日銀は、消費者物価上昇率2%を目標として異次元金融緩和を開始したが、実現できなかった。それは、日銀が行った政策に、物価を上昇させる効果が元々なかったからだ。(7)

<――政治状況はどんどん悪くなるようにも見えますが、何か突破口はあるのでしょうか。>

井上:社会情勢がより深刻になって、そこから再び立ち上がることを待つしかないのかもしれません。世論調査レベルで見れば、国民の大半は政権交代があったほうがいいと答えています。

・若い世代の間では、政治の世界のウエイトが相対的に小さくなっていて、それ以外の世界が広がっているようなところがあります。政治的にはそれぞれ立場の違いがあるにせよ、たとえばLGBTの人たちの理解や「男女平等なんて当たり前」という意識、ハンディキャップのある人たちへの温かい眼差しなど、古い考えの高齢者世代が見習うべき素養を自然と身に付けているように見えます。

 

<矛盾を抱えたまま「終わらない」戦後>

井上:表面的に見れば北朝鮮がミサイル実験をするとか、台湾有事が起こるのではないかといった戦争の予兆みたいなものが迫っています。その中で敵基地攻撃能力を備えるという話になれば、戦争を身近なこととして感じるようになるのも当然の成り行きでしょう。

<戦前とて軍事政策一辺倒ではなかった>

・事件の直後には、国民の間で安倍元首相に対する哀悼の気持ちが高まって、お葬式では献花に訪れた人々が沿道に長い行列を作ったりしました。ところがほどなくして旧統一教会との政治的な癒着や犯人の動機などが大きく報じられるようになり、一部のリベラルな人は口を滑らせて「悲しいとは思わなかった」などと発言するようになったのです。

 もちろん、心から安倍元首相を悼んでいる国民もたくさんいるでしょう。しかし、事件が起きなければ、旧統一教会被害者救済法もできなかったのもまた事実です。

<小泉・竹中「新自由主義」の“罪と罰”   亀井静香>

・「貧しくなった日本」の実感が、国民の間に広がり始めている。

・日本が相対的に「貧しく」なった原因は、この20年間というもの、賃金がほとんど上昇しなかったことにある。

<――近年、日本人の賃金が上昇しない問題についての議論が盛んです。>

亀井:簡単だよ。企業が内部留保している。財務省の発表では今、企業の内部留保が516兆円もあると言うんだな。本来なら、貯める前に従業員の給与を上げるべきだろう。それをしないで企業が貯め込んでいるわけだ。

<――内部留保の問題は企業経営者の責任もありますか。>

亀井:もちろんあるが、経営者だけの責任じゃない。たとえば、今の日本には組合が存在しない。あってもすべて御用組合だ。労働組合の幹部というのは、今や貴族なんだよ。経営者に大事にされる一方でストライキもやらねえんだから。

<小泉改革と新自由主義がもたらした功罪>

亀井:小泉がやった郵政民営化があったろう。あれは「日本を日本でなくす」政治だった。日本の文化、生活、伝統を壊して米国製の弱肉強食、市場主義が社会の隅々までまかり通るようにする政策だった。その結果、地方が切り捨てられ、都市中心の社会ができた。

 小泉・竹中の新自由主義は確かに流行ったよ。

<「郵政解散」でホリエモンと対峙した日>

<株価は上がっても国民は幸せになっていない>

亀井:金融緩和そのものは評価できる。しかし、それで何が起きたか。株価はたしかに上がったかもしれないが、賃金は上がっていない。アベノミクスで株価が上がったと言ったって、庶民は株なんか持っていないよ。誰が持ってんだ、そんなもん。

 結局、アベノミクスで日本の実体経済が強くなったかといえば、そんなことはない。誰に聞いてもそう答えるんじゃないか。

・地方創生と言われて久しいけれども、田舎の疲弊は変わっていない。子どもも少ないうえ、次男、三男だけではなく長男まで都会に出ていってしまう。

 地元・広島の田舎に行くと何があるか。空き家だよ。家はあるけど人が住んでいない。過疎化はこれからも進むだろう。都会の人は、それでも仕方がないと言うだろうが、これは大きな問題なんだな。

世界が食料を奪い合う時代がこれから必ずやってくる。そんな時、日本の面倒を誰が見てくれるのか。カロリーベースで見た日本の食料自給率は今、30%台だ(2020年度の数値で37.17%)。さらに自給率を下げていったら、日本人はそのうち飢え死にするかもしれない。急に田んぼを作るなんてことはできないんだからな。

・そのことについては心を痛めている。俺としては、米国に追従するだけの外交から抜け出し、不平等な日米地位協定を改めてほしかったという思いはある。

 本人も悔しかったろう。自分自身が恨まれ、自分の政治が批判されていたのではないわけだ。恨まれていた宗教団体と関係があるという理由で撃たれてしまった。ひどい世の中になった。

・晋三は、父・晋太郎さんの秘書時代からの付き合いでよく知っている。

・晋三にとって、俺は厄介なオッサンであったかもしれない。ただその後、彼は父も果たせなかった「天下獲り」に成功した。それも、本人の人徳があってのことだろう。

<「原点」を失った自民党の政治家たち>

亀井:警察庁にいた1971年秋、警備局の極左担当となり、成田空港闘争や、あの有名な「あさま山荘事件」の捜査も担当した。心ある若者たちが、どうして凄惨な事件を引き起こすに至ったのかを考えたとき、やはり政治の道で勝負してみたいと思い至るようになった。だから警察庁を辞めて選挙に出た。無茶な挑戦だったと思うけれども、今もその気持ちは変わらない。

<――今の自民党に対して、最後に一言お願いします。>

亀井:安倍晋三が撃たれ、亡くなった。このことの意味を真剣に考えてほしいと思っている。物騒なことを言うようだけれども、これから日本はテロの時代に入るかもしれない。

<特別寄稿  自民党ラジカル化計画――一党優位をコミューン国家へ  浅羽通明>

・今の自民党はなぜ絶望的状況にあるのか? それはこの30年余、自民党が、「あるべき政党の理想像に近づくべし」と、柄でもなく頑張ったからに決まっています。

<1993年、あの時歴史が動いた……はずだった>

・何よりも1993年の細川護熙内閣成立まで、40年近く、政権交代がまったくなかった。旧ソ連や中華人民共和国、ナチスのような一党独裁制でもないのに、公正な自由選挙がずっと行われてきたのに、選挙のたびに自民党が第一党となってとにかく揺るがないのです。

・また、現代で殊に切迫した政治的要求があるわけでもない国民有権者が選挙への関心を高めないのも無理ないでしょう。大衆とはもとよりそんなものです。みんないろいろと忙しいのですから。

<二党制の神話――メディアも教科書も半世紀遅れている>

・議会制民主主義において、二大政党制、政権担当能力のある2つの有力政党が政権交代を繰り返すシステムが最善であるという考え方。

・考えてみれば、二大政党制は、アメリカとイギリス以外、さっぱり普及しない。豪州、ニュージーランド、カナダなど、イギリスの分家で一時期までみられた程度。

・また、小選挙区制にすれば二大政党が実現する、というのもきわめて疑わしい。

・二大政党制は目指すべき理想とは言いがたい。小選挙区制がそちらへ至る一歩でもないようだ――。

・ちなみに、当時は知る由もなかったでしょうが、現代のヒトラーとも称されるあのプーチン政権を生んだロシア共和国は、小選挙区制です。

<世界に冠たる「一党優位性」(疑似政権交代も附いて>

・そして、各派閥によってより癒着する利益集団や官庁も異なるがゆえに(安倍元首相の清和政策研究会は経産省寄り、岸田首相の宏池会は財務省寄りといわれます)、この擬似的政権交代は、その優先順位をも変えます。その限りで、癒着の固定化もある程度、浄化できなくもない。

<自民党をダメにした細川改革、もしくは教科書的知性>

・現在も、自民党は一党優位を揺るがせもしない。支持率を低下させている岸田内閣以上に支持率から見離された各野党が一党優位を覆すことはまず無理でしょう。

<全野党、全国民が自民党総裁を選ぶ時代へ>

・造反の教唆、自民党員のひきはがし、自民党分裂の促進。いわば、野党が、自民党の党外反主流派閥となってゆくわけです。

 2017年秋、社会学者・公文俊平が、「立憲民主党が政権を獲りたいなら、野党合同の模索よりも、自民党と合流し宏池会あたりと連携か合併をした一派閥になったほうが近道だ」という趣旨のツイートをしていました。同年11月2日付「毎日新聞」では、亀井静香が辻本清美に、立憲民主党は自民党議員を首相指名して与党分裂を謀れと煽動しています。同じようなことを考える知性はいるのですね。

・そして、これにはまだ先があるのです。各党は自党の推す自民党総裁候補を、国民からの推薦投票で決めたらどうか。

 これが実行されれば実質的な首相公選が実現し得るでしょう。そのあかつきにはさらなる先、すなわち政党制、さらには議会制間接民主制からの脱却すら展望できるのではないか。

(2022/12/24)

『永田町動物園』

日本をダメにした101人

亀井静香 講談社 2021/11/20

・政治家の裏と表、すべて書く! 俺が出会ってきた無数の政治家たちを振り返れば、権力と野望をたぎらせた一種の「動物」というべき人々の顔が浮かんでくる。そんな猛獣たちが暮らす場所が、永田町なのだ。

<亀井静香  政治家には、光と影がある>

・俺は島根との県境近く、広島の山奥の集落で生まれた。獣道を歩き、峠を越えて、今はもうなくなってしまった山彦学校に通っていた。峠途中の地蔵さんのところで弁当を食ったら、学校には行かず、よく回れ右をして家に帰ったりしたものだ。

 敗戦まで没落士族の家系であった父は、村で最も狭い田んぼで百姓をしながら村の助役を務めていた。子どもに分け与える土地がないために、教育を身につけさせようと、俺たちきょうだい4人を90㎞離れた広島市の学校に送り出した。

 修道高校1年の時、学校を批判するビラを撒いたため、俺は退学になった。東大に進んでいた兄と姉を頼って上京したものの、日比谷高校、九段高校などの転入試験を全て不合格。諦めかけていたとき、大泉高校の両角英運校長先生に出会い、温情で編入できた。

 その後、運良く東大に入学し、駒場寮に入った。在学中は合気道とアルバイトに明け暮れ、授業には一切出なかったが、落第することはなかった。

・東大を卒業して、大阪の別府化学工業(現・住友精化)に入社した。大事にしてもらったが1年で退職し、警察庁に入った。あさま山荘事件をはじめ、多くの極左事件を担当するうち、政治を変えなければならないとの思いが募って政治家になる決心をした。最初は全くの泡沫候補で、広島政界はもちろん、地元からもマスコミからも無視された。しかし、手弁当で支えてくれた竹馬の友や、少数だが心を寄せてくださった方々もいた。その必死の応援で初出馬初当選から選挙は13期連続で当選させていただいた。

・だが書きながら、はたして俺たちは日本をよくすることができているのだろうか、むしろダメにしてしまったのではないか、と省みることも多かった。

<令和を生きる14人>

<安倍晋三   気弱な青年・晋三を怒鳴りつけた日>

・俺は安倍晋三を弟のように可愛がってきた。総理大臣時代には、立場上、「総理」と呼んではいたが、俺にとっては今でも父親(安倍晋太郎)の秘書官だった「三下奴」の晋三のままだ。

・昔、こんなことがあったらしい。安倍家に泥棒が入り、晋太郎先生のコートを盗もうとした。それを晋三が見つけて、追い払った。帰宅した晋太郎先生に、晋三がそれを自慢したら「コートくらい、やればよかったのに」と言われたと、晋三本人から聞いたことがある。

 晋三も、素直で人がいいところは、父親譲りだろう。

・社会部会長のときの晋三は、俺に怒鳴られた思い出しかないだろう。宴会に来ても、同期の荒井広幸と一緒に、宴会芸ばかりやらされていた晋三が、父も成しえなかった一国の長に登りつめたのは感慨深い。この男には運がある。そうでなければ、2度も総理の座に就くことなどできないのだ。

<小泉純一郎  風を読み切る「天才」の本性>

・‘82年のこと。同じ清話会(福田派)で、小泉純一郎は俺の2期の先輩だった。福田赳夫先生が派閥の朝食会で、総裁選での「総総分離」について、一席ぶっているときのことだ。総理大臣と自民党総裁を分離し、「中曽根総理・福田総裁」とする案に、党執行部も乗ろうとしていた。

 すると小泉が突然立ち上がり、「この戦いは大義がない」とものすごい剣幕で主張しはじめたのだ。派閥間で談合すべきではないという考えだったのだろう。

 早々に、総総分離案は立ち消えとなった。

・俺は、日本には土着の思想があるのだから、強者が弱者を飲み込むような政策には反対だ。小泉のやっていることは、改革ではなく破壊にしか見えなかった。構造改革自体には賛成だが、小泉の改革は間違いだらけだったと思っている。金持ちさえ都合が良ければそれでいいというだけのものだったからだ。

 

・当時、俺と江藤隆美さんが反小泉の急先鋒だった。小泉政権による「破壊」が続けば、日本はアメリカと中国の狭間で溶けてなくなると思った。中小零細企業からの貸し剥がし、地方の切り捨て、外資や大手企業を優遇する政策が顕著だったのだ。

・続く‘05年の「郵政解散」はめちゃくちゃだった。郵政改革関連法案は衆議院で可決したものの、参議院では反対多数。すると小泉は、衆議院解散という奇策で流れを作り、俺の選挙区には刺客として「ホリエモン」こと堀江貴文を送り込んだ。衆院選後には俺はあっけなく自民党を除名となった。

<菅義偉    「冴えない男」と歩いた横浜の街>

・菅の当初の印象は、はっきり言うと「冴えない男」。秋田から集団就職で上京してきた苦労人という触れ込みだったが、笑顔がなく、暗い男だった。

・俺と菅で決定的に違うのは、郵政に対する考え方だった。

・菅のような民営化論者からしたら、民営化に逆行することはすべてが悪に映る。それでは議論のしようがないだろう、というのが正直な感想だった。

 郵政については、その後「ねじれ国会」となり膠着状態が続いたが、‘12年にようやく、郵政民営化を改正することで決着がついた。俺の当初案からは後退してしまったものの、過度な民営化を一定程度抑制できたと思う。俺は大臣として、国会審議で「我々は民意に沿う政治をやっている」と言ったが、郵政の問題とは、まさに国民の力を向いているかどうかだ。その点において、菅が俺とまったく逆の方向を向いていたのは残念だった。

・ただし、俺からすれば当時の菅を、論戦の相手として意識したことさえなかった。そんな菅が、わずか数年後には官房長官として永田町に君臨し、総理にまでなったのだから、政治はわからないものだ。安倍政権が長く続いたのも、菅の功績が大きかった。調整能力が高いのだろう。今も菅の姿を見ると、冴えない男だった初当選時代のことを思い出す。

<森喜朗    密室で「森総理」を決めた日>

・森喜朗とは同じ清話会に所属していたから、俺が初当選した時からの長い付き合いになる。向こうが政治家としては先輩だが、年齢はほぼ同じだったこともあり、仲良くしてきた。それにならい、ここでも森と呼ばせてもらおう。

・「なんで森みたいなのが総理になれたんだ」と言う人がいる。その理由はズバリ「他人への配慮」だ。上にも下にも、人に対して配慮するのが、ものすごく上手かった。だから、早稲田大学ラグビー部では補欠中の補欠だったにもかかわらず、総理にまで上り詰めたんだ。まさに大人(たいじん)だ。

・森は「えひめ丸事故」の時に、ゴルフをしていたことでマスコミに叩かれた。支持率が8%にまで落ち込み、政権は終わった。だが、あれはテレビがいけない。

・もっとも、それで影響される国民がアホだということだ。これははっきり言っておきたい。ああいうふうにマスコミに叩かれて辞めるのは、本当におかしな話だ。今はお互い政治家を引退しているが、変わらず友達づきあいができるのは、森の人柄のよさゆえだ。

<石破茂    おい、本当に総理をやる気はあるか>

・石破茂の親父は、石破二朗という。旧内務省の官僚から鳥取県知事になった。それはもう、おっかない男だった。俺は警察官僚時代、鳥取県の警務部長をしていたことがある。そのときの知事が石破二朗だった。その恐ろしさたるや、当時、警察庁で最も怖がられていた後藤田正晴以上だった。

・俺もまだ20代の若造だった。おっかない知事と話をするときには、さすがの俺でも足がガタガタ震えていた。

 石破の親父は、東京帝大法学部卒の内務省官僚だから超エリートだが、不思議と知性の匂いがまったくしなかった。息子の茂は、そんな親父が築いた地盤で選挙に出ているのだから、楽なのである。

 親父との縁があったから、石破が代議士になってからというもの、俺は折に触れて気にかけてきた。

・だが、このままのやり方では全然話にならない。石破がいまいち総理候補として存在感を示せないのは、なぜなのか。ズバリ言えば総裁選のときしか動かないからだ。戦いというのは、平時から兵を養い、ゲリラ戦から何から、どんどん仕掛けていくものだ。

・さらに大事なのは、仲間に金を配ることだ、俺が総裁選に出たときは、15、6億円くらいかかった。盆暮れもカネを配る。そうやって支えてくれる人間を増やしていかなければ、総理総裁なんてなれっこない。

<衛藤晟一   自民党を黙らせた「名演説」>

・政治家の能力のなかでも、重要なもののひとつが演説力だ。単に演説が上手いだけならごまんといるが、たった一言で政治の流れを変えることができる政治家はそうはいない。

・衛藤の名演説がなければ、多数の離反議員が出て、自民党は割れていただろう。そういう意味でも、衛藤は自社さ政権樹立の功労者のひとりだ。

・俺が政治家を引退したのは、衛藤のような良い相棒がいなくなったからだ。

<武田良太   政治家は、行儀が悪くてちょうどいい>

・良太は若い頃、俺の秘書をしていた。政治家人生の第一歩から見てきた存在だ。

・自民党公認ながら、3回続けて落選という憂き目にあったのだ。‘03年の総選挙では公認さえもらえず、無所属で戦った。普通ならとっくに音を上げる状況だが、良太の根性は半端ではない。初挑戦から10年後のこの選挙で、なんと自民党の公認候補を破って初当選を果たしたのだ。

・有権者に土下座さえした。俺は自分の選挙では土下座はしないが、奴を当選させるためなら何でもするという思いだった。

・政治家である以上、少し毒を持っているくらいが、ちょうど良い。自分の意思で行動できる者が頭角を現す世界だ。良太には、「年齢から考えれば、堀の中に落ちないかぎり、お前は総理になれる」と言っている。能力のある政治家というものは、みんな刑務所の塀の上を走っているようなものだ。俺も塀の上を走り続けたが、ついぞ落ちることはなかった。

<平沢勝栄   晋三の家庭教師、ついに入閣す>

・東大を出て警察官僚となり、その後政治家に転身。俺と瓜二つの人生を歩んできたのが平沢勝栄だ。世襲ではなく裸一貫の政治家として、選挙に強い点も共通している。歴史観や国家観が近く、風貌もどこか似ている。

・国会会期中も、わずかでも時間が空けば地元に戻り、会合やお祭り、冠婚葬祭をハシゴする。自分が行けないときも、秘書を挨拶に向かわせる。タバコを買うときは、一箱ごとに買う店を変え、散髪するときには毎回違う店だ。選挙民に顔を覚えてもらう意味もあるが、最大の目的は、地元の人たちが何に困っているか、生の声を聞くためだ。

・平沢が選挙に強いのは、このマメさに尽きる。ここまで地べたを這いずり回ることのできる政治家は、そういない。能力も高く、広い人脈の持ち主なのに、菅政権で復興大臣になるまで長いあいだ入閣できなかった理由のひとつは、平沢が安倍晋三の小学校時代、家庭教師を務めていたことだろう。

<下村博文   俺の息子との知られざる因縁>

・下村とは、個人的な因縁もある。実は俺の息子が、下村の選挙区から出馬するかもしれなかったんだ。息子は東京11区の板橋区で開業医をやっている。受け持つ患者が何百人もいるうえ、父親が亀井静香だから、選挙があるたび医師会などから担がれそうになった。

 本人も全く色気がなかったわけじゃないが、俺は息子を下村と喧嘩させたくなかった。親バカのようだが、息子が出れば結構強かったんじゃないかと思う。でも、「絶対ダメだ」と立候補を諦めさせた。下村もこの件を気にしていたが、俺は下村に「絶対出さないから心配するな」と言った。政治家とはあくまで有権者のしもべだ。やるなら自分で決意し、親の力など頼らず自力で当選しないとダメだ。俺の息子はいま、下村の応援者の一人になっている。

・こういう危機は政治家にとって、己の力量を示すチャンスでもある。難局の中で力を発揮してこそ、裁量は大きくなる。そして、自ずと総裁候補への道も開けてくるというものだ。

<古屋圭司   亀井派を支えた名コーディネーター>

・俺が清話会から飛び出し、亀井派を立ち上げたのは‘98年9月のこと。山中貞則さんや中山正暉さんなど実力派の議員が集まり、翌年には志帥会として、衆参合わせて60人規模の大派閥になった。毎晩料亭で侃々諤々と語り合ったのも懐かしい。

 そんな血気盛んな連中のなかで、中堅から若手をまとめていたのが古屋圭司だ。

・従順だった圭司が、一度だけ反発したことがあった。俺が死刑制度の廃止を主張したときだ。圭司は「被害者家族の気持ちもあるから、死刑には賛成です」と、はじめて俺に反発してきたのだ。だが俺は「どんな凶悪犯であっても人間には魂がある。人の命は重い。俺は絶対に死刑廃止はやる」と突っぱねた。

<二階俊博   「晋三に花道を」と、俺は二階に言った>

・自民党幹事長を長く務めた二階俊博は、代議士としては俺の2期後輩になる。34年という長期間にわたり、同じ時間を国会で過ごしてきた。

・平成以後の自民党には、利害調整ができて、党内の空気に敏感に反応しつつ策を立てて動き、さらには義理人情で接するという調整型の政治家がいなくなった。

・‘20年9月、二階は田中角栄先生を抜き幹事長在職日数で歴代1位になった。ただし、これだけ長くできたのは、自民党が弱くなっていることの裏返しでもある。昔は必ず反主流派がいて、常に権力闘争をしていた。いまは権力を腕ずくで奪い取る強盗のような政治家がいなくなってしまった。中選挙区が廃止されたとはいえ、公認権とカネを握る幹事長というポストを、最大限に使いこなしたのが二階なのだ。

・党の選挙要職を務めている人物を委員長に起用するのは、異例のことだった。これでは、「郵政民営化に反対する議員は選挙で支援しない」と言っているようなものだ。当時の小泉は、国会人事に介入してまで、好き放題をやっていたのだ。選挙に突入すると、この二階が陣頭指揮をして、「党の考えと違う主張をする候補には対抗馬をぶつける」と言い、刺客を立てまくった。

 その結果、俺は自民党を離れることになった。一方で選挙大勝の功績から、二階の地位は高まった。当時の俺からすれば、二階など大した存在ではなかったが、それから16年、気がつけば二階は自民党の最大権力者まで上りつめた。

・俺からみれば、俺の派閥を居抜きで持っていった二階は凄い男だ。志帥会にこそっと入ってきた「コソ泥」かと思っていたら、あっという間に家ごと全部乗っ取った「大泥棒」だったわけだが、大した腕である。それに留まらず、日本国まで国盗りしてしまった。

 安倍晋三のような、人の良い殿様の息子では、二階のような策士には簡単にやられてしまう。二階からすれば、ちょろいものだろう。晋三は一本足の案山子みたいなもので、二階の支えがないと権力を維持できないところがあった。

<昭和を築いた13人>

<中曽根康弘   小泉純一郎を「無礼者!」と一喝>

・中曽根先生を初めて見たのはそのときだ。先生は「青年将校」といわれていた。来賓者が座る一段高いところではなく、道場の床に正座して座っていたことが強く印象に残っている。「威儀正しい」という表現がしっくりくる初対面だった。

 中曽根先生といえば、「上州戦争」が有名だ。

・すると、そこにふらっと現れた中尾栄一さんが、中曽根先生を連れてそのまま本会議場に入ってしまったんだ、唖然として、何が起きたのかわからなかった。なんと中曽根先生は、土壇場も土壇場で反主流派から抜け、不信任案への反対票を投じたのだ。

 結局のところ、欠席が多かったため、不信任案そのものは賛成多数で可決され、世にいう「ハプニング解散」に突入することとなった。だが中曽根先生にとっては、ここで主流派・田中サイドに身を寄せたことが、その後の総理への道につながったと思う。「風見鶏」と言われる中曽根先生らしい行動だが、政界の風を巧みに読んだからこそ、総理になれたのだ。

・その間、俺は部屋の外に待たされていた。小泉が部屋へ入るなり、ものすごい声で「無礼者!」と怒鳴る声が聞こえてきた。中曽根先生の怒号だった。断固として引退に応じない先生は、怒り狂って「政治的テロみたいなものだ」と発言した。

・しかし、小泉執行部はビクともしなかった。同じく引退勧告されていた宮澤喜一さんがおとなしく引退を表明したこともあって、中曽根先生も最終的に観念し、引退に追い込まれた。

<竹下登     目配り、気配り、カネ配りの三拍子>

・絶大な権力を握っていた竹下登さんが亡くなってから、20年以上が経った。永田町の誰よりも政界の力学を知り、「目配り、気配り、カネ配り」で総理になったと言われた竹下さんは、与野党はもちろん、財界、官界に幅広い人脈を持っていた。表から裏まで張り巡らされたその人脈には、あの中曽根先生も敵わなかった。

・もっとも竹下さんのほうは、俺が幼いときから、俺や兄貴(元参議院の亀井郁夫)のことを知っていたという。俺の生まれ故郷、広島県庄原市川北町は、竹下さんの地元である島根県の選挙区と山を越えた隣同士だ。うちは村で下から数えて2~3番目くらいの貧乏な百姓農家だったが、俺と兄貴の2人が東大に入ったことが評判になった。それが山を越えて竹下さんの耳に入っていたらしく、「亀さんのことは幼いときから知っていたよ。山を越えた所に2人の神童がいると聞いていたから」と言われたことがある。同じ山陰の田舎の空気を感じたし、竹下さんは青年団運動から上がってきた人だから、俺と同じように土の匂いがする苦労人だと、親近感を持った。

・そんな竹下さんが、みんなから人望があった理由には、カネ配りもあったと思う。派閥が違う俺のところにさえ、遣いの者を通じて多額のカネを寄越された。清話会は一銭もカネをくれなかったし、ポストを配る力もなかったが、竹下さんは毎年必ずカネをくれたのだ。派閥が違うのにカネを持ってきてくれたのは、同じ中国山地の山中のよしみからだろう。

<安倍晋太郎   晋三を守った父の「人徳」>

・俺が長年、安倍晋三を弟のように可愛がってきたのは、父上である安倍晋太郎先生に大変世話になったからでもある。

・晋太郎先生を一言で言えば、徹頭徹尾、善人だ。優しすぎた。だが総理総裁になれずとも、他のどの政治家よりも徳を積んできた。それが息子の晋三をも、陰に陽に助けてきたのだ。晋三が長期政権を樹立できたのも、父上の徳のおかげだろうと今は思う。

<金丸信     部屋中からカネが湧いて出た>

・「政界のドン」と称された金丸信さんは、昭和の激しい政局の時代、常にその中枢で立ち回った、まさにキングメーカーだった。

 俺が国会議員になった当時は、田中角栄さん率いる田中派全盛の時代で、俺のいた福田派は傍流とみなされていた。

・金丸さんの凄いところは、徹底的に黒子であり続けたところだ。

・当時ペーペーで、派閥も違った俺は、金丸さんとの接点は少なかった。ただ、随所に「この人は大人だ」と感じる場面があった。

 彼の力の源泉の一つは、抜群の資金力だ。俺も一度、金丸さんからオカネをもらったことがある。

・次に当時幹事長だった金丸さんの事務所に行くと、すぐに「わかった」と共感してくれた。おもむろに背広のポケットからおカネを出し、それだけで100万円はありそうだった。だが「これじゃ足りないな」と呟くと、机の引き出しや棚をゴソゴソと探し、札束はみるみる500万円ほどになった。部屋を漁るだけでおカネが出てくるのにも驚いたが、それをいとも簡単に渡してくれたことにも驚いた。

 金丸さんは名前の通りおカネを持っていたが、溜め込むのではなく、意義のあることだと思えば、普段付き合いのない俺のような奴にもポンと渡してくれる器の大きい人だったのだ。

・それほどの実力者だったが、最後はあまりにも哀れだった。‘92年8月、金丸さんが5億円のヤミ献金を受け取ったといういわゆる「佐川急便事件」が発覚。金丸さんは記者会見を開いてこれを認め、副総裁辞任を表明した。

<福田赳夫    エリートだが、どこか土の匂いがした>

・だが、肝心の福田派は選挙戦が始まってもなかなか本腰を入れてくれない。というより驚くほど応援してくれなかった。理由は簡単で、俺が「泡沫候補」扱いされていたからだ。必死に応援してくれたのは、福田派の先生ではなく、中川一郎先生だった。

 5000票差でぎりぎりの最下位当選を果たした俺は、そのまま福田派に所属した。だが選挙での恩義もあり、中川先生率いる中川派にも出入りした。新人でいきなり2つの派閥を掛け持ちしたので、「両生類」と揶揄する連中もいた。俺には、陰で文句を言う奴の相手なんてしている暇などなかったが。

・もうひとつ印象深い思い出がある。俺は‘89年の総裁選で、清話会の方針と異なる山下元利さんの擁立を画策し、清話会を除名になった。結束してこそ力になるのが派閥だから、勝手な動きをする奴は除名されても文句は言えない。

・福田先生は‘76年から’78年まで総理を務めたが、もっと長期間総理をやるべき人物だった。息子の康夫も総理になったが、あれはサラリーマンだ。印象が薄い。福田先生は大蔵官僚の出身ながら土の匂いのする政治家だった。しかし康夫からは、その匂いが感じられなかった。

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