人生を最後まで“自分らしく生きる”ためのビジョンを持っていれば、自分のピッタリ合った服を仕立て直すことは、それほどむずかしいことではないと私は思うのです。(1)

(2025/4/21)

『90歳まで働く』

田原総一朗  クロスメディア・パブリッシング 2020/9/18

<はじめに>

<60歳はまだ人生の折り返し地点>

・いままでの日本人の人生設計には、典型的なパターンがありました。大雑把に言えば、20年学び、40年働き、15年を年金で暮らすというものです。住宅ローンなども、こうした人生設計に沿って組まれることが多かった。

・しかし、80歳を過ぎても人生はまだまだ続く時代になり、「人生100年」という言葉が盛んに使われるようになりました。さらに言えば、100歳がゴールというわけではありません。

<日本人は“V”が足りない>

・Vは“ビジョン”、Wは“ワークハード”のことを指します。これは、日本人の人生設計を再構築する上でも大きなヒントになると私は思います。

<会社を辞めて1年後、突然の異変>

・会社を辞めて迎えた月末に、「給料の振り込みがない」という寂しさを初めて味わったときのことは、いまでもよく覚えています。

<私なりのビジョンが見つかった>

・そして、その役割をいかにして果たすかという目標が、生涯現役のジャーナリストとして生きるための私のビジョンにもなったと思うのです。

<90歳まで現役のジャーナリスト>

・私は、少なくとも90歳まではこのまま現役のジャーナリストとして生きていくつもりです。

<働けるうちは働く時代>

<古い服を脱ぎ捨てるとき>

・成長を続ける人間なら、どこかで古い服を脱ぎ捨てるときが来るに違いありません。人生を最後まで“自分らしく生きる”ためのビジョンを持っていれば、自分のピッタリ合った服を仕立て直すことは、それほどむずかしいことではないと私は思うのです。

<2000万円の貯金は必要ない>

・60歳以降の人生にとって本当に必要なのは、預貯金よりも、収入を得られる元気な働き方だと私は思うのです。

<定年後の雇用延長の落とし穴>

・すでに社会は、「就職してから40年働く時代」から「働けるうちは働く時代」へとシフトしました。そこで、読者のみなさんに問いたい――。「自分の人生設計を、働けるうちは働く時代に合わせて描いているでしょうか?」

<名刺に元部長と書く人たち>

・しかし、社名や肩書きのない名刺では不安なのか、「元××株式会社 常務取締役」などと、退職した会社での地位を名刺に刷る人もいます。

 残念ながら、定年後の“いまの自分”を評価してもらうには何の役にも立たない情報です。会社から与えられた肩書きは、会社に属している間しか通用しません。

<正解を言わないと恥ずかしい?>

・そこが日本企業の弱点なのです。すでに「正解」とされているビジネスモデルを大事にするから、イノベーションが起こりにくい。

<会議に出ない、社員旅行にも行かない>

・会議には出ないし、慰安旅行にも参加しない。自分がやりたいことを軸に、ゲリラ的な番組づくりをやってきました。

<欧米人に比べて学ばない日本人>

・欧米では働きながら学ぶことが当たり前のように行われていますが、日本では就職すると同時に学びが終了してしまうのが実状と言えるでしょう。

<73歳でやりたいことを見つけた>

・欽ちゃんは2015年に駒澤大学に社会人入学しました。73歳での学び直しです。

<グーグルを取材してわかったこと>

・私には、時代の変化にサラリーマンの生き方が追いついていないように思えて仕方がありません。

<あなたは何をすれば満足できるか?>

・多くの日本人が“生涯現役”を目標に、人生設計を書き換えるときを迎えていると思うのです。

【田原の言葉  1章のまとめ】

① 老後のために「いくら貯めなければならないか」という心配は、古い人生設計が根底に残る発想でしかない。60歳以降の人生にとって本当に必要なのは、預貯金よりも、収入を得られる元気な働き方ではないでしょうか。

② いまにして思えば、私は「会社でしか通用しない働き方」はしていなかった。テレビ東京では出世とは無縁のサラリーマン人生でしたが、そのときの経験のおかげで私はフリーになっても働き方で戸惑うことがなかったのです。

③ 学びのタイミングに「いまさら」はありません。現役のサラリーマンであれば、73歳で大学に通い始めた欽ちゃんよりも、学ぶことのハードルははるかに低いはずです。

<新しい働き方――ドロップ・イン思考のすすめ>

<職場に行くのが苦痛だった>

・自分が作家になることなど、夢のまた夢。

 しかし、この挫折で、私は「憧れ」ではなく「現実」と向き合って将来を考えることになりました。作家が無理なら、自分は何を目指せばいいのか? そのときに頭に浮かんだのがジャーナリストという職業だったのです。

<滑り止めの会社も不採用>

・大学4年になり、いよいよ就職活動です。私はマスコミ大手の採用試験を片っ端から受けました。結果は、目を覆いたくなるほど惨憺たるものでした。

<自分らしく生きるための働き方>

・ドロップ・インは、「会社でしか通用しない働き方」に代わる、「自分らしく生きるための働き方」を可能にする思考と言ってもいいでしょう。

 このドロップ・イン思考のおかげで、岩波映画での私はダメ社員ながらドロップ・アウトすることなく、自分のやりたい“為事”を見つけることができたと思うのです。

<ダメ社員にチャンスが巡ってきた>

・そして、ピンチをチャンスに変えることができたのは、一流マスコミに入社しなかったおかげだとも感じています。もしNHKに受かっていたら、こんなに危なっかしい番組づくりはできなかったに違いありません。

<テレビのいい加減さが性に合った>

・そんなテレビのいい加減さを、私は働く上での大きな魅力に感じました。1960年代前半のことです。草創期のテレビは、まだ確固とした「正解」のないメディアでした。

<安部公房を口説き落とし視聴率トップ>

・会社の中にいても、自分の進む道は一つではないと思います。進みたい道がはっきり見えているのであれば、そこにつながる働き方を考えるのは、自分自身の選択。それがドロップ・インの生き方です。

<言論の自由? あるわけがないだろう>

・ところが、現地ソ連のコーディネーターは私に「ここでは政治の話は絶対にしないように」と耳打ちしたのです。「言論の自由は?」と問い返すと、「そんなもの、あるわけないでしょう」と現下に否定されました。

・「個」としての自分がどんな人間なのか、読者のみなさんはどんな答えに行き着くでしょうか?その答えに従って未来を見つめれば、人生の目標も、本当にやりたい仕事も、自ずと見えてくると私は思います。

<田原じゃなければ撮れない>

・天狗になれば、風当たりは強くなる。それはどんな組織にいても同じです。上司から睨まれれば、出世の道も閉ざされかねません。

<危険なディレクターとして活動>

・前章でも書きましたが、私は取材中に警察に逮捕されたことがあります。それも1度ではありません。

<2か月会社に行かず映画を撮る>

・借金を返すためには、給料の他にも収入を確保するしかありません。会社の仕事以外で、自分のやりたいことをやって稼ぐには、どうしたらいいか?

 半ば苦肉の策で、私はテレビ局のディレクターを続けながら、原稿料を目当てに雑誌の記事を書くようになったのです。

<NHKの圧力で放送が中止になる>

・そして、この記事が出たことで私は制作局へ異動になった。要するに、事を大きくした責任を取って左遷させられたわけです。

<連載中止か、会社を辞めるか、どっちだ>

・当時のテレビ東京は、三流のひ弱な局で、スポンサーを降りられたらやっていけなくなります。局は、私に『展望』の連載の打ち切りを求めました。連載をやめるのが嫌なら会社を辞めてくれ、というのです。

【田原の言葉 2章のまとめ】

① ドロップ・インは「自分らしく生きるための働き方」を可能にする思考と言ってもいいでしょう。この思考のおかげで、私はダメ社員ながらドロップ・アウトすることなく、自分のやりたい“為事”を見つけることができたと思うのです。

② 私はサラリーマンをしているときでも、「自分は何者か?」と問われれば、会社員である以前に「田原総一朗」という個人であることを意識できました。

③ 左遷は初めてのことではないし、とくに慌てることもありませんでした。こういう状況はむしろ「個」としてのキャリアを磨くチャンスになります。忙しいときにはできなかった活動にエネルギーをとことん注げばいいのです。

<好奇心、教養、人脈、目標。4つの資産の育て方>

<4つの資産を60歳で使い切らない>

・私の場合は、それが好奇心という資産になり、好奇心を失わずに働き続けてきたことが、いまの自分の人生につながっていると思うのです。

<好奇心①疑問を疑問のままで終わらせない>

・しかし、私の好奇心は「疑問を疑問のままで終わらせたくない」という欲求がセットになっています。

<好奇心②自分より若い人から情報を得る>

・だから「たった1行の文章を書くためでも相手に会って話を聞く」ということを、私はいまも実践しているのです。

<好奇心③真実はインターネットの先にある>

・取材のおもしろさは、ネットの先にあるのです。だから私は当事者と直接会って話を聞くことを絶対に疎かにしません。

<好奇心④1冊の本を書けるくらい調べる>

・もちろん、好奇心を持っていれば、なんでもかんでも仕事に結びつくとは言いません。ただ、他の人には見えていないものに自分の目を向けるには、常識や観念にとらわれない好奇心を持ち続けることが何より大事だと私は思うのです。

<教養①引き出しは多いほうがいい>

・教養と言ってもむずかしい話ではなく、自分が抱えている疑問や問題式に対する答えとなるような情報や知識を、普段からどれだけインプットしているかということ。それが企画やアイデアといったアウトプットの質を決めるのです。

<教養②何が正しいのかを見極めるための教養>

・新聞は、毎朝6紙に目を通しています。もう長年の習慣で、これが私にとって1日の仕事の始まりみたいなものです。数紙の新聞を読み比べていると、情報に対する感度が研ぎ澄まれます。

・新聞や本を読むことは、教養を身につけるために誰にでもできる基礎的な習慣だと思います。

<教養③歴史を学ぶことで見えてくるもの>

・理性や論理が働かなくなれば、空気によって政府与党は猛進しかねない。その傾向を右派勢力の中に見るにつけ、歴史に学ぶことの大切さを私は感じずにはいられないのです。

<人脈①おもしろい人間の力を借りる>

・「趣味は何ですか?」と聞かれると、私はいつも返事に困ります。「何もない」と言うのも愛想がないので、「人と会うのが趣味」と答えることにしています。

<人脈②自分を批判する相手とのつき合い方>

・他人から批判されたくないという気持ちは、誰にでもあると思います。しかし、批判を恐れていては、自分のやりたいことに全力を注ぐことがむずかしくなります。

<人脈③お互いを高め合える仲間の存在>

・自分の人生を豊かにしてくれる人脈というのは、本音でものが言えて、その上でお互いを高め合うことができる関係でなければならないと思います。

<目標①目標があるから現役でいられる>

・たとえば日本のマスコミは「言論機関である」と公言していますが、どこに自由があると言うのか? 新聞6紙を読み比べていれば、詭弁であることは一目瞭然です。

<目標②90歳までに達成したい3つの目標>

・ジャーナリストとしての私の目標は3つあります。まずは「言論の自由を守る」こと、そして2つ目は「日本に戦争をさせない」ということです。

<目標③権力を野放しにしてはいけない>

・野党が強くならないと政治に緊張感が生まれません。そして権力はやりたい放題になります。言論の自由が守られ、日本が戦争の悲劇を繰り返すことなく、野党が政権交代可能な力を持つ――。この3つが、あと数年経っても現実になっていなければ、私は90歳を過ぎても引退できず、現役のジャーナリストのままでいるかもしれません。

【田原の言葉 3章のまとめ】

① 好奇心、教養、人脈、そして目標は現役サラリーマンにとって大事な資産です。と同時に、定年を迎えて会社を辞めた途端、失いやすい資産でもあります。この4つの資産を60歳で使い切るものと思わずに、定年後の人生にも存分に活かせるよう、磨き続けましょう。

② 自分が持っている情報には、時間の経過とともに古くなるものがたくさんあります。知見と感性をアップデートしていくためには、若い人たちから得る情報はとても貴重です。

③ その作業が「面倒くさい」と感じられたら、自分が「本気じゃない」証拠です。本当にやりたいことなら、中途半端な勉強で取り組めば、逆に不満やストレスがたまるはずです。誰かにやらされる仕事では、本気になれないこともあるかもしれません。

<人に信頼される働き方>

<人生の節目で失敗する人の共通点>

・あくまでも私見として述べますが、順風満帆に見える人生が暗転したケースには、長期的なビジョンとは異なる計算が働いていたことが少なくないように感じます。

 つまり、「自分がやりたい」という本意ではなく、「損得」というモンサシで動いたがために、望まぬ結果を招いたというパターンです。

<信用されないといい仕事はできない>

・自分のやりたい仕事を続けるには、もちろん能力や努力は欠かせませんが、それだけでは足りません。私自身の体験も踏まえて言えば、絶対に必要なのは自分以外の人たちの協力です。

<損得抜きに政治家とつき合ってきた>

・他方で、普段の取材のスタイルとはまったく異なる手法で相手の本音を聞き出すこともあります。それがテレビ番組の討論です。

<もし商売の道に進んでいたら……>

・もしも自分が商人になっていたら? 考えただけでもゾッとします。こんな不器用でひねくれた性格では、商人として大成することなど、まずはなかったでしょう。

<田中角栄から100万円入りの封筒>

・その後も取材先で現金を渡されることが何度もありました。しかし、1度も受け取らずに済みました。「田中角栄さんのお金を受け取らなかったのだから、あなたのお金を受け取るわけにはいかない」と言うと、みんなその場でお金を引っ込めてくれたのです。

<お金との正しい距離感とは>

・自分がやりたい仕事をやって、それで幾ばくかの収入が得られるのであれば、幸せな働き方ができていると私には感じられるのです。

・私の場合は、事務所を切り盛りしている娘がスケジュールやお金を管理してくれるので、この歳まで欠点を直さずに済んでいるのです。

<松下幸之助が面接で重視したこと>

・「人を採用する場合、どこを見るのか?」と質問したことがありました。松下さんの考え方は明快で、「運のいい人」という答えが返ってきました。

<86年生きてもわからないことだらけ>

・実際に、86年間も生きているのに、私にとって世の中はわからないことだらけです。新しい概念や技術も次から次へと生まれてきます。わかったフリをするほうがたいへんです。

・わからないことに蓋をしてしまうより、わからないことを「知りたい」という好奇心に変えて、学ぶ機会を増やしたほうが、人は間違いなく成長するはずです。

<仕事は「運」を呼び込む入口>

・私は仕事以外に趣味がないと述べましたが、もっと正確に言えば、不器用すぎて好きなこと以外は何をやっても上手くいかない、というのが本当なところだと思います。

<劣等感のおかげでやってこれた>

・私自身の人生は、社会から高く評価されているわけではありません。謙遜ではなく、本心からそう思います。根拠もあります。

 これまでに200冊を超える本を出版しながら、私は「賞」と名のつくものをもらったことがただの1度もありません。

・きっと、90歳になっても劣等感を捨てることなく、この本と同じように読者に喜んでもらえることを一番の目標にしながら、毎日人と会って、仕事を楽しんでいるのではないかと思っています。

【田原の言葉 4章のまとめ】

① 自分の力だけでできないことを可能にするのは、自分以外の人の力です。他者からの理解、支援、協力を得るために、絶対に必要なのが信頼なのです。人から信頼される生き方こそ長く幸せに働くための哲理であるのです。

② 三方善は、人が働く上での普遍的な教えだと思います。近年、「持続可能性」というキーワードが注目されていますが、人々が60歳以降も元気に働く時代には、自分と相手と世の中という三方の関係が、より重視されてくるでしょう。

③ 劣等感があるから、私は自分の実力を過信することもありません。劣等感を克服しようと人一倍努力もしてきたつもりです。90歳を過ぎても成長したいという意欲は失わずにいるに違いありません。

<「老い」と賢くつき合う>

<自分の人生は60代で終わると思っていた>

・こんなに長く生きるとは思っていませんでした――。

 小学校に入ったときは、軍国教育で「君らはアジアの捨て石になれ」と指導され、私は海軍の軍人になって20歳で死ぬ運命を描いていました。これが生涯で最初に叩き込まれた人生設計でした。

・胃腸が弱いのも前述した通り。学生時代、サラリーマン時代、フリーになってからと、十二指腸潰瘍で3回の入院を体験しています。ストレスで文字が読めなくなったこともあるくらいですから、メンタルも決してタフなほうではありません。お酒も飲めないのに毎晩ゴールデン街に入り浸ったりもしました。

・還暦を迎えると、人生の終わりが待っていたかのように消化器系が機能しなくなりました。排泄がまったくできない状態です。病院で診察を受けると、医師ははっきりと告げないものの、どうやらガンを疑っている。

・結局、ガンではなく、自律神経失調症の診断が下されました。しかし、薬を飲んでも症状はさっぱり改善されない。私は不治の病への不安を捨て去ることができず、精神的にすっかりまいってしまい、「死にたい」という衝動にも駆られるようになりました。

・退院後も体調不良はすぐには解消しませんでした。それでも、知り合いの開業医の紹介で東洋医学の治療を受け始めてから、少しずつ回復に向かいました。

<毎日続ける3つの健康法>

・そんなことが何度かあり、ジム通いは3か月でやめました。

・次に始めたのが階段上りです。いま住んでいるのはマンションの5階です。エレベーターを使わずに、1階から5階まで階段を使う。足腰を衰えさせないために、朝食後に20分の散歩も始めました。

・ところが、私は腸が弱くて便秘になるので、浣腸をしすぎたら脱腸になってしまった。

・その小林先生の指導で始めた健康法が3つあります。まずは、毎朝大さじ1杯のオリーブオイルを飲むこと。最近は亜麻仁油も飲んでいます。

次は、かかと上げ。壁に手をついた状態で、かかとを上げて、つま先立ちになる運動です。そして最後は、ぬるい湯で入浴すること。

<岸信介元首相に聞いた長生きの秘訣>

・すると、3つの答えが返ってきました。第1に、「つき合いを悪くする」こと。第2に、「悩まない」こと。

<好きなものしか食べたくない>

・そして長生きの秘訣の第3は、「肉を食う」こと。私も知人から、「長生きしたければ肉を食え」と勧められたことが何度かあります。が、肉はあまり好きではありません。好きなのは肉より魚、それも淡白な白身魚です。

<徹夜はできない、記憶力も落ちた>

・私の場合、いまも若い頃から変わっていないことがいくつかあります。たとえば、休日、フリ-ランスになる前から、土日に休むという習慣はありませんでした。

・そう考えると、毎日何人かと会って話をしている日常は、脳の衰えを防ぐという意味でも、私にとっての大事な健康法と言えるかもしれません。

<番組をやり終えて眠るように逝きたい>

・人の生死を思ったとき、私がもっとも“生”を実感できるのは、元気に働いている瞬間です。

【田原の言葉 5章のまとめ】

① 自分の「死」というものを直視したことで、逆に「生」への欲求が強くなったようにも思います。少しでも不調を感じたら、まずは医師に相談することを心掛けるようになりました。

② 「老い」を避けることはできません。元気に働ける体と心を、どうすれば保てるのか。私のように弱さとどう折り合いをつけながら長く生きていこうかた考えている人も案外多いのではないかと思います。

③ 上手くいかなったことを引きずっていても仕方がないし、悩んだところで解決しない問題はたくさんあります。「忘れろ」と言われても忘れられないのが人間の弱さかもしれませんが、悩みとは、悩めば悩むほど自分の中で大きくなってしまうような気がします。

<おわりに>

<人生の後半にも夢や希望がほしい>

・しかし、自分自身も実践していることとして、一つだけみなさんの人生設計の参考になるかもしれないことがあります。それは、“夢”や“希望”を設計図の後半に買き込むことです。

・インターネットを活用できれば、世界中を相手に仕事ができる時代です。

・私の未来には、楽しみにしている壮大な“夢”が待っています。それを宇宙を取材することです。

(2024/10/22)

『政策至上主義』

石破茂  新潮社  2018/7/13

この国には、解決策が必要だ。

<はじめに>

・そして私は、これから日本は、「自立精神旺盛で持続的な発展を続けられる国」を目指すべきだ、と考えています。そのためには新しい時代の要請に正面から応え、政治、行政、経済、社会全般にわたる仕組みを大幅に見直さなければなりません。

・突き詰めて言えば、国会議員がすべきことは一つ。国を導くビジョンを提示し、そのビジョンに従い、国政上の個別の課題解決のためのプラン、すなわち現実的で実効性のある政策を練り上げ、実行していくことしかありません。

 本書では、国会議員として30年以上活動してきた中で感じたこと、考えたことをまとめてみました。

・まだ私が国会議員になる前、渡辺美智雄先生が講演でおっしゃったことが、私の政治家としての原点となっています。「政治家の仕事は、勇気と真心をもって真実を語ることだ」

・渡辺先生はまた、「いい加減なヤツが百人いても、2百人いても世の中は変わらない。だが、政策を知っていて、選挙も強い確信犯的な議員が20人もいたら世の中は変わる」ともおっしゃっておられました。

<誠実さ、謙虚さ、正直さを忘れてはならない>

<もう政権に戻れないと思った頃>

・2012年の政権復帰以降、与党は選挙で勝利を続けてきました。

・あの時、自民党の議席は300議席から119議席にまで減りました。ほぼ3分の1になったのです。すでに世論調査などから敗北必至であることはわかっていましたし、実際に事前予想では120議席という数字も出ていました。

・あの時、多くの自民党幹部は、こんな風に思っていました。「ああ、これで10年間は政権に戻れない」

 小選挙区制を採っている国で政権交代が起こった場合、10年間はその政権が続く、というのは常識でした。英国やカナダもそうです。

<「自民党、感じ悪いよね」>

・では、「自民党だけは嫌だ」と思われた理由は、たとえばどのようなものだったのでしょうか。まずは、その時々の政権の失策や失言、不祥事などで、総理が次々に代わってしまったということが挙げられるでしょう。

<国民の共感を失う恐ろしさ>

・また、政策の内容というよりも、政策のネーミングなどで国民の反発を買ってしまったこともありました。75歳以上の方々を「後期高齢者」としたのがその代表例でしょう。もちろんその表現は以前からあるものでしたし、他意はありません。

<谷垣総裁の下で謙虚な建て直し>

・野党となった自民党の総裁に就任したのが谷垣禎一先生でした。

・その谷垣総裁の下、私は政調会長を務めました。党の政策を立案し、まとめる仕事です。特に力を入れたことの一つが、新しい党綱領の制定でした。

・私自身は現行の要件以外にも、綱領、意思決定や会計処理の手続きが適切に定められていることなどを要件とする「政党法」の制定が必要だと考えています。

<政策集団としての自民党>

・野党・自民党の政調会長としての大きな責務は、自民党を実力ある真の「政策集団」にすることである。私は当時、そう考えました。そのための具体的な方策の一つが、旧来型の年功序列類似の人事をやめることでした。

 従来、党内には、当選1回はヒラ、2回で政務官、3回で部会長、4回で常任委員長、5回で大臣という「相場」がありました。しかし、これからは当選1回であろうと実力とやる気のある議員には部会長などの責任がある仕事を任せようと考えたのです。

・こうしたことを積み重ねていくうちに、野党・自民党は政策集団としての力を蓄えることができていったと思います。

<論戦に強くなるために>

・当時は予算員会の筆頭理事も1年間つとめました。あの時ほど国会の質問に立ったことはありませんでした。その際も主眼としたのは、政策論争です。

・なかでも最も印象深かったのは「ディベートの最大の効用は万巻の書を読まざるを得ないということである。ディベートとは読書の戦いであると言ってもいい。大量の本を読まないと他のディベーターに徹底的に論破される」との教えでした。

「話の引き出し」を多く持っていることは攻守どちらにおいても必要なことですが、そのためには、時間を見つけては可能な限りの本や論説を読まねばなりません。

・「本ばかり読んでいないでもっとメシを食い、酒を飲み、付き合いの幅を拡げるべきだ」とのご指摘もしばしば頂くのですが、こればかりはスタイルなので致し方ありません。

・だからこそ野党時代の経験というのは、私にとっても、自民党にとっても忘れてはならないものであると思うのです。

<信じる政策を正面から問うことが求められている>

<「野党よりはマシ」だけではいけない>

・様々な失敗や東日本大震災・大津波・原発事故への対応のまずさで、民主党が政権の座を降りたのは2012年末のことでした。この間の経緯は私が改めて申し上げるまでもないでしょう。

 その年、秋に行なわれた自民党総裁選に出馬した私は、地方の党員の皆様のおかげで地方票では勝利したものの、国会議員票で逆転された結果、安倍先生が自民党総裁となり、総理大臣になったのもご承知の通りです。

・若い頃に、政治改革をめぐって内閣不信任案に賛成し、離党した過去がありますから、また極端なことをするのでは、という警戒感もあったのでしょう。

・安倍政権になってからの経済面での功績は、多くの認めるところでしょう。絶望感に満ちていた日本経済が飛躍的に回復しました。アベノミクスは全部まやかしだ、といった批判をする方もいますが、現実問題として民主党政権の頃と比べて雇用情勢は格段に良くなり、株価は倍以上に上がり、企業の業績も未曽有の回復を遂げています。円安によってメリットを享受している企業があるのも事実です。数字で見れば、民主党時代とは比べものになりません。

<平和安全法制の進め方への反省>

・幹事長を務めている間、この点にはかなりの気を遣いました。「驕っている」とか「強引だ」といった批判を受けることのないような運営を心掛けたつもりです。

・少し世間の反応が変わってきたのは、平和安全法制に関する議論が焦点となってからかもしれません。担当の中谷元防衛相はとても誠実に説明をしていました。

・総理も私も、憲法上集団的自衛権は行使できる、というところまでは同じです。

・私は、日本が独立国である以上、個別的であろうが集団的であろうが、国連憲章に定められている通り、他国と同様に自衛権を有しているのは当然だと考えています。つまり、日本だけが「憲法上ここまで」と定める類のものではないということです。

 ただし、だからといって無制限にその権利を行使して良いわけではありません。

・つまり、集団的であれ個別的であれ、国際法上(国連憲章上)認められた自衛権は、憲法上の制約としてではなく、立法上の政策的制約として整理すべきだ、ということです。

<国会議員を続ける理由>

・では、なぜ私は国会議員である必要があるのか。

 それは「自立精神旺盛で、持続的に発展する国づくり」を実現したいと思っているからです。そしてその究極の手段として憲法改正が必要だと思っているからです。

<離党の理由も憲法>

・一時期、自民党を離党したことも、この憲法改正に対する考え方と直結しています。

・自民党を離党してまで取り組もうとした政策がまたしても否定された。そのファクスを見てすぐに私は離党を決意します。結局、その時の選挙は無所属で出馬し、当選します。自民党に復党したのはその翌年のことでした。

<政策こそが行動の基準である>

・あの時、自民党を離党したことを理由に、私に対して厳しい見方をなさる方も少なからずおられるようです。自民党離党、新進党離党という事実に対するご批判は甘んじてお受けします。

・永田町においては、意外なほど人間関係を軸に行動を決めている人がいるように思えます。感情としては理解できますが、果たしてそれは有権者が望んでいる姿なのだろうかと疑問に思うこともあります。

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