その男はおれは天狗だといった。鼻は別段高いという程でも無かったが、顔は赤くまた大きかった。(2)
<地球への帰還>
<5千人を収容できる円盤型巨大母船>
・私達はパブリックホールで休憩をとった。ここもたくさんの星人と人種でいっぱいだった。空いたテーブルを見つけて陣取ると、私を残してクレオパと他のプレアデス人達は飲物をとりに行った。周囲には明らかに地球人と思われる顔が見かけられた。アジア系、ヨーロッパ系、アフリカ系、ロシア系、アメリカ系、ラテン系など、さまざまな人種の顔が異星人に混じって談笑していて、中には明らかに日本人と思われる者もいた。この星へ来るときの葉巻型母船でもそうだったが、自分以外にも日本人は来ているのかもしれないと私は思った。やがて、クレオパ達が飲物を手に戻って来た。クレオパはグラスを私に差し出し、隣に座った。
「剛史、どうぞこれを飲んでください。さっき、剛史が思ったことはその通りなのですよ」
「えっ、何のことですか」
「この母船には地球人は剛史だけではないということです。そしてまた、地球人と同じ系の種は、他の星にもたくさんあるということです。したがって、モンゴロイド系も他の星にたくさん存在しているのです。たしか、今回はもう一人M・M氏が乗っていると思います」
・地球人類の科学では光がもっとも速く、それ以上の物はないという認識ですが、プレアデスの基本的科学では『光よりも速く進み、光よりも速く飛ぶ科学技術』が常識です。私達はそれをすべて自然から学びました。この世のこと、あの世のこと、すべての問題、それに対する答えも自然の中に隠されているのです」
・私は自走機に乗り、艦内を走り回った。この円盤型巨大母船は直径約2.5キロメートル、中心のいちばん高いところで、最高6百~8百メートルくらいの高さがあり、母船全体の階は何十層にもなっている。各部屋の天井の高さは3メートルくらいで、ここでも壁全体が発光していた。円盤の中心には、とても太い円柱が上から下まで通っている。それが自然エネルギーを吸収し、有用なエネルギーや必要な物質に変える装置であり、母船の心臓部であるらしい。その中心から十字形に巨大通路があり、30~50メートルおきに、輪状に約10メートル幅の通路が通っているので、艦内が自在に回れるのである。部屋と設備は、ほとんど葉巻型母船と同じだったが、人工農場、人工養殖池、公園、山岳はとくに注目に値するものであった。
<クリーエネルギーの星と核戦争で滅んだ星>
・クレオパが「これからSRX星を少し覗いてみましょう」と言って、母船の運動を緩めると、ある星の上で停止させた。「この星は爬虫類から知的生命体に進化した星です」との説明だった。クレオパが母船に指示を与えると、画面に映っていた星がどんどん拡大し、やがて地上の都市らしきものが見えはじめた。お椀を伏せたような建物が点在し、そこから人間らしき生命体が出入りしているのが映しだされてきた。ある一組のカップルに焦点が合わされると、顔や姿がはっきり見えた。二人は向き合って話し合っている様子なのだが、奇妙なことにおたがいに舌を出し合い、ペロペロと舐め合っていた。肌には鱗状のものが見えた。
・SRX星人は母系家族で、一夫一婦制ではありません。子供が4年でひとり立ちすると父親である男性は去り、母親はまた新しい男性を捜すのです。そして、おたがいに愛が芽生えれば、母親はまた子作りをします。その点、とても進歩した社会体系を確立しているようです。男性も女性も、おたがいにひとりの人間に縛られないというのは、とても素晴らしいことだと思います。
・クレオパが母船を自動操舵に切り替えると、ふたたび母船は宇宙ジャンプをしながら進んでいった。SRX星人の舐め合う赤紫の舌が、なぜか私の目に強烈な印象として残った。しばらくしてクレオパが「核戦争によって生物が滅亡したキロSX星を、参考のために見ておきましょう」と、母船をある星の上に停止させた。画面で星を拡大していくと、都市の残骸が少し見えたが、あたりはほとんどが荒涼たる砂漠と化していて、生物の姿は見あたらなかった。星全体がガスのようなもので覆われている。その不気味な静寂に、いいしれぬ悲しさが感じられた。
「この星は核戦争によって、全都市が破壊されました。そして、戦争を起こした種族だけでなく、その他の全生命も滅亡してしまったのです。今は強力な核の放射能によって覆われているので、とても危険で近づけません。もはや生態系はこわれ、生命の住めない、死んだ星になってしまったのです」
『宇宙太子との遭遇』 上平剛史作品集
上平剛史 たま出版 2009/12
<宇宙太子(エンバー)との遭遇>
<御家倉山(おやくらやま)での出遭い>
・宇宙船は私のほぼ真上までくると滞空した。やがて、グリーンの光の帯が降りてきたかと思うと、その光に乗って、『ひとりの人間のような者』が、地上へ降りてきた。そして私と30メートルほどはなれて降りたった。髪は美しい栗色で、肩のあたりまであり、きれいにカールされていた。目は青く澄み、美しく整った顔は、神々しさをたたえて、ニッコリと微笑んでいる。黄金色の柔らかな絹のジャンプスーツのようなものを着ており、腰にはベルトのようなものが巻かれていた。私には、天使か神様かが地上に降り立ったかのように思えた。私が驚いたまま、じっとその存在を見つめていると、相手は静かに口を開いた。日本語だった。「やあ、剛史君、初めまして。いつか、のろさんが話したことのある宇宙太子というのが私です。よろしく。今日、ここへ君を来させたのは、私が呼んだのですよ」
<「昔から御家倉山(おやくらやま)には天狗が出ると言われていたから、それは天狗だべ」>
<未来>
・ちなみに、我々、プレアデス星人は6次元から7次元のレベルにあります。あなた方から我々の科学を見ると、進歩の度合が高すぎて神がかっているように思われるようですが、この宇宙には我々にも分からないことがまだたくさんあるのですよ。ていねいに調査しても、まだ宇宙のほんの一部分しかわかっていないのです。さあ時間がないから先を急ぎましょう。次は東京です。
・前と同じように、画面に日本地図が現れ、宇宙船の現在地が示され、赤い点がするするっと東京の位置まで伸びてとまった。また、一瞬思考が止まったような感覚と、かすかになにかをくぐり抜けたような体感があった。わずか数分のことである。赤かった印がきれいなピンク色に変わると、やがて正面の画面に東京の街並みが映し出された。
・しかし、それは今までのビル群とは明らかにちがっていた。全体がガラスかプラスチックのような透明な建物で、ピラミッド型や丸いものが多かった。レールも、煙を吐きながら走る汽車もなかった。車も従来の車輪がついたものではなく、浮きながら滑るように走っていた。窓へ駆け寄って下を見ると、やはり、それは画面に映っている光景だった。皇居と思われる画面が映し出された。が、そこに皇居はなく、人々の憩いの公園となっており、だれもが自由に出入りしていた。
・私は、びっくりして、「まさか、未来の・・・・」とつぶやいた。
「剛史、よく気がついたね。そう、これが日本の未来です。日本という国はなくなり、世界連邦のひとつの州になっているのです。世界連邦においては、もはやお金は必要なくなったのです。地球人類も少しは進歩したようですね」
『北の大地に宇宙太子が降りてきた』
上平剛史 たま出版 2004/6
・著者は、昭和16年生まれ、岩手県浪打村(浪打峠に「末の松山」のある所で有名)出身。
<大いなるもの>
・目には見えない極微極小の世界から、波動によって織りなされて、物質は発現してきているのである。すなわち、「この世」に「大いなるもの」によって、発現されたものは、全て感性を持っているのであり、「大いなるもの」は、波動によって段階的に次元をつくりながら息吹によって気を起こし、自分を発現していったのである。
<貨幣経済の廃止>
・国は、歳入不足に陥ると、すぐに国債を発行して、帳尻を合わせる。国民からの借金で、目先をしのぐのである。その国債には利払いが発生し、その利払いが大変な額になって毎年のしかかり、利払いのためにも赤字国債を発行しなければならなくなる。そのため、赤字国債は雪だるま式に巨大な額となり、ついには元金の返済は不可能という事態に陥る。その地点を「ポイント・オブ・ノーリターン」という。
・日本はすでに、ポイント・オブ・ノーリターンを超えてしまった。超えてはならない線を越えてしまったのである。
・ポイント・オブ・ノーリターンを超えているのに、日本は自衛隊をイラクに派遣し、赤字国債乱発で得たお金をそれに使う。
・国内には経済問題による生活困窮者が激増しその結果、借金苦や事業の行き詰まりから自殺する人達が増加したのである。
・日本は国家予算の使い方を抜本的に考え直さなければならない。従来の予算の使い方を隅から隅まで洗いなおして、何が無駄に使われて、何が有効的だったかを、はっきりさせなければならない。
<宇宙連合>
<宇宙太子からのメッセージ>
・地球人類よりもはるかに進化した星人により組織されている宇宙連合の仲間(オリオン人、シリウス人、アンドロメダ人、リラ人、カシオペア人、牡牛座人、ヘルクレス人、レチクル人、リゲル人・・・・)に加わってください。
・人類が宇宙連合に到達したならば、宇宙考古学により、地球人類のルーツが、明らかになるでしょう。そして、宇宙に飛び出すことに力を集中してください。私も宇宙連合もいまかいまかと人類を待っているのです。
・人類の英知を科学の進歩、医学の進歩、文化の進歩に総結集したならば、人類は星間宇宙旅行のできるスペースマンにまで進化し、地球人類よりもはるかに進化した異星人たちによる宇宙連合の仲間入りを果たすことができる。
・進んだ星人(宇宙人)は、すでに宇宙と生命の原理を解明していて、神の領域にまで到達し、星から星へ瞬時に宇宙のどこへでも意のままに行けるシステムを開発している。その驚くべきシステムは新しいエネルギーの発見と、その利用の仕方に負うものであり、地球人類は、新エネルギーの発見と利用については、あまりにも遅れすぎているのである。
<「あの世」と「この世」>
・「大いなるもの」は、波動によってさまざまな次元をつくりながら、この大宇宙を創造し発現させている。
「この世」の裏側には「あの世」があり、「あの世」の裏側には「この世」がある。その認識は正しいのだが、「この世」と「あの世」は、異なった次元に同時に存在しているともいえる。
その「この世」と「あの世」も「大いなるもの」が波動によって発現させたものである。
「あの世」が普通の人間に見えないのは、その次元を普通の人間の感覚器官がレシーブできないからである。波動の違いによって見えないだけなのである。
・進化した星人、宇宙人においては、貨幣経済というものはなく「誰もが平等に平和に暮らせる社会」は、人類が誕生する以前から確立されていた。その後に誕生した地球人類は進化した星人に追いつけないばかりか、いまだに自然を破壊しながら、戦争ばかりを繰り返している。
<そんな感傷の日々を送っていたある日、突然、私に宇宙太子が降りられ、私に「宇宙の法」を授けられたのである>
( 2018/12/12)
『山の怪奇 百物語』
山村民俗の会 編 河出書房新社 2017/5/26
<上州奥多野山地の妖怪 時枝務>
<奥多野への誘い>
・奥多野という言葉が使われるようになったのはそう古いことではない。ふつう、群馬県多野郡上野村・中里村・万場町の総称として使われているが、だいたい多野郡になったのは明治29年のことで、それまでは南甘楽郡に属しており、山中とか山中谷などと呼ばれていた。
<天狗の怪異>
・住居附の山中には天狗の杉がある。天狗がその木の枝に腰かけて憩うところから、その名がついたという。ある時、その木を伐ろうとした者があったが、幹に傷をつけたとたん、気がふれてしまった。楢原では「沢の窓木、峰の三本木」といって、窓木と三本木は伐ってはいけないと伝える。窓木というのは幹のまん中にぽっかりと穴があいたようになった木のことで、やはり天狗のものと考えられている。三本木というのは根本から三本に分かれて生えている木で、これも山の神や天狗のものとされている。山には伐ってはいけない木がいくつもあるが、そういう木はふつうの木とどこか違っていて、外見ではこれは伐ってはいけないということがわかるという。
・楢原の中正寺の裏山では夜中に太鼓の音が聞こえることがある。小春の猟師が聞いた時には、はじめは軽くたたき、やがて「ピイトロ、ピイトロ」と笛の音が混じり、最後に耳をつんざく大きな音になったという。
・浜平では、秋になると天狗のお能がよくある。大きな太鼓の音に、「ピイトロ、ピイトロ」と笛の音がして、にぎやかな囃子がどこからともなく聞こえてくる。とりわけ山仕事をする者はよく聞くことがある。音のする方へ歩いていくと、だんだん音が遠のいていって、いくら行っても天狗の姿は見えない。なんとも気持ちの悪いものだという。
・楢原から南牧へぬける塩の沢峠にも天狗がよく出る。昔、峠をこえる途中、急に大風が吹いてきて、木が倒れる音が山中に響きわたり、危険で歩けないので道に伏せた者がいた。しばらくじっとしていたが、突然誰かが背中をふむではないか。一瞬驚いたが、よく見れば知己の者で、後からきて追いこすところだった。「おい、どうした」と声をかけられた時には、つい先ほどまでしていた音は何もなかったようにおさまり、二人は無事に山を下ったという。この現象は天狗の仕業であるといわれるが、誰も天狗の姿を見た者はなく、いつも音だけがするという。
・楢原では、山仕事に出た男が夜になっても帰ってこないので、翌日に村の者が山に探しに入った。なかなか見つからなかったが、ついに崖の下の岩の上にぽつんと座っている姿を発見し、「どうして、こんなとこに来たんだい」と聞いてもまったく覚えていなかったという。これは天狗に連れ去られたのにちがいないというので噂になった。天狗は時としてとんでもないいたずらをするのである。
・乙父のキヨジは強者の猟師だった。ある時、山に泊まって用をたしていると、向かいの山から「キヨジのマラはでっけえな」と大声でいうのが聞こえてきた。すかさず、キヨジが「うぬが口ほうばるか」といい返すと、木の枝がふってきた。そこで、諏訪の神文を唱えて鉄砲を打ったら、山が動くほどの大声で笑ったという。これは山の神のしわざだろうか、それとも天狗の怪異であろうか。
<山姥と山男>
・鍋割山の官林には山姥が棲んでいる。昔、楢沢の隠居が、鍋割山の岩穴で、木の葉の着物に身を包んだ山姥に出会った。「なぜ、こんなところに来たんだ。二度と来るんじゃねえ。これをやるから、人に見せちゃならねえ。見せなけりゃ、一生困らせねぇ」といって、蜂の巣みたいな形の盃をくれた。隠居は盃を大事にしまっておいたが、3年目になにげなしに人に見せたところ、大嵐が突然襲い、隠居家が全壊してしまった。隠居のじいさまは座敷に坐ったまま、ばあさまは台所で、材木の下敷きになって潰されて死んだ。
・神ヶ原には山姥の足洗い淵がある。昔、叶山に山姥が住んでいて、三津川の権現様の秋まつりの日である九月二十七日になると、かならず山から下りてきた。その時、山姥が足を洗ったのが足洗い淵である。淵とは名ばかりで、神流川の河原にある大石の中央のくぼみに水がたまっているに過ぎないので、石たらいという人もある。眼病の人はこの水で目を洗えば治るという。また、日照りの時には、この水を汲み出せば雨が降るというので、片瀬や宮地の男衆が水を汲み出したものだった。ところで、その山姥は酒が大好きで、ヤマサンドックリ(山の下に三と書いてあるトックリ)をもって、「酒くれ」といってもらっていった。そのトックリには酒があまりにも多く入るので、ある時、まつりを一日早く済ませ、山姥に酒をやらないようにした。いつもどおり山姥がきて「酒くれ」というので、「おまつりはきのう済んじゃったよ」というと、山姥は残念そうに、「このムラは貧乏する」といって帰った。それ以来、山姥は来なくなったが、代わりに村の作物はろくなものができなくなってしまったという。
・鍋割山には山男も棲んでいる。住居附の人が山男に出会ったとき、盃をもらったが、人には決して見せるなと言われた。ずっとたってから人に見せたら、熊蜂の巣に似ていたというが、それで祟りがあったかどうかはわからない。山男は笠丸山にもいる。この山の中腹には洞窟があって、中からガヤガヤと話し声が聞こえてくる。のぞいてみると、山男が一人いるだけで、誰も話しなどしていなかったそうだ。
<大入道その他>
・奥多野には大入道も棲んでいる。乙父沢の猟師が親子で猟に出て、鍋割山の岩穴に一泊したとき、大入道に出会った。大入道は、ツルツル頭に大きな目が一つの姿なので、一つまなことも呼ぶ。
・浜平の杣(そま)は、子供の頃、浜平の奥の北沢から下ってきたところで、大入道にばったりと出会った。あたりがうす暗くなった時刻だったという。「ギャア、ギャア」という音とともに、黒衣をまとった大入道が出現したが、その胸には毛が一面に生えていて、片手でその毛をなで上げていたという。
奥名郷では、子どもが夜泣くと、「ヤマンボ」が来るといって泣く子をいましめる。ヤマンボは大男で、悪い子を高い岩の上へ連れていって、谷底へ放り投げるという。実際、権現岳の岩棚の上に子どもが連れ去られ、置き去りにされたことがあった。その時は、幸い見つかったので、縄でずり上げて助けた。
・奥名郷の男が、野栗沢で一杯やっての帰り道に、赤い着物を着た娘が一人で夜道を歩いているのに出会った。あまりに後姿がかわいいので、なんとか追いつこうとしたが、いくら走っても追いつけず、しまいにふいと消えてしまった。ムジナに化かされたのだろうという。
<山と妖怪>
・奥多野の妖怪はほとんど山にいる。天狗も山姥も、みな山を棲み家としていて、時折そこへ侵入してくる者に姿を見せるのである。浜平の上流の山は、かつて身の丈八尺もある老夫婦がいたと伝えられているが、山の奥深くには、この世とは異なった世界があると考えられていたらしい。
魚尾の山中には古い猫が集まって盆踊りをしたところがあって、そこを舞台と呼んでいるが、そういう不思議が山のなかには少なくなかったのである。山へ一歩踏み込めば、どんな怪異に遭遇するやもしれないという不安は、それが具体的であればあるほど、すんなり受け入れられたのである。
・山は、人の心を普段とは違った状態にすることがある。奥名郷の木挽きの妻が、幼な子を連れて川へ米をとぎに出たまま行方知らずになり、そのまま16日間見つからなかった。その間、すぐそばまで知人が探しに来たが、耳もとで黙っていろという者があったので、6回も応答しなかったという。耳もとでささやいたのは山の神だというが、それにしても16日間もじっとしていたというのは、やはり尋常ではない。彼女は16日間も山の中にいて、幻聴を体験したのである。天狗の怪異の場合、太古や笛の音が聞こえるわけで、これも幻聴である。しかも、ひとりだけではなく、居合わせた者のみが同時に聞くことが多いというのであるから、なんとも不思議な話である。
・妖怪は人を驚かすのみでなく、山人に時として幸福をもたらす。しかし、それが裏返しになると恐ろしい災いを与えることになる。鍋割山の山姥は、一生困らせないといって盃をくれるが、それを人に見せてはならないという。ところが、盃をもらったじいさまは、山姥の言葉を忘れて、つい人に見せてしまう。すると、大嵐で家を倒され、じいさまもばあさまも死んでしまう。もし、盃を人に見せなければ、おそらく幸福な一生が約束されたにちがいない。妖怪の力は、山村の人たちにとって幸・不幸のいずれの要因ともなりうるものだったのである。
<奥武蔵越生地方の妖怪ばなし 新井良輔>
・越生は秩父盆地を取巻く山脈の外側、関東平野に面した、通称外秩父にある小さな町である。最近でこそ東京への通勤圏となり、ベッドタウン化しつつあるが、まだ自然が残り、越生梅林、黒山三滝、越生七福神と埼玉県でも指折りの観光地になっている。
<さまよえる稲荷の狐>
・明治40年、内務省は神社統合令を出し、耕地の稲荷も、他の4社の稲荷とともに八幡神社に合祀されて越生神社となり、稲荷の森も競売され田圃となってしまった。ところが、この耕地の中にある一軒家、吉野氏宅では、毎晩、家の近くを何かが走り廻り、騒がしくて恐ろしがっていた。
ある夜、吉野氏が眠っていると、枕元に一匹の狐が現われて、「私は耕地の稲荷に住む狐だが、稲荷の森がなくなって住む所がなく、毎晩お騒がせしているが、どうか私の住む処を作って下さい」と涙をこぼしたという。
親切な吉野さんは、早速庭先に祠を造り、お稲荷様を祀ってやった。すると、その夜からは今までの騒ぎもおさまり、吉野家にも平穏が続いたそうである。
<狐の嫁入り>
・私が小学校3年生の頃、祖母が、「今夜は狐の嫁入りだ」といって、私を裏へ連れて行った。山武の里の上の方に、たくさんの灯がちらちら動いているが、恐ろしさは全くなかった。
<狐に化かされた曾祖父>
・私の曾祖父、藤太郎は、越生連合戸長(今の村長)を務めた人であるが、毎月28日には川越の不動様へお参りに行く信心家でもあった。
川越へは5里、その日も番頭に提灯を持たせて暗いうちに家を出て、如意から箕和田へかかったところ、どうしても見覚えのある所へ出ない。これは道に迷ったかな、それにしても通いなれた道でしかも番頭と二人連れ、ことによると狐に化かされたのかも知れないと、山道に腰を下ろし、火打石を出して一服つけて見た。昔から「狐には切り火が一番良い」といわれていたからである。
すると急に夜が明け始めて、山の中をさまよっていた自分を見出した。どうやら、如意と箕和田の境の山中をぐるぐる廻っていたらしい。
<お稲荷様のお寿司>
・太平洋戦争も敗色濃くなり、越生・毛呂山の山の中に、地下工場を造ることになって、たくさんの飯場が出来た。食糧難で土地の者さえ満足に食べられなかった時代、重労働をする飯場の労務者はいつも空っ腹をかかえて、「ほしがりません勝つまでは」と頑張っていた。
入浴もままならない飯場で、ある夜、若い労務者が急に裸になり、「いい湯だ、いい湯だ」と表を歩き廻り夜を明かしてしまったことがあった。
朝になって仲間が、どうしたのだ、と問い詰めると、夜中のことは何も覚えていない。ただ夕方、近くの稲荷様を見たら、いなり寿司が上っていたので、それを食べてしまった、という。
苦しい労働の上に、入浴、食事もままならぬ労務者への、お稲荷様の粋な計らいであったのか、あるいは狐に化かされたのか、確かなところは分からない。
<愛宕山の狐(火の玉と提灯行列)>
・西戸と箕和田の境にある愛宕山には、昔から悪い狐が住み、時々、山頂の大松にたくさんの提灯をつけたり、夜道で大声を上げたりして恐ろしがられていた。その昔、私の曾祖父が、箕和田境にはたしかに狐がいると語っていたことが思い出される。
如意の堤さんの父親は、その日、川角へゆき、暗くなってから、大類越出で越辺川を渡り、土手に上ろうとすると、下流の方から大きな火の玉が飛んで来た。これは大変と、身を伏せたところ、火の玉は「ゴーッ」と音を立てて頭の上を通り過ぎたそうである。「あれは愛宕山の狐の仕業に違いない」と、やっとの思いで逃げ帰ったという。
・ある夜、沢田の人が家の裏へ出てみると、愛宕山あたりの中腹に変な灯りが見え、それがだんだん近づいて来る。やがて灯は提灯の列となり、十個ほどが横に並んで動いて行った。恐らくこれも、愛宕山の狐の仕業であろうといわれている。
<夜振りの怪>
・ふと下流の越辺川橋の方へ眼をやると、はるか遠くの空に怪しい光が見える。なおも見つめていると、それが次第に近くなり、光は14、5にも増えて横になったり、縦になったりしている。びっくりして、川から逃れようと何とか土手にはい上った。近くに瓦屋の作業場があり、まだ職人が仕事をしているらしく灯りが点っていたので、一目散に駆け込んで助けを求めた。振り返って見ると、灯りの列は西戸あたりに見え、一瞬にして消えてしまったということである。
これも噂に聞く愛宕山の狐のいたずららしい。時は昭和9年の夏、空に星1つない曇った夜であったそうな。
<画になった狸>
・津久根の中喜屋さんは働き者で、その日も魚や乾物を荷車に乗せて、麦原へ商いに出かけた。秋の祭の前とて、商いも上々、鼻唄まじりで黄昏の麦原川沿いに下って来ると、小杉との境の百貫淵という淵の岩に、誰か腰を掛けている。「今頃誰だろう」と、よく見ると大狸であった。驚いた中喜屋さんは一目散に逃げ帰ったが、この慌てた姿があまりにおかしかったので、村中の話題になってしまった。それを近くに住む泥人という襖絵画きが筆をとり面白おかしく画にして、中喜屋へ持って行ったが、中喜屋さんは怒るどころか、喜んでそれを大切に保存した。
<狸が遊びに来た油屋>
・毛呂山町の小川喜内先生のおばあさんは、嘉永岩年生まれ、実家の市場村(毛呂山町)の山崎家は、農業の傍ら油搾りを副業としたため、今でも油屋の屋号で通っている。
この作業場の一角に大きな囲炉裏が残っている。昔、この作業場で夜業をしていると、「油屋さん今晩は、油屋さん今晩は」
と声がするので障子を開けると、一匹の大狸が入って来て囲炉裏の向こう側に廻り、大あぐらをかいて暖をとってゆく。別に悪さをするわけでもなく、毎晩のように狸は油屋へ遊びに来て、夜業が終わり片づけ始めると、静かに帰って行ったそうである。
<上村華蝶と狸>
・毛呂山の著名人、上村華蝶はよく、「俺は霞を喰って生きているのだ」と言っていたが、気の向くままに絵を画き、襖や屏風に仕立てて生活していた、まさに仙人のような人であった。
・ある夜、華蝶夫妻は山の下の本家へお風呂をもらいに行ったが、往復1時間もかかる山の上のこと、戦後でも電気は引けず、ランプを消して下りたのに、近づいて見ると家から灯りがもれて、話し声も聞こえる。そっと提灯を消して入口に立つと、一瞬灯りは消えてしまった。家に入り、灯をともして見廻したが、出かける前と何ら変わった様子はない。
こんなことが幾度かあり、時には庭先や坂の途中で「華蝶さん!」と名前を呼ばれることもあったそうだ。しかし、さすがは仙人暮らしの華蝶さん、どうせいたずら狸の仕業であろうと、笑って一度も化かされたことはなかったそうである。
<越辺の平四郎>
・越辺川には「オッペの平四郎」という河童が住み、時々子供を川へ引きずり込んだという。この河童は町裏の通称「島野の裏」とよぶ淵に住んでいて、島野家の残飯を食べていた。島野家の当主は、島野伊右衛門といって、特産の越生絹の大問屋で、代々庄屋を務めた豪商であった。
お盆になると、川施餓鬼といって、水難で死んだ人や無縁仏を供養するために、川へ胡瓜や茄子が流された。河童は胡瓜が大好物で、平四郎は大喜び、残飯にあきると、この胡瓜を食べに出た。ところが、お盆に子供が川にゆくと、平四郎は、これもお施餓鬼の供養と間違えて、子供を川に引きずり込んで尻へ藳筒(わらづつ)を差し込み、はらわたを食べるのだそうだ。このためお盆中に私達子供が川の方へ行くと、祖母は顔色を変えて連れ戻しに来たものである。
時代が変わって現代でも、越生小学校では水難防止のため、越辺川の淵や沼には、この平四郎の顔を画いた立札を立てて、注意を呼びかけている。
<八幡淵の河童生捕り作戦>
・八幡淵は毛呂山町川角裏で、武蔵野台地に突き当たり、大きく湾曲する場所である。
・八幡淵には昔から河童が住んでいると伝えられた。明治9年7月16日、ここへ泳ぎに行った12歳の女の子が溺死するという事件が起こった。その年は異常渇水で、淵の水も非常に少なくなっていたので、これこそ河童の仕業と村中へ告れを出して、各自手桶を持って集まり、淵の水を掻い出し、河童を生捕りにしようとはかった。
大勢の人が協力して、淵の水を汲み出したので、さすがの八幡淵も、夕方には底を見せて来たが、ついに河童の姿を見ることは出来なかった。
昔から伊草(川島町)には袈裟坊という河童の親分がおり、この辺りの河童達は、人間のはらわたを抜いておみやげに持ってゆくのが習いであった。盆の十六日(当時は旧暦)のことではあるし、すでに女の子のはらわたをおみやげに、伊草へ出かけてしまって留守だったのであろう。この八幡淵も川の流れが変わり、今ではすっかり当時の面影はない。
毛呂山町では、この上流、沢田の清三淵にも河童が住んでおり、岡へ上って甲羅を干しているのを見たなどとまことしやかに話し、子供は決して一人で川へ遊びに行ってはならない、といわれていた。
<菊屋の小豆洗い>
・大関堀は、越辺川の越生本堰から越生耕地への用水路で、越生の町裏金を流れている。この用水が県道(今は旧道)を横切る所に、料亭菊屋があり、隣には越生座という芝居小屋もあった。
この堀に毎晩「小豆洗いの婆さん」が出るというので、夜になって子供が表へ出ると、「小豆洗いにさらわれる」と叱られた。
<オーサキの話>
・奥武蔵の山村を歩くと、必ず「オーサキ」の話が出る。オーサキは猫より小さく、鼠より大きくて、毛並はブチで足に水かきがある、といわれる小動物で、何故か多産系で、親の後をゾロゾロついてゆく、と表現される。
単に想像するとまことに可愛いい架空の動物だが、御飯のお鉢のへりや、茶碗をたたくとオーサキが来ると厭がられ、人の目に触れることは少ない。しかし、オーサキに取り付かれたものは高熱を出し、うわ言をいうそうだ。また、オーサキ家という家はすべて、その土地の金満家であるのも面白い。オーサキが住み込むと、「くわえ込みオーサキ」と言って、外から財産を運び込み、そこの家の身体をどんどん増やすのだそうである。逆に、いくら金持ちでも、道楽ばかりして身を持ち崩すと、「くわえ出しオーサキ」となって、どんどんそこの身代をくわえ出し、他のオーサキ家へ宿替えをしてゆくという。
・オーサキはなかなかの忠義もので、住みついた家から出て行ったものは、金銭でも、物品でも取り戻しにゆくという。だから、オーサキ家から物を頂いたときは、必ずそれ相応のお返しをする。子供にも物をねだらせない。もしおねだりして、何かもらってくると、それを取り戻そうと、忠義心を出したオーサキに取り付かれるのである。
<オーサキの封じ込め>
・オーサキ家は大尽であるから、村人は旦那様と尊敬される人が多い。しかし、ことが縁談になると家系を嫌われてまとまらない。このため、何とかオーサキを封じ込めようとして、ある家は庭の池の小島に小祠を造り、これに祀りこみ、一方では桐の小箱に入れて神棚へ納まってもらうことにする。
・一般に、オーサキは狐といわれているが、奥武蔵では必ずしも狐とは断定していない。ただ、オーサキに取り付かれたとき、王子の稲荷様の幣束でお払いしたら正気に戻ったなど、狐付きと混同した面も多い。思うにオーサキ家とは、労せずして大金を手に入れた家を指したものではなかろうか。
0コメント