人並みに勉強していれば、人並みに落ちる試験。それが司法試験だ。なるほど、そういうことなのかな。人並み以上に勉強しなければいけないということなんだね。(1)
(2025/2/2)
『小説 司法試験』
合格にたどりついた日々
霧山昴 花伝社 2018/4/30
<受験生活スタート>
<学生村 1970年8月上旬>
・仁田君の誘いに乗って、ぼくは長野の学生村に籠って司法試験の勉強をはじめることにした。仁田君は東大法学部の同級生で、駒場時代にはぼくと同じセツルメント活動をしていた。
・朝夕は涼しいけれど昼間はさすがに暑い。クーラーはないので、窓を全開にして勉強する。机を並べる仁田君は公務員試験を受けるので、その関係の問題集や参考書を持ち込んでいる。
<1970年8月下旬>
・9月に法学部の定期試験を受ける予定なので、授業で何が教えられていたのか知る必要がある。そのとき便利なのが東大出版会教材部が発行している講義ノートだ。あとで活字になったが、ずっと誰かの手書きだ。
<定期試験 1970年8月末>
・9月に入ったらすぐ、大学の定期試験がはじまる。基本的には司法試験の受験科目にしぼるつもりだけど、卒業に必要な取得単位の関係で行政法や国際法も受けることにした。
・ぼくは、駒場時代はセツルメント活動に専念していて、法律学の授業はほとんど受けていない。
・6月から東大闘争がはじまり、まともに授業はない状況が続いた。本郷に遅れて進学してからも、しばらくはセツルメント活動を続けて川崎に下宿していたので、きちんと授業を受けていない。
<1970年9月上旬>
・9月2日から11日まで、法学部の定期試験を受ける。
・それはともかくとして、講義ノートだけを頼りに受けた定期試験の結果は悲惨だった。残念ながら、これがぼくの現在の実力だ。民法1部、可。民法2部、可。刑法2部、良。民事訴訟法、良。刑事訴訟法1部、良。行政1部、良。行政2部、良。労働法、良。国際法、良。
ああ、まったく、なんたることだろう。優は望むべくもない。しかし、肝心要の民法が二つとも可しかとれなかったというのは、今のぼくの実力を正確に反映しているとは言え、深刻な事態だ。要するには、法律学の基礎をぼくはまったく理解していないということだ。いったい、どうしたらよいのか……。
<集中合宿 1970年10月上旬>
・10月1日から4日まで、日本アルプスにある東大の谷川寮に籠って集中合宿をすることになった。司法試験の受験を目ざす学生が5人から6人集まって勉強するのが東大方式だ。中央大学のような研究室に入って勉強するというシステムは東大にはない。
・メンバーは男性4人、女性1人の合計5人。
・中央大学の伝統ある司法試験研究会の一つである真法(しんぽう)会の向江璋悦(むかえしょうえつ)会長は、勉強会では、基本書を声を出して読み合うのも有効だという。目と耳から入ってくる情報は頭にしっかり入ってくるからだ。
・ところで、ぼくは司法試験を受験すると決めたときに留年することも決めた。東大の授業料は年に1万2000円だ。それで親に頼んで留年を許してもらった。ところが中央大学とか早稲田大学のような私学だと月謝(学費)が高くて、学生は国立大学のぼくらのように気楽に留年することなど考えられもしない。留年して学生であることの利点は限りなく大きい。学生なので学割は使えるし、大学の授業は好きなだけ受けられ、生協をふくめて学内の施設利用も当然できる。何より無職・無頼の徒と世間から見られない安心感がある。
・合宿のあと、女子大生は勉強会に来なくなった。紹介者だった木元君も就職組に転じたので、せっかく司法試験に合格したばかりの高濱氏をチューターとして確保したものの、ぼくらの勉強会は存続が危ぶまれるようになった。
<東大法学部の伝統 1970年10月7日(水)>
・太田氏が「東大法学部の栄光と汚辱の伝統」という分厚いレポートをもとに報告した。ぼくはレポートをめくりながら太田氏の話に耳を傾けた。高級官僚そして政治家を輩出し、国家権力を支えてきた。それが帝大以来の東大法学部だ。いわば権力の中枢と直結した存在と言える。だから、東大法学部の教授には、いわゆる左翼とか人権派は皆無だ。そんな学生は、いくら優秀でも教授の引きで助手になって法学部に残ることはありえない。しかし同時に、革新の伝統も戦前の新人会以来、脈々と続いている。東大闘争も、その両者の流れのせめぎ合いという側面があったことを無視するわけにはいかない。そして、今、現に民主的な法曹を目指す学生が大量に存在している。この指摘は、司法試験に試練を経て法曹の一員になろうとしているぼくにとって大変心強いものだった。
<法学部の授業に出席>
<秋期の授業 1970年10月12日(月)>
・朝8時半から法文1号館25番教室での鴻(おおとり)常夫の商法2部の授業を受ける。
・ぼくは朝7時に起床して下宿でパンと紅茶の朝食をとって25番教室に駆け込んだ。
<1970年10月14日(水)>
・25番教室にぼくが入っていくと、最前列にはいつも同じ顔触れの学生たちが座っているのに気がついた。顔見知りの安田君もいる。安田君たちはどうやら暗黙のうちに席を固定して確保しているようだ。もちろん席は自由なんだけれど、いつのまにかなんとなく固定席のようになっていく。ぼくにしたって、たいてい真ん中より後ろの席に座っている。最前列は成績優秀組の指定席になっていると、教室から出るときに一緒になった司法試験受験生仲間の大池君がぼくに教えてくれた。道理で安田君が1番前の列にいるわけだ。
<我妻栄「民法講義」 1970年10月16日(金)>
・今日は授業を受けない。司法試験で社会政策を選択し、その授業があるけれど、それはアンチョコ本ですますつもりだ。それよりなにより、民法だ。ぼくは民法については我妻栄の『民法講義』を全巻通読するつもりでいる。民法を制する者は法律学を制す。というか、民法を身につけないことには法律学を学んだとは言えない。そして、民法の根幹を説いているのが我妻栄なのだから、ともかく我妻の『民法講義』を読み解くしかない。
今日から、まず『債権総論』を読む。
<1970年10月17日(土)>
・朝8時半から31番教室の平井の民法2部の授業に危うく遅刻しそうになった。下宿から教室まで歩いて5分しかかからないのに、近い人ほど遅刻するという言葉のとおりだ。息せき切って教室にすべりこむ。
<1970年10月23日(金)>
・朝から下宿で我妻『民法講義』を読んでがんばる。お昼に「メトロ」で食事をしたあと、向かいの書籍コーナーで「受験新報」を買い求める。この「受験新報」が月刊で1冊250円。安くはないけれど、司法試験に関して最新の活字情報を入手できるし、先輩の合格体験記を読んで奮起できるので、いわば価値ある250円だ。
真法会の向江会長は司法試験は残酷な試験だと断言する。というのも、以前は合格率が10%台だったのに、昭和28年度から4%に下がり、このところ3%台になっている。昭和44年は2.7%だった。向江会長は、せめて10%の合格率に戻すべきだと主張している。受験生のぼくも、まったく同感だ。司法試験を受験する人は昭和44年に1万8000人超えたのに、最終合格者は501人だった。今年(昭和45年度)は2万人の受験者に対し合格者が500人だとすると、合格率は2.5%にしかならない。ちなみに、ぼくが受験した昭和46年度の受験者は2万3000人で合格者は500人と変わらなかったので、2.2%だった。せめて1000人の合格者を認めるべきだとぼくは思う。それでも5%にもならない。あまりにも合格率が低すぎる。
向江会長は、司法試験は忍耐力を試す試験でもあるという。
<1970年10月25日(日)>
・今日も、一日、我妻民法だ、お昼に「受験新報」バックナンバーを読む。いろいろ参考になる。法律を好きにならないと、どうしようもないということは、たしかにある。そして、勉強していると、ときに気分が乗らないことがある。
・1日1科目、ずっと本を読む。それに飽きるだなんて、とんでもないこと。司法試験の勉強では1万頁の本を読まないといけないんだ。読み飽きただなんて、そんな贅沢を言って、どうするのか……。1年半のあいだ、1日10時間ずつ勉強したら、必ず合格できる。学生だったら大学の講義をきちんと受けて、それに自分の勉強をプラスしたら大丈夫だ。基本書を読むペースは、1時間に20頁、速くても25頁。30頁を読めと言われても、とても読めるものではない。
・人並みに勉強していれば、人並みに落ちる試験。それが司法試験だ。なるほど、そういうことなのかな。人並み以上に勉強しなければいけないということなんだね。さあ、我妻民法を再開しよう。
<1970年10月26日(月)>
・朝8時半から鴻の商法2部の授業を受ける。商法とか会社法というのは、世の中の仕組みをまったく知らないぼくにとって、イメージの掴めない世界だ。
・ぼくはまだ裁判所に行ったことがない。ぼくの生まれ育った町に裁判所があるなど考えたこともない。法廷は映画やテレビで見ただけなので、さっぱりイメージの湧かない話だけど、ともかく必死にノートを取る。民事訴訟法はいちばん面白くない科目だとよく言われる。手続法なので、学生にとってなじみが少ないし、また思考方法の訓練ができていないからだ。これに対して刑事訴訟法のほうは、同じ裁判手続法であっても、憲法の規定と直結している部分が多いので理解しやすい。
<1970年10月27日(火)>
・夕方、下宿で「受験新報」を読みながら、真法会の答練に参加するかどうか検討してみた。参加すると、毎週日曜日、朝9時半から短答式の試験を受ける。そのあと、論文式の試験が2時間ある。短答式試験に合格した人だけ、論文式試験の答案を採点してもらえる。そして、出題者が講評する。真法会の答練に参加していた人の合格体験記によると、常に刺激を受け、精神的な緊張感を保持できる、「負けてなるものか」というファイトを燃やすメリットがあったという。しかし、まったく基礎のないぼくには、参加しても意味がないと判断した。
<1970年10月28日(水)>
・下宿に戻ると親から現金書留が届いていた。3万円が入っている。これで1ヶ月暮らしていかなくてはいけない。もうアルバイトをしている暇はない。食費は1日350円までにおさえる。そのため家計表をつけることにした。小さなメモ帳のようなものに、出金額を書く。これだけで、無用な出費を抑えることができるから、人間の心理って本当に不思議だ。ただ、勉強に必要な本を買わないわけには行かない。1冊1500円から2000円を超えるものがあるので、痛い。今日は、2冊で4000円を超えてしまった。食事代は、朝60円、昼110円、夜140円なので、3食で310円。昼と夜は法文2号館の地階にある東大生協の食堂「メトロ」を利用する。
<1970年10月30日(金)>
・今日は授業がない日なので、下宿で我妻民法を読む。
今日の夕食は「メトロ」の試食会ということで、カツライスをタダで食べることができた、ぼくはラッキーと心の中で叫んだ。ラッキーついでに大学構内の公衆電話から元セツラーの彼女の自宅に電話をかけてみた。彼女は地方公務員として教育行政の職場で働いている。
<1970年10月31日(土)>
・下宿代は7000円。それに電気代160円を付加して支払う。ここは賄い付きの下宿ではない。風呂もない。要するに6畳一間の間借り人だ。二階にも何人か間借り人がいるようだけど、用もないので2階にあがったこともない。下宿内で出会うこともほとんどない。みんな部屋で静かに勉強しているのだろう。
<1970年11月1日(日)>
・下宿に戻る前に、録音テープを電池と一緒に買った。勉強するのに録音して繰り返し聞くという方法があるという。どうだろうか、いちど試してみよう。
<1970年11月2日(月)>
・勉強していると、廊下から声をかけられた。下宿の老婦人が静かに微笑みながら現金書留を手渡してくれた。誰からだろう……。故郷の長姉が陣中見舞いとして5000円を送ってきてくれたのだった。アルバイトをしていないから、こんな臨時収入があると心強い。
お腹が空いてきた。早目に夕食をとろう。再び本郷構内に入り、「メトロ」でサンマもの塩焼き定食をいただく。帰りに予備食料として145円でインスタント食品を購入する。夜食にソバを食べたいときがある。本日の出費は495円。1日350円という制限をこえているが、今日は臨時収入もあったことだし、これくらいはお目こぼしとしよう。
・ぼくは、ともかく、毎日コンスタントに勉強を続けること、規則正しい生活を送ることを必死で守っている。そして、それを確実にやりきるため、きちんと記録している。毎日の勉強時間と達成状況を正確に記録する。我妻博士の本には読了した日の日付を書き込む。記録をときどき見て、というか、毎日記録するのだから、怠けていると、それが一日で分かる。
<1970年11月3日(火)>
・夕食に、定食屋でメンチカツを食べて、すぐに下宿に戻る。夜も遅くなって、ようやく『債権総論』を読み終えることができた。580頁の本を9日間で読んだから、1日に平均60頁を読んだことになる。本当に難しい。考え尽くされている本だった。900円もする分厚い本だけど、さすがにそれだけの価値が十分にある本だ。
<1970年11月4日(水)>
・お昼は「メトロ」で140円のカツカレー。ちょっとだけ贅沢した気分だ。食べるのが最大の楽しみなんだから、これくらいは大目に見てもらおう。
・夕食は、再び「メトロ」で160円のサバの味噌煮定食。これで本日の食費は朝食を含めて360円だ。すぐに戻って我妻民法を再開。そして早めに下宿を抜け出し、遠くないところにある銭湯まで、ぶらぶらと歩く。番台のおばさんに38円を支払って中に入ると、早い時間のせいか、幸いにも混んでいない。湯舟に首まで浸って手足を伸ばし、「ああ、極楽、極楽」と、おまじないを心の中で唱える。洗い場で石鹸を頭につけて、ごしごし洗うと頭の中の汚れまで洗い落とした気分で、すっきりする。
<1970年11月5日(木)>
・お昼に軽く煮込みうどんを食べ、昨日の電話で待ち合わせ場所とした東大赤門へ向かう。小春日和というか、暖かい。待たされるのを覚悟していると、時間より前に仲田さんはワンピース姿で現れた。赤門そばの喫茶店へ入る。仲田さんはセツルメントでは子ども会パートに属していた。専門は英文科だという。学者になるかどうかは別として、もう少し専門的に勉強したいと考えて大学院を目指している。専門の異なる女性と気兼ねなく話せて、ぼくの心は軽くなっていった。
<1970年11月7日(土)>
・朝8時半からの31番教室での平井の民法2部の授業に遅刻しそうになった。午前8時半から午前10時20分まで、時間どおりびっちり講義するので、ぼくも必死に一言も聞きもらさないように努めている、遅刻なんて、もってのほかだ。
・ぼくが頼りにしている「受験新報」は、基本書を決めて、それを徹底的に読み尽くすことを強調している。基本書とは何か。真法会の向江会長は、初めから終わりまで書いてある本のことだという。基本書は必ず1科目に1冊。何冊も基本書としてはいけない。1冊の基本書のほかは参考書だ。刑事の起訴状1本主義にならって言うと、基本書1本主義でいく。あれこれ目移りしてはいけない。基本書を1冊にしばり、これを10回読む。
・基本書を最低でも5回から10回は読んだあと、必要な参考書を選んで関連するところを読む。
・司法試験では、基本書を理解しておけば必ず解答できる問題が出る。それ以上のレベルは要求されていない。なーるほどね、ぼくは、この指摘を肝に銘じようと思った。我妻栄『民法講義』は、この意味では決して基本書ではない。ぼくにとって民法の基本書は、あくまで「ダットサン」だ。
・「ダットサン」というのは我妻栄と有泉亨の小型の本(一粒社)だ。
<1970年11月8日(日)>
・朝は、きのう買っておいた即席うどんを台所でお湯を沸かして食べる。生卵も買っておけばよかった。下宿には冷蔵庫がないので、そこまで考えつかなかった。月見うどんにしたほうが豪勢な朝食になる。今度から、そうしよう。
・午後になる前から、セツルメント診療所の行事に参加しないかと声をかけられていたので、川崎へ出かける。多摩川の河原でのお祭りだ。風が吹くと寒さを感じる。昼食の代わりに、おでんと焼きそばを立ち喰いした。セツルメント診療所の武内事務長や穴山さんほかの職員に、ぼくが来たことをアピールしたあと、ぼくは中座して下宿に戻った。なんといっても、ぼくは受験生なので、お祭りにうつつを抜かしているわけにはいかない。この交通費90円を含めて、本日の出費は315円。まあまあ、安くあげることができた。
<1970年11月9日(月)>
・今朝は起きるのが辛いほどに冷え込んでいた。いつものように朝8時半から25番教室で鴻の商法2部、手形法・小切手法の授業を受ける。
・昼は「メトロ」でスパゲティ・ナポリタンを食べる。そのあと書籍コーナーに足を踏み入れ、『判例演習・債権各論』など演習ものを4冊も買った。あわせて2000円支払う。本代をケチるわけにはいかない。本代まで倹約してしまうと本末転倒、ぼくがいったい全体、何のために今こんな苦労をしているのか、意味不明になってしまう。
・「受験新報」を立ち読みしていると、サブノートを作ることの是非が話題になっている。サブノートは、何回も利用するものでなくては意味がない。サブノートを作っただけで安心してはいけないのだ。サブノートを作る前に基本書を1冊をよく読む。3回も4回も読んで、重要なところに赤線と青線のアンダーラインを引いて浮き立たせる。そして、欄外に抜き書きを書き込む。そんなことをしたうえで、ある程度は知識がまとまった段階で作成するのがサブノートだ。サブノートを作ること自体を自己目的化してはいけない。サブノートは、どこまで理解したかを示す一里塚にすぎない。となると、ぼくにはサブノートは必要ないことになるよね。基本書に書き込んだり、メモを貼りつけたりして、基本書それ自体を自家薬籠中のものにしたほうがよさそうだな………。
<1970年11月10日(火)>
・朝8時半からの平井の民法2部の授業はプライバシーと人格権を扱った。重要なテーマで、司法試験にもよく出題されている。
そのあと、川崎へ向かった。セツルメント診療所で「健康友の会」ニュースづくりの手伝いだ。
・紙面の割付が終わって、ぼくが帰ろうとすると、診療所の若い男性職員である穴山さんが声をかけてくれた。昼食をおごってくれるという。待っていました。穴山さんは、医師を除いて女性ばかりの職場で黒一点として、いつもまめめしく働いている。ときには辛いこともあるだろうに、穴山さんが愚痴をこぼすのを見たことがない。患者さんにも愛想がよくて、みんなから親しまれている。見習いたい、人生の先輩だ。今日はカツ丼をおごってもらい、バスに乗って引きあげた。
<1970年11月12日(木)>
・お昼は「メトロ」で月見うどん一杯50円ですます。なんとなく食欲がなかった。そのあと、書籍コーナーで例によって「受験新報」を立ち読みする。真法会の向江会長は六法全書を3冊つぶせという。まさか3冊を解体してバラバラにせよということじゃないだろう。ではなくて、バラバラになるくらい六法を絶えず参照し大切に読むこと、赤鉛筆で横に棒線を引っぱりながら読めということだろう。たしかに、ぼくの使っている岩波書店「基本六法」は手垢がかなり付いて黒ずんでいる。法律学の勉強は、基本書、判例、条文の三つを徹底的にマスターすること。これに尽きる。条文を暗記したり、暗誦するまでの努力は必要ない。そうではなくて、一つの条文を体系のなかで捉える。その前後の条文との関連において理解すべきものだ。だから無闇に条文を暗記するだけでは意味がない。なるほど、なるほど、たしかにそうだろう。
<大教室の最前列席 1970年11月16日(月)>
・今日からまた1週間がはじまる。朝8時半からの鴻の商法2部は25番教室だ。最前列は安田君たち成績優秀組の指定席として完全に固定席化している。彼ら同士で連帯していて、新規参入を許さない。カバンか何かを机の上に置いて先占者(せんせんしゃ)ありという表示がされている。これがまさしく明認方法というやつだな。まあ、ぼくなんか最前列に割り込んで座る必要はまったくない。真ん中から後ろあたりの席に座って、ノートを取ればよい。ただし、ノートは必死に取る。続いて午前10時半からの新堂の民事訴訟法2部を聴く。授業中に取ったノートは、下宿に戻ってなるべくその日のうちに清書する。
・昨日、朝と昼の食事を抜いたのは良くなかった。やはり食事をちゃんと摂らないと力が出ない。まだ本番まであと何ヶ月もあるのに、途中でへたばってしまってはどうしようもない。
・下宿に戻り、法律書読みを再開する。不動産質とか権利質とか、理解するのに骨が折れる。午後3時過ぎ、お茶を飲んだあと、気分転換を兼ねて洗濯することにした。下宿にある洗濯機を使い、洗い終わったら部屋のなかの板張りの廊下に吊り下げておく。念のため、下に古新聞を広げる。
・夕食をとりに「メトロ」へ行くと、先輩の太田氏がいて、元気よく声をかけてきた。沖縄で革新が勝利したのだ。戦後はじめて沖縄から国会議員が選挙で選ばれた。
<1970年11月25日(水)>
・授業が終わると、下宿に戻って、必死で取ったノートを見直し、清書する。講義ノートとして東大出版会教材部に売り込むつもりだ。勉強仲間だった木元君からけしかけられ、ぼくもそのつもりになっている。
・早目に夕食をとろう。「メトロ」に行くと、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入し、演説したあと割腹自殺したという話でもちきりだった。切腹したところを首をはねたというから、昔の切腹作法のとおりやったわけだ。信じられない。三島は自衛隊員に向かって憲法改正を訴えたようだが、これまた時代錯誤。狂っているとしか思えない。
<1970年11月26日(木)>
・午前中は藤木の刑法と新堂の民事訴訟法の授業に出る。
・午後からは川崎に呼ばれている。セツルメント診療所は、ぼくが受験生だと知っていても猫の手も借りたいほど忙しいのだろう。そででもぼくは受験生なんだから、どこかで線を引かないといけない。いつまでもズルズル、ダラダラはよろしくない。
・穴山さんに時間がないことをぼくは正直に話した。穴山さんは「うん、分かった」と言ってくれた。交通費はかかったけれど、夕食代が浮いた分、支出は少なくてすんだ。本日の出費は450円。
<1970年11月27日(金)>
・朝から我妻「民法総則」に取りかかるが、なかなか難しい。出るべき授業はないので、午前中はずっと下宿で勉強する。つもりだったが、あまりの難しさに頭が拒絶反応を起こしたのか、眠気に襲われた。ついに負けて、布団をひっぱり出して横になった。
・司法試験本番に向けた実践的な演習本だろう。同じ演習シリーズがずらりと並んでいるが1冊615円もするので、一度にはとても買えない。少しずつ買い足していこう。
下宿に戻って演習本の設例を解いてみる。我妻民法を精読して、少しは分かっていたつもりになっていたのに、まったく歯が立たない。どうやって論じていけばいいか分からない。これは困ったぞ。なんだか気落ちしてしまった。ブルーな気分で夕食をとりに「メトロ」へ向かう。焼き肉定食で精をつけて、がんばろう。本日の出費は演習本を含めて993円也。
夜、再び演習本で四苦八苦する。
<1970年12月2日(水)>
・部屋代7000円、水道代80円、そして電気代426円。冬は、暖房のために部屋で電気ヒーターを使っているから電気代がどうしてもかさむ。
・夕食に再び「メトロ」へ行き、野菜炒めの定食をいただく。飛行機がパイロットのストライキ突入で飛んでいないという。会社側のボーナス回答50万円を不満だとしてストライキに入った。要求は100万円というから、信じられないほど豪勢なものだ。世の中には別世界があるんだね……。
<1970年12月14日(月)>
・駅の改札口で駒場寮で一緒だった安田君と出会った。安田君は国家公務員上級職試験と司法試験の二つを受験する。どちらも合格するだろう。それも上位の成績で……。
<1970年12月15日(火)>
・「受験新報」に合格体験記の読み方が書かれている。短期合格したい人は短期合格者の合格体験記をあまり参考にすべきではない。短期合格するには、むしろ合格まで時間のかかった人の合格体験記を参考にすべき。なぜなら長くかかって合格した人は合格した年に、勉強法について必ず転機を迎えている。その転機こそが参考となる。どんな勉強法が誤りで、どんな勉強法が正しいのかが分かる。これに対して、短期の合格者の合格体験記には独り善がりのものが少なくない。挫折なく合格したのだから、自分のやった勉強法こそが正しいと誤解しやすい。なるほどね、この指摘は心しよう。ぼくはそう思った。
自分は受からなければならない。受かるんだ。そういう思いが大切。
・2年後、3年後に合格しようなんて思っていたら、5年たっても6年たっても受からない。そんな先送り精神で安易に勉強していても合格できるような試験ではない。今年、絶対に合格するんだ。合格するぞと何度も自分に言い聞かせ、自己暗示をかける。こうやってピンチを切り抜ける。物事は積極的に前向きに考える。そうすれば道は開ける。人間の能力は無意識の力に左右されるところが大いにある。
・何だろうか、廊下に出ると、現金書留が届いた。誰からかな。会社員をしている長兄が送ってくれた。5000円も入っている。うれしい臨時収入だ。ボーナスが入ったのかな、それともぼくの誕生日プレゼントなのだろうか。手紙にはしっかり勉強して目的達成するよう励ましの言葉があった。
<1970年12月22日(火)>
・夕食をすませて「メトロ」から階段をあがって銀杏並木に出たところで太田氏に出会った。太田氏は本人こそ司法試験の受験生でないものの、身近に合格者や弁護士の知り合いが何人もいるらしく、ときどき司法試験に向けたアドバイスをしてくれる、ありがたい先輩でもある。
・「憲法・民法・刑法の3科目を勉強するときには、時間を4等分にして、民法に半分の時間をかけ、憲法と刑法に4分の1ずつ時間を割りあてたらいいよ」
・「短答式試験は法律的な勘を試すものなので、どうやって法律的な勘を養うかが問題となるんだよ。それで、勘を養うのに一番いいのは、たくさんの過去問にあたっておくことだね」
・「最後の口述式試験では若い人ほど試験官に好まれるようなので、きみだったら学生服を着て口頭試験を受けるんだね。まあ、あんまり若さを強調しすぎて馴れ馴れしい口調で臨むと反感もたれることもあるらしいから、その点は気をつけてね、まあ、きみは大丈夫と思うけど……」
太田氏のアドバイスは具体的で、ぼくも十分納得できるものだった。
<1970年12月23日(水)>
・「メトロ」で昼食をとりながら昨日の夕刊を読む。交通事故に死者が年間1万6000人を超えたという。大変な状況だ。弁護士になったら交通事故も扱うことになるのだろう。典型的な不法行為として損害賠償を請求するわけだ。
<スランプ 1971年3月2日(火)>
・「夢をもって勉強しよう。卑屈な人生に終わらせまい」。腕立て伏せは55回で止めた。きつい。早く寝よう。布団に入って、こんな夢を見たらいいなと考えた。司法試験に合格したら、フランスへ行こう。フランスへ行って自然を見よう、眺めよう。地方自治体の民主化の実情をつかんでこよう。しばし、夢を描いた。つかのまの頭休めだ。やがて意識が遠のいた。
<口述式試験 商法 1971年9月21日(火)>
・控室に入ると、なかは意外に広い。顔見知りの東大生の安田君がいる。軽く手をあげて笑顔をかわす。ぼくは現役の学生だというのを強く印象づけたほうが有利になるという先輩の高濱氏のアドバイスを受けて久しぶりに学生服を着ている。安田君のほうは地味なブレザーだ。安田君は学生服なんか着なくても、見かけだけで十分若い。
・安田君が近寄ってきて、小さな声で話しかけてきた。「口述で沈黙はキンなんだってよ、知ってた?」
「えっ、キン?」ぼくが「沈黙は金なり」ということかな、でも……、と頭を傾げると、安田君は「うん。ゴールドの金じゃなくて禁止の禁だよ」
「ああ、なるほどね」ぼくは納得した。
「受験生が黙り込んでしまったら、試験委員も救いの手を差しのべようがないんだって。それで、何かをしゃべっていると、試験委員のほうで適当に導いてくれるらしい」
疑り深くなっているぼくは、訊き返した。「でも、泥舟なんて、ないのかなあ」。安田君は、にっこり笑った。
「泥舟って、案外、ないらしい。そんな意地悪をする試験委員なんて、いないんだってさ」
そうか、そうなのか。ぼくは少し安心した。何より安田君と少し会話したことで、口の運動にもなった。試験委員の前に出たとき、急に失語症になったように言葉が何も出なくなったらどうしようかと心配していた。まあ、なんとか大丈夫のようだ。
<最終合格 1971年10月1日(金)>
・果報は寝て待てだ。寮の朝食は抜いて、午前中は布団をかぶって寝ていた。お昼は本郷構内に入って、いつもの「メトロ」で140円の定食を食べる。今日はミックスフライで小さな有頭エビも入っている。満腹になると、何もする気が起こらないので寮に戻り、敷きっぱなしの布団にもぐる。発表は夕方だ。まだ時間はたっぷりある。
・法務省を目ざして歩くうちに胸が重苦しくなる。吐き気ではない。鉛を吞み込んだ気分というやつだ。腕時計を見る。午後6時35分。もう発表はあったはず。ぼくは万一のときに備えて一人で来た。誰とも顔を合わせたくはない。地上に出ると、人の流れがある。そのゆっくりした流れにしたがって法務省の中庭に入っていく。
・自分の番号は、もちろん覚えている。探しはじめるとすぐに、ぼくのナンバーの下の番号が目に入った。その名前もある。さあ、ぼくの名前はあるのか、あってほしい……。祈る気持ちで視線を上にずらす。すると、見馴れた漢字がぼくの視神経を刺激して光った。あっ……、あった。ぼくは心の中で叫んだ。ぼくの名前は黄色い裸電灯に照らされ、あたかも当然だと言わんばかりに、そこにあった。
・予期していたように、そこには合格した喜びが沸々と沸きあがるということはなかった。喜びに包まれるというより、むしろ悲しみに似た、なにか救われない気持ちがぼくの全身を支配した。
・いや、待てよ、本当に自分の名前があったのか、あるのか、もう一度、確認しよう。まさか、目の錯覚なんかじゃないだろうな。雨は止んだようで、もう降っていない。黒い傘をきちんと畳み、二回だけ軽く握って雨のしずくを落とし、掲示板の前へ、もう一度進み出た。
・地下鉄の駅に向かう途中で公衆電話のボックスを見つける。幸い、誰も使っていない。合格したことを誰に知らせるか。彼女か、いや、やっぱり親だ。最大のスポンサーに真っ先に知らせるべきは子として当然だろう。受話器をあげて10円硬貨を何枚も投入した。「どうだったの」と訊かれる前に「受かったよ」と、ぼくは短く伝えた。親は、「良かったね。良かった、良かった」と、声がはずんでいた。その声を聞いて、ぼくは初めて合格した喜びを感じた。
・受験生仲間のうち、無事に合格した大池君と安田君の三人で本郷三丁目の近くの寿司屋に入る。合格したとたんに饒舌になる人もいるけれど、今度は三人とも、疲れたよね、こんな苦しみを来年も繰り返さないですんでほっとしたね、そんな気分だった。本当だ。肩の荷がおりて、すっきりした気分だった。ぼくと同じ下宿にいた牛山君は駄目だったらしい。大池君が小声でつぶやいた。一人前450円の寿司なんて日頃は食べたこともない最高の贅沢だけど、今夜は特別だ。でも、なんだか食べ足りないね。寿司屋を出て、もう一軒、赤提灯に行くことにした。そこで飲んで食べて、割り勘で600円を払った。みんな酔っ払ってしまうこともなく、お開きとした。ぼくは寮に帰る途中、まだお腹に入りそうだったので、ラーメン屋に入り、100円ラーメンを食べた。ようやく身も心も満ち足りた。寮の入り口の手前に白く光るものを見つけた。50円硬貨だ。おっ、これはいいや、助かるな。9月の支出は、外に出ないで寮に籠って勉強三昧だったから、寮費と食事だけなので、その支出合計は2万5000円だった。やっぱり寮はいいよね。
・「とうとう司法試験から解放された」。書き出しの言葉は、これ以外に考えられない。ほっとしたというのが何よりの実感だ。我ながら異常と思えるほど全身を受験勉強に没入させたため、感覚的にもおかしくなっている。
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