している理由>

・福島第一原発のある場所は、もともとは約30メートルの丘の上でした。その丘をわざわざ削って、海面近くまで下ろして原発を建設したわけです。

・アメリカでは大地震はほとんど起こらない。大きな津波もあまり襲ってこない。災害が起こる頻度も違えば、災害の規模もまったく違うアメリカの技術をそのまま導入してしまったことが、そもそも間違いでした。

・日本では極限のリスクを「想定外」としてきました。海外の原発は、その国の軍隊が警護しています。アメリカだけではありません。

・さらに、原発の運転に携わるスタッフの多くが元軍人であるケースも珍しくありません。

・東日本大震災の教訓を踏まえて、今後の原子力政策を、冷静かつ慎重に見直していかねばなりません。

<自衛隊を活用した万全の体制を>

・同時に、原発をテロなどの危険から守ることも大切です。諸外国と同じような自衛隊による警備体制が求められています。

・結局、自民党はこれだけ重大な責任を負ってきたにもかかわらず、真実を見極めることもせず、国民に対する説明責任も果たしてきませんでした。それが大きな不信感につながり、いったん有権者から見放されました。

 もし今回の総選挙での大勝に胡坐をかいて昔の体質に戻ってしまい、国民の皆さんに対する「感謝」や「畏れ」の念を失えば、今度こそ自民党は終わる。

<予算委員会で安倍総理に質問>

・そもそも我が国は議院内閣制を採用しているので、国会は内閣の行政権の行使について連帯責任を負っています。

・今後も本会議や予算委員会で与党質問の機会を与えられた時には、より心に残る答弁を引き出せるように研鑽していきたいと思っています。

<「東大までの人、東大からの人」>

・実を言うと、私は官僚の倅です。

・ですのでなんとなく“官僚性善説”のような印象を抱いている部分はあります。

・よく「東大までの人、東大からの人」などと言われます。「東大までの人」、つまり東大の入学試験に合格した時、あるいは難関の国家公務員試験に受かった時が絶頂期だった、そういう人が官僚では困るわけです。「東大までの人」ではなく「東大からの人」でなければなりません。

・しかしそんな安定した気流はいつまでも続きませんでした。日本も、国際社会における自らの立ち位置を真剣に考え、責務を履行しなければならなくなりました。

・国内においても高度経済成長期が終わり、バブルを経験しそれが崩壊し、不良債権の処理の中で長いデフレに突入しながら、一方で増大する社会保障費を賄わねばならないという難しい局面に差し掛かりました。

 こうなると、もはや自動操縦装置では飛行できません。

<もう自動操縦装置は効かない>

・日本の官僚機構は優秀な自動操縦装置でした。ですが、その性能はあくまでも気流が安定して初めて活用できるもの。言い換えれば「前例があること」、あるいは「すでに法律が整備されていること」において発揮される能力です。

・今、われわれは「前例のないこと」への対処を迫られています。だからこそオート・パイロットは効かない、私たち政治家が的確に対処しなくてはならないのです。

・ですから、これからの政治家は、官僚集団と議論し得るだけの関係法令や予算の知識が必要とされるのだと思います。

 大組織の例に漏れず、官僚組織も基本は「前例踏襲主義」です。だから前例がない場合やこれまでと違う方向性の政策には最初は手を出しませんし、あまり賛同もしてくれません。

<官僚組織を使いこなす、プロの政治を取り戻す>

・政治家は素人やアマチュアであってはなりません。自民党はもう一度、プロの政治を取り戻したい。

 官僚機構を使いこなすプロであると同時に、しがらみや利権から決別したプロの政治を推進し、その姿を皆さまにお見せしたいと考えています。

・田中先生は晩年、刑事被告人となり、「金権政治」などの批判を浴びました。しかし一方で、その人となりや生き方はある意味伝説となっています。

・これからの時代は「前例のないこと」が次から次へと起こるでしょう。その中で、5年後、10年後を見据えていくのは、決して容易なことではありません。

 重要なキーワードは「サスティナビリティー(持続可能性)」である、と私は思っています。それは財政、社会保障、農林水産、エネルギーなど、あらゆる分野に言えることです。

・現在の政策や方策は5年先、10年先にもシステムとして正常に稼働するのか。その先30年、50年を踏まえたらどうすべきなのか。このような観点から検証、検討を経て政策を実現すべきだと思っているのです。

<やはり持続可能性が重要だ>

・たとえば「このまま国が借金をし続けると、いつか財政破綻を起こす」という話がありますね。その結末は誰にもわかりません。

・こういう話をすると「石破は防衛・外交畑の人間だし、財務省に洗脳されて財政破綻のリスクを大げさに喧伝しているのだ」とのご指摘を受けることもあります。

・「再稼働反対、原発ゼロ」そう声高に叫ぶことこそ「その場しのぎの人気取り」に過ぎません。「節電」など政策とは言えません。

・それぞれの分野がどうすれば持続可能性を維持できるかを考慮した政策が、今の日本には必要なのであって、そのためにも政治の安定は不可欠なのです。

<有権者と触れ合い、声を聞く>

・もうひとつ党改革の指針として、「永田町、霞が関から出て、広く国民の声に耳を傾ける自民党になる」ということが挙げられます。

・若い頃から地元の農家の方々と身近に接してきたという自負のある私が、いわゆるTPPに大声で反対しなかったことから波紋が広がりました。

・「米価は農家の給料だ。米価を上げろ!」そう農協が要求し、3日3晩、4日4晩、徹夜で会議を重ねていたわけです。

 当時、農協が要求したのは、「とにかく米価を上げろ!」、加えて「外国のコメは一粒たりとも入れるな!」「食管制度は守り抜け!」「減反を拡大するな!」ということでした。

<かつて「ハマコー」代議士が一喝したこと>

・実は、政治家は当時この3つを口にすれば、それだけで農協の応援がもらえた、と言っても過言ではありませんでした。

・「農家の皆さんのために」と言いながら、結局は自分のためだけに調子のいいことを言っていただけではないか。

・昨年、“政界の暴れん坊”と評された「ハマコー」こと浜田幸一先生が逝去されましたが、浜田先生について忘れることのできない思い出があります。

 いわゆる「米価闘争」の会議が深夜3時に及び、会議室に残っている議員はわずか数名という状況になった時、突然、浜田先生が立ち上がり、こう大声で叫ばれました。

「おい、そこにいる新聞記者、特に日本農業新聞。今ここに残っている議員の名前を明日の紙面に書け。この時間に残っているヤツだけが本物なんだ。テレビカメラが入っている時だけ出席するようなヤツは偽物だ」

 浜田先生もまた毀誉褒貶の激しい政治家でありましたが、本音で正論を語る熱意の持ち主だったと思っています。

 私は結局、当選回数を重ねながら農林関係のポストを度々拝命しました。

・結果には必ず原因がある。もし今までの農政が正しければこんな結果にはなっていないはずです。

 結局、スローガンだけを唱え、自己保身しか考えていないような農政が、現在のような厳しい状況を生み出してしまったわけです。

 私自身がその責任を痛切に感じているのです。

・だからこそTPPの話が浮上した時、私はもう綺麗事を並べるのは絶対にやめようと思ったのです。

<大事なのは「自給率」ではなく「自給力」>

・本当に大事なのは「自給率」ではなく「自給力」なのです。具体的に言えば農地、農家の後継者、そして水などの農業生産基盤(インフラ)。この3つが私の言う「自給力」です。これに農業技術を加えてもいいでしょう。「自給率」など、いくらでもいじれる「見せかけの数字」にすぎません。それを政策目標に掲げるのは大きな間違いです。

・1993年の「ウルグアイ・ラウンド」(貿易自由化交渉)で日本は失敗しています。

・何より農政の抜本的な改革が先です。TPP交渉に参加するからには、改革なくして日本に有利な条件を勝ち取れません。

・過去の失敗を直視し、そこから教訓を学び、日本にとって、農家を含む日本人にとっての利益を最大限追及していくのが、新しい自民党の姿であるべきです。

<国民が求める理想のリーダー像とは?>

<野田前総理の苦悩>

・鳩山総理、菅総理と比べ、野田総理ははるかにまっとうでした。

 私は党を超えて、野田総理にシンパシーを感じていました。実は多くの点で野田総理とは共通点が多いからです。

・しかし、そもそも「なんのために結成された政党なのか」を広く示すための「党綱領」すらない民主党は、おそらく「自民党からの政権交代」それ自体が目的であったのではないか、と私は思うのです。

だからこそ、その目的を達成した途端、所属議員はまったく統率が取れなくなってしまった。

<小沢一郎代表との出会いと別れ>

・かく言う私にも、かつて政治改革法案に賛成の立場から自民党を離党して無所属となり、その翌年に小沢氏が立ち上げた「新政党」そして「新進党」に参加した時期がありました。

20年前の話とはいえ、小沢氏の本質が見抜けなかった不明を恥じるほかありません。正直、当時は、税制改革と選挙改革と憲法改正を唱える小沢氏こそ自民党が失いつつある真の保守政治を体現する政治家だと思ったのです。

そうした政局の中、自民党代議士の当選2回の同期生のうち約3分の2が自民党を離れました。

・そして結局、新井将敬代議士のように50歳の若さで自ら命を絶つことになった同志もありました。議席を失ったまま逝去したり、引退を余儀なくされたり、今も議席を回復すべく必死で戦っている同志もいます。

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